『仏説阿弥陀経』大意 勉強入門編 その四 「正宗分」の大意-17

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※翻訳について:

①下記の「参照、利用、翻訳しているサイト」の講義からところどころをピックアップして集結しております。

②私語私見の部分を(訳者私語)としております。私は本当に煩悩が多くて愚か者で、まったく智慧がないので、自分の見解は間違っているかもしれません。ですので、ご参考までだけにお願いいたします。

③訳文のなかで、赤い字の部分は経文原文及びその大意です。

④(青い字)の部分や部分は、訳者が勉強した上の注です、ご参考までです。

⑤★☆部分及びその中の●部分は、経文の内容を説明する部分です。★☆部分は浄空法師様の講義の抄訳や浄空法師様の講義に参照した訳文です。太字部分は『仏説阿弥陀経要解』や『阿弥陀経疏鈔』の原文の訳文です。

参照、利用、翻訳しているサイト:

1.●『仏説阿弥陀経要解』--明代の四高僧の一人の藕益大師(中国浄土宗第九祖)著

http://21dzk.l.u-tokyo.ac.jp/SAT/ddb-sat2.php?mode=detail&useid=1762_,37,0363&key=%E5%9C%93%E4%B8%AD%E9%88%94

2.●『阿弥陀経疏鈔』--明代の四高僧の一人の蓮池大師(中国浄土宗第八祖)著

http://www.cbeta.org/result/X22/X22n0424.htm

3.●『阿弥陀経要解講義』--1の「『仏説阿弥陀経要解』の注釈本。――――圓瑛大師(えんえい 1878-1953)著

http://book.bfnn.org/books2/1138.htm

4.●『阿弥陀経疏鈔演義』--2の『阿弥陀経疏鈔』の注釈本。――――古德法師著

http://www.cbeta.org/result/X22/X22n0427.htm

5.●『仏説阿弥陀経疏鈔演義会本』――24を集結した注釈本。---浄空法師会集

http://book.bfnn.org/article/0900.htm

6. ●『阿弥陀経疏鈔演義』、『仏説阿弥陀経要解』など上記の注釈本の浄空法師様のいろいろの講義です。

http://www.amtb.tw/bt/amtb_jindian.asp?web_choice=1&web_amtb_index=3

http://www.amtb.tw/bt/amtb_jindian.asp?web_choice=1&web_amtb_index=11

7.●浄空法師講義の検索サイト

http://ft.hwadzan.com/

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彼仏国土(ひぶっこくど)。無三悪道(むさんなくどう)

称理(称性(しょうしょう、また称法界(しょうほうかい)ともいい、華厳経に説かれている法界の真性に適うことです。分かりやすく言えば、自性と相応していることです。つまり心に限界(げんかい、隔たり、区切り)がなく、妄想、分別や執着することがなくて、清浄心、平等心と慈悲心に相応していることです)することです。つまり、自性に帰する(回帰自性ともいい、起心動念せず、執着分別しないことです。着相しない、執着しなく、心が清浄でいることです)ことです)から述べれば、真如自性には元々貪瞋痴などがありません。それは「極楽浄土には、地獄・餓鬼・畜生、この三悪道がない」の意味です。そして、真如自性から如幻の十法界依正荘厳などが変化し現せることは、その「変化所作(へんげしょさ。変化し出す)の意味です。

 

☆極楽世界が他の一切諸仏刹土と違う所は、極楽世界は純一の法性土です。真如自性から直接現れた(つまり、唯心所現です)一真世界です。それに対して、十法界は法相土で、八識によって変化された世界(つまり、唯識所変です)。所謂「無明不覚生三細、境界為縁長六麤(むみょうふかくしょうさんさい、きょうがいえんじょうろくそ。大意:一念の不覚波動で、微細な三細相さんさいそう。阿頼耶識の業相・見相・境界相に分かれています。「阿頼耶識の業相ごっそう。ごうそう。つまり、無始無明(根本無明ともいい。理由がなく突然出てきて、2240兆分の一秒以上の速さで生滅する波動現象。過去ではなく、今現在のこの一念。つまり、今現在我々の起心動念です。この一念は虚妄であって、ほんとうではないので、妄念といい、つまり自性を迷い、一念の妄心が生じること。この自性に妄念がつく状態は阿頼耶識となります。無明は即ち「迷」です)です。即ち一念不覚です。「業」は「動く」です。現在の科学がいう「波動現象、エネルギー」です、つまり自然現象この自然現象は科学者にエネルギーと呼ばれ、精神・物質現象の基礎です。とても微細で、我々ではそれに察知することができない)」が生じてきて、その業相から、「見相けんそう。阿頼耶識の見分、阿頼耶識の転相(てんそう)ともいい、意念、能見、見聞覚知、眼・耳・鼻・舌・身・意の六識と第七末那識です。科学がいう「情報」です。つまり精神現象)を変化出します;そして、すぐその「見相」から「阿頼耶識の境界相きょうがいそう。阿頼耶識の相分ともいい、所見した「色」です。色・声・香・味・触・法の六塵と眼・耳・鼻・舌・身の五根です。一合相(いちごうそう)です。極微(ごくみ)です。つまり物質現象です)」が変化し出します。因みに般若心経のなかに説く「五蘊皆空」の五蘊はこの阿頼耶識の三細相です。五蘊は色・受・想・行・識です。色は物質現象で;受・想・行は精神現象で、識は一念不覚、自然現象ですを一時にそろい、すぐさま、その三細相の境界相三細相の最後の物質現象を縁として、六麤(ろくそ)、つまり六種の迷相智相(ちそう。現象即ち六塵境界を分別すること。この「智」は智慧ではなく、知識です)、相続相(そうぞくそう。智相の分別が念々続くこと。智相と相続相は第七識に相当する)、執取相(しゅうしゅそう。智相と相続相で分別した苦楽の境を執着すること。つまり、占有、支配、制御したいこと)、計名字相(けみょうじそう。「計」は「計較(けいこう、くらべて考えること。計較の中国語での意味は「心が狭くて、細かいことを拘り、気にしすぎる」です)」する意味で、つまり、さらに、世の諸々の仮の名字言説を分別計較することです。執取相、計名字相は第六識に相当する)、起業相(きごっそう。つまり五識(眼識・耳識・鼻識・舌識・身識)が善悪の諸業を起こす、これは業縁となる)、業繋苦相(ごうけっくそう。つまり業に繋がれて六道で生死輪廻する苦果を感ずる)です。六麤はつまり六粗ですを引き起こします。つまり、宇宙全体(つまり三細)と有情衆生個人それぞれの人生(つまり六麤)はそうやって現れてきたのです。その現れ方は、順番があって、乱れていないながら、一時頓現(いちじとんげん。同時・即座に現れます)です。何故なら、その宇宙全体が形成するすべての過程は一秒間2240兆回以上の速度で完成しされ、現れ、消え、また現れ、消えていき、つまり生滅しながら継続しているからです。速すぎで、捉えることができないので、だから「不生不滅」と形容しています。第8地の菩薩(つまり不動地(ふどうじ)の位の菩薩)がその一秒2240兆回以上の生滅現象を見られるようになります。もし、私たちは現在の妄念を止めることができれば、すべての宇宙人生つまり十法界が消え、一真法界(つまり実報荘厳土)に入ります。最後、実報荘厳土で無始無明習気を断じれば、自性の常寂光が現前します。円満な仏果を証します)」です。だから、極楽世界は不可思議法界です。そこには生滅する現象がありません。すべては自然に変化して現れます。西方極楽世界での身は法性身(ほっしょうしん)、法性は不正不滅です。だから、無量の寿命です。本当の無量寿です。そして、居住の環境は法性土(ほっしょうど)です。法性土も不生不滅です。だから、そこの樹木は常に青々と生い茂っています。衰えることがなく、枯れることもありません。樹葉は落ちなく、気候の影響をまったく受けません。極楽世界のすべては、法性(自性)から直接現れ、阿頼耶識がありません。極楽世界へ往生した衆生は、みんな転識成智(てんじきじょうち。これは円教初住菩薩以上の法身菩薩が証した境地です。幻の、生滅する八識即ち心意識を使わず、仏の真実の、不生不滅の四智(しち)菩提(大円鏡智(だいえんきょうち、明心見性すると、第八識が大円鏡智に転じる)、平等性智びょうどうしょうち、明心見性すると、第七末那識が平等性智に転じる)、妙観察智(みょうかんざっち、明心見性すると、第六意識が妙観察智に転じる)と成所作智(じょうしょさち、明心見性すると、前の五識は成所作智に転じる)です。ちなみにこの八識を四智に転じるときは、第六、第七識は先に転じさせ、この二つさえ完全に転じさせることができれば、第八識と前の五識は自動的に同時に転じます。この八識を円満完全に四智に転じることができたのは円教の八地菩薩つまり不動地(ふどうじ)以上の位です)を使うこと)します。どこで転じますか?黄念祖(こうねんそ)先生は≪浄修捷要報恩談(じょうしゅしょうようほうおんだん。大徳居士の黄念祖先生の法話の記録本です)≫のなかで、次のように開示してくださいました:極楽浄土へ往生した人は、往生するときは、蓮華のなかで化生します。まず、往生するあなたが蓮華に這い上げり、なかに入って、中の蓮台に坐ると、蓮華は閉じます。仏はその蓮華を、極楽世界に持っていき、七宝池のなかに置きます。そのときのあなたはその蓮華のなかで八識を転じて、四智になります。七宝池のなかであなたのその蓮華が再び開くときになると、つまり「花開見仏(かかいけんぶつ。蓮華の花が開き見仏する、即ち明心見性すること)」して、その時のあなたは完全に転識成智ができました。これらはすべて阿弥陀仏様本願の威神力のご加持です。自分の力ではありません。自分の力だと、本当にとてもとても難しいです。ですので、浄土往生を願う念仏者は、本当に仏に対して報恩の心を持つべきです。仏の御恩は本当に他には比べられないほど大きいです。父母のご恩よりもさらに大きなものです。父母は我々にこの身命(しんみょう、この身体という命)をくださいました。しかし、それだけでは、苦しみを断じることができません。阿弥陀仏様は、私たちに与えてくださったのは法身です、慧命(えみょう、悟りの智慧という命)です。私たちに苦しみを究竟に断じ、究竟なる楽を得させます。ですから、仏法を学ぶ人は、本当に、阿弥陀仏様のご恩を感謝するべきです。

