偏差値が生み出した悪影響は計り知れないものがあるかもしれません。ごく一面から見た人間の能力を数字で評価することにより、個々人にレッテルを張るからでしょうか?

例えば模試を受け、ある教科だけがいつも成績が悪いとすれば「俺はこれ、苦手」という意識を植え付けてしまいます。苦手なのでいくら勉強しても頭に入ってこない、そして好きな教科だけ勉強するようになる、という循環に陥ります。

東京に行くと経営する塾に行きます。この塾は生徒が各々コンピューターのソフトと対面し、音と画面で学ぶような仕組みになっています。そこで子供たちがどのように勉強するか、後ろから見ていると大体、苦手教科はやっているふりで画面を見ながら目が滑っていたり、設問に対して間違っていてもなぜ間違ったかを見ずスルーしてしまう子が多いのです。これではできるわけがありません。

ある生徒は算数がとても苦手でした。そこで画面の設問に対してどうやって解に導くか、紙と鉛筆で書きながら教えました。何度か同じような問題を繰り返し、紙に書き、手で計算してそのプロセスを覚えさせると不思議とすらすらと解けるようになります。つまり、ちょっとしたことに引っかかっていただけなのですが、それを取り除いてあげる人がいなかった、それだけの話です。この生徒はその後、算数全般が苦にならなくなります。つまり、苦手意識が解消したのです。

日経に「キセキの高校」という特集があり、「本当にうちの生徒?対話が高校を変えた」というがあります。舞台は都立大山高校。私の塾でも時として名前が挙がってくる割と近くの高校です。記事によるとこの都内でも最低レベルの高校で「哲学対話」なるものがあり、生徒が体育館で車座になってあるテーマについて皆で議論することを取り入れたところ、生徒が考える力を持ち始めた、というストーリーです。

私が時折いう「答えは一つじゃない」という試練を感じているのでしょう。ものの見方は見る角度によって変わります。正面と後ろ姿、上から、下から、透かしたり、様々な切り口から考えるようにすると全く違った答えが見えてきます。世の中に出回る統計の数字ほど切り口次第でどうにでもなるものはありません。つまり、我々の住む世界には絶対というものはないのだ、とまず認識することでしょうか?

とすればできないとレッテルを張られていた人も切り口を変えれば案外できたりするわけです。人の才能は開花のさせ方だと思っています。確かに天才と称される極めて高い能力を持った人はいます。しかし、積み上げた努力で高いレベルを勝ち取る秀才がいるのも事実です。つまり、天才にはなれないけれど秀才には誰でもなれると考えたらどうでしょうか?

できる人、できない人の違いの究極は「粘り」だろうと思っています。今の子たちはこの粘りがやや薄くなってきている気がします。それは何でも簡単に手に入る世界になったこともあるかもしれません。だからテストもできなきゃすぐ答えを見て、何も感じず、次に行ってしまいます。「なぜ」を繰り返し、たった一つのことにもパイ生地のように何層も積み上げていく手間暇、これができるかできないかで将来大きな差が出てきます。

私はできないと思わせることがまず間違いだと思っています。できるはずなんだ、何に引っかかっているんだ、とぶつかりながらも問答していくことでハタとした気づきが生まれるのではないかと思っています。

では今日はこのぐらいで。

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また明日お会いしましょう。