成城の最初の語源が詩経大雅編にあることは揺るがない。詩経大雅編に「哲夫成城」(賢い男が城を作る)とある。この言葉はそれだけ抜き出すと悪い含意はない。しかし私はこの言葉より500年前後新しい語源である國語「周語下」にある「衆心成城」(多くの心が城を作る)そしてその言い換えである「衆志成城」という意味で「成城」を使うことを最近呼びかけている。(詩経はBC1046からBC771、國語はBC475からBC221の間とされている)
なおそれぞれの原典は以下で参照確認できる。中国哲学書電子化計画(中国語 英語) 詩経は経典文献から入る。また国語は史書から入る。印字をしたいときは該当箇所で使われている言葉を検索すると必要な個所が絞り込まれて表示されるのでそれを使うことができる。
哲夫成城のどこに問題があるか  「詩経」における哲夫成城は「哲夫成城 哲婦傾城」(賢い男が城を作るが賢い女は城を傾ける)の対句に由来があり、その言葉は「哲婦傾城」(賢い女は城を傾ける)を意味する。「哲夫成城」の意味は含意の「哲婦傾城」にあり哲夫成城という独立した意味はないからである。したがって、成城の語源を哲夫成城とすることは、本来適切でない。というのは哲婦傾城という女性差別の意味が付いてくるからだ。
 まず「哲夫成城」という独立した言葉があるわけではない。これは対句の前半であり哲夫成城の含意は哲婦傾城にある。哲夫成城だけを抜き出して、哲婦傾城の意味はありませんというのは苦しい弁明である(確かにそうも言えるけれどかなり苦しい)。というのは、中国語の辞書や原典解説ではそのような解説はないからである。哲夫成城は哲婦傾城の意味だと解説されている。 「哲夫成城」の含意は「哲婦傾城」にある。この言葉は、女性を軽んじていた(女性は政治をまどわせるものとする)古代中国の儒家の思考の反映であり、この言葉を現代に活かす余地は全くない。
 またここでの「哲婦」は、賢く徳のある女性(有賢徳的婦女)の意味ではなく、謀を多くする女性(多謀慮的婦人)の意味である(百度百科の「哲婦」の解説による)。実は「哲婦傾城」では周幽王が佳人褒姒にまどわされて国政が乱れ国が失われた故事を念頭においている(百度百科の「傾国傾城」の解説による)。この言葉で念頭に置かれている史実があり、具体的に非難の対象になっている女性がいる。はっきり言えば、これは国王と国王の寵愛を受けた女性のお話。そのあり方を議論したもの。
 この言葉は現代的な解釈を加える余地が少ない具体的な故事に由来する。
 つまり多くの女子学生を抱える現在の成城学園の成城の由来を説くのに、なお哲夫成城にこだわるのは適切ではない。またこの言葉(哲夫の意味 成城の城の意味など)に現代的解釈を加える上での制約はかなり多い。考えるほど、この言葉から一度離れた方が私たちは自由に発想できる。
衆志成城という言葉にはマイナスのイメージがなく様々な引用例がある  これに対して「衆心成城」は、19世紀半ばから20世紀にかけて外国の侵略軍や、清朝政府に対峙して戦った若者たちが好んで口にした言葉の一つ「衆志成城」の語源であり、この言葉「衆志成城」を掘った石碑が中国各地に残るともされる。無名のたくさんの若者たちの自己犠牲の上に複数の革命が成立して、今日の中国があることはしばしば中国社会で指摘されることだ。
 ところで日清戦争のあと、清朝政府による奨励を受けて多数の中国の若者が日本で軍事をまなぶべく日本に留学したことは有名な話である。そしてその中の何人かは陸軍の士官学校に入るべくその予備校であった成城学校(成城学園の前身)に入った。
 その中には陳独秀(中国共産党の創設者 1979-1942 1901成城学校に入学 在日中国人に高まる革命思潮に触れる 1912-1915日本に亡命)や呉玉章(1878-1966 1903日本に私費留学 成城学校に入学 中国同盟会に参加 1911帰国後 革命運動に尽力 建国後 中国人民大学初代校長)などの高名な人々の名前が見られる。清朝政府の奨励を受けて留学したもののかれらの志は清朝政府の存亡の先にある新中国の建設にあり、成城学校の成城の名称は「衆志成城」という標語と結び付いて感じられたのではないか。
 なお毛沢東が井崗山に籠ったときに書いた詩の一つ「西江月」(1928年秋)に「衆志成城」というフレーズがあることも有名な話だ。この詩の中に次の対句がある。「早乙森巌壁壘 更加衆志成城」(毛沢東詩詞より )。毛沢東がこの言葉(衆志成城)を使ったのはこの言葉がもともと先ほど述べたように19世紀半ばからの革命で戦う若者たちの間で好んで使われる言葉だったからで、それを受けたとみるべきだろう。
 2004年の憲法改正で正式に中国の国歌とされた「義勇軍行進曲」(1935)の田漢(1898-1968)による歌詞にも「衆心成城」と良く似たフレーズがある。歌詞の2段目「把我們的血肉 築成我們新的長城」そしてそのあとややあって「起来」を3回唱えたあとに「我們万衆一心」と続く。この「我們万衆一心」で「築成我們新的長城」という言い方は、「衆心成城」と同じ意味といってよいだろう。田漢は文化大革命の折に批判を受けてその渦中で亡くなり、ためにこの歌詞は一時使われなくなる。
