外から見る日本、見られる日本人

バンクーバーの日本人社長ヒロが仕事、生活を通じて感じた経済、経営、社会、日本人観などを綴っています。

社会一般

ガンより恐ろしい認知症、対策はあるのか?4

認知症は自分には関係ない、と思っている方はまだまだ多いと思います。ところが案外、自分の親、家族、親せき、はたまた近所の方や世話になった方が認知症という方は案外多いものです。そしてこれほど厄介なものもないのであります。理由の一つは理学的治療法が確立されていないからであります。

それこそ、ガンに対する研究は日進月歩の感があり、かつて言われた「ガンは克服できる時代が来る」というのは確かに近くなっている気がします。特に量子コンピューターが普及すると各種実験に対するプロセスが大きく変わるため、治験(臨床実験)が劇的に早くなる可能性も指摘されています。

では認知症。日本の高齢者の15%程度、500万人が認知症とみられ、この比率は今後5-6年で20%ぐらいまで上がるという指摘もあります。世界規模では2015年で5000万人とされており、年間1000万人単位で増えるという報告もあるとのことですから今では1億人規模に手が届くということでしょうか?

認知症は案外、そばにいる人が一番気がつかないのかもしれません。理由は単なる老化の物忘れと混同し、自分の親がまさか認知とは思いたくないからでしょう。私の知り合いの母親が最近、高額の商品を次々と購入し、挙句の果てにクレジットカードを止められたというのです。銀行預金も大幅に目減りしているのに何に使ったかわからないらしく、その知り合いが「高齢者の親を持つと大変だよ」というので「それは認知症の公算大だよ、早く病院で検査してもらった方がいい」と背中を押したことがあります。その知り合いは認知症という発想を持っていませんでした。

私は医者ではないので認知症の仕組みは専門家に任せますが、問題は治療法がほとんどないことであります。メルク、イーライ リリー、アストラゼネカ、ロシュ、ノバルティスといった世界最大手製薬会社が大型投資をして治験をしてきましたがほぼ全滅状態にあります。製薬会社にとってこれほど薬を求められている症状(認知は病気ではなく症状です。)はなく、仮に薬ができればドル箱になるのですが、苦戦しています。

現在、唯一といってよいのがエーザイとバイオジェンの共同開発している早期アルツハイマー型認知症向け治療薬の治験で、最近その効果が再発見され、来年アメリカで承認申請をすることになっています。これももともと効果が見られなかったものがなぜか、やっぱりある認められたという不思議な話で果たして承認されるか専門家の間では疑心暗鬼の声も出ています。

では認知症に対して全く対策はないのでしょうか?私が感じるのは日本では様々な実験や効果がありそうなことを行っており、認知症予防大国に感じるのです。東北大学の川島隆太教授が著名で「脳を鍛えるドリルシリーズ」は案外、高齢者のご自宅には一冊ぐらいあったりします。仙台放送では川島教授と組んで脳トレの番組を放送したりしています。多くの老人介護施設では認知症予防のプログラムが紹介されています。毎年参加させて頂いている東京の国際福祉機器展でも認知症対策の機器、予防プログラムが数多く紹介されています。

ただ、学会というレベルではまだまだ国内規模であり、海外での研究は大幅に遅れている感じがします。ここ、カナダでも認知症に対する研究は進んでいないため、「認知症予防」などと銘打って何かやろうとすれば訴訟されかねない勢いなのであります。(学術的に効果が認められていないものにあたかも効果があるような表現をすることがダメなのです。)

ではカナダの認知症の方はどうなっているのか、といえばほぼ対策なしです。認知症の方を預ける施設も少ないし、あっても高額の費用を取られます。ご自宅でご家族が面倒みているケースでも家族がへとへとになっています。ひどい場合はご夫婦共に認知症ということもあり、悲惨さを増しているのです。私のかつてのクライアントも認知症なのに旦那は既に亡くなっていて娘も遠隔地で面倒すら見ません。いったいどうやって生活しているのかと心配でお住いのコンシェルジュに「何かあったら知らせて」とお願いしています。

