2006年11月
2006年11月24日
先生、日本は、君主主義なの?民主主義なの?(1945)
先生、日本は、君主主義なの?民主主義なの?(1945)
blogランキングへ
どうぞ、よろしくお願いします。
2学期のはじめ、修身の時間です。
先生は、難しい言葉で、酔ったように、午前中かかって、君主主義の素晴らしいこと、民主主義の卑しいことを話されました。
「日本は世界唯一の君主主義です。現人神の天皇を頂いて、天皇が、全てを決めて政治をなさる、世界唯一の尊い国です。
天皇は、大東亜共栄圏を創ってアジアの民を救うために、戦争をなさいました・・・・
それに比べて、鬼畜英米は民主主義の国で、卑しい民が政治をしています。私達尊い国民は、必ず、戦争に負けたけれど、これは、一時的な撤退です。忠君愛国を・・・・・」
それで、私達は、アメリカ軍の進駐を怖れていました。
鬼畜英米はなにをするかわかりません。
10・11月頃、隣県のK市から、私のクラスに転校生がありました。
安村さんといいます。K市はO市より都会です。
彼女は、「りんごの歌」をみんなに教えてくれました。
なんと、明るい歌でしょう。
「てまりの歌」も教えてくれました。
「1レーラ 進駐軍 ジープに乗って楽しそう グット・バイ
2 レーラ 進駐軍 ジープに乗って・・・・ グット・バイ
3 レーラ 進駐軍 ★
これで、みんなは、列になって、ボールを後ろにやって遊びました。
そのこと等で、進駐軍は、怖れなくても良く、むしろ、私たちに、明るい、希望を与えてくれました。
林先生、ひもじいけれど、巷は、アメリカの進駐軍を喜んでいます。
「民主主義」「男女平等」「言論の自由」の言葉が溢れています。
林先生、「民主主義」が卑しい民のものですか。
林先生、「君主主義」が尊い国なのですか。
林先生、難しいことはわからないので、簡単に教えて下さい。
林先生 どちらなのですか。
林先生 質問したら「非国民」と罵られるでしょう。
みんなから、また、「イジメ」られるでしょう。
その後、林先生は「君主主義」について二度とおっしゃいませんでした。
先生は、その後も、先生を続けていらっしゃいました。
しかし、私の心に、林先生・先生がたへの不信が芽生えていました。
今、思うのですが、
林先生は、本心から、「君主主義」の方が、よいと考えていらっしゃったのでしょうか?
ただ、文部省の「指導要領」に従っただけなのでしょうか。
円は、21年前、50歳で辞めた教師です。
その時は、「指導要領」に基づいて作られた教科書を、使っていました。
「教科書を教えるか」または「教科書で教えるか」は自由でした。生徒の学力を基づいた授業をするためです。
教師は、生徒が可愛いので、時間を生徒にかけます。
今は、雑用が多過ぎるそうです。
そのせいか、このごろは良心的な教師ほど勤務評定が悪いそうです。
現在、もし、世界の常識から、かけ離れたことが、戦時中の「指導要領」の「教科書」のように書かれるようになったら、子ども・生徒たちの未来はどうなるのでしょう。男女共学もどうなるのでしょう。
日本・世界の学者の研究成果に基づいて作られたわかりやすい教科書で、すべての子ども・生徒が、貧富・出来・不出来に関係なくなく勉強できるよう、心から願っています。
教育にスエーデン並みのお金を使って下さい。
教育に無駄が必要です。
子どもは、いつ、どんなきっかけで伸びるかわかりません。
9年の義務教育でも、短いくらいです。
出来・不出来で、子どもを競争させるのは、子どもを痛めつけます。
心が荒れてきます。「イジメ」の温床になります。
教育にスエーデン・先進国並みのお金を使って下さい。
円の受けた4年までの教育に戻すことは、止めて下さい。
再び、文科省は「林先生」を沢山作らないでください。
★10 レーラまでありましたが、円は歌詞を忘れました。どなたかお教え下さい。
blogランキングへ
━━━( ´_ゝ`)━━━!!
