第10章 原子力情報活動の失敗(3)

 追加の「特殊大気モニター飛行」をすぐに実施するということは、英空軍の通常任務の一つとなった。1951年10月に、英国の原子力エネルギー管理官となったフレディー・モーガンは、英空軍参謀長に昇進したスレッサーにお祝いを述べるために、「極めて価値のある」結果について手紙を書いた。なぜ急を要したかというと、アメリカには利用できない情報に関して「ある種のギャップを埋める」能力が英国にあるということを示す必要があったからであった。より多くの共同作戦を重ねることに価値があるということが強調できるという希望があった。しかし、スレッサーの喜びも長くは続かなかった。というのも、スレッサーはすぐにデイリー・エクスプレス紙上で極秘の飛行に関する「全詳細」が掲載されているのを目にしたからである。そして犯人を捜し出すための情報漏洩調査が開始された。しかし、地震探知というより一層極秘に行われていた英国の計画が表沙汰になることは無かった。33

 

 ソビエト連邦の原子力情報を収集するためのこれらの間接的な手段は、モスクワによる最初の核実験を事前に予知することには失敗した。最初から、情報収集のための間接的なアプローチには厳しい批判が向けられた。指導的な海軍化学情報活動の専門家であったチャールズ・ターニーは1947年に注目していたのは、英国が中央シベリアに潜入する困難にひるむあまり、科学会議で東側ブロックの核物理学者とおしゃべりをするといったような「半ばおおっぴらな方法」を試みていると言うことだった。彼によれば、これは目の前にある膨大な仕事を巧妙に回避するものだった。「長期的な問題は、(他の国とは比較にならないほど重要な)ロシアそれ自体への潜入を実施することだった。しかし、こうした潜入工作はいつになっても実施されなかった」のである。34 ソビエトの原爆実験直後に、ターニーは失望し、また自説の正しさが確かめられたと感じた。間接的な方法は「大きな逸脱」であると、彼は嘆いた。「ヨーロッパを飛び回っている物理学の教授達からよりも適切な場所にいるメッセンジャーもしくは労働者からもっと上質な情報を手に入れるべきだったのだ」。教訓は明らかだった。英国はもっと秘密活動に取り組む必要がある。今や「あらゆる機会を用いて、当局にロシアに対する積極的な情報活動を実施するように要求することは決定的に重要である。(・・・)こうした活動が実現できるかどうかは、MI6の問題だ」。35

 

 ソビエト原爆開発に対するエージェントを用いた工作をさらにSISが受け持つというのは、実現不可能であった。最初のソビエトの核実験に至るまでの過程で、原子力情報活動は拡大していたものの、進展はしていなかった。エリック・ウェルシュが1949年初頭に心臓発作で倒れ、エドワード7世記念軍病院に長期入院することになったという事実によっても、事態は改善しなかった。その後彼は幾たびも心臓発作に悩まされ、1954年11月には逝去する。36 1952年6月に、すでに病気で大変弱っていたウェルシュは、未だに原子力情報部の部長を務めており、英国のこの分野における実績を再検討した。実績は「失望するほどひどい」ものだった。彼が報告する情報を手に入れたときはいつでも、その情報は常に「ロシアの業績の事後報告」という性質を持っていたと彼は告白した。さらに付け加えて次のように述べた。公平に見て、遠隔地でソビエトの核実験に関して英国が確保した情報を手に入れると言うことは「驚くほどの偉業」である。英国は1949年8月の最初の核実験、1951年9月の2回目の核実験、それに同年同月の数週間後の三回目の核実験を探知していた。

 ウェルシュは原子力情報活動の失敗をはっきりと認識していた。彼の見解では、情報活動の役割は、過去の出来事の痕跡を追跡することではなく、予測を提供することであった。原子力情報活動の分野では、参謀本部に将来のソビエト側の意図と能力に関する警告を提供できねばならなかった。彼は次のように渋々認めている。「我々は原子力エネルギー情報活動の分野でほとんど成果をあげることができなかった。長距離検知技術は歴史を提供したのであってニュースを提供したのではない。JICが求めていたもの、それにJICが要望していたものは、明日の敵の意図がどのようなものになるのかに関する事前の知識だったのだ」。言い換えれば、彼らが答えることができなかった質問こそが、決定的な質問だったのである。いつソビエトは、彼らの目から見て公然と戦争を仕掛ける危険を正当化できる原爆を備蓄するのか?彼らはどのような種類の核分裂物質を作成しているのか、そして現在の所の原爆の備蓄状況はどうなのか?現在の生産効率はどの程度か?これらの質問の答えこそ、ホワイトホールやワシントンの政策立案者や軍事計画立案者が本当に知りたかったことなのであった。37

 

 これらの質問に答えようとする試みは、最終的には、ソビエト内部での鉱業生産とその外部への出荷量を評価するための、広大で、複雑で、究極的には極めて不正確な情報収集計画につながった。ドイツのソビエト占領地域にあるエルツゲビルゲのウラン鉱山からの避難民は常に関心の的であった。鉱山はMGBによって懲罰活動として運営されており、基本的な安全設備の欠如から、一日平均20名が死亡していた。何とかしてこの恐ろしい場所から逃れてきた人間は、西側に鉱山について多くのことを伝えた。しかし、この鉱山のウラニウムの生産量の評価は驚くほど困難だった。38 大気中に放出されるガスの量からウラニウムの生産量を引き出そうとする、ロンドンの肝いりで着手されたミュージック計画は、より一層不正確なものだった。後に、この計画は様々な建物の体積を単に測定するだけでソビエト全土のウラニウム生産工場の産出量を推定しようと試みた。プラウダにおけるスターリンの声明を巡って思いを巡らしたり、原子力兵器に関する国際的管理に関するジャーナリズムからの質問を受けたときのスターリンのイントネーションの変化から何かを引き出そうともした。西側は、ソビエトはウラニウムが不足していると信じるようになっていたが、それは誤りだった。実際には、MGBがソビエト国内で包括的にかつ生産的に調査を行い、ウラニウムの不足は全く見られなかったのである。これらの計画は、西側が本当に必要としていたもの、すなわちソビエト戦略兵器計画の内部にいるエージェントの代用品としては全く役に立たないものであった。こうしたエージェントを彼らは持っていなかった。そして、1950年代末に個人のボランティアが登場するまで西側がエージェントを持つことはなかったのである。39

