「BLOG 高島回顧録」洋服屋ふじたの四方山話。釣り、競馬、クラシックカーをこよなく愛する男が書き下ろす散文です。

2016年05月28日

高島のイサキが始まった。2年ほど前から高島周辺の潮環境というか、総じて水温が高くなったのか、暖流の巡りが変化したのか、とにかくイサキが良くなった。

それ以前の高島というと、ナンヨウカイワレやブダイ、ベラの仲間で明らかな南洋の魚が鈎に掛かり、水温が上昇傾向にあることを示していた。

カツオの群が山陰日本海の定置網や巻き網に掛かって各所の市場が活気を帯びたのもこの頃。またブリの群が津軽海峡を越えて黒潮と合流せず、北海道西沖の海で漁獲されたというニュースが流れたのも、やはりこの頃。

イサキはその後、徐々に時期が前倒し傾向をみせ、例年ならGW明けにシーズンがスタートするところだが、近年はGWの最中にウキを揺らし始める。シーズン立ち上がりの西磯に大型のババイサキが集中するのは同じで、今年もワレやイワグチ、またゴウトウ周りに速報が出た。

そうして間もなく6月。およそ高島の周りではイサキの産卵が始まるので、大型のメスイサキが大挙して接岸し、磯々で釣り人を楽しませてくれるだろう。初夏になるとオスのイサキが混ざりはじめ、今度は美味なる白子が食卓を楽しませてくれる。

こんな時節に竿を出せないのは全く心苦しい。ようやく高島の釣り方が少し解ってきたとうな気になっただけに、それを確かめることができぬとは、やれやれ。

まあ、こういう時は道具の見直しなどを行う好機でもある。竿、リール、クーラー、バッカンなど磯で使うものなどの他、衣服、靴、また往復に使う自動車など、思えばキリがない。

しかし幸いにも多くの道具は良好な状態。ブランド物にあまり関心が無いため、きちんと目的を果たし、高い性能を発揮してくれるなら問題ない。リールも完全修理が出来ているし、竿も不備はない。クーラーに至っては未使用の予備が納められたまま。

強いているなら衣類か。ゴアテックスの磯スーツは数年の使用で防水機能が劣化する。なんでも機能復元の良策があるというが、まあ、新品ほどの回復を望むワケにもいくまい。

しかし、釣り代を遣わないとは云っても、その分だけ貯金しているワケではないので、まあ、おいそれと新品を買うのも恐れ多い。しばらくぶりに釣具屋さんへ行ってみるか、暇つぶし。



foujitas at 07:33コメント(1)TB(0)潮待放談 

グーグルの広告です

2016年05月27日

人材不足というのか、街づくりにかかる仕事にかかわると、本来の生業以外の勤めというか用向きが劇的に増加し、それでいて金にならない。それでも我が街のことと思えば更に時間はタイトになり、つまり道楽である釣り竿を持つ時間を削ることになる。

最初に削って失ったのがクラシックカー。なんでも政府与党内でヒストリックカーの価値向上を考える議員連盟「自動車文化を考える議員連盟」が立ち上がるというが、何をいまごろになって──。税制や車検制度、道交法や運行法、なた保険などで散々に虐げておきながら、一方で、地方活性イベントに役立っているから云々など...

まあ良い。自動車を愛でる時間や心理的な余裕を失って、残ったのが馬と釣り。週末になったら新聞と赤ペンと短波ラジオの3つだけで楽しめる馬券は続けられたが、どうも釣りには影響が及んだ。就中、高島へ渡ろうとすると2〜3時間の往復と、深夜からスタートする1.5日ほどが必要になる。

それでも総てを高島に照準を合わせて働き、通ううちに少しずつ磯や釣りのことが解ってきた。季節や気候と磯。瀬と潮。時節と釣りもの。仕掛けや道具。喰いが立ったときの爆釣法と、まるで釣れないときの対処法。

なにより役立ったのは、やはり先達からの口述による教えというか言い伝え。

磯ごとに云われる様々な言い伝えは、大勢の先達らによる長年の経験が格言のようになったもの。

コダンは左沖へ出る潮で火電煙突が目安。

スズメは45度の遠投で右へ行く潮。

イケマはマツガシタ沖へ出る潮で遠くがヒラ、近くは大鯛。

タカミは丸瀬。

イワグチは上げ潮の分水嶺、正面とクエバ沖。

ワレはイガラの駆け上がりと逆潮ならラクダ沖。

イガラはカメへ。

カメはカメ潮。

ゴウトウは...

