20171207-17




788: 名無しさん@おーぷん 2017/12/06(水)20:30:21 ID:BcU
そろそろ始めるで
まずは費禕伝からや

正史三国志・「孫策伝」「周瑜伝」の全文(意)訳と解説をするで
http://blog.livedoor.jp/foufif/archives/52570615.html

正史三国志・「公孫瓚伝」「袁紹伝」の全文(意)訳と解説をするで
http://blog.livedoor.jp/foufif/archives/52564821.html

正史三国志・張遼伝の全文(意)訳と解説をするで
http://blog.livedoor.jp/foufif/archives/52559432.html

正史三国志・夏侯惇伝の全文(意)訳と解説をするで
http://blog.livedoor.jp/foufif/archives/52559165.html



789: 名無しさん@おーぷん 2017/12/06(水)20:30:34 ID:BcU
費禕、字文偉、江夏鄳人也。少孤、依族父伯仁。

費禕は、字を文偉といい、江夏郡鄳県の人である。若くして父を失い、おじの伯仁を頼った。



790: 名無しさん@おーぷん 2017/12/06(水)20:31:32 ID:BcU
伯仁姑、益州牧劉璋之母也。璋、遣使迎仁、仁將禕游學入蜀。

伯仁のおばは、益州牧劉璋の母であった。劉璋は、使者を遣わして伯仁を迎えさせ、伯仁は費禕を連れて遊学し蜀に入った。



791: 名無しさん@おーぷん 2017/12/06(水)20:32:30 ID:BcU
會先主定蜀、禕遂留益土。與汝南許叔龍、南郡董允、齊名。

折しも先主(劉備)が蜀を平定し、費禕は益の地に留まった。汝南の許叔龍、南郡の董允と、名を等しくした。



792: 名無しさん@おーぷん 2017/12/06(水)20:33:33 ID:BcU
時、許靖喪子、允與禕欲共會其葬所。允、白父和請車、和遣開後鹿車給之。允有、難載之色、禕便從前先上。

この時、許靖は子を亡くし、董允と費禕は共に葬儀に行こうとした。董允が、父董和に申して車を求めると、董和は後ろが開けている小さな車を給わった。董允は、乗るに難色を示したが、費禕はただちに前方に先んじて乗った。



798: 名無しさん@おーぷん 2017/12/06(水)20:35:23 ID:gzH
>>792
このときから漂うヒイの大物感ww



802: 名無しさん@おーぷん 2017/12/06(水)20:36:43 ID:BcU
>>798
マイペースな大物って印象



793: 名無しさん@おーぷん 2017/12/06(水)20:33:46 ID:XMY
名門だったんやな



797: 名無しさん@おーぷん 2017/12/06(水)20:35:12 ID:BcU
>>793
せやで



800: 名無しさん@おーぷん 2017/12/06(水)20:36:07 ID:gzH
>>797
郤正は内政官っていうより学者なイメージだけど、どう?



806: 名無しさん@おーぷん 2017/12/06(水)20:38:48 ID:BcU
>>800
劉禅をいい方向に導いたって点で挙げてみた
なるほど学者ね



794: 名無しさん@おーぷん 2017/12/06(水)20:33:55 ID:tc1
蜀最後のまともな内政官キター



797: 名無しさん@おーぷん 2017/12/06(水)20:35:12 ID:BcU
>>794
ワイは郤正かと思う
余り知られてないけど



795: 名無しさん@おーぷん 2017/12/06(水)20:34:05 ID:gzH
叔龍ってだれ?  

許靖の親族かな?



802: 名無しさん@おーぷん 2017/12/06(水)20:36:43 ID:BcU
>>795
いい加減なことは言えないから一旦調べさせて



796: 名無しさん@おーぷん 2017/12/06(水)20:34:32 ID:BcU
及至喪所、諸葛亮及諸貴人悉集、車乘甚鮮。允、猶神色未泰、而禕晏然自若。

葬儀場に着くと、諸葛亮及び諸貴人がことごとく集っており、車は甚だ豪華だった。董允は、なおも気色が安泰ではなかったが、費禕は落ち着いていて自若であった。



799: 名無しさん@おーぷん 2017/12/06(水)20:35:36 ID:BcU
持車人還、和問之、知其如此、乃謂允曰「吾常疑、汝於文偉優劣未別也。而今而後、吾意了矣。」

御者が戻り、董和が問うと、そのような様子を知り、董允に言った「私は常にお前と文偉(費禕)の優劣を疑って判断出来なかった。今は、わかった。」



801: 名無しさん@おーぷん 2017/12/06(水)20:36:37 ID:gzH
>>799
董允のいいところはなんでもカッツリやるところやから(震え声)



806: 名無しさん@おーぷん 2017/12/06(水)20:38:48 ID:BcU
>>801
董允は董允でいいところもあるってのは知ってもらいたい



804: 名無しさん@おーぷん 2017/12/06(水)20:36:52 ID:BcU
先主立太子、禕與允俱爲舍人、遷庶子。後主踐位、爲黃門侍郎。

先主が太子を立てると、費禕と董允は共に太子舍人となり、太子庶子に昇進した。後主(劉禅)が帝位につくと、黄門侍郎となった。



808: 名無しさん@おーぷん 2017/12/06(水)20:39:00 ID:BcU
丞相亮南征還、羣寮於數十里逢迎。年位多在禕右、而亮特命禕同載、由是衆人莫不易觀。

丞相諸葛亮が南征から帰ると、官僚たちは数十里まで迎えに行った。年と官位は多くの者が費禕の上だったが、諸葛亮は特に費禕を共に(車に)乗せ、そのため衆人で見方を変えぬ者はなかった。



