20171206-16




507: 名無しさん@おーぷん 2017/12/05(火)20:30:14 ID:CUH
そろそろ開始するか
今日は孫策伝、周瑜伝をやっていくで

正史三国志・「公孫瓚伝」「袁紹伝」の全文(意)訳と解説をするで
http://blog.livedoor.jp/foufif/archives/52564821.html

正史三国志・張遼伝の全文(意)訳と解説をするで
http://blog.livedoor.jp/foufif/archives/52559432.html

正史三国志・夏侯惇伝の全文(意)訳と解説をするで
http://blog.livedoor.jp/foufif/archives/52559165.html



508: 名無しさん@おーぷん 2017/12/05(火)20:30:25 ID:CUH
策、字伯符。堅初興義兵、策將母徙居舒。與周瑜相友、收合士大夫、江淮間人咸向之。

孫策は、字を伯符という。孫堅が義兵を起こした当初、孫策將は母を連れて舒に移り住んだ。周瑜と友となり、士大夫を集めると、江淮の間の人は皆心を向けた。



511: 名無しさん@おーぷん 2017/12/05(火)20:31:26 ID:CUH
堅薨、還葬曲阿。已乃渡江、居江都。

孫堅が死ぬと、曲阿に帰って埋葬した。長江を渡り、江都に住んだ。



514: 名無しさん@おーぷん 2017/12/05(火)20:32:50 ID:CUH
徐州牧陶謙、深忌策。策舅吳景、時爲丹楊太守。策、乃載母徙曲阿、與呂範孫河、俱就景。因緣、召募得數百人。

徐州牧陶謙は、孫策を深く忌んでいた。孫策の母方のおじの呉景は、この時丹楊太守であった。孫策は、かくして母を車に乗せて曲阿に移り、呂範、孫河と、共に呉景に仕えた。縁故を頼り、募兵して数百人を得た。



515: 名無しさん@おーぷん 2017/12/05(火)20:33:47 ID:CUH
興平元年、從袁術。術、甚奇之、以堅部曲還策。

興平元年(194年)、袁術に従った。袁術は、これを甚だ素晴らしいと思い、孫堅の部隊を孫策に返した。



516: 名無しさん@おーぷん 2017/12/05(火)20:34:39 ID:pMD
呉景は孫呉初期の屋台骨の一人



518: 名無しさん@おーぷん 2017/12/05(火)20:35:58 ID:CUH
>>516
重鎮なんだろうけどぱっとしないのは蜀や魏にからんでないからかね?



520: 名無しさん@おーぷん 2017/12/05(火)20:37:01 ID:pMD
>>518
呉景は自分から歴史の部隊から退場したんだと



522: 名無しさん@おーぷん 2017/12/05(火)20:37:50 ID:CUH
>>520
そうなんか
知らんかったわ



517: 名無しさん@おーぷん 2017/12/05(火)20:34:49 ID:CUH
太傅馬日磾、杖節、安集關東。在壽春、以禮辟策、表拜懷義校尉。

太傅馬日磾は、節を持ち、関東を巡察した。寿春にいて、礼をもって孫策を招き、上表して懐義校尉とした。



519: 名無しさん@おーぷん 2017/12/05(火)20:36:07 ID:CUH
術大將喬蕤、張勳、皆傾心敬焉。術、常歎曰「使術有子如孫郎、死復何恨」

袁術の大将喬蕤、張勲は、皆心を傾け敬った。袁術は、常に嘆いて言った「術に孫郎(孫策)のような子がおれば、死んでもまた何を恨もうか」



524: 名無しさん@おーぷん 2017/12/05(火)20:38:25 ID:pMD
>>519
ここの袁術は蜜柑の陸のときとの同じ目師てる



527: 名無しさん@おーぷん 2017/12/05(火)20:39:48 ID:CUH
>>524
たまに見せるぐう聖袁術やな
しかもあの逸話袁術じゃなくて陸績の方が褒められるという謎



521: 名無しさん@おーぷん 2017/12/05(火)20:37:07 ID:CUH
策騎士、有罪、逃入術營、隱於內廄。策、指使人就斬之。

孫策の騎兵は、罪があり、袁術の営に逃れ、奥の厩に隠れた。孫策は、人に指示してこれを斬らせた。



523: 名無しさん@おーぷん 2017/12/05(火)20:38:03 ID:CUH
訖、詣術謝、術曰「兵人好叛、當共疾之。何爲謝也」由是、軍中益畏憚之。

終え、袁術の元に行き謝ると、袁術は言った「兵とはよく背き、(我らが)共に忌むものだ。どうして謝ることがあろうか」これにより、軍中はますます彼を恐れ憚った。



525: 名無しさん@おーぷん 2017/12/05(火)20:39:05 ID:CUH
術、初許策爲九江太守。已而、更用丹楊陳紀。

袁術は、当初孫策に九江太守を約束していた。その後、改めて丹楊の陳紀を用いた。



526: 名無しさん@おーぷん 2017/12/05(火)20:39:47 ID:pMD
陳紀って陳登の系列かね?



530: 名無しさん@おーぷん 2017/12/05(火)20:41:33 ID:CUH
>>526
そんな記載はなかった気がする
後で調べてみるわ



533: 名無しさん@おーぷん 2017/12/05(火)20:42:29 ID:pMD
>>530
サンガツやで



528: 名無しさん@おーぷん 2017/12/05(火)20:40:12 ID:CUH
後、術欲攻徐州、從廬江太守陸康、求米三萬斛。康不與、術大怒。策、昔曾詣康、康不見、使主簿接之。策嘗銜恨。

後に、袁術は徐州を攻めようとし、廬江太守陸康から、米三万斛を求めた。陸康は与えず、袁術は大いに怒った。孫策は、昔陸康の元に行くと、陸康は会わず、主簿に応接させた。孫策は恨みを抱いた。



529: 名無しさん@おーぷん 2017/12/05(火)20:40:53 ID:pMD
>>528
あぁ、これが後々弟にしこりを残すんやな……



534: 名無しさん@おーぷん 2017/12/05(火)20:42:56 ID:CUH
>>529
孫権は陸氏との関係かなり気を使って一族を嫁がせてるほどやからな



531: 名無しさん@おーぷん 2017/12/05(火)20:41:43 ID:CUH
術、遣策攻康、謂曰「前錯用陳紀、每恨本意不遂。今、若得康、廬江真卿有也」

