小淵沢の冷蔵庫

はんでめためたごっちょでごいす! このブログは、IE(Internet Explorer)で閲覧しないことをお勧めします。 "Google Chrome" "Firefox"で最適化するよう編集しておりますので、 IEでは表示が乱れます。「小淵沢の冷蔵庫」というタイトルをクリックすると最新50件の日記が表示されます。              

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50年の歴史を持つ銀座、数寄屋橋交差点のソニービル。 来年の取り壊し、建て替えを前にとても魅力的なイベントが行われています。ソニー製品を時系列に並べているのです。 若者文化を牽引した雑誌などとともに。 僕は、この展示について書き始めるとたぶんとんでもなく長い文章になってしまう予感がします。思い入れのある製品がてんこ盛りだからです。ラジオ、カセットデッキ、オーディオ機器、MD、パソコン、携帯電話、テレビ、そして、ゲーム機を発売したころから僕はソニー製品と縁が無くなりました。 

ソニーのゲーム機、プレイステーションの心臓の設計思想を作ったのは僕の高校の同級生、友人です。

 このブログは自制して、すんなり終わります。ソニーの製品はすばらしい工業デザインと機能を持っていました。それは、その製品を買う事によって、すこしだけ、いままでと違った生活シーンを想像させるものでした。その訴求力というか、僕達を引きつけた「もの」がたくさん展示されています。ソニーはかつて、僕達にスタイルを提示していました。

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 公益財団法人鉄道弘済会義肢装具サポートセンターという名は多くの人にとってあまり耳にしない組織だと思います。僕も数年前までは知りませんでした。この組織で30年以上にわたり義肢の製作、開発を行ってきた臼井二美男(うすいふみお)さんの著書を読みました。
 義肢、義足の歴史はそうとう古いらしいのですが、この著書では詳しく触れられていません。ただ、近代の戦争などがその需要を大きくしたことは容易に想像できます。義肢製作を目的に創業した会社、他の製品製作から参入してきた会社、医療機関をルーツとするところ、人形製作から参入した会社もあるそうです。その中でも臼井さんが勤務する鉄道弘済会装具サポートセンターの起源は、すこし変わっています。鉄道弘済会は旧国鉄が、鉄道事故で負傷した人、またそのことによって収入を絶たれた遺族の働き口を提供する目的で作られた組織です。鉄道弘済会売店、今のキオスクはそのような目的で作られました。売店以外では、手足が不自由になった人々が義手、義足づくりをすることを仕事にする場所として設立された東京身体障害者福祉センターが弘済会によって作られました。それが臼井さんの職場のルーツです。

 「転んでも大丈夫」という本は、2016年8月に臼井さんが出した初めての本です。小学生高学年くらいの読者を想定してだと思いますが、漢字が少ない平易な文章です。漢字にはルビがふられています。
 いまでこそマスコミに登場することがある(ほんとうに時々)臼井さんですが、彼の仕事が知られるようになったのはごく最近だと思います。彼は、様々な顧客の要望に応えながら長い間「一般生活用の義足」を作ってきました。いまでも臼井さんの本業は生活用義肢づくりですが、欧米で使われだした「走れるスポーツ用義肢」の開発を日本で最初に手がけたのが臼井さんです。 スポーツ用の義肢開発と選手とのかかわりを中心に書かれたのがこの本ですが、臼井さんの本当の意図は明確です。 パラリンピックで活躍するような、一見華やかな義肢を装着したスポーツマンを通して、家に閉じこもりがちな多くの身体の不自由な人に希望を与え、外の世界との接点を多くもってほしい、ということ。 それはスポーツでなくとも、旅行でも、写真をとることでも、もちろんさまざまな仕事でも、そのことを後押しするきっかけになれば、と痛切に思う臼井さんの気持ちが伝わってきます。 臼井さんが小学校六年生の時のこと、彼が大好きだった担任の高橋浩子先生が、夏休みが終わってもなかなか学校に出てこなかったそうです。10月になって、やっと高橋先生が学校に来ましたが様子がすこし変でした。左足を引きずるようになっていました。高橋先生は明るい女性で「先生、こっちの足が義足になっちゃいました」と言って、ズボンの上から義足に触れさせてくれたそうです。骨肉腫によって大腿部から下を切断したのです。紆余曲折がありながらも、高橋先生との出会いがなければ、臼井さんは義肢づくりを職業に選んではいなかったろうと語っています。

 先日、ラジオ番組にゲスト出演した臼井さんの話をたまたま聞きました。おもしろかった。 生活用の義肢とスポーツ用の義肢、難しいのは圧倒的に生活用の義肢だと言うのです。「スポーツ用の義肢は目的が明確なので、その目的に向かって装着する人ともコミュニケーションが取りやすく、結果の満足を共有できる。しかし一般生活用の義肢は、使用する人の目的、満足が非常に微妙で繊細なので、よかれと思ったチューニングが不評だったり、些細な注文が限りなくでてくる傾向がある。それに寄り添って応えていくのが仕事であり、やりがい」
 さらに「こんな義足ができればいいな、という夢がありますか?」という質問に答えて、「神経ですね。神経。 指を動かそうと思うだけで動く義足、親指で踏ん張ってバランスをとろうとすると、そのように動く義足です」 僕は「やはり最先端の職人はすごいな」と思いました。それはもう攻殻機動隊に出てくる「義体化」ですから。
 ラジオではこんなやり取りもありました。「健常者に混じってもオリンピック代表になれるような記録を出すパラリンピック選手が出てきましたが、それに対し、カーボンファイバーの強い反発力をつかって健常者並の記録を出したり、将来、健常者の記録を破るようなことになるのはフェアーではないのではないか、という意見もあるようですが?」と投げかけられて、臼井さんは淡々と話していました。「健常者の記録を抜くということは無いと思います。また健常者の記録に迫るパラリンピアンが出てきたと言っても、世界中の障害を持った人達から、一人か二人がやっとその域まできたということでしかありません。僕はパラリンピックに出場するような選手を間近に見ています。トレイニングそのものの厳しさ、苛酷さ、練習環境を確保することの難しさ、資金の調達、どれもが並大抵のことではありません。転ぶことの危険性も健常者の比ではありません。」 臼井さんはそこまでしか言いませんでしたが、僕はもう少しで臼井さんは口から出かかったのではないかと思うのです。「義肢を利用し扱うことを、ドーピングみたいに言わないで欲しい」と。

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鎌倉には名刹が多くあります。こじんまりしたお寺が多いのが特徴です。雪が積もった昨日、雪の鎌倉というのも趣があろうと思い、東慶寺に立ち寄りました。東慶寺は長く「縁切り寺」として尼僧が住職を務めてきた歴史があるお寺です。明治以降は、男性住職となっています。比較的小さな敷地ですが雰囲気のあるお寺で、僕は好きです。 東慶寺の一番奥は急峻な崖のような地形となっており、それを背に小さな墓所があります。 どのような経緯、縁があってのことかはわかりませんが、日本近代の著名な人々のお墓ばかりなのです。夏でもひんやりするような苔むした墓所も僕は大好きです。
 お墓の中を歩いていて、いつも感慨深く思うのは、西田幾多郎、和辻哲郎、谷川徹三のお墓が近い場所にあることです。 西田幾多郎は京都学派と呼ばれる哲学の流れを作った人物ですが、同じく京都大学で学んだ和辻、谷川はその後輩にあたる哲学者です。 中学生の時、僕は背伸びをして父の本棚にあった西田幾多郎の著作「善の研究」を読みました。あまりのわからなさに頭が痛くなって爆発しました。 後年、ほんのすこし賢くなった僕は「善の研究」を読み返したのですが、やはり理解できたとは言えません。ただし、ものすごく面白かった。 そして「禅問答みたいだな」とも思いました。西田を慕った哲学者の多くが仏教に造詣が深いのもなんとなく納得できます。 和辻と谷川は、最後の場所を西田先生の近くにと考えたのも不思議ではありません。 ちなみに、谷川徹三は谷川俊太郎の父さんです。
 もう一つ、この墓所の中で立ち止まってしまう場所があります。至近距離に安宅弥吉(安宅産業創業者)と出光佐三(出光興産創業者)のお墓があるのです。安宅弥吉は、東慶寺を拠点とした仏教学者鈴木大拙の支援者だったそうですが、出光佐三との接点があったのかどうかはよくわかりません。名門総合商社 安宅産業は僕が大学生の頃、倒産しました。
 お墓の人物と東慶寺の「縁」、人物相関に関する講演会を東慶寺主催でやってくれないかなぁ。それほど有名人てんこ盛りの墓所です。

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「聖の青春」は、大崎善生氏のノンフィクション作品です。将棋雑誌の編集などを手がけた人で、少女漫画通。彼が間近に見た棋士、村山聖さんを描いた実話が映画化されました。羽海野チカさんのコミック「3月のライオン」の二階堂くんは、村山聖九段がモデルです。
 映画では松山ケンジさんが、役作りの為に激太りをして、迫真の演技。羽生善治役の東出昌大さんも最高でした。村山vs羽生の最後の対局、NHK杯は僕もテレビで見ていました。村山さん、究極のチョンボ(敗着)で優勝を逃した場面がリアル過ぎてドキドキしました。

https://www.youtube.com/watch?v=RKhXhv1bPsg&t=7s

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 JR北海道が「全路線の半分は維持できない」と発表した新聞記事を見て徒然に思うことを書いてみます。 

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 ヤクルトスワローズという球団名は、名前だけ見るとプロ野球球団の中で一番強そうではない気がします。なぜ、小さな渡り鳥が球団名になっているのか。その理由を若い方々はもう知らないかもしれません。JR、かつての国鉄の特急の名称、マークが「つばめ」であり、国鉄野球部が母体となってできた球団「国鉄スワローズ」が現スワローズの起源だからです。僕は特定のプロ野球チームのファンではありませんが、親しみ、思い入れがあるのはスワローズです。子供の頃、年始の挨拶などで、我が家を訪問してくれた電電北海道野球部の若松勉さんが、その後スワローズの選手となり、首位打者になる度に、記念ペナントや祝いの品を送ってくれたからです。