これだけではない。高島の主要なポイントには何等かの言い伝えがあり、潮を訊きながら工夫をして釣れば面白い。K先生が曰く、「潮や瀬の特徴を知り、潮がどうなったときに、何処をどう釣るかを知っとかんにゃ」

高島の潮は本当に変幻自在。単調な右流れとか左流れではなく、押してくる潮、湧き上がる潮、離れていく潮、沖へ通していきなり向きを変える潮など、言葉では言い表せず、またほとんど予測ができない。

目の前、磯で遭遇した潮に対して、引き出しのあらゆる工夫を繰り出し、適切な釣り方ができるか否かが釣果を左右する。教科書通りに釣っても大して釣果は伸びない。いわんや漫然と仕掛けを放り込んだり、気ぜわしく手を変えたりしていてはダメ。ベテランだけが知る経験と勘こそが、高島の釣りの秘訣。



foujitas at 09:02コメント(0)TB(0)潮待放談 

2016年05月26日

10日間にわたる入院騒動の果て無事に退院。再始動したものの、いささかの調子が戻らぬ状態で日常生活が再開。平時環境の中で、徐々に慣らし運転から始めなくてはならぬこの頃。

いきなり高島の磯に立つにはリスクが大きく思われ、同行の仲間や船に迷惑をかけるワケにはいかぬ故、手近なところから再スタートを決めた。

まずは自動車の運転。これは予想通りOK。長時間でも何等も問題は無い。次ぎにキャスティング。全身の筋肉を緊張させた試しは少なく、竿を振り抜けるかどうか。また魚を掛けたら掛けたで、完全なやりとりが出来るかどうか。これは試してみるに限る。

すると、カゴ釣りをどこまで巻き戻せば良いだろうか。いまでこそ数ヶ月の無沙汰を決め込んで高島へ再訪しても、ものの半時間もすれば、磯で身体を巡らせる事を刻み込まれた記憶が湧き上がってくるが、そうでないとしたら、まず竿を振るところから確認してみる必要がある。

沖家室島、本浦。思えば高島へ渡る以前、三隅でヒラマサを釣る以前には毎週、足繁く通った港だった。近年ではアジを釣るべく訪れたが、カゴ釣り用の竿を振ったのは数年前が最後。それでも真鯛やチヌがときどき釣れた。

あそこから遣り直すとすれば──高島回顧録を読み戻してみると、当時のことがいろいろ書いてある。まだがまかつの竿や剛弓を手に入れる前であり、そのころ使っていたのは波濤。ダイワの中堅の竿だった。

銀色の4号竿はとても素直な先調子で、胴も充分な柔軟性を備えていた。重さもそれ相当。本浦の堤防から仕掛けを投げ入れ、運良く掛かった真鯛は、およそ50センチほどの個体。飛び上がるほど嬉しかった記憶は褪せていない。

そのとき使っていたリールが、シマノのパワーエアロ。竿と同じ銀色のボディは、それまでの釣りでは体験してことが無いほど大型の物で、どんな大物が掛かっても負ける気がしない頼もしいリールだった。

ツインドラグシステムは、スプール前部の大きいツマミを回せば、一気にドラグが開放され、反対に回せばプリセットしたドラグの抵抗力にセットできる優れもの。プリセットはツマミの中央に組み込んであるダイヤルを回転させる事で行う。

使い始めた当初は、カゴ釣りの急激な大アタリに対応し、取り込みを始めるときに大ツマミを絞め込んだら完全...などと上機嫌だったが、その実は余り役に立たない。云うなれば、置き竿で泳がせ釣りをしている時に、掛かった魚が仕掛けを持って走った際、フリードラグで対応できるという仕掛けであり、竿を手持ちで釣り続けるカゴ釣りには無用な仕組み。(笑)

その後にまもなくリールは、その軽さとシルキーな回転に惚れ込み、ダイワトーナメントISO遠投を2機続けて使うようになり、パワーエアロはお蔵入りとなった。

そのトーナメントは、しかし10年を待たずして激しく故障──というか、破損に近い状態にまで使い込み、遂にはshimo兄貴のお世話になって、大がかりなオーバーホールを受ける運びとなった。

その復帰緒戦を計画したところで忙殺、そして入院と相成って今に至る。ここはパワーエアロと沖家室島から出直すという今季か。

高島のイサキ祭はまもなく本番。昨年7月にタカイワで釣った大量のイサキ大祭を思い出すとせつないが、これもまた仕方ない。

それはそうと、パワーエアロの糸を巻き替えねば、いったい何時の道糸か。(^。^;



foujitas at 07:32コメント(0)TB(0)潮待放談 

2016年05月25日

中通し型の発砲棒ウキを買ってきては、耐久性を上げるべく改良を加える。飛距離を思うと少しでも細くて空気抵抗が少ない形状が良さそうで、それでいて25号の錘負荷というと、ほぼ限られた品物しかない。

