外から見る日本、見られる日本人

バンクーバーの日本人社長ヒロが仕事、生活を通じて感じた経済、経営、社会、日本人観などを綴っています。

自己啓発

現代版世代間のギャップを読み解く4

少し前のブログで20-40代の人とそれ以上の年齢の人に善悪は別としてギャップがあると書かせて頂きました。思えば「最近の若者は…」というオヤジの嘆きはいつの時代にもあるものです。では私の見る今回のギャップはどんなものなのでしょうか?

私が考える世代間ギャップには3種類あると思います。1つは単純に年齢を重ねた経験値からくるギャップ、2つ目は社会が大きく変化した際のギャップです。例えば明治維新とか、終戦といった事象はその時代に生きる人にとって強制的に方向転換を迫るものでした。3つ目はある事象に対して人々の考えが分裂し、世代の間でミスマッチを起こすケースです。アメリカがベトナム戦争をしていた時、反戦運動を通じて当時の若者に大きな影響を与えました。あるいは貧富の格差問題に今、スポットライトが当たります。

では今の日本はどうなのでしょうか?私はタイミングとしてはバブル崩壊が人々の行動規範を変え始めた一つのきっかけになったと考えています。あれを境に日本はイケイケどんどんから企業は構造的変革を求められました。リストラの嵐、非正規雇用、またガバナンスという発想も普通に取り入れられます。また、ゆとり教育世代が社会の主流を占めるようになっています。今時「24時間働けますか?」というコマーシャルを流せば大バッシングでしょう。しかし、80年代はそれが当たり前だったのです。

次にデジタル世代という言葉も生まれました。表層的な情報で深堀することがないのです。短文のテキストで意思の確認が前提で議論はあまりしません。新聞とはニュースを知るためだけではなく、社説、コラムを通じて深堀をするものでした。雑誌も同様、そして書籍はより専門的で体系的な知識を取得する手段でした。今、1カ月に一冊も本を読まない人が統計上約半分とされています。個人的にはこの統計は疑っています。個人的感覚としては本を読む人はせいぜい1-2割だと思います。読むという定義も重要です。買ったことで読んだと思っている人もいるでしょう。いわゆる積読です。目次や「はじめに」を読んだだけ、パラパラとつまみ読みした人もいるでしょう。でもそんなのは読んだうちに入らないのです。きちんと完読したかどうかです。

日経に分断のアメリカと題し「左を向くミレニアル」と副題がついた記事があります。ブーマー族からミレニアム世代に有権者の主流がバトンタッチされた、そしてその流れは左、つまりリベラルに向かうという内容です。

保守は都市部では流行らない、これが欧米の主流です。日本はどうか、といえば自民という基盤が安定していますが、これは欧米のように拮抗する選挙という状況にならず、選択肢がないとも言えます。それ故に選挙をやっても投票率は30-40%ぐらいにしかならないのは「どうせ自民」と思っている層が非常に増えているからであります。

つまり自民が主流の日本だから保守基盤が強いと単純な判断は下せず、案外、声なきリベラル層が拡大している、そしてその主流は20-40代だと私は考えています。例えばシェアハウスに住むこと、LGBTでカミングアウトすること、ハローウィンで仮装して楽しむこと、イベントなどコト消費に向かう人々などはリベラル的バランス社会で着々とその行動基盤は広がっているのではないでしょうか?

50代から上の保守派にとっては「なっておらん!」と声を上げるかもしれません。そうです。私も不安です。しかし残念ながら表層の知識と敷かれたレールの上を労せずに走る受動的ライフに価値観を感じる人は確実に増えています。私たちの世代はいつもトラブルで各駅停車で苦労しながら前に進んできたという点からそんなにスイスイいけないだろう、と考えます。これが私の思うギャップです。

これはオヤジが「今の若者は…」というあの嘆きとは次元が違うと感じています。かつて4年連続で1位だった世界競争力ランキングは今や30位。留学生は減り、ワーキングホリデイで外国行く若者も激減しています。価値観があまりにも激変しているのです。かつては当たり前の意味だったJapan As No1なんて今の人は知らないけれどスポーツでもビジネスでも世界で頑張れば「ニッポンもやるじゃん」なのです。