袁術は、孫策を遣わし陸康を攻めさせ、言った「以前は間違って陳紀を用いたが、本意が遂げられないことを常に恨んでいた。今、もし陸康を取れれば、廬江は真に卿のものだ」



535: 名無しさん@おーぷん 2017/12/05(火)20:43:03 ID:CUH
策攻康、拔之、術復用其故吏劉勳爲太守、策益失望。

孫策は陸康を攻め、これを抜いたが、袁術はまた故吏の劉勲を太守に用いたので、孫策はますます失望した。



536: 名無しさん@おーぷん 2017/12/05(火)20:43:57 ID:CUH
先是、劉繇爲揚州刺史。州舊治、壽春。壽春術已據之、繇乃渡江、治曲阿。

これより先に、劉繇は揚州刺史となっていた。州の元の役所は、寿春にあった。寿春は袁術がすでに選挙していたので、劉繇はかくして長江を渡り、曲阿に役所を置いた。



539: 名無しさん@おーぷん 2017/12/05(火)20:45:18 ID:CUH
時、吳景尚在丹楊。策從兄賁、又爲丹楊都尉。繇至、皆迫逐之。景賁、退舍歷陽。

この時、呉景はなおも丹楊にいた。孫策の従兄孫賁も、また丹楊都尉であった。劉繇は到ると、皆追放した。呉景、孫賁は、歴陽に退いた。



540: 名無しさん@おーぷん 2017/12/05(火)20:45:49 ID:pMD
孫賁の保護者感すこ



541: 名無しさん@おーぷん 2017/12/05(火)20:46:11 ID:CUH
繇、遣樊能于麋陳橫屯江津、張英屯當利口、以距術。

劉繇は、樊能、于麋、陳横を遣わし江津に駐屯させ、張英を当利口に駐屯させ、袁術を拒ませた。



543: 名無しさん@おーぷん 2017/12/05(火)20:47:15 ID:CUH
術、自用故吏琅邪惠衢、爲揚州刺史、更以景爲督軍中郎將、與賁、共將兵擊英等、連年不克。

袁術は、自ら故吏の琅邪の恵衢を用い、揚州刺史とし、改めて呉景を督軍中郎将とし、孫賁と、共に兵を率いさせ張英らを攻撃させたが、連年勝てなかった。



544: 名無しさん@おーぷん 2017/12/05(火)20:47:37 ID:Tbj
袁術ってどこから間違えたんやろ



547: 名無しさん@おーぷん 2017/12/05(火)20:49:29 ID:CUH
>>544
最初からな気がする
南陽の時点でやべーやつだったらしいし



550: 名無しさん@おーぷん 2017/12/05(火)20:50:27 ID:pMD
>>547
孫策出てくるまでいい線行ってた。加えて袁術敵多いから



552: 名無しさん@おーぷん 2017/12/05(火)20:51:29 ID:CUH
>>550
確かに袁術が先に滅びる可能性もあるな



549: 名無しさん@おーぷん 2017/12/05(火)20:50:26 ID:Tuj
>>544
孫策の扱い間違えたところだと思われる



545: 名無しさん@おーぷん 2017/12/05(火)20:47:42 ID:pMD
劉繇は孫策相手やなかったら活躍してた



547: 名無しさん@おーぷん 2017/12/05(火)20:49:29 ID:CUH
>>545
そうかな?
結局孫策がいなくても袁術にやられそう



546: 名無しさん@おーぷん 2017/12/05(火)20:48:23 ID:CUH
策乃說術、乞助景等平定江東。術、表策爲折衝校尉、行殄寇將軍、兵財千餘、騎數十匹、賓客願從者數百人。比至歷陽、衆五六千。

孫策はかくして袁術を説得し、呉景らを助け江東を平定することを望んだ。袁術は、上表して孫策を折衝校尉、行殄寇将軍としたが、兵はわずか千余、騎馬は数十匹で、賓客で従軍を願った者は数百人であった。歴陽に到るころには、衆は五、六千であった。



548: 名無しさん@おーぷん 2017/12/05(火)20:49:45 ID:CUH
策母、先自曲阿徙於歷陽。策、又徙母阜陵、渡江、轉鬭、所向皆破、莫敢當其鋒。而軍令整肅、百姓懷之。

孫策の母は、先に曲阿から歴陽に移された。孫策は、また母を阜陵に移し、長江を渡り、転戦し、向かう所で皆破り、敢えてその鋒先に当たる者はなかった。軍令は厳粛で、百姓は彼に懐いた。



551: 名無しさん@おーぷん 2017/12/05(火)20:50:56 ID:CUH
策爲人、美姿顏、好笑語、性闊達、聽受、善於用人。是以、士民見者、莫不盡心、樂爲致死。

孫策の人となりは、美しい容姿で、笑い話を好み、性は闊達で、(人の意見を)聞き入れ、よく人を用いた。そのため、士民で会った者で、心を尽くさぬ人はおらず、(彼の)ために死ぬのを喜んだ。



553: 名無しさん@おーぷん 2017/12/05(火)20:51:55 ID:CUH
劉繇、棄軍遁逃、諸郡守皆捐城郭奔走。吳人嚴白虎等、衆各萬餘人、處處屯聚。

劉繇は、軍を棄てて遁走し、諸郡守は皆城郭を棄てて逃げた。呉人厳白虎らは、衆が各々一万余人おり、所々に駐屯していた。



554: 名無しさん@おーぷん 2017/12/05(火)20:52:54 ID:pMD
>>553
徳王キター!



556: 名無しさん@おーぷん 2017/12/05(火)20:53:43 ID:CUH
>>554
恵まれたあだ名から糞みたいな最後
なお孫策



555: 名無しさん@おーぷん 2017/12/05(火)20:53:00 ID:CUH
吳景等、欲先擊破虎等乃至會稽。策曰「虎等羣盜、非有大志。此成禽耳」遂引兵渡浙江、據會稽、屠東冶、乃攻破虎等。

呉景らは、先に厳白虎らを撃破し会稽に行こうとした。孫策は言った「厳白虎らは群盗で、大志はありません。捕らえられるだけの人物です」遂に兵を引き連れて浙江を渡り、会稽に拠り、東冶を屠り、かくして厳白虎らを攻め破った。



557: 名無しさん@おーぷん 2017/12/05(火)20:54:06 ID:CUH
盡更置長吏、策自領會稽太守、復以吳景爲丹楊太守、以孫賁爲豫章太守。

長吏を全て改めて置き、孫策は自ら会稽太守となり、また呉景を丹楊太守とし、孫賁を豫章太守とした。



558: 名無しさん@おーぷん 2017/12/05(火)20:55:01 ID:CUH
分豫章、爲廬陵郡、以賁弟輔爲廬陵太守。丹楊朱治爲吳郡太守。彭城張昭、廣陵張紘、秦松、陳端等、爲謀主。

