2006年12月
2006年12月30日
私は本名で生き、本名で逝きたいです。
私は本名で生き、本名で逝きたいです。
(重複している失礼をお許し下さい)
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よろしくお願いします。
誰でも《氏名の変更を強制されないこと=氏名権》を求める権利があるのに、私は1960年から、姓でスチャモチャしている。
君(夫)は出自の姓を変えなかった。私も変えなかったら良かった。君は4人兄弟の長男だった。私は、一人娘で女なのに「あんま」(男の跡取り)と呼ばれて育った。
結婚するまで、親同士の話し合いが長引いた。★「姓はどちらを名乗る」「嫁か、婿か」「結納を受ける、受けない」などなど。長男と一人娘の結婚だからその難しかったこと。
夫婦別姓で結婚した。最初の子が私の姓。婚外子にしないためと、★★私の姓にするために、君を戸籍筆頭者にする婚姻届を出して、嫡出子としたあと、ペーパー離婚し、家裁の許可を得て、T・円とT姓の子の戸籍を作った。1973年最後の婚姻届けを出して、私は、君の姓になった。後の二人の子は君と同姓。
勤務先では、「Ko」と呼ばれると、私が悲しい顔をするので、Tの「本」をとって「モッちゃん」とあだ名がついた。私は、モツモツに肥えている上に、モタモタのモッちゃんでもあった。同窓会名簿は誰が届けたか、「Ko姓」になっていた。生徒から「Ko先生」と呼ばれると私のアンデイテイが脅かされた。50歳で教師を辞めた。
これで、「Ko」姓ともお別れと思った。私は近所・親戚では、T姓であった。君はいつも「Ko姓」だった。
当時、私の周りに別姓の人は居なかった。2002年「選択的夫婦別姓の会・O」で初めて通称(旧姓)使用を知った。国も県も通称(旧姓)使用を認めていた。結婚45年目に多くの通称(旧姓)使用・事実婚・同棲の方々と知り合った。
君の父は94歳で逝去。1947年憲法24条と民法750条で崩壊したはずの、明治民法の「家父長制度」の典型家族だった。頭の上に「家」が無くなった。
私は君にペーバー離婚を求めた。返事なく。
私は戸籍名ではなく私の本名で生き、死にたいだけである。
まず、1996年法制審議会答申からの選択的夫婦別姓制の実現を願う。
いずれにしても、別姓の伴侶として、姓の葛藤のない僅かな余命を仲良く枯れるように終わりたい。
世界の国々のように選択的夫婦別姓制になっていれば、苦しまなくても良かったのになぁ。
お荷物(円の別姓)は来年へもちこされました。
皆様、blogをお読みいただき有り難うございました。
来年も、よろしくお願いします。
★民法750条夫婦同姓規制(世界では日本だけ、98%の妻が改姓。1947年新民法改正当時から問題視された)
★★民法900条41項婚外子差別・民法改正点
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君(夫)は出自の姓を変えなかった。私も変えなかったら良かった。君は4人兄弟の長男だった。私は、一人娘で女なのに「あんま」(男の跡取り)と呼ばれて育った。
結婚するまで、親同士の話し合いが長引いた。★「姓はどちらを名乗る」「嫁か、婿か」「結納を受ける、受けない」などなど。長男と一人娘の結婚だからその難しかったこと。
夫婦別姓で結婚した。最初の子が私の姓。婚外子にしないためと、★★私の姓にするために、君を戸籍筆頭者にする婚姻届を出して、嫡出子としたあと、ペーパー離婚し、家裁の許可を得て、T・円とT姓の子の戸籍を作った。1973年最後の婚姻届けを出して、私は、君の姓になった。後の二人の子は君と同姓。
勤務先では、「Ko」と呼ばれると、私が悲しい顔をするので、Tの「本」をとって「モッちゃん」とあだ名がついた。私は、モツモツに肥えている上に、モタモタのモッちゃんでもあった。同窓会名簿は誰が届けたか、「Ko姓」になっていた。生徒から「Ko先生」と呼ばれると私のアンデイテイが脅かされた。50歳で教師を辞めた。
これで、「Ko」姓ともお別れと思った。私は近所・親戚では、T姓であった。君はいつも「Ko姓」だった。
当時、私の周りに別姓の人は居なかった。2002年「選択的夫婦別姓の会・O」で初めて通称(旧姓)使用を知った。国も県も通称(旧姓)使用を認めていた。結婚45年目に多くの通称(旧姓)使用・事実婚・同棲の方々と知り合った。
君の父は94歳で逝去。1947年憲法24条と民法750条で崩壊したはずの、明治民法の「家父長制度」の典型家族だった。頭の上に「家」が無くなった。
私は君にペーバー離婚を求めた。返事なく。
私は戸籍名ではなく私の本名で生き、死にたいだけである。