認知症の対策はあるのか、といえば社会がそれを受け入れる体制が十分に整っていないように感じます。しかも世界規模の問題です。家や施設などを徘徊に対する予防法は電子ディバイスや顔認証システムの導入で対策が生まれてきています。が、人によっては凶暴性があったり、食事を延々に食べ続けるなど個別症状があります。

まずは社会が認知症の方への認識と対応を理解し、テクノロジーでカバーできる対策を取ったうえで認知症の人も安心安全な暮らしができる仕組みづくりが急がれます。

では今日はこのぐらいで。

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また明日お会いしましょう。

今週のつぶやき4

桜を見る会の攻防がやけに注目され、一部メディアには「安倍総理辞任不可避」なんていう字も躍っていました。たかが5000万円されど5000万円なんです。意識とわきの甘さが問題なのでしょう。こういう点が「能力は買うけれどそばには寄りたくない安倍首相」といわれる人格が出てきます。「名簿は破棄した」というけれど、情報開示の時代に何を言っているのかさっぱりわかりません。菅官房長官もこのところピンボケがひどい気がします。現内閣、賞味期限でしょうか。私の期待感は相当下がっています。

では今週のつぶやきです。

7-9月決算を終えて
企業の7-9月決算がおおむね出そろいました。アメリカは予想を上回るところも多く、株価指数も史上最高値を更新し続けています。改革のスピードと攻めがすさまじいと感じます。一方の日本企業、全産業ベースの純利益で前年同期比マイナス14%が今の実力です。企業の下期見通しも大幅下方修正が後を絶ちません。

日経ビジネスに「変調 サムスンの不安」という特集があるのですが、個人的にはこれを読んでこの会社は全然大丈夫だと感じました。日経ビジネスの編集者に「サムスンよ、おまえもか」という論調に持っていきたい意図が丸見えなんですが、あの会社は李体制からもう少し独立したら更に巨大化するとみています。ジャックマーのいないアリババに成長の加速度がかかってきているのと同じです。

日本企業が陥っている罠とは規模とスピードとチャレンジです。とにかく遅い、そして凝り固まった考えから脱却できない弱さがあります。前例主義もダメ。改革と挑戦、これを力強く進めないとニッポン沈没です。

アメリカが見る朝鮮半島
GSOMIAが来週23日に破棄されるのを前にアメリカが必死に韓国高官を口説いています。数日前のこのブログで個人的には破棄されると思うが、土壇場で破棄延期をする確率も2-3割あるかもしれないと書かせていただきました。日本以上にアメリカがシャカリキになるのはなぜなのでしょうか?

歴史的にみて日本がなぜ、何度となく朝鮮半島に進出したりそれを企てたりしたか、といえば中国やロシアの南下政策を抑えるためであり、日本が朝鮮半島そのものの支配を目的としたことはないと私は理解しています。今回のアメリカはまさにここにあるのではないか、と考えています。つまり、アメリカが朝鮮半島を意識するのは中国との橋頭保を作りたいのだろうとみています。

今、米中で行われているのはかつての米ソ冷戦時代と同じであり、完全なる覇権争いであります。一部の中国企業は膨張し、中国政府の世界への影響力も確実に強化されてきています。戦力や情報収集能力も格段に上がり、人口もアメリカを圧倒しています。そして世界中に中国人がコミュニティを作っています。アメリカは中国にコミュニティを持っていません。米中は形を変えた戦争をしているのであり、朝鮮半島が中国の傘下に収まるのを必死に防御しているのがアメリカである、とするほうが理解はすっきりしそうです。

面白く変わる街、池袋
もともと豊島区役所があった敷地の再開発がほぼ終わり、11月1日にはHarezaの劇場館がオープンしました。ここに8つの劇場が入居します。もともとサンシャインあたりがサブカルのメッカとして日本のみならず、海外でも知られるほどになっている中で様々な文化を表現するステージが出来上がったことは注目に値します。