821: 名無しさん@おーぷん 2017/12/06(水)20:48:19 ID:BcU
亮以初從南歸、以禕爲昭信校尉、使吳。孫權、性既滑稽、嘲啁無方。諸葛恪、羊衞等、才博果辯。

諸葛亮は南から帰った当初、費禕を昭信校尉とし、呉に遣わした。孫権は、性が能弁で、人を嘲ることきまりがなかった。諸葛恪、羊衛らは、才が多く弁が立った。



824: 名無しさん@おーぷん 2017/12/06(水)20:49:22 ID:BcU
論難鋒至、禕、辭順義篤、據理以答、終不能屈。

論難し舌鋒をふるったが、費禕は、正しい言葉と篤実さで、理によった答えをしたので、終いまで屈さなかった。



826: 名無しさん@おーぷん 2017/12/06(水)20:50:44 ID:BcU
權、甚器之、謂禕曰「君、天下淑德、必當股肱蜀朝。恐不能數來也」還、遷爲侍中。

孫権は、甚だ重んじ、費禕に言った「君は、天下の徳がある人物で、必ず蜀朝の股肱となろう。恐らく何度も来られないだろう」帰ると、侍中に昇進した。



838: 名無しさん@おーぷん 2017/12/06(水)20:56:30 ID:gzH
>>826
鄧芝と並ぶ孫権のお気に入りすこ



841: 名無しさん@おーぷん 2017/12/06(水)20:57:47 ID:BcU
>>838
孫権特有の論破してやろうと思って出来なかったら尊敬
いいやつなんだか悪い奴なんだか



827: 名無しさん@おーぷん 2017/12/06(水)20:51:51 ID:BcU
亮北住漢中、請禕爲參軍。以奉使稱旨、頻煩至吳。建興八年轉爲中護軍、後又爲司馬。

諸葛亮は北のかた漢中に行くと、費禕を参軍とした。使命を奉じるとその旨にかなうので、頻繁に呉に行った。建興八年(230年)中護軍となり、後にまた司馬となった。



829: 名無しさん@おーぷん 2017/12/06(水)20:53:02 ID:BcU
值軍師魏延與長史楊儀相憎惡、每至並坐爭論、延或舉刃擬儀、儀泣涕橫集。

この時軍師魏延と長史楊儀は憎み合っており、同席して論争するたびに、魏延はあるいは刃を挙げて楊儀に突き付け、楊儀は涙を流し顔の横にためた。



830: 名無しさん@おーぷん 2017/12/06(水)20:54:02 ID:BcU
禕、常入其坐間、諫喻分別、終亮之世、各盡延儀之用者、禕匡救之力也。

費禕は、常に座の間に入り、諌め諭して分かれさせ、諸葛亮の時代が終わるまで、魏延と楊儀が働きを尽くせたのは、費禕が助けたおかげである。



835: 名無しさん@おーぷん 2017/12/06(水)20:55:17 ID:BcU
亮卒、禕爲後軍師。頃之、代蔣琬爲尚書令。琬自漢中還涪、禕遷大將軍、錄尚書事。

諸葛亮が亡くなると、費禕は後軍師となった。しばらくして、蒋琬に代わり尚書令となった。蒋琬が漢中から涪に帰ると、費禕は大将軍、録尚書事に昇進した。



837: 名無しさん@おーぷん 2017/12/06(水)20:56:23 ID:BcU
延熙七年魏軍次于興勢、假禕節、率衆、往禦之。

延熙七年(244年)魏軍が興勢に駐屯すると、費禕に節を与え、衆を率いさせ、防ぎに行かせた。



840: 名無しさん@おーぷん 2017/12/06(水)20:57:34 ID:gzH
>>837
そして、ちゃっかり軍事もできちゃう費禕ほんとすこ



845: 名無しさん@おーぷん 2017/12/06(水)20:59:10 ID:BcU
>>840
演義やと軍事は姜維の功績に吸収されるからね



839: 名無しさん@おーぷん 2017/12/06(水)20:57:14 ID:BcU
延熙七年魏軍次于興勢、假禕節、率衆、往禦之。

延熙七年(244年)魏軍が興勢に駐屯すると、費禕に節を与え、衆を率いさせ、防ぎに行かせた。



843: 名無しさん@おーぷん 2017/12/06(水)20:58:24 ID:BcU
光祿大夫來敏、至禕許別、求共圍棊。于時、羽檄交馳、人馬擐甲、嚴駕已訖。禕、與敏留意對戲、色無厭倦。

光禄大夫来敏は、費禕に別れを告げに来て、共に囲碁をするよう求めた。この時、羽檄(急を告げる文章)が飛び交い、人馬は鎧をつけ、車の用意も済んでいた。費禕は、来敏との対局に熱中し、嫌がる様子はなかった。



846: 名無しさん@おーぷん 2017/12/06(水)20:59:20 ID:BcU
敏曰「向聊、觀試君耳。君、信可人。必能辦賊者也」禕至、敵遂退、封成鄉侯。

来敏は言った「先ほどはいささか、君を試しただけだ。君は、信ずるに足る人だ。必ず賊を処理出来よう」費禕が到ると、敵は遂に退き、成郷侯に封じられた。



847: 名無しさん@おーぷん 2017/12/06(水)20:59:58 ID:gzH
>>846
老害来敏きたー!