 

約一秒間2240兆回以上の速度の計算:

「菩薩処胎経(ぼさつしょたいきょう)」第二巻のなかで、「仏即問弥勒(ぶっそくもんみろく)。心有所念幾念幾想幾識耶(しんうしょねんきねんきそうきしきや)。弥勒言(みろくごん)。拍手弾指之頃(はくしゅたんじしきょう)。三十二億百千念(さんじゅうにおくひゃくせんねん)。念念成形(ねんねんじょうぎょう)。形形皆有識(ぎょうぎょうかいうしき)。識念極微細不可執持(しきねんごくみさいふかしゅうじ)(大意:そこで仏が弥勒菩薩に聞きました。「(凡夫の)心に一つの念頭を起こしました。その一念なかに、幾つの微細な念があって、幾つの相相分、現象。つまり物質現象)があって、幾つの識(心法、即ち心の作用、心理現象、精神現象です)がありますか(ちなみに、この念、相と識を合わせて、五蘊ともいいます。≪金剛経≫なかに説く「一合相」の「一」でもあります))」?弥勒菩薩が答えます。「拍手または弾指(だんし、たんじ。親指と人差し指を弾くことの間に(一秒間で弾指できるのは5回ですが、体力がよい若い人は一秒で7回も弾指できることがあります)、三十二億百千(千が100個は、10万です。32個10万は、320兆個です)の(微細な)念があって(つまり、一秒の間で5回弾指できるのであれば、320兆個×51600兆回/1秒間; 一秒の間で7回弾指できるのであれば、320兆個×72240兆回/1秒間となります。つまり、一秒間に2240兆回以上の微細な念が相次ぎます)。そのどの一つ一つの微細な念も、物質現象()となり、そのどの物質現象()のなかでも、精神現象(受・想・行・識)があります。そのように識(即ち阿頼耶識の八つの識及びその51の心所)・念は極めて微細で、(一秒間に2240兆回以上ものスピードで生滅し相次ぐので)捉えたり、保ったり、把握したりすることができません」)」と説かれていました。http://21dzk.l.u-tokyo.ac.jp/SAT/ddb-sat2.php?mode=detail&useid=0384_,12,1024a26&key=%E4%B8%89%E5%8D%81%E4%BA%8C%E5%84%84%E7%99%BE%E5%8D%83&ktn=&mode2=2

 

☆ですので、物質は念頭から生じました。現代の科学者がおっしゃるようにすべての物質現象は幻覚です。ほんとうは存在していません。私たちが今見た物質現象は有る種の幻覚で、元々は存在しません。物質は一体なにでしょうか?念頭の波動で生まれて来た幻相です。そのように一念だけで生じた幻相だったら、絶対に感じられませんが、ものたくさんの幻相が累積して、絡み合っていると、あなたはものがあるように見えます。そのような感じです。

例えで理解してみましょう:

1.例えば、新幹線を乗ります。新幹線が高速のスピードで走っている最中、車窓から見た外の光景では、たとえ人や電信柱をはっきりみえますか?見えないはずです。かりに見えても影のようにピューって通るはずです。はっきりとみえません。そのような感じです。

2.昔の映画は、フィルム式カメラで撮影して作られていて、一秒あたり24コマでした。白黒テレビは一秒あたり50コマでした。1秒間の動画に50枚の静止画が使われています。それを見て、私たちは画像が動いているように見えて、本当だと思っています。もし、その一秒24コマの1コマの画面だけ映画スクリーンに映してすぐ機械を止めると、なにが見えますか?スクリーンに少しの明かりだけで、すぐ消えます。その光のなかに、何があるのか、見えません。速すぎるからです。私たちの目では視認できません。

 

☆実は宇宙全体はそのような映画みたいです。そのコマ数はとても速くて一秒あたり2240兆回も生滅しながら、次から次へと続きます。どの相も同じではなく、似ているだけです。まったく同じ相が存在しません。ですので、現在の私達のすべての環境は一秒あたり2240兆回も生滅している幻相です。自分のこの身体も同じく、どの幻相は自分ですか?全部自分だったら、無量無辺の我となります。今の私は一秒前の私ではありません。同じではありません。似ているだけです。ですので、そのようにすべては一秒一秒で生滅し変化していきます。どれもコントロールできません。占有できません。そのなにかを支配したい、占有したい妄念を捨てるべきです。それは妄想です。絶対にできません。例えば、自分の身体をコントロールしたいのであれば、永遠に18歳で健康でいたいですね。それができますか?できません。一秒一秒でこの身体が老けていきます。一年一年ではありません。その老けて行く過程は止まることがなく、やむことがありません。生まれてから死ぬまで休むことがなく、一秒一秒、一念一念で変化し続けています。前の一念は今の一念ではありません。これは事実真相です。近くを見て、小さい範囲を見れば、なにも変化がないように見えますが、例えば、一つの身体を見れば、大同小異です。しかし、もし、地球全体を見て、銀河系全体をみて、すべての宇宙区間をみると、一念の間に大きな変化があります。大同小異ではなくなり、“大異小同”になります。そのなかで天体の成住壊空(じょうじゅうえくう)さえあります。その一念のなかに、形成してくる天体があって、壊れていく天体もあります。ですので、すべては生滅していて、無常です。自分達のこの身体さえ自分の思い通りにできないだから、身体以外のものはなおさらです。だからすべてを執着してはいけません。もし、なにかをコントロールしたい、占有したいと思い、やっと得たものもまた失うのが恐れ不安がっていて、毎日そのように思い、毎日そのようなことをばかりしていたら、本当にくたびれます。仏は経典のなかでよく衆生のことを「可憐憫者(かれんみんしゃ、憐憫に値する者、可哀想な者)」だと仰いました。衆生のどこか不憫ですか?この点だけでも十分同情に値します。本当に可哀想です!事実真相が知らないのです。無量劫以来その妄想・執着・分別があるゆえに、変化して現れた虚幻(きょげん、真実ではなく、虚妄で幻であること)の境界のなかにいます。本当に永嘉大師(えいがだいし)の証道歌(しょうどうか)の中で言うように、「夢裏明明有六趣、覚後空空無大千(むりめいめいうろくしゅ、かくごくうくうむだいせん、夢裡明明として六趣あり、覚めて後空空として大千も無し)です。無量劫以来の長い夢を見ていて、いまだに夢から目が覚めていません。依然として夢のなかにいます。続けて夢を見ています。その夢のなかで、六道輪廻の悪夢を見ていて、とても苦しい思いをして、なかなか起きられないです。そのような状況です。仏菩薩の教誨は我々がその悪夢なかから目を覚ますのを助けるためであります。

 

(※浄空法師様の一番弟子(弟子の中で、最も早くその師匠についた者)の悟道(ごどう)法師の法話の下記の部分は今の私たちにもその夢境の理解を少し深めることができると思います:

皆には夢を見たことがあります。私自分自身はよくこのように観想します。そのように考えます。私自分のある一つの観想は:私たちは夜横になり、寝ます。両目を閉じ、両足が伸びていて、死んでいるとあまり変わらないです。ただ、死には呼吸がしなくなり、私たちはまた呼吸ができるの差だけです。そして、次の日にはまた起きられて、それぐらいです。ですので、毎晩夜寝るときは、一回“プチ死ぬ”します。さらに、私たちは睡眠に入り、夢を見ているときには、その夢境のなかにいます。そのとき、その夢境が私たちの日常生活になっていて、その“我”は現在その夢境の中にいます。その時の私はその夢境がほんとうだと思っています。その日の昼にあったすべては、夢のようになります。