もちろん、この新しい感性の世代が世界を引っ張れないとは断言はしませんが、こうやって海外の空気を吸いながら日本を見ていると世代間の断絶を感じないわけにはいかないのです。これをオヤジの嘆きで流してよいものなのか、大いに考えるところがあります。

では今日はこのぐらいで。

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また明日お会いしましょう。

なぜ守れない社会のルール4

チュートリアルの徳井義実氏の個人会社「チューリップ」が1億2000万円の所得隠しをしていたことで徳井氏に猛批判が浴びせられています。単なる所得隠しというより会社を作ってから何もしていなかったという唖然とした状態であったことが今回大きなニュースになりました。

会社を作った理由は経費で様々なものを買えるお得感だったわけであたかも給与を貰うより断然うまくやったと自負したわけです。しかし、会社とはメンテするのが実に面倒で様々なルールに縛られます。(日本はまだいいですが、カナダなどは納税以外にも会社法に基づく年次報告などやらねばならないことはもっと多いです。)

なぜルールを守れないのか、これは大まかに3つの理由が考えられます。1つは単にルールを知らなかったこと、もう1つは捕まりやしないという自己流の勝手な解釈であります。3つ目が捕まるかもしれないけれど止められないという負のサイクルに陥った場合でしょうか?徳井氏の場合は2番目のケースだったのではないでしょうか?

マクドナルドの財務担当者が会社の資金7億円を個人のFXの損失補填に充てていたという報道がありました。7億円も金が動いたのに同僚がその人物の怪しい動きに気が付くまで誰もわからなかったのも唖然とする話ですが、この引き出した担当者は捕まりやしないとは思っていません。しかし、損失補填に対して背に腹は代えられない強迫観念に陥っていたと考えられます。想像するに捕まった瞬間、終わったと同時にほっとしたのではないかと察します。

問題はここで背に腹は代えられないならば何をしてもよいのか、あるいはそれができる環境や抜け道があるのか、という疑問であります。徳井氏の場合、一体だれが会計士だったのか、という疑問が出ています。会計士という資格を持つ人間である以上、自分に与えられた職務として会社の会計報告を所定日までに行うことは明白な義務であり、それを放置できないはずです。想像するに会計士が毎回、変っていたのではないか、という気がします。その上、会計の基礎資料すらなかったので作りようがなかったという気がします。

芸能界では黒い交際が時々話題になります。宮迫博之氏らの闇営業が問題になった時も「わかっているけどおいしいし、断れない」という自己都合の論理に走ります。煽り運転も同様でしょう。「自分の前で邪魔するものはどけ」という心理です。認知が入っているかもしれない高齢者が交通事故を起こすのも目線が社会の中の自分ではなくて天動説的な自己中心論理が主体となります。

上述の例だけを取り上げても自分の会社、担当する仕事、闇とのコネクション、自動車に人格を転移させること、あるいはそこに車のカギがあるというきっかけとそれに対する自己ルールの設定が間違いのもとだったわけです。

社会はこれらの事故や事件を大きく報じ、厳しい処罰を行います。多分、刑事上の罰以上に社会的制裁の方がはるかに大きくなるでしょう。多くの場合はその人の築き上げてきた人生の城を一瞬にして瓦解させることになります。

1992年にアメリカのマクドナルドのドライブスルーでコーヒーを買ったおばあさんがそのコーヒーを足の間に挟んだところ、こぼれてやけど負った事件があります。かの有名なマクドナルドコーヒー事件で、懲罰的罰則で約3億円を支払えとの判決が出たことがあります。(その後和解で支払いは5000万円ぐらいになっています。)この懲罰的罰則はマックのような社会的主導的立場にある企業がやるべきことが十分ではないという点において「有名企業罰則」であったとも言えます。同様なケースはマイクロソフトも経験しています。

今の世の中、刑事罰より怖いのが社会的制裁であります。飲酒運転をして死亡事故を起こしたあの福岡の事件は強烈な制裁だったと思いますが、その後も止まらない飲酒運転事故に対して警察は本気の取り締まりを行いました。それはあまりにも高い罰金と免許の取り上げであります。ここBC州でも異様な超過速度で運転していた数千万円もする高級車が強制的に取り上げられ、オークションにかけられたことがあります。