849: 名無しさん@おーぷん 2017/12/06(水)21:01:09 ID:BcU
>>847
行動が異常とか書かれてるんだよね
いったいなにしたんや



848: 名無しさん@おーぷん 2017/12/06(水)21:00:22 ID:BcU
琬、固讓州職、禕復領益州刺史。禕、當國功名、略與琬比。

蒋琬は、州の職を固辞したため、費禕はまた益州刺史となった。費禕の、国に対する功名は、ほとんど蒋琬に比肩した。



850: 名無しさん@おーぷん 2017/12/06(水)21:01:19 ID:BcU
十一年、出住漢中。自琬及禕、雖自身在外、慶賞刑威皆遙先諮斷然後乃行、其推任如此。

十一年(248年)、漢中に出て留まった。蒋琬から費禕に至るまで、身体が外にあっても、恩賞と刑罰は皆遥か先に諮問して決定されしかる後に実行され、その信任はこのようであった。



851: 名無しさん@おーぷん 2017/12/06(水)21:01:25 ID:rzQ
蒋琬さん、自分の能力の幅理解してるのすこ



852: 名無しさん@おーぷん 2017/12/06(水)21:02:13 ID:BcU
>>851
論議の逸話とか読むとその部分がよくわかるよね
蜀屈指のぐう聖



853: 名無しさん@おーぷん 2017/12/06(水)21:02:23 ID:BcU
後十四年夏、還成都。成都望氣者云、都邑無宰相位、故冬復北屯漢壽。

後の十四年(251年)夏、成都に帰った。成都の運気を見れる者が、都には宰相の位がないと言い、ゆえに冬にまた北のかた漢寿に駐屯した。



854: 名無しさん@おーぷん 2017/12/06(水)21:03:25 ID:BcU
延熙十五年、命禕開府。十六年歲首大會、魏降人郭循、在坐。禕歡飲沈醉、爲循手刃所害。諡曰敬侯。

延熙十五年(252年)、費禕に府を開かせた。十六年(253年)の年初の大宴会に、魏から降伏した郭循が、座にいた。費禕は楽しく飲んで泥酔し、郭循の刃で害された。諡して敬侯といった。



855: 名無しさん@おーぷん 2017/12/06(水)21:04:23 ID:BcU
子承嗣、爲黃門侍郎。承弟恭、尚公主。禕長女、配太子璿爲妃。

子の費承が後を継ぎ、黄門侍郎となった。費承の弟費恭は、公主を娶った。費禕の長女は、太子劉璿と配偶して妃となった。



858: 【28】 2017/12/06(水)21:06:05 ID:o8p
蜀は惜しい人を失ったわね…



864: 名無しさん@おーぷん 2017/12/06(水)21:08:21 ID:BcU
>>858
本当にそうやな
彼が残っていたら姜維をセーブできたかもしれないし



859: 名無しさん@おーぷん 2017/12/06(水)21:06:22 ID:BcU
これで終わりやけど費禕は姜維と同じ巻に立伝されているから姜維の評と同時に紹介するで
というわけで姜維伝を続けてやっていくからよろしくや

20171207-18



860: 名無しさん@おーぷん 2017/12/06(水)21:06:35 ID:BcU
姜維、字伯約、天水冀人也。少孤、與母居。好鄭氏學。仕郡上計掾、州辟爲從事。

姜維は、字を伯約といい、天水郡冀県の人である。若くして父を亡くし、母と暮らした。鄭氏(鄭玄)の学問を好んだ。郡に仕えて上計掾となり、州に召されて従事となった。



861: 名無しさん@おーぷん 2017/12/06(水)21:07:12 ID:gzH
>>860
ここにも名前が出てくる鄭玄ってやっぱすごいんやね



867: 名無しさん@おーぷん 2017/12/06(水)21:09:49 ID:BcU
>>861
当代きっての学者やからね



862: 名無しさん@おーぷん 2017/12/06(水)21:07:37 ID:BcU
以父冏、昔爲郡功曹、值羌戎叛亂、身衞郡將、沒於戰場。賜維官中郎、參本郡軍事。

父姜冏は、昔郡の功曹であったために、羌戎の反乱に遭い、身をもって郡将を護衛し、戦場で没した。姜維に中郎の官職を賜り、本郡の軍事に参画させた。



863: 名無しさん@おーぷん 2017/12/06(水)21:08:00 ID:mFy
孔明亡き後の後継者は優秀だな



867: 名無しさん@おーぷん 2017/12/06(水)21:09:49 ID:BcU
>>863
蒋・費は確実に優秀
姜維は人間として素晴らしいけど出征しすぎって点でマイナスやな



865: 名無しさん@おーぷん 2017/12/06(水)21:08:38 ID:BcU
建興六年丞相諸葛亮、軍向祁山。時、天水太守適出案行、維及功曹梁緒、主簿尹賞、主記梁虔等、從行。

建興六年(228年)丞相諸葛亮は、軍を祁山に向けた。この時、天水太守はたまたま巡察に出ており、姜維及び功曹梁緒、主簿尹賞、主記梁虔らが、随行した。



869: 名無しさん@おーぷん 2017/12/06(水)21:10:00 ID:BcU
太守聞、蜀軍垂至而諸縣響應、疑維等皆有異心、於是夜亡保上邽。

太守は、蜀軍が来ており諸県が呼応していると聞くと、姜維らに皆異心があると疑い、こうして夜逃亡して上邽を保った。



871: 名無しさん@おーぷん 2017/12/06(水)21:11:11 ID:BcU
維等、覺太守去、追遲、至城門、城門已閉、不納。維等、相率還冀、冀亦不入維。維等乃俱詣諸葛亮。

姜維らは、太守が去ったとわかると、遅れて追い、城門に到ると、城門はすでに閉められ、入れてもらえなかった。姜維らは、皆で冀に帰ったが、冀もまた姜維を入れなかった。姜維らはかくして共に諸葛亮の元に行った。