豫章を分け、廬陵郡とし、孫賁の弟孫輔を廬陵太守とした。丹楊の朱治を呉郡太守とした。彭城の張昭、広陵の張紘、秦松、陳端らが、参謀となった。



559: 名無しさん@おーぷん 2017/12/05(火)20:56:02 ID:CUH
時、袁術僭號。策以書責而絕之。曹公、表策爲討逆將軍、封爲吳侯。

この時、袁術が帝号を僭称した。孫策は書で責めて絶交した。曹公(曹操)は、上表して孫策を討逆将軍とし、呉侯に封じた。



563: 名無しさん@おーぷん 2017/12/05(火)20:57:00 ID:CUH
後術死、長史楊弘、大將張勳等、將其衆欲就策。

後に袁術は死に、長史楊弘、大将張勲らは、衆を率いて孫策に仕えようとした。



564: 名無しさん@おーぷん 2017/12/05(火)20:58:08 ID:HH9
>>563
この二人かわいそうだよなあ



567: 名無しさん@おーぷん 2017/12/05(火)20:59:52 ID:CUH
>>564
袁術に従った奴って大抵いい終わりしてない印象
厳密に調べたわけではないけど



566: 名無しさん@おーぷん 2017/12/05(火)20:58:46 ID:CUH
廬江太守劉勳、要擊、悉虜之、收其珍寶以歸。策聞之、偽與勳好盟。勳、新得術衆。

廬江太守劉勲は、待ち伏せて攻め、ことごとくを捕らえ、珍品を得て帰った。孫策はこれを聞くと、偽って劉勲と盟を結んだ。劉勲は、新たに袁術の衆を得た。



568: 名無しさん@おーぷん 2017/12/05(火)21:00:11 ID:CUH
時、豫章上繚宗民萬餘家在江東、策勸勳攻取之。勳既行、策輕軍晨夜襲拔廬江。勳衆盡降、勳獨與麾下數百人、自歸曹公。

この時、豫章の上繚の宗教に属す民一万余家が江東におり、孫策は劉勲にこれを攻め取るよう勧めた。劉勲が行くと、孫策は軽装兵で昼夜兼行して廬江を襲い抜いた。劉勲の衆は尽く降伏し、劉勲は独り麾下数百人と、曹公に帰順した。



570: 名無しさん@おーぷん 2017/12/05(火)21:01:37 ID:HH9
>>568
さすが孫策外道



578: 名無しさん@おーぷん 2017/12/05(火)21:05:14 ID:CUH
>>570
わりと孫策もやべーやつ
孫権のがやべーけど



571: 名無しさん@おーぷん 2017/12/05(火)21:01:47 ID:Tuj
孫策お得意の電撃戦やな



578: 名無しさん@おーぷん 2017/12/05(火)21:05:14 ID:CUH
>>571
孫策の演義での速攻ってここらへんが元ネタになってるんかもね



573: 名無しさん@おーぷん 2017/12/05(火)21:02:17 ID:CUH
乃以弟女、配策小弟匡。又、爲子章、取賁女。皆禮辟策弟權、翊。又命揚州刺史嚴象、舉權茂才。

かくして弟の娘を、孫策の小弟孫匡に配偶させた。また、子の曹章のために、孫賁の娘を娶った。孫策の弟孫権、孫翊を皆礼もて招いた。また揚州刺史厳象に命じ、孫権を茂才に推挙させた。



574: 名無しさん@おーぷん 2017/12/05(火)21:03:21 ID:CUH
建安五年、曹公與袁紹相拒於官渡、策陰欲襲許、迎漢帝。密治兵、部署諸將。未發、會爲故?郡太守許貢客、所殺。

建安五年(200年)、曹公が袁紹と官渡で対峙し、孫策は密かに許を襲い、漢帝を迎えようとした。密かに兵を準備し、諸将を任命した。進発せぬうちに、たまたま故呉郡太守許貢の客に、殺された。



577: 名無しさん@おーぷん 2017/12/05(火)21:04:11 ID:CUH
先是、策殺貢。貢小子、與客、亡匿江邊。策、單騎出、卒與客遇、客擊傷策。

これより先に、孫策は許貢を殺した。許貢の末子は、客と、逃亡して長江の岸辺に隠れた。孫策が、単騎で出で、にわかに客に遭遇し、客は孫策を攻撃して負傷させた。



581: 名無しさん@おーぷん 2017/12/05(火)21:06:39 ID:Tuj
>>577
親子揃って似たような末路っていうのは…



585: 名無しさん@おーぷん 2017/12/05(火)21:08:36 ID:CUH
>>581
共に軽率すぎる
孫氏の特徴かね



590: 名無しさん@おーぷん 2017/12/05(火)21:09:58 ID:Tuj
>>585
でもその二人だけはやっぱり軍事的才能はずば抜けてたんかな



594: 名無しさん@おーぷん 2017/12/05(火)21:12:38 ID:CUH
>>590
才能はかなりすごいものがあると思う
人格と比例しないだけで



602: 名無しさん@おーぷん 2017/12/05(火)21:15:33 ID:Tuj
>>594
確かに
でも周瑜とか張昭とかの名士がついてくるんだから魅力があったんだと思う



612: 名無しさん@おーぷん 2017/12/05(火)21:17:56 ID:CUH
>>602
まあ並みの人物なら皇帝になんかなれんからな
ワイが単純に嫌いってだけで



579: 名無しさん@おーぷん 2017/12/05(火)21:05:23 ID:CUH
創甚、請張昭等、謂曰「中國方亂。夫、以吳越之衆三江之固、足以觀成敗。公等、善相吾弟」

傷は甚だしく、張昭らを呼んで、言った「中国はまさに乱れている。そもそも、呉越の衆、三江の固は、成功と失敗を傍観するに足る。公らは、よく我が弟を輔佐してくれ」



583: 名無しさん@おーぷん 2017/12/05(火)21:07:03 ID:CUH
呼權、佩以印綬、謂曰「舉江東之衆、決機於兩陳之間、與天下爭衡、卿不如我。