 

 1949年のソビエトでの核兵器開発成功は米英関係に深い衝撃を与えた。ソビエトの原子爆弾がヨーロッパのどこにでも投下できるという事実は、英国が核の報復を受けるかもしれないと言うことを示していた。このことは、極めて繊細に扱わねばならない問題になり、以降徐々に英国の冷戦への取り組みを支配するようになった。ワシントンは英国の戦略的状況のこの劇的な変化を予想していた。しかし、1950年代までこのような変化が生まれないだろうとワシントンは予想していたのだった。1948年12月にアメリカ軍事計画立案首脳陣が臨席する会議で、S・E・アンダーソン将軍は、次のような驚くほど明晰な鍵となる質問を提示していた。それは、米国が英国を基地として使用できない可能性はあるのだろうか、というものだった。米空軍情報部長のチャールズ・カーベル少将は、この質問をふくらませて、次のように付け加えた。「ロシアが原子爆弾を持っていると英国が確信する場合には何が起きるのだろうか?」。「もちろん」と、カーベルは付け加えた。「世界はロシアが現在の所原爆を持っているとは信じていないが」。

 

 カーベルが同僚達に暴露したのは、彼がすでに、極めて極秘裏に、この質問に対する答えを発見するための「ちょっとした手段」にまでたどり着いていたということであった。彼が決定を下す限り、英国は「歯ぎしりして、米軍が英国に展開するのを受け入れ続けるだろう」。ローリス・ノースタッド将軍は、「事を荒立てることなく」、この質問をアーサー・テッダーならびに英国空軍大臣とすでに検討していた。ソビエトが原爆を持てば全く新しい時代がやってくることを英国側は皆理解していたが、「一般的な雰囲気は、我々がまだ作戦を共同に運用できるということであったので、私(ノースタッド将軍)はこの予想外の良い見通しにたいそう驚いた」。しかし、英連邦諸国を通して英軍の戦略基地にアメリカがアクセスできるかに関しては疑問が広がりつつあった。アメリカは、中央アジアのソビエト領を攻撃するには決定的に重要な位置にあったパキスタンのカラチ空軍基地からは退去を迫られるおそれがあった。エジプトも状況は同じであった。エジプトでは、奇妙なことに、アメリカは、すでに広がりすぎた英国に、後ろ向きなエジプト人の意向に反して長期間にわたって空軍施設を確保してもらい、ソビエト連邦への核攻撃という目的のためにアメリカに空港を使用させてもらえると期待していた。40

 

 ワシントンはこの変化の重要性をよく理解していた。世界の列強としての英国の地位は沈下しつつあった。そして、「誇り高き国民」にとって「三大列強国の中での最弱国」という新たな地位を受け入れることは「並はずれて困難」なことは明らかであった。しかし、新兵器と新たな戦争の方法によってもたらされた地理上・戦略上の変化は、帝国としての地位のゆっくりとした沈没よりも、より根本的な問題であった英国での戦力の再編成に影響を与えていた。そして、この新たな展開は国民にも広く影響を与えていたのである。「第二次世界大戦は、英国人に個人の命の危険と英国の国家としての脆弱さを深く悟らせた。4年間もの間、わずか22マイルの英仏海峡を挟んで英国とドイツ国防軍が対峙していたのである。ドイツ空軍とVロケットによって、戦争は何千万の英国民にとって個人的な問題になっていた」。41 1949年9月までに、ソビエトの原爆開発のニュースは、この脅威の感覚を掻き立て、米国と英国の間のいわゆる「脆弱さのギャップ」を生み出していた。将来のいかなる戦争においても、ロンドンはほぼ間違いなく壊滅するが、その一方でワシントンはソビエトの爆撃機やミサイルの手の届く範囲になく、おそらくはロンドンと同じ運命を被ることはなかった。1950年6月に、朝鮮戦争の勃発によってこの「脆弱さのギャップ」は計り知れないほど深いものになっていた。突然ホワイトホールはブレーキをかける必要を感じた。そしてこのぞっとする環境の中で、正確な情報を手に入れると言うことが、これまで以上に重要なものになったのである。

第10章 原子力情報活動の失敗(2)

 ドイツとドイツ人は、ソビエトの戦略計画に対する限られた決定的な情報源であり続けた。ドイツ人科学者や技術者は、他の方法では接近できない目標に対するか細い抜け道のように見えていた。ドイツのソビエト占領地域で鉱業所を設け、ウラン処理を行う組織のために働いていた人員は、米英両国によってリクルートされていた。ウラン精製という非常に複雑な過程のための施設を製造していた技術者も同様であった。米英両国は、やはり、ソビエト占領地域に複数の工場を持つ膨大な化学コンツェルンI・G・ファルベン内部にも情報源を確保しつつあった。ソビエトに対する鉄道輸送の情報も、西側では傍受されていた。1948年の間に、フライトラントの英国の尋問センターに収容された二人のドイツ人が、最初のソビエトのプルトニウム製造反応炉(チェリアビンスク40)を、ウラル東部のキスティムの近郊に設けており、その近くにある二つの湖を炉の冷却のために用いているという興味をかき立てる知らせをもたらした。この工場はソビエトの兵器計画にとって中心的な存在であった。ソビエトのウラン生産に関する推測はこの情報だけを元にしてなされ、またこの情報に基づいて資材の輸出制限も行われた。しかし、ソビエト核計画の核心に存在するようなエージェントの代用とはならなかった。15