873: 名無しさん@おーぷん 2017/12/06(水)21:12:06 ID:BcU
會馬謖敗於街亭、亮拔將西縣千餘家及維等、還。故、維遂與母相失。

折しも馬謖が街亭で敗れ、諸葛亮は西県の千余家及び姜維らを連れて、帰った。ゆえに、姜維は母と別れた。



874: 名無しさん@おーぷん 2017/12/06(水)21:13:04 ID:BcU
亮、辟維爲倉曹掾、加奉義將軍、封當陽亭侯、時年二十七。

諸葛亮は、姜維を招いて倉曹掾とし、奉義将軍を加え、当陽亭侯に封じ、この時年は二十七であった。



876: 名無しさん@おーぷん 2017/12/06(水)21:14:05 ID:BcU
亮、與留府長史張裔、參軍蔣琬、書曰「姜伯約、忠勤時事、思慮精密。考其所有、永南季常諸人不如也。其人、涼州上士也」

諸葛亮は、留府長史張裔、参軍蒋琬に、書を与えて言った「姜伯約(姜維)は、時の事に忠勤で、思慮は精密である。持てる力を考えると、永南(李邵)、季常(馬良)ら諸人にも及ばない。この人は、涼州最高の士だ」



878: 名無しさん@おーぷん 2017/12/06(水)21:15:11 ID:BcU
又曰「須先教、中虎步兵五六千人。姜伯約、甚敏於軍事、既有膽義、深解兵意。

また言った「先に教練せねばならぬのは、中虎歩兵の五、六千人だ。姜伯約は、甚だ軍事に敏く、胆力があり、深く兵の気持ちを理解している。



881: 名無しさん@おーぷん 2017/12/06(水)21:16:09 ID:BcU
此人、心存漢室、而才兼於人。畢教軍事、當遣詣宮、覲見主上」後、遷中監軍征西將軍。

この人は、心に漢室を思い、才は人の倍だ。軍事の教練を終えれば、宮殿に行かせ、主上(劉禅)に会わせよう」後に、中監軍、征西将軍に昇進した。



883: 名無しさん@おーぷん 2017/12/06(水)21:17:09 ID:BcU
十二年亮卒。維、還成都、爲右監軍、輔漢將軍、統諸軍、進封平襄侯。

十二年(234年)諸葛亮が亡くなった。姜維は、成都に帰り、右監軍、輔漢将軍となり、諸軍を統率し、平襄侯に封爵を進められた。



885: 名無しさん@おーぷん 2017/12/06(水)21:18:21 ID:BcU
延熙元年、隨大將軍蔣琬、住漢中。琬、既遷大司馬、以維爲司馬、數率偏軍西入。

延熙元年(238年)、大将軍蒋琬に従い、漢中に行った。蒋琬は、大司馬に昇進すると、姜維を司馬とし、たびたび一軍を率いて西に入った。



886: 名無しさん@おーぷん 2017/12/06(水)21:19:26 ID:BcU
六年、遷鎭西大將軍、領涼州刺史。十年、遷衞將軍、與大將軍費禕、共錄尚書事。是歲、汶山平康夷反、維率衆討定之。

六年(243年)、鎮西大将軍に昇進し、涼州刺史となった。十年(247年)、衛将軍に昇進し、大将軍費禕と、共に録尚書事となった。この年、汶山平康の蛮族が背き、姜維は衆を率いて討ちこれを平定した。



887: 名無しさん@おーぷん 2017/12/06(水)21:19:33 ID:rzQ
諸葛亮死後、姜維が完全に軍権を握れなかったのはやっぱり蜀内部での権力基盤がそんなに無かったからかな



888: 名無しさん@おーぷん 2017/12/06(水)21:19:52 ID:gzH
>>887
ぽっと出やし、若いし



892: 名無しさん@おーぷん 2017/12/06(水)21:21:20 ID:BcU
>>887
それもあるかもね
朝廷では反姜維も多かったみたいな記録もあるし



895: 名無しさん@おーぷん 2017/12/06(水)21:22:11 ID:gzH
>>892
反姜維は姜維が北伐続けたせいでできたもんやろ
言い換えれば反北伐やない?



901: 名無しさん@おーぷん 2017/12/06(水)21:23:58 ID:BcU
>>895
確かにそうやな
ここでそれは相応しくなかった



889: 名無しさん@おーぷん 2017/12/06(水)21:20:26 ID:BcU
又出、隴西、南安、金城界、與魏大將軍郭淮、夏侯霸等、戰於洮西。胡王治無戴等、舉部落降、維將還、安處之。

また、隴西、南安、金城の境に出て、魏の大将軍郭淮、夏侯覇らと、洮西で戦った。胡王の治無戴らが、部落を挙げて降ると、姜維は率いて帰り、安住させた。



890: 名無しさん@おーぷん 2017/12/06(水)21:20:45 ID:tc1
段谷までは最大範図を築けたと言う風潮



896: 名無しさん@おーぷん 2017/12/06(水)21:22:33 ID:BcU
>>890
実際段谷までは無敵感あったし



893: 名無しさん@おーぷん 2017/12/06(水)21:21:28 ID:BcU
十二年、假維節、復出西平、不克而還。維、自以練西方風俗、兼負其才武、欲誘諸羌胡以爲羽翼。

十二年(249年)、姜維は節を与えられ、また西平に出て、勝てずに帰った。姜維は、西方の風俗に通じていると考えており、さらに軍才があると自負し、羌族や異民族を誘って羽翼としようとしていた。



