2006年10月

2006年10月27日

空襲警報のサイレンは止んだ(皆泣いた玉音放送・空と川は青かった)

空襲警報のサイレンは止んだ(皆泣いた玉音放送・空と川は青かった)

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よろしくお願いします。


異様な緊張と暗さが7日から日常に覆いかぶさってきました。

8月14日夜、「明日、正午に天皇陛下が国民に玉音放送されるので、ラジオのある家に集まるように」との達しがありました。
8月15日、朝からNa家に近所の人が続々集まってきたので、8畳2間の上の方に、聞き取れにくい「ナナオラ」のラジオを据えました。

皆、正座して待っていた12時です。君が代に続いて「玉音放送」が始まりました。甲高い、難しい天皇陛下(現人神)の肉声に聞き入りました。
終わったトタン「日本が負けた」すすり泣きの合唱、頭をたれ、途方に暮れた人。声なく消沈して人々は家に帰っていきました。

日本がこの戦争に敗れたのを、天皇陛下が国民に詔 書を神の声として国民に下されたのを私は知りました
「堪ヘ難キヲ堪ヘ忍ヒ難キヲ忍ヒ」は後で有名になりましたが、「朕ハ帝国政府ヲシテ米英支蘇四国ニ対シ其ノ共同宣言ヲ受諾スル旨通告セシメタリ」で負けたのでした。

私は、姉のように軍国少女でありません。姉のように涙はありません。
だって、中尉のD叔父が、「O市が空襲に遭えば、日本は負ける」と言ったのを信じていたモノ。
それより、「もう空襲警報のサイレンに怯えなくても良いのだ」と嬉しくなったのですが、泣き声の中では黙っていました。

3時頃、母、姉、私の三人はO市のおばばのトタン小屋へ向かいます。
鉄橋を渡っていると、汽車がきたので、避難所に入りました。憲兵も一緒でした。
憲兵に「日本が負けたがけ」母はオソレズに聞きました。
彼は咎めずに黙っていました。アレ!威張らない!やっぱり。
オチャメな母のだめ押しでした。

避難所の足元から見えるJI川の流れはあくまで青く深かった。空も明るく澄んで青かった。広かった。今も、くっきりと覚えています。

おばばのトタン小屋には、トタンを集め、ムシロで器用に床を作っていました。
4人は座れます。井戸におばばの作った蓋があり、井戸水が無性に美味しかったです。
ひょうたんの形の池(泉水と言っていた)は湧水で、水をたたえています。

灯油があります。
手作りのカマド、焼けて変形したお鍋、茶碗などあり、日常生活は、恐ろしさを達観して居れば、一応出来ます。
おばばは、毎日焼け跡の片付けをしていて、地面に野菜を植えれるよう、耕してありました。

焼け跡の臭い、シビトの臭い、真っ黒な縄?、見渡す限り続く焼け跡、それでも、私は、ただ、なつかしく、おばばと居りたかったのを、思いだします。
でも、言い出せませんでした。

前に言いましたように、お寺に疎開していた他の家族が、間もなく、O市のS軍需工場の社宅に移って来るそうです。
敗戦の知らせをおばばは、D叔父からの連絡で、私達より速く知っていたようでした。

今夜から、空襲警報のサイレンがなく、ゆっくり眠れます。何年ぶり?

私は、この1945年8月15日は決して忘れないでしょう。


今度は、焼け跡から腸チウスが流行ってきました。



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<(_ _)>




free71 at 22:41|PermalinkComments(13)TrackBack(0)

2006年10月20日

空襲警報のサイレンは続く   (新型爆弾・ソ連参戦・1945年)

空襲警報のサイレンは続く   (新型爆弾・ソ連参戦・1945年)

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Na家に疎開しましたが、毎夜、空襲警報のサイレンがなります。
JI大橋の東側はO市街です。
JI大橋の西側から、Na家の200m先まで焼け、Ta村・Sa国民学校が焼夷弾攻撃で全滅です。
I往来は奇跡的に助かったと言えます。

祖母の母は80歳以上で、耳は聞こえず、目も幽かでした。
空襲警報のサイレンがなると、Syu叔父が祖母の母(ばーさんと言います)の係です。Syu叔父が、ばーさんの着物の袖を引っ張ると、風呂敷の包んだ
阿弥陀様・位牌を肩に縛ってから、Syu叔父におんぶされて避難します。
ある時、誰かがばーさんの着物の袖を踏みました。ばーさんはすぐ風呂敷をかけて、Syu叔父を呼びました。Na家の人たちは大爆笑。

