
元日本代表MF石川直宏氏は、FC東京に2002年から16シーズン在籍し、象徴的な存在として17年限りでスパイクを脱いだ。青赤のレジェンドとしてクラブ史にその名を刻んだが、05年にはセリエAのトレヴィゾからオファーが届いていた。Jリーグ屈指のスピードスターにとって、キャリアのターニングポイントとなった当時の決断を、石川氏自らが振り返った。
2000年に横浜F・マリノスでトップデビューを果たし、02年から16シーズンにわたってFC東京で活躍した石川氏。青赤のユニフォームを象徴するレジェンドとしてクラブの歴史に名を残す存在となったが、05年にセリエAのトレヴィゾからオファーが届いていた。最終的には辞退する決断を下したが、石川氏は改めて当時の心境を振り返っている。
https://news.yahoo.co.jp/articles/cd4ecd661e2dea487afc038be1be0bdfa261c40a
2000年に横浜F・マリノスでトップデビューを果たし、02年から16シーズンにわたってFC東京で活躍した石川氏。青赤のユニフォームを象徴するレジェンドとしてクラブの歴史に名を残す存在となったが、05年にセリエAのトレヴィゾからオファーが届いていた。最終的には辞退する決断を下したが、石川氏は改めて当時の心境を振り返っている。
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FC東京の“レジェンド”石川直宏氏 セリエAのトレヴィゾから届いたオファーの真相

「2004年にアテネ・オリンピックがあったけど、消化不良に終わって、そこから先はFC東京でA代表に入っていくことを目標に据えて2005年のシーズンを迎えたんだけど、チームも自分も結果が出せない状況のなかで、環境を変えるべきなのか悩んでいた。そのタイミングでトレヴィゾからオファーが届いた。ただ、それが移籍期限ギリギリの3日前で、すぐに決めてメディカルチェックを受けないと登録に間に合わないと言われ、1日で決めろと言われた」
石川氏は、2004年に行われたアテネ五輪のメンバーに選ばれたが、本大会で守備的な戦術を導入したチームで主力に入ることができず、出場機会はすでに2連敗で敗退が決まった後のグループリーグ第3戦ガーナ戦のみだった。再起を誓って05年を迎えたが、パフォーマンスは向上せず、思い悩む時期を過ごしていたなかで届いたイタリアからのオファーだった。それでも、当時の石川氏は前向きに捉えることが難しかったようだ。
「まず『トレヴィゾってどこだ?』『どんなチームなんだ?』というところからで、セリエAでプレーする自分の姿も思い浮かべることができなかった。自分自身の調子も上向きではなかったなかで、イタリアで結果を出すイメージが全く湧かなかった。環境を変えて心機一転で改善することもあるだろうけど、海外はそんな甘くないことは分かっていた。Jリーグで結果を残していないのに海外なんて無理だ、という気持ちが勝って、悩んだ挙句に断りを入れた」
その話を聞いたうえで、「もし、オファーが今の時代のような状況であれば、どうでしたか?」と尋ねると、「イタリアに行っていたと思う」と即答で返した。それでも、しばらく考え込んだ後、「でも、きっと15年経った今だから、あの時挑戦してみても良かったと思えるんだろうね。当時の自分も、気持ちに正直に決断を下したわけだから」と口にした。
「あの時は何かを変えたいとは思っていたけど、不調のなかで海外に行くというやり方ではないなと結論に至ったのがその時の判断だった。今は海外に行って1年で帰ってきても、それほどネガティブな印象にはならない。今の時代は失敗する可能性があっても、海外で挑戦するマインドになっている。海外の、日本人を見る目も当時と今では全然違う」
現役時代は日本人離れした爆発的なスピードと、両足とも遜色なく強烈な一撃を蹴り込むシュート精度は、Jリーグより、むしろ海外向きの特長だったと言えるかもしれない。海外でさらなる開花を遂げていたのか、厳しい現実が待ち受けていたのか――。その答えは今となっては知る由もないが、一つ確かなのは、日本に残ったからこそ喜ばせることのできたファンがいるという事実だ。それを伝えると、石川氏は「そう言ってもらえると、間違ってなかったって思えるよ」と笑顔を見せた。
石川氏は、2004年に行われたアテネ五輪のメンバーに選ばれたが、本大会で守備的な戦術を導入したチームで主力に入ることができず、出場機会はすでに2連敗で敗退が決まった後のグループリーグ第3戦ガーナ戦のみだった。再起を誓って05年を迎えたが、パフォーマンスは向上せず、思い悩む時期を過ごしていたなかで届いたイタリアからのオファーだった。それでも、当時の石川氏は前向きに捉えることが難しかったようだ。
「まず『トレヴィゾってどこだ?』『どんなチームなんだ?』というところからで、セリエAでプレーする自分の姿も思い浮かべることができなかった。自分自身の調子も上向きではなかったなかで、イタリアで結果を出すイメージが全く湧かなかった。環境を変えて心機一転で改善することもあるだろうけど、海外はそんな甘くないことは分かっていた。Jリーグで結果を残していないのに海外なんて無理だ、という気持ちが勝って、悩んだ挙句に断りを入れた」
その話を聞いたうえで、「もし、オファーが今の時代のような状況であれば、どうでしたか?」と尋ねると、「イタリアに行っていたと思う」と即答で返した。それでも、しばらく考え込んだ後、「でも、きっと15年経った今だから、あの時挑戦してみても良かったと思えるんだろうね。当時の自分も、気持ちに正直に決断を下したわけだから」と口にした。
「あの時は何かを変えたいとは思っていたけど、不調のなかで海外に行くというやり方ではないなと結論に至ったのがその時の判断だった。今は海外に行って1年で帰ってきても、それほどネガティブな印象にはならない。今の時代は失敗する可能性があっても、海外で挑戦するマインドになっている。海外の、日本人を見る目も当時と今では全然違う」
現役時代は日本人離れした爆発的なスピードと、両足とも遜色なく強烈な一撃を蹴り込むシュート精度は、Jリーグより、むしろ海外向きの特長だったと言えるかもしれない。海外でさらなる開花を遂げていたのか、厳しい現実が待ち受けていたのか――。その答えは今となっては知る由もないが、一つ確かなのは、日本に残ったからこそ喜ばせることのできたファンがいるという事実だ。それを伝えると、石川氏は「そう言ってもらえると、間違ってなかったって思えるよ」と笑顔を見せた。

案の定即落ちだった記憶
その後怪我に泣かされたがJで輝いたしな