blogランキングへ
どうぞ、よろしくお願いします。
2学期のはじめ、修身の時間です。
先生は、難しい言葉で、酔ったように、午前中かかって、君主主義の素晴らしいこと、民主主義の卑しいことを話されました。
「日本は世界唯一の君主主義です。現人神の天皇を頂いて、天皇が、全てを決めて政治をなさる、世界唯一の尊い国です。
天皇は、大東亜共栄圏を創ってアジアの民を救うために、戦争をなさいました・・・・
それに比べて、鬼畜英米は民主主義の国で、卑しい民が政治をしています。私達尊い国民は、必ず、戦争に負けたけれど、これは、一時的な撤退です。忠君愛国を・・・・・」
それで、私達は、アメリカ軍の進駐を怖れていました。
鬼畜英米はなにをするかわかりません。
10・11月頃、隣県のK市から、私のクラスに転校生がありました。
安村さんといいます。K市はO市より都会です。
彼女は、「りんごの歌」をみんなに教えてくれました。
なんと、明るい歌でしょう。
「てまりの歌」も教えてくれました。
「1レーラ 進駐軍 ジープに乗って楽しそう グット・バイ
2 レーラ 進駐軍 ジープに乗って・・・・ グット・バイ
3 レーラ 進駐軍 ★
これで、みんなは、列になって、ボールを後ろにやって遊びました。
そのこと等で、進駐軍は、怖れなくても良く、むしろ、私たちに、明るい、希望を与えてくれました。
林先生、ひもじいけれど、巷は、アメリカの進駐軍を喜んでいます。
「民主主義」「男女平等」「言論の自由」の言葉が溢れています。
林先生、「民主主義」が卑しい民のものですか。
林先生、「君主主義」が尊い国なのですか。
林先生、難しいことはわからないので、簡単に教えて下さい。
林先生 どちらなのですか。
林先生 質問したら「非国民」と罵られるでしょう。
みんなから、また、「イジメ」られるでしょう。
その後、林先生は「君主主義」について二度とおっしゃいませんでした。
先生は、その後も、先生を続けていらっしゃいました。
しかし、私の心に、林先生・先生がたへの不信が芽生えていました。
今、思うのですが、
林先生は、本心から、「君主主義」の方が、よいと考えていらっしゃったのでしょうか?
ただ、文部省の「指導要領」に従っただけなのでしょうか。
円は、21年前、50歳で辞めた教師です。
その時は、「指導要領」に基づいて作られた教科書を、使っていました。
「教科書を教えるか」または「教科書で教えるか」は自由でした。生徒の学力を基づいた授業をするためです。
教師は、生徒が可愛いので、時間を生徒にかけます。
今は、雑用が多過ぎるそうです。
そのせいか、このごろは良心的な教師ほど勤務評定が悪いそうです。
現在、もし、世界の常識から、かけ離れたことが、戦時中の「指導要領」の「教科書」のように書かれるようになったら、子ども・生徒たちの未来はどうなるのでしょう。男女共学もどうなるのでしょう。
日本・世界の学者の研究成果に基づいて作られたわかりやすい教科書で、すべての子ども・生徒が、貧富・出来・不出来に関係なくなく勉強できるよう、心から願っています。
教育にスエーデン並みのお金を使って下さい。
教育に無駄が必要です。
子どもは、いつ、どんなきっかけで伸びるかわかりません。
9年の義務教育でも、短いくらいです。
出来・不出来で、子どもを競争させるのは、子どもを痛めつけます。
心が荒れてきます。「イジメ」の温床になります。
教育にスエーデン・先進国並みのお金を使って下さい。
円の受けた4年までの教育に戻すことは、止めて下さい。
再び、文科省は「林先生」を沢山作らないでください。
★10 レーラまでありましたが、円は歌詞を忘れました。どなたかお教え下さい。
blogランキングへ
━━━( ´_ゝ`)━━━!!
2006年11月17日
焼け跡をさまよう (円の家出・T家・Na家・祖父母とお寺に納骨)
焼け跡をさまよう (円の家出・T家・Na家・祖父母とお寺に納骨)
blogランキングへ
よろしくお願いします。
さいわい、母の腸チフスは、高熱にならず、38度C台にとどまり、1か月で、治りました。済んでのこと、私は、孤児になるところでした。
母は、病後、よっちゃんの教科書を借りてきて、それらを、丸写しにしました。母お手製の教科書で、私の成績はトップです。よっちゃんも相変わらず私の答案を見ますが、たまに写し違えるので、なかなかカンニングが発覚しません。どうすればいいの?
