2012年01月15日
にっぽん時評 風 小象
従軍慰安婦問題
昨年の12月に、日本国の朝鮮半島統治時代、従軍慰安婦問題に絡んで、在韓日本大使館に火炎ビンが投げ込まれたり、元慰安婦を象徴する像が置かれたりした。日韓首脳会談の際には、韓国の大統領が、この問題に付いて強く政治決断を求めた。つまり、日本国の「補償や賠償」の再考を求めた訳である。そこで「補償や賠償」と韓国に指摘されて、ふと、日韓の歴史を振り返ってみたくなった。
それは「元寇」という呼称。今から700年以上も昔。鎌倉時代の1274年と1281年の2度に渡り、当時の高麗国(韓国・北朝鮮)と元(中国)の連合軍は日本に侵攻した。攻めてきた。連合軍は対馬、壱岐、博多等に上陸し、日本の兵と激戦を繰り返した。
戦いの記録として、対馬等に上陸した連合軍は、多くの日本人住民を殺戮をし「生き残った者(主に女)の手の平に穴を開け、そこに革紐を通して船壁に吊るし、見せしめや矢除けにした」とか「捕虜とした子供男女約200名を高麗王に献上した」という内容の文献が実存する。住民の一部が捕えられ朝鮮半島に連行されていたのである。
高麗国と元の日本侵攻は、日本各地の武士の反撃や台風により阻まれた。豊臣秀吉の朝鮮出兵は、それから300年も後、1592年の話である。
では、この2度に渡る高麗国(韓国)侵攻による被害請求はどうなっているのであろうか? 日本の住民の多くが、この戦いにより殺害され、連れ去られた「補償・賠償」の請求問題はどうなっているのだろうか? 日本政府は、現在、どう対処しているのであろうか?
「何せ、鎌倉時代のことゆえ…」とは、何やら不公平な気がする。
昨年の12月に、日本国の朝鮮半島統治時代、従軍慰安婦問題に絡んで、在韓日本大使館に火炎ビンが投げ込まれたり、元慰安婦を象徴する像が置かれたりした。日韓首脳会談の際には、韓国の大統領が、この問題に付いて強く政治決断を求めた。つまり、日本国の「補償や賠償」の再考を求めた訳である。そこで「補償や賠償」と韓国に指摘されて、ふと、日韓の歴史を振り返ってみたくなった。
それは「元寇」という呼称。今から700年以上も昔。鎌倉時代の1274年と1281年の2度に渡り、当時の高麗国(韓国・北朝鮮)と元(中国)の連合軍は日本に侵攻した。攻めてきた。連合軍は対馬、壱岐、博多等に上陸し、日本の兵と激戦を繰り返した。
戦いの記録として、対馬等に上陸した連合軍は、多くの日本人住民を殺戮をし「生き残った者(主に女)の手の平に穴を開け、そこに革紐を通して船壁に吊るし、見せしめや矢除けにした」とか「捕虜とした子供男女約200名を高麗王に献上した」という内容の文献が実存する。住民の一部が捕えられ朝鮮半島に連行されていたのである。
高麗国と元の日本侵攻は、日本各地の武士の反撃や台風により阻まれた。豊臣秀吉の朝鮮出兵は、それから300年も後、1592年の話である。
では、この2度に渡る高麗国(韓国)侵攻による被害請求はどうなっているのであろうか? 日本の住民の多くが、この戦いにより殺害され、連れ去られた「補償・賠償」の請求問題はどうなっているのだろうか? 日本政府は、現在、どう対処しているのであろうか?
「何せ、鎌倉時代のことゆえ…」とは、何やら不公平な気がする。
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13:18
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2012年01月02日
新年のご挨拶 編集部
謹賀新年
旧年中は大変お世話になりありがとうございました
本年も文芸部サイトを どうぞよろしくお願い申し上げます

〔未確認マンガ集団文芸部〕

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13:17
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2011年12月09日
依存症 J.C.クラフト
酒はより良い食欲の為の刺激剤でもあり、今日の疲れを癒す精力回復剤でもあり、精神安定剤でもあります。とはいえ、過ぎる酒は罪にしかすぎません。酒は過ぎるとそのアルコールの働きによって神経と肉体の弛緩を促進します。その結果抑圧が解放され、精神活動に支障をきたし、人間の本来の姿である社会的戒律が抑制できなくなります。(僕が貴方の説に賛成なのは、この時点で抑制できるのが人であって、よくいう本来の姿がでてくるというのは、これは又嘘だと思っているのです。)その為、この過ぎた人物は、本来の姿ではなく、グチ、アコガレ、ウヌボレ、イジケ、ネタミ、ウラミ、ツラミが最大限に放出の機会を与えられるのです。実に情けない話です。
僕は少々の事では酔えない訳がそれです。酔いは僕にとって敵です。
作品どうにかこうにか進んでいます。あいかわらずの乱筆で申し訳ない。僕は実は本当の事しかいえないので失敗ばかりしているので「しよう」と自身やっているのです。
僕は妻の日記をみつけた。字の書けない妻の日記を。
僕が教えた“あいうえお”からはじまる
日附のない日記を。
幼児のように劣った文字で、しかしのびのびと大きな字で。
頁をめくる僕の目はかすんだ。
仕事に出た僕の目を盗んで練習した妻の日記をみつけた。
どこで書いたのだろう。台所のキッチンテーブルの上だろうか。
コタツ机の上だったか。
ネコロビながらだったろうか。
頁が重なるたびに、よけいにまずくなるのは理由が分かる。
きっと僕の手本をみずに、
一つ一つの字を一生懸命に考えながら
妻は書いたに違いない。
“らりるれろ”は“らいるれろ”
“かきくけこ”は“かきしけこ”
僕の目はかすみながら苦笑していた。
頁は終わりに近づいた。
日附がようやく表れた、曜日はまだない。
ローマ数字の日附。
そういえば漢数字はおしえていなかった。
5月12日
その頁が妻の絶筆。
そこには僕の名前と僕らの子供の名前があった。
ノートのうらには
誇らしげな漢字が踊っていた。
明るかった妻 そのもののように
中西秀子と。
近所のみんなに可愛がられて、
決して素直ではない、むしろ大人びた口を聞く、
母の無い私の子供が、
砂遊びに興じている。
砂を高く積み、枯枝をその頂上にさす。
誰もが妙に思って見ていると、
私の子供は目を閉じて、
合掌する。
聞けば母の墓だという。………
お前の中に、
小さい魂のお前の中に、私と同んなじ人が、
いまでも生きていることが、………
そんな小さなお前の中に、
私は解かる。
僕は少々の事では酔えない訳がそれです。酔いは僕にとって敵です。
作品どうにかこうにか進んでいます。あいかわらずの乱筆で申し訳ない。僕は実は本当の事しかいえないので失敗ばかりしているので「しよう」と自身やっているのです。
僕は妻の日記をみつけた。字の書けない妻の日記を。
僕が教えた“あいうえお”からはじまる
日附のない日記を。
幼児のように劣った文字で、しかしのびのびと大きな字で。
頁をめくる僕の目はかすんだ。
仕事に出た僕の目を盗んで練習した妻の日記をみつけた。
どこで書いたのだろう。台所のキッチンテーブルの上だろうか。
コタツ机の上だったか。
ネコロビながらだったろうか。
頁が重なるたびに、よけいにまずくなるのは理由が分かる。
きっと僕の手本をみずに、
一つ一つの字を一生懸命に考えながら
妻は書いたに違いない。
“らりるれろ”は“らいるれろ”
“かきくけこ”は“かきしけこ”
僕の目はかすみながら苦笑していた。
頁は終わりに近づいた。
日附がようやく表れた、曜日はまだない。
ローマ数字の日附。
そういえば漢数字はおしえていなかった。
5月12日
その頁が妻の絶筆。
そこには僕の名前と僕らの子供の名前があった。
ノートのうらには
誇らしげな漢字が踊っていた。
明るかった妻 そのもののように
中西秀子と。
近所のみんなに可愛がられて、
決して素直ではない、むしろ大人びた口を聞く、
母の無い私の子供が、
砂遊びに興じている。
砂を高く積み、枯枝をその頂上にさす。
誰もが妙に思って見ていると、
私の子供は目を閉じて、
合掌する。
聞けば母の墓だという。………
お前の中に、
小さい魂のお前の中に、私と同んなじ人が、
いまでも生きていることが、………
そんな小さなお前の中に、
私は解かる。
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14:06
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2011年11月07日
赤い風船 和久井遼
書斎のデスクで読物をしていると、扉があいて女房が入ってきたようであった。今日は確か女房は知人の娘の結婚式とかで、早朝から念入りに厚化粧をして出て行った。五十過ぎの女の化粧の様子は見ていられない。加えて僕の女房は肥満体で顔はパンパン。浅黒い顔は、どう見てもアンパンである。アンパンに白粉を塗った食ったくったところで地肌のテカリは抑えられはしない。だが本人が至って大真面目であるので異論もなし。
女房の気配を感じて振り向くと、女房は意外な物を手に握っていた。それは赤い風船であった。長い紙の紐が付いていて、風船自体は天井辺りにフラフラと揺らいでいた。その光景がまったく不思議で僕は暫く風船に見とれていた。
「どうしたんだ?」
と聞くと、女房は
「結婚式でもらった」
と答えた。風船はどうやら結婚式の進行の都合上入用だったらしい。結婚式の終了間近に招待客はホテルの外に出て、新郎新婦を祝って各自に割り当てられた風船を空に飛ばす段取りであったのだ。ところがあいにくの雨模様。仕方なく風船は引き出物と一緒に招待客に手土産として持たされたのであった。
そして僕は女房がカメラで撮ってきた結婚式の写真を眺めながら、招待客が中年から老人ばかりであることを知り、招待客の帰り際の状況を想像して可笑しくなってしまった。スーツ姿の爺さんが、ドレスや着物で着飾った婆さんが、片方に引き出物の袋を下げ、片方に色とりどりの風船を握って歩いているのである。異様な光景に決まっているだろう。
空に飛んで行く筈であった風船。新郎と新婦の結婚を祝福するために用意された風船は、その晩、僕の書斎の天井でずっと揺れていた。翌朝になると酸素が抜けて床に転がっていた。その姿を何かしら哀れに思い。
「パンと破裂してしまう風船を結婚式で使ってよいものか?」
と心配しつつ、僕は風船の後始末に困ってしまった。
女房の気配を感じて振り向くと、女房は意外な物を手に握っていた。それは赤い風船であった。長い紙の紐が付いていて、風船自体は天井辺りにフラフラと揺らいでいた。その光景がまったく不思議で僕は暫く風船に見とれていた。
「どうしたんだ?」
と聞くと、女房は
「結婚式でもらった」
と答えた。風船はどうやら結婚式の進行の都合上入用だったらしい。結婚式の終了間近に招待客はホテルの外に出て、新郎新婦を祝って各自に割り当てられた風船を空に飛ばす段取りであったのだ。ところがあいにくの雨模様。仕方なく風船は引き出物と一緒に招待客に手土産として持たされたのであった。
そして僕は女房がカメラで撮ってきた結婚式の写真を眺めながら、招待客が中年から老人ばかりであることを知り、招待客の帰り際の状況を想像して可笑しくなってしまった。スーツ姿の爺さんが、ドレスや着物で着飾った婆さんが、片方に引き出物の袋を下げ、片方に色とりどりの風船を握って歩いているのである。異様な光景に決まっているだろう。
空に飛んで行く筈であった風船。新郎と新婦の結婚を祝福するために用意された風船は、その晩、僕の書斎の天井でずっと揺れていた。翌朝になると酸素が抜けて床に転がっていた。その姿を何かしら哀れに思い。
「パンと破裂してしまう風船を結婚式で使ってよいものか?」
と心配しつつ、僕は風船の後始末に困ってしまった。
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13:33
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2011年10月06日
龍馬暗殺異説 蜂須賀京一
慶応3年11月15日、京都河原町醤油商近江屋で坂本龍馬と中岡慎太郎が暗殺された。龍馬の下僕で元力士の山田藤吉も一緒に殺害された。暗殺したのは京都見廻り組の隊士7名であるのが定説らしい。隊士の1人、今井信郎は明治33年に「近畿評論」の中で龍馬らの暗殺に関わった事を認めている。明治44年には、同隊士であった渡辺篤も「渡辺家由緒暦代系図履暦書」の中で京都見廻り組が実行した事を記している。今井は「龍馬は自分が斬った」渡辺も「自分が斬った」と告白しているようだが、ここでは、「斬った張本人が誰なのか?」は別として、両名らの口述に基ずく疑問点を書いてみることにする。推理してみることにする。
近江屋に刺客が踏み込んだのは、11月15日の午後8時過ぎ。この冬の時刻は既に遅く、近江屋の主人、井口新助の家族は寝静まっていたようだ。そこに十津川郷士を名乗る男らが訪ねてきた。下僕の藤吉に手札を渡し「坂本先生に取り次いで欲しい」と頼む。この時の状況は、7名の内、見張り役として近江屋の外、表と裏に2名ずつと考えれば、3名ほどが玄関から2階の部屋へ上がったことが想像される。実際の龍馬らの殺害現場に居合わせたのは3名ほどとなるのだろう。
手札を渡された大男の藤吉は2階に上がろうとして、刺客から背後を斬られる。6箇所斬られて翌日に死亡。しかし、その時の物音に気付いた龍馬は、誰かが騒いでいると勘違いして2階から土佐弁で「ほたえな!(騒ぐな!)」と叫んだらしい。刺客はその声の方向で龍馬のいる部屋を突き止めたとか。だが、階下で人が斬り殺されている訳であるからして、また、藤吉は元力士の力自慢。そう容易く斬られて死んだ気がしないのだが? 背後から斬りつけられたと云っても、かなりの抵抗や最期の反撃を試みたのは間違いないと思える。夜の静寂な時間に響いた、藤吉の最期の雄叫びを、格闘の大騒動の音を「誰かが騒いでいる」と龍馬は本当に取り違えたのだろうか? 龍馬は用心深い侍である。階下の殺戮を「喧しい」とは、何やら考えにくいのだが?