 そして、次の日の朝、目が覚め、昨夜は夢を見ました。そのような感じで、夜寝るときには、昼間は夢となり;昼間になれば、夜は夢を見ました。そのような観想です。つまり、昼間は昼の夢を見ていて、夜は夜の夢を見ています。昼も夜もすべては夢です。だから、仏が経典のなかで、我々に「一切有為法、如夢幻泡影、如露亦如電、応作如是観(いっさいのういのほう・むげんほうようのごとし・つゆのごとくかみなりのごとし・まさにかくのごときかんをなすべし。大意:十法界のすべての精神現象・物質現象・自然現象は、夢、幻、泡、影のような、また露、または電光のようなもの、そのように見るべき。つまり、相(精神現象・物質現象・自然現象)は無常で、変化生滅して、夢の中のようで、虚妄であるので、その虚妄のすべてを執着してはいけません)」と教え諭しおられました。今の夢の話はその一つの例です。そのように観想すれば、放下することができます。私たちが寝ているときに、銀行にいくら私のお金があって、私たちどれくらいの土地や資産を持っているか、例えこの地球のすべてが全部私の名義であっても、夜寝ていたら、昼間のこのすべての諸々は、この身体でさえ、私たちとなんら関係がなくなります。夢です。夢の如く、だから、なにも気に留める必要がありません。私はそのようにすべてを夢と観想をしています。)

 

(訳者私語:その説法の原文を見つけることができませんでしたが、確かに、浄空法師様がある仏法の講義のなかで仰いました:死ぬとは、夜寝ていて、その夢の境界に入り、そのなかから二度と目が覚めないような感じです。

仏法には因果応報を説かれていて、六道は夢で、善を為せば、善い夢を見て;悪を為せば、悪夢を見ます。同じ夢を見るなら、だれも毎晩悪夢ばかり見たくありません。だから、まず、断悪修善します。しかし、その夢から目を覚めなければ、悪夢みることが実に非常に多いです。だから、仏法にはよく「三悪道は私たちの故郷で;三善道はプチ旅行です」と教えてくださっています。なぜなら、衆生には私利私欲や貪瞋痴などの煩悩があるから、聖賢の教誨を聞いてもなかなか完全にそれらの煩悩を断つことができません。だから、極楽浄土を信じ、阿弥陀仏様を信じ、南無阿弥陀仏と念じ続けて、それで六道の夢から目が覚ませるように一生懸命に努力したいと思います。極楽浄土へ往生すれば、夢から完全に目が覚めます。もう二度と悪夢をみなくても済みます。さらにまだ悪夢を見ている家族、友人などすべの衆生を助けることができます。今一度の人生で、貴重な正法の教えを出合えたから、本当に、断悪修善を精一杯努め、できる限りに仏号が途絶えないように念仏を精進し、この一生で極楽浄土へ行けるようにチャレンジすべきではないでしょうか。

 

  

☆自性清浄心の中に、貪瞋痴がありません。だから、西方極楽世界には三悪道がありません。我々現在この世間には悪道が多く、溢れています。なぜでしょうか?悪念が絶えませんからです。悪念が絶えないだけではなく、さらにその悪念が増長しています。大変なことです。以前よく経文の講義を聞きに来た同修達は、最近まったく見かけなくなりました。株をやりにいきました。以前では、ここで経文を唱えていて、西方浄土へ往生できるように発心していましたが、今は株式市場にいます。それなら、どこへ往生したいでしょうか?餓鬼・畜生・地獄道です。なぜなら、今いるその場所は貪瞋痴を修める場所だから、貪瞋痴は三悪道の業因です。ここで、一番殊勝な法門の講義をしていて、聞く人があまりいませんが、株式市場となると、とても混雑していて、沢山の人がいます。だから、この世間は悪道が溢れています。道理はそこです。なぜ西方極楽世界には三悪道がないですか?西方極楽世界に、貪瞋痴がないからです。私たちは浄土往生を確かにしたければ、貪瞋痴を捨てるべきです。

 

☆極楽世界は我々の一念清浄心から現れた世界です。我々のこの目の前の世界は我々の一念穢き心から変化し現れた世界です。娑婆世界も極楽世界もみんな自分の現在の一念から離れていません。私たちの今この一念の迷い、一念の不覚、一念の穢れから、この境界が現れました。もし、我々は今の一念を転じて、一念覚り、一念清浄であれば、現れて来る境界は西方極楽世界です。この娑婆と極楽二土のみならず、十方の全ての無量無辺の諸仏刹土はすべて私たち当人の一念から切り離れていません。ただそのような自性の心量については、我々が想像できない程です。想像したこともありません。なぜなら、毎日起心動念すれば、すべてとても小さな枠に囲まれているからです。「わたし」、「私のもの」、「私の利益」や「私になんのメリットがある」などのようなものばかりで、その枠は本当にとても小さいです。自分達の本来の心量の大きさがいったいどれぐらいあるのは知らないのです。

 

 だから、仏は我々に絶妙な方法を教えてくださいました。まず西方極楽世界へ行きましょう。そこへ行けば、すぐさま自分を本当に認識できます。自分の心量が虚空法界をあまねく行き渡っていることが分かるようになります。西方極楽世界へ往生しなければ、絶対に自分を認識できません。ですので、それは仏の教学の善巧です。だから、文殊菩薩の十行(つまり十波羅蜜)の「布施波羅蜜、持戒波羅蜜、忍辱波羅蜜、精進波羅蜜、禅定波羅蜜、般若波羅蜜、方便波羅蜜、願波羅蜜、力波羅蜜、智波羅蜜」も、極楽浄土へ往生しなければ、その十種類の行が円満にできません。普賢菩薩の「礼敬諸仏」から「普皆回向」までの十大願王も、西方極楽世界へ行かなければ、同じく円満にできません。なぜでしょうか?それは、西方極楽世界へ行かなければ、自分を完全に認識できないからです。西方極楽世界へ行けば、やっと自分の本来の面目を完全に認識できます。だから、究竟円満に成就できます。

 

☆「如来」の如は真如です。真如はつまり真心です。つまり本性です。みんな持っています。一切衆生すべて具足しています。有していながら、迷って、見失いました。その見失うは本当に失ったではありません。迷失(迷い見失う)です。それなら、お聞きします。あなたのその真如が作用を起こしていますか?作用があります。しかし、あなたはそれを知らないのです。いつ作用を起こしていますか?起心動念するときの第一念です。第一念は真心です。第一念は如如(如の如く)です。第一念は仏知見(ぶっちけん)です。凡夫の問題はどこですか?凡夫の第一念の時間は非常に短いです。一刹那です。すぐさま第二念が生じ意識のなかに陥ります。第二念は何でしょうか?分別、妄想、執着です。それらが生じますと、凡夫になります。例えば、私たちは目で見ます。目を開けて、人々をみます。その時のあなたはまだ分別がなく、執着もなく、そのような妄想を起こしていないのです。その時の貴方の心地はとても清浄です。はっきりと、くっきりと見えています。それは仏知見です。それは見性です、色性を見性します。しかし、第二念になると、厄介になります。この人はだれだれで、あの人はだれだれです;この人は良い人で、その人は悪人です……。それだから、厄介です。完全に妄想、分別、執着のなかに陥り、すぐさま凡夫に堕落してしまいます。いつになって、あなたは、その第一念をずっと保てるようになれば、成功します。仏家には多くの方法を説かれていて、八万四千法門、無量法門もありますが、結局のところは、そのことのためです。つまり、いかに最初の第一念を保ち、それが変えないように修行することです。それは「一念」と言います。浄土宗では「一心」と呼びます。念頭が起きた瞬間、すぐさま「二心」、「三心」になり、多くの「心」になっていきます。二心、三心、多くの心は凡夫です。その念頭妄想が多ければ多いほど状況が悪くなり、多ければ多いほど下の方へ堕落していきます。すべての境界が、全部自分の念頭から変化し出されたのです。

 

 だから、すべての法門のなかでは、念仏法門は最も殊勝です。朝から晩まで、他の念頭がなく、起心動念は「阿弥陀仏」です。私は皆様に一つの効果抜群の念仏方法をお伝えします。それは、「私のこの身体と阿弥陀仏の仏身が融けあって一体になって、我々が現在住む世界も極楽世界と融けあい一体になっていて、すべての衆生は阿弥陀仏の化身であって、全ての物事は阿弥陀仏が大慈大悲で変化し出されたであって、私がみたすべては阿弥陀仏であって、聞いたすべては阿弥陀仏であります。六根が接触できるのは全部阿弥陀仏です」のように常に観照して、すべての雑念を「阿弥陀仏」の一念を転じさせ、心のなかにいつも「阿弥陀仏」、「阿弥陀仏」と仏号を忘れることなく念じ続けていくことです。すべての人・事・物は阿弥陀仏が変化し出されたであって、本当に阿弥陀仏であることを考えることです。そのなかで、一番重要なのは、分別しない、執着しないことです。境界は平等では、万法平等です。なぜなら、全部幻相であって、如幻です。変化し出された長続きしない幻です。体は一つの自性ですが、相は無常で仮の森羅万象です。