ごめんなさい、では済まない後始末は人生設計を全部振り出しに戻してしまうとも言えます。社会はルールががんじがらめになりつつあり、自分だけの論理はもはや通用しないということを大人として学ばねばならないのでしょう。徳井氏のニュースは改めて考えさせられるものがありました。

では今日はこのぐらいで。

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50代は会社で邪魔者か?4

日経ビジネスに「トヨタも悩む新50代問題、もうリストラでは解決できない」という特集があります。50代は給与も高いのに人に仕事を押し付けるのが上手、なのに自分では何もできない、あるいは評論家タイプが増えて具体的な解決策や改善策を自らがリードしながら進めていくとなると「おい、君がやれ!」ということなのだろうと思います。

50代問題は日経ビジネスだけではなく、いろいろなところで取り上げられる問題であり、その内容については批判も多いと理解しています。なぜ、こんなことになってしまったのか、日本の人事、教育にその理由を見出すべきなのか、考えてみたいと思います。

先日、ある勉強会で思わぬ意見が出ました。「人や世の中の言うことに従い、自分で考えない世界ほど楽なものはない」というのです。いわゆる受け身人生のようなものです。これは、どの年代、男女を問わず、主流派なのだろうと察します。

会社に於いて受け身型人生を当てはめると常に上からの指示待ちで「言われたからやる」ということになります。企業が自然災害や事故、不祥事で大きなトラブルがあった時ようやく「これは改善しないと」という対応をしますが、事前にそれを解決しようとしないのは「やらなくても大丈夫だろう」という意識があるからです。つまり、日本は往々にして積極対応ではなく、事後対応なのです。

会社人事でいえば20代から60代までの年層による特殊性はない、と考えてよいでしょう。経営者や経営幹部が会社の方針を考え、社員はその方針に向かって受け身として働くわけです。もちろん企業ですから洋の東西を問わず、それに従う点においては日本の独自性ではありません。ただ、海外では経営方針が合わなくて辞めた、という話は頻繁に聞きますが日本ではあまり耳にしないでしょう。従順という意味では20代から40代はある程度サクサク対応するのに対して50代は勝ちルートから外れた残存組という意識がより明白になり、方針に対して評論的になりやすく、会社からすると余計、使いづらいことになるのでしょう。

つまり、今の人事制度では20代から40代の層も50代から上になれば全く同じことが起きるとも言えます。これでは労働人口が減っていく中で日本の経営は成り立ちません。というより、いつまでたっても労働生産性がOECDの中で低位安定しているのは人事制度にあるのではないかと思うのです。

私は社員に経営参加型の癖をつけさせることは大事だと思います。さまざまな新ビジネスや改善のアイディアを社内公募し、発表することによる刺激です。次に企業が巨大化するなかで人事の一本化そのものが違うのではないかと思うのです。若い時から同期との出世競争にさらされるのはいいのですが、勝負が明白になる30代後半の「負け組」社員にやる気を醸成するのは難しいでしょう。ならば商社のように割と早い時期から専門分野(食品、資源、紙パ、新規事業…)ごとに人事も分けてしまうのもありです。そうすると出世街道は1本ではなく、分野数だけ増えることになります。

もちろんこの色合いがあまりにも強いと三菱重工や川崎重工のような縦割り統制で身動きが取れなくなるケースもあります。これは何らかの解決策を考えねばなりませんが、50代のやる気を出させるには30代からその仕組みを作り上げないと直せないと思うのです。

50代に突然、餌をぶら下げられてもごく一部の人しか反応できないでしょう。それはサラリーマン生活30年を迎える中で個々それぞれに「働き方」が固まってしまっていてフレキシビリティがないから、とも言えます。

もう一つはおおむね家族持ちは子供が大学生ぐらいになり私生活のゴールが近づいていることもあります。住宅ローンもだいぶ減ったか、払い終わっている方もいるでしょう。自らが幕引きの時期にあることを内面的に認識しているのです。ですが、私は時々主張するように人生二毛作、60歳からあと15-20年は現役で行けると考えています。