897: 名無しさん@おーぷん 2017/12/06(水)21:22:43 ID:BcU
謂、自隴以西可斷而有也。每欲興軍大舉、費禕常裁制不從、與其兵不過萬人。

隴より西は分断して有せると言っていた。軍を起こして大挙しようとするたび、費禕は常に制限して許さず、与えた兵は一万人を越えなかった。



900: 名無しさん@おーぷん 2017/12/06(水)21:23:39 ID:tc1
>>897
この辺が演技だと変わってそう



915: 名無しさん@おーぷん 2017/12/06(水)21:28:18 ID:BcU
レス多くて返しきれへん
一つ一つに答えたいんやけどそうすると遅れてまうからピックアップするで
返せない人すまへんn

>>900
演義やと姜維が費いを説き伏せて劉禅に認められて出征ってびょうひゃがある



902: 名無しさん@おーぷん 2017/12/06(水)21:24:09 ID:BcU
十六年春禕卒。夏。維、率數萬人出石營、經董亭、圍南安。魏雍州刺史陳泰、解圍至洛門、維糧盡退還。

十六年(253年)春費禕が亡くなった。夏であった。姜維は、数万人を率いて石営に出で、董亭を経て、南安を囲んだ。魏の雍州刺史陳泰が、包囲を解かんとして洛門に到り、姜維は兵糧が尽きて退却した。



905: 名無しさん@おーぷん 2017/12/06(水)21:24:59 ID:gzH
>>902
待ってましたと言わんばかりに費禕の死後打って出てちゃんと負けて帰ってくるあたり姜維やわ



907: 名無しさん@おーぷん 2017/12/06(水)21:25:22 ID:BcU
明年、加督中外軍事。復出隴西、守狄道長李簡、舉城降。

翌年、督中外軍事を加えられた。また隴西に出て、狄道を守る長の李簡が、城を挙げて降伏した。



908: 名無しさん@おーぷん 2017/12/06(水)21:25:29 ID:rzQ
あ、異民族ちゃんとお付き合いした陳泰さんや



909: 名無しさん@おーぷん 2017/12/06(水)21:26:18 ID:gzH
>>908
陳家は陳泰までという風潮



912: 名無しさん@おーぷん 2017/12/06(水)21:27:39 ID:rzQ
>>909
wiki見たら凄い人やな
肝座ってるというか



918: 名無しさん@おーぷん 2017/12/06(水)21:29:34 ID:gzH
>>912
たしか、陳羣が「君の家柄はいい感じだけど、君、やばいで。多分次の代を最後にポシャるんじゃね」

と言われてた気がする。誰か調べて



986: 名無しさん@おーぷん 2017/12/06(水)21:47:42 ID:gzH
>>918
調べたやで

陳泰伝の最後のほうに裴松之が引いた『博物記』にこうあったで。


陳寔、その子の陳紀、その子の陳羣、その子の陳泰、これら四代は漢・魏に仕えて高い名声を得ていた。
が、彼らの徳は次第に衰えていった。そのために当時の人は「公(陳羣・陳泰)は卿(陳紀)に劣り、卿は長(陳寔)に劣る」と言い合った。


だってさ



911: 名無しさん@おーぷん 2017/12/06(水)21:26:26 ID:BcU
進圍襄武、與魏將徐質交鋒、斬首破敵、魏軍敗退。維、乘勝多所降下。拔河間、狄道、臨洮三縣民還。

襄武に進んで囲み、魏将徐質と交戦し、斬首して敵を破り、魏軍は敗退した。姜維は、勝ちに乗じて多くを降した。河間、狄道、臨洮の三県の民を連れ帰った。



916: 名無しさん@おーぷん 2017/12/06(水)21:28:25 ID:BcU
後、十八年、復與車騎將軍夏侯霸等、俱出狄道、大破魏雍州刺史王經於洮西。經衆、死者數萬人。

後、十八年(255年)、また車騎将軍夏侯覇らと、共に狄道に出て、魏の雍州刺史王経を洮西で大破した。王経の衆は、数万人が死んだ。



922: 名無しさん@おーぷん 2017/12/06(水)21:30:13 ID:tc1
>>916
ガチで無双してて草



920: 名無しさん@おーぷん 2017/12/06(水)21:29:40 ID:BcU
經、退保狄道城、維圍之。魏征西將軍陳泰、進兵解圍。維、卻住鍾題。

王経は、撤退して狄道城を保ち、姜維はこれを囲んだ。魏の征西将軍陳泰が、兵を進めて包囲を解いた。姜維は、退却して鍾題に留まった。



925: 名無しさん@おーぷん 2017/12/06(水)21:30:33 ID:BcU
十九年春、就遷維爲大將軍。更整勒戎馬、與鎭西大將軍胡濟、期會上邽。

十九年(256年)春、(現場に)就かせて姜維を大将軍に昇進させた。さらに兵馬を整え、鎮西大将軍胡済と、上邽で会合する約束をした。



927: 名無しさん@おーぷん 2017/12/06(水)21:30:59 ID:tc1
>>925
戦犯コサイきたあああああああああああああああ



929: 名無しさん@おーぷん 2017/12/06(水)21:31:25 ID:BcU
濟失誓不至、故維爲魏大將鄧艾所破於段谷、星散流離、死者甚衆。

胡済は誓いを破って到らず、故に姜維は魏の大将鄧艾に段谷で破られ、散り散りとなり、死者は甚だ多かった。



933: 名無しさん@おーぷん 2017/12/06(水)21:32:49 ID:tc1
>>929
蜀の衰退を決定づけたこの戦いで何で来なかったのかが未だにわかってないと言う事実



