第20章 国内と海外で 情報調査局(IRD)の活動(5)

 IRDは出版業界を通じて英国の世論に影響を及ぼそうとしていた。IRDの出版界への最初の進出のうちいくつかは内部の研究成果の出版だった。1950年に、ロバート・カルー・ハントの「共産主義の理論と実践」は出版のために不都合な点が削除され、最終的には多くのペンギン版を通じて出版された。この書物はカルー・ハントがフィルビーのSISのR5課のメンバーであったときに、共産主義を扱った内部のガイドとして執筆されたものだった。ロバート・コンクエストによるスターリンの恐怖政治それにソビエトの強制労働キャンプに関する非常に評判の高い著作がその後にすぐに続いた。がそれもIRDのファイルにかなりの部分を依存していた。しかし大部分のIRDの書籍は、IRDのレスリー・シェリダンによって設立されたアンパーサンド書房のようなフロント企業を通じて当初は出版されていた。アンパーサンドは30年間の間に20冊もの本を出版したが、本当に配給する力は欠けていた。その問題に対する回答は、主流の出版社と協力することであった。IRDは「バックグラウンド・ブックス・シリーズ」を通じて、出版社と協力したのだが、これは大成功だった。そして最終的にはボドリー・ヘッド社から刊行されるようになった。本のカバーは少し薄く、これらの本の多くが過去に情報機関に在籍した人間、たとえばロバート・ブルース・ロックハートやモンティ・ウッドハウスによって執筆された。当然の成り行きとしてボドリー・ヘッド社はより多くの情報部員の回想録や情報史の書籍を刊行することとなり、本業と副業の境は次第に曖昧なものになっていった。

 1940年代後半から1950年代にかけて、IRDはCIAと西側の労働組合関係者と協力してソビエトの息のかかった世界労働組合連合に対する別組織を立ち上げようとしていた。しかしながら、アメリカはその費用のかなりの部分を支払っていたにもかかわらず、アメリカが生み出した自由労働組合委員会は、ヨーロッパ運動と同様に、素直に言うことを聞くような組織とはならなかった。そして、スポンサーに一定の距離をとると言ってのけたのだった。米英の広報戦争士官がすぐに発見したのは、笛を吹いても、人は踊るわけではないと言うことだった。世界中の労働組織の独立心は、主要な労働関係の活動家が1930年以来反共産主義活動に従事しており、CIAやIRDのような組織は、まだまだ勉強の足りないレイトカマーであると考えていた事実に反映されていた。アメリカのジェイ・ラブストーンやアービング・ブラウンや英国のアーネスト・ベビンのような人物はその範疇にはいる。こうした労働関係者はもっと早くから活動を開始しており、しばしばアメリカ政府が望んでいたよりもより過激でより破壊的な活動をとることがあった。

 IRDもCIAも、利用可能な以上に金銭を要求し、そのくせ命令には従おうとはしない手に負えない現場の人間という困難に直面していた。プロの労働組合運動家であったジェイ・ラブストーンは、CIAをうんざりするほど官僚的で、想像力に欠け十分に革新的ではない高学歴を反映したスタッフで構成されている、と考えていた。ラブストーンは、アイビーリーグの出身者に「フィッツ・キッズ」「フィッツァーズ」、それにCIAに「フィッツランド」という渾名を付けた。彼はCIAの士官たちを軽蔑していた。彼らはいくつかの学位を持ってはいるが、彼らが影響を与えようとした社会的政治的生活といった分野での実際の経験にかけていたからである。自由労働組合委員会(Free Trade Union Committee: FTUC)は重要な組織だった。そしてその活動はCIAのヨーロッパ運動への支援と重なっていた。ここでラブストーンとブラウンにデビッド・ダビンスキーとジョージ・ミーニーといった人間が加わることになった。1949年初頭からCIAの財政援助は労働組織からの資金をはるかに上回っていた。自由労働組合委員会(FTUC)の主要な任務はイタリアやフランスといった国の反共労働組合や新聞に資金を供給することだった。こうした作戦は、フィンランドでも展開された。そしてドイツでは東ドイツで活動する東方局も関わっていた。インドやインドネシアに自由労働組合委員会(FTUC)のオフィスがあり、そこで現地の世界労働組合連合と戦う支援を提供していた。主要なオフィスは台湾のウィラード・エッターによって運営されていた。そこで彼らは、中国ほどで破壊活動を行うエージェントを訓練していた自由中国労働連盟(Free China Labor League)に資金を提供していた。中国での作戦は、洗練されたもので、1949年から52年に最盛期を迎え、99万4千1ドルの資金が支払われていた。

 しかし、ラブストーンやブラウン、それにダビンスキーは変わり者の協力者たちだった。ブラーデンの回想によれば、海外でのネットワークのために支払われていた「膨大な金額」にもかかわらず、「彼らから何らかの決算報告がなされない点が常に問題」になった。彼らはイタリアやフランスでストライキが勃発するかもしれないとほのめかした。しかしいかなる詳細もレシートもなかった。ラブストーンは自分のことを、純粋に行動の人間であり、彼の言によればCIA官僚の「現金出納帳の心理学、それにロンダーリングの方法」にかかずりあう暇がない人間である、と自らを描写している。政策に関する諍いもあった。イタリアでは、ECAやUSISを含む多くのアメリカの組織が、イタリアの非共産主義の労働組合にドル札攻勢をかけていた。自由労働組合委員会(FTUC)の幹部たちは、イタリア人に何かさせるためにはたっぷりとドルを供給しなければならないと考え、「我々のイタリア人の友人は餌をもらいすぎている」と不平を述べた。1950年代初頭にCIA長官のベデル・スミスとラブストーン、ブラウン、ソレニダビンスキーとの間に一触即発の会議がもたれた。ラブストーンらはCIAにもっと資金をよこし、労働問題は彼らに任せるように求めたのに対し、ベデル・スミスはその要求を却下し、会議は混乱の内に終了したのだった。