創作キットを購入してイチから造ることも考えたが、まず長い発砲スチロール素材の中心へ真っ直ぐな穴を開けることが困難。専用の治具か旋盤でもあれば別だが、感覚だけで刃を入れたらまず失敗する。

しかし考えてみるに、ロケットカゴの形状を鑑みると、棒ウキは必ずしも細いばかりが有利なのではなく、もしかしたら空力抵抗値を下げる特殊な形状が存在するのかも知れない。それを知らないので、ただ細くて長い棒ウキを使っているとすれば・・・まあ、いまは仕方ない。

さて、市販品の多くはウキのトップ部を蛍光赤に塗装してある。中にはオレンジ色もあり、黄色もある。いずれも蛍光塗料ではあるけれど、実際の釣りで使ってみると、常用薄明や薄曇りで海面が黒いときは蛍光黄色が、よく晴れて海面が白い場合は蛍光赤が見えやすい。

一般的なオレンジ色は明度が小さいせいか総じて見えにくく、希にやたらと目立つオレンジ色がある。

ウキの視認性は、実際の釣りにはあまり大きく影響しない。たとへウキが消し込んでも、おおむね向こう合わせで鈎が掛かり、道糸を引っ張られてアタリに気付いたところで沖の出来事。さほど不利にはならない。それどころか沖を釣っているなら、細かなウキの挙動に驚いて大アワセを入れて空振りという事さえある。

だが、そうは云っても、自分が投げた仕掛けの位置を見失うのはストレスになるもの。あるいは、仲間の隣人のウキが見えず、望外に仕掛けを絡ませてしまうリスクが無いワケでもない。

そんなワケでウキの視認性は低いより高いに越したことはない。そこで、市販の棒ウキを改良する際、赤トップの一部に蛍光黄色の帯を塗装。これで海面の明暗にかかわらず、どちらかの色が目立って見えるはず。

かつて、トップ部へスパイラル状の赤×黄の塗装ができたら、全天候型だといって興奮した事があったが、結局のところスパイラルデザインに塗装する技術が無く断念。とりあえずは帯型の塗装で試してみます。(^。^;



foujitas at 09:07コメント(2)TB(0)潮待放談 

2016年05月24日

amazon.comのキンドル版によって50年ぶりに復刻された「釣ファン」は、とても多くの貴重な情報が載っていた。遠見さんの高島に関する記事を筆頭に、浜田は馬島の情報や、当時の西日本の釣り事情など、夜明け前の日本の釣りが克明に記されているのだった。

初号の編集後記から、少し引用してみよう。

わが国の釣り人口は、一千万、いや一千五百万人との声も聞かれるほどに、釣りは一時のブームから、すでに一般庶民の健全娯楽の最右翼に、定着してまいりました。釣りぐらい、手ッ取り早く入門できて健康で、しかも実益のある趣味は、他にないからでしょう。

なるほど、1966年当時の釣り人口は1〜1.5千万人だったらしい。レジャー白書2015年版によると、2015年の釣り人口は670万人。なんと当時に比べると半減してしまっている。少し遡ると2001年が1690万人。釣ファン創刊当時1966年の1500万人は、80年代のバブル景気頃に2000万人となり、以後、減少傾向を辿っているらしい。

いま思えばブラックバスだったり、新たな釣りのジャンルが次々に開拓され、釣り具業界が異常な活性化を見せる一方で、釣具の流通や小売りに大きな変革がもたらされた当時だ。巷の零細釣具店は淘汰され、大型の量販店が全国の街々を席巻した。

高島の直近10年をふり返ってみても、そう云われてみれば10年前より活況は少し静まったような側面もある。たった10年生でも船長と親しくなれたり、また多様な磯で竿を出すことができるのは、たとへば2000万人の釣り人が居る時代では敵わなかった事かもしれない。

編集者が後記で述べる一節に、こんな下りがあった。

私はかつて、アユ釣り二十年という、あるベテランの述懐を聞いたことがあります。「どうも最近は、自分の釣りに迷いが出てきた。だんだん下手になって行くような気がして・・・」釣り歴二十年にしてこの謙遜です。

この経験から釣ファンを創刊する気になった、と後記で白状するのだが。それはともかく、20年の熟練師にして「下手になった」と思わせるのは、いかなる感覚だろうか。

高島のカゴ釣りを顧みるために始めた高島回顧録であり、これを自ら読み返してみると、ちょっと後記の一節が解るような気がするのだった。

一通りの道具の使い方や釣り方をマスターすると、次ぎに自分自身の釣りに得手と不得手が生じる。癖とでもいうべきこの拘りは、時として潮や瀬に対する柔軟な考えや閃きを邪魔するもので、早い話しが「浅はかな思い込み」による失策を呼ぶのだった。ゴウトウやタカミ、ワレやイワグチで何度それで泣いた事か。