孫権を呼び、印綬を帯びさせ、言った「江東の衆を挙げ、両陣の間に機を決し、天下を争う事については、卿は私に及ばない。



586: 名無しさん@おーぷん 2017/12/05(火)21:08:47 ID:CUH
舉賢任能、各盡其心、以保江東、我不知卿」至夜卒、時年二十六。

賢人を推挙し有能に任せ、各々に心を尽くさせ、江東を保つことは、私は卿に及ばない」夜になると亡くなり、この時年は二十六であった。



588: 名無しさん@おーぷん 2017/12/05(火)21:09:39 ID:CUH
權、稱尊號、追諡策曰長沙桓王、封子紹爲吳侯、後改封上虞侯。

孫権が、皇帝を称すと、孫策を長沙桓王と追諡し、子の孫紹を呉侯に封じ、後に上虞侯に改封した。



591: 名無しさん@おーぷん 2017/12/05(火)21:10:33 ID:HH9
>>588
帝号を送らない感じがいい

呉の性質がよくわかる



594: 名無しさん@おーぷん 2017/12/05(火)21:12:38 ID:CUH
>>591
陳寿には非難されるしワイもこれで孫権嫌い



597: 名無しさん@おーぷん 2017/12/05(火)21:13:40 ID:HH9
>>594
いやいや、孫権はアッニが四姓の一つの陸康ブッコロしたから気使ったんやで



601: 名無しさん@おーぷん 2017/12/05(火)21:15:11 ID:CUH
>>597
おお!それは納得や
陸氏にとっては面白くないからな



593: 名無しさん@おーぷん 2017/12/05(火)21:11:08 ID:CUH
紹卒、子奉嗣。孫晧時、訛言、謂奉當立。誅死。

孫紹が亡くなると、子の孫奉が後を継いだ。孫晧の時、流言があり、孫奉が皇帝に立とうとしていると言われた。誅殺された。



596: 名無しさん@おーぷん 2017/12/05(火)21:12:49 ID:CUH
評曰。策、英氣傑濟、猛銳冠世、覽奇取異、志陵中夏。然、皆輕佻果躁、隕身致敗。

評に曰く。孫策は、英雄の気概と実行力があり、勇猛さは世の筆頭で、奇才を見抜き異才を取り立て、志は中華を凌いだ。しかれども、皆(孫堅と孫策)軽佻かつ短気で、身を滅ぼし敗れるに至った。



600: 名無しさん@おーぷん 2017/12/05(火)21:14:19 ID:CUH
且、割據江東、策之基兆也。而權尊崇未至、子止侯爵。於義儉矣。

また、江東の割拠は、孫策が基盤を作った。孫権の尊敬は足らず、子は侯爵で終わった。義に欠けていると言える。



603: 名無しさん@おーぷん 2017/12/05(火)21:15:47 ID:CUH
孫策伝はこれで終わりや
続けて周瑜伝いくで

20171206-17



607: 名無しさん@おーぷん 2017/12/05(火)21:16:36 ID:CUH
周瑜、字公瑾、廬江舒人也。從祖父景、景子忠、皆爲漢太尉。父異、洛陽令。

周瑜は、字を公瑾といい、廬江郡舒県の人である。祖父周景、周景の子周忠は、皆漢の太尉であった。父周異は、洛陽の令であった。



614: 名無しさん@おーぷん 2017/12/05(火)21:18:08 ID:CUH
瑜、長壯有姿貌。初、孫堅興義兵討董卓、徙家於舒。堅子策、與瑜同年、獨相友善。

瑜、成年になると容貌が立派になった。当初、孫堅は義兵を起こして董卓を討伐すると、家を舒に移した。孫堅の子孫策は、周瑜と同い年で、特に親友となった。



617: 名無しさん@おーぷん 2017/12/05(火)21:19:11 ID:CUH
瑜、推道南大宅、以舍策、升堂拜母、有無通共。

周瑜は、道の南の大邸宅を渡し、孫策の宿舎とし、堂に上って(孫策の)母に拝礼し、無い物は融通して共有した。



621: 名無しさん@おーぷん 2017/12/05(火)21:20:24 ID:CUH
瑜從父尚、爲丹楊太守、瑜往省之。會策將東渡、到歷陽、馳書報瑜。瑜、將兵迎策。策大喜曰「吾得卿、諧也」

周瑜の従父周尚が、丹楊太守となると、周瑜は訪ねに行った。折しも孫策は東に渡ろうとしており、歴陽に到ると、書を馳せて周瑜に報せた。周瑜は、兵を率いて孫策を迎えた。孫策は大いに喜んで言った「私は卿を得たので、上手くいこう」



626: 名無しさん@おーぷん 2017/12/05(火)21:21:46 ID:CUH
遂、從攻橫江當利、皆拔之。乃渡擊秣陵、破笮融、薛禮。轉下湖孰、江乘、進入曲阿。劉繇、奔走。而策之衆已數萬矣。

かくして、横江、当利を攻めるのに従い、皆これを抜いた。かくして秣陵に渡って攻撃し、笮融、薛礼を破った。湖孰、江乗まで転じて下り、曲阿に進入した。劉繇は、逃走した。孫策の衆はすでに数万となっていた。



629: 名無しさん@おーぷん 2017/12/05(火)21:23:17 ID:CUH
因謂瑜曰「吾以此衆、取吳會、平山越已足。卿、還鎭丹楊」瑜還。

このため周瑜に言った「私はこの衆がいれば、呉会を取り、山越を平定するには十分だ。卿は、丹楊に帰って鎮めてくれ」周瑜は帰った。



635: 名無しさん@おーぷん 2017/12/05(火)21:24:28 ID:CUH
頃之、袁術遣、從弟胤、代尚爲太守。而瑜與尚俱還壽春。

この頃、袁術は、従弟袁胤を遣わし、周尚と交代させて太守とした。周瑜と周尚は共に寿春に帰った。



636: 名無しさん@おーぷん 2017/12/05(火)21:25:11 ID:oRI
袁術さんや
嫡出子やし、きっとこれからの袁家を引っ張っていくんやろなぁ



641: 名無しさん@おーぷん 2017/12/05(火)21:26:36 ID:HH9
>>636
なお袁術旗下には一人も名士はいない模様



646: 名無しさん@おーぷん 2017/12/05(火)21:27:36 ID:Tuj
>>641
袁術嫌われすぎ



638: 名無しさん@おーぷん 2017/12/05(火)21:25:34 ID:CUH
術欲以瑜爲將、瑜觀術終無所成、故求爲居巢長、欲假塗東歸。術聽之。遂自居巢、還吳。是歲、建安三年也。

袁術は周瑜を将にしようとしたが、周瑜は袁術が終いには何も成せないと見て、故に居巣の長になることを求め、その道から東に帰ろうとした。袁術はこれを聞き入れた。遂に居巣から、呉に帰った。この年は、建安三年(198年)であった。



