20170529-2




1: 名無し募集中。。。@\(^o^)/ 2017/05/28(日) 16:34:56.23 0
最後の方には悪い坊主が沢山はびこって
百姓を苦しめたらしいが




2: 名無し募集中。。。@\(^o^)/ 2017/05/28(日) 16:37:21.57 0
蓮如がいたころは理想に燃えてたはず




3: 名無し募集中。。。@\(^o^)/ 2017/05/28(日) 16:38:01.08 0
富樫氏が悪政だったからできた

富樫 政親(とがし まさちか)は、室町時代後期の武将・守護大名。富樫氏21代当主。加賀国守護。

長禄2年(1458年)、加賀北半国守護に任じられた赤松政則から加賀北部を取り戻すため、家臣団に擁されて奪回に尽力した。応仁元年(1467年)、応仁の乱が勃発すると細川勝元方の東軍に与した。ところが、弟・幸千代が山名宗全方である西軍に与して敵対したため、政親は家督をめぐって弟と争う羽目となり、文明5年(1473年)に真宗高田派や甲斐敏光と結んだ幸千代に敗れて加賀を追われた。しかし本願寺などの援助・加賀国内における武士団の支持を得て、幸千代を加賀から追い出し再び当主の座に就いた。
しかし、この奪回において本願寺門徒の力を知った政親が次第に本願寺とそれに繋がる国人を統率しようと企てたため、本願寺と国人が互いに結びつく。政親は9代将軍・足利義尚による鈎の陣(六角高頼討伐)に従軍していたが、急遽帰国。しかし長享2年(1488年)、石川郡高尾城を攻められ、これを抑えられずに自害した(加賀一向一揆)。

家督は大叔父・泰高が継いだが、加賀の実質的な支配権を握ることはできなかった。以後、天正8年(1580年)に織田信長に敗れるまでの90年間、加賀は百姓の持ちたる国と呼ばれる状況となった。
https://ja.wikipedia.org/wiki/富樫政親




4: 名無し募集中。。。@\(^o^)/ 2017/05/28(日) 16:39:11.09 0
結局富樫氏が弱かっただけで
能登の畠山氏や越前の朝倉氏の領土まで攻めきれなかったのが敗因




5: 名無し募集中。。。@\(^o^)/ 2017/05/28(日) 16:39:45.38 0
山城国はともかく加賀のは百姓のもたざる国と言わないのでは
つうかこれ現在でも黒歴史にされてるよね




6: 名無し募集中。。。@\(^o^)/ 2017/05/28(日) 16:40:25.15 0
すまん持ちたる国な




8: 名無し募集中。。。@\(^o^)/ 2017/05/28(日) 16:41:30.87 0
>>5
加賀百万石時代が散々宣伝されてるのに
百姓の持ちたる国は完全黒歴史になってるよななぜか




14: 名無し募集中。。。@\(^o^)/ 2017/05/28(日) 16:50:10.57 0
>>8
悪政だから




7: 名無し募集中。。。@\(^o^)/ 2017/05/28(日) 16:40:49.10 0
加賀は未開の地の土人だった




9: 名無し募集中。。。@\(^o^)/ 2017/05/28(日) 16:42:41.57 0
源義経を東北に逃がしてしまった富樫氏




10: 名無し募集中。。。@\(^o^)/ 2017/05/28(日) 16:43:49.95 0
共産主義国家を想起させるから黒歴史なのかな




11: 名無し募集中。。。@\(^o^)/ 2017/05/28(日) 16:47:07.73 0
幕府の都合で本願寺とか国人衆の支配を見て見ぬふりしただけだから
百姓は被支配者でしかない




19: 名無し募集中。。。@\(^o^)/ 2017/05/28(日) 16:53:24.24 0
>>11
幕府の都合というか
幕府の軍事力が地に落ちてたんだろこの頃は




12: 名無し募集中。。。@\(^o^)/ 2017/05/28(日) 16:47:47.38 0
とくに天皇や将軍を否定したもんでもないんでしょ




15: 名無し募集中。。。@\(^o^)/ 2017/05/28(日) 16:50:40.01 0
一向宗は江戸時代も明治になっても弾圧された
戦後になってもかつての勢いは決して戻らない




20: 名無し募集中。。。@\(^o^)/ 2017/05/28(日) 16:55:02.62 0
>>15
死んでから浄土に行けても意味ないもんな
日蓮上人みたいな現世御利益をとなえなきゃ




16: 名無し募集中。。。@\(^o^)/ 2017/05/28(日) 16:51:09.16 0
週末の宗教スレ?




17: 名無し募集中。。。@\(^o^)/ 2017/05/28(日) 16:51:32.31 0
結局坊主が武士に変わって支配しただけ




18: 名無し募集中。。。@\(^o^)/ 2017/05/28(日) 16:52:27.81 0
武士領主にかわって本願寺の坊主が百姓を搾取しただけ




21: 名無し募集中。。。@\(^o^)/ 2017/05/28(日) 16:58:46.39 0
上杉謙信と織田信長を同時に敵にまわしたら滅亡するしかないだろ




25: 名無し募集中。。。@\(^o^)/ 2017/05/28(日) 17:03:01.93 0
国人衆だから実質武士だよ




26: 名無し募集中。。。@\(^o^)/ 2017/05/28(日) 17:04:58.15 0
>>25
浄土真宗を受け入れた国人武士もいたんだろうな
杉浦氏は有名かな