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 僕は、小学生の時、札幌から東京の蒲田へ転校してきました。僕は、国鉄の列車のことをどうしても「汽車」と呼んでしまい、よく笑われました。札幌駅のホームに入ってくる列車の半分くらいは、まだ蒸気機関車が引っ張っており、半分がディーゼルでした。 電車というのは札幌の路面電車を指す言葉であり、国鉄の線路を走っているのは僕にとって「汽車」でした。 Steam Locomotiveが客車や貨物列車を引っ張るのが僕の常識。「汽車」というと、みんなから笑われました。蒲田のホームに入ってくるのは明らかに電車だったからです。 その後、北海道だけが大幅に鉄道の電化が遅れた地域だと知りました。それともう一つ。どうしても「手袋を履く」と言ってしまうのもよくからかわれました。手袋は「はめる」のだそうです。 履くのは靴下と靴だけらしい。

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 横浜の実家を設計したのは僕の従兄です。当時、札幌で設計事務所を経営していました。彼の父(叔父)は北海道の国鉄マンで、かつて銭函の駅長でした。 幾春別が実家だった私の父は、岩見沢西高校から北海道大学へ進みましたが、炭鉱労務者だった祖父は早くに身体を壊し、とにかく貧乏でした。父は銭函の叔父を頼り、銭函から札幌へ通学していました。 僕が子供の頃、父から叔父の話を聴いたことがあります。 叔父が若き国鉄マンの頃、昭和新山が突然噴火、隆起しだしました。 北海道の若い国鉄マンが集められました。叔父もその一人でした。 新山の隆起、噴火に伴い線路の場所を何度も変えなくてはいけなかったので、線路の敷設、保線作業に追われたそうです。石炭輸送の主要路線だったからです。

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 今回の新聞記事。JR北海道はもう立ち行かない状態です。これは、JRの民営化、分割時点で誰もが予想していた事態です。国鉄が全国組織であった時期は全体の収益から、地方の保線費用などが配分されていたのだと思います。 北海道の人口は540万人。そのうち200万人が札幌に住んでいます。 広い大地にこの人口。さらに札幌集中ですから鉄道網を維持するコストはまかなえません。JR北海道は、相次ぐ車両のトラブル、線路の検査データの改ざんなどが明るみに出てニュースになりました。鉄道を維持できる人員もお金も「無い」というのが、実情なのでしょう。 自治体にもJRから路線を引き継ぐ余力はないでしょう。 低コストで運営できる公共交通、貨物輸送のアイディアはどこかにあると思います。知恵の出しどころですね。
 

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ジェーン・スーさんのエッセイを読みました。ほとんどが彼女のブログに掲載されたものだそうです。僕はラジオのパーソナリティーとして彼女を知りました。おもろいオバハンです。とにかく各章の表題で既に笑えます。

・貴様いつまで女子でいるつもりだ問題
・女子会には二種類あってだな
・ていねいな暮らしオブセッション
・私はオバさんになったが森高はどうだ
・三十路の心得十箇条
・エエ女発見や!
・カワイイはだれのもの?
・メガバイト正教徒とキロバイト異教徒の絵文字十年戦争
・隙がないこと岩の如し
・ファミレスと粉チーズと私
・ブスとババアの有用性
・ババアの前に、おばさんをハッキリさせようではないか。
・ピンクと和解せよ。
・三十代の自由と結婚
・食わず嫌いをやめる
・歯がために私は働く
・限界集落から始めよう
 etc

軽快で笑える表現なのですが、世の女性がかかえる問題との付き合い方がよくわかります。そしてそれはほぼ男性にもあてはまります。一気に読んでしまいました。

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「紅の豚」をテレビで見ていました。豚に変身してしまった飛行艇乗りポルコが主人公。 とにかく僕は乗り物の中で一番好きなのが飛行艇です。前回の観艦式では、同年4月に新明和のUS2が事故を起こし、原因調査中ということで不参加でした。 がっくり。
 それはさておき、ポルコが壊れた愛機をミラノのピッコロ社へ運び修理するシーン。男はみな出稼ぎで町を出ており、飛行艇を直すのはみんな女性。さらに、映画終盤の居酒屋でも、職がない男たちがポルコに向かって「あんたの腕ならまた軍隊で雇ってもらえるだろう。おれたちはアメリカにでも行くしか無いかなぁ」(うるおぼえですが)というシーンがあります。
 ハッとして、映画が終わるとすぐに神奈川大学の藤村先生が配ってくれた資料を引っ張り出しました。1908年から1924年の間、国籍別にアメリカへ移住した人の数、帰国した人の数の統計資料です。移住(移民)人数でダントツ一位がイタリアです。つづいてユダヤ、ポーランド、イギリス、ドイツ、スカンジナビア、アイルランド・・ とつづきます。 
 第一次世界大戦は1914年から1918年です。 紅の豚の設定は第一次世界大戦後のイタリア、アドリア海です。 イタリアは戦勝国ながら不景気のどん底、ムッソリーニが民衆の支持を集めだした時代です。 移民統計資料は、まさに「紅の豚」の時代とダブリます。 アメリカへの移民数ナンバー1のイタリアですが、その帰国率もダントツの55%。 他の国籍の人達、特にユダヤ人、ドイツ人、アイルランド人の帰国が少ないのに比べるとこれも際立っています。 つまり、イタリア人の多くは、母国へ仕送りをしながらアメリカで働き、そして帰国するというパターンが多かったということです。移民、移住ではなく長期出稼ぎ先としてアメリカを選んでいたことがよくわかります。 藤村先生の講義を聴く前までは、ポルコの活躍した時代の背景について、僕はあまり考えずにこのアニメを観ていました。

藤村先生が専門とする「移民論」は、まだ駆け出しの学問分野だそうです。移民を考察する場合の多面的な視点、同時に共通するメカニズム、ディアスポラとして定着する文化、コミュニティーとしての側面、などなど、たいへん勉強になりました。

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運慶の無着像は西行がモデルだと言われています。彫刻家、仏師としてこれほどのリアリティーを追求した人が運慶です。接ぎ木と呼ばれる技法で、中が空洞の木彫です。一木造り、円空仏などに代表される技法とはまったく異なる手法です。現代彫刻に用いる人は、吉田氏以外ほとんど居ません。彼の作品を横浜の岩崎博物館で見る機会がありました。岩崎とは、洋裁の専門学校として横浜に設立された岩崎学園が所有する洋館です。

運慶の技法を学んだ吉田氏の作品は、まさに運慶作品と言えるほどのリアリティーに満ちています。運慶は仏師だったのかと、たぶん吉田氏は疑ったのかもしれません。運慶の模刻、彫刻の修復を専門分野として学んだ彼の作品を見て、僕は彼を運慶直系の仏師だと確信しました。

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元来、詩や物語と音楽は分かちがたいものです。大昔の叙事詩に遡るまでもなく、もともと文字をもたないアイヌ、エスキモー、ネイティブアメリカンなどの口述によって伝承される物語など、あきらかに「節」や「抑揚」と一体となっていて、歌の原型、詩の本来の形を残しているように思います。そのようなことを踏まえると、ボブ・ディランがノーベル文学賞を受賞することは不思議ではないのですが、大きな違和感を僕は感じます。ノーベル賞の事務局は、彼と連絡が取れず、そのことを断念したと報道されています。もちろん本人のコメントも無し。さて、彼がとる対応について、3つの可能性があると思います。

 ー賞を辞退する。
◆ー賞式に出席してステージで歌う。
 授賞式には出ず、コメントもせず、賞金だけもらう。

,呂泙彩気い任靴腓Αサルトルみたいに屁理屈を言って受賞を辞退するなどというのはミュージシャンの取る態度ではありません。ましてやボブ・ディランには似合いません。
△浪椎柔はあると思います。やってほしいです。そして、ビートルズのイエローサブマリンをカバーして観客をしらけさせる。その時多くの人が、ノーベル文学賞というものに違和感を覚えるでしょう。これが、僕が一番望むシナリオです。
が最も可能性が高いと思います。時間を割いて授賞式に出る必要は無いし、大金をもらえるのなら、それはありがたくもらいましょう、というのが一番彼に似合ったやり方に思えるからです。

ボブ・ディランは、ミュージシャンです。歌詞を「読んで欲しい」などとは絶対思ってはいません。文学賞の意味など考えないし、興味も無いはずです。

川端康成の小説を読んで人生を考えたり、生き方に影響があった人など世界中に何人いるのでしょうか? タゴールの難解な詩を読んで元気になったり、勇気が出た人がどれだけ居るのでしょうか?