そして刺客らは藤吉を斬ると、何食わぬ顔で龍馬らの居る部屋へ行き、刺客の1人が正座して、龍馬と中岡のどちらが龍馬であるのかが分からず「坂本先生お久しぶりです」と挨拶をし、返事をした龍馬を見極めたとか。この設定も何やら現実味がない気がする。理由は、刺客らは藤吉と先ほど格闘をして息は絶え絶え、また藤吉は何回も斬られているのであるからして、着衣に返り血を浴びているのは間違いないのだ。その様子に龍馬も中岡もすぐに気付いた筈なのだ。龍馬が「はて? どこかでお会いしましたか?」と無警戒に返事をした話は、どうも不自然に思えて仕方がない。信憑性に欠ける。
以上、坂本龍馬暗殺の謎は尽きない。
近江屋に刺客が踏み込んだのは、11月15日の午後8時過ぎ。この冬の時刻は既に遅く、近江屋の主人、井口新助の家族は寝静まっていたようだ。そこに十津川郷士を名乗る男らが訪ねてきた。下僕の藤吉に手札を渡し「坂本先生に取り次いで欲しい」と頼む。この時の状況は、7名の内、見張り役として近江屋の外、表と裏に2名ずつと考えれば、3名ほどが玄関から2階の部屋へ上がったことが想像される。実際の龍馬らの殺害現場に居合わせたのは3名ほどとなるのだろう。
手札を渡された大男の藤吉は2階に上がろうとして、刺客から背後を斬られる。6箇所斬られて翌日に死亡。しかし、その時の物音に気付いた龍馬は、誰かが騒いでいると勘違いして2階から土佐弁で「ほたえな!(騒ぐな!)」と叫んだらしい。刺客はその声の方向で龍馬のいる部屋を突き止めたとか。だが、階下で人が斬り殺されている訳であるからして、また、藤吉は元力士の力自慢。そう容易く斬られて死んだ気がしないのだが? 背後から斬りつけられたと云っても、かなりの抵抗や最期の反撃を試みたのは間違いないと思える。夜の静寂な時間に響いた、藤吉の最期の雄叫びを、格闘の大騒動の音を「誰かが騒いでいる」と龍馬は本当に取り違えたのだろうか? 龍馬は用心深い侍である。階下の殺戮を「喧しい」とは、何やら考えにくいのだが?
そして刺客らは藤吉を斬ると、何食わぬ顔で龍馬らの居る部屋へ行き、刺客の1人が正座して、龍馬と中岡のどちらが龍馬であるのかが分からず「坂本先生お久しぶりです」と挨拶をし、返事をした龍馬を見極めたとか。この設定も何やら現実味がない気がする。理由は、刺客らは藤吉と先ほど格闘をして息は絶え絶え、また藤吉は何回も斬られているのであるからして、着衣に返り血を浴びているのは間違いないのだ。その様子に龍馬も中岡もすぐに気付いた筈なのだ。龍馬が「はて? どこかでお会いしましたか?」と無警戒に返事をした話は、どうも不自然に思えて仕方がない。信憑性に欠ける。
以上、坂本龍馬暗殺の謎は尽きない。
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15:43
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2011年09月14日
盆帰り 猫宮千之助
今年の盆、初めの頃の朝だった。吾輩は新しいデジタルカメラを購入し、家の居間のソファに座り、いじっていた。コンパクトカメラではあるが、一眼レフ並みの性能がある製品で、取り扱いはいささか難しかった。モニターを睨んでは、画面の端に映る記号の意味を確かめていた。カメラを構えて居間のテレビや窓の外を眺めていた。
ふと、隣の部屋、仏間の方角にカメラを向けた時だった。何やら画面がチカチカと輝いているのに気がついた。それはフラッシュの光のように強い光で、光は仏壇の前の経机の上板の右側から出ていた。経机の上には、リンや火立てや香炉の仏具が置かれているが、それらには変化はなく、経机から、まるで光が生きているように勢いよく点滅しているのだ。しかし、その光はカメラのモニターに映っているだけで、モニターから目を離すと、何も見えはしない。こんな不思議な話はない。「目には見えないけれど、カメラでは見える光」
吾輩はしばらく、その様子をモニターで眺めながら「何の光なのだろう?」と考えてみた。
「朝の太陽の光が何かに反射して、経机を照らしている?」
しかし、居間の中に差し込んでいる外からの光の道は見当たらない。
「では、経机そのものに、何か問題が?」
いや、そんな様々な憶測も「裸眼では見えなくて、カメラのモニターにだけしか映らない」という事実から、全てがお門違いの気がしてならなかった。そして、光り輝く光が息をしているように、正しく人の心臓のごとく、リズムカルに点滅する風景は、もはや、吾輩には、ある確信として次の行動を取らせた。
吾輩は庭にいる母に声をかけて呼んだ。早く来るように言った。そして母にモニターを見せて説明した。母は突然のことで目を丸くしたが、光は見えているらしい。モニターから目を離すと何も見えないことを教えるとさらに驚いた。そして吾輩は確信を持って、こう叫んだ。
「親父が帰って来た!」
母は、その言葉を聞くと意外だが恐れた顔になった。
それから吾輩は、光をビデオ機能で何回も録画すると保存し、繰り返し見直した。だが、後で全部削除した。そんな気持ちにさせたのは、光の意味に、何かしら踏み込むことの出来ない世界を想像したからである。
ふと、隣の部屋、仏間の方角にカメラを向けた時だった。何やら画面がチカチカと輝いているのに気がついた。それはフラッシュの光のように強い光で、光は仏壇の前の経机の上板の右側から出ていた。経机の上には、リンや火立てや香炉の仏具が置かれているが、それらには変化はなく、経机から、まるで光が生きているように勢いよく点滅しているのだ。しかし、その光はカメラのモニターに映っているだけで、モニターから目を離すと、何も見えはしない。こんな不思議な話はない。「目には見えないけれど、カメラでは見える光」
吾輩はしばらく、その様子をモニターで眺めながら「何の光なのだろう?」と考えてみた。
「朝の太陽の光が何かに反射して、経机を照らしている?」
しかし、居間の中に差し込んでいる外からの光の道は見当たらない。
「では、経机そのものに、何か問題が?」
いや、そんな様々な憶測も「裸眼では見えなくて、カメラのモニターにだけしか映らない」という事実から、全てがお門違いの気がしてならなかった。そして、光り輝く光が息をしているように、正しく人の心臓のごとく、リズムカルに点滅する風景は、もはや、吾輩には、ある確信として次の行動を取らせた。
吾輩は庭にいる母に声をかけて呼んだ。早く来るように言った。そして母にモニターを見せて説明した。母は突然のことで目を丸くしたが、光は見えているらしい。モニターから目を離すと何も見えないことを教えるとさらに驚いた。そして吾輩は確信を持って、こう叫んだ。
「親父が帰って来た!」
母は、その言葉を聞くと意外だが恐れた顔になった。
それから吾輩は、光をビデオ機能で何回も録画すると保存し、繰り返し見直した。だが、後で全部削除した。そんな気持ちにさせたのは、光の意味に、何かしら踏み込むことの出来ない世界を想像したからである。
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16:51
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2011年08月13日
2011年07月17日
善人鬼 猫宮千之助
「人殺しをした人間」を身近に感じることはあまりないのだろうが、次の例を挙げると、さほど距離のあることではない気がする。そんな人間が諸君のすぐそばにいる訳である。
吾輩が働いていた運送会社の大型トラックの運転手に、A君という青年がいた。彼は人格は朗らかで愛想は良く、人と話をする折は常に笑顔を絶やさなかった。物腰も柔らかく、上司や同僚の誰からも好かれる好青年であった。吾輩も周囲と同じく、A君には好感を持っていた。色白で鼻筋の通った美男子であることも、彼の評価を高めていたことになる。
ただ、好青年であるからとして「仕事が出来る」かどうかは定かではない。ましてや大型トラックの運転手という職業は、笑顔だけでは務まらない過酷で重労働の仕事である。仕事の内容を細かく説明すると長くなるのでよすが、本人の「適正」が非常に問題になることには間違いない職業である。
しかし、A君の能力は会社側も高く評価していて、新入社員の「研修係り」という職務に当たらせていた。大型免許を取得したばかりで、大型トラックの運転経験がない新入社員に、運転技術や仕事のやり方を教える担当を任せられていたのであった。新入社員と2人、ツーマンでトラックに乗り仕事に就いていたのである。
ところが、A君はツーマンの日でなく、単独で仕事をしていた時に大きな事故を起こしてしまった。人身事故。関東の街の交差点で、歩行中の主婦を撥ねて殺してしまったのだ。過失の点がA君の方にあるのか主婦にあったのかは知らないが、A君は刑務所に入った。入る直前に会社に挨拶に来ていて、彼は頭を坊主頭にしていた。事故とはいえ、人の命を奪った責任は大きい。またA君の悲しみは態度で察せられるようであった。痛々しいくらい可愛そうに見えた。
それから数年過ぎて、吾輩がトラックに乗り道を走っていると、向こうから来る普通トラックの運転手が手を振っているのに気づいた。スピードを落として、よく見ると、それはA君であった。すれ違いざまに「久しぶり」と声をかけると、彼は笑顔で「はい」と答えた。A君は刑期を終えて出所し会社は辞めて、別の運送会社で働いていたのだ。だが、車で人を殺しておいて、すぐに車に乗っていられる状況に変な気持ちがした。その後、A君がまた大型トラックを運転している姿を見かけた。
ある日、道ですれ違った大型トラックが、猛スピードで通り過ぎて行った。その車両のすぐ後ろを、追いかけるように別の大型トラックが追走していた。こういう場面にはしばしば出会う。無理な飛び出しをした車や、追い抜きをした車に対して、驚いた運転手は腹を立てて、後ろにピタリと接近し、追い立てて相手を恐がらせるのである。
その追い立てるトラックの運転手の顔を見て、吾輩は仰天した。A君であったからだ。そして、A君の顔はあの温厚な善人の顔でなく、怒りに満ちた畜生の顔。まさしく鬼の顔であったのだ。人の心というものは分からない。
吾輩が働いていた運送会社の大型トラックの運転手に、A君という青年がいた。彼は人格は朗らかで愛想は良く、人と話をする折は常に笑顔を絶やさなかった。物腰も柔らかく、上司や同僚の誰からも好かれる好青年であった。吾輩も周囲と同じく、A君には好感を持っていた。色白で鼻筋の通った美男子であることも、彼の評価を高めていたことになる。
ただ、好青年であるからとして「仕事が出来る」かどうかは定かではない。ましてや大型トラックの運転手という職業は、笑顔だけでは務まらない過酷で重労働の仕事である。仕事の内容を細かく説明すると長くなるのでよすが、本人の「適正」が非常に問題になることには間違いない職業である。
しかし、A君の能力は会社側も高く評価していて、新入社員の「研修係り」という職務に当たらせていた。大型免許を取得したばかりで、大型トラックの運転経験がない新入社員に、運転技術や仕事のやり方を教える担当を任せられていたのであった。新入社員と2人、ツーマンでトラックに乗り仕事に就いていたのである。
ところが、A君はツーマンの日でなく、単独で仕事をしていた時に大きな事故を起こしてしまった。人身事故。関東の街の交差点で、歩行中の主婦を撥ねて殺してしまったのだ。過失の点がA君の方にあるのか主婦にあったのかは知らないが、A君は刑務所に入った。入る直前に会社に挨拶に来ていて、彼は頭を坊主頭にしていた。事故とはいえ、人の命を奪った責任は大きい。またA君の悲しみは態度で察せられるようであった。痛々しいくらい可愛そうに見えた。
それから数年過ぎて、吾輩がトラックに乗り道を走っていると、向こうから来る普通トラックの運転手が手を振っているのに気づいた。スピードを落として、よく見ると、それはA君であった。すれ違いざまに「久しぶり」と声をかけると、彼は笑顔で「はい」と答えた。A君は刑期を終えて出所し会社は辞めて、別の運送会社で働いていたのだ。だが、車で人を殺しておいて、すぐに車に乗っていられる状況に変な気持ちがした。その後、A君がまた大型トラックを運転している姿を見かけた。
ある日、道ですれ違った大型トラックが、猛スピードで通り過ぎて行った。その車両のすぐ後ろを、追いかけるように別の大型トラックが追走していた。こういう場面にはしばしば出会う。無理な飛び出しをした車や、追い抜きをした車に対して、驚いた運転手は腹を立てて、後ろにピタリと接近し、追い立てて相手を恐がらせるのである。
その追い立てるトラックの運転手の顔を見て、吾輩は仰天した。A君であったからだ。そして、A君の顔はあの温厚な善人の顔でなく、怒りに満ちた畜生の顔。まさしく鬼の顔であったのだ。人の心というものは分からない。
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2011年06月16日
烈光〜夏の暑い一日 沙羅如月
眩い夏の光が降り注ぎ、人々はおのおのに工夫をして涼を取る。家の前の道に水を撒くもの、窓を開け放し、夏の少しぬるい風をわずかばかりの涼を得るため家の中へと入れるもの。そんな工夫を嘲るように強い陽射しは容赦なく照りつける。
太陽の陽射しは強く、アスファルトの道は溶けるのではないかというほどに熱を持っている。
