青山ブックセンター六本木店がなくなるそうです。その周辺に地の利のある人なら知っている方も多いでしょう。それぐらい有名な書店でした。

書店はこの10年で3割減少しています。かつては駅近くに書店があり、そこで時間をつぶしたり、ちょっと雨宿りぐらいの感覚で雑誌コーナーなどは立錐の余地がないほどの店舗もありました。本を読まなくなった理由はいくつもあると思います。

そのうちの一つに雑誌がつまらなくなったことをあげたいと思います。似たような雑誌、かつ、紙質が上がり、やけに重くなり、女性雑誌においてはおまけまでついてきますが、これはマーケティングではなく邪道そのものでしょう。先日もある雑誌をぺらぺらめくっていたところどのページも広告だらけでどこに記事があるのか思わず探してしまいました。

雑誌の発行部数はどのジャンルも下がる一方。あの文春ですらこの10年で1割以上減っています。唯一あまり下がっていないのは雑誌発行部数で文春に次ぎ第2位のほとんど誰も知らないJA発行の「家の光」というのですからたまったものではありません。

雑誌は本を読む入り口のようなものです。私は新聞で最新情報を、雑誌で深堀を、書籍で専門性を学ぶという三段階をキーとしています。つまり興味を深堀するには雑誌というステップは意味があるのです。その雑誌がお手軽且つ読みたいページだけネットで読めるとなるとスタンスは変わってきてしまいます。言い換えれば出版社が自ら、書籍を売れないサイクルにはめ込んだような気すらします。

私は今、司馬遼太郎に凝っていてゆっくり読み進めていますが、彼の小説は長い上にすいすい読めるものではありません。既に3-4年、コンスタントに読んでいますが、まだせいぜい30冊ぐらいでしょうか?あるいはドストエフスキーなどはじっくり読んでいると東野圭吾のような軽さがばかばかしくなるほど面白いのですが、カラマーゾフなどは全巻で1800ページもある上に第一巻のとっつきにくさは読んだ人が誰もが同じ感想を述べるほど腰を入れて読まないと理解できない小説です。これを今の人に突然読め、といっても無理だろうな、と思います。

夏目漱石の「こころ」にしても三島由紀夫の「金閣寺」にしてもノーベル賞に最も近かった安倍工房の「砂の女」、「箱男」はどれも難解、だけれども何年たっても忘れない味があります。これらを読むためにはそれなりに時間とエネルギーを擁するため、現代人には「うざい」「つまんない」でせっかく買っても「積ん読」になるのでしょう。

本は読みましょうとあまり声を大にすると若い人から「爺くさっ!」と言われそうです。ですが、弊社の東京の塾で小学校低学年向けに実際の図書をコンピューターの本の読み上げシステムで「合わせ読み」訓練をさせています。一回、10-15分程度で読み上げスピードを2-3倍ぐらいで集中力を高めさせるのです。これは長期的に見ると効果が確かにあり、能力効果と同時に本を読む癖ができます。

そういえばネット記事もリードだけをよんで理解したような気になっている人が相当いらっしゃるかと思います。短いキーワードに社会が反応しやすいのもそのあたりに原因があるのかもしれません。その言葉の周辺を探るという感性は無くなってしまったのでしょうか?日本に寺小屋よ、もう一度、とつぶやきたくなります。

では今日はこのぐらいで。

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また明日お会いしましょう。