 資金はIRDそれに、ロンドンの英国の文化戦争の専門家であるCRDの現場の人間にとっても問題だった。激動を迎える国際組織の世界で、英国の秘密活動の産物の内で最も成功を収めたものの一つは世界青年会議(World Assembly of Youth: WAY)であった。この組織はソビエト版の青年組織であったWFDYと対抗するものだった。しかし1950年代初頭の資金不足から、ロンドンは苦渋の選択を迫られた。ロンドンにとっては意気喪失の出来事であったが、アメリカからのWAYへの資金援助が期待できたので、このお気に入りの作戦はワシントンとの活動に軸心を移動させることになったのだった。

 1950年11月からすでに問題は影を見せ始めていた。CRDの記録によれば、WAYの幹部はお金の問題に関して「厄介」であった。以前ロンドンは、「世界青年連合の国際本部と英国の全国委員会に相当の額の資金を提供」していた。IRDもCRDもこれが一時しのぎの資金であることを期待していた。なぜなら、当初の意向ではWAYは最終的には「自分の足で立つ」、すなわち、その構成団体からの自発的な寄付によって運営されることになっていた。同じく自分の足で立つことを期待されていたCIAによるワシントンの自由ヨーロッパ委員会と同様に、WAYは執拗に助成金に依存し続けた。しかし、アメリカのCIAとは異なり、財政が枯渇した英国の資金元は資金援助を続けていく経済的余裕がなかった。CRDが「現在の我々の財政上の苦境」と呼んでいた事態において、官僚たちは可能な補助金をNATOから捻出できないか検討し始めた。

 1951年11月26日、外務省広報部局を管轄していたジョン・ニコラウスは、青年運動における今後の英国の機密活動政策を検討する会議を命じた。この会議はCRD,IRD、それに情報政策部からの人材によって主導された。彼らの主要な目的の一つは、西ヨーロッパの若者全体に共産主義に対する解毒剤を提供することである、という点で彼らの意見は一致した。また彼らは、ドイツの青年、植民地の青年に「より一層の努力」を払うということを決意した。WAYはこうした英国の計画にとって決定的に重要な媒介手段であり続けた。しかし、希望されたWAYに対する連合国による追加的資金援助は微妙だった。なぜなら、大陸のヨーロッパ諸国もアメリカも熱心な連邦主義者だったからである。ロンドンは、楽観的なことに、WAYに対する連合国の資金を手に入れると同時に、ヨーロッパ内の青年組織を用いて連邦主義的傾向に水を差そうとしていたのである。

 1952年にロンドンは「欧州連邦プロパガンダに反対することを目的とした」ヨーロッパの青年活動に「英国が最大限に参加する」ことを強く求めた。ロンドンはまたフランスとアメリカがヨーロッパ運動が翌年に準備していた計画を支持しているという事実を憂慮していた。WAYはこの計画に関してヨーロッパ運動ならびに社会主義青年国際協会と共に活動していた。そしてその連合執行部会がブリュッセルに設立された。このブリュッセルの執行部へのWAY代表は、エリザベス・ウェルトンを含む昔からCRDによって資金援助された役者たちであった。彼らは、この委員会の最も「精力的な」メンバーの一人であるガスリー・モールと共に、以前からWAYの英国全国委員会の執行部を務めていた。しかしより広範な計画の連邦主義的色彩を考えるならば、彼らのブリュッセルでの仕事は、それを支援することだったのだろうか、報告することだったのだろうか、あるいはその土台を突き崩すことだったのだろうか?英国の官僚は当惑していた。そして「ヨーロッパ運動に対する英国政府の態度に関してより高度な指導」を求めねばならなかった。WAYは、ヨーロッパ運動それ自身を含むアメリカやフランスの組織に支援された連邦主義的傾向を常に弱めようと努力していた。1955年1月、外務省副大臣のホープ卿はヨーロッパ会議からの相談役を維持しているWAYの努力を、ヨーロッパ運動のヨーロッパ青年キャンペーンと直接に競合するものとして、支持していた。CRDはヨーロッパ青年キャンペーンの「連邦主義的傾向」に不平を述べていた。というのもヨーロッパ青年キャンペーンは「アメリカの資金によって維持され」「中央組織から資金を引き入れている人間によって運営されている」からであった。CRDは潤沢に資金を供給された組織の背後に誰がいるのか殆ど疑いを持っていなかった。

