2017年11月18日

 国連での報告に「塚本」が託した文書より (5))

 国連での報告に「塚本」が託した文書より 
2016年の2月16日には、国連の女性差別撤廃条約の女性差別撤廃委員会の人事理事会がジュネーブで開催されました。
日本の女性差別についての現状を国連に伝えるため、結成されたNGO団が、15日の開会式後、NGO団長大谷美代子弁護士が夫婦別姓の最高裁判決も報告されました。
私は、裁判で命をそそぎ、心身共に疲弊したので、私の思いを次の時代に繋いでくれることを祈って、手紙を託しました。 
以下、手紙の内容です。

これで最後ですね!!DSC_0018

ランキングどうかよろしくお願いいたします。
 




『別姓請願書』

日本には、戸籍という、家を単位として、家の構成員を役所に届け出る制度があります。
そして、結婚するときに夫婦の姓は、強制的に同じものにされます。
96%の女性が夫の姓を名乗ります。
社会の見えない力を感じます。
自分の姓を失い、アイデンティティーも失うと感じる女性がいます。

私は、同姓でも、別姓でも、選べることを求め、裁判で敗れました。
私は、生まれたときの姓を名乗れないことで、54年苦しみました。
それは、これからも続きます。
どうか助けてください。

そして、できうることなら、これから結婚する若者に
同じ苦しみを、与えたくはないのです。

優しさを広める活動に、どうかご協力をお願いします。

ランキングどうかよろしくお願いいたします。
 

これからも富山大学人文学部で講議をします。
これからもよろしくお願いいたします。




 

free71 at 22:03|PermalinkComments(0)

2017年10月31日

新しい人権としての氏名権、氏の変更を強制されない自由を求めています。(4)

新しい人権としての氏名権、氏の変更を強制されない自由を求めています。
2010年8月28日、二宮周平先生にQ&A30分程して頂きました。


blogランキングへよろしくお願いします

夫婦別姓の運動を再び盛り上げるため、9月1日、裁判の原告となり、5人の原告団と13人の「弁護士団」(団長は榊原富士子弁護士)の指導を仰ぎ、国を訴えるしかないと感じました。

その翌日(2日)内閣府の講堂で、ジェンダーの講演
スピーカー:女性差別撤廃条約の委員会(cedaw)のシモノビッチさんと林 陽子さんです。
夜の交流会でシモノビッチさんに『これから、夫婦別姓訴訟をするので、助言を「16g条を・・・」』私は、硬い握手をしました。
更に、別姓訴訟の原告になる決心が強くなりました。
blogランキングへよろしくお願いします。

選択的夫婦別姓制の裁判の経緯山浦善樹判事は、民法750条・憲法98条2項・憲法13・14・24・国会の立法不作為まで、全部違憲です。                                                                                                           
夫婦別姓を認めない民法の規定と女性の再婚禁止期間規定の合憲性が争われた訴訟は、大法廷で弁論が開かれました。
代理人が問題点を指摘し、裁判所がそれを聞いて判断する。
ようやく日本でも諸外国並みに男女の問題が真剣に語られようとしている“歴史的瞬間”でした。
あのときも、当事者たちに何か声をかけてあげたい、と感じましたね。

明治民法(1898年)に「家制度」が規定されてから初めて、2011年2月に原告団5人と弁護士団13人で夫婦別姓訴訟を提起しました。
この夫婦別姓訴訟は、民法750条の同姓強制規定の改正を求めて提起しました。
96%もの女性が夫の姓で結婚改姓をしています。見えない社会の圧力を感じませんか?>
この訴訟は、「個人の尊厳」「婚姻の自由・両性の本質的平等」「国際人権法の遵守」という、
まさに憲法の根幹を争う戦いでした。
この夫婦別姓訴訟の一審及び二審の判決では、棄却されたので、原告団5人と弁護団19人で14年4月10日に最高裁へ上告しました。
15年6月25日に最高裁大法廷で審議されることになりました。
嬉しいです。