939: 名無しさん@おーぷん 2017/12/06(水)21:34:34 ID:BcU
>>933
しかも戦犯にしては普通にその後も名前出て来るからな



947: 名無しさん@おーぷん 2017/12/06(水)21:36:31 ID:tc1
>>939
責任おってるのも脅威だけやしな



950: 名無しさん@おーぷん 2017/12/06(水)21:37:51 ID:BcU
>>947
それだから陰謀めいたこと言う人も見たことある
姜維を敗戦させるためとか



956: 名無しさん@おーぷん 2017/12/06(水)21:39:10 ID:tc1
>>950
はえー…



963: 名無しさん@おーぷん 2017/12/06(水)21:41:09 ID:BcU
>>956
敗戦で兵力が足りなくなったから兵力を回せなくなったって説も聞いたことがある
でもちゃんとした資料ではなくネットで聞いただけだから信じないでね



932: 名無しさん@おーぷん 2017/12/06(水)21:32:40 ID:BcU
衆庶由是怨讟、而隴已西亦騷動不寧。維、謝過引負、求自貶削。爲後將軍、行大將軍事。

庶民たちはそのため怨み、隴以西もまた騒乱して安んじられなかった。姜維は、過ちを謝罪して責を負い、自らを降格するよう求めた。後将軍、行大将軍事となった。



937: 名無しさん@おーぷん 2017/12/06(水)21:33:37 ID:BcU
二十年魏征東大將軍諸葛誕、反於淮南、分關中兵、東下。

二十年(257年)魏の征東大将軍諸葛誕が、淮南で背き、関中の兵を分け、東に下った。



940: 名無しさん@おーぷん 2017/12/06(水)21:34:39 ID:BcU
維、欲乘虛向秦川、復率數萬人出駱谷、徑至沈嶺。時、長城積穀甚多而守兵乃少、聞維方到、衆皆惶懼。

姜維は、虚に乗じて秦川に向かい、また数万人を率いて駱谷に出で、ただちに沈嶺に到った。この時、長城の穀物の蓄えは甚だ多く守備兵は少なく、姜維が到ったと聞くと、衆は皆恐怖した。



944: 名無しさん@おーぷん 2017/12/06(水)21:35:48 ID:BcU
魏大將軍司馬望拒之、鄧艾亦自隴右、皆軍于長城。維、前住芒水、皆倚山爲營。望艾、傍渭堅圍。維、數下挑戰、望艾不應。

魏の大将軍司馬望はこれを拒み、鄧艾もまた隴右より到り、皆長城に駐屯した。姜維は、前進して芒水に留まり、皆山に拠って営とした。司馬望、鄧艾は、渭水に拠って防備した。姜維は、たびたび下って挑戦したが、司馬望、鄧艾は応じなかった。



948: 名無しさん@おーぷん 2017/12/06(水)21:36:51 ID:BcU
景耀元年、維聞誕破敗、乃還成都。復拜大將軍。

景耀元年(258年)、姜維は諸葛誕が敗れたと聞くと、かくして成都に帰った。また大将軍となった。



952: 名無しさん@おーぷん 2017/12/06(水)21:38:01 ID:BcU
※姜維が漢中の防御システムについて提言するが長いので省略
劉備が作った防御システムは漢中に敵を入れさせないというものであった
姜維は漢中自体を戦場にして相手の補給を難しくし、敵が撤退する時に一気に殲滅するという策を提案し、これは採用された



953: 名無しさん@おーぷん 2017/12/06(水)21:38:51 ID:rzQ
>>952
長期的な誘引作戦って感じかな?



958: 名無しさん@おーぷん 2017/12/06(水)21:39:50 ID:BcU
>>953
姜維の主張としてはそうだね



956: 名無しさん@おーぷん 2017/12/06(水)21:39:10 ID:tc1
>>952
自領土と戦場にする案なのによく受け入れられたな



955: 名無しさん@おーぷん 2017/12/06(水)21:39:09 ID:BcU
五年。維、率衆出漢侯和、爲鄧艾所破、還住沓中。維、本羈旅託國、累年攻戰、功績不立。

五年(262年)。姜維は、衆を率いて漢の侯和に出で、鄧艾に破られ、帰って沓中に留まった。姜維は、本来他国の者で、累年攻撃しても、功績を立てられなかった。



959: 名無しさん@おーぷん 2017/12/06(水)21:40:13 ID:BcU
而宦官黃皓等、弄權於內。右大將軍閻宇、與皓協比。而皓、陰欲廢維樹宇。維亦疑之。故自危懼、不復還成都。

宦官黄皓らが、内で権力を弄した。右大将軍閻宇は、黄皓と協力した。黄皓は、密かに脅威を廃して閻宇を立てようとした。姜維もまたそれを疑った。故に危惧し、ふたたびは成都に帰らなかった。



964: 名無しさん@おーぷん 2017/12/06(水)21:41:18 ID:BcU
六年維、表後主「聞、鍾會治兵關中、欲規進取。宜並遣張翼廖化、督諸軍、分護陽安關口陰平橋頭、以防未然」

六年(263年)姜維は、後主(劉禅)に上表した「聞きますに、鍾会は関中の兵を統治し、進軍を図っております。張翼、廖化を遣わし、諸軍を督させ、陽安関の入り口、陰平橋のたもとに分けて守らせ、未然に防いでください」



967: 名無しさん@おーぷん 2017/12/06(水)21:42:17 ID:BcU
皓、徵信鬼巫、謂敵終不自致。啓後主寢其事、而羣臣不知。

黄皓は、鬼や巫の徴を信じ、敵は結局来ないと言った。後主に申してその事を伏せさせ、群臣は知らなかった。



970: 名無しさん@おーぷん 2017/12/06(水)21:43:32 ID:BcU
及鍾會將向駱谷、鄧艾將入沓中、然後、乃遣右車騎廖化詣沓中爲維援、左車騎張翼、輔國大將軍董厥等、詣陽安關口、以爲諸圍外助。