 CRDとIRDはWAYの被保護者のために大蔵省から十分な資金を手に入れることはできなかった。とはいえ相当の努力も払われていた。1954年1月に、外相のアンソニー・イーデンはこの計画を支援するために大蔵省からより多くの資金を出させようと「個人的に介入」した。彼のこの試みに植民地省、英連邦関係省が加わった。しかし、大蔵大臣のラブ・バトラーは、ごく僅かなものであったにもかかわらず、財政支援の継続を拒否した。1948年のロンドンにおけるWAYの設立設立以来、この国際機関は年間わずか700ポンドを受け取るだけで、WAYの活動の本当の原動力であった英国全国委員会は、年間2000ポンドを受け取っていた。そのほかにも国際会議への英国使節団を効果的に派遣するために臨時の補助がなされていた。60カ国からなる国際組織であるWAYにおける英国のリーダーシップは瞠目すべき成功であった。そしてそれは信じられないほど安価で実現されたのだった。ガスリー・モールは、CRDと深い関わりを持つWAYの国際議長を務めていたが、定期的にイーデンに接触してこの問題を熱心に訴えた。WAYの第2回総会は1954年9月にシンガポールで開催される計画になっていた。開催予定地は「外務省の支援によって選ばれた」、しかし英国の使節団を派遣するだけの資金がなかった。これは二重の意味で厄介な問題だった。というのも他の西ヨーロッパ諸国はWAYに「非常に気前よく」財政支援していたからである。

 1954年5月に、WAY英国支部長であったイアン・ページは、恐ろしい戦略を試みた。彼のスポンサーであるIRDやCRDには愛想を尽かしたので、彼らの共産主義の競合組織である英国青年会議で作られた文書を同封して、大蔵省に7000ポンドを直接要求する手紙を送った。実際、大蔵省は「大揺れに揺れた」。そして共産主義の競争者は「非常に恐ろしく見える」という結論を下さざるをえなかった。しかし7月には、ラブ・バトラーが資金提供を拒否し続けていた。フォード財団やカーネギー財団からのアメリカ側の資金は可能性にすぎなかった。しかし、これは植民地問題を懸念するホワイトホールの人間にとって悩みの種であった。というのも彼らは同様にヨーロッパ問題を懸念しており、アメリカをライバルと考えていたからである。植民地省大臣のオリバー・リッテルトンは1954年6月25日にイーデンに警告して「我々の誰もがこの国際機関を管理するという利害を(・・・)合衆国にゆだねたいとは思わないだろう」と述べた。

 1954年7月までに、CRDとガスリー・モールとの関係は決裂した。CRD/IRDからの資金が途絶えたために、カーネギー英連邦基金がスポンサーから降りてしまい、WAYには5万ポンドもの欠損が生じた。モールは「非常に機嫌が悪く」なり、ホワイトホールの「省庁間の争い」に関する文書を新聞に漏洩し始めた。最終的には、前後の見境のなくなったCRDとIRDは「シンガポール大会に英国の使節団を派遣するのに大蔵省の管轄下にない資金」に頼ることになった。実際には、このことが意味していたのは、2万ポンドをシンガポール政府とシェル石油会社の寄付金から都合するということだった。シンガポール政府は、WAYがなければ、その構成組織の三分の一がモスクワの息のかかったフロント組織WFDYに加わっていたという見積もりを提出していた。

 1954年の会議以降の長期的資金繰りの問題は残っていた。ガスリー・モールと彼のチームは、WAYの国際執行部を管理していたが、英国の秘密援助が続かないようであれば辞任すると脅した。イボン・カークパトリックは、「多国間の協力関係」を促進するための外務省の貧弱な予算の約3分の1を占める5千ポンドを1955年から1956年にかけて支出しようと提案した。これは主にそれ以前の借金の返済に充てられた。そしてWAYは英国の派遣団が1953年と1954年の会費を納入していない唯一の組織であることを指摘した。1955年2月に、大蔵省が軟化し、赤字分を負担したのだった。

 このことにもかかわらず、1950年代中頃までに、WAYへの支援はすでに、アジア財団(以前の自由アジア委員会)を含むCIAのフロント組織に移っていた。シンガポール青年会議が次回の1954年8月のWAY会議を主催する母胎として選ばれたとき、資金を提供したのは、主にロバート・シークスが支部代表を務める自由アジア委員会であった。実際、すでにWAYが到着する以前から、非政府反共産主義青年運動の多くを支援していたのはアメリカだった。その支援の中には、シンガポール青年会議の「ユース・ワールド」誌の中国語版の創刊も含まれていた。とりわけ東南アジアや中近東といった英国が支配的であった地域で、アメリカがフロント組織の活動を活発化させていることに、英国の閣僚と官僚は動揺していた。

 1955年にWAYの国際執行部は、アメリカに資金を供給される組織になり、様々な集団から補助金を受け取っていた。ガスリー・モールは、ニューヨークのイサカでの総会の際にフォード財団から7万ドルを獲得したとき、大きな変化が生じた、と説明している。このアメリカの資金供給組織は一貫して「WAYに大金を投資」しており、その中には1954年のシンガポール会議に11万4千ドルを拠出したことも含まれていた。アジア財団はアジア諸国からの使節団の旅行費用に5万ドルを拠出した。その派遣団は「現在の政治状況に照らして注意深く選ばれた」ものだった。ニューヨークの青年学生問題財団は、パリのWAY国際執行部に年間4万8千ドルを拠出していた。その中には雑誌「WAYフォーラム」の翻訳業務も含まれていた。IRD局長のジョン・レニーは、「資金を供与することなく(・・・)組織とその活動に効果的に影響を与えることはできない」と論じ、1955年にも資金を要求し続けた。しかし、逃れようもない真実は、英国がすでにレースで出遅れているということであった。