最高裁大法廷を聴いて
2015年12月16日の15時の最高裁大法廷の判決は、山浦善樹判事は、民法750条・憲法98条2項・憲法13・14・24・国会の立法不作為まで、全部違憲です。                                                                            夫婦別姓を認めない民法の規定と女性の再婚禁止期間規定の合憲性が争われた訴訟は、大法廷で弁論が開かれました。
代理人が問題点を指摘し、裁判所がそれを聞いて判断する。
ようやく日本でも諸外国並みに男女の問題が真剣に語られようとしている“歴史的瞬間”でした
あのときも、当事者たちに何か声をかけてあげたい、と感じましたね。
    〜〜〜〜〜〜
     主文
  ・本件上告を棄却する。
  ・上告資用は、上告人らの負担とする。
訴訟から5年、憲法判断を争う最高裁大法廷をも動かし、最期までやり遂げられたのは、
皆様方のお陰です。有り難うございます。
苦しいこともありましたが、お互い切磋琢磨し、
成長を遂げ、戦いをともにし、少数意見ですが5人の違憲判断を勝ち取りました。
あと3人が、違憲ならば勝てるところまで来ました。
報告会 (730x775)20151219山浦善樹判事は、民法750条・憲法98条2項・憲法13・14・24・国会の立法不作為まで、全部違憲です。                                                                                                                   
夫婦別姓を認めない民法の規定と女性の再婚禁止期間規定の合憲性が争われた訴訟は、大法廷で弁論が開かれました。
代理人が問題点を指摘し、裁判所がそれを聞いて判断する。
ようやく日本でも諸外国並みに男女の問題が真剣に語られようとしている“歴史的瞬間”でした。
あのときも、当事者たちに何か声をかけてあげたい、と感じましたね。
結果は負けましたが、先人が心の血を流しながら築いた財産を武器に、この夫婦別姓訴訟があったことに感謝します。
弁護団をはじめ、様々な人の思いを胸に、これからも静かに闘っていきます。
塚本協子で生き、塚本協子で逝きたいからです

blogランキングへよろしくお願いします。



これからもよろしくお願いいたします。

free71 at 22:38|PermalinkComments(0)

2017年09月17日

夫婦別姓訴訟裁判の原告になる決心をするまで(3)

alt="DNA" hspace="5" class="pict" align="left" />夫婦別姓訴訟裁判の原告になる決心をするまで
年月が経ち、私は、娘が大学に行って、娘に女性学の情報を教えてもらいました。

DSC_0018

blogランキングよろしくお願いします。



女性運動の大家である心から尊敬していた中島弁護士の親友が「協子ちゃんの人生は女性学を貫いているから」言いました。
とても、嬉しかったけれど、自分にはもったいない言葉に聞こえました。
その言葉の意味を、訴訟を通して、少しずつ実感できました。
63歳で、やっと自分のために生きる時間を持つことができました。
それから、猪突猛進で学び、行動するうちに、人生をかけた決断をしました。

  2002年〜富山県下で別姓のKさんに初めて出会い何でも教えて頂きました。
シャキット35が「選択的夫婦別姓の会・富山(ななの会)」という別姓の会を作って頂き、みんなから押されて自分が世話人となりました。
   mネットに参加し社会活動をとおして、国会や仲間達とともに県議会に訴えてきました。

  しかし、民主党政権下でさえ別姓案は通らず、別姓の灯は消えかけたように感じまた。
再灯化には、時間がかかる。このままではいけない。
自分の姓(なまえ)が取り戻せない。
別姓の運動を再び盛り上げるため、裁判の原告となり、5人の原告団と13人の「弁護士団」(団長は榊原富士子弁護士)の指導を仰ぎ、国を訴えるしかないと感じました。
裁判の原告になるのは、非常に勇気が必要で、家族にも迷惑をかけるかもと、2003年のCEDAW勧告から非常に悩みました。

しかし、自分を奮い立たせ別姓訴訟の原告になる決心ができたので、当時お世話になっていたmネットの坂本洋子さんに【弁護士さんを紹介して下さい】とお願いしました。


  選択的夫婦別姓制の裁判の経緯 

明治民法(1898年)に「家制度」が規定されてから初めて、2011年2月に原告団5人と弁護士団13人で夫婦別姓訴訟を提起しました。この夫婦別姓訴訟は、民法750条の同姓強制規定の改正を求めて提起しました。96%もの女性が夫の姓で結婚改姓をしています。見えない社会の圧力を感じませんか?この訴訟は、「個人の尊厳」「婚姻の自由・両性の本質的平等」「国際人権法の遵守」という、まさに憲法の根幹を争う戦いでした。

  この訴訟の一審及び二審の判決では、棄却されたので、原告団5人と弁護団19人で14年4月10日に最高裁へ上告しました。
15年6月25日に最高裁大法廷で審議されることになりました。

DSC_0018
blogランキングへよろしくお願いします。








free71 at 15:52|PermalinkComments(0)

夫婦別姓訴訟裁判の原告になる決心をするまで(3)

夫婦別姓訴訟裁判の原告になる決心をするまで
年月が経ち、私は、娘が大学に行って、娘に女性学の情報を教えてもらいました。

DSC_0018

blogランキングよろしくお願いします。



女性運動の大家である心から尊敬していた中島弁護士の親友が「協子ちゃんの人生は女性学を貫いているから」言いました。
とても、嬉しかったけれど、自分にはもったいない言葉に聞こえました。その言葉の意味を、訴訟を通して、少しずつ実感できました。
63歳で、やっと自分のために生きる時間を持つことができました。
それから、猪突猛進で学び、行動するうちに、人生をかけた決断をしました。