640: 名無しさん@おーぷん 2017/12/05(火)21:26:35 ID:CUH
策親自迎瑜、授建威中郎將、卽與兵二千人、騎五十匹。瑜、時年二十四、吳中皆呼爲周郎。

孫策は自ら周瑜を迎え、建威中郎将を授け、即座に兵二千人、騎馬五十匹を与えた。周瑜は、この時年が二十四で、呉の中の皆は周郎と呼んだ。



645: 名無しさん@おーぷん 2017/12/05(火)21:27:17 ID:CUH
以瑜恩信著於廬江、出備牛渚、後領春穀長。頃之、策欲取荊州、以瑜爲中護軍、領江夏太守。從攻皖、拔之。

周瑜の恩愛と信頼が廬江で著しいことから、牛渚の守備に出され、後に春穀の長となった。この頃、孫策は荊州を取ろうとし、周瑜を中護軍、江夏太守とした。皖を攻めるのに従い、これを抜いた。



652: 名無しさん@おーぷん 2017/12/05(火)21:28:16 ID:CUH
時、得橋公兩女、皆國色也。策自納大橋、瑜納小橋。

この時、橋公の二人の娘を得て、皆傾国の色気あった。孫策は自ら大橋を娶り、周瑜は小橋を娶った。



654: 名無しさん@おーぷん 2017/12/05(火)21:28:35 ID:oRI
三国志の武将みんな抜きすぎちゃう?
絶倫やんけ!



660: 名無しさん@おーぷん 2017/12/05(火)21:29:47 ID:CUH
>>654
城を落とすことを「抜」っていうんやけど訳さなくてもわかると思ってそのままにしとったわ
「陥落」とかの字を使ったほうがよかったかな?



662: 名無しさん@おーぷん 2017/12/05(火)21:30:21 ID:oRI
>>660
いや、このままでオナシャス! 原文大事



663: 名無しさん@おーぷん 2017/12/05(火)21:30:36 ID:n2o
>>660
分かるからええで



656: 名無しさん@おーぷん 2017/12/05(火)21:29:00 ID:CUH
復進尋陽、破劉勳、討江夏、還定豫章、廬陵、留鎭巴丘。

また尋陽に進み、劉勲を破り、江夏を討ち、(軍を)返して豫章、廬陵を定め、巴丘に留まった。



661: 名無しさん@おーぷん 2017/12/05(火)21:29:59 ID:CUH
五年、策薨、權統事。瑜、將兵赴喪、遂留吳。以中護軍、與長史張昭、共掌衆事。

五年(200年)、孫策が死に、孫権が事を統べた。周瑜は、兵を率いて喪に赴き、呉に留まった。中護軍として、長史張昭と、共に多くの事を掌握した。



665: 名無しさん@おーぷん 2017/12/05(火)21:30:59 ID:CUH
十一年。督孫瑜等、討麻保二屯、梟其渠帥、囚俘萬餘口、還備官亭。

十一年(206年)。孫瑜らを督し、麻、保二つの屯を討ち、首領を晒し首とし、一万余人を虜囚とし、帰って官亭を守備した。



673: 名無しさん@おーぷん 2017/12/05(火)21:32:31 ID:n2o
>>665
もう(あと2年しか)ないじゃん…



667: 名無しさん@おーぷん 2017/12/05(火)21:31:26 ID:n2o
張昭がいなかったら呉は詰んでたよな



675: 名無しさん@おーぷん 2017/12/05(火)21:32:53 ID:CUH
>>667
過小評価されるけど張昭伝読むに孫権にすら意見出来る重鎮って感じやったな



668: 名無しさん@おーぷん 2017/12/05(火)21:31:38 ID:CUH
江夏太守黃祖、遣將鄧龍、將兵數千人、入柴桑。瑜、追討擊、生虜龍、送吳。

江夏太守黄祖は、将鄧龍を遣わし、兵数千人を率いさせ、柴桑に入らせた。周瑜は、追討して攻撃し、鄧龍を生け捕り、呉に送った。



671: 名無しさん@おーぷん 2017/12/05(火)21:32:09 ID:Tuj
孫策が死んでからの空白期間は何やろか
喪に服してたとか?



685: 名無しさん@おーぷん 2017/12/05(火)21:36:10 ID:CUH
>>671
地盤固めるのと荊州に侵攻してるってのがある



677: 名無しさん@おーぷん 2017/12/05(火)21:33:05 ID:CUH
十三年春、權討江夏、瑜爲前部大督。

十三年(208年)春、孫権は江夏を討ち、周瑜は前部大督となった。



682: 名無しさん@おーぷん 2017/12/05(火)21:34:56 ID:CUH
其年九月、曹公入荊州、劉琮舉衆降。曹公得其水軍、船步兵數十萬。將士聞之、皆恐。

その年の九月、曹公が荊州に入ると、劉琮は衆を挙げて降伏した。曹公はその水軍を得、船団歩兵は数十万となった。将士はこれを聞くと、皆恐れた。



686: 名無しさん@おーぷん 2017/12/05(火)21:36:20 ID:CUH
權延見羣下、問以計策。議者咸曰「曹公豺虎也、然託名漢相、挾天子、以征四方。動以朝廷爲辭、今日拒之、事更不順。

孫権は群臣を会させると、計策を問うた。議者は皆言った「曹公は豺虎ですが、名は漢の相で、天子を差し挟み、四方を征伐しております。行動は朝廷の言葉を理由としているので、今日これを拒めば、事は更に順じなくなります。



688: 名無しさん@おーぷん 2017/12/05(火)21:37:02 ID:oRI
これは今から孔明vs呉重鎮のレスバトルが始まるんかな



693: 名無しさん@おーぷん 2017/12/05(火)21:40:12 ID:CUH
>>688
レスバは演義や



690: 名無しさん@おーぷん 2017/12/05(火)21:37:19 ID:CUH
且、將軍大勢可以拒操者、長江也。今操得荊州、奄有其地。劉表治水軍、蒙衝、鬭艦、乃以千數。

さらに、将軍が大勢として操を拒んでいるのは、長江です。今曹操は荊州を得て、その地におります。劉表は水軍を治め、蒙衝、闘艦は、千の数もありました。



692: 名無しさん@おーぷん 2017/12/05(火)21:39:37 ID:CUH
操悉浮以沿江、兼有步兵、水陸俱下、此、爲長江之險已與我共之矣。而勢力衆寡、又不可論。愚謂、大計不如迎之」

