我々はとても裕福な時代に
自由の身で生きていることを強く意識しなければならない。

私の叔父の幼少の頃、
自分でアルバイトをして参考書を買って勉学に励んでいたと
以前にブログで書きましたが

今の時代は誰もがそのようなことをせずに
参考書ぐらいはほとんどの方が買える時代でもあります。

そして、叔父の時代には自由というものがなかった。

学生の本分である学業に精を出すことができる自由というのは
貧困という名の下には得ることができなかった時代。

そういう当たり前の自由でさえ得られない者がたくさんいたということ。

今の時代には
ほぼ餓死などない時代でありますが
ほんの一昔前は
皆、食べる為だけに大変だった時代でもあります。


今の時代は自由が溢れている時代ですね。


さて、今回のタイトルは
かの吉田松陰の辞世の句でありますが

吉田松陰は獄中の中で、

もう先のない未来の中でも学業を怠ることはなかった偉大な人物であります。

それどころか
他の囚人にもその彼の崇高たる精神に感銘を覚え
一緒に勉学に励みだしたそうです。

さらに看守までも巻き込んで、彼の元で勉強会が毎日繰り広げられました。


世界を変えてゆくのは自分自身からであります。


そこで勉学ということについて、今日はお話を。


例えば、数学を勉強しようとして数学だけを学ぶ意識のもとでは
大した事は得られません。

これは国語もそうであるし、理科も社会も英語も音楽でも
はたまた、資格でも仕事でも

そうであります。


目的をどこにおくか?
これらのことは非常に近い目的であります。

受験勉強のみでの勉学では
それに失敗するとその勉強自体が無駄であったと
誰もが心の奥底では感じることでしょう。

資格の勉強も同様に。

無駄ではないと感じている方は
さらばどのように無駄ではなかったか、理由を明確に提示してみてください。

おそらくまともに回答ができる方はごく少数であります。

ここに世俗的な主観での判断というのが
現代人の我々に深く根付いてしまっている。


勉学というのは究極的には
真意を探ることなのであります。

その為には、その科目だけの知識では不足するし
連動して多方面から自らの思考により考え出さなければならない。


前にもたぶんここのブログかメルマガで
ちらっと言いましたが

音楽を志す者も
音楽だけを知っていては音楽の真意は探れません。

例えば、バロック時代のトリルの奏法ひとつにしても
深く追求してゆこうならば

当時の語学が必要であるし、
また、その音楽が生まれた歴史的背景も必要。

ここで、語学と歴史の勉強もせねばなりませんよね。


また、音楽の美しい響きはどこからきているのか?
に疑問を感じたら

音は空気中の振動によって発生していますので、
次には物理の知識も必要になってきます。


このようにどんどんと勉学って広がってゆくものなのです。

本質を追求するのであれば。



吉田松陰の話に戻りますが、
彼にとっての勉強とは
自己内の尊いものを求める為の勉強でありました。

ですから、獄中で未来がないと
他人には見られるかもしれませんが
それでそのようなことをしても何もならないと感じるかもしれませんが

その後、彼は多くの後継者を得ましたよね。

正しい者は
いや
正しくある者は
どんどんと人を寄せ付けるのです。


勉学とは正しさを知ることでもあります。


究極的にすべての学問はここに集約される。