ボブ・ディランやビートルズの楽曲でちょっと救われたり、元気になった人は数知れません。ならば、なぜ今、彼に文学賞なのか。 ひねくれている僕は、政治的な意図を感じます。考えすぎでしょうか。

佐野元春が言うように、現代において最も影響力のある詩人はソングライターです。そんなことは誰もが知っていることなので、いまさら・・・  と思ってしまいます。

2011年初版の本「灘中 奇跡の国語教室」を読みました。著者の黒岩氏は2011年から神奈川県知事を務めています。県知事当選後、すぐに出版されたことになります。まあ、たまたまでしょうが。 僕は、2012年のちょうどいまごろ、秋らしい季節になってきた10月に、岩波文庫版「銀の匙」を初めて読んで、とても感動しました。明治から大正にかけて、小説家がまだ、口語での表現に四苦八苦しながら文章を紡ぎだしていた時代の小説です。 中勘助はこの小説で人気作家となりました。 とても美しい平易な日本語で、少年時代を回想するような私小説です。

そして、僕は黒岩氏のこの本を手に取るまで、「銀の匙」だけを国語のテキストとして授業を行ってきた橋本武という人物のことを知りませんでした。恩師である橋本先生のユニークな国語授業の内容が書かれているのが本書です。銀の匙は、授業のテキストですが、実際の使われ方は「物事を考えるきっかけ」として使用されていたことがよくわかります。 また、文章をとにかく「たくさん書くこと」「古典文学に親しむこと」なども橋本先生の授業の特徴だったようです。橋本先生は、2013年の9月に101歳で他界されましたが、その直前まで精力的に講義をされたり、執筆をされていたとのことです。

「遊ぶ」と「学ぶ」は同義である。「答えは後回し。疑問を持つことが第一歩」「すぐ役立つことは、すぐ役立たなくなる」 などなど、橋本武氏の言葉は身にしみます。 そしてなによりも「国語は生きるチカラそのものである」と。

余談になりますが、先日、宇宙物理学者の桜井邦朋氏とお話する機会があり、「ああ、やはりそんな風に考え、感じているのか」といたく共感した出来事があります。 桜井先生は、すこしひとりごとのようにぼそぼそと話していました。 「なぜ、人間だけが知性を持ち得たのか、もちろん他にも知性は存在するかもしれないけれど、まだ見つかってはいない。僕にも知性を持ち得た理由はわかりません。永遠にわからないかもしれない。 ただ、言葉がそれをもたらしたと僕は感じているんだ。」

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「人間原理」とは、科学者、特に物理学者が必ず通過する、もしくはハマる、もしくは無視して進む、などの態度を示す究極の思考の過程です。僕は今、桜井 邦朋さんの授業を毎週受けています。高エネルギー宇宙物理学の分野ではノーベル賞ものの業績を残しているおじいさんです。83歳とは思えないエネルギッシュな講義です。
 人間原理とは、知的な生命体が存在しなければ、「宇宙」という存在やそれを成り立たせる様々な物理現象、理論などが生まれなかったという事実をふまえて行う思考です。つまり人間が存在するから宇宙が認識できるという事実から、宇宙の発生、進化の過程は人間を含む知的生命体を生む、存在させる構造になっていた、という考え方です。 実は、僕は十代のころからそう思っていました。やっとその本質にせまる人の話を聞ける機会を得ました。

 アインシュタインをはじめとして、多くの理論物理学者が、「神」という言葉を使うことに躊躇しません。それは、「自分が認識できる、わかろうとしている事」と同じく、「そのような自分がどうして存在するのか」という問題に突き当たるからです。 理論物理学の最先端を走る人の言葉が宗教家とおなじになってしまう例を僕は何百と知っています。そのことを桜井さんに聞いてみたいと思います。

 このような機会を与えてくれた神奈川大学に感謝です。

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やっとわかりました。昨年の夏、僕は東京工業大学地球生命研究所に行きました。ある講演を聴くためです。その時、キャンパスを歩いている学生さん達やキャンパス内のカフェで談笑する人達を見て感じました。 普段生活している時には全く経験がない風景なのです。 頭、正確に言えば髪の毛を布で覆った彫りの深い容姿の女性がものすごく多いのです。 そのことについて僕はあまり深く考えませんでした。 イスラム圏には理工系の優秀な大学がないのかなぁ くらいに思い、思考停止。今思えば、イスラム圏にも高度な教育、研究を行っている大学はたくさんあります。それなのに、なぜ?

さきほど、桜井啓子(早稲田大学国際学術院教授)が書いた記事を読んで、やっとわかりました。その理由が。 女性の優秀な頭脳の行き場所が、イラン、(もしかしたらイスラム圏、これは僕の想像ですが)に無いのだそうです。 

※ http://www.yomiuri.co.jp/adv/wol/opinion/international_160829.html

僕は、小淵沢で生活している時、ほぼ100% 昼間点灯でクルマを運転しています。晴れていてもです。なぜかというと、ここの周辺はコーナーミラーで確認しながら曲がる交差点が非常に多いからです。僕はこのような場所がとても怖いです。従って少なくともこちらの存在を知らせる為に常時点灯します。また、歩道のない田舎道なので、コーナーに限らず歩行者に僕のクルマに早く気づいてもらうことも必要です。ところが、しょっちゅう対向車にパッシングライトをあびます。ヘッドライトが点いているぞ、と注意しているつもりのようです。 まったくその意味がわかりません。少なくとも横浜ではそのような経験をしたことはありません。 常時点灯をルールとしているタクシー会社、運送会社は多く、郵便局の配送車両も常時点灯です。 僕にパッシングする人は、それらのクルマにもいちいちヘッドライトが付いているぞと警告するのでしょうか? 僕はずいぶん以前から常時点灯を義務化すべきだと思っています。そのような国はたくさんあります。 ましてや、キセノンヘッドランプ、LEDヘッドランプが多くなっている現在、これらのランプ寿命は常時点灯してもクルマの寿命より長いのですから。

二輪車と鉄道は昔から常時点灯。四輪だけ例外というのはおかしいと僕は思っています。

尚、都会の運転者ほど常時点灯に違和感が無く、それ以外の地域の人に違和感があるのは。しょうがない気がします。 小淵沢では、真っ暗闇の道を照らす為にヘッドランプを点けるという感覚が当たり前です。 都会では、夜でも街灯、建物の明かり、看板の明かりなどで街は明るいままです。点灯せずとも運転はできます。 それでも点灯するのは自分の存在を周りのクルマや人に知らせないと危ないからです。 まったく意識が違うのです。 これはある程度理解できます。

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先日、ある女性から「一年間だけ違うところに住むとしたら、どこ?」と聞かれました。 ニューヨークと答えても、サンモリッツと答えても、ロンドンと答えてもよかったのですが、僕は自然に、なんとなく「小樽」と答えました。 その理由はあくまでも後付の感が否めませんが、僕にとって小樽は特別な場所だったとあらためて思います。

僕にはルーツと呼べるような場所はありません。金融機関で営業職だった父は、頻繁に転勤をしました。僕が生まれたのは東京都世田谷区。正確には渋谷の日赤の病院です。その後、平均して3年で引っ越しを繰り返しました。 父が横浜へ家を建て、その後子会社へ出向。やっと定住したという感じです。ところが、いまや横浜にも少ししか居らず、山梨県の小淵沢で多くの時間を過ごしています。

なぜ、「小樽」と答えたのでしょう。僕は小樽の高校へ入学する1週間前に下関から引っ越して来て、卒業と同時に札幌へ行きました。もっとも、大学入学が決まったので、札幌の自宅にはほとんどいませんでした。

たった3年間の小樽の生活でしたが、僕にとっては、たぶん今の生活や人格が出来た大きな3年間だったのだと思います。僕の暮らしていた小樽と今の小樽はずいぶんと違っていると思います。そんな違いや、違っていないところを僕は懐かしんで1年間だけ暮らすとしたら「小樽」と答えたのでしょう。

学校をさぼって、小樽築港の埠頭で寝転んでいたこともたくさんありました。 テニスばかりしていました。 当時と比べて僕が変わっているのは、怖くてうまく滑り降りることができなかった天狗山のスキー場を今は、たぶんそこそこのスピードで滑り降りる事ができることです。 同じ年齢、学年に北照高校スキー部 大高君がいました。 彼は今でもスキーの世界で生きています。 当時、僕は彼の滑りを見て「人間業ではない」と思いました。

僕の家は船見坂の一番上(当時)にありました。小樽の港を見下ろす場所で、イカ釣り船の明かりもよく見えました。今は、当時住んでいた場所よりも上に住宅地が広がっているそうです。三井不動産に就職した友人が、ずいぶん昔に教えてくれました。

高校の大先輩伊藤整の小説「青春」の序文を最後に


人の生涯のうち一番美しくあるべき青春の季節は、おのずから最も生きるに難かしい季節である。神があらゆる贈り物を一度に人に与えてみて、人を試み、それに圧し潰されぬものを捜そうとでもしているかのように、その季節は緑と花の洪水になって氾濫し、人を溺らせ道を埋めてしまう。生命を失うか、真実を失うかせずにそこを切り抜ける人間は少いであろう。
  
 人の青春が生に提出する問題は、生涯のどの時期のものよりも切迫しており、醜さと美しさが一枚の着物の裏表になっているような惑いにみちたものだ。モンテーニュが、人は年老いて怜悧に徳高くなるのではない、ただ情感の自然の衰えに従って自己を統御しやすくなるだけである、と言っているのは多分ある種の真実を含む言葉である。青春には負担が多すぎるのだ。しかもその統御しやすくなった老人の生き方を真似るようにとの言葉以外に、どのような教訓も青春は社会から与えられていない。それは療法の見つかるあてのない麻疹のようなもので、人みながとおらなければならぬ迷路と言ってもいいだろうか。
  
 もし青春の提出するさまざまな問題を、納得のゆくように解決しうる倫理が世にあったならば、人間のどのような問題もそれは、やすやすと解決しうるであろう。青春とは、とおりすぎれば済んでしまう麻疹ではない。心の美しく健全なひとほど、自己の青春の中に見出した問題から生涯のがれ得ないように思われる。真実な人間とは自己の青春を終えることの出来ない人間だと言ってもいいであろう。

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庵野秀明氏が、「シンゴジラ」という映画のセリフの詳細、演出にどのようにかかわったかはわかりませんが、過去の彼の仕事から想像すると、彼は深く関わっていたと感じます。この映画には名セリフがたくさん散りばめられています。