曹操はそのことごとくを浮かべて長江に沿い、さらに歩兵を、水陸両方から下らせており、これは、長江の険をすでに我らと共有していることに他なりません。勢力の多寡は、論じるまでもありません。愚見では、大計として彼らを迎えた方がよろしいでしょう」



694: 名無しさん@おーぷん 2017/12/05(火)21:40:21 ID:oRI
実際、大勢力がおってしかも朝廷のお墨付きの状態で戦おうなんて思わないんだよなぁ



696: 名無しさん@おーぷん 2017/12/05(火)21:41:39 ID:CUH
>>694
まさにそうやな
周瑜と魯粛が優れてたって断言できるのは開戦を進言してさらに勝ったって結果があるからや



695: 名無しさん@おーぷん 2017/12/05(火)21:40:39 ID:CUH
瑜曰「不然。操、雖託名漢相、其實漢賊也。將軍、以神武雄才、兼仗父兄之烈、割據江東、地方數千里。

周瑜は言った「それは違います。曹操は、名は漢の相ですが、その実は漢の賊です。将軍は、神武雄才をもって、さらに父兄の功烈により、江東に割拠し、土地は数千里もございます。



697: 名無しさん@おーぷん 2017/12/05(火)21:41:50 ID:CUH
兵精足用、英雄樂業、尚當橫行天下、爲漢家除殘去穢。況、操自送死、而可迎之邪。

兵は精鋭で用いるに足り、英雄は業を楽しんでいるので、天下に横行し、漢家のために穢れを除去せねばなりません。ましてや、曹操は自らを死地に送っているのに、迎えるべきでしょうか。



698: 名無しさん@おーぷん 2017/12/05(火)21:42:39 ID:CUH
請、爲將軍籌之。今使、北土已安、操無內憂、能曠日持久來爭疆埸、又能與我校勝負於船楫可乎。

将軍のために謀らせてください。今、北土がすでに安んじられ、曹操に内の憂いがなく、長期の持久によって国境で争えるとして、また我らと船や楫で勝負出来ましょうか。



701: 名無しさん@おーぷん 2017/12/05(火)21:43:50 ID:CUH
今、北土既未平安、加馬超韓遂尚在關西、爲操後患。且、舍鞍馬仗舟楫與吳越爭衡、本非中國所長。

今、北土は安んじられておらず、加えて馬超、韓遂がなおも関西におり、操の後患となっております。さらに、鞍や馬を棄て舟や楫で呉越と争うのは、元より中国の長ずることではございません。



704: 名無しさん@おーぷん 2017/12/05(火)21:44:52 ID:HH9
>>701
曹操の不利を強調するときに出てくる西涼軍閥すこ



705: 名無しさん@おーぷん 2017/12/05(火)21:44:57 ID:CUH
又、今盛寒馬無藁草、驅中國士衆、遠涉江湖之閒、不習水土、必生疾病。此數四者、用兵之患也、而操皆冒行之。

また、今は厳寒で馬に藁や草がなく、中国の衆を駆り立て、遠く江湖の間を渡っているので、水土に慣れず、必ず疫病を生じさせましょう。この四つは、用兵の憂患で、しかも曹操は皆これを冒しております。



708: 名無しさん@おーぷん 2017/12/05(火)21:45:54 ID:CUH
將軍禽操、宜在今日。瑜請、得精兵三萬人、進住夏口、保爲將軍破之」

将軍が曹操を捕らえるのは、今日にあります。周瑜に、精鋭三万人をお貸しいただければ、夏口に進んで駐屯し、将軍のためにこれを破ることを保証しましょう」



711: 名無しさん@おーぷん 2017/12/05(火)21:47:00 ID:CUH
權曰「老賊、欲廢漢自立久矣。徒忌二袁呂布劉表與孤耳。今數雄已滅、惟孤尚存。

孫権は言った「老賊は、漢を廃し自らを立てようとして久しかった。ただ忌むのは二袁、呂布、劉表と孤だけであった。今数々の雄はすでに滅び、孤だけがなおも生存している。



713: 名無しさん@おーぷん 2017/12/05(火)21:48:01 ID:CUH
孤與老賊、勢不兩立。君言當擊、甚與孤合。此、天以君授孤也。」

孤と老賊は、勢力として両立しない。君のまさに撃つべしの言は、甚だ孤と合致している。これは、天が君を孤に授けたのであろう。」



715: 名無しさん@おーぷん 2017/12/05(火)21:49:02 ID:CUH
時劉備、爲曹公所破、欲引南渡江、與魯肅遇於當陽、遂共圖計。因進住夏口、遣諸葛亮詣權。

この時劉備は、曹公に破られ、南に退いて長江を渡ろうとしたが、魯粛と当陽で遇い、共に計を図った。このため夏口に進んで留まり、諸葛亮を遣わし孫権に会わせた。



717: 名無しさん@おーぷん 2017/12/05(火)21:50:11 ID:CUH
權遂遣瑜及程普等、與備幷力逆曹公、遇於赤壁。時曹公軍、衆已有疾病、初一交戰、公軍敗退、引次江北。

孫権はそこで周瑜及び程普らを遣わし、劉備と力を合わさせて曹公を迎え撃たせ、赤壁で遭遇した。この時曹公の軍は、衆がすでに病となっており、最初の交戦で、曹公軍は敗退し、退いて江北に留まった。



719: 名無しさん@おーぷん 2017/12/05(火)21:50:59 ID:CUH
瑜等在南岸、瑜部將黃蓋曰「今、寇衆我寡、難與持久。然、觀操軍船艦首尾相接、可燒而走也」

周瑜らは南岸におり、周瑜の部将黄蓋が言った「今、賊は多く我らは少なく、久しくは持ち難いでしょう。しかし、見るに曹操軍の船艦は首尾を連ねているので、焼けば敗走しましょう」



720: 名無しさん@おーぷん 2017/12/05(火)21:51:46 ID:e4i
連環計は正史でも出てるのかな?