 

 地球の裏側では、インテリジェンス・チームが、それと平行する情報源を探っていた。その情報源とは日本人の戦争捕虜であった。百万名以上の人間が戦争終了時にソビエト側の手に落ち、中央シベリアやウラル地方の厳しい環境の元に置かれていた。彼らはそこで強制労働を強いられていたのである。1940年代末に、彼らは自国への帰還を許された。CIAのW・K・ベンソン中佐は、ワシントンの統合原子力エネルギー情報委員会の議長を務めていたが、彼はこの帰還兵の存在を重視していた。しかし、日本の帰還した捕虜たちは、ソビエトが極地で行われることもあったウラン鉱石採掘のために捧げていた膨大な努力に関する直接的な説明を提供することはできたものの、ソビエトの原子爆弾に関する情報はほとんど手に入らなかったのである。16

 

 連合国側でのこうした資料の交換は一筋縄ではいかなかった。当初は、ホーラス・カルバートがマンハッタン計画の外国情報セクションのロンドン支局長を務めていた。彼の主要な任務は、エリック・ウェルシュとの連絡業務であった。ウェルシュは一連のSIS士官をワシントンの連絡業務のために派遣した。そのうちで最初に派遣されたのがウイリアム・マンであった。ワシントンのマンハッタン計画の外国情報セクションは後にCIAに吸収された。しかし、こうした連絡業務も1946年のマクマホン法によって途絶えてしまった。このマクマホン法によって、いかなるアメリカ市民も原子力情報を外国人に伝えることは犯罪行為とされたからである。原子力担当のSIS士官はワシントンに情報を送り続けた。しかし、彼はワシントンで担当部局との連絡業務を遂行すると言うよりは、ワシントンをさまよい続けたのであった。17

 

 ドイツ人科学者はソビエトの原爆開発に関する、興味深い情報の断片を提供し続けた。1947年2月には、西側情報機関は、フラフト・エーリケを尋問した。彼はペーネンミュンデのロケットエンジン開発の主任助手を務めていた。1946年4月には彼はライプツィッヒに招かれ、ソビエト原爆開発のためにモスクワに旅立とうとしていたポーズ教授率いるドイツ人科学者の一団に合流した。彼らはすでに2ヶ月間モスクワで、ソビエトの指導的原子科学者であるピーター・カピッツア教授と計画をどのように進捗させるかを議論していた。彼らは一旦ドイツに戻り、70名からなるドイツ人科学者と技術者を集め、再びモスクワに帰還したのである。ドイツ人は、自分たちの専門分野において、付随的な研究業務の大部分を受け持つことになっていた。しかし、「その一方で、原子爆弾の開発はすべてがロシア人科学者の手に委ねられていた」のであった。18

 

 西側は通信情報からはソビエトの原爆開発に関する情報をほとんど入手していなかった。しかし、その努力が全くの実りがないというわけでもなかった。1949年4月20日に、CIA長官のヒレンケッター提督はソビエトの原爆開発に向けた情報活動努力を調査した。CIAはすでに米空軍情報部と協議を重ねていた。米空軍情報部は「ソビエトの原爆開発施設への反撃のための爆撃」を支援するような情報を求めていた。しかし、この段階では、そうした情報にはあまり高い優先度はあたえられていなかったのだ。CIAは、今や「ソビエト領内での主要な原子力施設の正確な位置を特定するために(・・・)あらゆる手段を用いることが重要だ」という決定を下していた。生産施設が主要な問題であった。この場所さえ特定できれば、平和時に備蓄状況を測定でき、将来の戦争では攻撃目標とすることができたからである。「過去において最も生産的であり、最も成果が期待できる方法、それゆえ、最も優先すべき方法は特殊情報である」とヒレンケッターは考察していた。彼の説明によれば、通信情報はソビエトの計画が組織され管理される方法に関する情報を提供していた。そして、他の全ての情報を組み込むことができる「基本的な枠組み」を提供していたのだった。特殊情報は、通信情報の婉曲語法であった。ここでの他の情報は、帰還しつつあったドイツ人科学者、戦争捕虜、ソビエトからの逃亡者、人間のエージェント、それにソビエト科学文献の刊行物を組み合わせることで入手された。振動検知装置はまだ開発途上であった。これらの異なるアプローチは相互に支え合うものだった。公開情報から得られた情報は、シギント作業にとっての文脈を提供するという意味で「非常に重要」なものだった。CIAを先導していたにもかかわらず、原子力の分野ではヒレンケッターは通信情報の専門家に資金を投入し、「コミント(通信情報活動)努力の拡張が求められている」と主張したのだった。アメリカの通信情報活動はすでに多くの任務が課されていた。そして原子力情報活動の強化は、シギント活動への支出の増大を意味していた。19

 この種の情報活動努力は、どのような種類の予測を冷戦の初期に生み出したのだろうか。最良の推定はごく初期に見られた。それ以降も努力は強化されたが、期待に反して、予測の質は低下していった。1949年11月に、JICは将来の英国に対する空襲の規模を調査し、唯一の好運な推定にたどり着いた。すなわち、1951年以前にソビエトが原子爆弾を手に入れたとすれば、彼らが入手するであろう原子爆弾は5発以下である可能性が高いというものだった。20 この情報は正確なものだった。しかし、これは二度と繰り返されることのなかったまぐれ当たりであった。丁度1年後に、ホワイトホールが結論づけていたのは、「ソビエトの原爆開発に関する情報はごく僅かである」というものだった。しかし、官僚達は、既存の情報から判断すれば、1957年以前に戦争で「決定的な結果」をもたらす爆弾の充分な備蓄をソビエトが持つことはあり得ないと考えていた。官僚達はまた、ソビエトが、おそらくはもっと早い時期に西側に攻撃を仕掛けることを可能にする「生物兵器の急速な開発にとりわけ注意を払っている」かどうかを疑っていた。21