D叔父が、11月13日S軍需工場の社宅で、腸チフスで、亡くなったとSe叔父が知らせに来ました。
11月のある時雨れの暗い夕方、私は焼け跡の「T家」に来ていました。
どうも、私は、午後から焼け跡を一人彷徨っていて、「T家」に辿り着いたらしいのです。が、その時は、その記憶がまったくありませんでした。
焼け跡に建った私の家は、6・10・4・2畳の4部屋とお風呂(五右衛門風呂)と
納屋2つありました。腸チフスで、亡くなったD叔父の贈り物でした。
店用の材木もありましたが、その材木を近所のYさんの住宅用に来年の秋まで貸してあげたので、祖母がその不満を私に言います。
10畳の居間で、お粥と塩のお汁の夕飯時でした。味噌がないので塩で味付けです。
懐かしい祖父母、Y叔母(結核が再発して寝込んでいました)、その娘Mちゃん、YY叔母、Se叔父、亡D叔父の妻のS叔母の7人が食卓を囲んでいます。
夕飯が終わりました。
YY叔母が、Mちゃんをソロバンで、叩きつけ、ソロバンを壊しました。
2年生のMちゃんは、目に涙をためています。
YY叔母の勤めるI幼稚園はI国民学校の中にあるので、MちゃんはYY叔母と電車で一緒に通っていました。放課後、Mちゃんは、I幼稚園で、おもちゃなどで遊んで、いつも電車時間を待っていました。今日、Mちゃんは、I幼稚園のおもちゃを壊したので、打擲を受けたのです。
病気のY叔母は辛そうです。
YY叔母は更に夕飯の後始末を終わったS叔母を罵っています。「出て行け」と。
S叔母は、下をむいて、涙を拭っています。実家も焼けて、山奥のH村に疎開しているので、帰る家が、O市に建つまで、ただ、耐えています。
祖父は、不思議に黙っています。
大空襲前のT家より酷い「家壊しのヒステリー」です。
この風景を、ただ私は見ています。
でも、私、どうして、此処にいるのでしょう?
でも、私の居場所はここです。
Na家のSyu叔父が私を迎えに来ました。
私は、Syu叔父に連れられて、遠く迂回して、O大橋を渡り、新O駅に着きました。駅は暗い電灯、急な降下階段を下りて、電車に乗り、次の駅で降りて、
雨の中を歩きます。
私は、今でも、どのようにして、雨の中を歩いてT家に着いたのかわかりません。(雨の日は、滑るので、鉄橋は歩けません)よほど焼け跡に帰りたかったのでしょう。
Na家では、疎開先の同級生とは、話もしないし、I往来には、遊びにも出ません。
Na家には、あんちゃんの法律の難しい本しかありません。やっと、分厚い本を見つけました。私は、その本を何回も何回も読みました。今、思えば、「格言・ことわざ集」の類だったのでしょう。
秋晴れの午後、裏の畑や、線路をこえて、冒険をしました。
Ku丘陵の麓のU用水まで、2本のU用水の分流に、勝手に「墨田川」「玉川」と名前をつけました。4歳違いのHei叔父と、田んぼの大豆取り、イナゴ取りをしてあそびました。
10人でテーブルを囲んで和やかな食事です。
私は、お粥一杯にお汁を5杯も、お代わりするので、みんなたまげていました。
きっと、本能的に、味噌のタンパク質を求めていたのでしょう。
タンパク質と言えば、大豆、イナゴ、どじょう、と川魚、たまに売りに来るY浜の魚くらいです。
川魚は、あんちゃんが日曜になると、U用水に私を連れて釣りに出かけます。
朝、私は、下水の樋の下を掘って、魚の餌のトコムシ・みみずを用意します。私は、無口で、黙って傍にいるだけなので、邪魔にならなかったのでしょう。
晩秋のある晴れた日、T家の祖父母、母そして私は、F町Sの西芳寺にいました。姉、D叔父の遺骨をお寺に預かって貰い、お経を沢山読んで頂きました。
4人のは悼む心と悲しみに洗われています。
秋晴れの深く青い空の下、JI川まで、澄み切った秋を吸い込みながら4人でゆっくり歩いて行きました。
blogランキングへ
━━━( ´_ゝ`)━━━!!
blogランキングへ
よろしくお願いします。
さいわい、母の腸チフスは、高熱にならず、38度C台にとどまり、1か月で、治りました。済んでのこと、私は、孤児になるところでした。
母は、病後、よっちゃんの教科書を借りてきて、それらを、丸写しにしました。母お手製の教科書で、私の成績はトップです。よっちゃんも相変わらず私の答案を見ますが、たまに写し違えるので、なかなかカンニングが発覚しません。どうすればいいの?