その暑い光が降り注ぐ中を周りを見向きもせず、道を駆け抜ける少女の姿がある。夏の間いつもはいているゴム草履の鼻緒が切れてしまうのではないかというほど一生懸命である。
走る、走る。大好きな伯母の家は走ればほんの20秒ほど。その道をいつもうれしそうにかけていく少女。大好きな伯母。少女を自分の子供のようにかわいがってくれる伯母は少女にとっての逃げ場所、隠れ場所。その日もきっと母に叱られたのか、けんかしたのか…それとも単にただ伯母の家へと遊びに行ったのか…理由はわからないがうれしそうにゴム草履を履いた足を懸命に駆って少女は伯母の家へと向かう。細い路地の一番奥にその家はある。一日中電気を灯さなければ明るくない家の中。夏の暑い日はいつも電気は消えていた。以前、少女が伯母にきいたら暑いからだと笑って答えた。
少女がその路地の入り口にかかったとき、そこにいた伯母の家の近所のおばさんに声をかけられた。
「おばちゃんとこ来たの?」
「うん」
少女は満面に笑顔を浮かべて答える。疑うことなど知らないその笑顔を見て近所のおばさんは言葉に困ったようだ。言うべきか言わないべきかを悩んでいるそんな感じである。だが迷いを振り切ったのか少女に話かけた。
「今は、行かないほうがいいよ…」
少女は答える代わりに顔中に困惑と驚きの表情を浮かべる。その無垢な瞳にみつめられて話しかけてきたおばさんはひとつため息をつくと仕方がないねという素振りをした。
「うん…もう大丈夫かな…なんでもないから。ごめんね。おばちゃんによろしく」
それだけを言うとそのおばさんは自分の家へと入った。同じ路地に面した一番大きい家である。この近所のおばさんは少女が傷つくのではないかと思ったのであろう。今少女の伯母の家には、ある来客が来ていることをこの婦人は知っていた。今の伯母の状況が幼い少女の目に触れてもいいことはないとよく知っていたのである。もしかしたら、いつも伯母をしたい伯母の家へと毎日のようにやってくるこの少女が悲しむ姿を見たくはないと思ったのかもしれない。
少女は、そのおばさんの態度に不穏なものを感じ取ってはいるようだが、幼い少女にそれがどういった類のことかなど理解できるはずもない。すぐに少女はうれしそうに伯母の家へと歩を進めた。
伯母の家の玄関は夏はいつも開け放されている。いなか育ちの伯母はどこかいつもおおらかで大雑把であった。家にいるときは必ず玄関のドアが開け放されている。今日もまた玄関は家人の在宅を知らせるように、開け放たれていた。少女は息せき切って玄関へと飛び込む。
「おばちゃ〜ん、遊びに来たよ」
飛び込んだ玄関はいつものように暗く、風が吹き込む奥の部屋はなお暗く見え、そこに人がいるかどうかも確認することができなかった。少女はいつもならある返事がないことを不思議に思い、もう一度声をかける。
「おばちゃん…いないの?」
返事はない。少女はいつも伯母がいる奥の部屋へと目を凝らす。夏の太陽は眩く路地を照らし、その光の反射のせいで見えないのか、その奥の部屋は変わらず暗く、人の影すら見えない。だがその部屋に誰か人がいることだけは少女にも感じ取れた。
(なんだおばちゃんいるじゃない…)
少女はそう思うと伯母に今一度声をかけようとした。だがなぜか声が出せない。
その奥の部屋から漂ってくる独特の押し黙ったような雰囲気が少女の動きを止めたのだ。
少女がその身に感じるのは訳のわからない緊張感と、早くなる心臓の鼓動。
踏み込んではいけない領域だと少女の本能が彼女に教える。今この足かけに足をかけて家の中に入ってはいけないと何かが少女に告げるのである。少女は自分の想いとは裏腹に動こうとしない身体に驚いた。初めての経験である。
そして途方にくれてしまう。伯母に会いたい。別に何をして欲しいわけでもない。ただ会いたい。なぜだかいつもよりその想いが強くなる。だがどんなに心で想っても身体はピクリとも動いてはくれないのだ。幼い少女にそれがどういうことかなど解りはしない。ただただ困惑していた。
その場を動かない少女に業を煮やしたのか、奥の部屋で二つの影がのっそりと身体を起こした。しばらくその場に居続けたためか目が暗闇になれてきたらしく、少女の目にもその影は写った。だがその影の顔までは部屋の暗さゆえ見ることはかなわない。見えるのは二つの大人の身体の輪郭のみである。二人大人がいる。そう思った瞬間少女は声を上げることができた。
「おじちゃん?おじちゃんもいるの?」
少女が大人が二人いるともう一人は伯父と思ったのには理由がある。この家には伯父と伯母以外は誰も住んでいないからだ。うれしそうに伯母と同じように自分をかわいがってくれる伯父の姿を思い浮かべながら声を張り上げる。ハッと息を呑む音が聞こえる。少女はそんな大人たちの反応にはなにも感じない。疑問すら抱かなかった。だが声はだせたものの相変わらず身体は動こうとはしない。いまだ、本能がそれをさせてくれないのだ。少女のその問いに伯母の声が返った。
「うん、おじちゃんもいるよ。でもおばちゃんたち用事があるからまた後からおいで」
それはいつもの明るく屈託のない伯母の声。少女は初めて安心して身体から力が抜けていくのを感じた。だが伯母の家に上がろうとはもう思わなかった。後でまたくればいいからだ。それにやはり自分の中のどこかで今は上がるなと警告を発しているのを無意識に感じ取っていたのかもしれない。そして少女はうれしそうに笑うと大きな声で返事をした。
「うん、じゃあ、また後からくるね!」
弾んだ足取りで踵を返す少女。そしてその背中に伯母の明るい声が響いた。
「気をつけてかえりなさいね」
いつもなら伯父からも何らかの声がかかるのだが、今日はかからなかったのを不思議には思ったが、少女はこの後の約束に心を奪われすぐにそのことは忘れてしまった。
少女が来た道を同じように駆けて戻る。伯母の家に行くときに会った近所のおばさんにまたであった。
「おばちゃんいた?」
「うん、いたよ。おじちゃんも。でも後からおいでって」
少女は屈託なく笑うとうれしそうに路地を抜けてゆく。大好きな伯母との約束はいつもうれしいが、なぜか今日はいつもよりうれしく感じる。それを不思議だなと思いながら少女はにこにこと笑っている。
少女の後姿を見送った近所のおばさんはその姿にほっとひとつ息を吐いた。
夏の眩い太陽は婦人の苦衷も少女の喜びもただその強い陽射しの中に閉じ込めた。
少し涼しくなった夕方の風をその身に纏い、少女は伯母の家へと向かう。いつものように駆け足でうれしそうに。
そして見てしまう。伯父ではない男の人と親しげに話をし腕を組む伯母の姿を。それは普通ならばそれほど変な場面ではないようなことであるが、少女はこの二人の間に漂う何かを敏感に感じ取った。伯父といるときとは違う伯母の表情。その表情がどういう意味か…少女が理解するにはあまりにも幼い。だが、自分の中の何かがそれを嫌悪する。
少女はそれを目にした途端、隠れるように伯母たちからは見えない路地の入り口の家の影へと身を潜めた。
夕日が少女の迷いを浮かべた顔を照らしている。
また心臓が早鐘を打っている。見てはいけない見てはいけないと何かが少女にささやく。大好きなおばちゃん、だいすきなおじちゃん。どっちも大好きだから見てはいけない、忘れなきゃいけない。小さな心がそういって彼女を追い詰める。そしてしばらく考え込んだ後、少女は何も見なかったことにした。そして大きく息を吸い込むと普段のように伯母の家へと路地を駆け抜ける。
「おばちゃん、遊びにきたよ!」
「よく来たね」
今度は奥の部屋から伯母の明るい声がかかる。
少女はさっき脱げなかった草履を脱ぎ捨て伯母の家へと上がる。そこにあの男の人が伯母と一緒にビールを飲んで座っている。もう少しで伯父が帰ってくる時間。二人で飲んでいたのだろう。少女はその男の人に向かって元気にあいさつした。
「こんにちは!つりのおじちゃん」
その男は少女を伯父や伯母と共につりへと連れて行ってくれる気のいいおじさん。顔は怖いけど、愛想もないけどでも何回かつりに連れて行ってくれた人。おばちゃんやおじちゃんと仲のいい人だからいい人、少女はそう思っている。
幼い子供にはさっき見たことの意味などわからない。ただ見てはいけないという本能が働くだけのこと。だからこそ見なかったことにした少女は、なんの屈託もなく伯母ともこの男とも接することができる。それがどういうことか知るのはもっとずっと大人になってからのことである。
伯父が帰ってくる前にその男は帰った。まるで逃げるかのように。その男の背をくれかけた夕日が照らしたとき、少女はこの男には伯母の家で二度と会いたくないと幼心に思った。大事な伯母を自分から奪ってしまうようなそんな気がしたからだ。
暮れかけた夕日は、少女の屈託した顔や伯母の華やかな顔にその最後の名残の光を投げかけて沈んだ。
少女は伯母を見上げると満面に笑顔を浮かべ伯母と供に伯母の家へと入っていった。やっと伯母が自分のもとへと戻ってくれたようなそんな気がしたのである。
伯父が自転車をこきながら帰ってくる。
「おお、来てたのか。晩ごはん一緒に食べようか?」
伯父はいつもの優しい笑顔を少女に投げかけ、声をかける。
「うん、一緒に食べる」
少女は昼間のことなどすっかり忘れて帰ってきた伯父に飛びついた。伯父の大きな手が少女の頭を撫でた。いつもの伯父と伯母。もう心臓もドキドキしないし、声も出せる。少女はいつもの伯父と伯母がそこにいることを心から喜んでいた。
少女の心を翻弄し、とまどわせた、激しい烈光が降り注いだ暑い夏の日は終わろうとしていた。昼間とは違う涼しい風が吹き抜け、少女はその風の穏やかさを感じていた。
太陽の陽射しは強く、アスファルトの道は溶けるのではないかというほどに熱を持っている。
その暑い光が降り注ぐ中を周りを見向きもせず、道を駆け抜ける少女の姿がある。夏の間いつもはいているゴム草履の鼻緒が切れてしまうのではないかというほど一生懸命である。
走る、走る。大好きな伯母の家は走ればほんの20秒ほど。その道をいつもうれしそうにかけていく少女。大好きな伯母。少女を自分の子供のようにかわいがってくれる伯母は少女にとっての逃げ場所、隠れ場所。その日もきっと母に叱られたのか、けんかしたのか…それとも単にただ伯母の家へと遊びに行ったのか…理由はわからないがうれしそうにゴム草履を履いた足を懸命に駆って少女は伯母の家へと向かう。細い路地の一番奥にその家はある。一日中電気を灯さなければ明るくない家の中。夏の暑い日はいつも電気は消えていた。以前、少女が伯母にきいたら暑いからだと笑って答えた。
少女がその路地の入り口にかかったとき、そこにいた伯母の家の近所のおばさんに声をかけられた。
「おばちゃんとこ来たの?」
「うん」
少女は満面に笑顔を浮かべて答える。疑うことなど知らないその笑顔を見て近所のおばさんは言葉に困ったようだ。言うべきか言わないべきかを悩んでいるそんな感じである。だが迷いを振り切ったのか少女に話かけた。
「今は、行かないほうがいいよ…」
少女は答える代わりに顔中に困惑と驚きの表情を浮かべる。その無垢な瞳にみつめられて話しかけてきたおばさんはひとつため息をつくと仕方がないねという素振りをした。
「うん…もう大丈夫かな…なんでもないから。ごめんね。おばちゃんによろしく」
それだけを言うとそのおばさんは自分の家へと入った。同じ路地に面した一番大きい家である。この近所のおばさんは少女が傷つくのではないかと思ったのであろう。今少女の伯母の家には、ある来客が来ていることをこの婦人は知っていた。今の伯母の状況が幼い少女の目に触れてもいいことはないとよく知っていたのである。もしかしたら、いつも伯母をしたい伯母の家へと毎日のようにやってくるこの少女が悲しむ姿を見たくはないと思ったのかもしれない。
少女は、そのおばさんの態度に不穏なものを感じ取ってはいるようだが、幼い少女にそれがどういった類のことかなど理解できるはずもない。すぐに少女はうれしそうに伯母の家へと歩を進めた。
伯母の家の玄関は夏はいつも開け放されている。いなか育ちの伯母はどこかいつもおおらかで大雑把であった。家にいるときは必ず玄関のドアが開け放されている。今日もまた玄関は家人の在宅を知らせるように、開け放たれていた。少女は息せき切って玄関へと飛び込む。
「おばちゃ〜ん、遊びに来たよ」
飛び込んだ玄関はいつものように暗く、風が吹き込む奥の部屋はなお暗く見え、そこに人がいるかどうかも確認することができなかった。少女はいつもならある返事がないことを不思議に思い、もう一度声をかける。
「おばちゃん…いないの?」
返事はない。少女はいつも伯母がいる奥の部屋へと目を凝らす。夏の太陽は眩く路地を照らし、その光の反射のせいで見えないのか、その奥の部屋は変わらず暗く、人の影すら見えない。だがその部屋に誰か人がいることだけは少女にも感じ取れた。
(なんだおばちゃんいるじゃない…)
少女はそう思うと伯母に今一度声をかけようとした。だがなぜか声が出せない。
その奥の部屋から漂ってくる独特の押し黙ったような雰囲気が少女の動きを止めたのだ。
少女がその身に感じるのは訳のわからない緊張感と、早くなる心臓の鼓動。
踏み込んではいけない領域だと少女の本能が彼女に教える。今この足かけに足をかけて家の中に入ってはいけないと何かが少女に告げるのである。少女は自分の想いとは裏腹に動こうとしない身体に驚いた。初めての経験である。