初めて高島で見た、師匠やK先生の変幻自在な釣りは魔法のようだった。狙った魚が居なければ、あっさり諦めて釣れる魚を狙い始める切替の速さ。何が悪いのか解らぬまま漫然と打ち返していると、突如、仕掛けをタルに変える見切りの良さ。潮や瀬に関する知識と引き出しの豊富な事。

こうした感性やテクニックは、やはり足繁く繰り返し高島へ通い、飽きることなく同じ磯で釣り続けることでしか養われない。タカイワ連続4回とか、タカミ連続3回とか、沢山釣れるときもあれば、サッパリのときもある。そのすべての経験が師匠やK先生級のスキルの材料になる。

だから今のように、陸にあって屁理屈ばかりブログに書いているようでは、釣りは「だんだん下手になって行く」ばかりなのだ。いくらyoutubeで高島の釣り動画を観ても、やはり磯に立って、竿を持って、潮と対話しない事にはダメなのである。恨めしい、恨めしい。

そういうワケで、釣ファン創刊号「編集後記」の括りの一節と同様に──

今後とも、よろしくお引き立てのほど、お願い申し上げます。



foujitas at 06:26コメント(0)TB(0)釣ファン創刊号潮待放談 

2016年05月23日

なかなか高島へ行けないからといって、このブログを他目的に利用するのはヤなのですが、ひょんな事から私が実行委員長を担った一大イベントのお知らせだけ、すみません。 m(_ _)m

パシフィックショーケース in 岩国
2016年6月16日(木)

熊本地震・熊本大分支援コンサート
岩国市民会館大ホールにて公演!

と云うワケで、福生は横田基地の在日米空軍に所属する、親善音楽隊「パシフィックショーケース」のコンサートが、岩国市民会館で開催されます。

アメリカのスイングジャズを代表するグレン・ミラーは、当時のアメリカ陸軍航空隊少佐でした。少佐が率いる楽団は後に空軍の親善音楽隊として軍内で引き継がれ、今に至っています。「パシフィ...」は14人で編成されるアメリカンジャズのプロ集団。全員がオーディションを通過してきた強者揃いで、非常にレベルの高いスイングジャズが演奏されるそうです。

軍楽隊なので演奏料は無償。会場費だけで音楽が楽しめるという仕組みで、このハイレベルな音楽が大人1000円、中高生500円、小学生以下無料という破格の値段。滅多にないチャンスが岩国に巡ってきました。

2016年6月16日(木) 岩国市民会館大ホール
18:00会場 / 18:30開演
大人1000円、中高生500円、小学生以下無料
主催 パシフィックショーケースジャズ岩国公演実行委員会
チケット・お問い合わせ 岩国まちなか倶楽部
電話(0827)93-5184


詳しくは──
パシフィックショーケース in 岩国
http://www.nakadoori.jp/content/2016_0616_psc_01.html


ぜひ、ご鑑賞ください。 m(_ _)m





foujitas at 00:21コメント(0)TB(0)潮待放談 

2016年05月22日

50年の歳月は決して短くない。ちょっと前なら「人生50年」と云われた歳月で人間の寿命だといい、それは半世紀に値する。身近な自動車の新旧を比べると、それがどれほど昔で、当時の人々の暮らし向きがどうだったかが感覚的に理解できるかも知れない。

初代カローラ(E1型)が誕生したのが同年。有名なといころではHONDAがチェーン駆動のS500に続き、ペラシャフト駆動の600、さらに発展型としてS800を発売したのが1966年。ちなみにTOYOTA2000GTやMAZDAコスモスポーツは1963年。うちのガレージで休んでいるMGBも1963年生まれ。映画007はサンダーボール作戦、山本リンダがデビューし「こまっちゃうな」がヒットした年、当時16歳。

釣り道具はどうか。

自前の過去を眺めると、小中学生のころに持っていたグラスファイバーの竿やラチェット音がするリールの以前、さらに10数年遡った時代だ。いかにも情報に乏しいが、井上博司氏の著作による「少年釣り百科」の初版が昭和49年(1974)だから、釣ファン創刊号の8年後。

ちなみにオキアミが日本に導入されたのは80年代半ばと思い込んでいたが、実は誤り(ごめんなさい)。諸説ある中で、次のような歴史があったらしい。

昭和30年代後半には関西圏のクロ釣り餌として存在していて、後の1970年代になって関東の釣具店(だるまや釣具?)で商品化され、関東一円へ広がったと同時に全国で普及したという。すなわちオキアミが普及しようとしていた当時が本書の頃。

餌について言及された下りでは、当時の餌としてサザエ、イサキ、フナムシ、カラス貝が用いられたと書いてあり、虫(ゴカイ類)やエビは使用不可としてある。オキアミに関する記述が無いところをみると、この当時の高島や周辺地域の釣りには、まだオキアミは普及していなかったと見るべきだろう。