D叔父が、11月13日S軍需工場の社宅で、腸チフスで、亡くなったとSe叔父が知らせに来ました。
11月のある時雨れの暗い夕方、私は焼け跡の「T家」に来ていました。
どうも、私は、午後から焼け跡を一人彷徨っていて、「T家」に辿り着いたらしいのです。が、その時は、その記憶がまったくありませんでした。
焼け跡に建った私の家は、6・10・4・2畳の4部屋とお風呂(五右衛門風呂)と
納屋2つありました。腸チフスで、亡くなったD叔父の贈り物でした。
店用の材木もありましたが、その材木を近所のYさんの住宅用に来年の秋まで貸してあげたので、祖母がその不満を私に言います。
10畳の居間で、お粥と塩のお汁の夕飯時でした。味噌がないので塩で味付けです。
懐かしい祖父母、Y叔母(結核が再発して寝込んでいました)、その娘Mちゃん、YY叔母、Se叔父、亡D叔父の妻のS叔母の7人が食卓を囲んでいます。
夕飯が終わりました。
YY叔母が、Mちゃんをソロバンで、叩きつけ、ソロバンを壊しました。
2年生のMちゃんは、目に涙をためています。
YY叔母の勤めるI幼稚園はI国民学校の中にあるので、MちゃんはYY叔母と電車で一緒に通っていました。放課後、Mちゃんは、I幼稚園で、おもちゃなどで遊んで、いつも電車時間を待っていました。今日、Mちゃんは、I幼稚園のおもちゃを壊したので、打擲を受けたのです。
病気のY叔母は辛そうです。
YY叔母は更に夕飯の後始末を終わったS叔母を罵っています。「出て行け」と。
S叔母は、下をむいて、涙を拭っています。実家も焼けて、山奥のH村に疎開しているので、帰る家が、O市に建つまで、ただ、耐えています。
祖父は、不思議に黙っています。
大空襲前のT家より酷い「家壊しのヒステリー」です。
この風景を、ただ私は見ています。
でも、私、どうして、此処にいるのでしょう?
でも、私の居場所はここです。
Na家のSyu叔父が私を迎えに来ました。
私は、Syu叔父に連れられて、遠く迂回して、O大橋を渡り、新O駅に着きました。駅は暗い電灯、急な降下階段を下りて、電車に乗り、次の駅で降りて、
雨の中を歩きます。
私は、今でも、どのようにして、雨の中を歩いてT家に着いたのかわかりません。(雨の日は、滑るので、鉄橋は歩けません)よほど焼け跡に帰りたかったのでしょう。
Na家では、疎開先の同級生とは、話もしないし、I往来には、遊びにも出ません。
Na家には、あんちゃんの法律の難しい本しかありません。やっと、分厚い本を見つけました。私は、その本を何回も何回も読みました。今、思えば、「格言・ことわざ集」の類だったのでしょう。
秋晴れの午後、裏の畑や、線路をこえて、冒険をしました。
Ku丘陵の麓のU用水まで、2本のU用水の分流に、勝手に「墨田川」「玉川」と名前をつけました。4歳違いのHei叔父と、田んぼの大豆取り、イナゴ取りをしてあそびました。
10人でテーブルを囲んで和やかな食事です。
私は、お粥一杯にお汁を5杯も、お代わりするので、みんなたまげていました。
きっと、本能的に、味噌のタンパク質を求めていたのでしょう。
タンパク質と言えば、大豆、イナゴ、どじょう、と川魚、たまに売りに来るY浜の魚くらいです。
川魚は、あんちゃんが日曜になると、U用水に私を連れて釣りに出かけます。
朝、私は、下水の樋の下を掘って、魚の餌のトコムシ・みみずを用意します。私は、無口で、黙って傍にいるだけなので、邪魔にならなかったのでしょう。
晩秋のある晴れた日、T家の祖父母、母そして私は、F町Sの西芳寺にいました。姉、D叔父の遺骨をお寺に預かって貰い、お経を沢山読んで頂きました。
4人のは悼む心と悲しみに洗われています。
秋晴れの深く青い空の下、JI川まで、澄み切った秋を吸い込みながら4人でゆっくり歩いて行きました。
blogランキングへ
━━━( ´_ゝ`)━━━!!