  2002年〜富山県下で別姓のKさんに初めて出会い何でも教えて頂きました。
シャキット35が「選択的夫婦別姓の会・富山(ななの会)」という別姓の会を作って頂き、みんなから押されて自分が世話人となりました。
   mネットに参加し社会活動をとおして、国会や仲間達とともに県議会に訴えてきました。

  しかし、民主党政権下でさえ別姓案は通らず、別姓の灯は消えかけたように感じまた。
再灯化には、時間がかかる。このままではいけない。
自分の姓(なまえ)が取り戻せない。
別姓の運動を再び盛り上げるため、裁判の原告となり、5人の原告団と13人の「弁護士団」(団長は榊原富士子弁護士)の指導を仰ぎ、国を訴えるしかないと感じました。
裁判の原告になるのは、非常に勇気が必要で、家族にも迷惑をかけるかもと、2003年のCEDAW勧告から非常に悩みました。

しかし、自分を奮い立たせ別姓訴訟の原告になる決心ができたので、当時お世話になっていたmネットの坂本洋子さんに【弁護士さんを紹介して下さい】とお願いしました。


  選択的夫婦別姓制の裁判の経緯 

明治民法(1898年)に「家制度」が規定されてから初めて、2011年2月に原告団5人と弁護士団13人で夫婦別姓訴訟を提起しました。この夫婦別姓訴訟は、民法750条の同姓強制規定の改正を求めて提起しました。96%もの女性が夫の姓で結婚改姓をしています。見えない社会の圧力を感じませんか?この訴訟は、「個人の尊厳」「婚姻の自由・両性の本質的平等」「国際人権法の遵守」という、まさに憲法の根幹を争う戦いでした。

  この訴訟の一審及び二審の判決では、棄却されたので、原告団5人と弁護団19人で14年4月10日に最高裁へ上告しました。
15年6月25日に最高裁大法廷で審議されることになりました。

DSC_0018
blogランキングへよろしくお願いします。








free71 at 15:19|PermalinkComments(0)

2017年08月29日

戦後の新民法下での私の模索(2)

戦後の新民法下での私の模索 
 民法が改正されても、母の苦しみは続きました。

blogランキングへよろしくお願いします




母の居場所(母の里帰り=3日間眠り続ける母

私の生まれた1935年以後、母は3つの不幸に見舞われました。
大事な身内を3人亡くしたのです。
母の夫(私の父)は、私が生まれて2ヶ月で、心臓麻痺を起こし逝きました。
母の父(私の祖父)も逝き、母の姉(私の叔母)が男子と女子の二人を残して逝きました。
母にとって姉の夫との再婚話がでました。母方の親戚は、みんな賛成しました。
しかし、私の父方の祖父は、私の亡父が長男であったことから、母の再婚に反対でした。
私の母は、一旦、『家』の『嫁』として、嫁いだ身です。
明治民法では、長男の父の子である姉妹が、『家を継ぐ』存在でした。
祖父は、『家』に残ることを、私の母に望みました。そして、母も同じ考えでした。
当時は、大家族であり、10人もの家族の、ある意味奴隷として、『家』に尽くしました。
尽くすのが当たり前で、感謝されることはほとんどありません。

お盆と旧正月には母のお里帰りしました。
6キロぐらい離れたところに母のお里があり、着いたとたんに安心して母は、3〜4日眠り続けます。
そして、半年の疲れが、その時だけ、やっと癒やされるのです。
そして、また『嫁ぎ先の家』に帰る日が来ると、母は泣きじゃくって嫌がります。
しかし、私の母にとっては、そこで生きるしかない居場所なのです。
社会を疑うことなく、また、死にものぐるいで、『家』に尽くすために、父方の『家』に帰ることを選ぶしかなかったのです。

家父長制のもとで『女』や『嫁』は苦しんできました。

私が生まれて2か月で父が亡くなり、私の母と私は、大家族の中の長男の嫁と跡取り娘として過ごしました。
「家族のために生きる」のが、当然であるかのように周りから同調圧力がかかりました。
私にはある原風景があります。 仕入れのため、夜遅く帰った母は、ガランとした8畳間に一人で座り、一人前の朱漆塗り高御膳で、夕飯を食べます。
大きな鉄鍋の底に、実のない汁が少ししか残っていませんでした。それを見て幼い私が、母の温もりに浸っています。それが、私の『嫁』の原風景です。女って惨めだと感じました。

 母が苦しんだ「嫁」という生き方から脱却を模索する私
1945年8月1日の深夜、富山大空襲で全市内は焼け野原になって、地獄になりました。
その8月15日、戦争が終わって、疫病の腸チウスで姉・叔父・叔母が逝き、私は10歳で跡取りの一人娘になりました。
姉は、こんな言葉を遺した。
「おっかちゃん、私、13で死ぬ。おっかちゃんの先に死んで、おっかちゃんにご恩返しもできないで。おっかちゃん、苦労ばかりしてきて。かんにして(ごめんなさいの意)」。姉と母のすすり泣きが聞こえてきます。
私は、そっーと離れて、裏の畑の小川の水の流れを見ながら 泣きました。
この情景が、ライフ・ワーク「私の夫婦別姓」の遠因になってきます。