まず、1996年法制審議会答申からの選択的夫婦別姓制の実現を願う。
いずれにしても、別姓の伴侶として、姓の葛藤のない僅かな余命を仲良く枯れるように終わりたい。
世界の国々のように選択的夫婦別姓制になっていれば、苦しまなくても良かったのになぁ。
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2006年12月24日
焼け跡のエネルギー 1 (闇市・国民学校5年生・1946年)
焼け跡のエネルギー 1 (闇市・国民学校5年生・1946年)
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よろしくお願いします。
1935年生まれの私は、焦土から「日本国憲法前文・・
自由の恵沢・・」で貧しいけれど、自由と希望を
持って人々が復興に取り組んでいく足音とともに
成長しました。これが「私の自由・自由な私」です。
鉄橋を渡ってO駅の構内を出ると駅前です。
駅前には、闇市があり、大勢の人が、モミクチャに集まってきます。破れた軍服のコート、破れた長靴、ボロを来た人々です。
でも、活気が溢れています。
誰が作ったのでしょうか、木で組んだ屋根付きの台があって、品物が沢山並んでいます。並べる先から売れていきます。
餅・おはぎなどは立ち売りで、人が群がり直ぐ売れ切れです。
物がないので、物価はみるみる上がっていきました。
Ryo叔父の勤務先の研究室が敗戦で無くなりました。失業です。
Ryo叔父は、端切れの布で草履を作りました。2階の織機の横の箱に明治の頃からの端切れの布が、詰まっています。1日に10足ほど作ります。
端切れの布を太くして、片足を伸ばして、人差し指と、薬指に巻き付けて、4本の芯をつくって、編み込んで、綺麗な草履を作って、闇市に持って行くとすぐ売れ切れます。
その頃、人々は、食うためには、どんな仕事でもしました。
O市の繁華街の裏の大通りにも、闇市がたちました。舗装通りにジカに、品物を並べて売っています。
ここも、人だかりです。復員・店舗の焼けた商売人・百姓・魚売り・雑草の入った三角餅売り、サッカリンの入ったあんころ売り、焼けて変形した皿売り、古着売りなど、何でも有りです。
母は同業者が10人ほどの仲間に私を連れて入りました。野菜・果物の路上売りです。
母は半日で家に帰りました。路上売りが母の自尊心を傷つけたのでしょう。
母の自尊心は、焼け跡のエネルギーを、身体いっぱいに受け止めました。
母はすぐ、Na家にいって、Na家自転車とリアカーを貰い、Na家に疎開してあったタンス一棹分の着物を運んできました。
近所の大きな製材所の一室に5人ほどのおばちゃんたちが古着を売買していました
Yのおばちゃんも仲間です。母もその仲間に入りました。
急いでタンス一棹分の着物を売って貰って、現金を作りました。
そのお金を母はおじじに差し出して、店を建てる土地に「バラックの店」を作る許しを頼みました。秋には、店を作る材木が、Yのお父さんから返るのを待てない母は、恐いおじじを説得しました。
YY叔母・Se叔父の「T家の民主化」のお陰です。
私が、I国民学校5年生の4月始めには「バラックの店」が出来ていました。
母が、T家に帰ってから、Y叔母を介抱・見送り、たった20日間ばかりの行動でした。
母は、自転車にリアカーを付けて、市場や郊外の生産者めぐりで、新鮮で安い品物を仕入れてきます。
店の創始者のおばわは張り切って店番をして、例のニートの男の人を使って、働き始めました。
おじじは、校区市役所の分室の責任者に会いに町内の仕事を口実に日参、よほど、気があうようです。
Se叔父は、食品大口組合(大口の病院、公営食堂などに食品を配給する・当時はまだ統制経済でした。が・・)
YY叔母のT家民主化のヒステリーは下火になりました。でも、どうしてか孤児のMちゃんより円を可愛がってくれました。同じ姪ですのに。
今度は7人家族に減りました。
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でも、活気が溢れています。
誰が作ったのでしょうか、木で組んだ屋根付きの台があって、品物が沢山並んでいます。並べる先から売れていきます。
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物がないので、物価はみるみる上がっていきました。
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Ryo叔父は、端切れの布で草履を作りました。2階の織機の横の箱に明治の頃からの端切れの布が、詰まっています。1日に10足ほど作ります。