2006年11月10日
空襲の後は腸チフス (姉の死・カンニング・母もD叔父も腸チフス)
空襲の後は腸チフス (姉の死・カンニング・母もD叔父も腸チフス)
blogランキングへ
よろしくお願いします。
私は、毎日、帳面と鉛筆3本・ケシゴムを防空袋に入れて内山家の板の間の4年生の教室に通いました。
教科書は焼けたので、隣に座っているよっちゃんの教科書を見せて貰いながら授業を受けていました。軍隊帰りの林先生が担任です。母の知り合いでした。
女の疎開児童は、私を入れて3人でした。どうしてか、3人の成績はいつも上位を占めました。
林先生は、西洋紙1/4に国語・算数の試験をよくされました。
「明日、漢字のテストします」と言われます。
私は、自分の帳面(ノートのこと)を見て覚えていきます。
ある時、隣のよっちゃんが私のテストの答えを写しているのに、気が付きました。
どうしたらよいのでしょう。
学校から帰って、姉の病室の隣の座敷に寝ころんでいました。
母と姉の会話が聞こえてきました。
「おっかちゃん、私、13で死ぬ。おっかちゃんの先に死んで、おっかちゃんにご恩返しも出来ないで。おっかちゃん、苦労ばかりしてきて。かんにして(ごめんなさいの意)」姉と母のすすり泣きが聞こえてきます。
私は、ソッート離れて、裏の畑で泣きました。
この情景が、ライフ・ワーク「私の夫婦別姓」の遠因になってきます。
姉が国立病院にタンカに乗せられ、迎えの車で隔離入院しました。車で30分、
母とSyu叔父が付き添いました。
Na家から山沿いに歩けば2〜3時間はかかるでしょう。あんちゃんが手配してくれました。これで、姉は治るでしょう。
あんちゃんは、すぐ、元の検事局(今の地方裁判所?)に復職しました。
秋晴れの、日曜日、母の末の弟のHei叔父(中学生)に私はせがみました。
「国立病院まで自転車の荷台に乗せて連れてって!」泣いて頼む私をHei
叔父は、振り切れません。
「円と自転車で遊びにいく」とことわって、遠征です。
自転車の荷台が疲れたら、歩いて、走って、秋の田舎道を行きます。
国立病院はMちゃんのおかあさん(Y叔母)が入院して、お見舞いにいっているので、よく知っています。その時はバスでした。
今度は、なかなか国立病院に着きません。
遠かった行き帰りとお天気の良かったこと、
丘陵のNa家の後ろに続く稜線だけを覚えていて、
その他の記憶のないところをみると、母や姉に会えて、満足したのでしょう。
10月はじめ、驟雨です。内山さん家で授業をうけていると、門を入る人影。
不吉な予感。やはりでした。私が、先生に呼ばれました。「危篤だからすぐ」
すぐ、Ryo叔父と国立病院です。
広い病室です。
姉が寝ています。
目を閉じて、肩で息をしています。肩が上がったり下がったりしています。
顎が、上下に動きます。
言葉無く、私は姉の息に合わせて息をします。
もう、時間の問題です。
暮れなずむ硝子戸越に三角にそそり立つ真っ黒な杉の林です。
母はシャキットしています。受けて立とうとしているのでしよう。
10月6日朝、姉は、私達が見た危篤の状態のまま逝ったそうです。
10月7日朝、Syu叔父とI往来を歩いて来る母。
「軽うなった」と迎えに出た私達に、両手を振っておどけて見せました。
Ta家では、S軍需工場の社宅に入っているD叔父が腸チフスになりました。
Y叔母は、持病の結核が再発して、悪化していってるそうです。
戦車隊にはいっていた亡父の末のSe叔父が、19歳で除隊になり、祖母と焼け跡の小屋に住みました。タバコを沢山持ってきました。
D叔父は、家を建てる材木を用意して、祖母が近所の上手な大工さんに手配もすんだとの事です。
11月には建っているとのこと。Ta家に戻れる日も近いでしょう。
今度は、母がすぐ腸チフスになって寝込みました。あの病室で母はRyo叔父の介抱を受けています。
私、また一人になりました。
隣のよっちゃんが、平気で、テストの前の日に目配せするようになりました。
どうすればいいの?