 労働運動のように、国際青年運動には自国においても同様の組織があった。そこで1950年代には徐々に英国の学生が徐々に監視されるようになった。大学職員は公安課やMI5と緊密な連絡を取り合い、経済連合のようなフリーランスの組織に、彼らが接触した学生集団の活動に関するレポートを提供した。彼らはアメリカ大使館にも同じ情報を提供した。それらは「ラジカル」であると考えられる学生にビザを拒否するのに必要な情報だった。その良い例がA・G・モークヒルであった。マレー政庁の元公務員でロンドン大学中国委員会の議長を務めていた。モークヒルはロンドンの中国人学生に対する共産主義の影響に目を光らせていた。というのも彼の委員会は中国人学生への奨学金を管理しており、上院議事堂の近くのゴードン・スクエアー16番地にある中国研究所内のイギリス・アイルランド中国学生中央連合と同じ建物に合ったからである。

 モークヒルはアメリカ人にこうした事柄に関しては「スコットランドヤードと密接に連絡を取り」続けていると語った。彼は当初彼の委員会をこの連合関係の他の場所に移すことを望んでいた。しかしスコットランドヤードの公安課の士官たちが彼に「様々な中国人学生と連合の活動を監視」しつづけるためにそこにとどまることを望んだのだった。彼は、自分が英国の「特殊機関の筋」と呼んでいた人間たちに、自分が不適切と考える学生を国外に強制退去させようとした。しかし、彼は自分たちには内務省に報告することしかできないと答えたのだった。様々な学生活動家を国外に追放しようとする試みは、「省庁間の委員会の霧の中に」消えてしまった。「これらの裏切り者を強制退去させる、もしくは、英国籍を剥奪する」という問題は「政治家が手を出したいと思わないダイナマイトなのだ」と、モークヒルは不満を述べた。しかし、彼がとりわけ「危険」と考えた場合には、彼は強く要請したのだった。しかし、「英国の『共産党シンパ(fellow-traveling)』大物大学教授」への最大の嫌悪感だけは、彼は消すことができなかった。なぜなら、こうした人物は、かれが「門の中の敵」と呼んでいたものなかでも「恐らく最悪の」実例だからだ、と彼は主張していたのだった。

第20章 国内と海外で 情報調査局(IRD)の活動(4)

 ブラーデンの宣伝戦の中で最大の要素は、MoMA国際巡回展覧会計画であった。この計画は、世界中で巡回展覧会が開催されることによって、抽象芸術、とりわけアメリカの抽象芸術を宣伝するものだった。ウイーンやプラハといった開催地の重要性という点でも、AUCE、マーシャル・プラン、それにCCFと重なるという意味でも、西ヨーロッパに重点がおかれていたということは、この計画が心理戦の点からすれば二重の特徴を持っていることを明らかにしていた。ある面ではこれは東側ブロックに圧力を加えることを意図した作戦だった。しかし、別の面では、アメリカのヨーロッパ同盟諸国に向けられた作戦でもあったのだ。西ヨーロッパ諸国にアメリカが文化砂漠ではないことを示すことは同様に重要なことだった。この計画の意図は、ヨーロッパの知識人にアメリカ人が感受性が強く、文化を身につけており、ソビエトのように道徳的に浅薄ではないということを説得することであった。この計画が開始されたのが、フランスにおいて、ローゼンバーグ裁判のような事件に対して反対の声が挙がり、反米感情が最盛期に達していた時期であったというのは、偶然の一致ではない。この時期は、マッカーシーがアメリカの対外イメージに大きなダメージを与えていた時期だった。ACUEと同様に、若者の心を掴みたいと国際組織課が執念を燃やしていたので、この機構によって資金援助を受けた最初の展覧会は、18歳から35歳までの画家に焦点を当てた「若き画家たち」であった。これは独立した作戦に見えた。なぜなら、CIAや他の秘密戦争プログラムを運用していた人間たちが同時に財団も運用していたからである。ブラーデンと彼の課は、米国の外交政策に対してすでに強力だった国家と企業との協調という次元を強化するために格闘していた。1954年に、この美術計画への資金拠出に手を貸していたネルソン・ロックフェラーは、アイゼンハワー政権での冷戦の作戦に関する特別アドバイザーの地位をC・D・ジャクソンから引き継いだ。その一方で、ドイツのアメリカ高等弁務官であったジョン・マックロイと彼の広報部主任のシェパード・ストーンは冷戦の最前線からフォード財団の支配人に苦もなく異動したのだった。

 IRDはアメリカの労働運動同様イギリスの労働運動にも関心を抱いていた。冷戦が勃発した1946年の頃からすでに、ハーバート・モリソンは英国労働党の党組織が反共産主義の決定的な配電盤である事を見いだしていた。労働党の国際部は、当時、デニス・ヒーリーの管轄下にあったが、匿名のIRD資料を手渡すのに理想的な相手であることが明らかになった。というのも、彼らは当時労働組合にまで旅行することが出来、他の中立的な労働組織とも接点をもつことが出来たからである。国際部を通じて配布されたIRDの資料の量は現在も把握されていない。これは一部には、IRDの資料が、IRDからのものであることが分からないように作成されており、曖昧なコードナンバーを別にすれば、出典が明らかではなかったからである。しかし、訓練を受けたものが見れば、IRDの資料はすぐに判別できた。そして自分が探しているものが何なのかを良く分かっているものにとっては、国際部の記録保管所は、注目すべき宝庫なのである。三分の一から半分もの資料がIRDとその姉妹機関によって作成されたものである。これらの記録保管所が重要であるのは、それらがIRDが国内の読者、すなわち英国の労働組合運動にむけた資料を補完しているからである。IRDは、外務省内の組織ではあったが、国内において共産主義に対抗する際の指導的役割を担っていたのだ。