釣具に関しては全くといって良いほど触れられていないが、その他の資料から類推するに、和竿が現役で働いていた時代であり、樹脂製の竿が生まれ、グラスファイバー素材が珍重されていた頃だろうか。

釣具屋に並ぶ道具のメイカーも、大手でいうならダイワやシマノだけでなく、オリムピックやリョービといった有名所があったのではないか。

舟から釣る道具は糸巻きやかかりウキか、あるいは手による吹き流しか、いずれにしても原始的な釣り方だったであろうことが察せられる。その見地に立つと、釣りの進化、なかんずく釣り道具の進化は1970年代に急速は発達を遂げたのではないか。実は自動車産業の発達や繊維産業の発達も同時期に重なる。

人々の暮らし向きが大きく良くなった時代であり、それを象徴するように3C、または新三種の神器と呼ばれたクーラー、カラーテレビ、自動車が普及した。

そんな時代、釣ファン「秘境・石見高島」を書き下ろした遠見さんは、こんな言葉で本稿を締めくくっている。

では、諸兄の伺島結果をお待ちいたします。

いまでこそ渡船料金5500円を負担すれば、釣り人ならおよそ格差なく渡船で運んでもらえる。恵翔丸のほかにも島義丸、益田丸と合わせて3隻の渡船(うち2隻は遊漁対応)があり、爆釣時期でなければ、満船で乗れないという事は少ない。

しかし50年前には、島へ渡ることさえ困難であり、あまつさえそこで釣り竿を翳すなど難儀の極み。人間同士の信頼関係を築くだけでも骨が折れるのに、使うことができる釣り道具だけでは、たとへ魚を掛けても取り込めない事態に遭遇するなど、ちょっくら『伺島結果をお待ち』というレベルではなかった事だろう。

先代の大船長に聞いた話しの一つ。昔、高島の底物釣りは主にクエを狙っていた。磯泊まりのシステムがあり、釣り人は磯へアンカーを打ち込んで、グラスファイバーのクエ竿を結びつけて深夜のアタリを待ったという。

夕刻へ磯上げをして、船が磯を離れるとき、撒き餌であるサバの切り身を船からポイントへバケツで撒くのが船の役目。釣り人は日暮れ頃から竿を出した。

ある深夜、単独で磯へ乗った釣り人は、微妙なアタリを感知するために指へテグスを軽く巻き付けたまま、うっかり居眠りをしたという。そこへ大アタリ。巨大なクエがテグスを引き込み、釣り人のその指は一溜まりもなく──。しかし激痛と出血に耐えながら取り込んだ大クエは、優に30kgを超えていたと云った。

これが作り話か真実かを確かめるのは野暮というもの。実際にタカミやコダンには、先達が打ち込んだアンカーが今でも数多く遺されているし、それほどの大物が潜んでいて、鈎と糸で対峙するチャンスが高島にはあるという事。

現在でいう底物師は、そのほとんどが石鯛。50年前に云うところの「ハゲ」が殆どで、そこへイシガキダイが混じる。アコウを専門に狙う向きは少なく、ボッコウ釣りの達人である山田名人の背負子姿も近年では見かけなくなった。ほかの釣りは、やはりカゴ釣りとフカセ釣りが主流。

道具も進化した。カーボン素材のしなやかで軽く丈夫な竿が安価になり、フロロカーボン繊維の強靱なハリスが手に入り、リールもまた魚との力比べを制する能力を備えた。

釣り人も然り。私のような磯釣り初心者でも、師匠らに誘ってもらい、敷居の高い高島で釣ることができた。

50年前とは云わず、たとへばレジャーとしての釣りが発達した80年代であっても、当時の高島初心者は大変に肩身の狭い思いをしたのではなかったか。磯釣りのルール、先輩後輩の序列、渡船屋さんとのコミュニケーションなど、一本のヒラマサに辿り着くために越えなくてはならない多様な壁があったと思われる。

現在。敷居が下がり、磯釣りのメッカの門戸が広く開かれることは決して悪いことではない。しかし一方で余りにも安易に釣りが出来るようになったが故の、モラルや礼節、また古来の流儀を軽んじることがあってはならない。

ゴミの扱い、火の取り扱い、餌を初めとする釣り方にかかる伝統の破壊、環境への思い遣りなど、高島が今後の50年も磯釣りのメッカであるめには、そこへ渡る人々の一人一人が紳士的な釣り人として立ち振る舞う勇気と実行が不可欠。

高島へ渡るとか、高島の磯へ上礁すると申されず、遠見さんは「伺島する」と書いた。「伺」という文字は「訪問するを表す敬語」という意をもつ語彙。50年後の今日でも、常に畏敬の念を忘れることなく磯に立ちたいと思う。