実は駅の反対側、西口の東京芸術劇場も池袋の顔であったのですが、正直、隣接する飲食店街の影響もあるのか、石田衣良のウェストゲートパークのイメージそのもので結構ヤンキーとおっさんのたまり場みたいになっていました。それを現在改修中で出来上がると都心では少ない屋外劇場が完成します。文化色を強く出す豊島区池袋の利点は東京、品川のようなオフィス主導イメージが薄いこと、渋谷、新宿に比べて開発余地スペースが大きいことがあります。

都心の中で池袋の土地としてのポテンシャルは非常に高いとみています。理由は価値が落ちている駅両側の壁のようにそびえるデパートの再開発の余地、及び線路上の空間であります。この空間が異様に広く、新宿で線路上にバスターミナルを作ったのと同じような仕組みを取り入れればこの街はすっかり変わるでしょう。私が改革とスピードに於いて消滅可能都市のレッテルを張られてからの大逆転を果たしつつある豊島区の高野区長は相当のやり手として評価しています。それこそ小池百合子氏の対抗馬にもなりうる能力を持っていると思います。

後記
一連の行事でも一番重要とされる大嘗祭はつつがなく終了しました。こうしてみると日本の文化と歴史の深さを感じ、日本人に生まれてよかったと思います。台湾人が最も好きな国は日本が59%で2位の中国8%、3位のアメリカ4%を大きく引き離しています。日本を理解してくれるところとは大いに投資と交流を深めたらよいでしょう。日本の天皇制の歴史や文化もきっと前向きに評価してくれるでしょう。「聞く耳を持つ人、聞かない耳を持つ人」というアプローチもあると思います。

では今日はこのぐらいで。

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また明日お会いしましょう。

このままでは厳しい国家の財布4

日経が「2000年代以降、日米欧の企業部門はもうけたお金を使い切らない構図が定着した。高齢化でも家計はお金をため込み続けている。余ったお金を猛烈な勢いで借りているのが政府だ」と報じています。

企業がため込むのはわかるのですが、家計(=個人)もため込み続けているというのには違和感があるでしょう。日経がその論拠にしているのは高齢者の家計の貯蓄額総額なのですが、確かにグラフでは日本の場合、漸増してます。そりゃそうです。高齢者の数が増えているからで一人当たりという家計単位でみると増えているわけではありません。

総務省統計局の資料を見ると60代の二人以上の家計の平均貯蓄高は2013年が2385万円、2018年には2327万円と減っています。70代は13年が2385万円で18年は2249万円とこちらも減っています。

更に18年の高齢者家計の平均貯蓄額は2284万円ですが、中央値は1515万円まで下がります。貯蓄額分布でみるとなんと100万円以下が8.3%で1000万円以下が38%もいます。日経の「家計はお金を貯めこみ続けている」と主張する点に違和感があるのはこのことです。ため込んでいるのは高齢者の富裕層というかなり限定されたセグメントという点を強調しないと間違った認識をしそうです。

さて、かつては企業は常に投資先が多く、借金をしながら事業を大きくしていくのが一般的な事業形態でした。ところが90年代以降、企業は極度の銀行不信に陥ります。「晴れの日に傘を貸し、雨の日に傘を取り上げる」赤裸々な銀行ビジネスの実態がドラマなどで社会一般に広く認知されたこともあります。よって「身の丈経営」という手持ち資金の中で事業を廻すという発想が経営的に安全運転として認識されるのです。その結果、企業がグローバル化の世の中で大きくなれないという現代の問題に直面します。

では家計はどうでしょうか?これはずばり、増やす手段がなくなったのが主因です。かつては国債などでも10%のリターンがあった時代もありました。今、100万円の貯金でも1年で10円(普通預金)です。株式は一時期39000円台まで行った日経平均がようやく91年の高値を取り戻しそうな24000円台に向かうところです。不動産は都市部を中心に持ち直していますが、多くは商業地。ほとんどの住宅地は横ばいか下落。そしてそもそも持っていても1軒しかない不動産を値上がりしたから売る理由にもなりません。