端切れの布を太くして、片足を伸ばして、人差し指と、薬指に巻き付けて、4本の芯をつくって、編み込んで、綺麗な草履を作って、闇市に持って行くとすぐ売れ切れます。
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母は半日で家に帰りました。路上売りが母の自尊心を傷つけたのでしょう。
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Yのおばちゃんも仲間です。母もその仲間に入りました。
急いでタンス一棹分の着物を売って貰って、現金を作りました。
そのお金を母はおじじに差し出して、店を建てる土地に「バラックの店」を作る許しを頼みました。秋には、店を作る材木が、Yのお父さんから返るのを待てない母は、恐いおじじを説得しました。
YY叔母・Se叔父の「T家の民主化」のお陰です。
私が、I国民学校5年生の4月始めには「バラックの店」が出来ていました。
母が、T家に帰ってから、Y叔母を介抱・見送り、たった20日間ばかりの行動でした。
母は、自転車にリアカーを付けて、市場や郊外の生産者めぐりで、新鮮で安い品物を仕入れてきます。
店の創始者のおばわは張り切って店番をして、例のニートの男の人を使って、働き始めました。
おじじは、校区市役所の分室の責任者に会いに町内の仕事を口実に日参、よほど、気があうようです。
Se叔父は、食品大口組合(大口の病院、公営食堂などに食品を配給する・当時はまだ統制経済でした。が・・)
YY叔母のT家民主化のヒステリーは下火になりました。でも、どうしてか孤児のMちゃんより円を可愛がってくれました。同じ姪ですのに。
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2006年12月08日
COMMENTEありがとうございます
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急襲のcommente
1. Posted by 薔薇の花束。 2006年09月30日 11:17
「シビト」が倒れている暗黒の世界に直面しながら、円さんは、「悲劇のヒロイン」にならなかった。「NHKの純情きらり」は、ヒロインを逝かせてしまった。どちらが魅力的か?生き残っている方だろう。円さんの生、輝く。
2. Posted by 円 2006年09月30日 19:49
薔薇の花束様
blogにお訪ねくださりありがとうございます。
今でしたら、PTSDの手当もありますが、当時、焼死しなかっただけでも、有りがったかったです。
敗戦のあと、焼け跡に腸チウスが流行し、姉・D叔父が逝き、母も腸チウスで、ようやく一命を取り留めました。
私は、覚えている儘書くだけです。
これからも、よろしくお願いします。
3. Posted by M 2006年10月02日 21:38
こんばんは
Mです。
貴重な体験ですね。
語り継ぐ人たちが、だんだんいなくなります。私も、その一人ですが、語り継ぐことを使命と思っています。
折りに触れて、記事にしたいと思います。
心から応援しています。
4. Posted by 円 2006年10月03日 15:54
M 様
いつも励まして下さってありがとうございます。
3000人亡くなった大空襲でした。
ボケ無い内にと思い、書きながら、一人で涙しています。
5. Posted by リポーター 2006年10月06日 17:53
空襲経験を英語にして米国民へ
この思いでずーっといます。私も71歳。ボケる前に済ませたい。
私は当時利根川沿いの町に居住、艦載機の機銃射撃におびえる毎日でした。艦載機の急上昇、急降下、射撃音(ブーン、キューン、バリバリ)が終戦後数年耳についていました。
東京大空襲でもいい、横浜でもいい、実体験者の生感覚溢れるリポートを書き、英訳して、適当米国ブログに掲載したい。ついては一部を借用したい。空襲火災現場彷徨の経験はないので。
米国民は空爆が好き。その下でどんなに惨めな状況があるのか、文を通して知らせたい。好戦気分をすこしでも弱めたいので。
6. Posted by 円 2006年10月08日 12:20
リポーター 様
plogを読んでくださりありがとうございます。
結構な話ですが、リポーター 様
のplogを読んでから返事したく思います。
よろしくお願いします。
1. Posted by 薔薇のとげ。 2006年09月24日 12:02
戦中を思い出すと辛いでしょうが、それを乗り越えて今がある、と考えれば 現在を
肯定して生きれないでしょうか?
