ぼくは、長い行列に並び、何を待っているかもわからないままに、列が進むのを待った。

五分後、列の最前列まであと少しというところで、自分が何を待っているのかがわかった。

金属ゲートをくぐる利用客たち。

ぼくの前にいた子供も、コートを脱いで、丁寧にたたみ、長方形のトレーに載せ始めた。

ぼくは、ギャップのダウンコートと、H&Mの薄いウィンドブレーカーのような上着を脱いで、緑色のシャツを脱いで、十字架のネックレスを外し、財布を取り出し、カードケースを取り出し、それぞれを、トレーの上に置いた。

スポーツバッグが、トレーにぴったりと収まったことが、何だか感動的だった。

ビクビクしながら金属ゲートをくぐると、案の定、鳴り響くブザー。

ぼくは、拳銃を向けられないうちに、ポケットの中を探り、首筋に手を当てた。

外し忘れているものは何もないようだ、と、その時、外し忘れていたベルトを見つけた。

ぼくは、ベルトを外し、もう一度ゲートをくぐった。

検査官たちは、いずれも硬い顔つきで、こちらに冷たい目を向けている。

空港は裁判所以上に冗談が通じない場所、とは有名な話だ。

ゲートを抜け、アクセサリーや服を身につけていく。

冗談の通じない検査官たちにとっては、コートの下にもう一着生地の薄いコートを着ているアジア人なんて、警戒の対象でしかないだろうに、予想以上に、初めての入国審査はうまくいった。

重たいバッグを背負い、さあ、ゲートを抜けよう、というところになって、声をかけられた。

「ーーHey mr.」

「え? Yeah?」

見ると、ぼくに声をかけてきた空港の係員さんは、ぼくの財布を持っていた。

「Be careful」

「Oh my god」ぼくは、小さく笑い、財布を受け取った。「I`m idiot」

「Not bad」係員さんは笑った。

「Thank you sir」

係員さんは、優しく微笑んだ。「You are welcome. Have a nice trip」

世界で一番幸せな国民、デンマーク人。

彼らについて書かれた本、デンマーク人が世界で一番幸せな10の理由-マレーヌ・ダイアル、という本を読んだことがある。

それによると、デンマーク人たちが幸せなのは、内面、つまりは、人格面が素晴らしいから、というところにあるらしい。

なんと、デンマークには、日本同様に、畑のそばに無人の直売所などがあるらしい。

落とした財布が必ず持ち主に戻ってくるらしい。

デンマーク人たちは、人を信じることの大切さを知っている。

デンマーク人たちは、他人を尊重することの大切さを知っている。

デンマーク人たちは、とても、自由奔放で、酒を楽しむことはいいことだと思っている。

デンマーク人たちは、性に対しても自由奔放で、親友同士で楽しんだりもするらしい。

船橋の故郷を思い出してみた。

自分には、幼馴染の大親友が数人いる。

その中にはもちろん、とっても綺麗なやつやとっても可愛い奴がいるけれど、一緒にベッドに入ることができるかどうかは、考えてみても即答できなかった。

逆に言えば、あいつらとやってみたいという自分が、心のどこかにいるということかもしれない。

これは思わぬ発見だ。

ゲートを抜けると、右手に、コーヒーショップとセブンイレブンが見えた。

セブンイレブンが海外にあるなんて、意外だった。

それまで、日本限定のコンビニだと思っていた。

左手には、人魚姫と僕でも聞いたことのある有名な作家の説明書きが展示されていた。

展示スペースの右隣には、免税店。

さらっと目を向けると、酒や洗剤やチョコレートなどが見えた。

空港での待ち時間は3時間。

これだけの時間で、いったいどれほどのことができるだろうか。

ぼくは、とりあえず、奥の方のブースに向かって歩いた。

ブースの隣にあるゲート、その向こうには、たくさんの店があった。

そこでなら、時間がつぶせるだろう。

ところで、このブースはなんなのだろう。

ブースのそばに立っている目つきの悪い北欧美人の警官さんが、いろいろと気になった。

背がすらりと長くて、ほっそりとしたシルエット、でも、近づいてみれば、肩幅は遠くから見た時ほど撫でらかでもないということに気がついた。

じろじろ見ていると、じろっと睨まれた。

ぼくは、急いで目をそらそうと思ったけれど、彼女の、透き通った青い瞳をついつい見つめてしまった。

顔が熱を帯び、目が潤んでしまう。

スッゲェ綺麗だ、とかなんとか思っていると、彼女は、小さく笑った。

「Sir」

声をかけられた方を見れば、ぼくとブースの間には、5メートルほどの空間が開いていた。

ブースの女性は、ニヤニヤとぼくと警官の女性を交互に見ていた。

「Sorry」ぼくは、ブースに向かった。

「Passport please」ブースの係員さんは言った。

[Passport?]

[Yeah]

ぼくは、少しもたついて、ポケットからパスポートを取り出した。[Here you are]

[Thank you]女性は、ぼくのパスポートを見ると、ページをパラパラとめくり、ぼくの顔写真などの身分情報の載っているページを見て、ぼくの顔を見た。[What is your purpose of visited?]

[Purpose?]

女性は頷いた。

えーっと、あれは何て言うんだっけな。[Sightseeng?]