blogランキングへ
━━━( ´_ゝ`)━━━!!
blogランキングへ
よろしくお願いします。
私は、毎日、帳面と鉛筆3本・ケシゴムを防空袋に入れて内山家の板の間の4年生の教室に通いました。
教科書は焼けたので、隣に座っているよっちゃんの教科書を見せて貰いながら授業を受けていました。軍隊帰りの林先生が担任です。母の知り合いでした。
女の疎開児童は、私を入れて3人でした。どうしてか、3人の成績はいつも上位を占めました。
林先生は、西洋紙1/4に国語・算数の試験をよくされました。
「明日、漢字のテストします」と言われます。
私は、自分の帳面(ノートのこと)を見て覚えていきます。
ある時、隣のよっちゃんが私のテストの答えを写しているのに、気が付きました。
どうしたらよいのでしょう。
学校から帰って、姉の病室の隣の座敷に寝ころんでいました。
母と姉の会話が聞こえてきました。
「おっかちゃん、私、13で死ぬ。おっかちゃんの先に死んで、おっかちゃんにご恩返しも出来ないで。おっかちゃん、苦労ばかりしてきて。かんにして(ごめんなさいの意)」姉と母のすすり泣きが聞こえてきます。
私は、ソッート離れて、裏の畑で泣きました。
この情景が、ライフ・ワーク「私の夫婦別姓」の遠因になってきます。
姉が国立病院にタンカに乗せられ、迎えの車で隔離入院しました。車で30分、
母とSyu叔父が付き添いました。
Na家から山沿いに歩けば2〜3時間はかかるでしょう。あんちゃんが手配してくれました。これで、姉は治るでしょう。
あんちゃんは、すぐ、元の検事局(今の地方裁判所?)に復職しました。
秋晴れの、日曜日、母の末の弟のHei叔父(中学生)に私はせがみました。
「国立病院まで自転車の荷台に乗せて連れてって!」泣いて頼む私をHei
叔父は、振り切れません。
「円と自転車で遊びにいく」とことわって、遠征です。
自転車の荷台が疲れたら、歩いて、走って、秋の田舎道を行きます。
国立病院はMちゃんのおかあさん(Y叔母)が入院して、お見舞いにいっているので、よく知っています。その時はバスでした。
今度は、なかなか国立病院に着きません。
遠かった行き帰りとお天気の良かったこと、
丘陵のNa家の後ろに続く稜線だけを覚えていて、
その他の記憶のないところをみると、母や姉に会えて、満足したのでしょう。
10月はじめ、驟雨です。内山さん家で授業をうけていると、門を入る人影。
不吉な予感。やはりでした。私が、先生に呼ばれました。「危篤だからすぐ」
すぐ、Ryo叔父と国立病院です。
広い病室です。
姉が寝ています。
目を閉じて、肩で息をしています。肩が上がったり下がったりしています。
顎が、上下に動きます。
言葉無く、私は姉の息に合わせて息をします。
もう、時間の問題です。
暮れなずむ硝子戸越に三角にそそり立つ真っ黒な杉の林です。
母はシャキットしています。受けて立とうとしているのでしよう。
10月6日朝、姉は、私達が見た危篤の状態のまま逝ったそうです。
10月7日朝、Syu叔父とI往来を歩いて来る母。
「軽うなった」と迎えに出た私達に、両手を振っておどけて見せました。
Ta家では、S軍需工場の社宅に入っているD叔父が腸チフスになりました。
Y叔母は、持病の結核が再発して、悪化していってるそうです。
戦車隊にはいっていた亡父の末のSe叔父が、19歳で除隊になり、祖母と焼け跡の小屋に住みました。タバコを沢山持ってきました。
D叔父は、家を建てる材木を用意して、祖母が近所の上手な大工さんに手配もすんだとの事です。
11月には建っているとのこと。Ta家に戻れる日も近いでしょう。
今度は、母がすぐ腸チフスになって寝込みました。あの病室で母はRyo叔父の介抱を受けています。
私、また一人になりました。
隣のよっちゃんが、平気で、テストの前の日に目配せするようになりました。
どうすればいいの?
blogランキングへ
━━━( ´_ゝ`)━━━!!