 

 我々は今、目を開けて、もろもろが見えます。見たそのすべての万法は、まさに阿弥陀仏が変化し出されたものであります。即ち、十方一切の諸仏が変化し出されたものでもあります。仏はどこにいらっしゃいますか?あなたが見た全てです。あなたが聞いたすべてもそうです。あなたが接触できたすべてもそうです。六根が接触したすべては諸仏が変化し出されたのです。間違いないでしょうか?間違いありません。本当ですか?本当です。少しも嘘偽りがありません。なぜなら、私たちが述べる「仏」は、仏性をさしています。十法界依正荘厳は一つの真如本性から変化し現れたのです。私たちが自性を「仏」と認めます。禅家は「見性成仏」と言います。どれが自性から変化し現れたものでないものがありますか?「心外無法、法外無心(しんげむほう、ほうげむしん。心の外に(他に)法が無く、法の外に(他に)心はありません。心と法は一体であって不二です。心は本体(自性)で、法はその心が現したすべての相(現象)です。虚空法界のすべては一つの自分(つまり自性)です。その自分(自性)以外は何もありません。すべては、その自分が変化し出したものです。つまり、すべては「唯心所現、唯識所変(ゆいしんしょげん、ゆいしきしょへん)」です)」です。我々が夢を見るように、夢をみることができるのは私達の心です。そのすべての夢境は心から変化し出された「相分(そうぶん。自性が変化し出した精神的な、物質的なまたは自然的な現象です)」です。そのような感じかどうかをよく考えてみましょう。もし、それが納得できれば、つまり、全部の夢はわたしの心です。私の心が丸ごとに夢境に変化しました。夢境と心はもともと無二無別です。今私達の六根が接する外の境界は、我々の真如本性から変化し現されたものです。つまり万法皆如(まんぼうかいにょ、すべては真如自性の如くです。具体的にどうやって如くですか?それは『法華経』が説く十如是(じゅうにょぜ、「所謂諸法。如是相。如是性。如是体。如是力。如是作。如是因。如是縁。如是果。如是報。如是本末究竟等(しょいしょほう。にょぜそう。にょぜしょう。にょぜたい。にょぜりき。にょぜさ。にょぜいん。にょぜえん。にょぜか。にょぜほう。にょぜほんまっくきょうとう」)です。十法界にあるすべての現象をそう、現す相)・性(しょう、道理、真如本性)・体(たい、体質、本体)・力(りき、能力)・作(さ、造作、この造作は次の因になる)・因(いん、習因、「習」は習気)・縁(えん、助縁、いろいろな条件)・果(か、因が縁にあって、因縁が熟して現れた習果)・ほう、因が縁にあって、因縁が熟して現れた報果)・本末究竟等(ほんまつくきょうとう、最初の「相」は「本」とし、後の「報」は「末」として、それらの帰趣は「究竟」であり、つまり、これらのからまでのすべては、事上は差別があっても、理上では、同じく実相であって、一理であって、平等(空寂)無二である)の十類に分けたこと。簡単にいうと業因・果報が循環・相続する現象です。十如是の「十」は「相・性・体・力・作・因・縁・果・報・本末究竟等」です。その中の一つ目の「相」から始め、「報」までは、「事」的には、差別がありますが、「理」は同じ実相(自性)です。そして、その「十」の中の一つ目の「相」から始め、「報」までのすべての「相(現象、精神現象、物質現象、自然現象)」みんな『金剛経』にとく「凡所有相、皆是虚妄」のように「空寂」であって、得ることができない、虚妄であるので「平等」であります。「如是」とは、「相」は「性」の如く、「性」と「相」は不二です。ほかも同じく「体・力・作・因・縁・果・報・本末究竟等」は「性の如く」、性と「体・力・作・因・縁・果・報・本末究竟等」は不二です。宇宙人生のすべては「不二」です。これは「如」です。そして、法界虚空界のすべては「如是」です。あなたの一念の中にも十如是が具足しています)です。だから、諸法如義(諸法が一如です。性と相は一如不二です。つまり、百界千如です)です。法法皆如(つまり万法皆如)だから、六根が接した六塵境界は即ち如来です。即ち諸仏です。

 

 そのように、念々、六根が接触したすべての境界はすべて阿弥陀仏の化身と強く信じ思うことは、絶対に間違いありません。それだから、すべての人に誠実に礼敬して、すべての事に対しても礼敬します。事を礼敬することはつまり、精一杯で、最善に事を成し遂げます;物への礼敬は、例えば、机であれば、大事且つ丁寧に使い、きちんと置く位置を整い揃い、綺麗に拭き、上の物を整然と並ぶことです。それは机へ対しての礼敬です。そのように、念を転じることができれば、あなたの心は清浄で、平等な境界に入ります。それは華厳境界、極楽世界です。

 

 西方極楽世界依正荘厳(えしょうしょうごん、つまり物質環境、自然環境と人事環境の真善美慧です)のすべては、阿弥陀仏様が変化し出されたのであります。阿弥陀仏とはどなたでしょうか?当人の自性です。我々本人の自性です。その道理が分れば、そのような事実真相を明瞭できれば、やっと恍然大悟(こうぜんたいご。瞬間にひらめき、悟りを得ること。はっと悟り、分かることです)できます。すべての虚空法界(つまりすべての宇宙人生)は、『華厳経』が説く「唯所現、唯識所変(ゆいしんしょげん、ゆいしきしょへん)」のように、そのは無量無辺の智慧、無量無辺の徳相(即ち能力、神通力)です。そのの名号は「阿弥陀仏」と呼びます。虚空法界をあまねく行き渡るまでのすべての衆生は如来の変化所作です。このような結論が得られたから、現在の私の念仏は、以前の念仏と違っていて、同じ念じる方法ではありません。今の念仏は本当に心身自在、法喜充満(法喜が充満していること。法喜とは、外の刺激から来た喜びではなく、すべて現象に心が取らわれることがなく、貪・瞋・痴などの煩悩が減り、安らかな清浄な心から自然に湧き上がる、口では言いあらわせない心身ともに愉悦する法の喜悦です)までに念じております。

 

 

舎利弗(しゃりほつ)。彼仏国土(ひぶっこくど)。微風吹動諸宝行樹(みふうすいどうしょほうごうじゅ)。及宝羅網(ぎゅうほうらもう)。出微妙音(すいみみょうおん)。譬如百千種楽同時倶作(ひにょひゃくせんじゅがくどうじくさ)。聞是音者(もんぜおんじゃ)。自然皆生念仏念法念僧之心(じねんかいしょうねんぶつねんぽうねんそうししん)。舎利弗(しゃりほつ)。其仏国土(ごぶっこくど)。成就如是功徳荘厳(じょうじゅにょぜくどくしょうごん)

経文大意:舎利弗よ。極楽浄土には、さまざまな宝でできた並木や羅網がそよ風に揺れ、美しい音色をたてています。その音は百千種もの楽器が同時に奏でられているようで、その音を聞く者は、みんな、おのずから、仏(覚)を念じ、法(正)を念じ、僧(清浄)を念じる心を生ずるのです。

舎利弗よ、極楽世界のこのような功徳や真善美慧のすがたは、すべては阿弥陀仏の大願大行と自性功徳で成し遂げられています。

 

有情と無情は、共に妙法を宣説していて、蔵、通、別、圓の四教の道品『仏説阿弥陀経』大意 勉強入門編 その四 「正宗分」の大意-8の部分で解釈していましたから始め、無量の法門を同時に演説しています。その説法は、聞く人のそれぞれの機根に応じているので、どんな機根の衆生も理解ができ、ともに三宝を念じるようになります。

☆前の衆鳥の段落は、極楽世界の有情が説法することが説かれていて、この段落では風・樹・羅網を例にあげ、西方世界の無情も説法することが説かれています。ですので、極楽世界の有情と無情がともに妙法を宣説していることは、西方極楽世界の衆生の修行が退転しないの要因です。極楽浄土の行樹羅網は、風に吹かれ、音色をたてています。世の風鈴のようです。この世の風鈴は説法できませんが、極楽世界の樹は宝樹で、葉・枝などは全部七宝でできていて、その音色の美しさは我々が想像つかないものであって、衆鳥と同じく、妙法を演説して、衆生を教化して、導いています。

 

☆「妙法」の「妙」の意義はとても深くて、広いです。まず究極的に言えば、自性と相応しているのであれば「妙」といいます。そして、一般的に言えば、「妙」の意味を最も円満で、最も殊勝で、もっとも明瞭に説いてくださったのは、天台智者大師でした。天台大師が『妙法蓮華経』を講義する際に、90日間もかけてその経題の中の「妙」の一文字の意味を説かれていました。その妙の意味は、いくら述べても述べきれないほどです。なぜなら、法性と相応しているからです。ですので、西方世界の六塵がすべて、人を悟らすことができるので、そのことは実に「妙」です。

 