 デニス・ヒーリーの国際課は、いわばIRDの最前線基地と化していた。アダム・ワトソンやレスリー・シェリダン大佐といったIRDの主要人物は、ヒーリーとファーストネームで呼び合う中で、ヒーリーに、彼のブリーフィングのために、内部のIRD資料を配送していた。1948年11月に、ワトソンはヒーリーに束になった最近のソフィアからの電報を送りつけた。それはゲオルギ・ペトコフに下された死刑判決も含むブルガリアの社会民主主義者の逮捕と処刑を扱ったものだった。ブルガリアの社会民主党は、英国労働党と強い結びつきを維持しており、「デイリー・ヘラルド」の大物が「役に立つ」と暗示されていた。IRDは、こうした労働組織が自前の資料を作成する際にも協力した。この中には、「共産主義に関して宣伝で用いられる言葉」に関するガイド、言葉を注意深く選択することによってソビエトを攻撃する指導書も含まれた。そのアドバイスによれば、「クレムリン」は大部分の人の心に体制の「残酷で遅れた圧政」という側面を想起させるのに最適な言葉であった。その一方で「スターリニズム」は知識人の読者には最適であった。強制労働は、ソビエトの攻撃に最も脆弱な論点として取り上げられた。そしてIRDは「ダッハウやベルセンと同じぐらいに有名になるまで」一、二の有名な収容所の名前を繰り返し使用することを推薦している。IRDとヒーリーの国際課にとって、しばしば英国労働党と姉妹関係を結んでいた非共産主義の社会主義政党に対する東側ブロックの公式の攻撃は、1949年の東部ブロックの共産主義者のパージに続いて生じたものだったが、プロパガンダの贈り物であった。1950年代に、IRDは、投獄されている著名な社会主義者の国別のリストを作成していた。ポーランドでは、ポーランド社会主義党の7名の指導者が、「英国の同僚と連絡を維持しており、西側の情報機関のスパイ活動を行っている」という名目で非難されていることが突き止められた。IRDは1949年からパージに関する資料を大量に労働党に流していたのだ。

 1950年代に英国労働党国際課は情報資料の出所を多様化させ始めた。「スターリンの奴隷キャンプ」に関する自由労働組合国際連合で手に入れた文書やニューヨークにあるヨーロッパ捕虜国家会議議長のヴィリス・メイセンズからの同様の文書も、国際課は配布していた。しかし、IRDの比重は高かった。そしてIRDは抑圧された国家という概念を発達させたのだった。1952年12月に、IRDは労働党に一連の資料を送付した。その中には、「ソビエトのジェノサイドの慣行」という40ページの文書のコピーも含まれていた。IRDは1930年代後期のバルト海諸国におけるNKVDの活動の物語を詳細に描き、ロシアの秘密警察の活動は国民を「非常に疎外し意気消沈させていた」ということを根拠に、バルト海諸国でのナチスとの協力関係が存在したことを立証した。IRDは、バルト海諸国の国民の、シベリアならびに「カザフスタンの荒れ地」の労働キャンプへの、1950年代まで続いた強制移住を詳述した。多くの者は「移住する前に射殺され」「非常に多くの者が牛の輸送車の中で死んだ。」こうした追放者に取って代わったのが、「ロシアの帝国主義者」のバルト海諸国への流入であった。IRDは住民全体とその文化が消滅してしまったことを詳しく描いている。そうした住民や文化は戦間期のソビエト百科辞典では多くの項目が記載されていたが、1950年までにはただ単に消え去ってしまうのである。

 IRDは特に東側の公安関係の亡命者をとりわけうまく利用した。その中でも花形であったのがポーランド公安警察(UB)のジョセフ・スゥイアルト大佐であった。彼は1953年12月に亡命した。スゥイアルトは東側における統治の不快な性質を宣伝するのに打って付けの情報源であり、東ヨーロッパの公安機構のもたらす苦しみに関する解説者を長期間にわたって務めた。彼は1950年代後期が絶頂期だった。なぜなら、スターリンの死によって、それ以前の恐怖の統治に関して責任があった多くの人間が書物の中で取り上げられなければならなかったからである。ポーランドで1955年に、ゴムルカが権力を再び握ると、世論によってポーランド公安警察(UB)のやりすぎに関して調査する特別委員会を設置せねばならなかった。この委員会の報告は1957年5月に出され、公安省に責任を持つ三名の高級官僚が党から追放された。IRDは、これは「古い政治局を粉飾」しようとする試みである、とおもしろおかしく指摘した。そして第10課の無口な主任調査官ジョセフ・ロザンスキーによってなされた恐ろしい出来事に焦点を当てたのだった。第10課はポーランド共産党の「統一と純粋性」を担当する部署だったのである。

 ジョセフ・スゥイアルトは、本人自身は魅力のない性格だったが、こうしたあらゆる身元不明の人物に関して経歴の詳細を述べることができた。ポーランドの公安主任は、MGBによってプラハやブダペストでの共産主義の見せしめ裁判、とりわけスランスキー裁判を研究するために派遣されたが、それはポーランドでも同様の裁判を準備するためであった。その結果、ゴムルカの逮捕と処刑につながったのである。IRDはジョセフ・ロザンスキーに対してとりわけ詳細な調査を行った。それはパレスチナやアラブ諸国でNKVDの士官として活動していた頃の記録までさかのぼるものだった。ポーランド公安警察の5名の要人が裁判にかけられ、ロザンスキーは懲役5年を言い渡され、彼自身の監獄に収監されたのだった。