だから、空襲警報のサイレンでも、緊張で張り詰めることはありません。
サイレンがなると、みんな、裏の畑から線路の向こう側の長芋畑の高い蔓の間に隠れます。

昼間は、玄関の間で多くの人が、お茶を飲んで話に花を咲かせていきます。
この辺りは、どの家でも、お茶を振る舞ってくれます。
戦争中とは、思えない穏やかさです。

JI大橋が、半分爆破されて通れないことは、前に書きました。
JI川のかみてに連隊橋がありますが、遠すぎます。市電が、連隊橋を通って連隊まで、いってましたが、大空襲で、焼けてそれもダメでした。

O市街との連絡は鉄橋でJI川を渡ります。危険は承知で、日常的に誰でも、鉄橋を利用していました。
二男のRoy叔父は、Y飛行場の徴用軍属でした。
Y飛行場はI往来の道から4キロ以上歩きます。
それで、航空兵たちは、Y飛行場からO市との往復に鉄橋を利用して、Na家でRoy叔父とのよしみで休憩します。
Na家の後ろの電車は、凄い間引き運転なので、Y飛行場まで、歩いた方が、速いのです。

ある時、お茶を運ぶと、私に笑いながら、大事そうにタバコを2本呉れました。ナント!それは、チョコレートでした。みんなにお分けすると、舐めるていどのチョコレートでしたが、有頂天でした。航空兵は美味しいモノを食べていていいな。

昼間の穏やかさが続いたのは何日間でした。

ある朝、起きると、男たちがいません。蔵の後ろの畑に大きい、人の背以上の深い深い壕を掘って、丸太・板で屋根を組んで、土を掛けています。5人の男たちは、真剣です。8月7日でした。
「昨日、新型爆弾が広島に落ちた。10万人が瞬間に死んだ。70年草木も生えない強力なものだ。壕は深く深く、屋根は厚く、厚く」
叔父たちの「怖れ」が伝わってきます。

どうなるのでしょう。

2日後の8月9日、叔父たちは、折角、掘った壕に土を入れて、埋めています。
ソ連が日本の敵になりました。「ソ連参戦で、壕はいらなくなった。これから、
本土決戦しかない」大人たちは真っ青になっていました。北からも日本は、攻撃されます。

これからどうなるのでしょうか。

毎夜ごとに、空襲警報のサイレンサイレンがなると、みんな、裏の畑から線路の向こう側の長芋畑の高い蔓の間に隠れます。


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free71 at 15:35|PermalinkComments(6)TrackBack(0)

2006年10月13日

大空襲 4    (T家の近所の被害・疎開・1945年)

大空襲 4
    (T家の近所の被害・疎開・1945年)

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母のお里をI往来のNa家とします。Na家の後ろに郊外電車が通る前までは、I街道も栄えNa家も何十年も繁盛した商家だったそうです。I往来はJi大橋から500m程離れてJi川に平行に200m程あります

Na家は以前、呉服(近所の仕立てやと契約・嫁入り着物なども扱う)・農家の簑・笠・草鞋・鎌・鍬など商っていました。鍛冶屋も2軒ありました。

郊外電車が通る前までは、Y浜の町からO市に行く人たちは、行き帰り、Na家の店先の8畳間で、お茶を飲み、世間話を落としていきました。数は僅かになりましたが、戦災後も多くの人の溜まり場です。O市内の様子は、その人たちが話を落としていきます。

T家の近所の被害;
棗のU家のお父さんの実家もI往来を通って行きます。U家のお父さんは実家近くのJI河原で、座ってゲートルをほどいている姿の儘で、焼夷弾の直撃を受けて、亡骸が5日後に発見されました。O市から逃げて、安全と思ったトタンの直撃だったのでしょう。どんなに悔しかったことでしょう。

U家のおばちゃんは6歳の娘、豆腐屋のおばちゃんは12歳の娘、酒屋のおばちゃんは11歳・3歳の娘たち7人は連れだって西へ、私達は東へ逃げたのが、運命のわかれめだったのでした。

7人はji川に逃げ、7人手を繋いで川に入っていました。U親娘のおかあさんが、豆腐屋のおばちゃんが、酒屋のKちゃんが、直撃をうけて、川に沈んだことなど聞きました。残った4人の受けた衝撃と悲しみ・残酷さなど私のはかり知ることの出来ないことです。

このようにUさんとこでは、お爺さんと6歳のMちゃんと2人のおにいさんが助かり、父・母が、焼夷弾の直撃。すぐ焼け跡の防空壕で生活しました。
豆腐屋さんのとこでは、11歳のAちゃん、その父、兄2人が助かり、おかあさんが直撃。トタンと丸木の正三角小屋ですぐ生活しました。
酒屋のおばちゃんは、妹のKちゃんと二人疎開したようです。夫は徴兵。
お隣のおかあさんとおばあちゃんの死骸が井戸も中で見つかったとのことなどの情報がNa家に落とされていきました。