ここまで、極楽世界の依報が説かれました。次は、極楽世界の正報です。つまり、阿弥陀仏様とその弟子の菩薩達や極楽世界へ往生した衆生達のことです。

 

舎利弗(しゃりほつ)。於汝意云何(おにょいうんが)。彼仏何故号阿弥陀(ひぶつがこごうあみだ)。舎利弗(しゃりほつ)。彼仏光明無量(ひぶつこうみょうむりょう)。照十方国(しょうじっぽうこく)。無所障礙(むしょしょうげ)。是故号為阿弥陀(ぜこごういあみだ)。又舎利弗(うしゃりほつ)。彼仏寿命(ひぶつじゅみょう)。及其人民(ぎゅうごにんみん)。無量無辺阿僧祗劫(むりょうむへんあそうぎこう)。故名阿弥陀(こみょうあみだ)

 

経文大意:

舎利弗よ、そなたはどう思われますか。なぜ、かの仏を阿弥陀とよぶのでしょうか。舎利弗よ、かの仏の無量無辺の般若智慧の光明及びその働きは尽きることがなく、十方のすべての諸仏国土を遍く照らし一切の衆生を加持し、摂受していて、何ものにも妨げられません。そこで名付けて阿弥陀(無量光)とするのです。また舎利弗よ、この仏の寿命、並びに、その仏国土に住む人民たちの寿命もまた無量であります。それで、阿弥陀(無量寿)とよぶのです。

 

まず、教主の阿弥陀仏様です。

その一、名号の意味の説明です:

本経典は、「執持名号」との妙行を主に説き示しているので、だから、まず西方極楽世界の教主の阿弥陀仏の名号がなぜ「阿弥陀仏」であることを特に提示して、衆生に、「阿弥陀仏」という万徳洪名の不可思議さに深く信じさせようとしています。ですので、一心にして、名号を執持して、もう二度と疑う必要がありません。

 

☆正報荘厳を説き始めると、すぐさま、釈尊が舎利弗を呼びかけ、「舎利弗よ、そなたはどう思われますか。なぜ、かの仏を阿弥陀とよぶのでしょうか」と問いかけました。もちろん、尊者舎利弗が答えられません。この質問するの形で舎利弗の注意を促しました。舎利弗が我々聴衆たちを代表しているので、つまり、我々にも、経文のこの部分で、質問され、注意力を一気に集中させられます。

なぜなら、この法門のもっとも重要な修行は「執持名号」でありまして、つまり、名号が修行の第一条件であります。この名号は本当に不可思議でありまして、名号の「事」であろうが、「理」であろうが、どれも円融であって、だから「万徳洪名(まんどくこうみょう。「阿弥陀仏」という名号には、無量無辺の、円満究竟の智慧徳能が円満に具足しているので、だから「萬徳」と称します。ここの「万」は「無量無辺」を意味していて、「洪」は「大」の意味です。「阿弥陀仏」という名号は法界全体の徳号、自分達自性の徳号で、常に念じていけば、自分達の自性の智慧徳能を啓発・恢復させることができ、無量無辺の功徳利益を得られます。だから、阿弥陀仏と念仏することは世出世間法の第一善法です)」と呼ばれています。そのなかの義理は実に深くて広いです。この「阿弥陀仏」という名号は四文字だけで、見た目はとても容易そうですが、その事・理の境地は無量無辺であります。その四文字の名号を持するだけで、仏陀に成れて、浄土の往生も果たせるので、本当に不可思議であります。ですので、ここで、その名号の意味をはっきりと解釈してくださらなければ、それを信じる人はきっとあまりいないでしょう。心から信じていなれば、もちろんのことで、かりに念仏していても、口先だけになり兼ねません。それだと成就しにくいです。とりあえず、西方世界と、単なる一つのご縁を結んだだけで終わってしまいます。この一生での成就はとても難しくなります。ですので、その名号の意味をはっきりと説くべきです。

 

そして、圓瑛大師は、『阿弥陀経要解講義』のなかで、我々に、なぜ持名(つまり「執持名号」)することを「妙行」と呼ぶの三つの意味を講義してくださいました。

一つ目は、「この一つの名号を持するだけで、三界を「横超(おうちょう、つまり横出(おうしゅつ)することです。自力で一歩ずつ煩悩を断ち、竪さまに、上にある28層の天界を通すような、上に進んで六道輪廻から出る「竪出(しゅしゅつ」」する困難な修行方法ではなく、念仏して、阿弥陀仏様の願力を頼りに、凡夫から一挙に横飛びするように、一生で、極楽浄土へ往生して、六道輪廻を超越し成仏する方法です)」することができるので、これは「簡捷(かんしょう、簡単にすばやく行われること)」という「妙」です」、つまり、この名号を執持することだけなので、八万四千の行門のなかに、それ以上簡単な修行法がないことで、だからとても「妙」であります;

二つ目は「臨終の際に心のなかで、最後の十念(死に際で、人生の最後で、仏号を十回連続唱え、または心のなかで仏号を十回念じること)だけさえ念仏ができれば、帯業往生(たいごうおうじょう、過去の業障を持ったまま極楽浄土へ往生できること)」ができるので、これは「特殊」という「妙」です。つまり、持名することで成就できるだけではなく、さらに、ご臨終の際に、声を出しても、出さなくても、心のなかでは、人生の最後の念は、十念(十回の念仏)または人生最後の一念は「阿弥陀仏」という名号であれば、極楽浄土への帯業往生を果たせるので、これはとても「妙」であります。ただこの二つ目の十念については、誤解をしてはならないので、後の経文のなかでもっと詳しく講義します;

三つ目、「極楽浄土への往生さえできれば、必ず、三種の不退を証得できるので、これは「円頓」という「妙」です」。つまり、浄土さえ往生できれば、かならず、円満な三不退(つまり、不退転です。極楽浄土へ往生した全ての衆生が証得する三種類の不退転です:1.位不退(二度と六道輪廻する凡夫の位に引き下がらない、つまり、六道輪廻から脱出して、二度と三悪道に堕ちません);2.行不退(小乗の位に引き下がらない、つまり大乗菩薩になります);3.念不退(円教の初住位(十住なかの一番下の階位、発心住)の菩薩以上を証得します)を証得できます。これは八万四千法門のなかで、どの法門にもないことなので、だからこの浄土念仏法門を「難信之法(なんしんしほう、とても信じがたい法門。つまり、「念仏法門の不可思議な深い義理を、本当に知り、本当に心から信じることは、実にしいなのだ」という意味です。円満に仏果を証得した仏だけが念仏の義理の不思議さを全部分かっていて、等覚菩薩でさえ全部分かっていません。だから、釈尊はこの『阿弥陀経』のなかで、浄土宗の念仏法門を「信之法」や「難事」と呼んでいます。)」と呼ばれていても不思議ではないです。

 

梵語「阿弥陀」を漢訳すると、「阿」は「無」で、「弥陀」は「量」で、合わせて「無量」です。その名号の事理の境界や意義については、本来いくら説いても説きつくせなく、言語道断で不可思議ですが、本師釈迦仏が、「光(つまり空間)」と「寿(つまり時間)」で、つまり空間と時間に含まれている無量無辺のすべてで、その「無量」を説かれています。「光」は即ち「横遍十方(おうへんじっぽう 横は十方へ遍く広がり渡る)」でありまして、「寿」は即ち「竪窮三際(しゅぐうさんさい 竪は過去・現在・未来に窮まり尽くし)です。そのように横と竪が交徹(きょうてつ、鏡と鏡が映し合うように、互い無限に、交わり融けあうこと)していることは、即ち、法界全体です。つまり、法界の本体、一真法界、我々当人達の真心自性です。その法界の本体で、阿弥陀仏の法身やその仏国土の極楽世界をなしていて、さらに、「阿弥陀仏」という仏号もなしました。ですので、その「阿弥陀仏」という名号は、即ち衆生の本覚理性、つまり本来に具わっている真心自性、仏性です。持名することは、つまり、始覚(阿弥陀仏を念じられる心です。即ち、覚り始めること。我々が念仏することに発心し、「阿弥陀仏」を念じることができるのは「始覚」で、つまり、輪廻を脱出し、円満に成仏することに覚り始めました)と本覚(念じられている「阿弥陀仏」という仏号です。即ち、衆生皆に本来に具わる仏性です)が合わさって一体になることです(つまり、今は始覚し、仏を念じ続けると、本覚の「心」と始覚の「境」が一つになり、念じられる心と念じる仏が不二になって、一心不乱になり、是は仏になり)。始覚と本覚は元々同じ一つの覚(自性、仏性)であって、衆生の自性と仏(自性に覚り、証得した人、つまり自性に回帰した人です)の自性は不二であるので、だから、「一念相応一念仏、念々相応念々仏(いちねんそうおういちねんぶつ。ねんねんそうおうねんねんぶつ。一回の念仏で一回自性と相応して、一回仏になります;念々の念仏で、念々自性と相応し、念念共仏になります))」であります。

 