2006年11月03日
疎開生活 (買い出し・Sa国民学校・腸チフス)
疎開生活 (買い出し・Sa国民学校・腸チフス)
blogランキングへ
お願いします
日本が戦争に負けました。
この日を境に、母・姉・私の三人の食を賄うことになりました。
Na家のパラサイトでは、長続きしません。母はたまに言います。
「女は、三界に家なし」女 の悲しい呟きです。
私に意味がわかるようになるのは、6年生の時でした。
幸い、母の二つのタンス・長持ち・などの嫁入り道具が、Na家の2階
に疎開してありました。それを食糧に代えているうちに、商売も出来るようになるでしょう。
買い出しの日です。
母は風呂敷包みを持っています。
Ha村を目指します。まずは、Ha村から。
母は統制が厳しくなる前、この村の野菜の集荷場に良く来ていましたし、Na家の「おおわ(2女のこと)または、おわはん」として、顔見知りの多い村です。
農家にしては小さい家々、幅の狭い道です。
3人で歩いていると、道幅一杯の縄が、落ちていました。姉が、踏むと、、、その縄は木々の間に隠れます。
蛇です。居なくなってから「きゃー」と肝を冷やし、大笑いしました。
母は目星を付けた家の縁に腰掛けて、風呂敷包みを広げて、姉や私の幼いときの「四つ身」とか、「一つ身」の着物を並べます。
その家の子どもたちが「おべべ、おべべ」といって喜びます。
母は、頃合いをみて、上手く芋や米・野菜と物々交換の取引をします。
「食べ物」が手に入りました。
母と姉が担ぎます。夕飯が楽しみです。
母は「この村は、昔から田畑が少なくて貧しい村」と話してくれます。
それで、2・3間の暗い家が多く、焼け出されのなけなしの私の着物を喜ぶ訳がわかりました。
夜、Na家の大きな御膳の隣で、赤の漆のお客さん用の御膳(疎開したもの)二つに、Na家のご飯に母の作ったおかずで夕飯です。
3人でのご飯は楽しかったな!
おいしかったな!
2週間は続いたかな?
9月1日、疎開先の4年に転校しました。Sa国民学校は焼けてしまったので、
I村の大きなお堀のある家を何軒か借りました。
各学年一クラスです。
4年生は内山さんの20畳ほどの板の間を借りて授業が始まりました。冷たい板の間に座って、板の間にじかにノートを於いて、うつむいて、書きます。でも、午前中だけでした。
9月のはじめ、姉が女学校に行けず、お腹が痛いと言い出しました。熱も出ます。
姉は、一番奥の6畳を病室にして、寝つきました。
母は、医者を捜しに焼け跡を歩き回り、聞き回り、長く家庭医だった医者をはるばるNa家まで連れだってきました。見立ては、「盲腸(虫垂炎)」お腹を冷やすようにと、薬も少し置いていきました。腸チフスでなくって皆安心しました。
間もなく、国内にいて武装解除で、あんちゃんが帰ってきました。
病室の横の地獄風呂に入ったあんちゃんは一杯付き夕飯の大御膳に着きました。母も私も大御膳に戻りました。アー。アー。
あんちゃんは、久日振りのお風呂だったので、「垢が擦っても擦っても出るので
最後に、タワシで擦った。痛い!痛い!」で掻き傷を触る人、大笑いで大騒ぎ。
大好きなお酒にもありつけて、ご満足のなかで、姉の居ないのに気がつきました。
姉の次第を母が話すと、酔いが醒めて、テキパキとして指令が出された。
あんちゃんは、上等兵の衛生兵でした。帰省のとき「何でも、好きなだけ、持てるだけ、家へ持って帰れ」といわれ、あんちゃんは、衛生品・医薬品を持てるだけ持って来たとのことです。
あんちゃんは、まず、自分を消毒します。そして、姉を看取ります。
その結果「これは腸チフスだ。介抱人は、ねちゃん(母のこと)とSyu叔父の二人。それ以外に人は、入らないこと。家中消毒。ねちゃん(母のこと)とSyu叔父の二人は病室の出入りの際、必ず消毒して、17人への感染をを防ぐこと。」
あんちゃんの衛生品・医薬品は、フル回転します。姉だけは病名を知りません。入院先探しが、始まりました。
私、姉の潜伏期のとき、一緒に寝て、病室でも、一杯の葛湯をスプーンで代わりばんこに食べたのに、病気になりません??
blogランキングへ
━━━( ´_ゝ`)━━━!!
