2017年08月29日
戦後の新民法下での私の模索(2)
戦後の新民法下での私の模索
◆ 民法が改正されても、母の苦しみは続きました。
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母の居場所(母の里帰り=3日間眠り続ける母
私の生まれた1935年以後、母は3つの不幸に見舞われました。
大事な身内を3人亡くしたのです。
母の夫(私の父)は、私が生まれて2ヶ月で、心臓麻痺を起こし逝きました。
母の父(私の祖父)も逝き、母の姉(私の叔母)が男子と女子の二人を残して逝きました。
母にとって姉の夫との再婚話がでました。母方の親戚は、みんな賛成しました。
しかし、私の父方の祖父は、私の亡父が長男であったことから、母の再婚に反対でした。
私の母は、一旦、『家』の『嫁』として、嫁いだ身です。
明治民法では、長男の父の子である姉妹が、『家を継ぐ』存在でした。
祖父は、『家』に残ることを、私の母に望みました。そして、母も同じ考えでした。
当時は、大家族であり、10人もの家族の、ある意味奴隷として、『家』に尽くしました。
尽くすのが当たり前で、感謝されることはほとんどありません。
お盆と旧正月には母のお里帰りしました。
6キロぐらい離れたところに母のお里があり、着いたとたんに安心して母は、3〜4日眠り続けます。
そして、半年の疲れが、その時だけ、やっと癒やされるのです。
そして、また『嫁ぎ先の家』に帰る日が来ると、母は泣きじゃくって嫌がります。
しかし、私の母にとっては、そこで生きるしかない居場所なのです。
社会を疑うことなく、また、死にものぐるいで、『家』に尽くすために、父方の『家』に帰ることを選ぶしかなかったのです。
家父長制のもとで『女』や『嫁』は苦しんできました。
私が生まれて2か月で父が亡くなり、私の母と私は、大家族の中の長男の嫁と跡取り娘として過ごしました。
「家族のために生きる」のが、当然であるかのように周りから同調圧力がかかりました。
私にはある原風景があります。 仕入れのため、夜遅く帰った母は、ガランとした8畳間に一人で座り、一人前の朱漆塗り高御膳で、夕飯を食べます。
大きな鉄鍋の底に、実のない汁が少ししか残っていませんでした。それを見て幼い私が、母の温もりに浸っています。それが、私の『嫁』の原風景です。女って惨めだと感じました。
母が苦しんだ「嫁」という生き方から脱却を模索する私
1945年8月1日の深夜、富山大空襲で全市内は焼け野原になって、地獄になりました。
その8月15日、戦争が終わって、疫病の腸チウスで姉・叔父・叔母が逝き、私は10歳で跡取りの一人娘になりました。
姉は、こんな言葉を遺した。
「おっかちゃん、私、13で死ぬ。おっかちゃんの先に死んで、おっかちゃんにご恩返しもできないで。おっかちゃん、苦労ばかりしてきて。かんにして(ごめんなさいの意)」。姉と母のすすり泣きが聞こえてきます。
私は、そっーと離れて、裏の畑の小川の水の流れを見ながら 泣きました。
この情景が、ライフ・ワーク「私の夫婦別姓」の遠因になってきます。
新しい憲法(1947年5月3日施行)ができ、新しい民法(1457年12月)もできたので、希望を持ちました。
女にも権利が与えられると思いました。でも、戦後のごたごたの中で戸籍制度は残り、夫婦は同姓を強制され、『家』制度は戦前と変わらず、多くの人の意識に残っていました。
高校の普通科にはいります。
幼い頃から、読書が大好きでした
弁護士になった中島通子さんと幼馴染みで、高校も同級生でした。
ひとりの人間として職業をもち自立していくことは、私にとっても、周りの女子高校生にとっても、当たり前の考えでした。
私が高校3年生の末、母親から「あなたには婿の許婚がいるから、卒業式が終わったら結婚しなさい」と言われました。
どうしても嫌で、3日間、炬燵(こたつ)に入ってサボタージュしました。