☆「阿弥陀」を中国語に訳すと、「無量」との漢語になります。「仏」は「覚」の意味で、つまり、「阿弥陀仏」を完全に中国語へ訳すと「無量覚」となります。つまり、宇宙と人生のすべてに、何事も迷いがなく、覚っているということです。「無量」だから、本来その意味はとても深くて、とても広くて、大きすぎなので、いくら説いても説き尽くせないですが、世尊は善巧方便で、その「無量」のなかのすべてを「光」と「寿」でまとめました。「光」で空間を表し、「寿」で時間を表して、現代の「時空」という言葉のようです。「時空」と言えば、時間と空間のなかに、すべてがもれなく含まれています。その「時空」に比べて、「光寿」のほうがさらに円満なものとなります。なぜなら、時空は、活気がなく抽象的な感じですが、「光寿」は生き生きとしています。ですから、その意義もとても豊かなものとなります。

 

☆「光」は光明が隈なく照らし渡り行くことで、東西南北上下のすべての方位を遍く照らします。それはつまり、空間を意味しています。尚且つ、智慧という意味もありまして、明瞭・明達を意味しています。「壽」は過去、現在、未来をさしていて、過去にはさらに過去があって、未来にもまた未来があるように、時間を表しています。その「光」と「寿」が交徹して、法界の体となります。その法界の体からすべての宇宙人生が現れています。十方三世の無量無辺の法はその中に含まれています。法界の体は一真法界です。無量法界です。本来法界の体(本体)、相(現象)、用(作用)はみんな「一」であるので、だから、一真と呼びます。一真と言いながら、なぜまた十法界を述べ、百界千如を述べ、無量無辺の法界を説きますか?その部分もはっきりと了解すべきです。法界元々は一真であって、虚妄ではなく真実でありますが、凡夫の一念不覚(つまり自性を迷い、一念の妄心が生じること)で、つまり、心が動きだしたことで、その心の妄動で、すぐさま分別・執着が生じてきて、直ちに一真法界を十法界に変化させてしまいました。実の所の言うと、依然としての一真法界です。十法界や百界千如と言うのが、それは妄心で見間違っているだけであって、本当ではなく、唯の見間違いです。一真法界を、十法界や無量法界に見えてしまいました。ですので、「一」だけを「真なる法界」と呼び、「十」を真実な法界と呼んでいません。「百」もまた「真法界」と呼ばれていません。諸仏と大菩薩達の心や目のなかでは、この目の前の法界は一真です。なぜなら、諸仏と大菩薩達はみんな「一心不乱」であるからです。他の理由がなく、「一心不乱」だからです。「一心」は「能証(証得できる方法)」で、「一真」は「所証(その方法で証得した境地です)」。一心不乱になれば、自ら一真法界が目の前に現れてきます。「能所不二」で、「心境一如」です。それは不可思議です。『華厳経』のなかでは、このことを「不可思議解脱境界」と呼んでいます。

 

 我々凡夫は考えてみましょう。我々は一心になれますか?我々は「乱心」です。だから、我々の心のなかで、我々の感受のなかで、この法界には無量な差があります。それだから、十法界が現れてきます。百法界が現れてきます。問題はそこです。ですので、仏法の教学は、ただ我々に一真に回復させる方法を教えているだけであります。我々も一真に戻れば、諸仏如来と同じ受用を得られるので、それは仏法です。つまり、すべての人に仏になり、仏と無二無別(つまり、差がなく、別々ではなく、同一です)になってほしいです。仏が説かれる無量の法門はみんなこの目標を向かっていて、一つの目的です。だから、法門は本当に平等であります。高下がありません。どの法門も一真法界を証入するためであります。しかし、その無量の法門のなかで、この念仏法門はもっとも直接で、もっとも簡易なのです。なぜなら、この法門は直接に「一心不乱」を求めている法門だからです。ほかの法門は遠回ししたり、曲がり道を通ったりしながら、結局「一心不乱」へ辿らなければなりません。その目標となる「一心不乱」の呼び名は法門によって違いますが、その意味は同じであります。「一心不乱」に達せる方法のみで、(一真、つまり自性を)証得することができ、(仏道の修行が)成功することができます。それは我々が知るべきことです。ですので、私たちはこの浄土宗の念仏法門に出会えることは、仏法を学ぶ過程のなかの本当に幸運なことで、無比な幸運です。自分達がそれに気付くべきです!この法門は一つのまっすぐな道です。古徳が仰る「径中径又径(径は門径(もんけい)で、つまり、道路、径路、みちすじ、方法、手段です。直訳すると「の中ののまたの」となります。仏法なかでは、仏果を証するのに、小乗より大乗のほうか道が近い、それは一つ目の「径」です。その大乗の径路のなかで、禅があります。禅は大乗仏法中の近道です。これは二つ目の「径」です。そして、その禅のなかの、さらなる近道は浄土宗の念仏法門です。これはその三つ目の「径」です。つまり、念仏することが、仏果を証するための一番の近道であることです)であります。

 

☆法界の体は「光」と「寿」です。阿弥陀仏様の法身は無量光寿です。阿弥陀仏様が居住する極楽世界も無量光寿です。同時に、阿弥陀仏の名号は即ち阿弥陀仏の法身で、即ち阿弥陀仏の極楽世界です。ですので、阿弥陀仏の名号は即ち、衆生の自性で、衆生本来に具わる仏性です。だから、中峰禅師(中峰明本禅師、ちゅうほう みょうほん)は三時系念(さんじけいねん、禅宗の大徳の中峰禅師が編集した、内容は完全に浄土宗のものを使っていて、死者の冥福を祈り、追善・救済する同時に、生きている方にも悟らせ、あの世とこの世の双方にご利益をもたらす法要の儀軌(ぎき 模範、手本、規範)です)のなかで、我々に「我が心これは阿弥陀仏であり、阿弥陀仏は即ち我が心であり;此方(こなた)これは極楽世界であって、極楽世界は即ち此方である」と説かれていました。だから、念仏することはつまり自分達の自性・仏性を念じていることです。その関係はとても密接です。我々自分自身の自性の呼び名は「阿弥陀仏」です阿弥陀仏と自分達元々は一つであります。そして、「此方(こなた)これは極楽世界であって、極楽世界は即ち此方である」、我々が住むこの娑婆世界、現在のこの地球も時空の外ではありません。時空に含まれています。ですので、極楽世界が一体どれ位大きいなのが分かるでしょう。「光」には限りがなく、「寿」つまり時間も、過去が無始であって、未来も終わりがなくて、同じく果てしないのです。だから、阿弥陀仏の法身と阿弥陀仏の報土の極楽世界も同じく、無限無辺であります。そのなかに我々が住む娑婆世界が含まれています。この地球は極楽以外にいるのではありません。それなら、極楽世界は一体どこにいますか?この当下(とうげ、今現在そのまま)からかけ離れていません。阿弥陀仏様はどちらにおられますか?現前にいらっしゃいます。それなら、なぜ我々が見えません?見かけませんでしょうか?それは我々に障礙あります。その障礙を取り除けば、あなたがそのとききっとこう話します「なるほど」!あなたも見えました。当下にあります。そのことはまさに『楞厳経』のなかで説かれていた「当処出生、隨処滅尽(とうしょしゅっしょう、ずいしょめつじん。すべては、今現在ここ一念で突如に生じ、そのまま直ちにその場で消え滅びます。つまり、すべての相は、刹那の間で生滅して、その生滅の速さがあまりにも速すぎで、前文の述べた一秒で2240兆回以上の速さで生滅しているので、生滅がほぼ同時であるなので、だから、不生不滅と言います。それは宇宙人生の事実真相です)」の経文通りです。

 