723: 名無しさん@おーぷん 2017/12/05(火)21:52:22 ID:CUH
>>720
それは創作や



725: 名無しさん@おーぷん 2017/12/05(火)21:53:13 ID:e4i
>>723
Σ( ̄□ ̄;)鳳雛さんの見せ場が・・・



730: 名無しさん@おーぷん 2017/12/05(火)21:54:33 ID:CUH
>>725
正史やとなんでこれほど評価されてるのかわからないくらい事績が少ない人
読んでみるとわかるけどなんで法正と並べられてるんかって疑問になる



737: 名無しさん@おーぷん 2017/12/05(火)21:57:53 ID:n2o
>>730
むしろ法正が過小評価すぎる



740: 名無しさん@おーぷん 2017/12/05(火)21:59:08 ID:CUH
>>737
演義だと黄忠の見せ場として法正は目立たんからね



721: 名無しさん@おーぷん 2017/12/05(火)21:51:58 ID:CUH
ちなみに正史やと火計は周瑜の策でも諸葛亮の策でもなくて黄蓋の策なんや
ここ注目してほしいで



724: 名無しさん@おーぷん 2017/12/05(火)21:52:41 ID:HH9
>>721
そのおかげでパッとしない黄蓋さんも演義やら無双やらで優遇されてるんやな



722: 名無しさん@おーぷん 2017/12/05(火)21:52:13 ID:CUH
乃取蒙衝鬭艦數十艘、實以薪草、膏油灌其中、裹以帷幕、上建牙旗。

かくして蒙衝闘艦数十艘を用意し、中に薪や草を入れ、膏油をその中に注ぎ、帷幕で覆い、上に牙旗を立てた。



726: 名無しさん@おーぷん 2017/12/05(火)21:53:18 ID:CUH
先書報曹公、欺以欲降。又豫備走舸、各繫大船後、因引、次俱前。

先に書で曹公に報せ、降伏を求めると欺いた。またあらかじめ走舸を準備し、各々大船の後ろに繋ぎ、次々と共に前進させた。



731: 名無しさん@おーぷん 2017/12/05(火)21:54:43 ID:CUH
曹公軍吏士皆延頸觀望、指言、蓋降。蓋、放諸船、同時發火。時風盛猛、悉延燒岸上營落。

曹公軍の吏士は皆首を伸ばして望み見、指差して黄蓋が降伏すると言った。黄蓋は、諸船を放ち、同時に火を放った。この時風は強く盛んで、ことごとく岸上の陣営に延焼した。



733: 名無しさん@おーぷん 2017/12/05(火)21:55:44 ID:CUH
頃之、煙炎張天、人馬燒溺死者甚衆、軍遂敗退、還保南郡。備與瑜等復共追。曹公留曹仁等守江陵城、徑自北歸。

この頃、煙と炎が天に漲り、人馬は焼け溺れて死んだ者は甚だ多く、軍は敗退し、帰って南郡を保った。劉備と周瑜らはまた共に追った。曹公は曹仁らを留めて江陵城を守らせ、自らは真っ直ぐと北に帰った。



734: 名無しさん@おーぷん 2017/12/05(火)21:56:26 ID:HH9
>>733
こっからの曹仁VS周瑜もアツイよな、なぁ!



736: 名無しさん@おーぷん 2017/12/05(火)21:57:48 ID:CUH
>>734
ここらへん呂蒙、甘寧、凌統など多くの呉の英雄が戦うからさらに熱い



735: 名無しさん@おーぷん 2017/12/05(火)21:56:44 ID:CUH
瑜與程普、又進南郡、與仁相對、各隔大江。兵未交鋒、瑜卽遣甘寧、前、據夷陵。

周瑜と程普は、また南郡に進み、曹仁と相対し、各々大江を隔てた。兵がいまだ鋒先を交えぬうちに、周瑜はただちに甘寧を遣わし、前進させ、夷陵に拠らせた。



738: 名無しさん@おーぷん 2017/12/05(火)21:57:59 ID:CUH
仁、分兵騎、別攻、圍寧。寧、告急於瑜。瑜、用呂蒙計、留淩統以守其後、身與蒙、上救寧。

曹仁は、歩兵、騎兵を分け、別に攻撃させ、甘寧を囲んだ。甘寧は、急を周瑜に告げた。周瑜は、呂蒙の計(※)を用い、凌統を留めてその後ろを守らせ、自らは呂蒙と、遡上して甘寧を救った。



741: 名無しさん@おーぷん 2017/12/05(火)21:59:21 ID:CUH
寧圍既解、乃渡屯北岸、克期大戰。瑜、親跨馬擽陳、會流矢中右脅、瘡甚、便還。

甘寧の包囲が解かれ、かくして(長江を)渡って北岸に駐屯し、期を決めて大いに戦った。周瑜は、自ら馬に跨って陣を攻め、たまたま流れ矢が右脇に当たり、傷は甚だしく、ただちに帰った。



742: 名無しさん@おーぷん 2017/12/05(火)22:00:11 ID:oRI
たまたま流れ矢が当たったとか、なんでか陰謀感じちゃう



747: 名無しさん@おーぷん 2017/12/05(火)22:01:32 ID:CUH
>>742
周瑜を殺してメリットがある奴っているかね?
程普が暗殺しようとした説とか面白いけど



744: 名無しさん@おーぷん 2017/12/05(火)22:00:37 ID:CUH
後、仁聞瑜臥未起、勒兵、就陳。瑜、乃自興、案行軍營、激揚吏士。仁、由是遂退。

後に、曹仁は周瑜が臥していまだ起きぬと聞くと、兵を率い、陣に迫った。周瑜は、かくして起き上がり、軍営を巡行し、吏士を激励した。曹仁は、このため退いた。



745: 名無しさん@おーぷん 2017/12/05(火)22:01:11 ID:oRI
曹仁さん行ったり来たり退いたりやねぇ



749: 名無しさん@おーぷん 2017/12/05(火)22:02:30 ID:CUH
>>745
それほど目まぐるしく状況が変わったんやろ



748: 名無しさん@おーぷん 2017/12/05(火)22:01:42 ID:CUH
權、拜瑜偏將軍、領南郡太守。以、下雋、漢昌、劉陽、州陵、爲奉邑屯據江陵。劉備、以左將軍領荊州牧、治公安。

孫権は、周瑜を偏将軍、南郡太守とした。下雋、漢昌、劉陽、州陵を、奉邑とさせ江陵に駐屯させた。



750: 名無しさん@おーぷん 2017/12/05(火)22:02:40 ID:CUH
※劉備が京城に行き孫権に会うと周瑜が上疏するが長いので省略
劉備を留めて美人や玩具で楽しませ、関羽や張飛を離れて配置させ、土地を分け与えないよう進言
孫権は曹操に対抗するため、また劉備は留め置けないと考えたため、周瑜の進言を聞き入れず



752: 名無しさん@おーぷん 2017/12/05(火)22:03:54 ID:CUH
※益州牧劉璋が張魯の侵略を受けていると周瑜は孫権に進言をするが長いので省略
周瑜は蜀を奪い、張魯を併呑し、馬超と結び、北を図るのがよいと献策
孫権はそれを許す