 皮肉なことに、IRDは、労働党を東側のパージを宣伝する道具として利用する一方で、労働党が内部のパージを行う際にも手を貸していた。1940年代から1950年代にかけて、労働党全国執行委員会は、敵対的組織のリストに基づいて、一貫してメンバーの排除を行っていた。それらの組織は大部分が共産主義者かトロツキストだった。また党員が極左的色彩のある会議や祭典に出席することを禁止した。幾つかの事例においては、疑わしいと考えられていた地方の労働党の活動調査を行うために巡回審問すら用いた。これらの決定は、かなりの程度まで、IRDから労働党に渡された詳細な文書に基づくものだった。そのIRDも今度は逆にMI5、SIS、FBI、それに西側の友好的な公安機関から文書を受け取っていたのである。1953年に、労働党の国際小委員会は全国執行委員会に、共産主義者のフロント組織に関するレポートを提出した。このレポートはその指導的メンバーと彼らが東欧に旅行した日時、会合を開いた日時を特定していた。この調査の水準は国際小委員会の能力を超えたものだった。

 労働党は英国からモスクワのフロント組織の会議を閉め出すIRDの作戦にも協力した。労働党はすでに1947年初頭にプラハでWFDYによって開催される国際青年の祭典に出席することを禁じた。とはいえ、若い保守党党員は出席していたのだが。1951年のベルリン青年の祭典ならびに1952年の英国若者の祭典に出席することも労働党党員には禁じられた。英国で開催された同様の会議は、非公式な手段で妨害された。1950年には、アトリー内閣はシェフィールドで開催されることになっていた世界平和祭典の問題について議論した。それを禁止する代わりに、閣僚は「公安に不利益な」海外からの参加者を認めないという方針を採択したのだった。その中には、会議を運営している世界平和会議のメンバー全員が含まれていた!内閣は「会議を頓挫させるためのあらゆる可能な手段を執る」というベビンの勧告を支持した。1950年11月12日には、ドーバーに到着した65名の派遣団と支援スタッフの内40名が当局によって入国を拒否されたのである。IRDと労働党は、1960年代も同様の計画に関して密接に協力していた。

 IRDは、英国の新聞業界と接点をもつことによって、そしてBBCを通じて、資料を定期的に第1面で取り上げられる記事にすることによって、英国の寄り広い読者に関心を持たせていた。これは驚くほど成功した戦略で、しばしば50カ国もの国々において世界中で同時に発表されたのだった。IRDの新聞工作は実質的なもので、世界中のあらゆる国に達していた。1950年代までに、IRDは500名を超えるスタッフを擁しており、外務省でも最大の部局であった。おそらくこの努力はアメリカのラジオ-フランク・ワイズナーのいわゆる無敵のジュークボックス-よりも効果的だった。なぜなら、それは「灰色」だったからだ。聴衆は、明らかなラジオプロパガンダは拒否する傾向があった。それとは対照的にIRDの反ソビエト資料は世界中の新聞社にロンドンを経由して配信された。そして至るところでセンセーションを巻き起こした。しかしそれは十分に調査され、事実の点で正確で、無料であったために、ジャーナリストたちから非常に評価されていた。それが一旦公表されると、それは地方で発表された独立した物語のように見えるのだった。IRDは「カントリーデスク」から構成されており、小外務省の趣があった。主な違いはIRDの最大の「カントリーデスク」は「英国」だったのである。このことは、多くの左翼の国際組織は英国から活動の足を伸ばしているという事実を反映していた。このことが明らかにしていたもう一つの事実は、英国の世論がIRDの主要な標的であるということだった。

第20章 国内と海外で 情報調査局(IRD)の活動(3)

 文化的自由会議(Congress for Cultural Freedom: CCF)それ自体は、1950年から英国で積極的に活動していたが、ホワイトホールの承認をおそらく暗黙裏に受けていた。というのもその指導者はマルコム・マガーリッジであり、彼は彼が戦時中勤務していたSISとの関係を維持していたからである。英国は、文化的自由会議の国民委員会を擁した最初の国のひとつであった。この委員会は1951年にスティーブン・スペンダーによって設立された。この委員会が最終的には文化的自由英国協会(British Society for Cultural Freedom)へと発展する。知識人を含んだ組織には「お決まり」であった内部の反目の後に、その翌年にマガーリッジがこの組織の議長を務めるようになった。文化的自由会議(CCF)が、ロンドンでの活動をファイベルの提案による雑誌に集中させると決定したので、協会それ自体は、かげりを見せていた。インカウンターはスペンダーによる共同編集で、1953年10月に創刊された。これは非常に素晴らしい成功を収めた。政治評論と文化評論を結びつけ、英語圏の文化雑誌としての地位を確立したからである。大部分の解説者たちは、熱狂的に歓迎した。しかしごく少数の人間はその隠された意図を感じ取っていた。タイムズ・リテラリー・サプルメント(Times Literary Supplement)は、共産主義の悪への強迫観念がある種の「否定的なリベラリズム」につながることを正確に察知していた。その一方で、T・S・エリオットは、英国文化の装飾に隠されたアメリカのプロパガンダであると退けていた。皮肉なことに、何人かの英国人に親米反共のお墨付きをもらっていたにもかかわらず、スペンダーは、デニス・ヒーリーと同様に、合衆国に入国するビザを発給してもらうことは出来なかった。

