夏になると京都ではハモを食べる、ということになっ
ている。家で食べることは少ないから、食べるシーン
といえば鴨川納涼床での宴会で、先発のビールから中
継ぎの冷酒に切り替わる頃に湯引きが出てきたり、予
算を言えば適当に出してくれる気の利いた居酒屋でハ
モ天が、というような時だ。

 目的を持って食べに行くというよりは、今日の旨い
もんは何かなとふと見た手書きのメニューに並んでい
たり、おまかせ料理で合間にスッと出てきて「あ〜今
年もハモの季節になったんやな」と思う。梅雨も空け
る頃に料理屋で出会うハモはまもなく始まる祇園祭を
予感させる。

 話は少しそれて、今年のゴールデンウイークに徳島
に行ったら予期せずハモの話になった。旅行で泊まっ
た郊外のペンションでのことだ。

 海に面したその宿は新鮮な魚介類がウリ、しかも強
烈に安いということで知人に紹介を受けた。確かに出
てくる魚がどれも活きが良く、旨い。道理で一泊しか
取れなかった訳だ。また来たいと思い食後のコーヒー
を飲みながら、

 「ごちそうさまでした。秋や冬やともっといろんな
美味しい魚が出てくるんでしょうねぇ」
と聞くと、
「夏も旨いもんたくさんありますよ、6月に入ったら
ハモもありますしね」
「え!ハモ?」
海沿いとはいえ、徳島の南部の田舎での話である。
「ええ、このあたりでもハモが取れるんですよ、ハモ
はこのあたりやと朝や昼の網でかかるしね、取れたて
のええやつが近所の漁協で安く手に入るんですわ。え
えやつは全部、夕方のうちに京都に出発して、ほんで
明日の朝、京都の中央市場のセリにね」
と教えてくれた。夏の魚が色々ある中で、徳島ではハ
モはありふれた食材なんだそうだ。
「こんなとこから京都に行くんはハモだけやね。昔か
らそうやね」。

 最近では韓国産のハモが幅を利かせている。身も太
くて味のノリも良いと評判だが、質の良いものは結局
値段が上がってしまうので、徳島や淡路の手頃さもま
た再評価されているらしい。

 でも、なんとなくだが、その徳島の宿でハモを食べ
る気はしなかった。もっと他の魚を食べたいような気
がしたのだ。

 たぶん、ハモは江さんが書いているように、目的と
して食べに行くほどの魚ではないのかもしれない。抜
群のハモを目指して出かけていっても、取れたての鯛
やらはまち、ブリなんかには及ばないかもしれない。
徳島で美味しそうな鯛があれば迷わずそっちを食べる
だろう。美味しさで選べば他にたくさん選択肢がある。

 しかし、京都で食べるハモはそういう文脈での「美
味しい」とちょっとまた違うような気がしたのだ。ハ
モは徳島ではなく京都で食べんとあかん、京都で食べ
ることで初めて美味しいというような気がした。

 料理屋で見かけたり、古い寿司屋で「鱧寿司の予約
承ります」と書かれた札を目にしたりすると、今年も
夏が来たという実感であったり、祇園祭が今年もやっ
てくるというワクワク感であったりを感じる。その気
持の動きは味に対してではない。韓国産だろうが淡路
産だろうが同じようなもの。そこで味わっていること
はハモの味そのものではなく今年も相変わらず、ある
いは今年はいつもよりも大変な気持ちでハモを食べて
いる自分の心持ちなのだ。

 生まれてから、物心ついたときから祖父や祖母がう
れしそうに食べるのを見ていたり、「わかるか?」と
言いながら梅肉を少しだけ付けて食べさせてくれたり、
大人になってからチョット無理して割烹のカウンター
で食べたこと。夏が来て、今年最初のハモを食べると
そういうことを思い出すのだと思う。

 「なぜハモを食べるのか?」の理由はただ1つ。気
づいた時から食べてきたからだ。ただそれだけの理由
だ。「ずっとそうしてきたから」は京都における御札
なのである。「ずっとそうしてきたこと」はその理由
を議論するでもなく改革を行うでもなく絶対に自分の
代では止めないという、その根気こそがどこの街にも
負けない京都の文化なのだろう。もはや信仰に近いも
のかもしれない。

 ハモもそうだし、水無月もそうだし、冬が旬の鯖を
わざわざ押し寿司にして食べることもそうだ。味のこ
とや旬のことを言い出したら旨いもんはもっと他にも
ある。三嶋亭のすき焼きの方が絶対旨いのだ。

 江さんは書いている。
「明治以前ならともかく、冷蔵設備や交通輸送手段が
発達した今、なんでハモだけをそない奉るんか、京都
人は変や」

 確かにそうだ。京都人は変だ。現在の冷蔵技術があ
れば富山やら博多からでも他の美味しい魚をいくらで
も取り寄せることが出来る。鮮度も含めて、そちらの
方が食べ物としての価値は高いはずだ。

 しかし、じゃあハモをやめて富山のアジを食べよう
か、とは絶対にならないのだ。繰り返しになるが、京
都人がハモに求めているのは味ではないからだ。いつ
からか続いている「夏のハモ」を来る年も来る年も食
べているというその鉄壁の習慣維持力こそが、京都の
おもろさであり京都の文化を理解するキーなのではな
いか。京都人は変なのだ!それは正しい。

 例えば茶道の世界で、お師匠さんに向かって「その
お茶は美味しいんですか?」とか「そのお茶はどこで
いくらで買ったもので、値打ちありますか?」とは聞
かない。

 お茶の味云々という世界から抜けだして、「お茶を
立てるとはどういうことなのか?」とか「お茶を飲む
行為自体を儀式化して楽しむ」「お茶をコミュニケー
ション手法とする」という点、それが茶道が文化となっ
ている一線だ。

 ハモが京都の文化だ、というのもそういうことに近
い、と言えば、少しわかりやすいだろうか、それとも
「京都はやっぱり、ややこしいでんな〜」だろうか。