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実は、日曜美術館の再放送を見る為に午前中の仕事を休ませていただきました。録画機能が無いもんで。 オディロン・ルドンというフランスの画家を武満徹が語った1980年の放送の再放送。これは見逃せません。 武満は、色彩の無い世界と華やかに着色された世界、音のない世界と騒音がこだまする世界を対立させて考えない不思議な能力の持ち主でした。ルドンという鬼才を武満に語らせるというNHKのプロデューサーの企画は秀逸でした。  彼は「西欧的、合理的」なものを否定はしなかったものの、 西欧的秩序を持たない異界へ足を踏み入れる事が出来た稀有の才能でした。

※かつて読んだ武満の著書「音、沈黙と測りあえるほどに」からの一節

 1948年のある日のこと、ぼくは混雑した地下鉄の狭い車内で、調律された楽音のなかにちょっとした騒音をもちこむことを思いつきました。それとともに、作曲するということはきっとぼくをとりまく世界を貫いている「音の河」にどんな意味を与えるかということだろうと確信できた。
 そのころ、しばらく前から音楽は孤立していました。人々は音楽を聴くことに苦しんでいた。いつからこんなことになったのだろうかと思いますが、それがわからない。とくに日本人としてそれがわかりにくくなっています。
 たしかに音楽は数理的な秩序のうえに成り立っているものでしょう。けれどもそれはヨーロッパの音楽ということであって、その規則とはべつにぼくは音のなかで生活し、太陽を見てくしゃみをし、地下鉄の振動をみんなとともに感じつつ、作曲の着想を得てきたのです。もともと音楽は持続であって、瞬間の提出です。ですから、便宜的な小節構造に縛られているのはあまりにむなしいのです。
 ぼくは地下鉄を降りて広場に出て、そこに犬の彫刻が置いてあったのを見て、どうして吠えない犬を置いているのだろうと思いました。これではその広場はいったい何をもたらしいのか、わからない。

 それから15年ほどたったころ、ぼくは北海道の原野を歩いていたのですが、自分が都会の舗道の敷石にとどまっていることをふいに知らされます。
 都会は末梢神経こそ肥大させたかもしれないのですが、四〇キロも見渡せる原野の知覚のようなものをもたらさない。このときぼくは、音は沈黙と測りあえるほどに深いものでなければならないと知ったのです。
 その数日後、ぼくは宮内庁で雅楽を聴くことになりました。驚きました。ふつう、音の振幅は横に流されやすいのですが、ここではそれが垂直に動いている。雅楽はいっさいの可測的な時間を阻み、定量的な試みのいっさいを拒んでいたのです。
 これは何だろうか、これが日本なのだろうかと思いましたが、問題はヨーロッパの音楽からすればそれが雑音であるということです。雑音でなければ異質な主張です。そうだとすると、ぼくという日本人がつくる音楽は、これを異質な雑音からちょっとだけ解き放って、もっと異様であるはずの今日の世界性のなかに、ちょっとした音の生け花のように組み上げられるかどうかということなのです。
 このとき、日本という文化があまり人称にこだわらないということがヒントになりました。そう、人称なんていらないのです。音が鳴るたびに「私は」「僕は」と言わないように音を並べたい。
 そうなのです、ぼくは発音する音楽をつくりたいのです。吃りだったからそんなことを言っていると思われるかもしれませんが、それもありますが、それよりも、どんな石にも樹にも、波にも草にも発音させたいのです。ぼくはそれを耳を澄まして聴きたいだけなのです。ぼくの音楽があるのではなく、音楽のようなぼくがそこにいれば、それでいいのです。
では‥‥、さようなら。

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武満徹は、世界的に認められた数少ない日本の作曲家です。 彼は音楽の専門教育を受けたことがありません。 商業的、コマーシャルな仕事も数多く、独特のオーケストレーションを見せる現代音楽は当初、理解されませんでした。 

1996年、かれの訃報は世界を駆け巡りました。 武満作品に出会うまでは現代(前衛)音楽などほとんど演奏しなかったウィーンフィルをはじめ、世界の名だたるオーケストラが武満作品の追悼演奏会を行いました。 このことは、実は日本ではあまり報道されませんでした。