大学の将棋部のOBに久しぶりに再会するために、岡山を訪問しました。

岡山駅の周辺には観光地があまりないらしい。
そこで、倉敷駅にある倉敷美観地区に行きました。

倉敷美観地区をWikipediaで調べてみると、以下の説明が。
江戸時代初期の寛永19年(1642年)、江戸幕府天領に定められた際に倉敷代官所が当地区に設けられ、以来備中国南部の物資の集散地として発展した歴史を持つ。倉敷川の畔から鶴形山南側の街道一帯に白壁なまこ壁の屋敷や蔵が並び、天領時代の町並みをよく残している。」


最初に、大橋家住宅に行きました。
大橋家の説明はおかやま旅ネットに記載されていました。
「大橋家は倉敷町屋の典型を示す代表的な建物で「国の重要文化財」となっております。
先祖は豊臣氏に仕えた武士で大坂落城の後、現倉敷市中島を経て、宝永2年(1705)にこの倉敷に移り住み、水田や塩田開発、金融業で大きな財を成していきました。
当時では許されなかった長屋の中程に設けた長屋門や、なまこ壁・倉敷窓・倉敷格子など倉敷の豪商らしい風情が残っており、座敷に上がってゆっくりと往時を偲んでいただけます。」
Wikipediaの記載では、大橋家は
水田、塩田の開発で財をなした地主で「新禄」と呼ばれる新興勢力を形成していた。」
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中国銀行倉敷支店本町出張所の建物がありました。
中国銀行倉敷支店本町出張所は、「第一合同銀行の倉敷支店として,大正11年に竣工したルネサンス風の建物です。総社市出身の薬師寺主計(筆者注:やくしじ かずえ)が設計しました。彼は大原美術館や有隣荘など,大原家関連の建物の多くに関わった建築家です。
 鉄筋コンクリート造り(一部木造)の2階建てで,屋根は寄棟,小屋組はトラス組です。外壁は御影石洗い出しで仕上げられ,腰壁は御影石貼りになっていま す。正面に6本,側面に3本の円柱をあしらい,屋根は銅板一文字葺きで,前後の屋根上には3つの屋根窓が設けられています。営業室は2階まで吹き抜けに なっており,壁と天井は洗練されたデザインの漆喰レリーフで飾られています。」(倉敷市HPより)

薬師寺主計は、「岡山県出身。1909年東京帝国大学工科建築科を卒業後、陸軍省の技師として勤務する一方で、郷里の有力者であった大原孫三郎の依頼により第一合同銀行倉敷支店(現・中国銀行倉敷本町出張所)の設計に携わった。1926年の陸軍省退職後、大原孫三郎に招かれ倉敷絹織株式会社(現・株式会社クラレ)の取締役に就任し、その経営に参画しながら大原美術館本館や倉紡中央病院(現・倉敷中央病院)、第一合同銀行本店(現・中国銀行)などの大原家の関わる施設を中心に多くの建築を手がけた。」(Wikipediaより引用)
(http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%96%AC%E5%B8%AB%E5%AF%BA%E4%B8%BB%E8%A8%88)
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近代建築Watch中国銀行倉敷支店本町出張所(旧第一合同銀行倉敷支店)の記述が詳しいと個人的には感じました。参考になりました。



本通り商店街の風景です。
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阿智神社に着きました。
阿智神社のHPより引用)
「応神朝に朝鮮半島より渡ってきた漢の霊帝の曾孫、阿知使主(あちのおみ)一族。彼等は「製鉄」「機織」「土木」等の先進文化を担う技術集団として、吉備国 の繁栄の礎を築き、当時、島(内亀島)であったこの鶴形山に神々の天降られる斎庭として、日本最古の蓬莱様式の古代庭園を造ったと伝えられている。
白壁の蔵の町、倉敷美観地区の一角にある鶴形山の頂上に鎮座する当社は、この阿知使主一族の大いなる功績を称え、明治時代に現社名になったが、社伝による と神功皇后がこの付近を航行の折、嵐に遭い祈願されたところ、三振の剣が天空より明るく輝いてこの山に天下ったため、「明剣宮」として、宗像三女神をお祀 りしたとされている。中世、神道が仏教と習合し、明治までは「妙見宮」と称され、旧倉敷総鎮守の宮として近郷近在の人々の尊崇を集めてきた。
祭神の宗像三女神は皇祖神、天照大御神と素盞鳴尊の娘神で、海の守護神であり、交通交易、財宝、芸術、美の神でもある。その他、応神天皇を始め、約三十柱の神々をお祀りしている。
また山には神々をお祀りする磐坐(いわくら)が点在し、古代から神の島として崇められてきたと思われる。 」
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ちょうど七五三でした。
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メインの通りから細い道が走っています。
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ここらへんが楠戸家住宅の写真です。
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呉服と洋品
楠戸合名會社 はしまや呉服店
「楠戸家住宅は、標高36.8mの鶴形山の南山麓に位置し、周辺一帯は阿知の潟と呼ばれる浅海であったが、高梁川の沖積作用による堆積が進み、1584年(天正12年)宇喜多秀家による潮止め工事が大々的に行われ新田が開発された。