50代の方にあえて言えることは60歳からの明白なビジョンを作ること、そして自分がどれだけ前向きな人生を送れるか考えることだと思います。北米で当地の人と話をしていると「30年同じ会社に勤めた」というと社長や役員など幹部にでもなっていれば別ですが、なかなかその人生観を理解してもらえません。

自分の人生を持ち上げ、楽しむには若いうちから自己啓発が大事だと考えています。

では今日はこのぐらいで。

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ノーベル賞が取れる日本の強みと課題4

旭化成の名誉フェローで名城大学教授の吉野彰氏がノーベル化学賞を受賞しました。日本人としては27人目の受賞になります。うれしい話です。

ノーベル賞の受賞者を国別でみるとアメリカ、英国が圧倒し、あと日本を上回るのはドイツ、フランス、スウェーデンしかありません。ノーベル賞が1901年から始まり、日本人で初めて受賞したのが1949年の湯川秀樹氏(当時42歳)ですがこれにはたしか政治的配慮があったと記憶しています。その後、60年代、70年代、80年代に2人ずつ、90年代に1人だったのが2000年代から急増しています。年齢的な考察をすれば戦後、研究開発をする体制が整い、日本人の得手とする発明や改善を通じて爆発的な成果を上げ、その成果が評価されてきたとも言えます。

今回の吉野教授の受賞も素人目には改革とひらめきだったように見受けられます。もともと同氏はポリアセチレンの専門家でそれを使って電池ができないかと思っていたところに特殊な炭素繊維を使うとうまくいくと気が付き、リチウムイオン電池が生まれたということかと思います。今や、世界中の人がスマホやパソコンのバッテリーから電気自動車まで使うリチウムイオンが同氏の基礎研究で生まれたと考えれば我々日本人は誇り高いものを感じます。

また同氏関連の記事に「壁をありがたく思え」とありました。我々日本人の特性の一つとして粘り強さがあると思います。特に研究分野などでは一進一退の日々が続き、そのゴールが見えにくい中、コツコツと積み上げて壁を何枚も乗り越えていくのです。大変な忍耐力を要する作業だと思いますが、これを家族を含め皆で支え合っていったケースが多かったと思います。今までノーベル賞を受賞されたケースを見ていると奥様の支えがあってこその受賞だったな、と思うことがしばしばありました。今回の吉野教授の奥様もきっと献身的に支えられたのでしょう。

以前から言われていましたが日本は今しばらくノーベル賞候補者が続き、受賞者は増えるのではないかと見られています。しかし、その後がどうなるのか、心配されています。日本人のメンタリティはそう変わらないのですが、研究環境は大きく変化しつつあります。今の40-50代の方々の研究成果が賞となって評価される20-30年後も果たしてノーベル賞がコンスタントに取れるのでしょうか?

例えば欧米の研究施設には巨額の資金があります。多くは卒業生や企業からの寄付などで支えられています。また全体的にややドライで短視的なものの見方が増えてきているような気もします。今すぐの成果や結果を求める体質です。結果が出なければいつまでも研究費は出せないよ、という割り切りもあるかもしれません。また基礎研究分野は地味な分野でありますが、世の中の生活基盤が激変する中で新たな夢を追う気持ちを持ち続けるのはたやすいものではありません。

ところで日本が得意とする特定の専門分野の深堀の成果をうまく利用し展開するという意味では我々はやや不得手なのかな、と感じます。せっかくの研究成果をなぜ、世のため、人のためにビジネスに落とし込むのが上手ではないのか、この辺りが日本の企業のマインドに変化を求めたいところです。

いみじくも吉野教授は教え子たちには考える授業を施してきたそうです。受け身ではなく、どうしたら解決できるか、自分で考えるのです。日本の多くの企業はマニュアル文化となっており、社員にものを考えさせず、すべての対応はマニュアルに沿った形で行われます。コンプライアンスなどの理由によりそれはそれで重要なのですが、思考能力を求めない今の企業体質には大きな疑問が残ります。なぜ、こうなのですか、と聞けば「そう決まっているから」としか答えが返ってこない会社とやり取りしていると世界の中でも有数のノーベル賞受賞国となりつつある日本の表と裏という感じすらします。

我々はノーベル賞の受賞を喜ぶだけではなく、その背景とあるべき姿を自分たちの行動規範と結びつけて考えるべきではないでしょうか?