この映画はエポックメイキング、と言える傑作だと思います。その解釈は今後様々なメディアで語られることでしょう。東宝の特撮空想映画史上、シンゴジラ前 シンゴジラ後と語られる素材だと確信しました。 言葉のつらなり、早口 テロップ。バックグラウンドの効果音としての言葉。 映像やストーリー、言葉についても多くの人が語ってくれると思います。 僕はこの映画の「詩」のようなリズムが大好きです。
巨大不明生物災害対策本部(巨災対)のトップを任された若い政治家、内閣官房副長官・矢口蘭堂  が、同じく若くして与党の中枢にいる泉修一:政調副会長に、巨災対の人選を依頼するシーンが大好きです。

泉 : 首を斜めに振らない奴らだ。
矢口: 骨太を頼む。

首を斜めに振らない、という日本語はありません。 縦に振る(同意する、従う) 横にふる(拒否する、自信がない)。 斜めに振るというのは、曖昧にして責任を取らない態度の象徴です。泉は、そんな奴は人選しないと言っているのです。それに対し矢口は、さらに「骨太」 つまり、折れない人格を求めます。 チームとしてはこのような人選はとてもリスキーです。 でも理想でもあります。
僕はこのシーンが大好きです。

最後になりますが、なんといっても「ゴジラ」がかっこよくて「怖い」

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茅野市美術館は、茅野市の駅前開発で2006年に出来た茅野市民館の施設の一部です。JR駅とつながった市民会館施設など見たことがありませんし、さらにこれが素晴らしいデザインの施設なのです。その中にある小さな美術館へ僕は時々行きます。今回の展示はこの地域にルーツがある4名の作家の展示です。僕は4名とも、まったく知りませんでした。
下諏訪町出身の概念芸術家、松澤宥(1922-2006)
岡谷市出身の画家・版画家、辰野登恵子(1950-2014)
諏訪市出身の画家、宮坂了作(1950-)
岡谷市出身の画家、根岸芳郎(1951-)

辰野登恵子さんの作品にたいへん感動して、立ち尽くしました。 美しい構図のリトグラフやシルクスクリーン。 美しいだけではなく、一般的には、とかくのっぺりと平板な感じになるこれらの手法の作品が、彼女の手によって、奥行きや立体感を持つのです。素晴らしい作品群でした。写真は生前の彼女のアトリエです。

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北海高校 決勝進出。 まったく予想していなかった。 札幌のリトルリーグ出身者が主力のチーム。

北海高校 5期 野球部主将は藤野昇という一塁手でした。 甲子園ベスト8。 喜んでいると思います。 僕の母親の弟です。 早世でしたが、僕は彼の子供たちに今もお世話になっています。

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僕は最近良くわかりました。そして愕然としたことも確かです。 早い時期、つまり若い頃、具体的には20歳代までに「あっ、これが好きだ」と感じた時から何も好みが変わっていません。新たに好きな事、モノがあまり加わってはいないのです。 進歩していない。 何も変わっていないのです。

花はエゾムラサキ。小さいころ小川のほとりにたくさん咲いていました。
猫が近くに居れば幸せ。 生まれて15年間いっしょに育った猫が居たので。
ジャズはトリオ。ビル・エヴァンス。 今でも聴き続けています。
クラシックのピアニストは、サンソン・フランソワ。それと指揮者になる前のアシュケナージ。
交響曲はラフマニノフ。オーケストレーションの極致。
クルマはカルマンギア。憧れです。
ピストルは、モーゼルミリタリーモデル。
バーボンは、オールドグランダット。
遊びはスキー。
小説は村上龍。
随筆は須賀敦子と白洲正子。
マンガはピーナッツ。
全食、スクランブルエッグとチーズとアスパラでも大丈夫。
服はジャージ。高校から大学まで7年間、99%ジャージでした。
絵はモディリアーニとブラック。
練習したい楽器は、アコーディオン。
好きな歌。ボサノバの「おいしい水」

無限に書いてしまうので、そろそろ終了。そして、全て20歳代の好みのまま。

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起承転結、物語の筋などというものは、ありません。 結論も無く、救いも無く、絶望のようなもやもやした何かを感じながら、それでも生きる意思を疑うわけではありません。 詩でも小説でもなく、歌でもなく、

これは、不条理なラップだと思う。 社会の制度、枠組みには縛られながら、田舎医者は、しょうが無く、地域医療を担当して、そして自分の立ち位置を自覚しながら絶望する。

暗くはならない。まったくこれを読んで暗くはならない。 なぜなら、これこそがリアルな現実だからです。どこまでが虚偽で、だまされたのかさえ定かではなく、自分の立場は保持されている。むなしいのではなく、これが現実です。だれもが、 カフカが描く田舎医者の類型でしかないと、思うかもしれません。 絶望は常に横にあり、そして不条理に満ちた人生は続くという真実を目の前に見せるカフカの異常ともいえる筆致に声をなくします。

チェコ、ボヘミア王国の寒い冬に、馬車が走る。 そして、その馬さえも馬であるかどうかさえ定かではない。

オリンピックの事を少し考えなおしたのは、神奈川県スキー連盟の指導員研修会でのことでした。猪谷千春氏が講演をしてくれた時のことです。 彼の事は説明するまでもないと思います。 なぜ彼の講演で僕が考えなおした、大げさかもしれませんが猪谷さんの深い理解を知ったのかを説明することは、とても簡単です。 彼はオリンピックのことを終始、「オリンピック運動」と言い続けたのです。 これは一般的には違和感のある言葉です。 オリンピックのことをオリンピック運動などと言う人は居ません。 彼だけです。 それは、彼が長くIOC委員を努め、自らが国の枠を超えて、そして国の枠に厳しく縛られ、さらには、その国があるからこそスポーツを全うできた数少ない当事者だったからです。スキーは、個人スポーツの最たるものです。 自分の才覚、自分の環境、自分の社会的な位置によって成り立つのですが、彼がIOC委員として学んだのは、その歴史と矛盾だったと思います。 オリンピックは正々堂々とした個人スポーツの祭典ではないのです。 なぜオリンピック運動なのか、Olympic Movementなのか。 それは、国家の軋轢を超えて、という事に他なりません。それは国家という単位を前提とした、政治的な運動でもあるのです。政治的なという言葉が不適切ならば、言い換えましょう。 その国が個人を尊重してスポーツを正しく、普及、後押しすることが大前提のMovementなのです。 個人の世界選手権では無いということを、猪谷氏は深く理解しています。 

ロシアは、Olympic Movementの考え方のもとでは、排斥される条件を満たしていると思います。 日本のバスケットボールが、その組織運営のあり方を問題視され、オリンピックの出場権うんぬんという話題になったのも、その原点はオリンピックの成り立ち、オリンピック憲章の精神にあります。国家の代表であるかどうかという事がオリンピック出場者の大前提であり、そして、その国家がオリンピック憲章にふさわしいかという事。それが「オリンピック運動」という言葉の意味なのだと、僕は猪谷氏から学びました。良い悪い、ということではなく、それがオリンピックというものなのだと思います。

http://www.joc.or.jp/olympism/charter/pdf/olympiccharter2011.pdf

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マクラーレンとホンダが組んでF1に参戦するというニュースは、僕にかぎらず誰にとっても夢のある、そしてわくわくするニュースだったと思います。しかし、それは2015年のシーズン開始前には大きくしぼみました。僕もこの欄で2015シーズンを、既にホンダは捨てていると書きました。それは、一部の関係者からの情報もあり信憑性のあるものでした。それほどマクラーレン・ホンダのマシンはひどかったのです。とはいっても、とはいってもです。マクラーレン・ホンダです。多くの人は、期待して2016年シーズンを見守っていました。ところが、莫大な費用と人材を投入して「改善」のレベルにすぎないマシンにはがっかりさせられました。初年度はホンダエンジンのチョンボに近いトラブルつづきでしたが、今年はそれほどではなく、まあ、良くなったけどそこそこ壊れないというレベル。実はマクラーレンの車体も大したことないとわかってしまいました。 かつて、マクラーレン・ホンダが伝説を作った時は、レギュレーションの範囲、というか盲点をついて革新的な事をたくさんやってきました。そして、それを使いこなすパイロットが居ました。現在、このチームに居るパイロットは超一流。どのようなテクノロジー、新たな挑戦にも応えられる人材です。 ところが、マシンを作る人達がパイロットと同じレベルで戦えていないというのが現状だと思います。 マクラーレン・ホンダは2016年には表彰台を一度くらい狙えると僕はなんの根拠もなく期待していましたが、今は良くて5シーズンはかかるでしょう。さらには、勝てずにホンダは撤退するかもしれません。 ホンダは既にF1という舞台を楽しめるような企業ではなくなったのかもしれないと、最近は思います。 頑張ってほしいという思いの裏返しの皮肉な表現をお許し願いたいと思います。 

 本音では、このチームは解散すると感じています。

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 山下達郎氏のラジオ番組、サンデーソングブックは、もう四半世紀つづいている東京FMの長寿プログラムです。大滝詠一氏が亡くなったのは、2013年の年末でした。もうスキーシーズンに入っていました。大滝氏が亡くなって何週目かの放送で、山下氏が以下の発言をしました。 冷静な口調、いつもの物腰ながら、明らかに激昂していたと僕は思います。

「近いうちに大瀧詠一さん追悼の番組を企画する予定でありますが、大瀧さんが亡くなってから後ですね、番組宛に“早く追悼特集をやれ”とかですね、“大瀧さん追悼はあまり誰も知らないレアなアイテムをかけろ”、あるいは“最低でも半年は放送するべき”という意見のハガキが少なからず舞い込んでおります。またTwitterなどインターネット上でも私はそういうのは興味がありませんのでそれを見ないですがそういった発言があると聞きます。そうしたファンとかマニアとかおっしゃる人々のですね、ある意味でのそうした独善性というのものは大瀧さんが最も忌み嫌ったものでありました。親とか兄弟の関係を他人に説明できないように、僕と青山君、僕と大瀧さん、そうした個人的関係は第三者に説明できるものではないし、説明したいとも思いません。追悼番組の迅速性や密度とかは私は基より、全く関心はありません。そこのところ、あらかじめご了承頂きたいと思います」