 普通では、我々凡夫が仏を見たとは、それは凡夫も殊勝な縁があれば、阿弥陀仏が姿を現すのを見えます。そのとき、阿弥陀仏様はどんな身で現れてくるのも、我々にかかっています。仏とは関係ないことです。なぜなら、仏には起心動念がなく、分別・執着もありません。我々は起心動念があって、分別や執着があります。だから、仏は永遠に「恒順衆生(こうじゅんしゅじょう、衆生に恒順して、つまり、衆生のそれぞれの機根に応じならがら、衆生を助け、導き、済度すること)」、「随喜功徳(ずいきくどく、すべの衆生の善行や功徳を共にお喜び、随喜すること)」していて、我々に「感」があれば、仏には自然に「応(衆生の感ずる心に自然に応じること)」します。「感(感ずること、起心動念すること)」の条件は経典なかで述べられている「清浄・平等・覚」です。我々の心が清浄になれば、仏は自然に姿を現します。我々の心が平等であれば、仏も姿を見せてくれます。もし我々が大徹大悟し、明心見性すれば、それもまた仏の姿が見られます。我々の心が清浄で平等であれば、仏を見たければ、仏が仏の相として現れてきて;菩薩を見たければ、菩薩の相として見せてくれます。すべては「随衆生心、応所知量(楞厳経の経文です。その大意は、真如自性の作用としては、仏は衆生の心(つまり八識とそれによって生じられる諸々の差別(しゃべつ)・妄想(もうぞう))に応じて(つまり、十法界衆生の知識に応じて)、化身(つまり応化身)して相を現すことです)」です。もし、我々が大徹大悟し、明心見性をすれば、仏は法身の相で現れてきて、応化身ではありません。そして、その現れた相は、確かに、「当処出生、隨処滅尽(とうしょしゅっしょう、ずいしょめつじん。すべては、今現在ここ一念で突如に生じ、そのまま直ちにその場で消え滅びます。つまり、すべての相は、刹那の間で生滅して、その生滅の速さがあまりにも速すぎで、前文の述べた一秒で2240兆回以上の速さで生滅しているので、生滅がほぼ同時であるなので、だから、不生不滅と言います。それは宇宙人生の事実真相です)」で、「来去(らいきょ、行ったり、来たりすること)」がありません。来(来ること)・去(去ること)がないことは、つまり、空間がありません。現れるか、現れるまいか、現れていなければ、「隠」といいます。「隠(相が隠れていること)」と「現(相を現すこと)」は自由自在です。その「隠」と「現」は、我々がよく言う生滅法です。我々に「感」があれば、仏は目の前に姿を現します;我々に「感」がなくなると、仏の相は消え、なくなります。もし、沢山の人が「感」をすれば、仏はここの地域にきて、応身として、出現します。例えば、三千年前の本師釈迦仏がインドに出現し、八相成道(はっそうじょうどう。釈迦さまがこの世に出現して示した8種の相。それは世尊その一生の修学過程です。降兜率(ごうとそつ)・入胎(托胎)・出胎・出家・降魔(ごうま)・成道(じょうどう)・転法輪・入滅の八つの段階です)を示現し、八十年近く住世(じゅうせ、この世におられること)してから、円寂なさいました。このような釈迦仏は応身です。そして、もし、「感」するのが一人の個人であれば、そのような縁は大体化身として現れてきます。その化身は突然現れ、突然消え去り、存在する時間もあまり長くありません。

 

虚雲和尚様は、47歳の時に、五台山(中国山西省東北部の五台県にある、中国仏教の四大名山の一つで、文殊菩薩がお住まいする聖地である「五台山(ごだいさん)」です)を参拝することに誓いました。その聖地を参拝する功徳を和尚様のご両親に回向し、孝道(こうどう。よく父母に仕える道。孝行の大道)を全うするためでした。和尚様は「普陀山(ふださん、中国仏教の四大名山の一つで、観音菩薩の道場で、中国浙江省舟山群島にある)」から出発して、浙江省舟山(しゅうざん)市の定海(ていかい)区から、三歩一拝(さんぽいちはい、中国で仏教聖地を参拝や巡礼する(中国語では朝山(ちょうざん)と言います)ときなどでは、敬虔な気持ち、深い祈りや真摯な懺悔などを表すために、その行く道で、三歩を歩くたびに、一回地に頭を着けて仏菩薩を礼拝する歩く方法です)しながら、つまり拝みながら、山西省の五台山へ赴きます。それで、合わせて三年間も歩き続けました。三年をかかってやっと着きました。その三年間のなかで、二度も病気になり、二回共に人煙の稀少な荒野で倒れました。その都度、ある乞食に助けてもらいました。二回とも同じ乞食に看病してもらい、健康回復できました。和尚様がその乞食の救命のご恩をとても感謝し、お名前を聞いたら、そのお乞食は自分の名字は「文」で、名前は「吉」で、「文吉」というのだと答えていました。「どこにお住まいですか」とさらに聞くと、乞食は自分がちょうどその「五台山」に住んでいて、五台山に行って聞けば、みんな自分の事が知っていると答えました。虚雲和尚様はその「文吉」様をとても感謝していました。なぜなら、もし、その乞食がいなかったら、自分の命はもうすべてに失っていたかもしれません。ですので、今度の自分が朝山の功徳を半分その「文吉」様にも回向してあげました。そのようにして、虚雲和尚様が拝みながら五台山に着くと、すぐさま、皆にその乞食のことを尋ねました。しかし、誰もその乞食を知る人がいませんでした。後に、五台山の寺に行って、参拝してから、その寺の僧にその乞食の「文吉」のことを尋ねると、寺の僧が合掌して、「乞食の「文吉」は文殊菩薩様の化身ですよ!」と教えてくれました。虚雲和尚はこれで「恍然大悟(こうぜんたいご)しました。自分が五台山へ朝山(ちょうざん、中国語で、仏教聖地を参拝や巡礼することの意味)する目的はまさに文殊菩薩に礼拝するためであって、その一念が生じたとたん、すぐさま、菩薩がそのように身を現れてくださいました。乞食の身として現れていたので、虚雲和尚はまったく気づかず、まさか菩薩が化身して自分を救うなんか考えもしませんでした。その化身の時間は、一回目では、大よそ半月位です。虚雲和尚と一緒に二週間位いてから離れてどこか行きました。二回目にまた病気になった時にも、偶然にもまたその文吉様に会いました。文吉様は、虚雲和尚に病気を治すのを助けて、薬草を探し取ってきて、煎じて食べさせてあげました。さらに、自分が物乞いしにいて、沢山の食事をもらってきて、和尚に供養(中国語では奉仕する、仕える、差し上げるという意味です)してあげました。その二回の病気で、二人が一緒にいる期間は合わせて一か月位です。それは本当にあったことです。化身です。化身もとても役立ちます。本当に助けてあげました。命を救ってあげました。その化身は先の『楞厳経』の経文の「当処出生、隨処滅尽(とうしょしゅっしょう、ずいしょめつじん。今現在ここ一念で突如に生じ、そのまま直ちにその場で消え滅びます)」の通りです。

 

 そして、浄土宗の四代目の祖師の唐の法照禅師(ほっしょうぜんじ、747-821)も、五台山を朝山していた時に、「大聖竹林寺(だいしょうちくりんじhttp://21dzk.l.u-tokyo.ac.jp/SAT/ddb-sat2.php?mode=detail&useid=2072_,51,0130c18&key=%E5%A4%A7%E8%81%96%E7%AB%B9%E6%9E%97%E5%AF%BA&ktn=&mode2=2)」という道場を見えました。それは文殊菩薩の道場です。法照禅師はその道場のなかで文殊菩薩と普賢菩薩のお二方にお目にかかり、お二方の講経説法も一座(いちざ、つまり、一回分の講経法会)をお聞きしました。講義が終わった後、文殊菩薩に質問に伺いました。その時は既にこの世が末法時期にはいていたので、「末法時期の衆生は、その機根が像法時期に比べれば劣っているので、どのような法門を修めば、適切であって、且つ証果できるでしょうか」とのご質問でした。その時、文殊菩薩のお答えは「念仏法門を修めるべき」でした。つまり、極楽浄土への往生を求めて念仏することです。だから、法照禅師はそのときから、もともと修めていた禅宗から法門転換して、浄土宗を修行し、押し広めました。浄土宗を修行し、浄土宗を弘めていて、浄土宗の四代目の祖師となりました。法照禅師はその「大聖竹林寺」という道場から離れたときに、また次回来られるように、道順を覚えようとしていました。しかし、途中で、一回振りかえてみると、なんと、道場が消え去っていました。なにもなく、唯の荒れ果てた山一面でした。それもまた化身でした。化現(けげん)でした。ですので、そのように、菩薩は報身、応身、化身を用いて、すべての衆生を助け、教化しています。それは真実なことです。虚偽なことではありません。

 

ですので、十方世界のすべての、極楽浄土への往生を求める衆生は、真心で信じて、切に願い、「阿弥陀仏」を一向専念(いっこうせんねん。つまり、「不懐疑(ふかいぎ)」、「不夾雑(ふきょうざつ)」、「不間断(ふかんだん)」で、ひたすら念仏すること)さえしていれば、「其人臨命終時(ごにんりんみょうじゅうじ)」つまり、その人がご臨終の際に、阿弥陀仏はが必ず現れ、ご来迎してくださいます。かならず、浄土へ往生できます。それは本当です。2012年極楽浄土へ往生した劉素青(りゅうそせい、一心不乱を証した大徳居士劉素雲の実姉で、「自ら、極楽浄土の往生が真実であることを証明したい」と宣言し、前から予知・予定された時刻通りの2012年11月21日正午12時に極楽浄土へ往生することを示現してくださった大徳居士です、その往生ドキュメンタリーは公開されいます。http://edu.hwadzan.com/play/56/136)居士はその一例です。我々に証明として示してくれました。劉素青居士は、ご自身が発願していて、自分の残りの寿命も捨てて、みんなに、念仏して極楽浄土へ往生することが真実であることを証明したいと誓いました。我々に念仏往生が真実であることを証転(三転法輪(さんてんぼうりん、仏法を説くに示転(じてん、開示すること(理論事実を説き明かし示すこと。教えさとすこと))・勧転(かんてん、示転で説明してあげても分からない人を根性強く勧めること)・証転(しょうてん、示転や勧転しても、まだ信じられない人に対して、証拠を出して、実際に証明してみせること)のなかの証転です)してくださいました。その時、劉素青居士には確か病気を患っていました。しかし、その病気は彼女の極楽往生のなんらの妨げもなりませんでした。尚且つ、彼女が極楽往生八日前に、彼女の妹の劉素雲居士(りゅうそうん。中国黒竜江省省庁の元幹部だった劉素雲居士は、曾て重い紅斑性狼瘡の病気にかかり、医者にいつでも死ぬ準備しなさいと宣告され、治療を放棄していました。その時に、偶然にもらった浄空法師の『無量寿経』の講経DVDを眠れず病床で見始め、見続け、その説法中の仏法の智慧で、人生の疑問や心の葛藤も解け始めていきました。病床で彼女は念仏し始めました。念仏し続けて行くうちに、病気のこともすっかり忘れて、奇跡的に、痕も全然なく、紅斑性狼瘡がすっかり治りました。後に、偶然、病院で生きている姿に見かけて驚く主治医に治す方法聞かれた劉素雲居士は「阿弥陀仏は大医王です、念仏して、治りました」と返事していました。今は、劉素雲居士は見事に念仏三昧を証得していて、この一生で極楽浄土への往生が確実となった念仏者の模範になっていました)の心のなかに、あるメッセージを受けとっていました。そのメッセージは一組の数字で「2012 11 21 12」でした。それはまさに姉の劉素青居士の極楽往生への日時でした。その時刻通りで、少しのずれもありませんでした。私たちのために、浄土宗の念仏往生の証明をしてくださいました。