 インカウンターは圧倒的な成功であったものの、文化的自由会議の英国支部は様々な困難に見舞われていた。英国の知識人は独立心が強く、癇に障る反共産主義の雰囲気を漂わせたものには何事に対しても抵抗する傾向があった。ヒュー・トレバー・ローパーとA・J・P・テイラーは1950年に文化的自由会議(CCF)のベルリンでの創立大会に出席した多くの英国知識人の内の二人であったが、かれらが騒動を引き起こしたのだった。アーサー・ケストラーのような主要な講演者を狂信的行為だといって、攻撃したのである。実際、文化的自由会議(CCF)が英国支部を立ち上げるきっかけになったのが、テイラーとトレバー・ローパーの否定的な反応だったのである。ジュリアン・アメリーとマルコム・マガーリッジがその指導者となり、すぐに幅広い指導者層がリクルートされた。その中にはマックス・ベロフ、リチャード・クロスマン、ビクター・ゴランスそれにマイケル・オークショットも含まれた。

 1952年の間にマガーリッジは文化的自由英国協会(BSCF)の議長の座を手に入れ、この組織も最も活動的な時期を迎えることとなった。その任務のひとつは、コミンフォルムの文化活動に関する情報を入手することであったが、それらはIRDのような組織が入手していた。文化的自由会議は、労働党の左派の声であった「ニュー・ステーツマン」と張り合っていた「ソーシャリスト・コメンタリー」の編集者のリタ・ヒンデンのような右派修正主義者を強く支持した。最も劇的な結びつきは、文化的自由会議(CCF)に資金援助を受けた「自由の未来」に関する国際会議であった。この会議は1955年にミラノで開催され、140カ国から代表が出席した。この会議には、ヒュー・ガイツケル、デニス・ヒーリー、それにロイ・ジェンキンスといった多くの労働党の国会議員が出席していた。それにもかかわらずCCFは英国の協力者たちに疑問を持った。彼らは身内で争っており、無能な冷戦の戦士であることが明らかになったからである。彼らは相当の妨害工作を見て見ぬふりをしこの会議も文化的自由もしくは反共産主義とほとんど関連のないものになってしまった。結局、文化的自由会議(CCF)は文化的自由英国協会(BSCF)の支援から手を引き、引き続き活動を維持するために、マガーリッジは戦時の勤務先であるSISに資金援助を求めねばならなかった。文化的自由英国協会(BSCF)のメンバーの何人かは、より社会主義的な左翼が加わるといけないという懸念からのみ参加を許されていた。協会の名誉会長であるバートランド・ラッセルは、その典型的な見本であった。彼の手のつけようのない反米主義には困惑していたものの、文化的自由会議(CCF)はそれにもかかわらず、競合する組織に対して、彼の名声や地位は関係ない、と本人に言わせたのだった。

英国における反米主義という特殊な問題は、1952年から1954年の「マッカーシーの時代」にはより深刻なものになった。1954年に、悪名高いオーウェン・ラティモア裁判の間、英国内務省、英国警察、それにロンドン米国大使館は、ラティモアの英国における出版物に関する情報をワシントンに提供したという理由で、新聞から攻撃された。同じ年に、バーミンガム大学で研究していたジョセフ・コート博士が、アメリカ政府からの共産党員ではないのかという質問に答えねばならないという理由から、研究の継続が認められなかった。多くの労働党の国会議員は、コートに政治亡命を許すように迫った。しかし、この要望は内務省大臣デビッド・マックスウェル・ファイフによって拒絶された。内閣では、彼は、コートに亡命を認めれば、合衆国が政治的な理由から虐待を行っているというのと同じであり、ワシントンに対して攻撃を仕掛けることになる、という議論を展開したのだった。

 反米主義は、1950年代初頭においては、英国の左翼の中で力を増しつつあった潮流であった。ナイ・ベバン(Nye Bevan)がその主導者で、彼は西側におけるアメリカのリーダーシップや、ヨーロッパ防衛共同体のようなアメリカのお気に入りの様々な計画に対して反論を唱えた。そのために反米主義はしばしば「ベバニズム」と称された。ローゼンバーグ夫妻の裁判とその処刑は、アメリカにおいて原子力に関してスパイを行った罪で有罪とされたのだが、メディアでは非常に大きく取り上げられることになった。現在ではベノナ資料からローゼンバーグ夫妻は有罪であることは明らかだが、1953年当時判決は根拠が薄弱であるように見えた。夫妻の子供が哀れな目撃者であったために、合衆国の国際的信任が被った打撃は膨大なものだった。英米の官僚は揃って、増大する反米主義の潮流に対して対策を講じることが必要だという結論を出した。1953年5月に、最近CIAから国務省に移っていたウォルター・ベデル・スミスは、アイゼンハワー大統領と、ヨーロッパ世論に関して議論した。ヨーロッパ中の米国大使が警告したのは、もしローゼンバーグ夫妻に死刑判決が下れば、米国に対する態度に「非常に有害な長期的影響」が及ぶであろうということだった。若くて不満たらたらのロイ・コーンを含むマッカーシーの二人のスタッフは、パリを訪れ、そこで彼が個人的にローゼンバーグ夫妻を起訴したと自慢したのだった。ローゼンバーグ夫妻が処刑されれば、彼らはヨーロッパの新聞が勝手に「マッカーシズム」と呼んでいたものの犠牲者であることになる。意見が揺れている人間にこのことを確信させるのに、これ以上に「計算されたものはなかった」、と外交官たちは結論づけた。しかし、アイゼンハワーは助命嘆願を拒絶し、事態は進展したのだった。