家計の貯蓄額は今後、20-30年間は大きく下がるはずです。それは低金利しか知らない層が社会の主流から高齢者層になり、貯蓄が貯蓄を生まない時代を生きている人たちの本格時代を迎えるからです。それどころか、貯蓄があればいい方で全く貯金がない家計は今後さらに増えていくことになるでしょう。

そうなると政府支出は支えられるのか、国債は発行できるのか、という議論は当然出てくるはずです。今後の数十年を予見するならば人口減に伴い国庫収入は減る一方、出費については社会保障費のみならず、災害対策や国土強靭化、古くなったインフラの再整備などの国家再生費用の増大に対応できなくなります。

先日ある地方自治体で川にかかる橋を3割減らす運営をしていると報道されていました。金がなく、老朽化した橋を維持できないから橋そのものを取ってしまおうというものです。当然、地元住民は猛反発していますが、背に腹は代えられないというわけでしょう。

企業の身の丈経営はそこそこ稼ぐ優等生ですが、税を通じた社会貢献度は今の日本の社会基盤を考えると十分ではないでしょう。家計部門も少子化、貯蓄の減少を通じて国債発行の実質的担保に懸念が生まれ、国家予算支援という点では期待は低くなります。こんな縮む国家で年度会計が100兆円の国家予算をどうやって工面するのか、手品師ではない限りできないできないと考えるのがナチュラルです。

もちろん、来年、再来年という話をすれば小手先の細工はできます。しかし、真綿で首を絞められている日本の数十年後に我々がどれだけの変革を余儀なくさせられるか、私にはまだ想像がつきません。悲観主義といわれるかもしれませんが、なかなか厳しい気がします。どんな対策があるのか十分な検討が必要ですが、桜を見る費用に大枚をはたく時代ではないでしょう。徹底的な支出管理が求められそうです。

では今日はこのぐらいで。

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アメリカ大統領選、民主党が不利とみるその理由4

アメリカでは食事の席では政治の話をするな、と教えられます。若い頃、何度もアメリカに行きながらなぜ、ダメなのか、ルールとして知っていても理屈が分からなかったのですが、それは日本の政治を基準に考えていたからでしょう。

アメリカのように二大政党が拮抗した関係になるとたとえ友人やビジネス関係者同士が心地よい懇談をしていても政治を通じた主義主張の話になるとあたかも積年の反目となるほど醜いものになり、収拾がつかなくなるというわけです。

その中で保守的な共和党は、united statesを目指しています。つまり州ごとにつながることに価値の重きを置き、One Countryを目指します。一方、民主党は移民国家という背景での出自、格差と主義主張が入り乱れ、結果として個人主義となった人々のボイスを受け入れることに主眼を置きます。これはun-united な国家を財政支援などを通じてwrapする(包み込む)わけで私に言わせればwrapping states であり、違う国家意識になってしまいます。

エリザベス ウォーレン女史の主義主張はもともと過激であったのですが、最近その過激さに磨きがかかってきたように感じます。なぜか?それは彼女が民主党候補のトップクラスの支持率を誇る中で自分を際立たせようとするあまり、より刺激的で強烈なボイスを上げることで一部の熱狂的ファンを狂喜乱舞させているからでしょう。ところが彼女はより中道的な支持者がそこからこぼれ落ちてきていることに気がついていないようです。その証拠として一時期落ち込んだバイデン氏の人気が再び上がってきています。

ウォーレン氏が人気のトップに立っていた時、民主党幹部の一部から懸念の声が出ていました。「彼女では勝てない。誰かもっと強力な人を押し出すべきだ」と。そして名が挙がったのがクリントン女史とマイケル ブルームバーグ氏であります。

元ニューヨーク市長のブルームバーグ氏は出馬しないと今年の春に断言していますし、クリントン氏もトランプ氏との再度の対決に向けた準備は十分ではないと思います。(ただし、直近ではブルームバーグ氏に気持ちの変化があるような報道もあります。)そんなビックネームを持ってこないとこの勝負は勝ち抜けないと冷静な民主党幹部は考えているのです。