 

そして、海賢和尚様が極楽往生したのも、和尚が112歳の時でした。往生する日時も事前に分かっていました。海賢和尚は若い時から出家していたので、出家生活は92年でした。112歳で、出家92年位なので、つまり、年齢からみれば、大よそ20歳位に既に出家していました。海賢和尚のその一生はまさに「以戒為師、以苦為師(戒律を師とする、苦を師とする。これは仏が入滅する前に、阿難に仰った御言葉です)」の一生でした。経懺仏事(きょうざんぶつじ 僧侶に読経回向して信徒に代わって仏様に懺悔し、無病息災などの幸福祈願し、亡者(もうじゃ)を追薦(ついぜん)供養したりする儀式やいろいろな法要のこと)をしたことがまったくなく、田舎にある小さな寺院に生活してしていました。和尚さんの弟子や居士達が制作した和尚のドキュメンタリー(http://edu.hwadzan.com/play/65/141)の映像を見れば分かるように、とても小さなお寺です。同じ寺院で修行している兄弟子が一人いまして、その方も何年前に浄土へ往生していて、肉身舎利(つまり全身舎利、即身仏)を残してくださいました。それも映像でみることができました。海賢和尚が我々に表法(ひょうほう、自性の性徳や仏法の義理を表し、象徴すること。または自性へ回帰すること)してくださいました。和尚さんは、112歳のご高齢になっていても、まだ人の世話にならずに、日中一食(毎日日中の時間なるまで、一回のみの食事を済ませること。これは仏教の「斎」です。それによって、身心を清浄に保ちます。日中一食することで睡眠時間も少なくてすみ、病気も少なくなり、そしてかなり多くの福運を積めると説かれています)を実践し、自分で炊事をしていました。和尚さんのその一生の生活を観察していれば、それは農民の生活でした。山奥に住んでいて、山に荒れ地が多くありましたので、その荒れ地を開墾し、田畑にして、穀物や野菜などを植えていました。一生で、(手作業で)百畝(ムー)余りの田畑を開墾していました。毎日畑で働いていました。その映像を見ると、本当にとても感動的です。

 

海賢和尚の一生は「阿弥陀仏」の仏号のみでした。仏号の他になにも知りませんでした。字も読めません。学校に通ったことがないからです。だから、経教(きょうぎょう)に触れることもまったくなく、他の法門もタッチしたことがありませんでした。出家したときから、師匠に「南無阿弥陀仏」との仏号を唱え続けなさいと教わったから、本当に、それから、人生の最後までに、忠実に師匠の教え通りに、「南無阿弥陀仏」と唱え続けていました。心はとても清浄で、妄念・雑念がありませんでした。心身共にお元気でいっらしゃいました。112歳になっても、まだ木に登り、柿を摘んでいました。ある日、山奥の和尚さんの小さなお寺に、お客さんが来てくれました。ちょうど、和尚さんが植えた柿が実っていたので、和尚さんは、自ら木に登って柿を摘み取り、カゴいっぱい詰めて、来客の皆さんをもてなしていました。その場面を、来客の一人に見かけられ、携帯電話で撮影されました。それで、今、我々にもその映像をみることができました。その健康ぶりは一目瞭然で、ほんとうに素晴らしいですね。今のこのような時代では、本当に出家して修行したければ、海賢和尚は我々の最高の模範です。(一生沢山の苦難を経験し、慈悲に忍辱し、山奥の小さなお寺で世に知られず、黙々たる、地道な農耕作業を勤勉に働きながら、まじめで、コツコツと、師匠から教わった「南無阿弥陀仏」という一つの仏号を唱え続けました。念仏することのみで「理一心不乱(明心見性し、法身位つまり発心住(ほっしんじゅう)以上の位の菩薩が証する念仏三昧)」を証していました。最後、112歳で極楽往生を果たす三日前に、字が読めんない海賢和尚さんは、なぜか、信徒たちにたまたまその山奥の寺院に持ってこられた、夏蓮居居士が会集した『仏説大乗無量寿荘厳清浄平等覚経』やその経典を懸命に講義・提唱し、多くの人々を極楽浄土へ導く浄空法師を称讃する内容の書籍の『若要仏法興 唯有僧讃僧(宏琳法師著)』を手に持って、身に袈裟を着けて、その書籍の内容を証明するように、記念撮影してくれるように弟子達に人生初めて要求しました。写真撮影をした三日後、自在に極楽浄土へ往生されました。そして、和尚さんが浄土往生後に、信徒や弟子達が制作・公開した和尚さんのドキュメンタリーによって、世界中の念仏者にその名と事績が知れ渡るようになり、『仏説大乗無量寿荘厳清浄平等覚経』と「阿弥陀仏」という仏号の不可思議さを証明・示現し、浄土宗修行者の素晴らしい模範となっているので)その最後の出来事(つまり、『若要仏法興 唯有僧讃僧』との書物との記念撮影や自在に極楽往生後の和尚様念仏修行事績のドキュメンタリーの公開)により、大きな反響を呼び起こし、多くの人を念仏することに導き、済度していました。今まで、多くの念仏者は、極楽往生に対して、心のなかに、依然として、疑いや不安がありましたが、海賢和尚の映像のその様子を見ると、疑いを断じることができました。ですので、名号の功徳は本当に不可思議です。海賢和尚はそのことを証明してくださいました。

 

 

☆「持名することは、つまり、始覚と本覚が合わさって一体になることです」、我々が念仏し始めることは「始覚」です。その「始覚」と「本覚」は「一」であって、不二です。だから、「始覚と本覚は元々同じ一つの覚(自性、仏性)であって、衆生の自性と仏の自性は不二である」のです。仏で本覚を代表していて、衆生で始覚を代表しています。我々は、今日から覚り始め、その覚りつまり覚悟は、本覚とは「一」であって、不二です。つまり、『観無量寿経』に説かれている経文の『是心是仏、是心作仏(ぜしんぜぶつ、ぜしんさぶつ。大意:本覚は本来にあって、つまり、本来成仏です。今は始覚し、仏を念じ続けると、本覚の「心」と始覚の「境」が一つになり、念じられる心と念じる仏が不二になって、一心不乱になり、是は仏になり)』のことです。この心は仏であって、本覚です。この心が仏をなすときは始覚です。だから、「一念相応一念仏、念々相応念々仏」です。海賢和尚は、まさに、その通りです。和尚さんの一生は、仏号一つで、すべての時、すべての場所、声を出して唱えるなり、声出さずに心のなかで念じるなり、心のなかに、ずっとその「阿弥陀仏」の仏号だけで、仏号以外の念はありませんでした。和尚さんはそのように我々に「表法」してくださいました。我々に「仏法を学び、この一生で、本当に成就したいであれば、一部の『仏説大乗無量寿荘厳清浄平等覚経』の経典の教えで、「南無阿弥陀仏」の仏号の一つで、十分です」と伝えていました。我々はまた今のように、一部の経典を付け加えていましたが、和尚さんは経典も読誦せずに、阿弥陀仏の仏号のみで、成功していました。ですので、本当に深く信じるべきです。それは「念々相応念々仏」です。


※劉素青居士の極楽往生

劉素青居士























※一心不乱を証した大徳居士劉素雲様・念仏者の模範劉素雲  

劉素雲
































 

※海賢和尚と『若要仏法興 唯有僧讃僧』
海賢和尚と「若要仏法興唯有僧讃僧」」 001

























※112歳で、樹に登り柿を摘み、客におもてなしする海賢和尚
海賢和尚柿を摘む