新しい憲法(1947年5月3日施行)ができ、新しい民法(1457年12月)もできたので、希望を持ちました。
女にも権利が与えられると思いました。でも、戦後のごたごたの中で戸籍制度は残り、夫婦は同姓を強制され、『家』制度は戦前と変わらず、多くの人の意識に残っていました。

高校の普通科にはいります。
幼い頃から、読書が大好きでした
弁護士になった中島通子さんと幼馴染みで、高校も同級生でした。
ひとりの人間として職業をもち自立していくことは、私にとっても、周りの女子高校生にとっても、当たり前の考えでした。
 私が高校3年生の末、母親から「あなたには婿の許婚がいるから、卒業式が終わったら結婚しなさい」と言われました。
どうしても嫌で、3日間、炬燵(こたつ)に入ってサボタージュしました。
その時、私も母のように、家父長の犠牲者のように生きていくことになる。
時間を稼ぎたかった私は、「大学へ行きたい」と母に伝えました。周りは反対しました。
当時、女が大学へ行くことは珍しいことだったのです。でも母は、許可してくれました。

大学に行ったので、家父長制について調べました。
10歳の頃から、塚本家のただ一人の直系の私は、祖父から「あんま」(跡取り)と呼ばれ、『家』の重みを感じていました。
大学では、4年生で4人妹弟の長男と恋愛しましたが、結婚までの道程は遠かったです。
そして、結婚しても、自分の姓(なまえ)は変えないと決意していました。母が守った、母は、奴隷のように働いて、塚本姓を勝ち取った。私の姓がなくなったら、母が苦しがるんじゃないかって思いました。



 私にとっての名前とは 
名前は、生まれたときから自然に持っていて、自分のアイデンティティ、そのものだと感じていた
〜私の名前は、私の存在そのものです
名前は、生まれたときから自然に持っていて、自分のアイデンティティ、そのものだと感じていたので、夫婦同姓強制には、どうしても抵抗がありました。
50年間この思いがあったからこそ、子供が産まれる度に婚姻届とペーパー離婚を繰り返し、事実婚や通称使用などで自分の苗字を守るために自分なりに闘ってきました。

でも、3人目の子供が産まれたとき、当時勤めていた高校の校長が、結婚して同姓に成らなければ首になるとほのめかしたので、泣く泣く従いました。
でも、小島協子の戸籍姓は、高校教師と夫の家とその親戚しか使わない。
塚本協子の本名は、私の親戚・近所・同窓会などなどで使っています。

それからの私は、棄てさせられた姓(なまえ)を失ったショックで、夫の名前で呼ばれると背中が焙られるようにチクリチクリとするのです。
家父長制の残滓は、女を差別して当然の意識として、男尊女卑・妻ヘのDVも社会的に問題にされることもなかったのです。富山では、当時は『嫁いびり』は、何処にでもある光景でした。

  blogランキングへよろしくお願いします。





free71 at 23:55|PermalinkComments(0)

2017年08月11日

「子どもと家庭・家族」〜多様化する家族のあり方について(1)

 「子どもと家庭・家族」〜多様化する家族のあり方について〜

●●  家父長制について(旧日本民法下での家族制度のあり方について) ●●


blogランキングへよろしくお願いします。

◆   戸籍と明治民法

 1873年(明治6年)  徴兵令→徴兵・徴税 の目的、家族関係を記載するための制度
 1876年(明治9年)  太政官指令(婚姻後妻の氏は実家の氏、夫婦別氏)
 1898年(明治31)  明治民法施行  家制度の確立 (家の構成員・家族関係を記載するための制度) 
1947年(昭和22年)  日本国憲法に基ついて現行民法施行・・家制度廃止。夫婦同姓が続く。
                        
婚姻には家長の同意が必要
母の縁組みは、塚本の家長(戸主・私の父の父=私の祖父)が母の働く姿を見て考える。
母の生家大きいお店で、塚本の店の倍以上。「俺」(家長)は県庁の偉い役人で家系は江戸の中期から続いているから、「俺」(家長)が塚本家の長男の「嫁」を決める。良く釣り合いますと仲人は言った。

夫の家の戸籍に妻が入り、その家の氏を称する。
  母は、塚本家の「嫁」になりました。○○奈保恵を改姓して、塚本奈保恵です。女・子どもには、基本的人権が無かった。戦後まで、女には選挙権もなかった。