鍾会が駱谷に向かい、鄧艾が沓中に入ろうとし、しかる後に、かくして右車騎廖化を沓中に行かせて姜維を救援させ、左車騎張翼、輔国大将軍董厥らを、陽安関の入り口に行かせ、諸囲を外から助けさせようとした。



974: 名無しさん@おーぷん 2017/12/06(水)21:44:24 ID:BcU
比至陰平、聞、魏將諸葛緒向建威、故住待之。月餘、維爲鄧艾所摧、還住陰平。

陰平に到る頃、魏将諸葛緒が建威に向かったと聞き、故に留まってこれを待った。一月余りし、姜維は鄧艾に破られ、帰って陰平に留まった。



976: 名無しさん@おーぷん 2017/12/06(水)21:45:20 ID:BcU
鍾會攻圍漢樂二城、遣別將進攻關口、蔣舒開城出降、傅僉格鬭而死。會、攻樂城、不能克。聞、關口已下、長驅而前。

鍾会は漢、楽二城を包囲し、別将を遣わして関の入り口を攻めさせると、蒋舒は城を開いて降伏し、傅僉は格闘して死んだ。鍾会は、楽城を攻めたが、勝てなかった。関の入り口をすでに下したと聞き、長駆して進んだ。



981: 名無しさん@おーぷん 2017/12/06(水)21:46:25 ID:BcU
翼厥、甫至漢壽、維化亦舍陰平而退、適與翼厥合、皆退保劍閣以拒會。

張翼、董厥が、初めて漢寿に到り、姜維、廖化もまた陰平を捨てて撤退し、ちょうど張翼、董厥と会合し、皆で退いて剣閣に籠り鍾会を拒んだ。



983: 名無しさん@おーぷん 2017/12/06(水)21:47:27 ID:BcU
※鍾会が姜維に書を送るが省略
姜維は返書を送らず守備に徹する
鍾会は勝てず兵糧の運搬も遠くから来ているので帰還を議論した



989: 名無しさん@おーぷん 2017/12/06(水)21:48:30 ID:BcU
而鄧艾、自陰平、由景谷道傍入、遂破諸葛瞻於緜竹。後主、請降於艾。艾、前據成都。

鄧艾は、陰平から、景谷道を経由して脇道から入り、遂に諸葛瞻を緜竹で破った。後主は、鄧艾に降伏を請うた。鄧艾は、進んで成都に拠った。



991: 名無しさん@おーぷん 2017/12/06(水)21:49:33 ID:BcU
維等初聞瞻破、或聞後主欲固守成都。或聞欲東入吳。或聞欲南入建寧。於是、引軍由廣漢、郪道、以審虛實。

姜維らは諸葛瞻が破られたと聞いた当初、ある者は後主が成都を固守しようとしていると聞いた。ある者は東に行き呉に入ろうとしていると聞いた。ある者は南に行き建寧に入ろうとしていると聞いた。こうして、軍を引き連れ広漢、郪道を経由し、虚実をつまびらかにしようとした。



996: 名無しさん@おーぷん 2017/12/06(水)21:50:38 ID:BcU
尋被後主敕令、乃投戈放甲。詣會、於涪軍前。將士咸怒、拔刀砍石。

次いで後主の勅令を受けると、かくして戈を投げ甲冑を放った。鍾会に会うため、涪の軍の前まで行った。将士は皆怒り、刀を抜いて石を斬った。



1001: 名無しさん@おーぷん 2017/12/06(水)21:51:52 ID:BcU
會、厚待維等。皆權還、其印號節蓋。會、與維出則同?、坐則同席。

鍾会は、姜維らを厚遇した。皆仮措置で、印や節、車蓋を帰した。鍾会は、姜維と出れば同乗し、座れば同席した。



8: 名無しさん@おーぷん 2017/12/06(水)21:58:21 ID:BcU
謂長史杜預曰「以伯約、比中土名士、公休、太初、不能勝也」

長史杜預に言った「伯約は、中土の名士に比べると、公休(諸葛誕)、太初(夏侯玄)でも、勝れない」



13: 名無しさん@おーぷん 2017/12/06(水)21:59:17 ID:BcU
會、既構鄧艾。艾、檻車徵。因將維等、詣成都、自稱益州牧、以叛。

鍾会は、鄧艾を陥れた。鄧艾は、檻車で召還された。そこで姜維らを率い、成都に行き、自ら益州牧と称し、背いた。



17: 名無しさん@おーぷん 2017/12/06(水)22:00:35 ID:BcU
欲授維兵五萬人使、爲前驅。魏將士憤怒、殺會及維。維妻子皆伏誅。

姜維に兵五万人を授け、前進させようとした。魏の将士は憤怒し、鍾会及び姜維を殺した。姜維の妻子は皆誅殺された。



19: 名無しさん@おーぷん 2017/12/06(水)22:02:13 ID:mFy
>>17
姜維は何で鍾会に協力したんや



21: 名無しさん@おーぷん 2017/12/06(水)22:02:35 ID:gzH
>>19
蜀の復興やろ



23: 名無しさん@おーぷん 2017/12/06(水)22:02:54 ID:BcU
>>21やろなぁ



29: 名無しさん@おーぷん 2017/12/06(水)22:05:26 ID:mFy
>>23
ってことは再び劉禅を推戴するんかな
鍾会じゃなく



33: 名無しさん@おーぷん 2017/12/06(水)22:07:21 ID:BcU
>>29
この伝の注の『華陽国史』って資料に劉禅に手紙送って復興させるのをお待ちくださいって言ってる