そして途方にくれてしまう。伯母に会いたい。別に何をして欲しいわけでもない。ただ会いたい。なぜだかいつもよりその想いが強くなる。だがどんなに心で想っても身体はピクリとも動いてはくれないのだ。幼い少女にそれがどういうことかなど解りはしない。ただただ困惑していた。
その場を動かない少女に業を煮やしたのか、奥の部屋で二つの影がのっそりと身体を起こした。しばらくその場に居続けたためか目が暗闇になれてきたらしく、少女の目にもその影は写った。だがその影の顔までは部屋の暗さゆえ見ることはかなわない。見えるのは二つの大人の身体の輪郭のみである。二人大人がいる。そう思った瞬間少女は声を上げることができた。
「おじちゃん?おじちゃんもいるの?」
少女が大人が二人いるともう一人は伯父と思ったのには理由がある。この家には伯父と伯母以外は誰も住んでいないからだ。うれしそうに伯母と同じように自分をかわいがってくれる伯父の姿を思い浮かべながら声を張り上げる。ハッと息を呑む音が聞こえる。少女はそんな大人たちの反応にはなにも感じない。疑問すら抱かなかった。だが声はだせたものの相変わらず身体は動こうとはしない。いまだ、本能がそれをさせてくれないのだ。少女のその問いに伯母の声が返った。
「うん、おじちゃんもいるよ。でもおばちゃんたち用事があるからまた後からおいで」
それはいつもの明るく屈託のない伯母の声。少女は初めて安心して身体から力が抜けていくのを感じた。だが伯母の家に上がろうとはもう思わなかった。後でまたくればいいからだ。それにやはり自分の中のどこかで今は上がるなと警告を発しているのを無意識に感じ取っていたのかもしれない。そして少女はうれしそうに笑うと大きな声で返事をした。
「うん、じゃあ、また後からくるね!」
弾んだ足取りで踵を返す少女。そしてその背中に伯母の明るい声が響いた。
「気をつけてかえりなさいね」
いつもなら伯父からも何らかの声がかかるのだが、今日はかからなかったのを不思議には思ったが、少女はこの後の約束に心を奪われすぐにそのことは忘れてしまった。
少女が来た道を同じように駆けて戻る。伯母の家に行くときに会った近所のおばさんにまたであった。
「おばちゃんいた?」
「うん、いたよ。おじちゃんも。でも後からおいでって」
少女は屈託なく笑うとうれしそうに路地を抜けてゆく。大好きな伯母との約束はいつもうれしいが、なぜか今日はいつもよりうれしく感じる。それを不思議だなと思いながら少女はにこにこと笑っている。
少女の後姿を見送った近所のおばさんはその姿にほっとひとつ息を吐いた。
夏の眩い太陽は婦人の苦衷も少女の喜びもただその強い陽射しの中に閉じ込めた。
少し涼しくなった夕方の風をその身に纏い、少女は伯母の家へと向かう。いつものように駆け足でうれしそうに。
そして見てしまう。伯父ではない男の人と親しげに話をし腕を組む伯母の姿を。それは普通ならばそれほど変な場面ではないようなことであるが、少女はこの二人の間に漂う何かを敏感に感じ取った。伯父といるときとは違う伯母の表情。その表情がどういう意味か…少女が理解するにはあまりにも幼い。だが、自分の中の何かがそれを嫌悪する。
少女はそれを目にした途端、隠れるように伯母たちからは見えない路地の入り口の家の影へと身を潜めた。
夕日が少女の迷いを浮かべた顔を照らしている。
また心臓が早鐘を打っている。見てはいけない見てはいけないと何かが少女にささやく。大好きなおばちゃん、だいすきなおじちゃん。どっちも大好きだから見てはいけない、忘れなきゃいけない。小さな心がそういって彼女を追い詰める。そしてしばらく考え込んだ後、少女は何も見なかったことにした。そして大きく息を吸い込むと普段のように伯母の家へと路地を駆け抜ける。
「おばちゃん、遊びにきたよ!」
「よく来たね」
今度は奥の部屋から伯母の明るい声がかかる。
少女はさっき脱げなかった草履を脱ぎ捨て伯母の家へと上がる。そこにあの男の人が伯母と一緒にビールを飲んで座っている。もう少しで伯父が帰ってくる時間。二人で飲んでいたのだろう。少女はその男の人に向かって元気にあいさつした。
「こんにちは!つりのおじちゃん」
その男は少女を伯父や伯母と共につりへと連れて行ってくれる気のいいおじさん。顔は怖いけど、愛想もないけどでも何回かつりに連れて行ってくれた人。おばちゃんやおじちゃんと仲のいい人だからいい人、少女はそう思っている。
幼い子供にはさっき見たことの意味などわからない。ただ見てはいけないという本能が働くだけのこと。だからこそ見なかったことにした少女は、なんの屈託もなく伯母ともこの男とも接することができる。それがどういうことか知るのはもっとずっと大人になってからのことである。
伯父が帰ってくる前にその男は帰った。まるで逃げるかのように。その男の背をくれかけた夕日が照らしたとき、少女はこの男には伯母の家で二度と会いたくないと幼心に思った。大事な伯母を自分から奪ってしまうようなそんな気がしたからだ。
暮れかけた夕日は、少女の屈託した顔や伯母の華やかな顔にその最後の名残の光を投げかけて沈んだ。
少女は伯母を見上げると満面に笑顔を浮かべ伯母と供に伯母の家へと入っていった。やっと伯母が自分のもとへと戻ってくれたようなそんな気がしたのである。
伯父が自転車をこきながら帰ってくる。
「おお、来てたのか。晩ごはん一緒に食べようか?」
伯父はいつもの優しい笑顔を少女に投げかけ、声をかける。
「うん、一緒に食べる」
少女は昼間のことなどすっかり忘れて帰ってきた伯父に飛びついた。伯父の大きな手が少女の頭を撫でた。いつもの伯父と伯母。もう心臓もドキドキしないし、声も出せる。少女はいつもの伯父と伯母がそこにいることを心から喜んでいた。
少女の心を翻弄し、とまどわせた、激しい烈光が降り注いだ暑い夏の日は終わろうとしていた。昼間とは違う涼しい風が吹き抜け、少女はその風の穏やかさを感じていた。
Posted by fuefukipiero at
10:30
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2011年06月12日
物語の復権〜聖なる作家、カール・ドライヤーの試み ビスケット
「世界映画史においてもっとも偉大な作家の一人であるカール・ドライヤー。彼は「あなたにとって映画とは何ですか。」という問いに「それは私のただひとつの偉大なる情熱です。」と答えました。その情熱が昇華してフィルムに焼きついたかのような作品は、純粋さと残酷なまでの眼差しにつらぬかれた聖性に満ちています。デンマークが生んだ孤高の映画作家にして、聖なる作家と呼ばれるカール・ドライヤー(略)…」
「‘宗教的宇宙’を創造する可能性を真剣に追求した最初の映画監督であり、その仕事の難しさはそれがもつ途方もない大きさゆえといわれ、ゆえにその映画人生は決して幸福とは言えなかった20世紀最大の映画監督、カール・ドライヤー。魂を俳優にはりつけ、台詞を顔への表情へと転化させ、人間の意志を超えた‘それ’は、日常をくぐりぬけさらに純化していく…。」「聖なる映画作家、カール・ドライヤー」上映会より
俺は『裁かるるジャンヌ』『奇跡』『怒りの日』の3本しか観ていないが、確かにすばらしい作家だ。
今回は『怒りの日』にだけ焦点を絞って、考察を進めてみようと思う。
『怒りの日』は『キリスト教における魔女狩りに真正面から取り組んだ映画であるが、主眼はその成否を世に問うものではない。
制作当時はナチスがヨーロッパ全土を蹂躙している最中(※1)であり、後にこの作品を論ずる際には決まって、『ファシズムによる20世紀最悪の蛮行』のアナロジィとしての『中世における魔女狩り』…という図式に収斂したようである。
※1『怒りの日』はデンマークの近現代史の中で最も暗い時期に公開された。1943年10月1日より、ナチスによる公然としたユダヤ人狩りが始まった。11月13日、コペンハーゲンの映画館でこの映画は封切られるが、観客にとって映画の中に描かれる魔女狩りが、ナチスによるユダヤ人狩りにだぶって見えたことは当然であろう。〜小松弘・陰に沈む魔術〜より
しかし、この作品はアナロジィでナチスそのものを断罪することにあるのでもなければ、それを行使する人間が持っている『闇』の普遍性を抽出しようと試みられたものでもないのだ。
ドライヤーは豊饒な語り口と類い稀なる技術を以て、“本物”の“芸術”作品を作るというど真ん中の王道を貫くことで、結果的にはファシズムを糾弾する、という形にも成り得たのかも知れない…。
……17世紀、デンマークのとある村の牧師館が物語の舞台となる。
建物の白い壁が、黒い影と歪なシンメトリを象作り、心の深淵の陰影を不気味にあぶり出す。
…そして、音。
『トーキー映画によって発明されたのは音声ではなく、沈黙である。』とはロベール・ブレッソンの言だが、この映画が意図して選んだ音…柱時計や嵐など…は何かの予兆を孕んだ禍禍しさを映画の心的な時間を刻んでいくが、その時間が止まる刹那を切り取る沈黙こそが、恐ろしい…
それは単に無音というものではなく、音なき音、声なき声…絶対の“しじま“である。
…この牧師館には、初老の牧師アプサロンと年若い後妻アンネ、そしてこの家を実質的に取り仕切っているアプサロンの母親が同居している。アンネはアプサロンの二番目の妻だが、母親は若く美しいアンネのことを快く思っていない。そこへ、留学していた先妻の息子マーチンが戻ってくる。 まだあどけなさの残る神学生は、若く美しい義母に惹かれ、やがて愛し合っていく…。
…やがて、この秘事を知った(或いはアンネによって故意に、悪意を以て知らされた)アプサロンはそのショックが元でしんでしまう。
…果たして、恋人は青年を誘惑し、アプサロンを異教の魔術を以て殺害した罪を問われ審問にかけられる。
その昔にアンネの母親も実は、魔女裁判にかけられていた。その、審議の際に彼女にとって有利と成りうる発言をし、結果的にアンネの母親を業火から救ったのは、アプサロンだったのだ、アンネがアプサロンのものになる事と引き換えに…
アンネは、(義理の、とは言え)自分の息子を情愛の虜としたばかりか、《言葉》という呪を以て自分の夫を死に追いやるに至って、自分が(母親と血を同じくして)魔女であることを確信的に受け入れざるを得なくなる。
さて、魔女とは何なのであろう。グレートマザーを引き合いに出すまでもなく、この物語のコンテキストから読み取れるのは、祖母こそが、魔女である…という、実に分かりやすいアイロニカルな逆説としての図式である。
…『かくて、母性はその根源に於いて、死と生の両面性を持っている。つまり、産み育てる肯定的な面と、すべてを呑み込んで死に到らしめる否定的な面をもつのである。否定、的な面は、子供を抱きしめる力が強すぎるあまり、子供の自立を妨げ、結局は子供を精神的な死に追いやっている状態として認められる。両者に共通な機能として、「包含する」ということが考えられるが、これが生につながるときと、死につながるときと両面をもつのである。』…〜河合隼雄・グレートマザーとは何か〜より
これが《元型》と呼ばれる、決して意識化されることのないプリミティブな深層心理である。元型は《情動》を常に伴って立ち現れる。情動とは人が持ちうる細やかな感情を遥かに超えた、“特化された”感情…日本に於いてはイザナミの極端な変貌ぶりや、スサノウの残虐性に見られる、今の我々から見れば、常軌を逸しているとしか判断の付かない、それらの根拠に見合うだけのエモーショナルな質量が見出だせない非人間的なる心の働きである。
アンネの義理の息子であり、彼女が誘惑したとされる恋人でもある青年は、異端審問に至って祖母の“包含”に寝返り偽りの安寧を得る。青年の冒険心を挫き、死に到らしめる過程は、母殺しを以て少年から大人になるイニシエーションの困難さを示す元型の、正に王道だ。
ギリシア神話の少年神アドニスはその美貌故に女神アテナに寵愛されるも、アドニスが他の娘に心移りをするのを知るや否や、彼を殺してしまう。この極端な行動もまた《情動》の為せる業である。母からの自立のモチーフは、また別の神話で語られる。ペルセウスの神話では、魔女メデューサを殺し、悪しきグレートマザーの包含の軛から“自立”する。しかし、それだけでは足りない。大人の男に成るためのもうひとつの重要な要素。
それは魔物…あるいは魔界の虜となっている《姫》を救い出すこと。この二つがクリアされて初めて少年は男になることを許されるのだ。
さて、『怒りの日』に話を戻そう。
マーチンは祖母(グレートマザー)の厳格な躾と愛情を以て育てられるも、美しい義母の出現が彼に恋に対する冒険心を生じせしめる。白い壁と黒い影の迷宮に囚われし《姫》が義《母》である、その一点に於いて『怒りの日』は神話による解釈から脱却する。
アンネは《母》であり《魔女》であり…それと同時に《姫》でもあるのだ。
…カール・ドライヤーはグレートマザー=《聖母》+《魔女》という定式に《姫》を加入することによって、ユング心理学の『元型』というシステムを『物語』から駆逐する。
…ドライヤーは私生児であった。彼の母親はドライヤーを産んで後、すぐに消息を絶つ。長じて彼は、母の消息を探る。彼女は別の地で子を身篭るが、中絶を迫られ自ら民間療法で行われていた硫黄を服用し、その中毒が元で亡くなってしまう。
何故、母は死ななければならなかったのか?何故、世界は女性に理不尽な仕打ちをして、それがまかり通るのか?
