正月早々、都内の商店街で高校生が刃物を持って通行人に切りつけたという事件がありましたね。これを含め、子供の誘拐から始まって子供の親殺しなどの大きく報道される問題から学校内や家庭内の小さな問題まで日本の子女は病んでいる気がします。
僕は小さい頃は一種のかぎっ子でしたから学校が終わると大好きな電車を見にJRの線路の高架に行ったり立ち入り禁止の敷地で友達と遊んだり、果ては昔の防空壕に入ったりとかなりやんちゃでした。だけど、一線は越えない。夜になれば両親の経営する店に行き家族そろって家に帰ったりしていた。
でも、悪い奴はいたよね。モノ壊したり、人のもの、盗んだり...中学、高校に行くとそういう奴のスケールが少しずつ大きくなったりしたけど、せいぜい、「突っ張り」程度で今、社会が抱える問題とは本質的に違う。突っ張りは単なる反抗期の事象。でも、包丁もって走るのは精神的に完全に壊れている。(実際、この高校生は精神科に通っていたらしい。)
僕は発育のバランスに問題があるのではないかと思う。情操教育とか、親の資質とか、あらゆる面を見て子供が育つから親が世の中の流れの中で本来あるべき流れからずれてしまっているのかもしれない。そのアイテムとして、
豊富なモノ
携帯
ゲーム
ある程度の豊かさ(含む金銭)
かなと思う。ほしいものがあり(物欲)、やりたいものがあり(ゲーム)、連絡取りたい奴にいつでもメールできて(携帯)、食べたいものが与えられ続けているとちょっとした制約に我慢できなくなってきます。忍耐力がないというか。
僕が大学のとき、合宿で1枚のパンツを8日間はいた奴がいた。裏表、前後を二日ずつはくというのだ。このたとえが説得力あるかどうか知らないけど、これも一種の我慢。
もうひとつは考え方が短絡的になった。すぐに結論を求める。そうではない、過程を考えなくてはいけないのだが。この考え方が短絡的になりやすくなるのは携帯メールとゲームに他ならない。一行メールをやり続けると思考回路の入り口までしか行くことがなくなるので知能に衰えが生じることはすでに学術的に証明されている。テレビゲームもそうだ。「この場面ではこうする。」という短絡な判断だよね。
世の中が便利になりすぎたということかな。僕はこうやってバンクーバーに住んでいてあまりにも発達した東京の文明社会からは距離感があるのでまだ、考える余力がある。いい空気吸って、人と議論して、熱くなって、そして冷静になる。こういう空間と時間がある。
東京の人はだんだん、人間じゃなくなってきたよ。顔が機械のようだ。新製品を求め、うまいものを求め、新しい娯楽を探し出すことがすべてになってきている。僕はバンクーバーにいて、うまいものもそんなにないけど、自分で作る喜びを発見したし、新製品はないけど、いい音楽を堪能することができる。新しい娯楽施設はないけど、きれいな湖の周りを散歩するにもさほど遠くない距離だ。僕は人間らしい生活が継続できてよかったと思う。
5年後の日本がすごく、怖くなることを感じるのは僕だけなのかな?
僕は小さい頃は一種のかぎっ子でしたから学校が終わると大好きな電車を見にJRの線路の高架に行ったり立ち入り禁止の敷地で友達と遊んだり、果ては昔の防空壕に入ったりとかなりやんちゃでした。だけど、一線は越えない。夜になれば両親の経営する店に行き家族そろって家に帰ったりしていた。
でも、悪い奴はいたよね。モノ壊したり、人のもの、盗んだり...中学、高校に行くとそういう奴のスケールが少しずつ大きくなったりしたけど、せいぜい、「突っ張り」程度で今、社会が抱える問題とは本質的に違う。突っ張りは単なる反抗期の事象。でも、包丁もって走るのは精神的に完全に壊れている。(実際、この高校生は精神科に通っていたらしい。)
僕は発育のバランスに問題があるのではないかと思う。情操教育とか、親の資質とか、あらゆる面を見て子供が育つから親が世の中の流れの中で本来あるべき流れからずれてしまっているのかもしれない。そのアイテムとして、
豊富なモノ
携帯
ゲーム
ある程度の豊かさ(含む金銭)
かなと思う。ほしいものがあり(物欲)、やりたいものがあり(ゲーム)、連絡取りたい奴にいつでもメールできて(携帯)、食べたいものが与えられ続けているとちょっとした制約に我慢できなくなってきます。忍耐力がないというか。
僕が大学のとき、合宿で1枚のパンツを8日間はいた奴がいた。裏表、前後を二日ずつはくというのだ。このたとえが説得力あるかどうか知らないけど、これも一種の我慢。
もうひとつは考え方が短絡的になった。すぐに結論を求める。そうではない、過程を考えなくてはいけないのだが。この考え方が短絡的になりやすくなるのは携帯メールとゲームに他ならない。一行メールをやり続けると思考回路の入り口までしか行くことがなくなるので知能に衰えが生じることはすでに学術的に証明されている。テレビゲームもそうだ。「この場面ではこうする。」という短絡な判断だよね。
世の中が便利になりすぎたということかな。僕はこうやってバンクーバーに住んでいてあまりにも発達した東京の文明社会からは距離感があるのでまだ、考える余力がある。いい空気吸って、人と議論して、熱くなって、そして冷静になる。こういう空間と時間がある。
東京の人はだんだん、人間じゃなくなってきたよ。顔が機械のようだ。新製品を求め、うまいものを求め、新しい娯楽を探し出すことがすべてになってきている。僕はバンクーバーにいて、うまいものもそんなにないけど、自分で作る喜びを発見したし、新製品はないけど、いい音楽を堪能することができる。新しい娯楽施設はないけど、きれいな湖の周りを散歩するにもさほど遠くない距離だ。僕は人間らしい生活が継続できてよかったと思う。
5年後の日本がすごく、怖くなることを感じるのは僕だけなのかな?