754: 名無しさん@おーぷん 2017/12/05(火)22:05:26 ID:n2o
>>752
これが天下二分の刑だな



759: 名無しさん@おーぷん 2017/12/05(火)22:07:00 ID:CUH
>>754
そうやで
今回略しちゃったけど



753: 名無しさん@おーぷん 2017/12/05(火)22:05:14 ID:CUH
瑜還江陵、爲行裝、而道於巴丘、病卒、時年三十六。

周瑜は江陵に帰り、行軍の準備をしようとしたが、道中巴丘において、病死し、この時年は三十六であった。



755: 名無しさん@おーぷん 2017/12/05(火)22:05:31 ID:e4i
なんとまああっさり



759: 名無しさん@おーぷん 2017/12/05(火)22:07:00 ID:CUH
>>755
正史はそんなもんや



756: 名無しさん@おーぷん 2017/12/05(火)22:06:07 ID:CUH
權素服舉哀、感動左右。喪當還吳、又迎之蕪湖。衆事費度、一爲供給。

孫権が喪服で哀悼を挙げると、周りは感動した。遺体が呉に帰ると、蕪湖で迎えた。諸事の費用の、一切を供給した。



582: 名無しさん@おーぷん 2017/12/05(火)21:06:53 ID:CUH
>>756
さすがに偶然だとは思うけど郭嘉ならやりかねん



757: 名無しさん@おーぷん 2017/12/05(火)22:06:57 ID:n2o
軍師は替えが少ないから多く取ってた方が有利だな
やっぱ軍師が多い袁紹って有能だわ



763: 名無しさん@おーぷん 2017/12/05(火)22:08:21 ID:CUH
>>757
軍師が多い(袁紹が使いこなせるとは言ってない)



761: 名無しさん@おーぷん 2017/12/05(火)22:07:11 ID:CUH
後著令曰「故將軍周瑜、程普。其有人客、皆不得問」

後に布令を著した「故の将軍周瑜、程普。その人客(非公認の奴隷)については、皆問うてはならない」



771: 名無しさん@おーぷん 2017/12/05(火)22:11:43 ID:e4i
>>761
これよくわからないけど将軍が死んだら普通人客は全部コロしてたんかな?



775: 名無しさん@おーぷん 2017/12/05(火)22:12:50 ID:HH9
>>771
非公認の人員だから違法やけど、功績に免じて黙ってやるんやでの精神(適当)



780: 名無しさん@おーぷん 2017/12/05(火)22:15:26 ID:CUH
ワイも>>775の考え方でええと思う



764: 名無しさん@おーぷん 2017/12/05(火)22:08:30 ID:CUH
初、瑜見友於策、太妃又使權以兄奉之。是時權位爲將軍、諸將賓客、爲禮尚簡。而瑜、獨先盡敬便執臣節。

当初、周瑜は孫策に友として見なされ、太妃もまた孫権に命じ彼を兄のように仕えさせた。この時孫権の位は将軍で、諸将や賓客の、礼は簡素であった。周瑜は、独り先に敬意を尽くしただちに臣の礼節を行った。



767: 名無しさん@おーぷん 2017/12/05(火)22:09:29 ID:CUH
性度恢廓、大率爲得人、惟與程普不睦。

度量は広く、大いに人心を得たが、ただ程普とだけは不仲であった。



770: 名無しさん@おーぷん 2017/12/05(火)22:10:42 ID:CUH
瑜少精意於音樂、雖三爵之後、其有闕誤、瑜必知之、知之必顧、故時人謠曰「曲有誤、周郎顧。」

周瑜は若くして音楽に精通し、三度酒を飲んだ後でも、弾けなかったり誤ったりすれば、周瑜は必ずそれをわかり、わかれば必ず顧み、ゆえに時の人は謡った「曲に誤りがあれば、周郎が顧みる。」



772: 名無しさん@おーぷん 2017/12/05(火)22:11:43 ID:CUH
評曰。曹公乘漢相之資、挾天子而掃羣桀、新盪荊城、仗威東夏。于時議者、莫不疑貳。周瑜、魯肅、建獨斷之明、出衆人之表、實奇才也。

評に曰く。曹公は漢の丞相の地位を使い、天子を差し挟んで群雄を掃討し、新たに荊城を平らげ、威を東夏(呉)に向けた。この時の議論した者は、疑いを重ねた。周瑜、魯粛は、独断の明察を行い、衆人を抜きん出て、実に奇才である。



774: 名無しさん@おーぷん 2017/12/05(火)22:12:42 ID:n2o
>>772
やっぱ正史だと魯粛の評価高いな



781: 名無しさん@おーぷん 2017/12/05(火)22:17:49 ID:CUH
>>774
演義やと伝書鳩みたいやけど正史やと当世の英傑やとワイは考えてる



776: 名無しさん@おーぷん 2017/12/05(火)22:13:40 ID:HH9
魯粛の行動を「策士策に溺れる」っていう評価していた人がいたんやが、どう思う?



781: 名無しさん@おーぷん 2017/12/05(火)22:17:49 ID:CUH
>>776
荊州問題からか?
ワイ的には蜀と和さなければ曹操は防げなかったと思うから魯粛の考えや誤りやないと思うで
ワイが蜀贔屓だからこういった考えになってしまうのかもしれんが



777: 名無しさん@おーぷん 2017/12/05(火)22:14:39 ID:CUH
これで周瑜伝は終わりや
今日はここまでだからお付き合いしてくれた人サンガツ
明日は費禕、姜維伝をやるからよかったら見ていってクレメンス



778: 名無しさん@おーぷん 2017/12/05(火)22:14:57 ID:HH9
>>777
乙やで



782: 名無しさん@おーぷん 2017/12/05(火)22:19:00 ID:CUH
>>778
こちらこそ乙やで



786: 名無しさん@おーぷん 2017/12/05(火)23:03:39 ID:CUH
陳紀は孫策伝にしか記載なくて誰の家系かは書かれていなかった

秦松字を文表、陳端字を子正は孫策伝以外には張紘伝に記載があって早くに亡くなったと書かれてた
また秦松は周瑜伝の注に曹操が孫権の息子を人質に出すよう命じると逡巡した、赤壁の時周瑜が開戦を進言すると孫権は秦松が妻子を気にかけ私の期待に応えてくれなかったと名指しで批判、劉備が京から帰る際の見送りに参加
呂蒙伝に赤壁の時使者を遣わし檄をまわして曹操を迎え入れるのがよいと言った
陸績伝に孫策の上客であった
こんなことが書かれていたで