父性原理を要(かなめ)とする、キリスト教の脅威となるのは、グレートマザーだったのだと思う。ルターの宗教改革以前のヨーロッパにおけるキリスト教は腐敗していた…というよりもドグマに対しておおらかであった、と言える。教義を一枚岩のものとすべく、各地の神学者たちによる公会議や、ローマ皇帝をも巻き込む論争の果て、異端を切り崩す消去法でもって少しずつ整備されていくが、画一的な教義の押し付けにたいして、市民レベルでは仏教で言うところの習合性による補償で以て個々が折り合いをつけていったのかも知れない。
それが後の、ルターによるヨーロッパ全土を巻き込む宗教改革によって、キリスト教の聖典である聖書の記述以外は異端とする、異常なまでの狭窄的な原理主義に収斂していく。それまで、善と等しいディメンジョンで扱われていた悪という二元論を信条とするグノーシス主義に代表されるイマジネーションは駆逐されてしまった。キリスト教(一元論)からはみ出してしまった“影“を一手に引き受けていたシステムが消滅してしまった時、聖書と自己を対照した際に必ずや生ずる齟齬を、この新しいキリスト教の担い手たちは発作的に魔女という、心の影の《記号》を造り上げたのだろう。
聖マリアを代表とする聖女が、グレートマザーに於ける、善き母として、魔女が悪しき一面を代表する《記号》であることは間違いない。審問の席で、あれ程愛した女性を、「自分を誘惑し、父を殺した魔女だ」と土壇場になって弾劾したのも、男として自立出来ない精神の脆弱さを他者のせいにしたに過ぎない。男性社会の面目を維持するためには相対する女性に、罪を預ければいい。そしてその心理の裡には女性そのものに対する畏怖も内在しているのだ。その、己の裡にある恐怖心、罪悪感は魔女という内在的な意味を含む《記号》に全てを委ねていれば、自己は傷つかないで済む。この場合、魔女という《記号》は集団の意識的なConsensusだ。
決して、ユングの言う集合的無意識によるものではない。
俺が疑問に思うのはどちらのグレートマザーに於いてもこちら側に働き掛ける一連の機能としてのみ、そのアイディンティ(役割)を認められていない…という点だ。
グノーシスを彩る様々な神話たち。その豊饒な情感を湛える物語を…あるいは個々のユニークなキャラクターたちをリアルな人間を普遍的にアナライズする道具としてのみ視る、というのは相対比された“対象”たる人間に対する視点も結果的には唯物論的実存主義に陥ってしまう。
アンネは機能としての《母》でも《姫》でも《魔女》でもない。
…ただ、外延としての《母》であり《姫》であり《魔女》であるだけだ。
どんな記号も意味も拒む…ひとりの女性であるアンネという不思議な存在。
…しかし、何か人智を超えた“女性的”としか表現のしようがない、神秘性を湛えた存在として屹立する。
全ての元型を踏み台にして球的な完全性を目指すことが、個性化と呼ばれる、理想的な成長の形というユング心理学の概念は、従って『物語』を演繹的な素材としてしか捉えられない、ということになる。全てが個性化のための供物に還元してしまうその果てにあるのは、あるいは超人思想…なのかも知れない。そして、その先にあるのがこの作品が制作された時期を等しくして、ヨーロッパ中を制圧して尚、勢力図を拡げようとするナチスの標榜する思想なのか…
ユングがナチスの思想体系を支えたアンカーマンであったのか否かは関係ない。カール・ドライヤーは物語を物語として守ることによって、無機質な道具に物語が利用され、没個性的な《個性化》が進む先の排他的超人思想=ナチスによるファシズムに対して、結果的に…あくまでも結果的にアンチテーゼを示したのだとも言える。
あるいは、女性の潜在的な力が飽和点に達した際に放されるものこそ、グノーシス主義における、《ガイスト⇒プシケ⇒ヒュレー⇒ゼーレ》という魂の序列を超越した、女性・性の生命力の源泉として捉え、それに魅せられ、それを物語に焼き付けるべく、カール・ドライヤーは映画を撮り続けたのかも知れない。
「‘宗教的宇宙’を創造する可能性を真剣に追求した最初の映画監督であり、その仕事の難しさはそれがもつ途方もない大きさゆえといわれ、ゆえにその映画人生は決して幸福とは言えなかった20世紀最大の映画監督、カール・ドライヤー。魂を俳優にはりつけ、台詞を顔への表情へと転化させ、人間の意志を超えた‘それ’は、日常をくぐりぬけさらに純化していく…。」「聖なる映画作家、カール・ドライヤー」上映会より
俺は『裁かるるジャンヌ』『奇跡』『怒りの日』の3本しか観ていないが、確かにすばらしい作家だ。
今回は『怒りの日』にだけ焦点を絞って、考察を進めてみようと思う。
『怒りの日』は『キリスト教における魔女狩りに真正面から取り組んだ映画であるが、主眼はその成否を世に問うものではない。
制作当時はナチスがヨーロッパ全土を蹂躙している最中(※1)であり、後にこの作品を論ずる際には決まって、『ファシズムによる20世紀最悪の蛮行』のアナロジィとしての『中世における魔女狩り』…という図式に収斂したようである。
※1『怒りの日』はデンマークの近現代史の中で最も暗い時期に公開された。1943年10月1日より、ナチスによる公然としたユダヤ人狩りが始まった。11月13日、コペンハーゲンの映画館でこの映画は封切られるが、観客にとって映画の中に描かれる魔女狩りが、ナチスによるユダヤ人狩りにだぶって見えたことは当然であろう。〜小松弘・陰に沈む魔術〜より
しかし、この作品はアナロジィでナチスそのものを断罪することにあるのでもなければ、それを行使する人間が持っている『闇』の普遍性を抽出しようと試みられたものでもないのだ。
ドライヤーは豊饒な語り口と類い稀なる技術を以て、“本物”の“芸術”作品を作るというど真ん中の王道を貫くことで、結果的にはファシズムを糾弾する、という形にも成り得たのかも知れない…。
……17世紀、デンマークのとある村の牧師館が物語の舞台となる。
建物の白い壁が、黒い影と歪なシンメトリを象作り、心の深淵の陰影を不気味にあぶり出す。
…そして、音。
『トーキー映画によって発明されたのは音声ではなく、沈黙である。』とはロベール・ブレッソンの言だが、この映画が意図して選んだ音…柱時計や嵐など…は何かの予兆を孕んだ禍禍しさを映画の心的な時間を刻んでいくが、その時間が止まる刹那を切り取る沈黙こそが、恐ろしい…
それは単に無音というものではなく、音なき音、声なき声…絶対の“しじま“である。
…この牧師館には、初老の牧師アプサロンと年若い後妻アンネ、そしてこの家を実質的に取り仕切っているアプサロンの母親が同居している。アンネはアプサロンの二番目の妻だが、母親は若く美しいアンネのことを快く思っていない。そこへ、留学していた先妻の息子マーチンが戻ってくる。 まだあどけなさの残る神学生は、若く美しい義母に惹かれ、やがて愛し合っていく…。
…やがて、この秘事を知った(或いはアンネによって故意に、悪意を以て知らされた)アプサロンはそのショックが元でしんでしまう。
…果たして、恋人は青年を誘惑し、アプサロンを異教の魔術を以て殺害した罪を問われ審問にかけられる。
その昔にアンネの母親も実は、魔女裁判にかけられていた。その、審議の際に彼女にとって有利と成りうる発言をし、結果的にアンネの母親を業火から救ったのは、アプサロンだったのだ、アンネがアプサロンのものになる事と引き換えに…
アンネは、(義理の、とは言え)自分の息子を情愛の虜としたばかりか、《言葉》という呪を以て自分の夫を死に追いやるに至って、自分が(母親と血を同じくして)魔女であることを確信的に受け入れざるを得なくなる。
さて、魔女とは何なのであろう。グレートマザーを引き合いに出すまでもなく、この物語のコンテキストから読み取れるのは、祖母こそが、魔女である…という、実に分かりやすいアイロニカルな逆説としての図式である。
…『かくて、母性はその根源に於いて、死と生の両面性を持っている。つまり、産み育てる肯定的な面と、すべてを呑み込んで死に到らしめる否定的な面をもつのである。否定、的な面は、子供を抱きしめる力が強すぎるあまり、子供の自立を妨げ、結局は子供を精神的な死に追いやっている状態として認められる。両者に共通な機能として、「包含する」ということが考えられるが、これが生につながるときと、死につながるときと両面をもつのである。』…〜河合隼雄・グレートマザーとは何か〜より
これが《元型》と呼ばれる、決して意識化されることのないプリミティブな深層心理である。元型は《情動》を常に伴って立ち現れる。情動とは人が持ちうる細やかな感情を遥かに超えた、“特化された”感情…日本に於いてはイザナミの極端な変貌ぶりや、スサノウの残虐性に見られる、今の我々から見れば、常軌を逸しているとしか判断の付かない、それらの根拠に見合うだけのエモーショナルな質量が見出だせない非人間的なる心の働きである。
アンネの義理の息子であり、彼女が誘惑したとされる恋人でもある青年は、異端審問に至って祖母の“包含”に寝返り偽りの安寧を得る。青年の冒険心を挫き、死に到らしめる過程は、母殺しを以て少年から大人になるイニシエーションの困難さを示す元型の、正に王道だ。
ギリシア神話の少年神アドニスはその美貌故に女神アテナに寵愛されるも、アドニスが他の娘に心移りをするのを知るや否や、彼を殺してしまう。この極端な行動もまた《情動》の為せる業である。母からの自立のモチーフは、また別の神話で語られる。ペルセウスの神話では、魔女メデューサを殺し、悪しきグレートマザーの包含の軛から“自立”する。しかし、それだけでは足りない。大人の男に成るためのもうひとつの重要な要素。
それは魔物…あるいは魔界の虜となっている《姫》を救い出すこと。この二つがクリアされて初めて少年は男になることを許されるのだ。
さて、『怒りの日』に話を戻そう。
マーチンは祖母(グレートマザー)の厳格な躾と愛情を以て育てられるも、美しい義母の出現が彼に恋に対する冒険心を生じせしめる。白い壁と黒い影の迷宮に囚われし《姫》が義《母》である、その一点に於いて『怒りの日』は神話による解釈から脱却する。
アンネは《母》であり《魔女》であり…それと同時に《姫》でもあるのだ。
…カール・ドライヤーはグレートマザー=《聖母》+《魔女》という定式に《姫》を加入することによって、ユング心理学の『元型』というシステムを『物語』から駆逐する。
…ドライヤーは私生児であった。彼の母親はドライヤーを産んで後、すぐに消息を絶つ。長じて彼は、母の消息を探る。彼女は別の地で子を身篭るが、中絶を迫られ自ら民間療法で行われていた硫黄を服用し、その中毒が元で亡くなってしまう。
何故、母は死ななければならなかったのか?何故、世界は女性に理不尽な仕打ちをして、それがまかり通るのか?