楠戸家は、この新田開発で出来た農地での綿の栽培を受け、現在楢村徹設計室に再生している場で紺屋を営む。
綿花栽培がますます盛んになり、機織りが行われており、機織屋で反物を買い販売する呉服店を1869年(明治2年)創業する。」

(倉敷の名家 楠戸家http://www.hashimaya.com/kusudo/index.htmlより引用)

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観龍寺

「寛和元年(985年尭勢津師により現在の倉敷市西岡に慈照院(西安寺)の塔頭として開創。当時は北斗山宝積院と称していた。

室町時代鶴形山の麓、現在の駐車場の場所に移転し、寛永元年(1624年)現在の地に再移転し、同年に宝寿山観龍寺と改称された。江戸時代中期の1740年代に2度にわたり伽藍が焼失、本堂は寛延2年(1749年)に再建以降時代に整備し現在に至る。

同じ鶴形山の妙見宮(現在の阿智神社)は室町時代末期に倉敷村の鎮守として現在の観龍寺の場所に祀られ、文禄3年(1594年)に現在地に移転した。寛永元年(1624年)に観龍寺が妙見宮別当となったが、明治2年(1869年神仏分離令により妙見宮は分離され阿智神社に改称している。」

(Wikipedia http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%A6%B3%E9%BE%8D%E5%AF%BA_%28%E5%80%89%E6%95%B7%E5%B8%82%29

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蔵が立ち並ぶ細い道の風景もいいですね。
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倉敷川
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だいぶ紅葉が進んできていました。
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大原邸(旧大原家住宅)
天領だった倉敷では、旧来「古禄」と呼ばれる世襲の勢力が栄えていたが、新田塩田開発と倉敷川水運の利を生かして「新禄」という商人の新興勢力が台頭してきた。その中でもこの大原家と大橋家が筆頭格であった。大原家は綿仲買商人として大いに発展した。主屋は江戸時代後期の建築と推定されている。大原家は倉敷川の終点に位置し、河岸の両側に店舗と蔵を構えた。 」(Wikipediaより引用)
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倉敷物語館
旧東大橋家住宅を倉敷市が改修したもので、平成21年4月24日に開館。建築年代は、江戸中期。
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倉敷川を舟で巡っている人たちがいました。
なかなかいい風景ですね。
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レトロなポストがありました。
書状集箱
「このポスト(書状集箱)は明治四年(西暦一八七一年)郵便事業創業当時使用していたものと同じ型のものです
この周辺が伝統的建造物群保存地区であるためその景観にあわせて設置したものです
またこのポストは他のポストと同様に取り集めを行いますのでご利用ください
昭和六十年四月二〇日 倉敷郵便局長」
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倉敷民藝館
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米蔵を再生活用して利用しているようです。
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倉敷館(観光案内所)
「大正6年に倉敷町役場として建てられた擬洋風の建物です。屋根は寄棟,小屋組はトラス組になっています。北東隅の塔屋の二重屋根は銅板葺で,その他は桟瓦葺です。外壁は下見板張,白ペンキ塗で仕上げられています。
 昭和3年の市制施行により建物が手狭になったため,市役所機能が移転しました。残されたこの建物は,倉敷市公益質屋,倉敷市農業共済組合事務所,倉庫などに転用され,荒廃なすままになっていました。
 昭和43年に市民の中から保存の声があがり,昭和46年の保存修理,昭和60~62年の解体修理を経て,現在は「倉敷館」の名で観光案内所として利用されています。」
(倉敷市のHP http://www.city.kurashiki.okayama.jp/5591.htm より引用)
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昼間はプルミエというフランス料理のお店に行きました。
お昼すぎの13:30に行ったため、入ることが出来ました。
オードブルがとても美味しい店です。
次回、倉敷に来た時に再訪したいお店ですね。

最後に、大原美術館に行きました。
エル・グレコの受胎告知を見ることができました。