◆  家父長について説明〜〜母の姿を通して私から感じると

長氏(長男)単独相続。

母の夫(私の父)は、私が生まれて2ヶ月で、心臓麻痺を起こし逝きました。家父長制のもとで『女』や『嫁』は苦しんできました。
母と私は、大家族の中の長男の嫁と跡取り娘の一人として過ごしました。「家族のために生きる」のが、当然であるかのように周りから同調圧力がかかりました。
1945年8月1日の深夜、富山大空襲で全市内は焼け野原になって、地獄になりました。
その8月15日、戦争が終わって、疫病の腸チウスで姉・叔父・叔母が逝き、私は跡取りの一人娘になりました。
1947年に「日本国憲法」施行され、それに併せて「新民法(現行民法)」出来ました。家長の祖父は、生果中央市場の「株券」を独断で、「塚本奈保恵」に書き換え、私が中学2年の3月のときに逝きました。

1946年の春休みに疎開先母のお里から家に帰りました。

とても、驚いたこと2つ・・・

・従姉妹のめ子ちゃんの母が危篤状態になっていたのにもかかわらず、だれも介抱していない。母は、急いで医師を呼んで診て貰いました。
「咽喉結核です。長く持っても、10日間の命です」 母は、「おもゆ」を作って母のお里の味噌少しいれた。 
め子ちゃんの母は、一椀おくみして飲んで、幽かに、にこっとした。め子ちゃんは、手をたたいて涙して喜んだ
その間、私の母は優しく介抱しました。め子ちゃんの母は「有り難う」と目で挨拶して、10日目に逝きました。め子ちゃんは、孤児です。女を大事にしない時代でした。

 ・私の家に「フランス革命」のような革命がおきて、祖父が家長の権威を棄てた。
家の居間には、「人間」「言論の自由」「男女同権」「面白倶楽部」「中央公論」などの本や雑紙など沢山ありました。(叔母)と(亡父の末の弟)が読む本です。

祖父に対しての私の中での反抗が始まりました。
私は、意味知らずに、「言論の自由」「男女同権」「さんじせいげん」言いました。
近所のおばさん達が集まって、「円ちゃん こられ」「難しい言葉を言われ」『は〜い「言論の自由」「男女同権」「さんじせいげん」』と言いました。近所のお母さん達が、笑い転げてゲラゲラ笑います。>「もう一度」「は〜い・・・「さんじせいげん」の所でみんなゲラゲラ笑います。

母は、亡夫の両親に、相変わらず、仕えました。

 富山大空襲で全市内は焼け野原になって、小学生は、不二越工業の空き教室などで勉強していました。
私とめ子ちゃんは、叔母の百合ちゃん(岩瀬幼稚園の教諭として勤務)と一緒に、富山港線の電車に乗って岩瀬小学に通いました。岩瀬小学校 は、焼けないので、施設は整っていました。




●● 供〇劼匹發慮⇒条約の批准 ●●
(日本は1994年4月22日批准、1994年5月22日発効)

子どもの権利条約−4つの柱

(1)生きる権利 
子どもたちは健康に生まれ、安全な水や十分な栄養を得て、健やかに成長する権利を持っています。
(2)守られる権利
子どもたちは、あらゆる種類の差別や虐待、搾取から守られなければなりません。
紛争下の子ども、障害をもつ子ども、少数民族の子どもなどは特別に守られる権利を持っています。
(3)育つ権利
子どもたちは教育を受ける権利を持っています。また、休んだり遊んだりすること、様々な情報を得、自分の考えや信じることが守られることも、自分らしく成長するためにとても重要です。
(4)参加する権利
子どもたちは、自分に関係のある事柄について自由に意見を表したり、集まってグループを作ったり、活動することができます。そのときには、家族や地域社会の一員としてルールを守って行動する義務があります。

子どもの権利条約の4つの柱を知らないので、私の3人の子どもに大きな迷惑をかけました。




blogランキングへよろしくお願いします。




free71 at 01:52|PermalinkComments(0)

2017年04月25日

母の遺言『言葉は嬉しい金言』

母の遺言『言葉は嬉しい金言』



blogランキングへよろしくお願いします。


私は、51歳から糖尿病に罹ってから17年、散歩と食事?で
どうにか、血糖値を正常に保ってきましたが、怪我で3年間、散歩中止。
去年2月から再開して、毎日歩き続けています。

今日も、朝の散歩をしていました。
今晩、音楽会を聴きに行くので、夫の夜のお弁当を買って、リズミカルに振っていたようです。

向こうから、知らないおばあさんが来て、笑いながら「貰うよ」と「お弁当」に手を掛けようとします。
私はオドケて除けて、二人で笑い合いました。

その、おばあさん「ごめんね」
私、「その手編み素敵!」
おばあさん、「する事無いから、沢山編んで、持ってる」
私、「それ、頂戴!」
で、笑い合いながら別れました。

今度は、そのおばあさん交差点で待ちながら、30代の男の子をからかっています。
きっと、誰かと話しかったのでしょう。
きっと、自分なりの生き方をしてきた方でしょう。