父性原理を要(かなめ)とする、キリスト教の脅威となるのは、グレートマザーだったのだと思う。ルターの宗教改革以前のヨーロッパにおけるキリスト教は腐敗していた…というよりもドグマに対しておおらかであった、と言える。教義を一枚岩のものとすべく、各地の神学者たちによる公会議や、ローマ皇帝をも巻き込む論争の果て、異端を切り崩す消去法でもって少しずつ整備されていくが、画一的な教義の押し付けにたいして、市民レベルでは仏教で言うところの習合性による補償で以て個々が折り合いをつけていったのかも知れない。
それが後の、ルターによるヨーロッパ全土を巻き込む宗教改革によって、キリスト教の聖典である聖書の記述以外は異端とする、異常なまでの狭窄的な原理主義に収斂していく。それまで、善と等しいディメンジョンで扱われていた悪という二元論を信条とするグノーシス主義に代表されるイマジネーションは駆逐されてしまった。キリスト教(一元論)からはみ出してしまった“影“を一手に引き受けていたシステムが消滅してしまった時、聖書と自己を対照した際に必ずや生ずる齟齬を、この新しいキリスト教の担い手たちは発作的に魔女という、心の影の《記号》を造り上げたのだろう。
聖マリアを代表とする聖女が、グレートマザーに於ける、善き母として、魔女が悪しき一面を代表する《記号》であることは間違いない。審問の席で、あれ程愛した女性を、「自分を誘惑し、父を殺した魔女だ」と土壇場になって弾劾したのも、男として自立出来ない精神の脆弱さを他者のせいにしたに過ぎない。男性社会の面目を維持するためには相対する女性に、罪を預ければいい。そしてその心理の裡には女性そのものに対する畏怖も内在しているのだ。その、己の裡にある恐怖心、罪悪感は魔女という内在的な意味を含む《記号》に全てを委ねていれば、自己は傷つかないで済む。この場合、魔女という《記号》は集団の意識的なConsensusだ。
決して、ユングの言う集合的無意識によるものではない。
俺が疑問に思うのはどちらのグレートマザーに於いてもこちら側に働き掛ける一連の機能としてのみ、そのアイディンティ(役割)を認められていない…という点だ。
グノーシスを彩る様々な神話たち。その豊饒な情感を湛える物語を…あるいは個々のユニークなキャラクターたちをリアルな人間を普遍的にアナライズする道具としてのみ視る、というのは相対比された“対象”たる人間に対する視点も結果的には唯物論的実存主義に陥ってしまう。
アンネは機能としての《母》でも《姫》でも《魔女》でもない。
…ただ、外延としての《母》であり《姫》であり《魔女》であるだけだ。
どんな記号も意味も拒む…ひとりの女性であるアンネという不思議な存在。
…しかし、何か人智を超えた“女性的”としか表現のしようがない、神秘性を湛えた存在として屹立する。
全ての元型を踏み台にして球的な完全性を目指すことが、個性化と呼ばれる、理想的な成長の形というユング心理学の概念は、従って『物語』を演繹的な素材としてしか捉えられない、ということになる。全てが個性化のための供物に還元してしまうその果てにあるのは、あるいは超人思想…なのかも知れない。そして、その先にあるのがこの作品が制作された時期を等しくして、ヨーロッパ中を制圧して尚、勢力図を拡げようとするナチスの標榜する思想なのか…
ユングがナチスの思想体系を支えたアンカーマンであったのか否かは関係ない。カール・ドライヤーは物語を物語として守ることによって、無機質な道具に物語が利用され、没個性的な《個性化》が進む先の排他的超人思想=ナチスによるファシズムに対して、結果的に…あくまでも結果的にアンチテーゼを示したのだとも言える。
あるいは、女性の潜在的な力が飽和点に達した際に放されるものこそ、グノーシス主義における、《ガイスト⇒プシケ⇒ヒュレー⇒ゼーレ》という魂の序列を超越した、女性・性の生命力の源泉として捉え、それに魅せられ、それを物語に焼き付けるべく、カール・ドライヤーは映画を撮り続けたのかも知れない。
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19:41
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2011年06月07日
夢・名人笑飄亭海老助 ニセ牛男
そこは板張り床であった。その床の中央に茶渋染めの座布団がひとつ置いてある。そこは高座で、そしてそこを下に降りたところが客席なのだろう。私はどうやら夢を見ているようだ。客席のそこも板張りで、それに五十あまりあろうか座布団が並べてあるようだ。藍染の綿の薄っぺらなのだ。すでにお客は入場しており、それぞれに好みの居場所に座って、目の先の高座を見ている。客の目線でいえば、高座は床の間風のしつらえだ。そしてその一段上がった板張り高座に置かれた座布団の主を、いまかいまかと待ちかねている風であった。
寄席の小屋は、壁も板張り、また窓がない。もう一度いうが、これは夢である。小屋の板壁は、下が安物の杉材かなにかの羽目板造りで、上は淡い薄茶の漆喰壁だった。たぶん昼間なのか…、いや夜なのか…。外からの騒音はとくに小屋の中に聞こえてこないから、音は客席のざわざわとした声がただするばかりだった。そんな風にざわめきは結構あるのになぜか、同時に静けさをやたらに感じる。だからたぶん、夜なのかもしれない。たぶん、そうだろう。なにかしらお客達の呼吸の気配にも、そんな雰囲気があった。
さて、先ほどから…すでに五分はたったろうか。しかし高座の主はまだ現れなかった。それから一、二分後のことだった。とうとうチチンドンドンとお囃子が鳴り、若い衆が床の間舞台(つまり高座)の横っちょから現れ出てきて、あの中央の茶渋色の座布団をひょいっと、ひっくり返して、また横っちょへ引っ込んでいった。… …… ………。さてそれから、またひと間があった。やがて、やっと、あの若い衆が引っ込んだ、あのあたりから、ふいに、しょぼくれた年寄りの小男がふわりと出てきた。
なんだが足元がふらふらとたよりない。しかし寄席のお客たちは、そのしょぼくれ爺さんの登場の気配を見つけると、「わあっ」とばかりに誰も彼もが、大拍手、大喝采した。「よっ、師匠待ってました」と掛け声をかける輩もある。
あの老噺家の師匠はまだ歩いている。私は夢を見続けている。なかなかあの茶渋染めの座布団まで、老人はたどりつかない。とにかく一歩にかかる時間が超長い。しかし寄席のお客は、もうさっきから夢中な様子らしく、そのしょぼくれ爺さんな師匠の、その超スローな歩みに注目しているのだ。そんでもって、胸をワクワクとさせているらしかった。私にゃあ分からねえ…。しかし、どうやら老噺家の一歩の歩みが、もうスリルとサスペンスに満ちているらしかった。
そろり…そろっと…、爺さんが踏み出し上げた足が宙に舞い上がる。すると師匠の身体全体がバランスを失って、ふらふらと不安定に揺れる。もう、今にもひっくり返りそうだ。ゴクリと近くの客の誰かが生唾を飲み込む大きな音が、私の耳に聞こえた。しかし師匠は踏ん張っているのか、転ばない。そして上がった師匠の前足はやがて、ゆっくりと下降軌道にはいる。大気圏突入は、その角度を誤ると危険だ。そしてついには床板に無事に軟着陸する。今度は「はぁーっ」と、誰かの大きなため息が私の耳に聞こえてくる。ここは…夢の中。
そうやって一歩一歩がまさに緊迫感のある一喜一憂。六十以上の客席の目の玉が。どれもこれも、みんなその老いぼれ噺家師匠の歩みに夢中であった。…あ、噺家なんだ…。客のなかには、すでに握りしめた拳に汗をかいている者もあった。もう出囃子から10分はたったろうか。…今は、何時だろう…。ついに師匠の先足が座布団にとどく時がきた。その時であった。
「あ」
「きゃっ」
とおもわず客の中に声を出す者がでた。なんと座布団がすぽんと高座から客席の床に滑り落ちた。
いや噺家が蹴飛ばしたのか?いやいや…。しかし、ともかく、座布団は今は客のいる板の間にあった。誰か拾い上げてやれよ。それとも、あの脇から弟子が出てきてやるのかな。しかし、誰もその座布団に近づかなかった。高座の脇から若衆があわてて出てくるでもない。
お客はお客で、いたたまれないような顔をしたり、また次のなにかに期待するように眼がぎらぎら光りだしている者もあった。しかし、誰もがご禁制のように、落ちた座布団に触れないのだった。当の老師匠も、事のなりゆきに、特にあわてる風もなく無表情であり、飄々とした顔であった。そして、いなくなった座布団のあった辺りの板床を、さらに一歩一歩と歩いて来るのだった。そしてとうとう高座の端まできた。その先は空中。客席の中の、一人の娘は顔を手でキャッ隠す。しかしその隠した指の間から恐る恐る高座を見ている。…あ、彼女の指の間だから師匠が見えるよ…。すると、師匠はぴたりと立ち止まった。なんだか、もうこれ以上は行かれませんという風合いである。と、思うとそうではなくて、いきなりストンと腰を床へ落とすように座り込んだ。
あわてて横から若い衆が二人ほど青い顔で飛び出してきて師匠を抱きかかえようとした。すると「ううん」不機嫌そうに当の老人がうめいて、二人の若衆を払いのけようとする。客席からも「いいからほっといてやれい」と怒鳴り声があがった。
それに呼応するように、そうだそうだという者もある。若衆はしょちなし顔でしょぼくれて引っ込んでゆく。ふたたび一人になった老噺家に向かい、お客たちから拍手がドッ鳴った。しかし当の老人は聞こえているのかいないのか、そんな拍手喝さいなど気にする風もない。そして横に片手を着くと横に寝だした。完全に横になると、つぎに両足を高座から下の客席の床になげだした。
高さは田舎の屋敷の床の間程度だから(どこの?)そう高くもないが、年寄りが立ったまま上がり降りするにはちいと高い。どうやら、それでこの老師匠は座り込み、寝転んだらしい。お客が「きっとそうだ」とボソボソとそんな検討をしていると、スルスルと落語家の身体が床下に滑り落ちはじめたのだった。また客席からきいろい悲鳴が「きゃあ」と上がった。しかし、滑り落ちた老人の身体はみごとに、あの茶渋染めの座布団の上にチョコンと舞い降りていた。
「いよっ、名人」
威勢のいい掛け声に、わあっと他の客の歓声が上がり、どどっと割れんばかりの拍手が寄席小屋いっぱいに鳴り響いた。しかし(そう、しかしだよ。)当の噺家はそのことをまるで気にする風もなく、寝た身体を両手で起こし上げに懸命である。そしてようやく、座布団のまんまん中に正座したした途端、いままでの無表情が氷解したような恵比須顔で頭をたれた。
寄席の小屋は、壁も板張り、また窓がない。もう一度いうが、これは夢である。小屋の板壁は、下が安物の杉材かなにかの羽目板造りで、上は淡い薄茶の漆喰壁だった。たぶん昼間なのか…、いや夜なのか…。外からの騒音はとくに小屋の中に聞こえてこないから、音は客席のざわざわとした声がただするばかりだった。そんな風にざわめきは結構あるのになぜか、同時に静けさをやたらに感じる。だからたぶん、夜なのかもしれない。たぶん、そうだろう。なにかしらお客達の呼吸の気配にも、そんな雰囲気があった。
さて、先ほどから…すでに五分はたったろうか。しかし高座の主はまだ現れなかった。それから一、二分後のことだった。とうとうチチンドンドンとお囃子が鳴り、若い衆が床の間舞台(つまり高座)の横っちょから現れ出てきて、あの中央の茶渋色の座布団をひょいっと、ひっくり返して、また横っちょへ引っ込んでいった。… …… ………。さてそれから、またひと間があった。やがて、やっと、あの若い衆が引っ込んだ、あのあたりから、ふいに、しょぼくれた年寄りの小男がふわりと出てきた。
なんだが足元がふらふらとたよりない。しかし寄席のお客たちは、そのしょぼくれ爺さんの登場の気配を見つけると、「わあっ」とばかりに誰も彼もが、大拍手、大喝采した。「よっ、師匠待ってました」と掛け声をかける輩もある。
あの老噺家の師匠はまだ歩いている。私は夢を見続けている。なかなかあの茶渋染めの座布団まで、老人はたどりつかない。とにかく一歩にかかる時間が超長い。しかし寄席のお客は、もうさっきから夢中な様子らしく、そのしょぼくれ爺さんな師匠の、その超スローな歩みに注目しているのだ。そんでもって、胸をワクワクとさせているらしかった。私にゃあ分からねえ…。しかし、どうやら老噺家の一歩の歩みが、もうスリルとサスペンスに満ちているらしかった。
そろり…そろっと…、爺さんが踏み出し上げた足が宙に舞い上がる。すると師匠の身体全体がバランスを失って、ふらふらと不安定に揺れる。もう、今にもひっくり返りそうだ。ゴクリと近くの客の誰かが生唾を飲み込む大きな音が、私の耳に聞こえた。しかし師匠は踏ん張っているのか、転ばない。そして上がった師匠の前足はやがて、ゆっくりと下降軌道にはいる。大気圏突入は、その角度を誤ると危険だ。そしてついには床板に無事に軟着陸する。今度は「はぁーっ」と、誰かの大きなため息が私の耳に聞こえてくる。ここは…夢の中。
そうやって一歩一歩がまさに緊迫感のある一喜一憂。六十以上の客席の目の玉が。どれもこれも、みんなその老いぼれ噺家師匠の歩みに夢中であった。…あ、噺家なんだ…。客のなかには、すでに握りしめた拳に汗をかいている者もあった。もう出囃子から10分はたったろうか。…今は、何時だろう…。ついに師匠の先足が座布団にとどく時がきた。その時であった。
「あ」
「きゃっ」
とおもわず客の中に声を出す者がでた。なんと座布団がすぽんと高座から客席の床に滑り落ちた。
いや噺家が蹴飛ばしたのか?いやいや…。しかし、ともかく、座布団は今は客のいる板の間にあった。誰か拾い上げてやれよ。それとも、あの脇から弟子が出てきてやるのかな。しかし、誰もその座布団に近づかなかった。高座の脇から若衆があわてて出てくるでもない。
お客はお客で、いたたまれないような顔をしたり、また次のなにかに期待するように眼がぎらぎら光りだしている者もあった。しかし、誰もがご禁制のように、落ちた座布団に触れないのだった。当の老師匠も、事のなりゆきに、特にあわてる風もなく無表情であり、飄々とした顔であった。そして、いなくなった座布団のあった辺りの板床を、さらに一歩一歩と歩いて来るのだった。そしてとうとう高座の端まできた。その先は空中。客席の中の、一人の娘は顔を手でキャッ隠す。しかしその隠した指の間から恐る恐る高座を見ている。…あ、彼女の指の間だから師匠が見えるよ…。すると、師匠はぴたりと立ち止まった。なんだか、もうこれ以上は行かれませんという風合いである。と、思うとそうではなくて、いきなりストンと腰を床へ落とすように座り込んだ。
あわてて横から若い衆が二人ほど青い顔で飛び出してきて師匠を抱きかかえようとした。すると「ううん」不機嫌そうに当の老人がうめいて、二人の若衆を払いのけようとする。客席からも「いいからほっといてやれい」と怒鳴り声があがった。