35: 名無しさん@おーぷん 2017/12/06(水)22:07:54 ID:mFy
>>33
へぇーそうなんや
サンキューガッツ



36: 名無しさん@おーぷん 2017/12/06(水)22:08:29 ID:BcU
>>33
なんか日本語おかしかったわ
今回は注まで訳してないからすまんな



42: 名無しさん@おーぷん 2017/12/06(水)22:10:01 ID:BcU
>>33
しかも字を間違えてた
史ではなく『華陽国志』や



37: 名無しさん@おーぷん 2017/12/06(水)22:08:34 ID:tc1
>>33
劉禅ももう皇帝になる気なさそう



44: 名無しさん@おーぷん 2017/12/06(水)22:11:48 ID:BcU
>>37
一応降伏論を提示された時最後まで南方に逃げようと考えてたって譙周伝にある
譙周に説き伏せられて初めて降伏を決断したんだと



18: 名無しさん@おーぷん 2017/12/06(水)22:01:40 ID:BcU
郤正著論、論維曰「姜伯約、據上將之重、處羣臣之右、宅舍弊薄、資財無餘、側室無妾媵之褻、後庭無聲樂之娛、

郤正が論を著し、姜維を論じて曰く「姜伯約(姜維)は、上将の重責を担い、群臣の上に位置したが、家は質素で、財産は余剰がなく、側室に妾を置く猥褻さはなく、奥座敷に音楽の娯楽を設けず、



22: 名無しさん@おーぷん 2017/12/06(水)22:02:42 ID:BcU
衣服取供、輿馬取備、飲食節制、不奢不約、官給費用、隨手消盡。

衣服は供給された物を使い、輿と馬は備えられた物を使い、飲食は節制し、豪奢ではなく倹約もせず、官給の俸禄を、手当たり次第に消費した。



25: 名無しさん@おーぷん 2017/12/06(水)22:04:14 ID:Bez
>>22
まさに亮先生が手本だなあ



28: 名無しさん@おーぷん 2017/12/06(水)22:05:23 ID:BcU
>>25
清廉潔白だよね
あくまで妄想だけど諸葛亮から倣ったのかね?



24: 名無しさん@おーぷん 2017/12/06(水)22:03:42 ID:BcU
察其所以然者、非以激貪厲濁抑情自割也、直謂如是爲足、不在多求。

そのようにした理由を察すると、貪欲な者を激励したり情を抑えて断ち切ろうとしたのではなく、ただそれで充分だと思い、多くを求めなかったのである。



27: 名無しさん@おーぷん 2017/12/06(水)22:04:42 ID:BcU
凡人之談、常譽成毀敗、扶高抑下、咸以姜維投厝無所身死宗滅、以是貶削、不復料擿。

凡そ人が談ずると、常に成功を誉め失敗を貶し、強者を助け弱者を押さえつけ、皆姜維が身の置き所がなく宗族が滅ぼされたことにより、それをもって貶め、ふたたびは検討しないのである。



30: 名無しさん@おーぷん 2017/12/06(水)22:05:43 ID:BcU
異乎、春秋褒貶之義矣。如姜維之樂學不倦、清素節約。自一時之儀表也。」

これは春秋の褒貶の義と異なる。姜維は学問を楽しんで飽きず、清廉かつ質素で節制をする。その時の規範なのである。」



34: 名無しさん@おーぷん 2017/12/06(水)22:07:30 ID:BcU
評曰。蔣琬、方整有威重。費禕、寬濟而博愛。咸、承諸葛之成規、因循而不革。是以、邊境無虞、邦家和一。然、猶未盡、治小之宜、居靜之理也。

評に曰く。蒋琬は、厳正にして威厳があった。費禕は、寛容で博愛であった。皆、諸葛の作った制度を受け継ぎ、それに従って改めなかった。そのため、辺境に憂いはなく、国家は一つとなった。しかしながら、小さきを治める適宜な方法や、静かに住まわるやり方が出来なかった。



38: 名無しさん@おーぷん 2017/12/06(水)22:08:39 ID:BcU
姜維、粗有文武、志立功名。而翫衆黷旅、明斷不周、終致隕斃。老子有云「治大國者猶烹小鮮」況、於區區蕞爾而可屢擾乎哉。

姜維は、文武を兼ね備え、功名を立てることを志した。衆をもてあそび軍旅を汚し、明断はあまねからず、終いには亡くなった。老子は言った「大国を治めるは小魚を煮るがごとし(※)」ましてや、区々たる小国を何度も騒がしてよかろうか。



39: 名無しさん@おーぷん 2017/12/06(水)22:08:54 ID:BcU
※小魚を煮るときに頻繁に動かせば型崩れしてしまう
大国も頻繁に動かしてはならないという戒め



40: 名無しさん@おーぷん 2017/12/06(水)22:09:08 ID:gzH
>>38
陳寿さんは厳しいなぁ



41: 名無しさん@おーぷん 2017/12/06(水)22:09:29 ID:tc1
>>38
ボロクソで草



45: 名無しさん@おーぷん 2017/12/06(水)22:13:34 ID:BcU
これで費禕、姜維伝は終わりや
明日も同じ時間に鄧艾、潘濬伝をやるんで良かったらみてくれやで



50: 名無しさん@おーぷん 2017/12/06(水)22:18:20 ID:mFy
イッチ乙



51: 名無しさん@おーぷん 2017/12/06(水)22:19:02 ID:BcU
>>50
こちらこそ長い時間付き合ってくれて乙やで


許叔龍は費禕伝のあの一ヶ所にしか名前がなかったんで素性とか諱すら不明やった
ただ許靖と出身が同じらしいから血縁の可能性もある