日経に「分断のアメリカ」とあります。一部の州で独立運動が展開されているというのです。これは州内でも都市部や農村部など地域により価値観の相違や格差があり、その考え方の相違を州内の住民同士が甘受できないというわけです。概ね、そのような分断社会は民主党基盤の場合が多いのですが、分断が共和党を利することは言うまでもありません。

私が懸念するのはun-united な国家が生まれたとき、不幸になるのは誰なのか、という点であります。この問題はアメリカに限らず、欧米各国で広がります。例えば先日総選挙があったカナダ。勝利したのは中道左派の自由党ですが、州ごとの議席数を見ると中部カナダから西端のBC州までは保守党が圧倒しています。特にアルバータを含むカナダ中部のすべての州では自由党は1議席も取れなかったのです。一方、大都市圏であるオンタリオ州では圧倒的議席数を確保、東部カナダも自由党が抑えたことで選挙には勝利しています。この色具合はカナダが地域的に完全に分断しているといえ、数日前の当地の新聞には「独立運動の機運も」と報じられているのです。ドイツで持ち上がる分断話もそうですが、こんなことが欧米で当たり前のように起きつつあるのです。

ここBC州。来年1月から健康保険料がなくなります。でも医療は無料で受けられます。これはBC州が中道左派政権であり、広く薄く課金するものは撤廃しているからです。例えば有料道路の通行料も政権交代後に直ちに無料になりました。でも求められている新しい橋やインフラは一つもできていません。慢性的渋滞や北米で最も高いガソリン代を払わざるを得ない市民はどちらが得だと考えているのでしょうか?

民主系政党はばら撒き党ともいわれます。なぜ、私の健康保険料、それもたかが月々7000円程度を免除しなくてはいけないのかわからないのです。私には払う能力があります。いや、払うべきです。でも政府はいらないというのです。おかしいでしょう?

民主的概念は美しいのですが、実務に当てはめるとどうもおかしなことがたくさんあります。そしてそれに対して妙にイデオロギー的な抵抗心を見せるのです。保守党はそこまで頑なではありません。私は強面な民主党の仮面がこの1年で剥がされれば剥がされるほど民主党の勝ち目はないとみています。

では今日はこのぐらいで。

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現代版世代間のギャップを読み解く4

少し前のブログで20-40代の人とそれ以上の年齢の人に善悪は別としてギャップがあると書かせて頂きました。思えば「最近の若者は…」というオヤジの嘆きはいつの時代にもあるものです。では私の見る今回のギャップはどんなものなのでしょうか?

私が考える世代間ギャップには3種類あると思います。1つは単純に年齢を重ねた経験値からくるギャップ、2つ目は社会が大きく変化した際のギャップです。例えば明治維新とか、終戦といった事象はその時代に生きる人にとって強制的に方向転換を迫るものでした。3つ目はある事象に対して人々の考えが分裂し、世代の間でミスマッチを起こすケースです。アメリカがベトナム戦争をしていた時、反戦運動を通じて当時の若者に大きな影響を与えました。あるいは貧富の格差問題に今、スポットライトが当たります。

では今の日本はどうなのでしょうか?私はタイミングとしてはバブル崩壊が人々の行動規範を変え始めた一つのきっかけになったと考えています。あれを境に日本はイケイケどんどんから企業は構造的変革を求められました。リストラの嵐、非正規雇用、またガバナンスという発想も普通に取り入れられます。また、ゆとり教育世代が社会の主流を占めるようになっています。今時「24時間働けますか?」というコマーシャルを流せば大バッシングでしょう。しかし、80年代はそれが当たり前だったのです。

次にデジタル世代という言葉も生まれました。表層的な情報で深堀することがないのです。短文のテキストで意思の確認が前提で議論はあまりしません。新聞とはニュースを知るためだけではなく、社説、コラムを通じて深堀をするものでした。雑誌も同様、そして書籍はより専門的で体系的な知識を取得する手段でした。今、1カ月に一冊も本を読まない人が統計上約半分とされています。個人的にはこの統計は疑っています。個人的感覚としては本を読む人はせいぜい1-2割だと思います。読むという定義も重要です。買ったことで読んだと思っている人もいるでしょう。いわゆる積読です。目次や「はじめに」を読んだだけ、パラパラとつまみ読みした人もいるでしょう。でもそんなのは読んだうちに入らないのです。きちんと完読したかどうかです。