それを見ながら、私は母の遺言を想いました。
その遺言「言葉は嬉しい金言」を写します。

 『私は、20歳で結婚し、25歳で夫に先立たれました。
その時、無言の夫に「必ず二人の子は私の手で育てます。安心して下さい」
と、生後2ヶ月の娘を抱きながら、涙の中で誓いました。
 家族は義父母と小姑5人、それに私達母娘3人の合計10人でした。
小姑たちは、目まぐるしく、賑々しく、明るく、それぞれ巣立っていきました。

 終戦のとき、上の娘が逝きました。
このときは、どんなに辛かったことか、仕事で苦しみををわすれようと、3人〜8人の店員を雇って、
八百屋経営を拡大しました。毎日、多忙な日々を過ごして参りました。

光陰矢のごとし。80歳を迎えました。
平成3年2月、店を閉めました
30坪余の店は、ガランとしてたくさんのお客様もきて下さっていたのが、夢のようです。

栄枯盛衰。

寂しさが、ひしひしと私を囲みます。
天が落ちたと思う程、涙がでました。 
レジの所の机・椅子だけ残っております。

椅子に座って、お客様を待っております。
毎朝、出勤するように、朝の支度を終えると、店に出て通りかかるお客様を見ております。
毎日、何人かのお客様を見ております。
毎日、何人かのお客様が、
「おばあちゃん、おはよう」
「おばあちゃん、元気?」
「おばあちゃん、昨日見えなかったけど どうしたの?」
と、交々に声を掛けて下さいます。金言とも言いたい嬉しい言葉です。

店を辞めて4年経ちました。今は、人の温かさに浸りつつ死ぬ果報を喜んで おります。
亡き夫や娘に会えるでしょう。
ありがとうございました。』

母の何十年間の日記、まだ、私の手元にあります。

blogランキングへよろしくお願いします。





free71 at 16:42|PermalinkComments(0)TrackBack(0)

2017年03月22日

戦前の厳しい祖父の1日について〜家父長制について〜(1)<

 戦前の厳しい祖父の1日について〜家父長制について〜(1)



blogランキングへよろしくお願いします。


 1873年(明治6年)  徴兵令→徴兵・徴税 の目的・家族関係を記載するための戸籍制度開始
 1876年(明治9年)  太政官指令(婚姻後妻の氏は実家の氏、夫婦別氏)
 1898年(明治31)  明治民法施行 家制度の確立 (夫婦同姓が規定・戸籍制度の継続) 
1947年(昭和22年)  日本国憲法に基ついて現行民法施行・・家制度廃止。しかし、夫婦同姓が続く)

blogランキングへよろしくお願いします。

                        
(1)婚姻には家長の同意が必要

母の縁組みは、塚本の家長(戸主・私の父の父=私の祖父)が母の働く姿を見て考える。
母の生家大きいお店で、塚本の店の倍以上。「俺」(家長)は県庁の偉い役人で家系は江戸の中期から続いているから、「俺」(家長)が●●家の長男の「嫁」を決める。良く釣り合いますと仲人は言った。

(2)夫の家の戸籍に妻が入り、その家の氏を称する。
  母は、●●の「嫁」になりました。○○奈保恵を改姓して、●●奈保恵です。女・子どもには、基本的人権が無かった。戦後まで、女には選挙権もなかった。

◆ -◆_班稍垢砲弔い得睫澄繊訴譴了僂鯆未靴道笋ら感じると

(1)長氏(長男)単独相続。

母の夫(私の父)は、私が生まれて2ヶ月で、心臓麻痺を起こし逝きました。
家父長制のもとで『女』や『嫁』は苦しんできました。
母と私は、大家族の中の長男の嫁と跡取り娘の一人として過ごしました。「家族のために生きる」のが、当然であるかのように周りから同調圧力がかかりました。1945年8月1日の深夜、富山大空襲で全市内は焼け野原になって、地獄になりました。その8月15日、戦争が終わって、疫病の腸チウスで姉・叔父・叔母が逝き、私は跡取りの一人娘になりました。1947年に「日本国憲法」施行され、それに併せて「新民法(現行民法)」出来ました。家長の祖父は、生果中央市場の「株券」を独断で、「●●奈保恵」に書き換え、私が中学2年の3月のときに逝きました。

(2)1946年の春休みに疎開先母のお里から家に帰りました。

とても、驚いたこと2つ・・・

・従姉妹のめ子ちゃんの母が危篤状態になっていたのにもかかわらず、だれも介抱していない。母は、急いで医師を呼んで診て貰いました。「咽喉結核です。長く持っても、10日間の命です」 母は、「おもゆ」を作って母のお里の味噌少しいれた。 め子ちゃんの母は、一椀おくみして飲んで、幽かに、にこっとした。め子ちゃんは、手をたたいて涙して喜んだ。その間、私の母は優しく介抱しました。め子ちゃんの母は「有り難う」と目で挨拶して、10日目に逝きました。め子ちゃんは、孤児です。女を大事にしない時代でした。