Naの祖母の家は、JI大橋が通れなくなったので、歩く人が多くなったようで、休み場所のように賑わっていました。私はお茶を運ぶ役です

T家の祖母は4〜5日したら一人で焼け跡に帰ってきて、丸太と焼けたトタンを集めて、90度の三角小屋を造って住み着きました。流石です。おばばだから焼け跡の地獄に一人で住めるのでしょう。

母のお里に落ち着いてから、鉄僑をわたって、おばばのところへ差し入れによくいきました。電車道の家に曲がる角にあの日からの焼けこげ死体が、まだありました。誰かが、トタンを掛けたのでしょう。

S橋南詰めの観音さまの壕、あの日からの焼けこげ死体の近くにあった壕の二つで40人以上が蒸しやけにされとの話。
死体は毎日、トラックで集められて、JI河原で毎日、燃やしているとの話を聞きました。
母はそんな悲惨な所へは私を連れていきません。

あまりの話に、私はただ黙って聞いていたようです。

近所の罹災のごく一部を書くだけで、胸がいたみ、涙で書けなくなりました。
でも、追々書きたく思います。(m_m)

次は新型爆弾(広島の原爆)への対応など、書きたいです。





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free71 at 21:45|PermalinkComments(8)TrackBack(0)

2006年10月06日

大空襲 3    (国民学校4年・疎開・1945年)

大空襲3   (国民学校4年・疎開・1945年)

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2日目;S軍需工場はいつ爆撃されるかわかりません。疎開先がお昼過ぎに決まりました。列車・私鉄は、間引き運行で、既に発車した後でした。今晩泊まる所がありません。
S叔母は、1時間余歩いて親戚の農家まで10人の家族を連れて、泊めて貰うようお願いしました。
大きな農家で、「大変だったね」と親切にしていただきました。
夜、銀米のごはん・熱い味噌汁・漬け物が10人に振る舞われました。その美味しかったこと、いまでも食卓の様子を覚えています。
別の2間にお布団10人前敷いてありました。私達は、急襲警報も意識しないで
ぐっすり眠りました。何ヶ月ぶりだったことでしょう。

3日目;朝も銀米のごはん・熱い味噌汁・漬け物が10人に振る舞われました。
お昼のおにぎりもくださいました。
S叔母の家族というだけで、見もしらない私たちに、「暖かいおもてなし」を。感謝しましてもしきれません。

疎開先は海近くのN村のM寺です。
D叔父は勤務です。
母が責任者です。
私鉄にのって1時間、N駅で降りました。配給のお米・塩・は祖母が担ぎ、茶碗・鍋など母たちが分けて持ちました。
灼熱の真夏の午後、重い荷物を持って、一面稲穂をつけた田んぼ中の道を50分歩き、ようやくM寺に着きました。家族の疎開生活のメドが着いたようです。

母がトッゼン、母の実家に疎開すると言います。
母・姉・私は、今来た道を引き返して、O市に向かいました。

私鉄の電車はO市の入り口止まりです。電車を降りると、外は真っ暗になっていました。
3人で、焼け跡の道を歩くのですが、「シビト」を踏まないよう気をつけました。蔵の、チョロチョロ燃える火が道案内です。「シビト」・焼け跡のイヤな臭い、
時々バーンと爆発する音、これが、地獄だったのでしょう。
3人は、母のお里にたどり着く事以外何にも思わず、ひたすら歩きました。

建物が、見えました。O警察署でした。
母のお里までの道を尋ねていると、近所のお姉さんが、勤めていました。「JI大橋は焼け落ちたので、この時間では行けないから、O警察署に泊まられ」とここでも親切でした。
宿直室につれていかれ、白米の大きいおにぎりを貰って、ガブリつくと、酸っぱいニオイが。残念でしたが、この親切も忘れられません。
夜中、急襲警報で、警察の壕に入りました。長椅子付きでした。

4日目;早朝、深くお礼を言って歩きました。3人はJI川に架かる長い鉄橋を渡りました。線路の間に板が3枚置いてあって下は深い水の流れ。恐る恐るあるいていきました。ようやく母のお里にたどり着きました。

祖母(母の母)や叔父4人、叔母(あんちゃんの妻)、3歳の従妹も私達が生きていたことを喜んで大騒ぎです。
聞けば、焼けた朝から毎日「T家」の焼け跡を見に行っていたが、来ないので諦めかけていたところに、現れたのです。母は焼けた日すぐ、お里に行きたかったのですが、T家の「嫁」だったので我慢したのでしょう。

祖母の家には、もう一家族6人が焼け出されて疎開してきていました。母の亡姉の家族でした。
祖母の家族8人と私達3人、そして母の亡姉の家族6人の17人の生活が始まります。幸い広い家だったので大助かりです。



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free71 at 23:30|PermalinkComments(7)TrackBack(0)