コンパクトシティをネットの辞書で調べると「生活に必要な諸機能が近接した効率的で持続可能な都市、もしくはそれを目指した都市政策」とでます。私もこのブログで時折、少子高齢化が進む日本においてコンパクトシティへ踏み出さねばならないと指摘してきました。

4日の日経のトップ記事は「300自治体 まち集約  人口減、商業地・宅地を中心部に」とあります。コンパクトシティのコンセプトは90年代からあったとされますが、その取り組みが空回りしていたこと(役所だけがやろうと躍起になっていたと思います。)で成功したケースはほぼないと思います。

むしろ、市町村によっては市街化調整区域を調整から外して市街化を進め、道路を作り「薄く広い」人口集積度が低い街づくりをしてしまったケースもあります。するとどうなるか、といえば住宅地域だけがだだっ広くなり、必要な店舗もロードサイド店として生み出されますが、人口密度が下がっているため、潜在顧客が少なく、新規の店舗の収益性が十分でないばかりかもともとあった商業地も客を奪われることでウィンウィンの逆である「ルーズルーズ」の状態が生み出されたところもあります。

なぜ、日本はコンパクトシティが成功しないのか、といえば日本人が農耕民族であり、先祖代々受け継がれた土地を手放すことができないことに根本思想にあります。

先日、NHKで福島の原発事故で移住を余儀なくされた人々が決して幸せなライフを送っていないという趣旨の番組を放映していました。もちろん、原発で差別的扱いを受けているという直接的問題もあるとは思いますが、私が注目しているのは先祖代々の土地を離れ、新天地に住むことに慣れるのが極めて困難である日本の特殊事情であります。たまたま福島の人たちが大挙して移住せざるを得なかったことである意味、ケーススタディとして考えているのです。

東京など都市部は人の出入りが多く、隣に誰が住もうが迷惑さえこうむらなければ関係ありません。ところが田舎はそういうわけにいかないのです。「新参者」という扱いを受ける中、その人がその村なり、地域に溶け込むためにその人が積極的に飛び込んでいき、かつ、その地域の人がその人を受け入れる「精神的相互関係の確立」が必要なのであります。

つまり、日本はおらが村、おらが町内会…と長年そこにいる人たちが一定の空気を支配し、その空気を乱すものは弾き飛ばされるため新参者はどんなことでもローカルルールとして受け入れなくてはいけないという閉鎖性に最大のハードルが存在するのです。

例えば人種のモザイクであるカナダであれば新参者に対して受け入れるキャパがあります。新しく住宅地に引っ越してくればその日のうちにお隣さんが挨拶に来るケースが多いでしょう。何故か、といえばお隣さんとしては自分のとなりに誰が移り住んできたか興味津々であり、どのように共生できるか、探るためであります。

ですが、日本の場合は逆さまで「今度引っ越してきました」と菓子折りを持って丁重に挨拶するのがしきたりです。(マンションではやりませんし最近の若い方はやらないでしょうが。)これは自分が新参者なのでよろしくと下手に出て近隣から自分を受け入れてもらうという儀式であります。

ではコンパクトシティは可能か、といえば、日本人がそこまで割り切れるのか、というハードルが最も高いのだろうと思います。行政は数理的にそのメリットを訴え、それを強行しようとしますが、この日本人が本来持つメンタルの部分をどう解決させるのか、ここが完全に抜け落ちていると思います。

コンパクトシティを成功裏に達成するには福島の移住した人たちに幸せを与えるプログラムと仕組みを生み出すことが先決です。このメンタルヒーリングと移住者を受け入れるローカルルールの組み換えに取り組むことが重要でしょう。

「あのよそ者が」という思想は田舎に行けば行くほどあります。よそ者は決して目立ってはならず、空気を乱してはいけないという特殊な習わしを壊すにはすべての住民を「ガラガラポン」にするぐらいの勢いでないと無理なのでしょう。極端な話、新しい開発地に半ば強制的に移住させ、すべての人が「新参者」にならない限りボズ猿が牛耳る日本の特殊性の罠からは抜けられません。

そういえばどっかのサル山にもボス猿がいましたが、新しいメス猿がボスを追い出してガラガラポンしようとしているのと同じでしょう。

では今日はこのぐらいで。

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また明日お会いしましょう。