高島万歳。



foujitas at 08:21コメント(0)TB(0)釣ファン創刊号潮待放談 

2016年05月19日

1966年といえば、いまから丁度50年前の昭和41年の当時。世間は高度経済成長のピークから横ばいする時代にあり、この数年後に世界的なオイルクライシスが起こるという時代。第一次改造内閣として佐藤栄作が総理大臣として活躍していた頃だ。

当時の物価をふりかえって見ると、郵便切手は、封書が15円、はがき7円。国鉄の最低料金が20円。大卒初任給は24.890円とみられる。

そのまま現在に比較すると、郵便切手は封書が82円で5.5倍、はがき52円で7.4倍。JRの最低料金が140円で7倍。大卒初任給は約20万円として8倍。生業の洋服屋で扱っていたブレザー1着が、当時1万円で、現在5万円だから5倍。

こうした比較結果を鑑みながら、遠見さんの文章を引用してみる。

この島は非常に危険な島で各釣り場とも足ごしらえは、充分にしロープ携行のこと。また入島料として一人三〇〇円を部落会に納めねばなりません。(中略)出来れば部落下の舟ツケより上陸、一言挨拶されて行くのが礼儀かと思います。

今では想像もつかぬ当時の様子だが、つまり人が住まい、暮らしを営んでいる島へ侵入し、少なくとも娯楽としての釣りに勤しむためには、やはりそれなりのショバ代は必要であろうし、人としてのコミュニケーション術は欠かすことのできない要素だった事が窺える。

いまでも漁業者の仕事場である港をして、堤防は漁師だけの物ではないと凱歌をあげ、礼節を欠いた挙げ句の果てに堤防へバリケードが張り巡らされるケースも散見される。他人の既得権を攻撃する前に釣り人としての自覚と責任を果たすことが大切のように思える。

かくて、高島の入島料が300円。現在がその5〜8倍とすれば1500〜2400円というところか。たとへば管理釣り場の持ち帰り付き料金や、川釣りの遊漁料を思うと、やや割安感がある。

続いて──交通の便は益田駅よりハイヤーで鎌手大浜港(小型で夜間六〇〇円)。不定期であるが、かまて号がときどき出航しています。一人一〇〇円。大浜漁協(電話鎌手五番)に頼めば船の手配をしてくれます。片道五五分で二〇〇〇円ほどです。

つまり、JR益田駅から大浜港まで小型タクシーに乗って夜間割り増しで600円。続く「かまて号が1人100円」というのは、「出航」と云うからには乗り合いシャトルバスではなく、船の事だろうか。それとも遠見さんが洒落てみたのだろうか。

後に続く、2000円の運賃(乗船料)を鑑みると、どうやら洒落ではなかろうかと推察できる節がある。2000円の料金が100円では安すぎるし、600円のタクシーが1/6なら解らぬでもない。

片道が55分と述べた、大浜港から高島への所要時間は、現在の船とは異なる木船の当時のこと。現在の恵翔丸がハイパワーエンジンの690馬力で、FRPの船体が10トン。木船のスペックを知る術は無いけれど、恵翔丸がガチで走って25分だから、その2倍足らずの時間を費やして渡島していた事になる。

渡船料金に着目するなら、50年前が2000円。つい一昨年まで5000円で現在が5500円。こちらは物価対比にあった8倍の格差はなく、実に2.75倍。これに先述の「入島料金」の300円が加算されるから、つまり高島行きは合計2300円。

現在が5500円で入島料込みとすれば、50年前と現在の格差は僅か2.4倍。つまり値上幅は他の品物に比較すると、半分以下の程度でしかない。そう思うと、いつも乗っている何やら恵翔丸には申し訳ない気持ちになるというもの。

岡見駅前の川上商店(電話岡見四一七番)でも世話してくれるが、どうも船賃が高いようです。直接高島の船が来れば安いが、今灯台工事に出て人手が足らないようです。

この一段落には川上商店という固有名詞が出ており、その料金が高いというような事まで明記してある。一般雑誌の情報として書いて良いのか、また出版倫理の認識はそのようなものだったのか、今の時代にこんな事を書いたら、たちまち苦情や抗議の嵐となるは必定。尤も、西村商店が現存するのか否か、知る由もない。くわばら、くわばら。

続けて、高島灯台の建造が進められている事が解る一節があり、ここでもまた、つい最近まで高島が有人の島だった事を再認識させられる。

しかし思うに、50年前の渡島にかかる合計金額2300円が、もしも切手やスーツのような物価比較に沿った5〜8倍になっていたとすれば、現在は11,500円〜18,400円。現在の見島行きより高くなる。