 こうした見通しは英国国防政策のまさに根本的前提を形成していた。英国の軍事指導者達は1957年以前に戦争は勃発しないという希望にすがりつき、英軍の再配備は延期された。その一方であらゆる資源が防衛科学における新たな発展の利用に用いられたのである。これは、兵器のデザインや型をある世代丸ごと飛び越えることを期待した措置であった。言い換えれば、英軍参謀本部は、ゲームを長期間継続する心づもりだったのである。この動きにJICは不安を覚えていた。JICは、自分たちがソビエトの原爆に関して補どんど情報をつかんでおらず、JICの魅力的な予測にしても、無知という非難が投げかけられているということを承知していた。しかし、その予測の投影図が、戦後の英国国防体制を構想する軍の作戦立案者達によって未だに福音として見なされていたのである。1948年3月に、英海軍省が、艦船の主要な再配備の目標時期を考察する際に、断言していたのは、「英国政府は、いかなる可能な敵も、1954年以前に、そしておそらくは1957年以前に大量破壊兵器(つまり、V2や原子爆弾、生物兵器)を使用することはできないという想定を受け入れている」ということであった。徐々に、1957年という年号が、ソビエトが充分な核戦力を備えることができる年として固定され、英国の軍事計画立案並びに調査に用いられたのである。22

 

 1948年7月にJICは、毎年刊行されるソビエトの意図と軍事能力に関する情報概略を完成させた。この文書は70ページを超えるボリュームであった。ソビエトの原爆は最も重要な問題であった。そしてソビエトのウラニウムの供給に関してJICが依拠していたのは、大部分が推測であった。そしてウラニウムの供給がソビエト原爆製造にとっての「制限要因」となると判断していたのだった。ソビエトの原爆開発を開始した推定日時と極度の技術的な困難を考慮に入れた上で、ソビエトは「最初の原爆を1951年1月までに完成させ、1953年までには6個から22個の原爆を所有するようになる」可能性をもっているとJICは考えていた。

 しかし、これまでに見てきたように、JICは最悪事態の分析に疑いを投げかけていた。こうした見通しが可能になるのはせいぜいソビエトの活動が戦時の米英の水準で進歩を遂げることができた場合に限られるとして、この最悪のシナリオを否定していたのだ。ソビエトの遅々たる進歩を考慮に入れるならば、「最初の原爆の完成は恐らくあと3年は遅れるであろう」。ロンドンはソビエトがとりわけ優れた科学能力を持っているとは判断していなかったので、ソビエトが最初の原爆を完成させる最良の予測は、1954年初頭だったのである。23 ワシントンもおおよそこの見通しを採用していた。米空軍情報部はソビエトがもう少し早く原子爆弾を完成させるであろうと予測していたが、普及したのは米海軍の見解であった。1948年3月29日に、アメリカのJICは「ソビエトが最初の核実験を成功させる推定時期は1953年である」と述べている。再び、この予測もソビエトが核戦力を装備すると米軍側での作戦上の根拠となった時期は1956年から1957年にかけての時期とされたのだった。24

 

 1953年から54年という時期はまだはるかに先だったので、ロンドンとワシントンは、モスクワが生物科学兵器に高い優先順位をあたえているのではないかと強く疑っていた。こうした見解は、当時急成長を遂げていたドイツにおける神経ガスの発達によって刺激されたものだった。西側情報機関は、どちらかといえば、ソビエトの原爆開発以上にソビエトの生物科学兵器について知らなかったのである。1946年11月に、JICは、ソビエトは1951年までにタブンガスを含む「3種類のドイツ神経ガス」の相当量の備蓄を製造するであろうと考えていた。情報収集にまつわる問題は原子力情報と似通ったものだった。ソビエトの化学戦に関する情報は絶望的であるとSISも告白していた。SISの、技術情報収集部部として知られる科学部部長のアラン・ラングブラウンは次のように告白している。「C.W.(化学戦)に関しては、現在の所、我々は何もない壁にぶつかっているようだ」。問題は、こうした研究が「中央アジアの手の届かない地域」で行われていることであり、「スウェーデンやスイスといった情報機関が比較的情報収集するのが容易な」諸国で行われているわけではないということであった。この分野や他の分野での情報収集の上での最高の希望であった亡命者ですらも、大部分は偶然の僥倖であり、適切な情報収集対象集団から他の亡命を積極的に励ますという可能性はほとんど無かったのである。26

 

 ロンドンは、生物兵器という答えにくい分野で前進しているのはアメリカだけだと考えていた。戦争中、アメリカは、9ヶ月の間に6つの大都市を壊滅させることができるだけの充分な生物兵器を生産可能な炭疽菌の製造工場一式を完成させていた。アメリカはブルセラと呼ばれるビールスに焦点を当てていた。それは、製造が容易で長期の保存にも問題がなかったからである。しかし、アメリカが気にしていたのは、ソビエトが満州のハルビンにあった日本軍の巨大な生物兵器施設を蹂躙した際にソビエトが何を手に入れたのかということだった。27 これらの情報全ては古色蒼然としたドイツもしくは日本の情報機関から、もしくは1945年に確保されたドイツの施設から得られた知識から得られた。1948年12月にソビエトの知識を検討した結果、アメリカの合同情報グループは、ソビエトが戦闘で集中的に使用できるほどの生物兵器製造能力はもっておらず、「とりわけ特殊作戦で用いられるような」小規模の作戦を遂行できる能力をもっているにすぎないと自信を持って判断していた。1940年に作成されたドイツ情報部の報告書は、ソビエトの主要な施設がアラル海の人里離れたヴォズロズデニヤ島に置かれていると特定していた。1936年には、6時間の猶予だけが与えられ、住民全員が避難し、この地域が生物化学研究所に引き渡されたのである。今ではこの施設の80km以内に出入りすることは誰にも許されなかった。すでに1937年には、ペスト菌の研究が行われていた。この時から研究が継続的に行われていた。そして英国の化学戦情報組織はモスクワ近郊の別の施設を特定していた。1945年に、ソビエトはドイツの神経ガス6千トンを手に入れていた。これは兵器としては芸術品の域に達していたもので、それに対抗する手段はほぼ存在しなかった。また、ソビエトはブレスラウ近郊のディエルンフルトに完全な製造工場を手つかずのまま入手しており、おそらく当時も稼働していた。しかし、これらは噂の域をこえるものではなく、これらの問題に対する信頼できる確実な情報は全く存在しなかったのである。21