では今日はこのぐらいで。

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人生第二起業4

アリババ創業者のジャック マー氏、ZOZOの前澤友作氏、サムスン電子の李在鎔(イジェヨン)副会長の3人の共通点は人生の仕切りラインを自分で決めたことでしょう。ジャックマー氏は9月10日にアリババの会長を退任、前澤友作氏は9月12日に創業であるZOZOの社長を退任、そしてサムスンの李副会長は副会長ポジションには残るものの取締役から近く退任する見通しとなりました。

それぞれの年齢はマー氏が55歳、前澤氏が43歳、そして李氏が51歳です。ある意味、一番脂が乗りきっているところでそれぞれの理由はあるにせよそれまでの絶対的ポジションから一歩退く決定をしています。

ジャックマー氏が一年ほど前に退任することを発表した際、ニューズウィークが「自分の評判を守ることかもしれない。会社が順調なうちに側近も社員も残して去れば、サクセスストーリーに傷が付かない。実際、中国のIT業界が逆風にさらされていることは、マーのような天才でなくても分かる」とあります。

ZOZOの前澤氏はご存知の通り公私について外野がとても騒がしくなると同時に業績が今一つ伸び悩んでいる問題がありました。そしてサムスンについては李氏自身が訴訟を抱えているうえ、サムスン電子の主業の一つであるスマホの売り上げが伸びず、中国での生産を止める決断も下しました。

つまり、3人ともそれぞれのサクセスストーリーとその後の凋落ないし守りの経営を余儀なくさせられていた点では共通するものがあります。そして、それにしがみつかず、若くして退任することは今後の起業家や会社経営のトレンドに大きな影響を及ぼすとみています。

それは早く辞めて人生第二起業をして経験に更に厚みをかけることです。それと同時に残った会社の再活性化を図るということもあります。仮にこの3人がそのまま会社にいてもそれなりの功績は残せるでしょう。しかし、今までのような爆発的な成功は難しいということは本人たちが一番わかっています。特にIT関係ではマー氏が自分の年齢ではもう無理と述べているように時代の移り変わりの激しさの中で50代になればとても対応できないことを行動で示したとも言えます。

前澤氏については既に新会社を設立し、何かやろうと企てているようです。マー氏は教育関係に戻ると言っています。李氏についてはまだサムスンにしばし残るのでしょうけれど今後の展開が注目されます。

50代になって会社の創業者として長期政権を維持することは非常に難しいと私自分が一番実感しています。そのため業容を自らがどんどん進んで変えていかないと業績や社内の緊張感が停滞してしまいます。私が次々に新しいことをやる意味は逆に既に安定化しているビジネスを誰かに任せてしまうという意味でもあり、同じ会社にいながら2年に一つぐらいのペースで起業し、形を変えることで新陳代謝を図っているともいえるのです。

もちろんこれは考え方の一つで会社によっては素晴らしい経営者が長期体制の中で企業価値を何倍にも増やしたり、10年、20年と連続で増収増益を記録する企業もあります。どちらが正しいとは断定できるものではありませんが、一つ言えることは上記3名が関与しているビジネスは消費者相手のビジネスであり、高いレベルのセンスと時代の変化の波をもろにかぶる点でしょう。ある意味、一番シビアな世界で戦ってきたともいえるのです。

人生第二起業という点ではブックオフの創業者で現在俺の株式会社(俺のイタリアンや俺のフレンチの会社)のオーナーである坂本孝さんが参考になるでしょう。氏がブックオフを辞めたのが67歳の時、そして「俺のシリーズ」を世に出したのが72歳の時です。坂本氏の場合はブックオフの前にすでに何度か起業して苦しい時期を経験しているという点においては人生何度起業したかわかりませんが、充実して厚みある人生を送られているのでしょう。