※※ 発言にある「青山君」とは、大滝氏が亡くなる少し前に亡くなったドラマーの青山純氏のことです。山下氏が全幅の信頼を寄せていた名ドラマーでした。


 「一目置く」という言葉は、囲碁用語です。 囲碁では先手が有利。最初に一目置く、ということは相手の実力を認めて敬意を払うことを意味します。山下氏は大滝氏に対し、いつも一目置いていました。 その理由をすこしばかり納得できる謎の音源ばかりのアルバムをクルマの中で聞いています。


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 先日、青山のギャラリーで駒形克己さんの絵本、彼の娘さんがデザインしたTシャツなどを見てきました。鎌倉のメッゲンドルファー(仕掛け絵本専門店)に立ち寄ると、いつも手にとってしまう駒形さんの本。 色や陰影に特徴のあるステキなデザインの仕掛け絵本。買いそうになるのですが、値段を見て、なかなか購入できずにいます。

 青山のギャラリーにある小さな部屋の中で、WOWOWで放送された「手話絵本」制作のドキュメンタリーを見ました。駒形さんが、動物を表すフランスの手話を絵本として制作する話です。駒形さんの本のファンは世界中に居るらしく、フランス人からの依頼だったようです。 このドキュメンタリーは、エミー賞にノミネートされたそうです。なるほどたいそう面白い。 鮮やかな動物の絵、そして絵本のページには手話の手の形が隠されています。最初の形と最後の形。つまり二コマの手の絵。これだけなのですが、聴力の無い子どもたちは、絵を見ながら楽しそうにその動物の手話を繰り返します。笑いながら、その動物になったつもりで。 この絵本を作る過程、顛末を記録したのがこの番組です。 番組の内容そのものが素晴らしいのは言うまでもありませんが、僕は変なことに気付きました。
 " No wonder "

 僕は、才能もないのにテニスやスキーを長く続けています。他に、これほど長くやっていることは、呼吸と飲酒くらいです。 さすがにスポーツを長くやっていると、技術のことを考えてしまいます。考えるきっかけは必ず視覚からです。人のプレイ、技術解説書、専門誌、動画などを見て、なるほどなるほどと感心し、そして考えながら納得するものです。 そんな瞬間が来るきっかけは、写真やイラストである場合が多いのです。普通は、動いている様子を見るほうが「わかりやすい」と思うのですが、なぜか写真、分解写真、イラストに、はっとさせられる事がしばしば。 スポーツを通じて知り合った仲間にそのことを聞いたことがあります。 みんな、「そうそう、そうだよね」と言うのです。手話絵本は、たった二コマなのですが、子どもたちは楽しそうに活き活きとその動きを繰り返します。 手の動き、速さ、そしてそこにある時間や空間などは、子どもたちの頭の中で瞬時に組み立てられているのです。だから、人それぞれ必ずほんの少し違うモノが生まれていると思います。でもそれは「納得できた本当のこと」です。

 動画や、実際に動く様子は確かにインパクトがあり印象が強いものです。しかし、自分が動くことを頭の中で「想像」する余地を写真やイラストは与えてくれます。目に見える「絵」の前後の空間や時間を自分の想像で「埋める」のです。 だから、あっ なるほど そうか、 と納得するのだと僕は思います。


※ ただし、写真やイラストには落とし穴があります。写真やイラストを「自分の動き」として想像することは、そのスポーツについて、ある程度「訓練」を経た人にしかできません。 訓練不足の人は「フォームをマネする」ことに専念してしまって、きちんと動けない場合が多い、と感じます。

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 猪谷千春氏の著書は少なく、1994年初版の本著を僕は初めて読みました。 スキーのみならず、写真、著作でも才能を発揮した父親の六合雄(くにお)氏の本は名随筆として有名です。僕は中学生の時に東京都大田区の図書館で借りた「雪に生きる」を読みました。
 「わが人生のシュプール」の前半は、六合雄氏の著作にもある戦中、戦後にかけてのエピソードをなぞりながら、息子の立場で書いた内容。 あらためて、一般の人には想像できないような、雪を求めて移り住む生活に驚くばかりです。
 後半は千春氏を取り巻く恩人への感謝、ダートマス大学時代の青春、AIUでのビジネスマン生活、IOC委員(この本が出版された時、著者は現役IOC委員)時代の話などがつづきます。この本で初めて知る事も多く、興味深く読みました。
 「目標を持って、そしてやり抜く」と言ってしまえば、一言ですんでしまう事を、人生の終盤に自信を持って「自分はそれを、きちんとやりました」と言い切れる人は、本当に一握りの人だと思います。 両親や多くの恩人、友人に感謝を込めて、猪谷千春氏はこの著書で、それを語っています。うらやましい清々しさです。

六合雄氏の著書にある写真を一枚。 65年前のティーンエイジャーのツリーラン。 唖然!!
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 文藝春秋7月号に「オバマは広島で私を抱きしめた」という森重昭氏の手記が掲載されました。すばらしい手記だと思います。10ページ程度の短く、そして平易な言葉で綴られたこの手記は、内容が興味深いという事だけでは言い尽くせない「重さ」がありました。 森氏はオバマ大統領が広島へ訪問する前日にアメリカ大使館からの電話で、直接「明日の献花式へ出席していただきたい」と連絡があった事をこの手記に書いています。電話は彼の妻が受話器をとり、大使館からの依頼を聴き始めていました。近くに居た森氏には、その内容が聞こえました。 その瞬間 ”With pleasure!” と彼は叫んでしまったのです。
 恥ずかしながら、この手記を読むまで、森重昭氏の事を僕はまったく知りませんでした。テレビ中継された広島での献花式(僕はテレビで見ていました)の後、オバマ大統領が一人目の被爆者の方に近づき、握手をしながらやや長く話をしました。そして二人目の被爆者、メガネをかけた白髪のご老人とは極めて短い会話の後、大統領は彼を抱きしめました。 その人が森重昭氏です。 手記は、その瞬間に至るまでの彼の40年間の「想い」が重たく迫ってくる内容です。

 
 オバマ大統領の広島スピーチの冒頭部分をテレビで見ていた僕は、「これは、よく錬られた良いスピーチになるなぁ」と感じました。冒頭部分を引用します。

  ◆  ◆  ◆  ◆  ◆  ◆
 71年前の明るく晴れ渡った朝、空から死神が舞い降り、世界は一変しました。閃光と炎の壁がこの街を破壊し、人類が自らを破滅に導く手段を手にしたことがはっきりと示されたのです。
 なぜ私たちはここ、広島に来たのでしょうか?
 私たちは、それほど遠くないある過去に恐ろしい力が解き放たれたことに思いをはせるため、ここにやって来ました。
 私たちは、10万人を超える日本の男性、女性、そして子供、数多くの朝鮮の人々、12人のアメリカ人捕虜を含む死者を悼むため、ここにやって来ました。
 彼らの魂が、私たちに語りかけています。彼らは、自分たちが一体何者なのか、そして自分たちがどうなったのかを振り返るため、内省するようにに求めています。
  ◆  ◆  ◆  ◆  ◆  ◆

 この冒頭部分にある「12人のアメリカ人捕虜」とは、撃墜された米軍機に乗っていて日本軍の捕虜となり、広島へ移送された12人の米軍人のことです。戦後、彼らの情報はアメリカ国内でも明らかにされなかったと言われています。アメリカ軍は当時、その情報網を駆使して広島にはアメリカ人が居ない事を確認し、そして原爆を投下しました。 つまり「爆心地から400メートルも離れていない憲兵隊司令部で被爆して亡くなったアメリカ人のこと」など、アメリカでは掘り起こしてはいけない地雷のようなものだったかもしれません。
 その彼らに関する少ない情報をかき集め、パズルのようにつなぎ合わせ、さらには遺族との信頼関係をも築いていったのが、アマチュア歴史研究家、森重昭氏の40年間の業績です。12名が原爆死没者として登録されたのは、2009年のこと。森氏の尽力によるものでした。
 彼は献花式の末席から遠くオバマ大統領を見ながらスピーチを聴けるだけでもありがたいことだと思っていたそうです。しかし、当日、彼は広島市長よりも前の最前列に案内されました。そして、大統領は、スピーチの冒頭で彼の仕事の業績に言及しました。 

 是非多くの人に読んで欲しい手記です。

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 旧御射山社(もとみさやましゃ)は、霧ヶ峰、八島ヶ原湿原の南の端にあります。僕は諏訪大社の中でも下社春宮が大好きなのですが、その次に好きなのは大社の摂社(正しくはかつて摂社だった跡)旧御射山社です。梅雨入り後の昨日、三回目の訪問をしてきました。 ものすごく幸運なことに、小さな壱之御柱を立てている最中でした。小さいながら綺麗に皮を剥がし、きちんと冠落し(柱の先端を尖らせること)を施された柱を数人のオジサン達がワイワイガヤガヤ、和やかな雰囲気で立てていました。
 御射山社の歴史は古く、平安時代にまで遡るそうです。その名の通り山野の動物を生け贄とするための狩猟地、神事の場所だったのでしょう。 鹿やキジを奉納する神事は今でも諏訪大社で行われています。 鎌倉、室町時代を経て江戸時代まで、この山奥の窪地(湿地)で神事は行われ、全国から氏子、巫女、武士達が集まる一大イベントだったようです。この写真の場所の右側の丘は段々畑のような地形になっていて、以前から不思議に思っていたのですが、先ほどネットで調べて合点がいきました。なんとその段々畑は、全国から集まってきた神事参加者の宿泊施設跡なのです。びっくり。