日経に分断のアメリカと題し「左を向くミレニアル」と副題がついた記事があります。ブーマー族からミレニアム世代に有権者の主流がバトンタッチされた、そしてその流れは左、つまりリベラルに向かうという内容です。

保守は都市部では流行らない、これが欧米の主流です。日本はどうか、といえば自民という基盤が安定していますが、これは欧米のように拮抗する選挙という状況にならず、選択肢がないとも言えます。それ故に選挙をやっても投票率は30-40%ぐらいにしかならないのは「どうせ自民」と思っている層が非常に増えているからであります。

つまり自民が主流の日本だから保守基盤が強いと単純な判断は下せず、案外、声なきリベラル層が拡大している、そしてその主流は20-40代だと私は考えています。例えばシェアハウスに住むこと、LGBTでカミングアウトすること、ハローウィンで仮装して楽しむこと、イベントなどコト消費に向かう人々などはリベラル的バランス社会で着々とその行動基盤は広がっているのではないでしょうか?

50代から上の保守派にとっては「なっておらん!」と声を上げるかもしれません。そうです。私も不安です。しかし残念ながら表層の知識と敷かれたレールの上を労せずに走る受動的ライフに価値観を感じる人は確実に増えています。私たちの世代はいつもトラブルで各駅停車で苦労しながら前に進んできたという点からそんなにスイスイいけないだろう、と考えます。これが私の思うギャップです。

これはオヤジが「今の若者は…」というあの嘆きとは次元が違うと感じています。かつて4年連続で1位だった世界競争力ランキングは今や30位。留学生は減り、ワーキングホリデイで外国行く若者も激減しています。価値観があまりにも激変しているのです。かつては当たり前の意味だったJapan As No1なんて今の人は知らないけれどスポーツでもビジネスでも世界で頑張れば「ニッポンもやるじゃん」なのです。

もちろん、この新しい感性の世代が世界を引っ張れないとは断言はしませんが、こうやって海外の空気を吸いながら日本を見ていると世代間の断絶を感じないわけにはいかないのです。これをオヤジの嘆きで流してよいものなのか、大いに考えるところがあります。

では今日はこのぐらいで。

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また明日お会いしましょう。

今週のつぶやき4

東京モーターショーに前回比7割増の130万人も集まった、と報じられています。クルマ離れのこの時代になぜ、と思う方も多いと思いますが、私の分析ではこれは「トヨタモーターショー」としてコト消費の層が押し寄せたと考えています。よく頑張ったともいえますが、クルマそのものに目線が行ったかは売れ行きのみぞ知る、であります。自動車各社の決算はトヨタ以外は厳しい結果のようです。豊田社長のパフォーマンスに女神が微笑んだかも、ですか?

では今週のつぶやきです。

新世代経営者の苦悩
7-9月決算もいよいよピークを過ぎようとしていますが、日本で一般に知られている新世代の創業経営者が率いる企業が大苦戦しました。ソフトバンクGの赤字はここでも取り上げましたが、それ以外に楽天、メルカリ、ミクシィ…とゾッとするほどの赤字、ないし大幅な減益を記録してしまいました。

それぞれ理由は違います。あえて似ているといえばソフトバンクと楽天は投資先の評価損であり、バブルが弾けたといってよいでしょう。ただ、楽天は限られた人だけを対象に実験的に始めた携帯事業も非常に苦戦しており、今後、三木谷氏の描く「RAKUEN」が生み出せるのか、正念場でしょう。

メルカリは競合も増え、創世期のブームが一段落しつつある中、注力するアメリカでの事業がさっぱり花咲かず、という苦悩が見て取れます。ミクシィはモンスト頼みで一本足経営になっていたということかと思います。共通しているのは創業時の事業から次のステップアップが思ったようにうまくいかない点でしょうか?彼らは焦り、急ぎすぎるきらいがあるし、資金力の武器に偏重しすぎる気がします。足元が浮足立っていないでしょうか?