人生の楽しみ方として何か専門一本勝負するのも面白いのですが、円熟期に一旦立ち止まり、考え、そして新たに挑戦するというスタイルは今後の新たなる経営者の生き方として注目されるのかもしれません。

では今日はこのぐらいで。

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集合写真に気をつけろ、差し迫る肖像権問題4

東京である会議に出席していたところ、思わぬ内容で盛り上がりました。肖像権です。「集合写真には気をつけろ」というわけです。正直、私は写真嫌いで無頓着なのであまり気に留めていませんでしたが気になる話題でしたので皆様とシェアしたいと思います。

ロスアンジェルスから出席していた方が「集合写真を撮るとき、そのご家族の子供が写真を撮るとき背中を向けた」というのです。母親が「その集合写真の団体と関係ないから子供の顔は撮らせない」というのがその理由です。

皆さん、必ず経験があると思います。集合写真を撮るときはカメラマンが「はい、そこの赤い服着た方、もう少し中に」「そうそう、そちらのスーツの方、もうちょっと顔を出してくださーい」などといってニコッと笑って写真に納まります。その写真、その数時間後にはフェイスブックに上がっていて全然関係ない人から「〇〇さんのイベントに行っていたんだ」と言われたことありませんか?

何の関係もない人が他人の集まりの集合写真をみて「あぁ、〇さんと△さんもきている」と人間関係に勝手な想像力を膨らませているわけです。(人の「のぞき見心理」は恐ろしいほど深いものがあります。)今は「あはは!」でいいのですが、もしかするととんでもない時代が来るかもしれません。

ニューヨークから出席していた方はさらにこんなことを発言します。「集合写真で胸に名札を付けているものは絶対ダメ。これで本人と名前が完全一致してしまい訴えられたら一発アウト」と指摘していました。私は思わず、「アメリカはカナダよりセンシティブかもしれないですね。」とつぶやいてしまいました。

ところがその後の全体会議では日本における肖像権に関する意見が飛び交います。集合写真をウェブ等にアップできるのか、という議論です。解像度を落として特定できないようにしているとか(それじゃ集合写真の意味をなさないですね)、事前に承諾を得るといった対策を取っているという意見が出ます。ただ、承諾についても口頭であり、発言している人も法的にどこまで対抗できるのか自信なさげで「大丈夫だとは思いますが、気になるようなら書面で」というわけです。

集合写真なんてノリで撮るもので撮る前に「では皆さん、こちらに承諾のサインをして」とはならないでしょう。ならばそのうち「私は写真に入らない」という拒否権行使をする人が続出して集合写真にならなくなるかもしれません。

写真に関して最大の変化は「紙のアルバム」が「ウェブアルバム」に変わったことであります。学校を卒業する時の記念アルバムには集合写真が欠かせません。欠席した人は写真の隅に丸く顔写真だけわざわざ追加して掲載したりしていました。こんな写真集がごく平然と配られていたのは紙のアルバムが前提だからであります。

が、このアルバムがネットに掲載され、それが公開されたとしたらどうでしょうか?騒ぎになるはずです。恐ろしい時代です。

今のスマホは写真機能がどんどん進化しています。アップルは今回の新型で3つのカメラを搭載、サムスンやファーウェイは4つになりつつあります。これは使う側からすれば鮮明な画像が撮れるということなのですが、見方を変えれば顔認証とAI技術でどうにでも利用できるということになります。

例えば技術的には集合写真の被写体の人物を顔認証でチェックし、特定したうえで人間相関図を瞬時に作り上げることも可能でしょう。これは誰と誰がつながっていて誰と誰は仲が悪いということすら見ようと思えば見えてしまうことを可能にします。(もちろん、法律違反ですが法律は技術進歩について行っていません。)

我々はネットでもフェイスブックでも写真や動画を見ることが当たり前になっています。上述のようにちょっとしたスマホでもプロ顔負けの高画像の写真がお手軽に撮れるようになっています。しかし、それを防御する個人の権利は完全に置いてけぼりになっています。

公開する写真、しない写真、写真の管理などあまりにも面倒な時代になりつつあります。個人情報を守るということで団体の住所録などはウェブには載せませんし、電話帳もなくなりました。今は住所氏名がわからなくても顔を見れば誰だかわかってしまう時代です。