高島がパラダイスに思える大きな要因であり、もしもこんな金額だったら、高島回顧録は始まっていなかったに違いない。(^。^;



foujitas at 23:55コメント(0)TB(0)釣ファン創刊号潮待放談 

2016年05月09日

ー八貫の大寒鯛ー

海底生物、魚類は非常に多く。石鯛寒鯛も大型が棲息している。三十七年部落長の次男と友人二人でコダンで釣り上げた寒鯛は八貫匁あっとか。


八貫といったら、およそ30kgにもなるカンダイだ。つまりコブダイ。大型になることは知られているが、しかし30kgとなったら尋常ではない。おそらくは1メートルはあったのではないだろうか。

そして巨大なコブダイは、次のように述べられている。

寒鯛は南岸いたるところの大岩(転び岩)の間で、水深も無い所で大物が揚がる。ジンドウ、ヒトリガオルトコ所、舟揚場、コダンと釣場は非常に多く、島民は大きなクジがおるから釣ってくれと案内してくれます。

なるほど、先のイワグチでも70cmを超える大コブダイが揚がったと話題になったが、高島の南岸には、大きなコブダイが沢山棲んでいるらしい。何も潮が行かないときだけ喰うのではなく、カゴ釣りでは喰いにくいということか。アコウなどを狙っていたら、もしかすすると──。

ところで、磯(瀬)の名として出てきた「ジンドウ」と「ヒトリガオルトコ所」とは何処だろうか。「高島 REAL MAP」を照らし合わせ、釣ファンの古地図を見ると、「ヒトリガオルトコ所」とは、概ねスズメの低手と高手。「ジンドウ」とはミヤノシタのアカイワ側で、アカイワまでは達しない辺りと記載してある。

スズメこそ遠くへ投げれば水深は深いが、その東側の南岸は、およそ岸から50m以内の海域は非常に浅い。記述にあるところの「転び岩」に相応しい地形であろう。

さて、「鎌手の鯛と高島海苔を知らないものは石州っ子ではないとまで言われている。(引用ここまで)」とある高島海苔は、残念ながら初耳で、まだまだ高島や石見は知らない事だらけだと猛省するばかり。

その高島海苔は、マタウチ瀬から採取されるという。「マタウチ瀬」とはホトケの南寄り、ワクンチの隣りの極めて浅い瀬を指すらしい。この辺りで海苔が採取できるのか。

閑話休題。ここからの記述は、おおいに高島の釣りと関連する事柄が続く。

本島での磯釣りの餌はイサキ、鯛類は舟虫、石鯛(ハゲ)寒鯛(クジ)釣りはカラス貝かサザエで釣っているので島民は、「釣行のための入島は拒みませんがわれわれの餌以外の虫やエビ等を持参されたら、そのまま帰っていただきます」と再度念をおされた。彼等には生活がかかっているいるのです。今後釣りをされる方は島民の感情を害さず秘境の一日を楽しんでもらいたいものです。遠見さんは当時、率直にこう述べておられる。

高島のような桃源郷で竿を構えると、釣り人が凱歌をあげたい気持ちは解るが、島の暮らしをまず先に考えようとする筆者の思い遣りであり、全釣り人への啓蒙・啓発ではないだろうか。

さて、本項の巻末には磯と潮の興味深い関係性が記載されていた。要約すると次のようなもの。

(1)前記のごとく、暗礁の出たゴウドウ(ゴウトウ)が一番で、西流の始めに喰いが立つ。

(2)ノヅキも西流で釣れる。

(3)エガシロ(ナベ)は東流の始め北に向かって手前に打ち込む。

(4)西風の強いエンノシタ及びゴウドウ(ワクンチのゴウトウ)でも釣れる。

(5)岩口は型が小さいので鈎を小さくすれば数揚がる。

(6)島民はマジマの間で釣るが水深がなく大物は揚がらないようです。

(7)コダンは小さい。

以上が石鯛(ハゲ)のポイントだと書いてある。



foujitas at 08:01コメント(0)TB(0)釣ファン創刊号潮待放談 

2016年05月08日

兎にも角にも、高島という土地は痩せていた。島に水田は無く、畑も僅か。主として漁業で生計を立てるしか選択肢が無い暮らし向きで、若者の多くは遠洋漁業に雇われて島を出るが、一部の住民は高島に残って近海の漁を生業にしていたという。

近海の漁業としては本島船揚場を根拠地に数隻の自船を操りながら漁業に従事し、一月より六月頃までブリ釣りで夏場はイカ釣りを主にしています。

さあ、さっそく出てきた「ブリ」。もちろんブリは日本海に居るが、これこそがヒラマサの事ではなかったか。ブリとヒラマサの見分け方などが取りざたされるくらいだから、古来よりヒラマサとブリは同じ魚として見なされてきたのではないだろうか。