その時、私も母のように、家父長の犠牲者のように生きていくことになる。
時間を稼ぎたかった私は、「大学へ行きたい」と母に伝えました。周りは反対しました。
当時、女が大学へ行くことは珍しいことだったのです。でも母は、許可してくれました。
大学に行ったので、家父長制について調べました。
10歳の頃から、塚本家のただ一人の直系の私は、祖父から「あんま」(跡取り)と呼ばれ、『家』の重みを感じていました。
大学では、4年生で4人妹弟の長男と恋愛しましたが、結婚までの道程は遠かったです。
そして、結婚しても、自分の姓(なまえ)は変えないと決意していました。母が守った、母は、奴隷のように働いて、塚本姓を勝ち取った。私の姓がなくなったら、母が苦しがるんじゃないかって思いました。
私にとっての名前とは
名前は、生まれたときから自然に持っていて、自分のアイデンティティ、そのものだと感じていた
〜私の名前は、私の存在そのものです
名前は、生まれたときから自然に持っていて、自分のアイデンティティ、そのものだと感じていたので、夫婦同姓強制には、どうしても抵抗がありました。
50年間この思いがあったからこそ、子供が産まれる度に婚姻届とペーパー離婚を繰り返し、事実婚や通称使用などで自分の苗字を守るために自分なりに闘ってきました。
でも、3人目の子供が産まれたとき、当時勤めていた高校の校長が、結婚して同姓に成らなければ首になるとほのめかしたので、泣く泣く従いました。
でも、小島協子の戸籍姓は、高校教師と夫の家とその親戚しか使わない。
塚本協子の本名は、私の親戚・近所・同窓会などなどで使っています。
それからの私は、棄てさせられた姓(なまえ)を失ったショックで、夫の名前で呼ばれると背中が焙られるようにチクリチクリとするのです。
家父長制の残滓は、女を差別して当然の意識として、男尊女卑・妻ヘのDVも社会的に問題にされることもなかったのです。富山では、当時は『嫁いびり』は、何処にでもある光景でした。
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母の居場所(母の里帰り=3日間眠り続ける母
私の生まれた1935年以後、母は3つの不幸に見舞われました。
大事な身内を3人亡くしたのです。
母の夫(私の父)は、私が生まれて2ヶ月で、心臓麻痺を起こし逝きました。
母の父(私の祖父)も逝き、母の姉(私の叔母)が男子と女子の二人を残して逝きました。
母にとって姉の夫との再婚話がでました。母方の親戚は、みんな賛成しました。
しかし、私の父方の祖父は、私の亡父が長男であったことから、母の再婚に反対でした。
私の母は、一旦、『家』の『嫁』として、嫁いだ身です。
明治民法では、長男の父の子である姉妹が、『家を継ぐ』存在でした。
祖父は、『家』に残ることを、私の母に望みました。そして、母も同じ考えでした。
当時は、大家族であり、10人もの家族の、ある意味奴隷として、『家』に尽くしました。
尽くすのが当たり前で、感謝されることはほとんどありません。
お盆と旧正月には母のお里帰りしました。
6キロぐらい離れたところに母のお里があり、着いたとたんに安心して母は、3〜4日眠り続けます。
そして、半年の疲れが、その時だけ、やっと癒やされるのです。
そして、また『嫁ぎ先の家』に帰る日が来ると、母は泣きじゃくって嫌がります。
しかし、私の母にとっては、そこで生きるしかない居場所なのです。
社会を疑うことなく、また、死にものぐるいで、『家』に尽くすために、父方の『家』に帰ることを選ぶしかなかったのです。
家父長制のもとで『女』や『嫁』は苦しんできました。
私が生まれて2か月で父が亡くなり、私の母と私は、大家族の中の長男の嫁と跡取り娘として過ごしました。
「家族のために生きる」のが、当然であるかのように周りから同調圧力がかかりました。