 秋、ススキが霧の中に揺れる日に、また行ってみたいと思います。

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 僕は十年くらい前から小説、随筆、月刊雑誌のたぐいを、もっぱら図書館で借りるようになりました。横浜図書館の品揃えは素晴らしく、ネットで予約すれば近所の栄図書館へ配送してくれるからです。 買うと本の置き場所が無い、というのが一番の理由ですが。
 先日、長野県富士見町の本屋で、ひさしぶりに衝動買いをしました。

【花森安治のデザイン】
 花森安治。 言わずもがな、大橋鎮子氏とともに「暮らしの手帖」という雑誌を作った創業編集者ですが、僕にとっては一人のグラフィックデザイナーです。 この本には、彼が手がけた全ての表紙原画、写真、コラージュ、さらには挿絵、書籍装丁、手書き文字、線画などの膨大なグラフィックが掲載されています。 そして秀逸なコピーライティングも。
 もうずいぶん前になりますが、彼の表紙原画(たぶん全点)が世田谷美術館へ寄贈された際、同美術館で行われた企画展に行きました。内容としては、その企画展に匹敵する本です。 本を開くと、いきなり花森氏の写真です。 東麻布、暮しの手帖社スタジオの壁に、笑顔で手を組んで寄りかかっている花森安治さん。 長髪。白いカッターシャツから覗くスカーフ。 昭和27年にこんな41歳が存在していたこと自体が不思議です。 大橋鎮子氏もあとがきで触れていますが、彼は「暮らしと結びついた美しさが、ほんとうの美しさ」と常に考え、生活の中の実用品に美を見出してきました。時代は異なりますが、寸分違わず全く同じことを言っていたのが柳宗悦です。しかし、花森の「暮らしの手帖」と柳の「民芸運動」について、僕には重なる部分が見当たりません。 「民芸運動」がどちらかと言えば「日用品の美」だけを強調しがちだったのに対し、「暮らしの手帖」は、快適で、ちょっとすてきな生活の小道具として日用品を扱ったからだと思います。 この本には、花森氏の「ちょっとすてきな生活」が満載です。

【ENGINE 7月号】
 新潮社の月刊クルマ雑誌「ENGINE」。この雑誌は、ときどきおもしろい特集を組むのでよく立ち読みをしますが、買ったのは初めてです。7月号の特集は「写真とクルマ」です。クルマの雑誌というのは、そもそもカッコいいクルマの写真満載です。しかし、クルマを被写体として、または背景、風景、小道具として活用した「写真作品」を特集として編集するというのは、きわめて珍しい事だと思います。
 特集の最初、いきなり、ジャック・アンリ・ラルティーグです。さらに、アンリ・カルティエ・ブレッソン、木村伊兵衛、ロベール・ドアノー、石元康博、森山大道・・・・ 巨匠の作品がつづきます。もうびっくりです。
 特集中盤、クルマといっしょに被写体となっている人々の写真も興味深いものばかり、オードリー・ヘップバーン、ジェームス・ディーン、マリリン・モンロー、ブリジット・バルドー、プリンス、ボブ・ディラン・・・・
 最後の方には、興味深いレースシーン、コマーシャルフォトなど。
 永久保存版です。

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初夏から真夏にかけて、日本のような低い緯度の地域で、標高3,000メートルに満たない場所に雪渓が残っているということは、実は世界的に見れば極めて稀な事です。 ヨーロッパの国々から見れば、日本のある北緯36度付近の地域は「温暖な南の国」、のはずなのですが日本の大部分は豪雪地帯です。この稀な、ある意味奇跡的な地理、気候条件に恵まれて私たちはウィンタースポーツを楽しむ事ができます。
 僕は若い頃から、なんとなく雪渓でスキーをしてきました。 なんとなくです。 お気楽に登れる雪渓に、お気楽に入れる季節(5月以降)に限ります。 大雪山、立山などでも何度か滑った経験がありますが、なんといってもお気楽雪渓スキーと言えば乗鞍岳大雪渓の右に出るものはありません(日本語として誤った使用方法ご容赦)。 2002年以前は、乗鞍岳大雪渓直下まで、6月初旬からクルマで行けました。標高2600メートルの雪渓下に自家用車で横付けできるのですから、週末は大混雑でした。 2003年からは三本滝のゲートから先がマイカー規制となり、シャトルバスで雪渓に入るとこになりました。このことでスキーヤーが激減しました。 近年はテレマークスキーや、アルペンクライミングタイプのスキーがちょっとブームになってきたことから、クライミングスキンをソールに貼り付けて登る人が増えました。  っていうか、アルペン用のスキーブーツつぼ足でスラローム用の板を担ぎあげている人は、いまや僕だけになってしまいました。若い頃から何度となく訪れている乗鞍の雪渓。今年は、僕の乗鞍雪渓スキーの記憶の中で一番残雪が少なく、まだ5月だというのに頂上直下の稜線からバス停までギリギリ雪がつながっている状態でした。 
 
 僕はほとんど毎回一人で来ています。 スキー仲間と同行したのは、この30年以上の間、4回だけです。 悲しいことですが、2回めに同行した友人と4回目に同行した友人の内の一人が既にこの世に居ません。 彼らのことを少し思い出しながら、今年もゆっくり雪渓を登りました。 さて、僕はあと何回この雪渓を登ることができるだろう? と考える年齢になりました。

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何度読んでも、見ても、軽い戦慄を覚えます。 18歳の男子が大学ノートに丁寧に書いた詩の文字。
この数ページ後に、2年後出版される彼の処女詩集の題名となった詩があります。
「二十億光年の孤独」

この大学ノートの詩の多くが処女詩集へ掲載されました。
18歳のノートの中に、今を生きる「谷川俊太郎」が、まぎれもなく、そのまま居るという事実に僕はいつも軽い戦慄を覚えます。

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タフではないプロスポーツなどありませんが、テニスにおいては、やはりこの大会が最もタフネスを必要とする大会だと思います。 赤土のクレーコートでファイブセットマッチを7回勝たなければ優勝できないのです。 ちなみに僕は5セットマッチという試合を一度もやったことがありません。 かつてスリーセットマッチ日没延長試合というのはやりましたが。
 フェデラー欠場。 決勝までジョコビッチ、ナダルと当たらないドロー。 錦織にとっては確かにチャンスのあるフレンチオープン。 なんとかメジャー制覇を。

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松本市美術館に久しぶりに行きました。草間彌生さんの常設展示。80歳をゆうに超えてこの創作エネルギー。おそらく2002年に書かれた彼女の詩。僕は彼女の作品の本質はこの詩にあると思っています。


【落涙の居城に住みて】

やがて人の世の終末に巡り会う時がきたら
年を重ねた月日の果てに
死が静かに近寄って来る気配が、
それにおののいているとは私らしくないはずだったのに。
最愛の君の足音の影に悩みはまたしても夜半に訪れて
わが想いをあらたにす
君をこそ恋したいて「落涙の居城」の中に
籠っていた私は今こそ人生の冥界への道標の
指示すところへさまよい出てゆこうか
そして空が私を待ちかまえたくさんの白い雲をたずさえている。
いつも私を元気づけていた君のやさしさに打ちのめされて
心の底から私は「幸福への願望」を道ずれに
探し求めてきたのだった
それは「愛」という姿なのだ
あの空を飛び交う鳥たちに叫んでみよう、聞いてみよう
わたしのこの心をこそ今こそ伝えたい
私の久しい年月を芸術を武器にして
踏みしだいてきたのだったが
その「失望」と「虚しさ」をそして「孤独」の数々を胸に秘めて
生きながらえてきた日々は
人の世の花火が時として「華麗」に空に散りばめられていた
五色をもって夜空に舞っていく花火の粉末を全身に
散りばめている感動の瞬間を私は忘れない
今こそ最愛の君に捧ぐ
人生の終末の美しさとはすべて幻覚の幻だったのか
あなたに聞きたい
心のすべてを捧げて時を生き抜いてきた今
美しい終末の足跡を残したいと
祈っている今日の日々を
傷めないでそっと生きていたい私が
受け取ったあなたへの愛のことづけ

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この話題を書くのは2回目だと思います。
僕はラヂオが好きで、なんとなくパソコンやスマホでラヂオ番組を流している事が多いのですが、音楽番組と呼べるプログラムで、必ず聞く番組というのは、たった一つだけです。 TBSラヂオ、金曜夜24時〜25時に放送される「菊地成孔の粋な夜電波」です。 彼は優秀なジャズサックス奏者であり、さまざまなジャズミュージシャンとセッションしていますが、ジャズの枠を超えて彼との共演を望むミュージシャンがとても多いのです。 紋切り型の言い方をすれば「引き出しが多い」ということになるのですが、どうもそんな「言い方」はしっくりきません。 音楽に限ることではありませんが、あらゆる物事、特にアートの分野においては、まったくオリジナルなどというものはありえず、常に過去、現在のあらゆる物事に(ここでは音楽について言っていますが)影響を受けながら進化し、派生し、時には逆戻りし、停滞し、突然変異も正常進化も常に同時進行で起こっていきます。 菊地氏は、その大きな全体像をあるときは「天空の城ラピュタ」から俯瞰し、有るときは海に沈んだ蛸壺から見上げたりできるきわめて稀有の能力の持ち主だと感じます。 この一時間番組でかかる曲は、多くて5曲。3曲くらいのこともあります。 この番組で僕が聞いたことがある曲がかかる確率は5%くらいです。 ほぼ、知らない曲ばかりなのですが、かならず僕のなにかに「引っかかり」ます。

彼は、日本のミュージシャンの中で最も質の高い文章を大量に書く人でもあります。 その資質に関して言えば、最も音楽のことを書ける小説家、村上春樹氏と通ずるところがあるかもしれません。