 

 ソビエトの化学生物兵器に関する情報は、恐らく1950年代後半のこの分野における英国の強い関心に拍車をかけていた。英国の化学兵器開発計画は1940年代末までに相当進んでいた。そして幾つかの神経ガス成分を所有していた。それらの中にはドイツから手に入れたものも存在した。とはいえ、それらの神経ガスを英国本土で実験するには度を超して好ましくないと考えられていたのだった。1947年に、ポートン・ダウンからペレン博士がナイジェリアのベニン地域に向かったが、それは「英国で開発されている新しい化学兵器成分」、すなわち神経ガスの実地試験場を確認するためであった。ナイジェリアの実験場に求められていた条件の一つは、この拡大された実験計画の不幸な犠牲者である豚や羊が大量に入手可能な地域であるというものだった。実験の成功によって、1950年代初頭にコーンウォールのナンスクークに神経ガス工場が建設された。29

 

 大気中における放射能物質のサンプルを採集するための最初の極秘長距離検知飛行は、1944年秋からドイツに向けて着手されていた。これらの飛行は、マンハッタン計画を仕切っていたグローブス将軍によって要求されたものだった。グローブス将軍は、ドイツ人がたとえ原子爆弾を作り上げることはできなくても、放射性物質を付加することでダーティーな通常爆弾を作成するのではないかと怖れていたのだった。米陸軍航空隊のB26中距離爆撃機が使用された。このB26は英国を飛び立ち、特定の工業地帯上空を「向こう見ず」と考えられるほど低い高度で飛行したのだった。これらの飛行は極めて機密性が高かったために、マンハッタン計画技術部から派遣された情報士官はその飛行機の乗組員に自分たちが何を集めているかを告げなかったほどであった。核爆発後にその爆発を探知することは、これらの向こう見ずな作戦に比べれば比較的安全な活動であった。30

 

 大気や水分の中の放射能物質サンプルの収集は、地震学とともに、核爆発を探知するための鍵となる遠隔検知技術として、すでに1947年には確立されていた。就任して一ヶ月後、CIA長官のヒレンケッターは、広範囲に及ぶ指令を下していた。特に、ソビエト連邦の周辺地域での空中でのサンプル採取を実行するための「適切な装備を備えた飛行機」による特殊飛行を要求していた。この要求はすぐに実行に移された。その一方で、「中央指令所にデータを供給する」ための一連の地震計の設置にはそれよりも時間がかかった。グローブス将軍に代わり米国の原子力兵器計画の部門長となったルイス・シュトラウス提督は、1948年4月に再び放射能物質サンプルの収集を要求し、米空軍のB29の部隊を用いてすぐに実行された。米国内部で原子力情報活動を巡るカーティス・ルメイ将軍との戦いが始まりつつあった。ルメイ将軍は、この分野は米空軍情報部の計画であるべきでCIAの計画であるべきではないと主張していた。31

 

 シュトラウスは原子力情報活動への英国の参加に強く抵抗した。というのも、彼は英国が「機密保全についてザル」であると言って譲らなかったからである。1948年1月7日に、シュトラウスは長距離検知飛行に関して英国やカナダと協力することに関して深い懸念を表明した。とはいえ、これらのアメリカ側の計画を実行している人間は、米国には地理的にはギャップがあり、そのギャップは英国だけが埋めることができることを知っていた。シュトラウスの希望に反して、英国にはアメリカ側の原爆実験が伝えられ、英国のまだ萌芽形態にあった検知システムをアメリカの実験を使って検証することができた。正規の許可を得ないままに、この情報が英国に漏洩したことを発見すると、シュトラウスは激怒した。同年の9月には、英国使節団が長距離検知飛行の作戦上の詳細を議論するためにはじめてワシントンを訪れた。この会議の後で、シュトラウスは、誰がこの会議の参加者に秘密情報取り扱い許可を与えたのかを発見することはできなかった。

 

 これ以降、英空軍は通常任務として2パターンの原子力検知飛行を行った。その一つが、ビスマス作戦による飛行で、北アイルランドを始点とするものであった。もう一つのノクターナル作戦はジブラルタルを始点とするものだった。サンプルを採取するために、これらは、金網であられを防ぐように改造されたガスマスクフィルターを使用していた。このフィルターを後でガイガーカウンターで試験したのである。アメリカの太平洋での検知飛行が1949年8月の最初のソビエトの核実験の痕跡を回収すると、マクマホン法の下でアメリカはロンドンにこの事実を伝えられるかどうかが議論になった。最終的に、9月11日にアメリカ側から放射性を含んだ気団が現れるかもしれないという警告を受けて、英空軍は追加の検知飛行を実行することができた。9月22日までに、英国の最初の原子力施設がおかれていたハーウェルで検証され、アメリカ側の結果を確認することができたのであった。32

第10章 原子力情報活動の失敗(1)

第10章 原子力情報活動の失敗

 

情報機関はロシアと戦争している。そして私が従事している分野においては、我々がかなり後れをとりつつある。

 

エリック・ウェルシュ中佐 原子力情報部部長、1952年6月 1

 