声を上げる若者たちの背景
過激化する香港のデモあるいはグレタ トゥーンベリさんの「金曜日は学校に行かないで気候変動ストライキ」に賛同する世界数百万人の学生や生徒たちを見ていてなぜ、若者は立ち上がったのだろう、と考えています。背景の一つは政治が自分たちの声を反映していない、という社会への不満だろうと考えています。

私が比較参照したいのは日本の安保、アメリカのベトナム反戦デモ、それに89年天安門事件です。これらも若者が主導した点では似ています。そして政府への声を皆が集まってカラダを張って戦いました。もう一点はある推論に対して強力な賛同を得る点でしょうか?「我々の自由は奪われる」「このままでは地球環境はダメになる」「アメリカと手を組むなんて」「こんな泥沼戦争で死にたくない」「僕らに自由と民主主義を」でしょうか?これを一種の「カウンターカルチャー」と考えれば物質主義からの離脱と精神的満足度の追求へのシフトととらえられなくもありません。

養老孟司氏の「バカの壁」には地球温暖化の原因が炭酸ガスだとするのは推論の一つにすぎないのにそれを多数の科学者がそうだという声を理由に多数決で断定するプロセスに大きな疑問を呈しています。もしかすると根拠が希薄な推論でもルールを逸脱し、社会と対峙するとなればこれにどう立ち向かうのか、大人の対応にはいつの時代も困難が付きまといます。

「82年生まれ キム ジヨン」
私の目の前に「82年生まれ キムジヨン」の本があります。もちろん読んでいます。なぜこのフェミニズム的な本を読んだかといえば私には「相手を知るには相手の中に入れ」という考えがあるからです。この本は2016年に韓国で発売され、韓国だけで100万部を売った超話題本であります。(韓国は日本の人口のざっくり半分、そして読者層はほぼ女性と考えればいかに売れたか想像できるかと思います。)そしてその映画版が公開になり、韓国の全映画館の四分の一で上映されるという大ブームを巻き起こしています。

書籍は家父長制度の名残を強く押し出した韓国独特の家族関係や男尊女卑を通じて女性の立場からそれらがどれだけひどいものか延々と訴えるという内容です。個人的感想としては主人公が自己主張を通じた悲劇のヒロイン化しすぎており、男性側からすれば大いなる反論はあるでしょう。私も読んでいて最後には苦しくなりました。

ただ、韓国の儒教的発想からくる男性優位社会、そして父が絶対権力者であるという風習は時代が変わりつつある現在でも程度の差こそあれ、まだまだ強く残っています。知人たちから「父親の言うことには絶対服従」「私の父は金正恩と同じ」と直に聞き出しています。振り上げたこぶしは下せない男社会が生み出す歪みは日韓問題を考える重要な基礎になります。なぜ、この本や映画が話題になるのか、韓国社会を知るには良い題材だと思います。

後記
同じコンドミニアムに住むイタリア人とフィットネスをしながら「この街でうまいイタ飯はどこかい?」と聞けば「ピザやパスタはともかく、リストランテ(ちゃんとしたイタリア料理店)はないなぁ。それより寿司がうまいよ、特にあの炙り寿司!」。このようなコメントはローカルのあちらこちらから聞こえてきます。彼の言う寿司屋、「Miku」の若い社長はよく知っていますし、巨大なその店舗にも時折かろうじて潜り込んでいます。(いつも超満員という意味です。)寿司に芸術と非日常感、典型的日本食レストランとは趣を変えた店舗デザインのこの店の存在は私にとっても日本の誇りです。こういう誰もまねできない格好いいビジネスをもっと多くの日本の方にやってもらいたいですね。

では今日はこのぐらいで。

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表現の自由って何だろう?4

国際芸術祭「あいちトリエンナーレ2019」で表現の自由が大きく議論されました。この行方はいまだに明白ではありません。が、はっきりしていることは「表現の自由」はどこまで自由なのか、結論が出ない議論が続く可能性であります。