blogランキングへ
お願いします
日本が戦争に負けました。
この日を境に、母・姉・私の三人の食を賄うことになりました。
Na家のパラサイトでは、長続きしません。母はたまに言います。
「女は、三界に家なし」女 の悲しい呟きです。
私に意味がわかるようになるのは、6年生の時でした。
幸い、母の二つのタンス・長持ち・などの嫁入り道具が、Na家の2階
に疎開してありました。それを食糧に代えているうちに、商売も出来るようになるでしょう。
買い出しの日です。
母は風呂敷包みを持っています。
Ha村を目指します。まずは、Ha村から。
母は統制が厳しくなる前、この村の野菜の集荷場に良く来ていましたし、Na家の「おおわ(2女のこと)または、おわはん」として、顔見知りの多い村です。
農家にしては小さい家々、幅の狭い道です。
3人で歩いていると、道幅一杯の縄が、落ちていました。姉が、踏むと、、、その縄は木々の間に隠れます。
蛇です。居なくなってから「きゃー」と肝を冷やし、大笑いしました。
母は目星を付けた家の縁に腰掛けて、風呂敷包みを広げて、姉や私の幼いときの「四つ身」とか、「一つ身」の着物を並べます。
その家の子どもたちが「おべべ、おべべ」といって喜びます。
母は、頃合いをみて、上手く芋や米・野菜と物々交換の取引をします。
「食べ物」が手に入りました。
母と姉が担ぎます。夕飯が楽しみです。
母は「この村は、昔から田畑が少なくて貧しい村」と話してくれます。
それで、2・3間の暗い家が多く、焼け出されのなけなしの私の着物を喜ぶ訳がわかりました。
夜、Na家の大きな御膳の隣で、赤の漆のお客さん用の御膳(疎開したもの)二つに、Na家のご飯に母の作ったおかずで夕飯です。
3人でのご飯は楽しかったな!
おいしかったな!
2週間は続いたかな?
9月1日、疎開先の4年に転校しました。Sa国民学校は焼けてしまったので、
I村の大きなお堀のある家を何軒か借りました。
各学年一クラスです。
4年生は内山さんの20畳ほどの板の間を借りて授業が始まりました。冷たい板の間に座って、板の間にじかにノートを於いて、うつむいて、書きます。でも、午前中だけでした。
9月のはじめ、姉が女学校に行けず、お腹が痛いと言い出しました。熱も出ます。
姉は、一番奥の6畳を病室にして、寝つきました。
母は、医者を捜しに焼け跡を歩き回り、聞き回り、長く家庭医だった医者をはるばるNa家まで連れだってきました。見立ては、「盲腸(虫垂炎)」お腹を冷やすようにと、薬も少し置いていきました。腸チフスでなくって皆安心しました。
間もなく、国内にいて武装解除で、あんちゃんが帰ってきました。
病室の横の地獄風呂に入ったあんちゃんは一杯付き夕飯の大御膳に着きました。母も私も大御膳に戻りました。アー。アー。
あんちゃんは、久日振りのお風呂だったので、「垢が擦っても擦っても出るので
最後に、タワシで擦った。痛い!痛い!」で掻き傷を触る人、大笑いで大騒ぎ。
大好きなお酒にもありつけて、ご満足のなかで、姉の居ないのに気がつきました。
姉の次第を母が話すと、酔いが醒めて、テキパキとして指令が出された。
あんちゃんは、上等兵の衛生兵でした。帰省のとき「何でも、好きなだけ、持てるだけ、家へ持って帰れ」といわれ、あんちゃんは、衛生品・医薬品を持てるだけ持って来たとのことです。
あんちゃんは、まず、自分を消毒します。そして、姉を看取ります。
その結果「これは腸チフスだ。介抱人は、ねちゃん(母のこと)とSyu叔父の二人。それ以外に人は、入らないこと。家中消毒。ねちゃん(母のこと)とSyu叔父の二人は病室の出入りの際、必ず消毒して、17人への感染をを防ぐこと。」
あんちゃんの衛生品・医薬品は、フル回転します。姉だけは病名を知りません。入院先探しが、始まりました。
私、姉の潜伏期のとき、一緒に寝て、病室でも、一杯の葛湯をスプーンで代わりばんこに食べたのに、病気になりません??
blogランキングへ
━━━( ´_ゝ`)━━━!!