 1948年には、英国の政府通信本部GCHQは、ソビエトの原爆開発を最優先の対象としていた。この分野でいえば、他の大量破壊兵器、生物兵器や化学兵器、それに爆撃機やミサイルといった戦略的な輸送手段も最優先の対象とされていた。しかし、その任務は絶望的なものだった。というのも、大部分のソビエトの暗号は破ることが出来なかったからである。それにソビエトの内陸部では、通信手段には、無線ではなく安全な地上線が用いられていた。SISも同様に振るわなかった。SISはソビエト領内にエージェントを持っておらず、いずれにせよ、どこにエージェントを派遣すればよいかもわからなかったのである。1948年3月に、ロンドンは「ロシアがどこで原爆開発を行っているのかまだ知られていない」ことを認めていた。1948年の最良の推測は、ロシアが1954年初めに最初の原爆爆発に成功するかもしれないというものだった。アメリカ側の見方もおおよそ同じであったが、アメリカ側は1953年であると推定していた。こうした推測は、ほぼ4年から5年差で、現実とはずれていた。

 

 1949年8月29日のロシアによる核実験成功という衝撃は、西側に壊滅的な心理的打撃を与えた。この爆発に加えて、それに翌年朝鮮において密かにソビエトの操縦士によって操縦されたミグ戦闘機の存在は、ソビエトが技術の面で遅れた国であるという観念を葬り去ったのだった。英国の合同情報委員会とその下部組織は、ソビエトの科学に対するアプローチを嘲笑していた。というのも、MGBは多くの専門家を、収容所の実験室で働かせていたからである。残りのものは、警察によって嫌がらせを受け、原爆開発計画全体はラブレンティ・ベリヤとMGBの手に委ねられていた。亡命した科学者達は、こうした環境の陰鬱な情景を物語り、作業効率が50%低下していると仄めかしたのだった。1948年に亡命したスター級の航空工学専門家、トカエフ博士は、こうした陰鬱な光景を裏打ちした。1949年6月、ソビエトの原子爆弾が炸裂するわずか2ヶ月前、英国科学技術情報委員会が出した結論は、「ソビエトの科学的潜在能力は(・・・)、数の上では膨大ではあるが、実際、見かけほど恐ろしいものではないように見える。多くの優秀かつ独創的な研究が行われており、また今後も行われるであろうが、その一方で、人間の知性の大いなる成果を生み出す科学的思想や想像力といった高みには、ソビエトの科学は達しそうにもないと推論したとしても恐らく妥当な判断であろう」。ここには、知性の面での偉大な業績には自由が必要だというイデオロギー的な省察が、既に存在していたロシア人の後進性に対する民族的な偏見を強めていた。こうした見方は、ソビエトの努力を考察していたドイツ人の偏見によって一層強化された。西側が知っていたのは、ドイツが知っていたソビエトの科学であり、それ以上のものではなかったからだ。その結果、ある分野では優れた見解が得られたが、また別の分野では誤った見解が得られたのだった。たとえば、ソビエトのロケット科学の進歩は過小評価されていたのである。2

 

 その結果、1949年8月のソビエト原爆実験のショックは、極めて激しいものだったのである。トルーマン大統領はすぐに反応した。アメリカの水爆開発にゴーサインを出したのである。より重要なことは、ソビエトの原爆は、根本的なところで米英の関係を変質させてしまったということであった。この時点から、ロンドンは冷戦における更なる積極的な活動を怖れるようになった。英国は、積極的な活動が、英国を消滅させる危険があることを知っていたからである。それとは対照的に、ワシントンは、冷戦のペースを速めようとしていた。もう10年もすれば、米国本土が核の脅威に脅かされるようになり、それ以降は徐々に手も足も出ない状況に徐々に追い込まれることがわかっていたからである。3

 より深い謎に包まれた生物科学兵器の開発と並んで、ソビエトの原爆開発計画を予測するのは、無理な注文であったことは否定しがたい。しかも、ソビエト原爆開発計画の予測は、戦後の英国の科学技術情報活動内部で見られた悲惨な無秩序によって、より一層困難なものになっていた。空軍省の科学技術情報顧問を務めたR・V・ジョーンズ教授の目を見張る業績を考慮すれば、こうした状況は理解しがたい。ジョーンズは、科学情報活動を理解しており、戦争の最盛期に、彼と彼のチームは、ドイツ空軍がロンドンを正確に爆撃するのを可能にした新しい無線誘導システムを特定していた。彼のチームは、疑り深いチャーチルに、新しいシステムの存在を知らしめた。そして新しい無線誘導システムを調査する装備を開発し、数週間の後に対抗手段を生み出したのである。ジョーンズは、電子情報活動並びに無線対抗措置という新たな分野の父であった。さらに、1945年には、ロンドンは、科学技術問題とその戦争に対する影響に高い優先順位を与えていた。広島と長崎への原爆投下の後に改訂された、この問題に関するヘンリー・ティザードの特別報告書は、この5年間の間に見られた革命的な科学技術の進歩が、英国の戦略的思考に吸収されていると太鼓判を押していた。JICもその点では抜かりがなかった。既に1945年の春の段階で、JICは海軍情報部のP・M・S・ブラケット教授に、今後の科学技術情報活動を検討することを目的とした臨時委員会の管理を委ねていたのである。1945年5月19日に、その臨時委員会は計画をJICに提出した。4

 

 軍情報部長は、ブラケット教授の計画に潜む主要な欠陥をすぐに察知した。その計画では、科学情報活動を一つの組織に集約する代わりに、ホワイトホールを横断することになっていた。それぞれの情報機関は、科学情報顧問を長とする小規模な科学情報スタッフを擁する。技術問題に関しても、分離され、同様に分散されることになっていた。それぞれの科学情報スタッフは合同委員会で議論することになっていた。レーダーやミサイルといった分野の情報活動の対象は、他の情報活動のどの分野よりも、努力を節約し、情報機関相互の協力が必要とされる共通の課題とされていた。R・V・ジョーンズは委員会でブラケットに異を唱えた。彼は、より中央集権化した科学情報部という代替案を提示した。その情報部長は、SISと緊密な関係を持つものとされた。しかし、ブラケットの奇妙な解決策は、それぞれの情報機関が独立したアイデンティティーを維持したいという欲求にかなったものだった。その結果、ブラケットのアイデアが採用されたのである。そのつけは、20年にもわたる情報機関相互の反目という俄には信じがたいものだったのである。5