ところで、棗の防空壕って、どのように造られていたか、お教え願います。
戦中の臨場感溢れるblog、ありがとうございます。
2. Posted by 円 2006年09月24日 20:10
薔薇のとげ様
イラクから帰還した兵士の自殺・心の病が問題になっています。戦いの残酷さ・無意味さを味わった為です。
沖縄戦を経験した人が、辛かったからこそ語り部となっています。
韓国の挺身隊の人たちは、辛かったからこそ、訴訟を起こしたいます。
二度と戦争を起こさないために、60歳・70歳になって、行動しています。戦争に正義はありません。
薔薇のとげ様
私たちの年代の日本人は、戦争の体験を持っているからこそ、平和を、憲法第9条を大切に思っています。その願いと政治はどうして乖離するのでしょうか?
綿貫元衆議院議長は、一昨日のヤフーニュースで「今の日本は、安倍が戦争をすると言ったら、皆戦争をするだろう。そうならないために、来年の選挙で勝たねば」といっています。
防空壕の作り方、私には書けません。
いつも読んでくださって感謝したおります。
3. Posted by M 2006年09月27日 18:46
こんにちは
Mです。
3月10日の東京大空襲を思い出します。
業火の地獄のような炎の記憶は、一生消えません。
戦争を知らない戦後生まれの総理大臣は、大丈夫なのでしょうか?
若い世代のためにも、心配です。
4. Posted by 円 2006年09月30日 20:10
M 様
こんばんは
あの大空襲は私の原点のようです。
何時か記録したいと思っていました。
覚えている儘書いています。鮮明に頭に焼き付いて、感情まで、生々しいので我ながら驚いています。
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((( ̄( ̄( ̄( ̄ー ̄) ̄) ̄) ̄)))
後も続きます。よろしくお願いします。
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1. Posted by 薔薇の花束。 2006年09月30日 11:17
「シビト」が倒れている暗黒の世界に直面しながら、円さんは、「悲劇のヒロイン」にならなかった。「NHKの純情きらり」は、ヒロインを逝かせてしまった。どちらが魅力的か?生き残っている方だろう。円さんの生、輝く。
2. Posted by 円 2006年09月30日 19:49
薔薇の花束様
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今でしたら、PTSDの手当もありますが、当時、焼死しなかっただけでも、有りがったかったです。
敗戦のあと、焼け跡に腸チウスが流行し、姉・D叔父が逝き、母も腸チウスで、ようやく一命を取り留めました。
私は、覚えている儘書くだけです。
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3. Posted by M 2006年10月02日 21:38
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Mです。
貴重な体験ですね。
語り継ぐ人たちが、だんだんいなくなります。私も、その一人ですが、語り継ぐことを使命と思っています。
折りに触れて、記事にしたいと思います。
心から応援しています。
4. Posted by 円 2006年10月03日 15:54
M 様
いつも励まして下さってありがとうございます。
3000人亡くなった大空襲でした。
ボケ無い内にと思い、書きながら、一人で涙しています。
5. Posted by リポーター 2006年10月06日 17:53
空襲経験を英語にして米国民へ
この思いでずーっといます。私も71歳。ボケる前に済ませたい。
私は当時利根川沿いの町に居住、艦載機の機銃射撃におびえる毎日でした。艦載機の急上昇、急降下、射撃音(ブーン、キューン、バリバリ)が終戦後数年耳についていました。
東京大空襲でもいい、横浜でもいい、実体験者の生感覚溢れるリポートを書き、英訳して、適当米国ブログに掲載したい。ついては一部を借用したい。空襲火災現場彷徨の経験はないので。
米国民は空爆が好き。その下でどんなに惨めな状況があるのか、文を通して知らせたい。好戦気分をすこしでも弱めたいので。
6. Posted by 円 2006年10月08日 12:20
リポーター 様
plogを読んでくださりありがとうございます。
結構な話ですが、リポーター 様
のplogを読んでから返事したく思います。
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1. Posted by 薔薇のとげ。 2006年09月24日 12:02
戦中を思い出すと辛いでしょうが、それを乗り越えて今がある、と考えれば 現在を
肯定して生きれないでしょうか?
ところで、棗の防空壕って、どのように造られていたか、お教え願います。
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2. Posted by 円 2006年09月24日 20:10
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イラクから帰還した兵士の自殺・心の病が問題になっています。戦いの残酷さ・無意味さを味わった為です。
沖縄戦を経験した人が、辛かったからこそ語り部となっています。
韓国の挺身隊の人たちは、辛かったからこそ、訴訟を起こしたいます。
二度と戦争を起こさないために、60歳・70歳になって、行動しています。戦争に正義はありません。
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私たちの年代の日本人は、戦争の体験を持っているからこそ、平和を、憲法第9条を大切に思っています。その願いと政治はどうして乖離するのでしょうか?
