通勤電車図書室 「赤の他人の瓜二つ」 磯崎憲一郎/著
現代日本のあたらしい小説の書き手として新作を楽しみにしている磯崎憲一郎。
この新作はことしの三月には刊行されていたのをようやく読んだ。
<血の繋(つな)がっていない、赤の他人が瓜(うり)二つ>
呪文めいた一文で始まる物語は、マヤ文明以降のチョコレートと人間の歴史をつづる。
恋の終止符を打つためチョコに毒を盛られたイタリア・メディチ家の侍医。
角材を振り回し結婚式当日に女を略奪した日本の製菓工場の労働者。
このひとの小説は、前ぶれもなくコロコロと変化する。
それまでの展開とはつながりもなく、あたらしい展開にいつのまにか移行してしまっていたりする。
血の繋がっていない、赤の他人が瓜二つ。どこにでもよくある話。
しかしそう口にしてみたところで、それがじっさいに血の繋がりのないことを何ら保証するものでもない。
私が初めてその男と会ったとき、そんな自問自答が思い浮かんだ。それほど男は私にそっくりだった。
まるで記憶の中の自分の顔を見ているかのようだった。
にもかかわらず、周囲の誰ひとりそれを指摘しようともしない。
気づいてすらいないように見えることが、私の不安を煽るのだ。
書き手なのだろうと推察される「私」はいっこうに姿をあらわさない。
しかも、そのあとすべて三人称記述である。
だから、タイトルにもある「赤の他人の瓜二つ」とは、いったい誰と誰のことなのか、それすら不明のままである。
冒頭の数ページを読めば、「その男」とは、その社宅に住む工場労働者のことなのではないか、とも推測される。
そのことへの言及はないから、冒頭の「その男」とは、この作品には登場しない別の男だとも考えられる。
「赤の他人の瓜二つ」というタイトルの展開は、この作品のなかばにいちど登場し、さらにラストにもういちど。
この結末が「赤の他人の瓜二つ」
その「おち」だけがこの小説の面白さではない。
意表をついた視点/物語の転移が、ラスト近くのある一点に、ふいに収束するという展開。
読むことの楽しさ、面白さこそがある。
工場労働者がチョコレート工場勤務であることから、その原料であるカカオ豆をはじめて西欧に持ち帰ったコロンブスの奇妙な話に移行。
さらに、欧州で健康飲料として大流行したチョコレートが、毒薬を盛るのに好都合とみなされたということから、フィレンツェを舞台としたメディチ家の宮廷医と、謎の貴婦人とのミステリーじみた関係の物語にふいに移動する。
このあとに小説はふたたび工場労働者の家族の話にたちもどる。
映画「卒業」のような展開の長男の物語がはじまる。
さらに小説家になることになるその妹の話がつづき、さいごにまたその父母の話に回帰する。
支離滅裂な作品ではないのかという印象を与えるかもしれない作品。
しかし、この作品はバラバラなそれぞれの「物語」をからませ、タイトルの意味するところにたどりつく。
そんな磯崎憲一郎ワールドを興味深くも楽しく読むことができた。
いつの世も人は恋し、老い、死んできた。
「他人と瓜二つ」のようでありながら、掛けがえない小さな生への愛しさがわく。
現代日本のあたらしい小説の書き手として新作を楽しみにしている磯崎憲一郎。
この新作はことしの三月には刊行されていたのをようやく読んだ。
<血の繋(つな)がっていない、赤の他人が瓜(うり)二つ>
呪文めいた一文で始まる物語は、マヤ文明以降のチョコレートと人間の歴史をつづる。
恋の終止符を打つためチョコに毒を盛られたイタリア・メディチ家の侍医。
角材を振り回し結婚式当日に女を略奪した日本の製菓工場の労働者。
このひとの小説は、前ぶれもなくコロコロと変化する。
それまでの展開とはつながりもなく、あたらしい展開にいつのまにか移行してしまっていたりする。
血の繋がっていない、赤の他人が瓜二つ。どこにでもよくある話。
しかしそう口にしてみたところで、それがじっさいに血の繋がりのないことを何ら保証するものでもない。
私が初めてその男と会ったとき、そんな自問自答が思い浮かんだ。それほど男は私にそっくりだった。
まるで記憶の中の自分の顔を見ているかのようだった。
にもかかわらず、周囲の誰ひとりそれを指摘しようともしない。
気づいてすらいないように見えることが、私の不安を煽るのだ。
書き手なのだろうと推察される「私」はいっこうに姿をあらわさない。
しかも、そのあとすべて三人称記述である。
だから、タイトルにもある「赤の他人の瓜二つ」とは、いったい誰と誰のことなのか、それすら不明のままである。
冒頭の数ページを読めば、「その男」とは、その社宅に住む工場労働者のことなのではないか、とも推測される。
そのことへの言及はないから、冒頭の「その男」とは、この作品には登場しない別の男だとも考えられる。
「赤の他人の瓜二つ」というタイトルの展開は、この作品のなかばにいちど登場し、さらにラストにもういちど。
この結末が「赤の他人の瓜二つ」
その「おち」だけがこの小説の面白さではない。
意表をついた視点/物語の転移が、ラスト近くのある一点に、ふいに収束するという展開。
読むことの楽しさ、面白さこそがある。
工場労働者がチョコレート工場勤務であることから、その原料であるカカオ豆をはじめて西欧に持ち帰ったコロンブスの奇妙な話に移行。
さらに、欧州で健康飲料として大流行したチョコレートが、毒薬を盛るのに好都合とみなされたということから、フィレンツェを舞台としたメディチ家の宮廷医と、謎の貴婦人とのミステリーじみた関係の物語にふいに移動する。
このあとに小説はふたたび工場労働者の家族の話にたちもどる。
映画「卒業」のような展開の長男の物語がはじまる。
さらに小説家になることになるその妹の話がつづき、さいごにまたその父母の話に回帰する。
支離滅裂な作品ではないのかという印象を与えるかもしれない作品。
しかし、この作品はバラバラなそれぞれの「物語」をからませ、タイトルの意味するところにたどりつく。
そんな磯崎憲一郎ワールドを興味深くも楽しく読むことができた。
いつの世も人は恋し、老い、死んできた。
「他人と瓜二つ」のようでありながら、掛けがえない小さな生への愛しさがわく。