 ブラケットの新組織は、情報の生産者の隣にも情報の消費者の隣にもいなかった。軍情報部の科学技術部門は、ケネス・ストロングの新たな合同情報局(Joint Intelligence Bureau)とともに、ブリアントン・スクエアにある貸し建物の中にあった。ブリアンストン・スクエアは、リノリウムの剥がれた粗末なビルで知られていただけでなく、ホワイトホールからあまりに遠く隔たっていたのである。科学技術情報は「マーブル・アーチの北に亡命していた」。そのために軍はこの部門を「不適格者のゴミ箱」と見なしていたのだった。1947年3月に、近代化にはさしたる興味を示したことのなかったスチュワート・ミンギスさえもが、英国の科学技術情報活動の脆弱さに対して、深い懸念を参謀本部に示していたのだった。1948年に、海軍の科学情報活動の経験を持つフランシス・クリックが、現状を改革しようとしたものの、成功を収めることはなかった。失望した彼は、ケンブリッジ大学での純粋な科学研究に方向を転換し、最終的にはノーベル賞を獲得した。1949年には更に改革の試みがなされたもののやはり失敗に終わった。1952年11月に、チャーチルが二期目の政権に復帰すると、状態が未だに混乱していることに気がついた。彼は全システムの主要なオーバーホールを期待して、ジョーンズを召喚せざるを得なかった。しかし、これすらが1964年まで実現されなかったのである。6

 組織の混乱と分散は、1945年の原子力情報の運用の誤りによって頂点に達していた。この分野は、その科学的処理の多くが他の分野と関連を持っていたにもかかわらず、他の英国の科学技術情報活動の努力とは完全に隔てられていた。マンハッタン計画の英国での部門長であったジョン・アンダーソン卿は、英国の原子力情報活動を英国外務省と軍需省に移管した。それはアメリカのシステムを写し、将来のさらなる協力関係を維持するためであった。原子力情報活動の移管先としては奇妙な部門ではあったが、ミンギスは米英間での既存の戦時の原子力機構に齟齬を生じることはなんとしても回避しようとしていた。しかし、1946年に原子力部門における米英の協力関係が突然解消されると、この措置は役に立たない策略となった。原子力情報活動における協力が徐々に再建されると、アメリカ人が行っていることが全く違っていることを英国は発見した。その一方で、軍需省管轄下の英国の原子力情報活動は、他のホワイトホールの情報機関からも遠ざけられていたために、シェル・メックスビルディングの「安全な鳥かご」の中で衰弱していた。7

 

 しかし、ブラケットの敵とは、何人かに示唆されたような、チャーチルの戦時の「魔法の戦争」機構の立案者、R・V・ジョーンズではなかった。むしろ、その敵とは、アイゼンハワーによるノルマンディー上陸作戦の情報部門を統括したサー・ケネス・ストロング将軍であった。1945年に、ストロングは、合同情報局と呼ばれる組織を立ち上げるのに自ら志願した。この組織は、経済、地理分野といった方面での英軍にプールされられうる活動分野を統合することになっていた。とはいえ、それぞれの軍の情報部を統合するという彼の救世主的な強迫観念は、政治的には危険なものに見えた。よって、さしあたって、彼は誰も欲しがらないような情報機構の断片を手にするだけで満足していたのだった。よくあることだが、その地誌部門は、1944年のヨーロッパ進攻に先立って、国民に訴えかけた結果供出されたフランスの海岸の休日の写真を受け継いでいた。

 

 しかし、ストロングが「ビーチの情報」というありそうにもない収集に着手したのは、将来の事態を予想させるものであった。それから20年にもわたって、合同情報局の局長が「かなめ」となり情報集約にあたるということを根気強くアピールし続けたのである。その一方で、予算獲得競争では彼は勝利を収め続けた。彼は生まれついての帝国の構築者であった。そして、彼は既に攻撃目標情報活動はJIBが担当するものだと決めてかかっていた。ごく初期の段階から、当時の重要な問題であった核兵器の攻撃目標にJIBを関わらせていたのである。アイゼンハワーのような人物との円滑な人間関係に助けられて、彼の株は上がっていった。1950年代半ばに、JIBが原子力情報を管轄することになった。最終的には、1964年に、ストロングは、新たに統合された国防省麾下の国防情報スタッフの初代の部門長に就任した。この国防情報スタッフは、陸軍、海軍、空軍の情報部を組み込んだものだった。8

 

 英国の原子力情報活動計画それ自身は、最初からエリック・ウェルシュ中佐によって運営されていた。ウェルシュは、背が低く、フクロウに似て、どこかふくよかな元海軍情報士官だった。彼は第一次世界大戦の際に普通の水兵として海軍に加わった。しかし、恐ろしいほど頭が切れて、度胸も据わっていたので、彼は戦闘における勇敢な行為のためにすぐに将校に昇進し、それから海軍情報部に加わった。戦間期の間、彼は軍に留まっていた。しかし、情報筋との接点は維持していた。インターナショナル・ペインツ・アンド・コンポジションズという会社の技術支配人として、彼は海軍の艦船の戦隊のための化学上の発展を追求していた。そしてバルト海周辺を飛び回っていた。1930年代末までに、彼はノルウェーのフェアモークにおかれ、後に有名になるノルスク・ハイドロ工場を支援していた。この工場はすぐに原子工学に必要とされる重水を生産するようになった。1940年にドイツが当地に到着した際、彼は、自分のノルウェー人の家族を残して、すぐに英国に出発した。それから、彼の家族は将来の遠征の際のエージェントとしての役割を果たしたのだった。9