 ・私の家に「フランス革命」のような革命がおきて、祖父が家長の権威を棄てた。家の居間には、「人間」「言論の自由」「男女同権」「面白倶楽部」「中央公論」などの本や雑紙など沢山ありました。(叔母)と(亡父の末の弟)が読む本です。

祖父に対しての私の中での反抗が始まりました。私は、意味知らずに、「言論の自由」「男女同権」「さんじせいげん」言いました。近所のおばさん達が集まって、「円ちゃん こられ」「難しい言葉を言われ」『は〜い「言論の自由」「男女同権」「さんじせいげん」』と言いました。近所のお母さん達が、笑い転げてゲラゲラ笑います。「もう一度」「は〜い・・・「さんじせいげん」の所でみんなゲラゲラ笑います。

(3)母は、亡夫の両親に、相変わらず、仕えました。

 富山大空襲で全市内は焼け野原になって、小学生は、不二越工業の空き教室などで勉強していました。
私とめ子ちゃんは、親戚(岩瀬幼稚園の教諭として勤務)と一緒に、富山港線の電車に乗って岩瀬小学に通いました。岩瀬小学校 は、焼けないので、施設は整っていました。

<戦前の厳しい祖父の1日についてb>


b> 朝、2階の祖父の部屋から「ゴホン!」と大きな咳がしました。
家中に緊張がはしる。
5人の叔母、叔父たちは、割り当てられた掃除をすでに済ませています。
母も、朝食の用意をし、御膳を3つ並べます。
一つめは、祖父・祖母が正座します。同じ二つめの御膳に母・姉・私が。3つ目は大きな御膳で何人でも座れます。

祖父は、顔を洗ってから、6つのおぼおくさんを入れた箱を提げて2階の仏間でお経をあげます。
それから、降りてきて、祖父の座につきます。
みんな揃って手を合わせて「頂きます」。黙ってたべます。食事中の話は禁止です。
私は、「左利き」なので、左手は三尺で縛られています。


5人の叔母、叔父たちは、学校へいきます。
下の叔母はお洒落で、母の鏡台で、マントを着てボーズを作ってから
女学校へ。
母は朝の仕入れ、祖母は店。

祖父は。店の次の茶の間の練炭で鉄瓶がチンチン鳴る火鉢の前に正座で座ります。
祖父は、玉露を飲み、牛乳を火鉢で暖めます。それから、目がねをかけ直して、「本」を読み始めます。祖父が私とめこちゃんに玉露とおやつを呉れます.

祖父は、時々、町内会の用事や友人宅を訪れます。
祖父は、幼稚園前の別院に私を連れていきます。大人しかったからでしょう。

私は、祖父が働いている姿をみたことは、ありません。
でも威厳がありました。

叔母・叔父達は外出するときは、祖父に行き先と帰宅時間を必ず言います。
祖母・孫以外は皆、祖父を畏れています。

夜、店が閉まってから、祖父が帳場にいきます。銭函の売り上げを金庫に納め、母は、祖父にお金を出してから、何かを報告します。
祖父は、ソロバンを出して、書いています。
それが、祖父の一日でした。

私が母の日記の「私は、給料なしの奉公人、給料なしの家政婦」の意味が解るようになるには、幼すぎました。


blogランキングへよろしくお願いします。





free71 at 11:29|PermalinkComments(0)TrackBack(0)

2017年02月15日

 選択的夫婦別姓制の実現へのお願い

 選択的夫婦別姓制の実現へのお願い
                                   夫婦別姓訴訟原告団長 塚本協子


blogランキングへよろしくお願いします。



訴訟から5年、憲法判断を争う最高裁大法廷をも動かし、最期までやり遂げられたのは、皆様方のお陰です。有り難うございます。
苦しいこともありましたが、お互い切磋琢磨し、成長を遂げ、戦いをともにし、少数意見ですが5人の違憲判決を勝ち取りました。あと3人が、違憲ならば勝てるところまで来ました。結果は、負けましたが、先人が心の血を流しながら築いた財産を武器に、この夫婦別姓訴訟があることに感謝します。

私は13年間の事実婚や通称使用をしながら、それでも、自分の生まれたときの姓を社会の一部に対して、堂々と名乗っても受け入れられないどうしようもない違和感に、54年間苦しみ続けました。戸籍姓の署名は、公文書や医療機関で必ず必要です。書く度・聴く度に、私のアイディティを失って燻されるような痛みが、背中を走ります。そして、裁判に負けたことで、この苦しみが続くのです。

明治民法(1898年)に「家制度」が規定されてから初めて、2011年2月に原告団5人と弁護士団13人で夫婦別姓訴訟を提起しました。
この夫婦別姓訴訟は、民法750条の同姓強制規定の改正を求めて提起しました。96%もの女性が夫の姓で結婚改姓をしています。見えない社会の圧力を感じませんか?この訴訟は、「個人の尊厳」「婚姻の自由・両性の本質的平等」「国際人権法の遵守」という、まさに憲法の根幹を争う戦いでした。
一審で棄却。2審でも棄却。負ける度に弁護士が多くなり、最高裁の上告時は、弁護団は19人と5人の原告との対決になりました。マスコミ報道や世論の高まりを背後にして、心強くたたかいました。