{Sightseeng?]女性はぼくの言ったことを繰り返した。

[Yeah..]ぼくは頷いた。少しだけ、不安な声を装った。

女性は、少しだけ間をおいて、頷き、パスポートにスタンプを押した。[Welcome to Copenhagen]

[Thank you]ぼくは、パスポートを受け取り、ブースの横を抜けた。

[Next]背後から声が聞こえてきた。

ゲートを抜ければ、そこには、たくさんの店が並んでいた。

足元は木の板で、照明は薄暗い。

店に並ぶ雑誌や壁に書かれた示し書きには、ぼくが理解できるはずもない言語で、様々なことが書かれていた。

それに何より、周りには、好みの女性が大勢いた。

彩色の波打つ髪。

その鮮やかな、アーモンド型の瞳は、途方もなく美しく透き通っていた。

知性を感じさせる眼差し。

背は高く、足も長く、肩幅はがっしりとしている。

彼女たちは、みんな、鼻が高く、端正な顔立ちをしていた。

ぼくは、H&Mに入った。

北欧の物価は高いと聞いていたので、どの程度高いのか知りたくなった。

日本でなら、千五百円もしない値段で買えるイージーアイロンシャツには、200クローネのタグが張り付いていた。

200クローネと言ったら、どれくらいだろう。

1デンマーク・クローネが20円だとしたら、4000円?

ぼくは笑った。

「バカかよ」

予想以上だった。

ぼくは、両替所に行き、窓口で、50ユーロ紙幣をトレイに載せた。

男性は、何かよくわからないことを聞いてきた。

「えっと、50ユーロ全部を、デンマーククローネにしてください」

男性は、更に何かよくわからないことを言ってきた。

変な間が空いたあと男性は、わかったよ、といい、デンマーク・クローネの紙幣を、トレイにおいて渡してきた。

「ありがとう。ごめんなさい。ぼくの英語は、あまり上手じゃないんだ」

男性は小さく頷いた。

受け取った貨幣の合計は、200デンマーク・クローネだった。

これなら先ほどのシャツが買えるが、これ以上荷物を増やすことが得策ではないことは、ぼくにだってわかった。

空港の中を歩くのは楽しかった。

ある大部屋は、天窓から射す日差しが部屋中を照らしていた。

フードコートの景色は、全体的に日本ほど詰め込みすぎている感じもなく、視界が広かった。

大窓の外に見える景色は、日本もデンマークも同じなのだということを知った。

トイレに行けば、便座の高さに驚いたが、それでも、予想していたほど高くもなかった。

てっきり、便座が高すぎて用をたすのに脚立や梯子の助けを借りなくてはいけないと思っていたが、そんな目に遭わなかっただけで、ぼくには十分だった。

ゲートのそばのコンビニで、オレンジとリンゴを買った。

ブースで出国のスタンプをもらい、ゲートをくぐる。

その広大なスペースを楽しめるほど、ぼくの足は軽くなかったので、ぼくは、エスカレーターで2階へ上がり、ベンチに腰掛け、リンゴを食べた。

問題はオレンジだった。

手元にはナイフがなかった。

ナイフは、飛行機のキャビンにあるだろうスーツケースの中に入っている。

ぼくは、爪を立て、皮を剥こうとしたが、中々うまくいかなかった。

どうにかこうにか皮を剥き終えた。

残っていた皮の苦さと芳醇なオレンジの香りが、なんとも言えなかった。

コーヒーショップに向かった。

「こんにちは」と、デンマークのおねえさん。例に漏らさず、彼女も飛び切りの美人だった。

「こんにちは」ぼくは反射的に挨拶を返したが、ここで、思い出した。海の外では、店員と客は対等な関係を築かなければいけない。店に入った時も、レジで自分の番が回ってきた時も、まずは挨拶だ。「こんにちは」ぼくはもう一度言って、メニューに視線を落とした。幸い、メニューには英語が使われていた。「ホワイトコーヒーをお願いします」

「ホワイトコーヒー。以上で?」

「すみません」

「なんで謝るの?」

「すみません」

レジの彼女は首を傾げた。「35デンマーク・クローネよ」

ぼくは金をトレイに載せた。

レジの操作をする彼女は、突然舌打ちをし、レジを小さく叩いた。

「すみません」ぼくは言った後で、笑ってしまった。

「違うの。私のミスよ。慣れてなくて。コーヒーはすぐに入るから、ちょっと待ってて」言って、お釣りを渡してくる。「次の人」

少ししてコーヒーを受け取ったぼくは、すぐ近くの、立ち飲み用のテーブルにコーヒーを置いた。

立ち飲み用のテーブルは、ぼくの鎖骨あたりまであった。

どこかで見聞きした話によると、デンマーク人の平均身長は、180センチくらいらしい。

ぼくの身長は170センチ。空港中を歩いていたあどけない笑顔を浮かべる子供達よりも少しだけ高いくらいだ。

コーヒーを飲みながら、電光掲示板を見る。

三時間は、あっという間に過ぎていった。

電光掲示板の真ん中あたりには、ぼくの乗る予定の便の名前と時間が書かれていたが、その右端には、赤い文字で何かが書かれていた。

その英単語を、グーグル翻訳にかけてみれば、驚きの事実がわかった。

欠航だ。

ぼくは、すぐそばを通りかかった空港職員っぽい男性に声をかけた。

彼は、自分の乳首ほどの高さしかないアジア人であるぼくにも、温かい目を、まっすぐに向けてきてくれ、ぼくのつたない英語に、健気に耳を傾けてくれた。

「ぼくの乗る便が、欠航って出ているんですけど」

「少し待ってなよ」言って、彼は、iPad miniよりも少しだけ小さいタブレットを取り、何かを調べ出した。「残念なお知らせだ。現地大雪で、今日は、フィンランドへのフライトができないらしい。今のところの発着予定は、明日の同時刻だな」

「そうですか」ぼくは、日本語で呟いた。「わかりました。ありがとうございます」

彼は、小さく微笑むと、どこかへ歩いて行った。

ぼくは、コーヒーをすすり、大窓の外を見た。