22: 名無し募集中。。。@\(^o^)/ 2017/05/28(日) 17:00:10.53 0
もう日本にはこういう宗教王国は二度と生まれないのかなあ




27: 名無し募集中。。。@\(^o^)/ 2017/05/28(日) 17:10:52.33 0
>>22
局地的にはないわけじゃないけどな




28: 名無し募集中。。。@\(^o^)/ 2017/05/28(日) 17:12:36.84 0
>>27
天理教とか金光教とかかな




23: 名無し募集中。。。@\(^o^)/ 2017/05/28(日) 17:01:25.51 0
公明党と創価学会はいいところまで来たんだけどな




24: 名無し募集中。。。@\(^o^)/ 2017/05/28(日) 17:01:31.85 0
中国では端午節(今年5月30日 28~30日の3日間)は祝日・・・何教なのだろう
最澄 天台宗 比叡山 延暦寺 地上デジタルテレビジョン放送送信設備
空海 真言宗 高野山 金剛峰寺 弘法大師 四国お遍路
法然 浄土宗 「南無阿弥陀仏」の念仏
親鸞 浄土真宗 「本願を信じ念仏申さば仏になる」という歎異抄 
道元 曹洞宗 座禅している姿そのものが仏であり、修行の中に悟りがある 「正法眼蔵」
栄斉 臨済宗 中国禅宗五家(臨済、イ仰、曹洞、雲門、法眼)の1つ 鎌倉五山
一遍 時宗 浄土教 阿弥陀仏への信・不信は問わず、念仏さえ唱えれば往生できる
南都六宗(法相宗、三論宗、倶舎宗、成実宗、華厳宗、律宗)は古いので別枠
創価やオウム真理教や家庭連合(旧統一協会)は調べてもよくわからない特別枠




29: 名無し募集中。。。@\(^o^)/ 2017/05/28(日) 17:20:18.51 0
日本国に独立を宣言して主権国家を立ち上げる
という意味ならオウム以降ないね
法人としてコミュニティを形成するなら
ちらほらある




31: 名無し募集中。。。@\(^o^)/ 2017/05/28(日) 17:31:44.61 0
ただの無政府状態だろ




32: 名無し募集中。。。@\(^o^)/ 2017/05/28(日) 17:32:48.74 O
石川県でも全然語られない。

金沢は前田利家入城以降の歴史のみ。

加賀市の場合関ヶ原で前田軍に破れた西軍の山口玄蕃への判官贔屓があるが。




34: 名無し募集中。。。@\(^o^)/ 2017/05/28(日) 18:02:44.11 0
北陸人も元は近畿から流れついた一向宗門徒の子孫だからな




35: 名無し募集中。。。@\(^o^)/ 2017/05/28(日) 19:05:03.84 0
能登独立国構想は無いの?




36: 名無し募集中。。。@\(^o^)/ 2017/05/28(日) 19:19:21.53 0
加賀なんて元々越前の一部だったからね
能登より遅れた地域だった



加賀一向一揆(かがのいっこういっき)とは、長享2年(1488年)頃から天正8年(1580年)にかけて、加賀の本願寺門徒らが中心となった信徒による一揆。

蓮如は文明6年(1474年)から文明7年(1475年)までの間、吉崎御坊(福井県あわら市)に滞在した。蓮如は親鸞以来の血脈相承を根拠として、北陸の浄土系諸門を次々と統合していった。文明5年(1473年)には富樫政親の要請を受けて守護家の内紛に介入し、翌年には富樫幸千代を倒した。蓮如はこれによって守護の保護を受ける事を期待していたが、逆に政親は本願寺門徒の勢いに不安を感じて文明7年に門徒の弾圧を開始、蓮如は吉崎御坊を退去し、加賀の門徒は政親に追われて越中に逃れた。

ところが、今度は越中砺波郡の石黒光義が政親と結んで門徒弾圧に出たところ、文明13年(1481年)に越中で一揆が発生し、光義が討ち取られる(越中一向一揆)。また、政親は加賀の一国支配の認知を目指して9代将軍足利義尚による六角高頼遠征(鈎の陣)に従軍したが、それに伴う戦費の拡大により、国人層が反発して越中から帰還した門徒とともに決起する。長享2年(1488年)には、代わりに富樫泰高を守護に擁立して、政親を高尾城に滅ぼした(長享の一揆)。足利義尚は一向一揆の討伐を検討したが、細川政元の反対と義尚の死により一向一揆討伐と六角高頼遠征は中止となった。以後、加賀に宗主代理の一門衆(松岡寺住持蓮綱・光教寺住持蓮誓・本泉寺住持蓮悟)が在住し、次第に国人層から本願寺による加賀支配に移行していった。

ところが、永正3年(1506年)に一向一揆を抑圧する周辺諸国への進撃を行って失敗(九頭竜川の戦い・般若野の戦い)した頃から、一門衆による統治に動揺を来たし始める。続いて本願寺中央が一門衆を抑圧しようとした事から、享禄4年(1531年)には大小一揆と呼ばれる内紛に発展して多くの一門衆やこれに従った国人衆が粛清された。天文15年(1546年)に尾山御坊(金沢御堂)が建設され、それを拠点として北陸全体に一向一揆を拡大させた。弘治元年(1555年)、永禄7年(1564年)に朝倉氏と、1570年代前半は上杉謙信と、その後は織田信長と対立した。元亀3年(1572年)は杉浦玄任を総大将とする一揆勢が上杉軍と数ヶ月に渡って激突、各地で上杉軍を破るなど猛威を振るった。しかし謙信率いる上杉本隊が到着するに至り戦況が悪化し、尻垂坂の戦いで大敗を喫し、一揆の勢いに陰りが見え始める。

石山本願寺の降伏、尾山御坊の陥落により一揆は解体された。尾山御坊を攻略したのは佐久間盛政だった(一揆を沈静化させたのは前田利家だった、と言う説がある)。
https://ja.wikipedia.org/wiki/加賀一向一揆