田漢(1898-1968)は湖南省長沙の出身。長沙師範学校で学んだあと東京高等師範英文科で学んでいる。1921年に帰国後は劇作脚本の発表を続けながら、大学の講師などを勤めた。1930年に至って彼は自身が編集する文芸誌「南国」に長文の自己批判の文書を掲載。1930年9月に地下活動に移り、1932年3月に中国共産党に入党している。共産党に対する長年の貢献を考えると、文化革命でその田漢が打倒の対象にされたことは立場を超えて気の毒な印象が深い。1949年の独立後、「百家斉放」を唱えた彼を右派とみたてる批判は1950年代後半から次第に強まった(田漢が右派ではないかと疑われた背景には、田漢が1935年に逮捕拘留後、国民政府軍に属して表舞台で活動したことがどうもあるようだ。また1950年代には地方戯曲や少数民族の戯曲の活用を訴えている。1950年代一方では百花斉放が唱えられ、現下の政治方針に反対するものでなければ禁止しないとの方針が示されながら、他方では右派の機会主義者批判が高まる。その風潮のなかで田漢が地方戯曲をもとに発表した戯曲「謝瑶環」のなかで、皇帝と清廉な官僚をたたえたことが、懐古主義的で社会主義制度を批判的に描いていると指弾されるようになる。)。他方で1950年代の右派批判の背景には、経済政策の行きづまりを文化意識の階級闘争の問題にすり替えようととする毛沢東の意思が働いたされ、1965年10月に田漢は北京郊外の人民公社に送られ学習改造を迫られている。1966年になると紅衛兵による殴打の主要対象とされ、1966年12月には秘密裡に監禁。尋問を受け反党分子の烙印を押され、義勇軍行進曲の歌詞の使用停止が決定される。1967年7月心臓と糖尿病の悪化により、改名の上で入院。治療を受けたが1968年12月に病院で死亡した。田漢への批判はその後も長期化した。田漢の名誉回復は1979年初。義勇軍行進曲の田漢の歌詞が、国歌としての地位を回復するのは1982年12月の第五届全国人民大第五次会議決議による。
 文化大革命のあと、田漢の名誉回復を受けて1982年12月の全国人民大会(日本の国会にあたる)でこの歌詞に戻ることが正式に決定されている。
 参照 第5届全国人大五次会議(中国語)
 最近では2008年5月12日に発生した四川大地震のときには、地震発生直後に次の標語が中国で掲げられた。「抗震救災 衆志成城」。当時この題目でテレビ番組が作られ、この標語を織り込んだ寄付金付きの切手が中国では発行された(2008年5月20日)。
 この言葉「衆志成城」「衆心成城」が優れているのはマイナスのイメージがないということ、いろいろな場面でのさまざまな用例が知られていて、多様な解釈や用い方が可能だということである。
日本で用いるとき注意すべき点  ただし日本では集団行動よりは個人行動を尊ぶところがあり、また成城学園は自由主義的な教育を進めてきた経緯がある。そうした日本の風土や自由主義的理念に違背しないようにこの言葉を生かす必要がある。たとえば衆志成城といっても、個人の自己犠牲によって集団の目的が成し遂げられるとするのではなく、むしろ多様な個人が多様であるままで力を合わせるからこそ、大きな力が発揮できると現代的に解釈するべきだろう。教育のあり方としては、一人の哲夫をつくるのではなく、民主主義社会を構成する多様な個人をいかに育ててゆくかを考えるべきだろう。
「衆志成城」众心成城の語源は、国語周語下に由来すると「百度百科」は書いている。すなわちつぎのような故事に由来する。典拠になる書物「国語」は「詩経」より新しいがいずれも紀元前の書物である。
 東周12代の天子周景王の治世21年から23年にあって(BC524-522)、景王は民の事情を理解せず大額の銭(大銭)や、大鐘の鋳造を進めた。身辺に仕える大臣がこれ(大銭や大鐘)は民を苦しめることになると(大銭は民から小銭を奪うことになり、大鐘は民の負担を増し民の心が離れることになると)諫言したが、聞かなかった。司法長官が、民が好むことは実現し、民が嫌うことは実現しないということを「多くの心で城はできており、多くの心は金をも溶かす(众心成城 众口铄金)」=との民の諺を持って戒めても、聞かず鋳造を強行した。結果として景王は在位2年目に心臓の病で急死し、周王朝では5年に及ぶ内乱が勃発した。(百度百科の「衆志成城」众志成城の解説での『国語周語下』の要約による)
 この言葉の意味は一般に、多くの人が団結すると、大きな力になる意味とされている。民衆は一人一人は無力だが、心を合わせれば、国王の悪政を拒み、国王を倒すことさえできると、この故事は解釈できる。
 この衆志成城を、現代日本において現代的に解釈するなら、一人ひとりの多様性を前提に、さまざまな多様な人々がひとつの目的(たとえば学園の建設あるいは学園の記念事業など)のためにこころを合わせるならば、大きな力を発揮することができると解釈できるのではないか。
originally appeared in June 11, 2012 corrected and reposted in February 04, 2014 ©Hiroshi Fukumistu