近い将来、ある集まりに行って顔は分かっているけれど名前が思い出せないという時、その人にスマホを向けると瞬時にその人の名前や経歴がスマホに出てきたらどうですか?「お名前思い出し機能」と称して実はもう完全にプライベートなんてなくなっているとすれば諦めるのか、徹底抵抗するのか悩ましい時代になったものです。

では今日はこのぐらいで。

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フェイスブック ホライズン 仮想現実に見る自分の本性4

フェイスブックが新たなSNS交流サイト、ホライズンを発表しました。これは本人が参加するのではなく、自分のアバターがそこの主役になるそうです。アバター、ご存知とは思いますが、自分の分身をキャラクターなどにしてあたかももう一人の自分のような人格を与えるのです。

このホライズン、フェイスブックの英語版宣伝用画像がYouTubeにあるのですが、VR用のゴーグル(ヘッドセット)を身に着け、Wiiのリモコンのようなもの(タッチコントローラー)を両手に持ちながらあたかも違う世界にいる自分を楽しめるというものであります。こんなものができればディズニーランドに行く必要がなくなる気がします。

この仮想現実の中に自分を放り込むわけですから例えば日本では江戸時代や戦国時代に戻って自分が豊臣秀吉や徳川家康と話をするといったシーンの再現も可能になるのでしょうか。仮想現実を未来の自分に置き換えるケースは多いと思いますが、過去に戻ることも当然可能なはずで、ある意味、仮想タイムマシーンと考えてもよいのでしょう。現代の技術もここまで来たのか、と感慨深いものがあります。

私はフェイスブックはやらないのですが、このホライズンには大変興味があります。それはある実験がしたいのです。アバターが自分の分身と申し上げましたが自分の人格はそれほど人格者であるか、まともな人間であるのか、実は良い人と悪人の両方を持っているのではないか、といった様々な想定ができるのです。

仮想現実にある自分が自分そのままであってもそれはもちろん構わないのですが、普段できない自分の本性を出してみたいと思う人は多いと思うのです。例えば会社で上司やクライアントからいろいろ言われてストレスをためた自分に対してアバターには本当の自分を描くとか、あるいはストレス発散をアバターに代行させることも可能になるのかもしれません。

人が本性を見せた時、それが仮想現実の中でどういう社会とアバター同士の交流ができるのか、全く想像ができないのであります。

日経はマーク ザッカーバーグ氏との単独インタビューを行い、トップ記事にあげています。その中で「かつてはまず製品をつくって提供し、問題があればその時点でやめる。そういうやり方をしてきた。いまは先手を打たなければだめだ」と述べています。この言葉の意味は現実社会の道徳観から乖離した製品を造る会社の新たな試練という意味に聞こえます。

この発言の背景はもちろん話題の仮想通貨、リブラの話であります。リブラが実現するかどうか、今後の議論を待たねばならないのですが、私は数年のうちで何らかの形で市場に出てくると思います。その可能性としてこの「ホライズン」の中でのお金のやり取りを仮想通貨で行うのではないか、と勘繰っています。

仮想世界ですから世の中の法律も社会制度も何もありません。その無から生まれた新たな社会には中央銀行はありませんからリブラを基本通貨とすることは可能になります。ある意味、ザッカーバーグ氏の作り上げようとしている世界は恐ろしくSFチックでありならがらも第二の地球が生まれるともいえるのです。想像を勝手に膨らましている私自身、本当にこれが現実に起きるのだろうか、と勘繰っていますが、どうやら技術はそこにあるように感じます。

私はザッカーバーグ氏に聞いてみたいのはこのホライズンがもたらすであろう参加型仮想現実の社会は自分のインタビュー発言にある「まず先手を打たなければだめだ」という先手を打ったのだろうか、であります。ザッカーバーグ氏が描くメルヘンチックな社会だけであればそれは結構ですが、とてもダークな世界がそこに生まれた時、氏は再び、アメリカの公聴会で頭を下げることになりやしないか、と私は覗いてもいない仮想現実の社会に一種の恐怖すら感じるのであります。

では今日はこのぐらいで。

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