 1953年5月までに、「英国内でアメリカ政府によって維持されていたUSインフォメーションサービスから膨大な情報が流出」した。ロンドンで活動するスタッフ数は93名を数え、年間予算額も85万ドルであった。彼らの最も興味深い活動の内のひとつがラジオと映画の配給であった。USインフォメーションサービスによれば、この活動はBBCのラジオ番組「アンサーマン」を支援することから始まっていた。USISによれば、この番組には、「事前に準備された質問」を挿入することが出来た。しかしその効果に関しては明らかではなかった。英国と米国の広報士官はともに協力して、現在の英米問題に関する教育委員会を英語圏連合(English Speaking Union)の後援で創立した。委員会の議長は、フランシス・ウイリアムズで、彼はアトリーの新聞アドバイザーだった。そしてビック・フェザーやウィル・ローサーといった労働組合の人物を参加させることにとりわけ努力が払われた。「匿名のアメリカ人」によって膨大な金額が支払われていたので、時事問題部隊と呼ばれる常勤のスタッフからなる執行組織を立ち上げることが出来た。1954年までに、フォード財団からも資金援助がなされるようになっていた。時事問題部隊の初代隊長はレスリー・ホリス卿で、スタッフは外務省の広報課(それは、ほとんど確実にIRDであった)から支援を受けていた。ホリスはホリス委員会という戦後の欺瞞工作組織を1950年まで指揮監督していた。ホリスの時事問題部隊の二つの任務は特殊な英米間の「誤解」を解消し、「アメリカ人は荒っぽくて礼儀知らずでいつもチューインガムをかんでいる」という英国での一般的印象と戦うことであった。

 その一方で、英国官僚による国際組織、青年運動、それに文化の分野での初期の秘密の作業は、1950年代までにアメリカ人の手に引き渡されていた。これは主に財政事情によるものだった。ウイリアム・モンターギュ・ポーロック文化関係部のようなごく初期からの冷戦の戦士は、1944年から共産主義が世界の若者に与える影響に対抗する事が重要なことを認識していた。しかし、現在では、ソ連や米国が彼らの公然組織に支給できる資金・人員に比べれば、彼らの努力は些細なものに過ぎなかった。1954年までに、世界青年会議のような英国側の重要な計画は、ほぼアメリカ側に引き継がれていた。これは必ずしも英国官僚が自発的に決断した結果ではなかった。こうした公共の組織が自主性を備えており、運営に必要な資金を確保するのに、資金の受け入れ先を変えることを厭わなかったからである。

 アメリカは、この分野ではトップを独走していた。それはCIAのトム・ブラーデンのような実践家の純然たる聡明さゆえであった。ブラーデンは元OSS士官で、これまで見てきたように、統合ヨーロッパに関するアメリカ委員会(American Committee on United Europe: ACUE)の執行委員長であった。ACUEでの経験によって、彼は調整された国際的行動が必要であるということに気づいていた。彼がCIAに加わったとき、彼が見いだしたのは、それとは逆の状況だった。というのもあらゆる事が、国ごと、地域ごとの箱に収められ、国際運動の次元でCIAがソビエトと戦うことが困難になっていたからである。こうした経緯から、彼はCIAの国際組織課を設立した。1950年代に、国際組織課は驚くほどの成功を収め、学生問題や労働問題、それに文化といった多岐にわたる分野で国際運動を支配しようとするソビエト側の努力を挫くことが出来たのだった。最終的に、1960年代末には、こうした活動は暴露され初め、CIAに対する議会の調査という悲惨な季節をその後10年にわたって迎えることになる。おそらく、そうなるのは避けられなかった。というのも、ブラーデンは冷戦を遂行する上では非常に有能だったけれど、こうした公の分野で活動すれば、いずれは暴露されることは必然だったからである。

 秘密が確保されている間は、ブラーデンと国際組織課はいくつかの顕著な業績を上げていた。おそらく最も顕著であったのが、いわゆる「絵画戦争」におけるブラーデンの勝利であろう。彼は、主要な財団、銀行、裕福な個人を含む東海岸のエスタブリシュメントとのCIAが持つ卓越したコネを利用することが出来た。彼は抽象絵画を冷戦の武器にしたのである。CIAによって構築された現代美術連合の主要な要素が、現代美術館(Museum of Modern Art)それ自体であった。現代美術館はほとんどのニューヨーカーによって愛着を込めてMoMAと略称されていた。J・D・ロックフェラー夫人も含む裕福なパトロンによってMoMAが創設されたのは、1920年代のことで、館長はアルフレッド・H・バーであった。バーは、1943年に支配人を辞めてからも、ニューヨークのエスタブリシュメントに強い影響力を保っていたが、彼こそが最初に反共産主義の道具としての現代芸術の価値を公に主張した人物であった。1953年12月14日のニューヨークタイムズマガジンに掲載された彼の注目を集めた記事のなかで、「現代芸術家の非順応主義と自由の愛好は画一的な圧政の下では許容されず、現代芸術は独裁者のプロパガンダとしては役に立たない」ということが宣言されていた。こうした純粋な形態の個人主義と自己表現を独裁者たちがどれほど怖れているかということは、ヒトラーやスターリンの下で現代芸術家が処刑されたことによって示されている。このために、抽象芸術はあらゆるものの中でも最も危険なものであることが確認されたのだ。

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