2015年12月16日の民法750条に対する最高裁大法廷の判決の10人は合憲でした。
判決は人権侵害(憲法13条と14条と最高法規98条の女性差別撤廃条約違反に対する言及を避けています。
●人権侵害とは:二宮周平立命館大学教授にいわく「(弁護団が)この訴訟の基本は、氏名に関する人格権の問題だとし、これを第一に取り上げたことに同意する。これは人権侵害の問題であって、家族の在り方を論じているのではない」
●女性差別撤廃条約違反とは:大谷美紀子弁護士いわく「条約違反であるだけでなく、条約遵守義務を定めた憲法98条2項にも違反する」と、政府の条約遵守違反を厳しく指摘しました。

しかし、判決では、日本国憲法の第24条(両性の本質的平等)について、初めて具体的な法規範性を認めました。これからの女性運動の礎になるでしょう。

私たちが望んでいるのは「愛し合う二人に別姓結婚も認めよう」ということだけです。
私の子ども・孫には、同姓もしくは別姓を、自由に選んで欲しいと思います。
私と同じような苦しみを、感じてほしくないのです。
この運動を通して、そういう優しさを広めていきたいのです。

仲間が増えていけば、国も決して、無視はできない。 
これからも、仲間と優しさを増やし、一緒に歩んでいきましょう。

そして、できうるならば、塚本協子で生き、塚本協子で逝きたいです。


>blogランキングへよろしくお願いします。


free71 at 12:29|PermalinkComments(0)TrackBack(0)

選択的夫婦別姓制の実現へのお願い

 選択的夫婦別姓制の実現へのお願い
                                   夫婦別姓訴訟原告団長 塚本協子


blogランキングへよろしくお願いします。



訴訟から5年、憲法判断を争う最高裁大法廷をも動かし、最期までやり遂げられたのは、皆様方のお陰です。有り難うございます。
苦しいこともありましたが、お互い切磋琢磨し、成長を遂げ、戦いをともにし、少数意見ですが5人の違憲判決を勝ち取りました。あと3人が、違憲ならば勝てるところまで来ました。結果は、負けましたが、先人が心の血を流しながら築いた財産を武器に、この夫婦別姓訴訟があることに感謝します。

私は13年間の事実婚や通称使用をしながら、それでも、自分の生まれたときの姓を社会の一部に対して、堂々と名乗っても受け入れられないどうしようもない違和感に、54年間苦しみ続けました。戸籍姓の署名は、公文書や医療機関で必ず必要です。書く度・聴く度に、私のアイディティを失って燻されるような痛みが、背中を走ります。そして、裁判に負けたことで、この苦しみが続くのです。

明治民法(1898年)に「家制度」が規定されてから初めて、2011年2月に原告団5人と弁護士団19人で夫婦別姓訴訟を提起しました。
この夫婦別姓訴訟は、民法750条の同姓強制規定の改正を求めて提起しました。96%もの女性が夫の姓で結婚改姓をしています。見えない社会の圧力を感じませんか?この訴訟は、「個人の尊厳」「婚姻の自由・両性の本質的平等」「国際人権法の遵守」という、まさに憲法の根幹を争う戦いでした。

民法750条に対する最高裁大法廷の判決の10人は合憲でした。
判決は人権侵害(憲法13条と14条と最高法規98条の女性差別撤廃条約違反に対する言及を避けています。
●人権侵害とは:二宮周平立命館大学教授にいわく「(弁護団が)この訴訟の基本は、氏名に関する人格権の問題だとし、これを第一に取り上げたことに同意する。これは人権侵害の問題であって、家族の在り方を論じているのではない」
●女性差別撤廃条約違反とは:大谷美紀子弁護士いわく「条約違反であるだけでなく、条約遵守義務を定めた憲法98条2項にも違反する」と、政府の条約遵守違反を厳しく指摘しました。

しかし、判決では、日本国憲法の第24条(両性の本質的平等)について、初めて具体的な法規範性を認めました。これからの女性運動の礎になるでしょう。

私たちが望んでいるのは「愛し合う二人に別姓結婚も認めよう」ということだけです。
私の子ども・孫には、同姓もしくは別姓を、自由に選んで欲しいと思います。
私と同じような苦しみを、感じてほしくないのです。
この運動を通して、そういう優しさを広めていきたいのです。

仲間が増えていけば、国も決して、無視はできない。 
これからも、仲間と優しさを増やし、一緒に歩んでいきましょう。

そして、できうるならば、塚本協子で生き、塚本協子で逝きたいです。



>blogランキングへよろしくお願いします。


free71 at 12:23|PermalinkComments(0)TrackBack(0)