日本国憲法第21条第1項では「集会、結社及び言論、出版その他一切の表現の自由は、これを保障する」第2項は「検閲は、これをしてはならない。通信の秘密は、これを侵してはならない」であります。ここだけを見るとなんでもアリという風に読めます。ところが憲法第13条に「すべて国民は、個人として尊重される。生命、自由及び幸福追求に対する国民の権利については、公共の福祉に反しない限り、立法その他の国政の上で、最大の尊重を必要とする」とあります。この「公共の福祉」がキーワードです。

このあたりの解釈とどこまでが許され、どれはダメなのか、については憲法学者同士でも諸説あり、意見が分かれるところです。つまり、憲法が公布されてからこれまで、学者と政治が憲法の規定する事柄に対して一定の落としどころを見いだし、国民に分かりやすさを示せなかったということになります。

これでは国民は混乱する一方であり、それ故に法律を制定するか、憲法を改正するかして誰でも理解できるものに変えていかねばならないはずです。ところが憲法改正論議=第九条改正というイメージが強すぎるのか、もっと真剣に考えなくてはいけない憲法改正問題が放置されているのであります。

映画「主戦場」が揉めにもめています。この映画は上智大学在学中だったミキ デザキという日系二世の学生(当時)が卒業制作と称して慰安婦問題の右派左派含めた有識者をずらっと登場させたドキュメンタリーです。その際、有識者へのインタビューは「卒業制作ゆえ、商業化ではない」という前提であったとされます。ところが商業公開された上に「出演者」が見たその映画は右派にとっては「だまされた!」という内容だったというものです。デザキ氏や上智大学への訴訟が起きているし、映画館での上映も一時取りやめになっていました。

1966年に国連で採択された「市民的及び政治的権利に関する国際規約」(自由権規約)という多数国間条約があります。日本ももちろん入っています。その中の第19条は第一項で意見の自由を、第二項で表現の自由を規定してますが、第三項で「(これには)特別の義務及び責任を伴う。従ってこの権利の行使については、一定の制限を課すことができる。ただし、その制限は、法律によって定められ、かつ、次の目的のために必要とされるものに限る。(a)他の者の権利又は信用の尊重 (b)国の安全、公の秩序又は公衆の健康若しくは道徳の保護」(ウィキ)とあります。

「トリエンナーレ」にしろ「主戦場」にしろそれを見る人にとって賛否の議論どころか、不快感を与えるものであるならばそれは公共の秩序に反する可能性はあるでしょう。ましてやそれに公的な補助金が出るとすれば税金であり、民の便益にならないとみられるのではないでしょうか?ましてや「主戦場」については出演者をだましたようなものであり、表現の自由以前の問題であります。(それこそ、個人の写真や画像を流出させたような類の話でしょう。)

レベルはガクッと下がりますが、秋葉原の繁華街に建物の3フロア分の大きさの巨大なアダルトゲームの広告が張り出されていると報じられています。しかも見るのも恥ずかしい描写です。これを表現の自由だから何やってもよい、というものでしょうか?ここがパシッと取り締まれないのが日本の弱みなのだろうと思います。

バンクーバーでは「公共芸術」が街の至る所にあります。一応審査を受けて展示されるわけですが、あまりにもひどい内容は撤去されます。仮に審査を通ってもパブリックが不快に思うのであればそれは公共の良俗に反するというわけです。

表現は自由であり、それについて様々な意見が出るのは当たり前です。それが議論の中で納まる程度であればそれは自由なのだと思いますが、その表現をすることによる社会全体へのマイナス効果が高いとみられる場合は当然規制されるものと考えています。例えばヘイトクライムや表現を通じてある一定方向への誘導を試みる思想的戦略はコントロールされるべきと思います。

カナダに住んでいて思うのは全く自由ではないということです。屋根の色だって建物の色だって自由ではありません。私の顧客の船のカバーの色が気に入らなくて近隣から大苦情が来たこともあります。日本は表現の自由という言葉の一人歩きがはなはだしいと感じています。

何でも自由ではないのだ、節度はどこにあるのか、このあたりを考えるには良い機会ではないでしょうか?

では今日はこのぐらいで。

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