 

 ウェルシュは、開戦当時、バルト諸国でドイツ海軍の活動を調査するエージェントを管理していた。この活動は、革命的な新兵器を開発し、実験する良い隠れ蓑となっていた。海軍情報部からSISに移籍した彼は、徐々に科学技術情報活動に関わるようになった。その中には、ペーンミュンデでのV-2ロケットの試験データの収集も含まれていた。彼は、また、オスロ・レポートにも関わった。このオスロ・レポートはエージェントのポール・ロスボードによって作成された驚くべき文書で、R・V・ジョーンズに戦争初期のドイツの科学の発展に関する決定的な詳細を提供するものだった。その後、ミンギスの面識を得るという機会を得たために、ウェルシュはSISにおける原子力情報を担当することになった。ウェルシュもミンギスも原子力兵器に関しては多くを知らなかった。そしてこれも「C」による思いつき人事の典型であった。ウェルシュは当時ノルウェーの重水工場に対するSOEの有名な作戦に密接に関わっていた。この作戦は後に映画「テルマークの英雄達」の中で公表されている。

 

 重水工場に対する攻撃は、ファーム・ホールとして知られるSOEの第61特別訓練学校から繰り出された。この驚くべき施設には、大陸との間で英国を出入りするあらゆる種類の戦時のエージェントのための風変わりな人物がストックされていた。こうした理由のため、この施設はほぼ完全に封鎖されていた。1945年には、この施設はウェルシュに10名のドイツの原子科学者に戦時の活動を聞き取り調査をする上での理想的な立地を提供していた。ドイツ人達が自分たちの部屋に盗聴器が仕掛けられているのではないかということを議論する会話を聞いて、英国の観察者は息を呑んだ。しかし、英国人がそんなに凝ったことをするとは思えないという理由から彼らはそうした可能性を否定したのだった。ドイツの原子科学者には豊富な食糧や良好な宿泊施設があたえられていたが、ウェルシュは彼らには強硬な態度をとった。そして機嫌が悪ければ、彼らは射殺されるだろうと述べたのだった。彼が彼らの前に現れるときには決まって、勲章をじゃらじゃら着けた海軍士官の正装で現れた。そのために彼には「ゴールドファザン」もしくは金鶏というニックネームが付けられていた。10

 

 1946年までに、ファーム・ホールからドイツに帰還した原子科学者達が問題になった。彼らは西側がソビエトの手に渡したくないと考えていた特殊な種類の人間だったのだ。彼らはスクラム・ハーフ作戦と呼ばれていた米英の機密作戦の元で特別な監視下におかれていた。この作戦は、米英原子力エネルギー情報委員会の委員で、ブロードウェー・ビルディングにも足繁く通っていたウェルシュ中佐によって調整されていた。SISドイツ支局は大きな関心を持った。しかし現場での警備活動はIDとアメリカ占領地域の米陸軍情報部によって行われていた。11 1948年4月までに、ウェルシュと彼の上司、軍需省原子エネルギー部部長のマイケル・ペリン博士は、原子力分野でのえり抜きのドイツ人科学者が「誘拐されるもしくは殺される」ということをより懸念するようになっていた。1947年には、ドイツの戦時の原子力研究の指導者であったワーナー・ハイゼンベルグ教授を誘拐しようとする未確認の試みがあった。そして、この事件が彼らの気がかりとなったのだろう。彼らはドイツをわざわざ訪れ、より洗練された対抗策を作り上げた。その対抗策には、米英共同極秘情報保全監視委員会の創設も含まれていた。そして一連の緊急対応計画とともに、ディナー・パーティー作戦と呼ばれた。12

 

 バーティー・ブラウント博士は、危険にさらされている原子科学者のリスト作成の責任を負っていた。ブラウント博士は、経済諮問局調査部として知られる英国管理委員会の原子力部門に匿われていた。彼は実用的な方針を採用し、ドイツのIDの部長であったヘイドン将軍に、「心配すべきなのは、誘拐であって、暗殺ではない。なぜなら、殺してしまえばその科学者はどちらにとっても利用できないからだ」と助言した。そして「誘拐の発生と同様に、ソビエト侵攻という事態にまで計画は拡大されるべきだ」と付け加えたのだった。「暗殺は誘拐ほど懸念の材料ではないのかもしれない」とヘイドン将軍は認めた。しかし、その二つの可能性に備え、実現しないようにすることは実に適切なことだろう、と乾いた口調で答えたのだった。ディナー・パーティー作戦には、脅威の質によって「赤色警報」と「緊急警報」2つの段階があった。自分たちの仕事をわきまえている熟練した情報将校達は、この作戦の二つの段階を非実用的なものであると見なしていた。もしソビエトの人間がこれらの人物をひったくろうとするのであれば、彼らは恐らくそうするだろう。まもなくワシントンでのCIA秘密情報活動部門の部長に就任することになるEUCOMでの情報部門副長のロバート・ショウにも、この特殊な警備活動にかける時間が残されてはいなかった。彼に関する限り二つの解決策しかなかった。幽閉するか、アメリカもしくは英国に恒久的に亡命させることであった。彼は後者の方策をとるように促した。軍の総督を務めていたクレイ将軍は、こうした決定的に重要な人物が、厳重な警戒態勢の元でドイツに自由に暮らしているというのは馬鹿げていると言い切った。こうした警戒の費用は「法外」なものだったからである。1948年の段階で、ドイツの幹部級の科学者たちが自由に暮らしているという事実が暗示していたのは、当然のことながら、彼らの存在には単に顔をあわせるという以上の意味があり、ソビエトに対する何らかの原子力欺瞞工作が行われているというということであった。14

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