綿貫元衆議院議長は、一昨日のヤフーニュースで「今の日本は、安倍が戦争をすると言ったら、皆戦争をするだろう。そうならないために、来年の選挙で勝たねば」といっています。
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3. Posted by M 2006年09月27日 18:46
こんにちは
Mです。
3月10日の東京大空襲を思い出します。
業火の地獄のような炎の記憶は、一生消えません。
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2006年12月01日
母が、また、甦ってきた。(Na家で商売・T家の民主化?)
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よろしくお願いします。
「父逝き 姉逝きて 哀れなる 我が身を 救い給い おーお 神よ」
賛美歌でしょうか。母はいつも口すさむようになりました。
私も、自然に覚えて歌うと、悲しくなります。
母は、12月の小春日和のころ、母と焼け跡のT家にいきました。Mちゃん、寝込んでいるY叔母、S叔母、Se叔父そして祖父母が喜んでくれました。
YY叔母はI幼稚園に勤務中です。
私は、Mちゃんと遊びながら、近所の焼け跡の、防空壕の家々を再会に涙しながら回りました。
母はその間、大人同士の話をしていました。
母は、近所の内科医を連れてきて、Y叔母を看て貰いました。「喉頭結核」です。
時間の問題だそうです。Mちゃん どうなるの?
間もなく、Se叔父が、蜜柑を一箱運んできました。
Na家は商売用の玄関です。4枚のガラス戸を開け放すと6畳の土間そして8畳の畳の玄関の間です。
この玄関の間に母は2段の飾り棚を作って、蜜柑6個を入れた盛り篭を10ほど並べました。一山10円です。売れていくとまた、山。1〜2時間で売れます。
それから、天気の良い日は、蜜柑屋になり、母も次第に持ち前のエネルギーが戻ってきました。
1945年は、雪の多い年でした。朝起きると、珍しい木の雪除けで、私は、毎朝雪除けをしました。雪をただ、用水に捨てるだけなので、30分ほどで、10間余の家の前の始末が出来ます。
それから、お粥の朝ご飯です。この頃は、母が炊事をするので、私は、深い井戸の水をつるべで汲んで、お米を研いだり、お汁をしなくても良くなりました。
だから、雪除けは一日の唯一の運動でした。
ゴム靴がないので、藁で作った長靴を履いて、学校へ通います。オーバーがないので、YY叔母の女学校時代の半オーバーの直した物です。
4月から、T家に帰り、I国民学校に20分電車に乗って、YY叔母、Mちゃんと私の3人で通うことになりました。
O市の国民学校は、殆ど焼けました。O市の東方にある、大会社の各寮にO市の国民学校の殆どが集まりました。
でも、歩いて、40分以上かかります。それで、焼けていない・設備の良いI国民学校にいくことになりました。その話を聞いた近所のMRさんがYY叔母に頼んで、Tiちゃんとそのお兄ちゃんもI国民学校に行くことになりました。
雪が融け始めると、母の焼け跡に通う回数が多くなりました。
Sa橋を渡り、一つ目の角を東に回り、Yのおばちゃん家へ行きます。
Sa橋を渡り、二つ目の角を東に回ると、円の家です。どうして?