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すこし前まで、僕は皆川明さんという人の名前も、ましてや彼の職業、作品すらまったく知りませんでした。 ある女性から、行きたいお店があると言われ、辻堂の「mina perhonen koti」というお店に行きました。美しいテキスタイルで作られた品々がある、素敵なお店。 床、壁、インテリアにもこだわりが感じられて心地のよい空間でした。 そこが皆川さんという人のお店だったのです。 僕はなるほど、皆川さんという人はなかなかセンスのよいセレクトショップを作る人なんだなぁ と思いました。

代官山の新店舗オープンを記念して、店舗の隣りにある蔦屋書店でトークショーがあるので、是非行きたい、とその女性が目を輝かせて言うので、行くことにしました。もちろん、僕は知らない人の話を聞くのが大好きです。

本当に行って良かった。まず、代官山のお店。 彼女はこのブランド「ミナ・ペルホネン」の夏物が欲しいらしく目を輝かせて服を見ていたのですが。僕はやっぱり、お店のデザインとテキスタイルそのものに興味を持ちました。 まあ、たしかに只者ではないと感じました。そして、なんとその時はじめて、彼が女性服のデザイナーであることを知りました。 夕方から始まったトークイベントは50名ほどしか入れないスペースで。彼女が2名分のチケットを確保してくれたのは、そうとう頑張ったのだと思います。男性は僕を含め4名か5名くらい。 そして、当日に皆川さんの職業を知ったのは、まちがいなく僕だけです。

生い立ち、ブランドの立ち上げ、お店づくり、人との出会い。1時間以上の話はとても興味深いものでした。 僕は女性の服などまったく興味はありませんが、彼のファンになりました。 彼は服飾デザイナーという職業で生計をたてていますが、僕が強く感じたのは、彼の本質は、アスリートであり、建築家だという事です。 そうとしか思えません。

後世に名を残すような建築家、作曲家、服飾デザイナーの多くはなぜか「男性」です。それは、男性が本能として「物語」を作ろうという資質が強いからだと思います。 一方、「女性」には、強く共感する能力や、無条件に愛情を注ぐチカラを感じます。世の中とは、たぶん、そうやって成り立っているのだと、かってに納得した一日でした。

写真は、彼女に「連れて行け!」と命令されている松本のお店です。

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大切なことを本当に気づくことが難しい。 それは本当に難しく、そして大切なことなのだと思う。僕にはできるのだろうか? 

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状態は、あまりよろしくないが、横浜の物置を整理していたらこんなものが。1972年作成の藤川清写真、亀倉雄策デザインの、B1版札幌オリンピック公式ポスター。モデルは鳥取の大山が生んだスキーヤー 大杖正彦さん。買った記憶がないので誰かにもらった物だと思います。 覚えていない。大切にせねば。

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なんとなく、読みたかった本。 やっと読めました。 これは小説ではありません。 詩ともいえません。もちろん、映像ではないのですが、脳の中にあるイメージを露出したような、不思議なものです。

僕は興味深く読みました。というか、辛かった。こういう感覚が僕にもあるからです。それは、僕の子供の頃の記憶に結びついているからかもしれません。

札幌の僕の親戚の隣に住んでいた純ちゃん。 小学生の時、よく遊びました。僕よりも2つくらい年上で、優しい男の子でした。 海水浴にもいっしょに行きました。 脳腫瘍レベル4との診断。 

診断から一月くらいで、亡くなりました。 十数年の短い命でした。

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驚きました。とにかく驚きました。富士ゼロックスがこれほど素晴らしい版画や写真のコレクションを持っているということを僕は全く知りませんでした。コレクションにある作家。アニ・アルバース、ジョセフ・アルバース、ジャン(ハンス)アルプ、ヨーゼフ・ボイス、アレクサンダー・コールダー、エドゥアルド・チリダ、ジャン・デュビュッフェ、ライオネル・ファイニンガー、サム・フランシス、ナウム・ガボ、ジャスパー・ジョーンズ、ドナルド・ジャッド、ヴァシリー・カンディンスキー、モシェ・クプファーマン、ジョン・マクラフリン、ラースロー・モホイ=ナジ、ルイーズ・ニーヴェルソン、ブリンキー・パレルモ、パブロ・ピカソ、ジャクソン・ポロック、ゲアハルト・リヒター、エドワード・ルーシャ、ヴォルス、一原有徳、井田照一、加納光於、駒井哲郎、草間彌生、中西夏之、野田哲也、斎藤義重、菅井汲、若林奮、マティス、ベンヤミン、レイ、デュシャン、ウォーホールもう書ききれません。これらのコレクションから500点ちかくを展示、一部が横浜美術館の所蔵品でした。

「アウラの衰退、芸術家たちの挑戦」という展覧会のキャッチ。複製技術による作品に焦点をあてたコレクション。 誰がどのように収集したのか極めて興味深く、最高の選択がなされていると感じました。 美術の教科書や美術史の本でしかみたことのなかった、マティス、デュシャン、カンディンスキーの作品もありました。 版画、写真に興味のある方には必見の展示です。

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さて、猫ブームだそうです。 はあーーっ って感じです。 僕なんか生まれた時から猫と一緒に育っていたので、生まれた時から猫ブームなんですけど。

横浜そごう美術館で猫の浮世絵の展示。 つまり、猫ブームというのはメディアの露出のことであって、江戸時代も猫ブームだったということらしいです。 写真、動画のネットへの投稿と出版によって商業的に猫が使われているのですが、別に猫と暮らす人が2倍になったわけではありません。 たぶん。

この展覧会。 僕がかつて読んだ遺伝子研究の本の内容を証明していました。 僕が子供の頃でさえ、明確なブチのミケとか、尻尾の短い猫が今よりものすごく多かったのを覚えています。今は、手足、しっぽの長いかっこいい猫がたくさん。そして美しいブチのミケがいません。 遺伝子を研究している人が、このことを1980年代には既に指摘していて、それを読んでいた僕は激しく納得しました。

東南アジアルーツのボブテイル(短いシッポ系)が日本の猫のルーツで、そのなかに三毛も多くいたのですが、他地域の猫のDNAの影響から急激にボブテイルと三毛が少数化しているとのこと。

江戸の浮世絵にはボブテイルと綺麗な三毛が描かれているのです。 

ジャパニーズボブテイル というのは、今や人気の「品種」だそうです。 アメリカ人が交配して商業化した結果です。

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野中真理子さんは、特に親しい友人というわけではありませんが、学生時代のサークルの仲間です。
もう10年以上前に彼女の作った映画の上映会に行きました。「トントンギコギコ図工の時間」という小学生の図工の時間を撮ったドキュメンタリー映画です。なにかの賞を受賞した時の記念上映だったと思います。すばらしい映画でした。その後、さらにトントンギコギコ以前に作られた「こどもの時間」にも感心して見入ってしまいました。一見、平凡な日常の生活の中で、彼女自身が突き動かされる「何か」を見出して切り取る、その集中力は才能としか言いようがありません。当時、僕はサラリーマン生活24年目にして退職を決断した時期だったので、なおさらその上映を良く覚えているのかもしれません。
その後、山梨県で友人が営んでいる農園でテレビ番組の撮影がありました。その時、製作会社のクルーとの会話中に野中さんの名前が出てきて驚いたのを覚えています。「野中真理子さんと仕事をしたことがある」と言われました。

さて、まだ見ていない映画の事を書くのもおかしな話ですが、先日友人から彼女の新作、「ダンスの時間」を見てきたとの知らせがありました。ダンサー村田香織さんを撮ったドキュメンタリー映画。とても素晴らしいと友人は言っていました。 トントンギコギコの野中が作ったのだから、そりゃあ良い映画に違いないと僕は思いました。 友人から「どこかで見た風景がでてきたぞ」とのコメント。それが上の写真です。 

村田さんが踊っているのは、八ヶ岳を望む「八ヶ岳あおぞら農園」という場所です。 びっくり! 一般の上映が始まるのは8月とのこと。

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僕のジャズ体験の最初は、キース・ジャレットでした。ピアノソロです。オスカー・ピーターソン、小曽根、秋吉敏子、渡辺貞夫、・・・・・ 次々と聞いていって、最近は上原ひろみ なのですが、ここに至って、おいちゃんの保守的な好みに愕然とします。 オーソドックスすぎるジャズファン。 きわめつけは、ビル・エヴァンス、スコット・ラファロ、ポール・モチアン のトリオ好き。

軽々とやっている感じのトリオのジャズが、綿密に計算されているのを知ったのは20年前。 ビルのオタクっぷりを自分で書いた文章があり、コピペしてブログに載せたら、世界中から大反響。 ビルの文章があまりにも評論家っぽい書きぶりで、自身が書いたと思えないものだったので、

ほんとうにごめんなさい。あれは僕の文章ではありません。 っていうか 英語で文章書けないし。

ビートルズのカヴァーで一番好きなのは、カーリー・サイモンのブラックバード。



Blackbird singing in the dead of night
Take these broken wings and learn to fly
All your life
You were only waiting for this moment to arise

Blackbird singing in the dead of night
Take these sunken eyes and learn to see
All your life
You were only waiting for this moment to be free

Blackbird fly, blackbird fly
Into the light of the dark black night

Blackbird fly, blackbird fly
Into the light of the dark black night

Blackbird singing in the dead of night
Take these broken wings and learn to fly
All your life
You were only waiting for this moment to arise
You were only waiting for this moment to arise
You were only waiting for this moment to arise

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東京グローブ座でのライブの行き帰り、新宿サンパークホテルの前を歩いて通りました。 住所は百人町。名前の由来を調べると伊賀組百人鉄砲隊という江戸の警備にあたる部隊の屋敷があったとあります。 ところで、今では日本最大のコリアンタウンとなっているこの地域にはちょっと違和感がある日本庭園と仰々しい門が、このサンパークホテルにあはります。石灯籠の巨大さも驚くほど。僕はこれ以上の灯篭を見たことがありません。
気になったので先ほどホテルの名前でググったところ、すぐに納得がいきました。 このホテルは「三平グループ」の一つだったのです。 三平グループは、新宿最大の地権者企業です。 大きな再開発、巨大施設の建設には必ず名前が出てきます。 三平グループの創業オーナーは、小林平三氏。上諏訪の古い宿場町、金沢宿出身。 新宿で飲食業を始めたのをきっかけに三平グループを大きくした伝説の新宿サクセスストーリーの人物です。 三平は、平三を逆にしたものです。