それに呼応するように、そうだそうだという者もある。若衆はしょちなし顔でしょぼくれて引っ込んでゆく。ふたたび一人になった老噺家に向かい、お客たちから拍手がドッ鳴った。しかし当の老人は聞こえているのかいないのか、そんな拍手喝さいなど気にする風もない。そして横に片手を着くと横に寝だした。完全に横になると、つぎに両足を高座から下の客席の床になげだした。
高さは田舎の屋敷の床の間程度だから(どこの?)そう高くもないが、年寄りが立ったまま上がり降りするにはちいと高い。どうやら、それでこの老師匠は座り込み、寝転んだらしい。お客が「きっとそうだ」とボソボソとそんな検討をしていると、スルスルと落語家の身体が床下に滑り落ちはじめたのだった。また客席からきいろい悲鳴が「きゃあ」と上がった。しかし、滑り落ちた老人の身体はみごとに、あの茶渋染めの座布団の上にチョコンと舞い降りていた。
「いよっ、名人」
威勢のいい掛け声に、わあっと他の客の歓声が上がり、どどっと割れんばかりの拍手が寄席小屋いっぱいに鳴り響いた。しかし(そう、しかしだよ。)当の噺家はそのことをまるで気にする風もなく、寝た身体を両手で起こし上げに懸命である。そしてようやく、座布団のまんまん中に正座したした途端、いままでの無表情が氷解したような恵比須顔で頭をたれた。
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19:35
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2011年05月13日
カテリーナ 笛吹ピエロ
評判のコミュニティサイトに登録したのは最近でした。「実名とプロフィール写真の公開がルール」たしかに、長く連絡の途絶えた旧友を探すのには顔写真があるのは便利でした。でも、なかなか旧友にはたどり着けません。顔写真が並ぶページをずっと熱心に探しているのですが、記憶にない人の顔ばかりでした。
そんな時に、ふと気分転換に「外国人のイラストレーターと友達になれたら?」と思いついて、下手な英語で外国人に挨拶をしていきました。それぞれのイラストレーターのページには、その人の描いた絵が公開してあって、気に入った絵を見つけると「あなたの絵は素晴らしいですね」と英文で声をかけていったのでした。でも、すんなりと行くはずはありません。何人もの人に断られ続けています。
やってるうちに、この方法だけだと難しい気がして「ファンサイトに書きこんでみたら?」という意見があるのを知り実行しました。つまり、コミュニティの有名人のファンサイトに登録すれば、同じ趣味の友達ができる可能性があるみたいなのです。それで、僕の尊敬する画家「ゴッホ」のサイトを見つけて登録して「私はゴッホを尊敬しています」と日本語でコメントを書きこんだのでした。英語で書かなかったのは、「70,000人ほどが登録しているゴッホのサイトに日本語が分かる人がいるだろうか?」という興味があったからです。
すると、本当にすぐに、ある人から「いいね」の反応がきたのでした。書かれたコメントに共感すればコメント欄の「いいね」のボタンを押して相手に知らせるのです。また、その人は僕のページにも足を運んでくれていたのでした。僕が書いた記事の1つに、やはり「いいね」が記録されていたのでした。
僕は「この人はどんな人だろう?」と思いさっそく、その人のページに行ってみました。しかし、プロフィール写真は、海か川らしき風景が映っているだけの殺風景な写真。どんな人であるのかはさっぱり想像ができませんでした。
行ってみると、プロフィール写真以外に10枚ほどの写真が公開されていました。やはり海か川、それもまったく美しくはなくて、くすんだ空の色と暗い水の色ばかりが映っているだけ、とてもひっそりとした場所。岸に白い枯れ木が転がっている様子とか、赤いチューリップが頭をたれている写真とか、見ていると淋しい気持ちになる写真ばかりだったのでした。
そして、それらの写真の中に、女性が1人映る姿を見つけると「この人なのだろうか?」と不思議な気持ちになったのでした。髪が長く痩せた若い女性。真冬の服装をして微笑んでいる表情を見ると、絶世の美人には見えませんが、はにかんだ白い顔からは、妙に気になるものを感じるのでした。
彼女の名前は「カテリーナ」28歳のロシア人でした。ロシアは広い国ですが、彼女が住んでいるのはインドの北の方の街でした。そこには海はないので、彼女が撮ったであろう写真は、たぶん川であったのだと思います。僕はカテリーナに友達リクエストをしました。
すると彼女からすぐに「OK」の承諾が入りました。カテリーナには友達がまだ3人しかいなくて、その友達ともほとんど交流がない様子でした。彼女は大変よろこんでくれました。2人の英語によるメッセージのやり取りは始まったのでした。
「カテリーナ元気?」「ええ私は元気だわ」「今日の日本は暑かったです。30度ありましたよ」「こちらは+1度です」…そのうち「カテリーナの長い髪はきれいですね」とほめると「ありがとう。私の髪はカールしているの」と返事がきました。しかし、僕の下手な英語が、ロシア人であるカテリーナにどれくらい正確に通じているのかは分かりませんし、また、カテリーナがどれくらい英語が理解できるのかは分からないのです。ただ、それを聞いてしまうと、2人のやり取りが終わってしまう気がして、彼女にはっきりと聞けないでいます。
…それで、今は途切れた感じ。でも、僕はカテリーナのことが気になって仕方がないです。それは、彼女が撮った暗い川の写真が気がかりなことと、そして、彼女のカールした長い髪に、ある女性の面影を見つけたせいなのかもしれません。
そんな時に、ふと気分転換に「外国人のイラストレーターと友達になれたら?」と思いついて、下手な英語で外国人に挨拶をしていきました。それぞれのイラストレーターのページには、その人の描いた絵が公開してあって、気に入った絵を見つけると「あなたの絵は素晴らしいですね」と英文で声をかけていったのでした。でも、すんなりと行くはずはありません。何人もの人に断られ続けています。
やってるうちに、この方法だけだと難しい気がして「ファンサイトに書きこんでみたら?」という意見があるのを知り実行しました。つまり、コミュニティの有名人のファンサイトに登録すれば、同じ趣味の友達ができる可能性があるみたいなのです。それで、僕の尊敬する画家「ゴッホ」のサイトを見つけて登録して「私はゴッホを尊敬しています」と日本語でコメントを書きこんだのでした。英語で書かなかったのは、「70,000人ほどが登録しているゴッホのサイトに日本語が分かる人がいるだろうか?」という興味があったからです。
すると、本当にすぐに、ある人から「いいね」の反応がきたのでした。書かれたコメントに共感すればコメント欄の「いいね」のボタンを押して相手に知らせるのです。また、その人は僕のページにも足を運んでくれていたのでした。僕が書いた記事の1つに、やはり「いいね」が記録されていたのでした。
僕は「この人はどんな人だろう?」と思いさっそく、その人のページに行ってみました。しかし、プロフィール写真は、海か川らしき風景が映っているだけの殺風景な写真。どんな人であるのかはさっぱり想像ができませんでした。
行ってみると、プロフィール写真以外に10枚ほどの写真が公開されていました。やはり海か川、それもまったく美しくはなくて、くすんだ空の色と暗い水の色ばかりが映っているだけ、とてもひっそりとした場所。岸に白い枯れ木が転がっている様子とか、赤いチューリップが頭をたれている写真とか、見ていると淋しい気持ちになる写真ばかりだったのでした。
そして、それらの写真の中に、女性が1人映る姿を見つけると「この人なのだろうか?」と不思議な気持ちになったのでした。髪が長く痩せた若い女性。真冬の服装をして微笑んでいる表情を見ると、絶世の美人には見えませんが、はにかんだ白い顔からは、妙に気になるものを感じるのでした。
彼女の名前は「カテリーナ」28歳のロシア人でした。ロシアは広い国ですが、彼女が住んでいるのはインドの北の方の街でした。そこには海はないので、彼女が撮ったであろう写真は、たぶん川であったのだと思います。僕はカテリーナに友達リクエストをしました。
すると彼女からすぐに「OK」の承諾が入りました。カテリーナには友達がまだ3人しかいなくて、その友達ともほとんど交流がない様子でした。彼女は大変よろこんでくれました。2人の英語によるメッセージのやり取りは始まったのでした。
「カテリーナ元気?」「ええ私は元気だわ」「今日の日本は暑かったです。30度ありましたよ」「こちらは+1度です」…そのうち「カテリーナの長い髪はきれいですね」とほめると「ありがとう。私の髪はカールしているの」と返事がきました。しかし、僕の下手な英語が、ロシア人であるカテリーナにどれくらい正確に通じているのかは分かりませんし、また、カテリーナがどれくらい英語が理解できるのかは分からないのです。ただ、それを聞いてしまうと、2人のやり取りが終わってしまう気がして、彼女にはっきりと聞けないでいます。
…それで、今は途切れた感じ。でも、僕はカテリーナのことが気になって仕方がないです。それは、彼女が撮った暗い川の写真が気がかりなことと、そして、彼女のカールした長い髪に、ある女性の面影を見つけたせいなのかもしれません。
Posted by fuefukipiero at
14:58
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2011年04月25日
CGアニメ ファンスタ

地球から425万光年(ヒント:日付)彼方に住んでいる、ズンドコ星人で〜す。
彼らはなんと地球侵略計画を企てました。2年前のことです。
しかし、あきらか〜な技術不足がわかり、計画は決行目前にて頓挫したのでありました。
それ以来、連中はこうして毎日を散歩して暮らしているのでした。 〔おしまい〕
Posted by fuefukipiero at
10:08
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2011年04月22日
悪王退治 ニセ牛男
ここに、ひどい悪政をする暴君の国があった。この国の民は苦しみ喘いでいたが、王にたてつくなど恐ろしくて、なすすべはなく暮らしていた。実は、その君主がこの国を治めるようになってそう長くはなかった。ほんのまだ数年のことであった。
今や暴君となった彼は、その数年前にはなんと救世主だ英雄だと、民衆に賞賛されていたのだ。それは彼が、先代の強悪な君主にただ一人で立ち向かい、そして退治したからだった。そして、この男は民衆にこわれ、願われるかたちで新しい君主になったのだった。
しかし、人々が彼を褒め称えたのはほんの一時。わずかに半年もたたず、彼の評判は『恐ろしい悪君主』になっていた。そう、彼はその隠していた野心と本性を現したのだ。村人達は、そう泣きながら君達に語って聞かせた。
「ゆるせない」
そういうと、君達一行は悪君主の城に勇んで乗り込んだ。腕になら絶対の自信があった。そして、その自信には虚栄は無く、ついに、その悪君主をみごと退治した。ところが…。その悪君主は、ついに観念するなり、君達にこう言った。
「ありがとう、これで地獄から出られる」
驚いて、いったいどういう事かと問うと、君主は弱まる息の中で言った。
「もう暴力沙汰はうんざりなんだ」
君達達はますますわからない。それを尻目に元君主は話をつづけた。
「ふるいたくて暴力をふるっていたのではないんのだ。やむおえず…そうなってしまった。連中がそうさせたのだ。確かに俺は正義感に燃えて、先の君主を退治しましたよ。俺は連中の…ここの人々の苦しみをみかねたんだ。そして俺はやった。先の王を、悪王を倒した。あの時…彼らはその知らせにすごく喜んでいたよ。これでこの国も平和になると。俺もそう信じた。幸福な国にね…くくくっ。だから俺は、先の支配者を倒したんだ。悪人を。
そうしたら…連中が言うんだ、あなたに新君主になって欲しいと。はじめ、俺は柄じゃないと何度も断った。だが、とうとう連中の強い懇願に根負けて、俺はこの城の主(あるじ)を引き受けたのさ。くっくっ…戴冠式に、みんなでよい国にしようと言ってね。
ところが、結果はこうなったのさ。みごとに…こんなひどいことに、なっちまったのさ。それは…最初はほんとうにささいな揉め事に始まった。たとえば隣との家の境の垣根の杭の刺す位置とかさ。それを彼らはどっちも譲らないのさ、ここの連中は。なんだ、かんだと…隣人と争うのが好きなのだ。そして、そのうちにとうとう刀を持ち出し、さらによそ者の用心棒を使って互いに集団で争いだした。ここはそういう土地だったのだ。何人も怪我人が出て、騒ぎはひどくなるばかりだったよ。仕方がないから、俺が喧嘩両成敗にして、私が垣根の位置を決めて。そして彼らにおとなしく従うように命令した。
それが一度ならず、それからというもの本当にささいな事にも、俺がすべて出てゆき物事を裁かねばならなくなった。そうしないと、彼らは誰も当人達で話し合おうとせず、互いに譲り合おうとも和解しあおうともしないのさ。俺がほおっておけば、勝手に自分の欲望のためだけに暴動を先導したりする。その揉め事には無縁の連中も、野次馬になる。その野次馬どもがその騒ぎに巻き込まれて死傷者が出るのだ。まったく…、連中は誰も、隣人に妥協できない習性なのさ。隣人の痛みを分かち合えないのだ。だから、無意味に死者が出る。ここは、そういう国だったのだ。自分たちでは治められない。だから…、外の者を王にしていたんだ。そうとは知らず先王も俺も…。だから、嫌々…俺が暴力的に制圧しなければならなかったのさ。そして、気がついたら俺は…。俺は、先代に負けない悪君主になっちまっていた。ここの統治者になるとは、悪王になる事なのさ。わかるかい?俺の心が…俺の感謝が…うううっ…ぐっ。だから、あんた等に…退治されてこんなにうれしいことはないの…さ。あぁ…感謝するよ…」
凶悪な悪君主は死んだ。
さあ、人々は城の外で待っている。君達は祝福されるだろう。そして、きっと君達にこの国の君主様になってくれと強く懇願するだろう。さあ、今度は君達の番だ。 ゲーム・オーバー
今や暴君となった彼は、その数年前にはなんと救世主だ英雄だと、民衆に賞賛されていたのだ。それは彼が、先代の強悪な君主にただ一人で立ち向かい、そして退治したからだった。そして、この男は民衆にこわれ、願われるかたちで新しい君主になったのだった。
しかし、人々が彼を褒め称えたのはほんの一時。わずかに半年もたたず、彼の評判は『恐ろしい悪君主』になっていた。そう、彼はその隠していた野心と本性を現したのだ。村人達は、そう泣きながら君達に語って聞かせた。
「ゆるせない」
そういうと、君達一行は悪君主の城に勇んで乗り込んだ。腕になら絶対の自信があった。そして、その自信には虚栄は無く、ついに、その悪君主をみごと退治した。ところが…。その悪君主は、ついに観念するなり、君達にこう言った。
「ありがとう、これで地獄から出られる」
驚いて、いったいどういう事かと問うと、君主は弱まる息の中で言った。
「もう暴力沙汰はうんざりなんだ」
君達達はますますわからない。それを尻目に元君主は話をつづけた。