私は、Yのおばちゃん家の「ぼーや」と遊びます。彼は、一級下で、小児麻痺の足が不自由でした。口下手なので、孤独でした。
どうも、母は4月T家に帰りたく無くって、S町の土地を貰って、独立したいので、何回も、相談に来ていたのでした。
また、Se叔父の他にKatu叔父が、シベリアから帰ると、跡取りの争いが繰り返されるのに、母は耐えれないからです。
Na家は、母がS町の土地を貰って分家するのに反対でした。辛くてもそれに耐える方が、「将来、家もたずにならなくてもよい」からです。
この頃、借地、借家が多く、土地・宅地が自分の所有になっている家がすくなかったそうです。戦後、民主化の波に押されて、借地を買い取るようになったのは、それから10年ほど先でした。
散々迷った母は、春休みになると、T家に帰りました。
祖父は、喜んで、迎えてくれました。Yのお父さんから、母の苦しみを聞いていたからでしょう。
T家には、S叔母はいません。実家に帰ったそうです。
家の様子が、変わっていました。
YY叔母・Se叔父は「言論の自由」「男女平等」「親父は威張るな」といって、「改造」「△△公論」などの本をよんでいます。おばばはわけわからずにおじじを「じっこ、じじい」と調子に乗って馬鹿にします。
おじじは、いじめられても黙って、町内の仕事をして、五右衛門風呂をわかして、Yのお父さん一家を一番に呼びに行っています。
Mちゃんのお母さん・Y叔母は瀕死の重体です。母は重湯を作って、味噌汁をおくみして食べさせ、介抱しました。
医者もきてもらいましたが、3月末、「姉さんありがとう」と母に礼をいって逝きました。火葬場の風景だけ、心に残っています。Mちゃんを残して、逝くのはどんなに悲しかったか、
この頃、Mちゃんの車で、私の母とMちゃんの母のお墓参りをするとき、涙することです。
おじじは、変わらずに仕えてくれる母となついてくれる孫・円で、また、安心した日々を送れそうです。
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「父逝き 姉逝きて 哀れなる 我が身を 救い給い おーお 神よ」
賛美歌でしょうか。母はいつも口すさむようになりました。
私も、自然に覚えて歌うと、悲しくなります。
母は、12月の小春日和のころ、母と焼け跡のT家にいきました。Mちゃん、寝込んでいるY叔母、S叔母、Se叔父そして祖父母が喜んでくれました。
YY叔母はI幼稚園に勤務中です。
私は、Mちゃんと遊びながら、近所の焼け跡の、防空壕の家々を再会に涙しながら回りました。
母はその間、大人同士の話をしていました。
母は、近所の内科医を連れてきて、Y叔母を看て貰いました。「喉頭結核」です。
時間の問題だそうです。Mちゃん どうなるの?
間もなく、Se叔父が、蜜柑を一箱運んできました。
Na家は商売用の玄関です。4枚のガラス戸を開け放すと6畳の土間そして8畳の畳の玄関の間です。
この玄関の間に母は2段の飾り棚を作って、蜜柑6個を入れた盛り篭を10ほど並べました。一山10円です。売れていくとまた、山。1〜2時間で売れます。
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1945年は、雪の多い年でした。朝起きると、珍しい木の雪除けで、私は、毎朝雪除けをしました。雪をただ、用水に捨てるだけなので、30分ほどで、10間余の家の前の始末が出来ます。
それから、お粥の朝ご飯です。この頃は、母が炊事をするので、私は、深い井戸の水をつるべで汲んで、お米を研いだり、お汁をしなくても良くなりました。
だから、雪除けは一日の唯一の運動でした。
ゴム靴がないので、藁で作った長靴を履いて、学校へ通います。オーバーがないので、YY叔母の女学校時代の半オーバーの直した物です。
4月から、T家に帰り、I国民学校に20分電車に乗って、YY叔母、Mちゃんと私の3人で通うことになりました。
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どうも、母は4月T家に帰りたく無くって、S町の土地を貰って、独立したいので、何回も、相談に来ていたのでした。
また、Se叔父の他にKatu叔父が、シベリアから帰ると、跡取りの争いが繰り返されるのに、母は耐えれないからです。
Na家は、母がS町の土地を貰って分家するのに反対でした。辛くてもそれに耐える方が、「将来、家もたずにならなくてもよい」からです。
この頃、借地、借家が多く、土地・宅地が自分の所有になっている家がすくなかったそうです。戦後、民主化の波に押されて、借地を買い取るようになったのは、それから10年ほど先でした。
散々迷った母は、春休みになると、T家に帰りました。
祖父は、喜んで、迎えてくれました。Yのお父さんから、母の苦しみを聞いていたからでしょう。
T家には、S叔母はいません。実家に帰ったそうです。
家の様子が、変わっていました。
YY叔母・Se叔父は「言論の自由」「男女平等」「親父は威張るな」といって、「改造」「△△公論」などの本をよんでいます。おばばはわけわからずにおじじを「じっこ、じじい」と調子に乗って馬鹿にします。
おじじは、いじめられても黙って、町内の仕事をして、五右衛門風呂をわかして、Yのお父さん一家を一番に呼びに行っています。
Mちゃんのお母さん・Y叔母は瀕死の重体です。母は重湯を作って、味噌汁をおくみして食べさせ、介抱しました。
医者もきてもらいましたが、3月末、「姉さんありがとう」と母に礼をいって逝きました。火葬場の風景だけ、心に残っています。Mちゃんを残して、逝くのはどんなに悲しかったか、
この頃、Mちゃんの車で、私の母とMちゃんの母のお墓参りをするとき、涙することです。
おじじは、変わらずに仕えてくれる母となついてくれる孫・円で、また、安心した日々を送れそうです。
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