ちなみに、諏訪地方の人はこの人の名前をどこかで見たな、と感じる人が多いはずです。諏訪大社本宮大鳥居など諏訪大社にいろいろ寄贈していて、名前が刻まれているからです。

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キース・エマーソン氏が亡くなりました。 僕のヒーローの一人でした。
Emerson, Lake & Palmer,( ELP)は、1970年代の短い期間に輝かしい作品、ライブパフォーマンスを示したスーパーグループでした。キース・エマーソン(キーボード)、グレッグ・レイク(ベース)、カール・パーマー(ドラムス)の3名によるブリティッシュプログレッシブのロックグループは、ロックというセグメントにとどまらず、音楽史上に明記されるべき楽曲を残したと、僕は思っています。
ムソルグスキーの「展覧会の絵」をアレンジした同名アルバムに僕は衝撃を受けました。ハモンドオルガンとシンセサイザーを中心としたキーボードアレンジは秀逸です。レイクのベース、パーマーのドラムスも素晴らしい。 ライブのアンコールナンバーとして良く演奏されたチャイコフスキーの「くるみ割り人形」も大好きです。テクニックだけなら、今では高校生でも彼らを凌ぐ人達が居ます。 しかし、何にも似ていない何か、を作り出す事ができるのは、今でも選ばれた、限られた人達です。

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横須賀美術館と、神奈川県立近代美術館葉山をはしご。こういうのはとても良くないのですが、ついやってしまいました。 作品を見るには集中力が必要なので、安易にはしごなどすべきではありません。

ただ、僕はなんとなく残り時間が少ない感じがして、つい急いでしまいます。 嶋田しずさん、もう90歳を過ぎていながら、この明るいエネルギー。 磯見さんの暗い版画作品も、暗さだけではなく、生きる力がみなぎっていました。

フィンランドの人、ヘレンの絵を葉山で見ました。 女性の強さは、たぶん 母性。 そして、弱さも。 晩年、エル・グレコに傾倒した意味を、僕は少し涙ぐんで彼女の絵を見ていました。

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「人工知能は人間を超えるか」という松尾豊氏の著書はたいへん興味深いものです。松尾正剛氏の書評を引用します。これ以上、この著書の特徴を表現する能力が僕には無いからです。

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人間の知性や知能は、現実の対象の全貌を知ったうえでシンボルを理解しているのではない。いつのまにか「リンゴ」や「極楽」や「時間がたつ」というシンボル操作ができるようになっている。人間は心象の内部で対象を動かしているからだ。心的に想起されているからこそ、シンボルが動くのである。
 しかしコンピュータやゲームプログラミングやロボットでは、このシンボル操作がなかなかできない。そこで仮想空間をつくって、エージェントの内部にシンボルについての知識操作ができるようにする。それには地形であればナビゲーション・データを埋め込み、オブジェクトであればパラメータを添付したスマートオブジェクトをつくらなければならない。
 とはいえだからといって、コンピュータが実世界に接地できたわけではない。これをさらに有効にするにはどうすればいいのかというのが「シンボル・グラウンディング問題」なのである。スティーブン・ハルナットが提起した難問だった。


シンボルグラウンディング問題(松尾豊・講義資料より)
私たちは犬という言葉を知らない赤ちゃんの頃から犬のさまざまな特徴から「犬らしさ」(一般化された概念)を取り出している。その後「犬らしさ」に「犬」という言葉を対応させる。これが名づけ(ラベリング)。これにより犬という言葉を聞くだけで犬の特徴を脳内に作りだすことができるが、コンピュータはそうはいかない。
 シンボル・グラウンディングはエルンスト・カッシーラーやスザンヌ・ランガーの『シンボルの哲学』『シンボル形式の哲学』このかた、ぼくがずっと気にしてきた問題でもあった。シンボルは象徴や表象のことだけれど、たいへん人間くさい「思い浮かべ」なので、なかなか論理的な説明や数理的な落とし込みがやりにくいのだ。
 だいたいシンボルは夢の中にも出てくるし、想像の中にも頻繁に出入りする。古代中世の神話や説話や昔話は怪物やら不思議な光りものやら妖精やら、シンボルだらけである。「となりのトトロ」「バットマン」「モノリス」もみんなシンボルだ。
 そのためシンボルについては、エリアーデは神の発生にまで立ち戻らないとわからないものとして、カール・ユングは集合的無意識のようなものをともなうものとして、フロイトはコンプレッックスの中に畳み込まれたものとして、ホワイトヘッドは認識作用のプロセスまるごとの中に作用しているものとして、チャールズ・サンダース・パースは記号そのものの本質が受けもつものとして、それぞれ議論した。
 ジャック・ラカンの精神分析学のように、シンボルは「自己」の内部の鏡像過程に生じているとみなしている見方もある。
 こんなふうに、定義しようとしたり、どこかに位置付けしようとすればするほど、掴みどころがなくなってくるシンボルなのだが、ふだんのわれわれはシンボルにもアイコンにも、アレゴリーにもメタファーにもちっとも困らない。とくにアーティストたちは大胆自在にシンボルばかりをあらわしてきた。
 シンボルの正体はまだわかっていないのだ。こんなわけなので、そういうシンボルを意識的に扱うには、いったんシンボルが湧いてくるプロセスのことと、それが投影される場面とを分けて考えなければならないだろうと、ぼくはずっと思ってきた。
 そこで編集工学では、シンボルや象徴的な意味論を扱うにあたっては、それが発祥する分母像(地=グラウンド)とそこから派生する分子像(図=フィギュア)とを適宜入れ替えながら進む動的なプログラムをテストすることを推奨してきたのである。

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このシンボル・グラウンディングというのは、僕が以前から何度も書いている「抽象化」という人が持つ能力そのものです。抽象化とは「名付け」です。そしてその究極の形が数学的な表現です。数学的な表現は、実は何かに名前をつけて、共有できる「思い」を表現する方法です。ん と思う人が居るかもしれませんが、その本質において、数学と詩は「同じ土俵」にあると言えると僕は常に考えています。

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山屋と呼べる知人、友人が僕には3人居ます。 公開されたエベレスト、神々の山嶺(いただき)という映画を見て改めて思います。 この映画は夢枕獏の山岳小説を原作とし、傑作コミックともなっています。 本当の傑作山岳小説です。 カメラマン深町を除けば、全て実際のモデルとなる実在の人物が登場人物となっています。

山屋とは何か? 難しい定義ですが、山に登る事が自分が生まれた理由だと思っている特殊な人達です。

僕の友人には3人の山屋が居ます。二人はもうこの世に居ません。 一人は「落ちた」のですが、奇跡的に助かりました。 なぜ、そこまでするのか?  それは僕にはわかりませんが、彼らの生きる理由は否定できません。 それが 山屋という 超超超ばかばか人間だからです。

興味の有る方は是非この小説、コミックを読んでください。いつでも貸し出します。

遊ぶ子の群かけぬけてわれに来るこの偶然のやうな一人を抱けり


僕はこの一句が大好きです。川野里子さんの処女歌集「五月の王」に納められた歌です。おそらく彼女自身の子供を歌った若かりし頃の作品でしょう。 子供は、当然のように母親を見つけ、喜んでかけてきます。 しかし、そうした時間も永遠には続きません。 その子と居ることの偶然を思うとはかなくも感じます。 また、それは子供だけではなく、どのような人との出会いでも、偶然のように群れ駆け抜けて自分のもとに来てくれたのかもしれません。

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歴史に残る漫画家ではないと思うのですが、彼ほどオヤジの美少女趣味を体現している人は少ないと思います。 ポップな美少女を描かせたら世界一。 ところが、彼のマンガ作品はギャグマンガばかりで、それもけっこう中途半端。 おもしろいんだけど、完結しない。 あっ そうか。 今わかった。完成していない、完璧ではない、もしかするとどこかに居るかもしれない美少女なんだ。 江口寿史の描く女性は・・・

僕には喘息と加齢黄斑変性症という病があります。それぞれありがたいことに対応する技術があって、なんとか暮らしています。

目のヤマイのことについて、僕は過去、父の言葉を忘れる事ができません。 僕は父、母とも会話が少ない子供でした。 大人が嫌いだったのです。 それが、いまや58歳。

高校生の時、父とのたわいのない会話が忘れられません。 「盲目と、音が聞こえないという状態、どちらを選択するとしたら俺は盲目をとる。目が見えるだけなら、きっと人を疑う気がする。 声が聞こえるだけなら、その声で、その人を信用して生活できる。」

父は生真面目な人でした。声を信用するという父の言葉を僕は忘れません。

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チャールズ・モンロー・シュルツが亡くなって、もう15年以上が経ちます。彼が描き続けたピーナッツコミックは、アメリカという国家の「良い面」だけを抽出した名作です。実際にアメリカで生活をしたことがある僕の多くの友人は、アメリカという国のダークサイドもきちんと見ていて、けっして手離しのアメリカ好きという人はいません。僕のアメリカはピーナッツの中にだけあるので、僕は単純なアメリカ好きになってしまいました。 カリフォルニアのサンタローザという町は、白人の多い小さな都会。 大金持ちも居なければスラムも無い平和な町。 シュルツの描くアメリカは、この町なくしては語れないと感じます。 いつか行ってみたいと思います。シュルツの父親はドイツからの移民で床屋さん。 チャーリー・ブラウンの父親の職業が床屋であることを知っている人は意外と少ない。

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