私にはある原風景があります。 仕入れのため、夜遅く帰った母は、ガランとした8畳間に一人で座り、一人前の朱漆塗り高御膳で、夕飯を食べます。
大きな鉄鍋の底に、実のない汁が少ししか残っていませんでした。それを見て幼い私が、母の温もりに浸っています。それが、私の『嫁』の原風景です。女って惨めだと感じました。
母が苦しんだ「嫁」という生き方から脱却を模索する私
1945年8月1日の深夜、富山大空襲で全市内は焼け野原になって、地獄になりました。
その8月15日、戦争が終わって、疫病の腸チウスで姉・叔父・叔母が逝き、私は10歳で跡取りの一人娘になりました。
姉は、こんな言葉を遺した。
「おっかちゃん、私、13で死ぬ。おっかちゃんの先に死んで、おっかちゃんにご恩返しもできないで。おっかちゃん、苦労ばかりしてきて。かんにして(ごめんなさいの意)」。姉と母のすすり泣きが聞こえてきます。
私は、そっーと離れて、裏の畑の小川の水の流れを見ながら 泣きました。
この情景が、ライフ・ワーク「私の夫婦別姓」の遠因になってきます。
新しい憲法(1947年5月3日施行)ができ、新しい民法(1457年12月)もできたので、希望を持ちました。
女にも権利が与えられると思いました。でも、戦後のごたごたの中で戸籍制度は残り、夫婦は同姓を強制され、『家』制度は戦前と変わらず、多くの人の意識に残っていました。
高校の普通科にはいります。
幼い頃から、読書が大好きでした
弁護士になった中島通子さんと幼馴染みで、高校も同級生でした。
ひとりの人間として職業をもち自立していくことは、私にとっても、周りの女子高校生にとっても、当たり前の考えでした。
私が高校3年生の末、母親から「あなたには婿の許婚がいるから、卒業式が終わったら結婚しなさい」と言われました。
どうしても嫌で、3日間、炬燵(こたつ)に入ってサボタージュしました。
その時、私も母のように、家父長の犠牲者のように生きていくことになる。
時間を稼ぎたかった私は、「大学へ行きたい」と母に伝えました。周りは反対しました。
当時、女が大学へ行くことは珍しいことだったのです。でも母は、許可してくれました。
大学に行ったので、家父長制について調べました。
10歳の頃から、塚本家のただ一人の直系の私は、祖父から「あんま」(跡取り)と呼ばれ、『家』の重みを感じていました。
大学では、4年生で4人妹弟の長男と恋愛しましたが、結婚までの道程は遠かったです。
そして、結婚しても、自分の姓(なまえ)は変えないと決意していました。母が守った、母は、奴隷のように働いて、塚本姓を勝ち取った。私の姓がなくなったら、母が苦しがるんじゃないかって思いました。
私にとっての名前とは
名前は、生まれたときから自然に持っていて、自分のアイデンティティ、そのものだと感じていた
〜私の名前は、私の存在そのものです
名前は、生まれたときから自然に持っていて、自分のアイデンティティ、そのものだと感じていたので、夫婦同姓強制には、どうしても抵抗がありました。
50年間この思いがあったからこそ、子供が産まれる度に婚姻届とペーパー離婚を繰り返し、事実婚や通称使用などで自分の苗字を守るために自分なりに闘ってきました。
でも、3人目の子供が産まれたとき、当時勤めていた高校の校長が、結婚して同姓に成らなければ首になるとほのめかしたので、泣く泣く従いました。
でも、小島協子の戸籍姓は、高校教師と夫の家とその親戚しか使わない。
塚本協子の本名は、私の親戚・近所・同窓会などなどで使っています。
それからの私は、棄てさせられた姓(なまえ)を失ったショックで、夫の名前で呼ばれると背中が焙られるようにチクリチクリとするのです。
家父長制の残滓は、女を差別して当然の意識として、男尊女卑・妻ヘのDVも社会的に問題にされることもなかったのです。富山では、当時は『嫁いびり』は、何処にでもある光景でした。
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