そして、この記述から読み取れるのは、ブリであれヒラマサであれイカであれ、やはり一義的には船による漁が前提。後の記述に出てくるような「磯からブリつり」というような事は、やはり珍しいことに他ならない。

そして面白いのは、釣り目的に入島した釣り人が沢山の魚を釣ると、何か自分の物を横取りされたような錯覚もあって「あの奴よけェ釣りアがって」という思念が感じられる、と遠見さんは書いている。

引用。舟は船揚場よりコロの上を滑らせ波のとどかない高い安全な場所に引き揚げておくので、ちょっとの風波でも使用出来ません。

すなわち、今の「フナヒキ」が船揚場であり、ここを拠点に船を出しては近海でブリとイカを捕っていたという。燃料と動力が無かった時代、コロの上とはいえ傾斜面を引っ張り上げる労力は並大抵のものではなかっただろう。また、ちょっとの波や風でも出られないという「ちょっと」とは、当時の木船を思うと、そのリスクはかなり高かった事が想像される。

そして「磯からブリつり」。

秋より冬は船を出す日が少なく、磯で釣りをしている。春の磯釣りではビンクロウ、ヒコ、ムギヤキ等の雑魚が釣れ、夏はイサキ、秋はブリなどの大魚をつることも出来、岩上に居ながら二尺以上のブリを釣り上げる風景は他所では見られぬものでしょう。

まさにこの下りこそ、高島にヒラマサ釣りを求めた遠見氏と、後に続く大勢の高島ファンの思うところではないか。磯から60センチを超える青物を磯竿で釣り上げられる場所は、全国通津浦々を見回しても、そうどこにでも在るものではない。

しかも50年前といったら、現在のようなカーボン竿は無くグラスファイバー竿が主流。当時の磯竿とは、長さこそ5m少々だが元竿の直径は5cmを上回ろうかとうう太さ。フロロカーボンという糸もなく、釣り糸はすべからくナイロンモノフィラメント繊維。リールも大きな力に耐えられるのは、大型の両軸受けリールしか無かった。

それが体感できる島として高島が注目されたのは、他所の男女群島などと並び称される所以の一つだったことだろう。しかし、この当時の高島へ渡った釣り人の釣り物はどうやらヒラマサではなく、多くが底物だったらしい。

足が早い漁獲物は、たとへ釣り上げても搬送の途中で傷んでしまったり、著しく不味くなったりしては仕方ない。そんな背景もあったのかも知れない。

ところで文中に出てきた魚の名「ビンクロウ、ヒコ、ムギヤキ」とはどんな魚だろうか、ちょっと調べてみた。いずれもベラの仲間で島根の地方名として語り継がれているものらしい。尤も、耳にした記憶はないのだが。

ビンクロウ=キュウセン、ヒコ=ササノハベラ、ムギヤキ=キュウセン。つまりベラ。(^。^;

今でもベラはたくさん泳いでいるが、なにもベラを釣って食べずとも、ウリボウやサンバソウなど、もう少しマシな魚が居ただろうに、などと思うのが当時を知らぬ者が抱く老婆心というものか。

そしてポイントについて、こう書いてある。以下、引用。これらの大魚はマツザキ、ノズキ、千畳敷、仏岩の岩鼻が釣り場です。

ノヅキではなく当時は「ノズキ」。「千畳敷」とはナベの右側だから今で云うホトケの平たい辺り。「仏岩」とはホトケのワクンチ寄りの界隈か。いずれにしても秋磯と云われて名高い磯であり、秋の釣り物として挙げられたブリという魚もまた符号する。

漁業に関して見れば、高島鯛と高島海苔について触れてある。以下、引用。高島鯛は、高島海苔とともに有名である。海底のアワビ、サザエは島民だけでは採取出来ず、大体寿命に達したものが多い。アワビは益田の水産試験場に持って来たものは、一コ、一貫匁(三・五キロ)、貝の大きさだけで縦二十センチ、横十六センチという...(省略)。

そして高島の人々の半数は泳ぎを知らず、これらを直接潜って採取するものは少ないという。大船長によると、幼い頃から素潜りで高島の磯(瀬)を泳ぎまわり、海底の様子を見て知っていたと云っていたのを思い出す。大船長は、泳げる方の半数だったというワケか。

いずれにしても、「高島の周辺二、三〇尋の深海」換算すると周辺海域30〜45mの海底には、もっと大きなアワビやサザエなどの貝が生息していて、海女でも潜らぬ限り採れそうもない、と遠見さんは本項を括ってある。



foujitas at 08:43コメント(2)TB(0)釣ファン創刊号潮待放談 

BLOG foujitas
高島回顧録


ADMIN


必読オススメBLOG(^^)

いろいろ報告…錦帯橋

【プロフィール】
ふじたのぶお


最新のコメント
  • ライブドアブログ