「ふるいたくて暴力をふるっていたのではないんのだ。やむおえず…そうなってしまった。連中がそうさせたのだ。確かに俺は正義感に燃えて、先の君主を退治しましたよ。俺は連中の…ここの人々の苦しみをみかねたんだ。そして俺はやった。先の王を、悪王を倒した。あの時…彼らはその知らせにすごく喜んでいたよ。これでこの国も平和になると。俺もそう信じた。幸福な国にね…くくくっ。だから俺は、先の支配者を倒したんだ。悪人を。
そうしたら…連中が言うんだ、あなたに新君主になって欲しいと。はじめ、俺は柄じゃないと何度も断った。だが、とうとう連中の強い懇願に根負けて、俺はこの城の主(あるじ)を引き受けたのさ。くっくっ…戴冠式に、みんなでよい国にしようと言ってね。
ところが、結果はこうなったのさ。みごとに…こんなひどいことに、なっちまったのさ。それは…最初はほんとうにささいな揉め事に始まった。たとえば隣との家の境の垣根の杭の刺す位置とかさ。それを彼らはどっちも譲らないのさ、ここの連中は。なんだ、かんだと…隣人と争うのが好きなのだ。そして、そのうちにとうとう刀を持ち出し、さらによそ者の用心棒を使って互いに集団で争いだした。ここはそういう土地だったのだ。何人も怪我人が出て、騒ぎはひどくなるばかりだったよ。仕方がないから、俺が喧嘩両成敗にして、私が垣根の位置を決めて。そして彼らにおとなしく従うように命令した。
それが一度ならず、それからというもの本当にささいな事にも、俺がすべて出てゆき物事を裁かねばならなくなった。そうしないと、彼らは誰も当人達で話し合おうとせず、互いに譲り合おうとも和解しあおうともしないのさ。俺がほおっておけば、勝手に自分の欲望のためだけに暴動を先導したりする。その揉め事には無縁の連中も、野次馬になる。その野次馬どもがその騒ぎに巻き込まれて死傷者が出るのだ。まったく…、連中は誰も、隣人に妥協できない習性なのさ。隣人の痛みを分かち合えないのだ。だから、無意味に死者が出る。ここは、そういう国だったのだ。自分たちでは治められない。だから…、外の者を王にしていたんだ。そうとは知らず先王も俺も…。だから、嫌々…俺が暴力的に制圧しなければならなかったのさ。そして、気がついたら俺は…。俺は、先代に負けない悪君主になっちまっていた。ここの統治者になるとは、悪王になる事なのさ。わかるかい?俺の心が…俺の感謝が…うううっ…ぐっ。だから、あんた等に…退治されてこんなにうれしいことはないの…さ。あぁ…感謝するよ…」
凶悪な悪君主は死んだ。
さあ、人々は城の外で待っている。君達は祝福されるだろう。そして、きっと君達にこの国の君主様になってくれと強く懇願するだろう。さあ、今度は君達の番だ。 ゲーム・オーバー
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2011年04月07日
怪・お化け屋敷 ニセ牛男
刑事は犯人を追っている。そいつはこれまでに次々と人を殺してきた無差別通り魔殺人鬼だ。しかし、警察はとうとうその犯人の手がかりをつかみ。ついに住処をみつけた。そして、そのアパートに踏み込んだ。しかし、犯人は窓から逃げた。そして隣の屋根に飛び移り、そのまた隣へと屋根づたいに逃げた。しかし、警察もさるものだ。知ってか知らずか、一組の刑事コンビが犯人の逃走経路のすぐ側にいた。犯人が地上に降りた場所が、この二人のすぐ側だった。一瞬、両者は眼前の相手にポカンとなった。が、そのつぎに
「あ、いけね」
「あ、こら」
となって、追いかけっこになった。走る。走る。犯人と刑事達。こうなると、刑事は猟犬のようにしつこい事になっている。多少、当人の足が速かろうが、遅かろうがだ。そして、犯人は、口を開き、舌も出してハアハアと荒い息になる。さあ、根負けの時が来た。
逃げ場を失った犯人は目前のお化け屋敷の中へ逃げ込んだ。今日の見世物の題名は『閻魔大王の悪鬼退治』と看板が出ている。それを見ながら刑事らも後を追って中に入る事にした。
「おい、待った」
そろそろベテランと呼ばれていそうな刑事が、相棒の若い刑事に声をかけた。
「俺が中に入る。お前は裏口だ」
若い刑事の相棒は、やっと(ああそうか)と思い、はいと返事をすると小屋の裏口に走った。先回りをして待つ・・・。本当は、自分も中に入りたかった。けっこう好きなのだこういうの。反面、ベテラン刑事。実は苦手。本当は若いのにやらせたい。しかし、そうもいかないじゃないか、立場があるでしょ、いちおう。と泣きたい気持ちを隠しての小屋入りであった。
そろそろ10分後。ベテラン刑事が、ひょっこりと裏口へ出てきた。
「おい、奴は!?」
「えっ? いえ、出てきませんよ先輩。」
「くそっ、それじゃあまだ中に隠れてやがったかっ。」
「もう一回、行くんですか」(いいなあ)
「あん?! あ…、いや』
ベテラン刑事は応援を後輩の携帯で呼び、お化け屋敷の小屋の中を多人数で包囲。一気に手入れをした。が、しかしなんと、犯人はいなかったのだ。だが、しかし刑事たちをまいて逃げた男もいない…はずだった、が。たぶん…。
「ちいっ・・・どこへ行きやがったんだ!」
「やられたのさ。まんまとヤツの変装にでもやられちまったのさ、くそっ」
そう最後っ屁の悪態をつくと、刑事たちはすっかり今日の捕り物をあきらめてお化け小屋から去っていった。このとんだ騒ぎに営業を止められていたお化け屋敷の経営者は、ブツブツと営業妨害だとかなんとか愚痴をこぼしつつ、時計を見ると、また再開するための声をあげた。
「ほれほれ、仕事だ仕事。幽霊悪鬼ども、さあさあーっ、とっとと仕事に戻れいっ。呼び込み、はやく客集めて来いっ」
こうして、とんだ臨時の休憩時間が再び唐突に終わり、ふたたび小屋の中に戻っていくお化けの役者たちだった。そのなかの一人が、持ち場へ行く途中でフッと立ち止まり、ぽつりとつぶやいた。
「あれ、またこんなところに小道具がひとつ増えてらあ。」
その役者が見ていたのは、見知らぬ、よくできた首だった。 おわり。
「あ、いけね」
「あ、こら」
となって、追いかけっこになった。走る。走る。犯人と刑事達。こうなると、刑事は猟犬のようにしつこい事になっている。多少、当人の足が速かろうが、遅かろうがだ。そして、犯人は、口を開き、舌も出してハアハアと荒い息になる。さあ、根負けの時が来た。
逃げ場を失った犯人は目前のお化け屋敷の中へ逃げ込んだ。今日の見世物の題名は『閻魔大王の悪鬼退治』と看板が出ている。それを見ながら刑事らも後を追って中に入る事にした。
「おい、待った」
そろそろベテランと呼ばれていそうな刑事が、相棒の若い刑事に声をかけた。
「俺が中に入る。お前は裏口だ」
若い刑事の相棒は、やっと(ああそうか)と思い、はいと返事をすると小屋の裏口に走った。先回りをして待つ・・・。本当は、自分も中に入りたかった。けっこう好きなのだこういうの。反面、ベテラン刑事。実は苦手。本当は若いのにやらせたい。しかし、そうもいかないじゃないか、立場があるでしょ、いちおう。と泣きたい気持ちを隠しての小屋入りであった。
そろそろ10分後。ベテラン刑事が、ひょっこりと裏口へ出てきた。
「おい、奴は!?」
「えっ? いえ、出てきませんよ先輩。」
「くそっ、それじゃあまだ中に隠れてやがったかっ。」
「もう一回、行くんですか」(いいなあ)
「あん?! あ…、いや』
ベテラン刑事は応援を後輩の携帯で呼び、お化け屋敷の小屋の中を多人数で包囲。一気に手入れをした。が、しかしなんと、犯人はいなかったのだ。だが、しかし刑事たちをまいて逃げた男もいない…はずだった、が。たぶん…。
「ちいっ・・・どこへ行きやがったんだ!」
「やられたのさ。まんまとヤツの変装にでもやられちまったのさ、くそっ」
そう最後っ屁の悪態をつくと、刑事たちはすっかり今日の捕り物をあきらめてお化け小屋から去っていった。このとんだ騒ぎに営業を止められていたお化け屋敷の経営者は、ブツブツと営業妨害だとかなんとか愚痴をこぼしつつ、時計を見ると、また再開するための声をあげた。
「ほれほれ、仕事だ仕事。幽霊悪鬼ども、さあさあーっ、とっとと仕事に戻れいっ。呼び込み、はやく客集めて来いっ」
こうして、とんだ臨時の休憩時間が再び唐突に終わり、ふたたび小屋の中に戻っていくお化けの役者たちだった。そのなかの一人が、持ち場へ行く途中でフッと立ち止まり、ぽつりとつぶやいた。
「あれ、またこんなところに小道具がひとつ増えてらあ。」
その役者が見ていたのは、見知らぬ、よくできた首だった。 おわり。
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2011年03月28日
さくらさくら 沙羅如月
― さくら さくら 弥生の空は 見渡す限り
霞か 雲か においぞいずる いざや いざや みにゆかん ―
冷たい風があたたかな春の陽射しにあたためられ、小鳥が楽しげにさえずり、おだやかな季節の到来を告げる。
人々は手に手に弁当を持ち大きな木の根元に陣取りいまや盛りの桜を愛でる。
そんな喧騒から少し離れた場所で、小さな桜の木の陰に腰掛け人々の楽しげな声に耳を傾ける者がいた。人とは一線を画し、自分が楽しむというよりは他人が楽しむのを見て楽しむ、そんな風情である。
女は目を閉じ耳を澄ます。その耳に届くのは宴会を楽しむにぎやかな人々の甲高い笑い声。酒が入り少々羽目をはずしかけている若者の嬌声。幼子が母におにぎりをねだる声。わが子に桜がきれいねと話しかける母親の声。いたづらをしようとしたわが子をとがめる父親の声。それらすべてが女の耳にひとつひとつ届く。そして彼女は淡く微笑んだ。
「おねえさん、何してるの?」
女は不意にかけられた言葉に驚いて目を開け目の前で不思議そうな顔をしている少女を見る。
「どこかしんどいの?お風邪?」
小さいながらもその瞳は本気で心配を伝えてくる。女はふっとやさしく微笑むと少女をやさしく見つめた。
「大丈夫だよ?おねえさん…しんどそうに見えたの?」
「うん、だって…目をつむっていたから。しんどくないならいいの」
少女は女の言葉に安心したのか、こぼれるような笑みをその面に浮かべた。
つられるように女も微笑む。穏やかでやさしい微笑み。それはまるでこの花見の雰囲気をそのままそっくり移したような穏やかさである。
「あなた、お名前は?」
「うん、あたしはね、みゆちゃん」
「みゆちゃん?」
「そう、みゆちゃん」
女は屈託なく名前を答える少女が、自分の名前が大好きなことを感じた。
「そう…みゆちゃんていうの。みゆちゃん、お父さんやお母さんは?」
「うん…あのね。お父さんもお母さんもどこ行ったかわからないの。きっと迷子になってるんだよ。みゆには迷子にならないでねなんていうのに…」
女は思わず吹き出しそうになった。きっと迷子になったのはこの少女のほうなのだ。だがこの年の割にはおませな少女は自分が迷ったことなど微塵も思っていないらしい。
思わず少女にあわせて女は答える。
「そう。じゃあ、さがしてあげなくていいの?きっとさがして欲しいっておもってるかもよ?」
「あ!そうだね。探してあげなくちゃ。でもおねえちゃんはもう大丈夫?しんどくない?
みゆが行っても大丈夫?」
あくまで目の前の自分を心配してくれる少女に、思わず女は心があたたかくなった。本人が自覚していないとはいえ、この年齢の子供が親からはなれて不安がないわけはない。それでも少女は女を心配しているのだ。
「うん、大丈夫だよ。でもちょっとだけ抱っこしてもいい?」
「抱っこ?みゆを抱っこするの?」
「うん、みゆちゃんがいいなら抱っこさせて?本当はね、ちょっとしんどかったんだ。
でもみゆちゃんを抱っこできるときっと少しだけ元気になれるから…いいかな?」
女の唐突ともいえる望みに幼い少女は疑問すら抱かないのか、満面に笑みを浮かべて元気よく答える。
「うん、いいよ。おねえさんが元気になるならいいよ!」
そういうが早いか、みゆは自分から女の膝の上へと座る。そして女を見上げて笑った。
「ね?元気になれる?」
その幼い瞳はよい返事だけを期待している輝きを湛えている。
「うん…ね?ぎゅっとしていい?」
戸惑いながら願いを伝える女に少女は明るい笑顔を向ける。
「みゆね、おかあさんにぎゅっとしてもらうの大好き!」
「そう…じゃあ…ぎゅっ!」
そういうと女は少女のぬくもりを感じるように強く抱きしめる。少女はただじっと膝の上でおとなしくしていた。
どれくらいの時間がたったのだろうか?ほんの一瞬のような長いような時間が過ぎる。
「ありがとう、みゆちゃん。おねえさん元気になったよ?」
女は少女を抱きしめていた腕を緩めると、みゆに穏やかな微笑を向ける。
「おねえさん、元気になった?だったらみゆもうれしい」
「うん、みゆちゃんのおかげですっごく元気になった」
「よかった。じゃあ、みゆ、お母さんとお父さんを探しに行くね?きっと迷子になってるから」
相変わらずの勘違いに、笑いそうになりながらも女はみゆを膝の上からおろした。そして感謝を込めて言葉をつむぐ。
「ありがとう、みゆちゃん。またね、ばいばい」
女は手を振りながら少女を見つめた。すると少女はおおきく頷き、満面に花が綻ぶような笑顔を浮かべると手をふって別れを告げた。
「ばいばい、おねえさん。絶対元気になってね!」
そういうと女の目の前にあった少女の姿が空気に溶けてしまうように消えていく。
一瞬何が起こったのか女にはわからなかった。目の前にいたはずの少女がいた場所には、ただ何もない地面だけが存在していた。
女はただ唖然として少女がいた場所を見つめる。それは桜が見せた幻かはたまた夢か…それを知るのはきっと”みゆ”と名乗った少女と桜だけであろう。
一人佇み、女はただひたすらに桜を見上げていた。その時、一陣の穏やかな風が吹きぬけ、女の髪を攫っていった。
「良子!良子ごめん。俺が悪かった。このとおりごめん!」
先ほどの出来事に今だ心を囚われている女の傍に息をあげ、肩でいきをしている男が駆け寄ってきた。女を捜してあちこち走り回ったのはその様子を見ているだけでもわかる。
良子は我に返り男を見つめると静かに呟いた。
「あのね…不思議なことがあったの…」
「悪い!俺が絶対悪い!ごめん。許してくれ。俺、不安だったんだ…いきなり親父になるって言われても…だって、まだ結婚もしてないし、金だってないし…えっ?」
良子の言葉を聞く余裕もなかったのか、男は自分の気持ちを最優先で良子に伝えていた。そしてハッとしたように良子の言葉を思い出す。
「不思議なこと…?」
「え?ああ…まあいいよ。」
男の必死に訴える声音に良子は男を見つめる。
「ところで、あやまるってことは…どういうこと?」
良子はここぞとばかりに男をにらみつけ男に次の言葉を促す。
「あ、うん。きっとなんとかなるさ!子供…産んでくれ。俺、驚いて馬鹿なこと言ったって思ってる。反省してる。だから、頼む。子供産んでくれ。なんとかなるさ…なんとか…な」
最後は若干弱気になってはいたが男はきちんと自分の決意を良子へと伝える。すると良子はにらみつけていた視線をふっと和らげ男に笑顔を見せた。
「わかった。本当に産んでもいいのね?私一人でも産むわよ?」
「一人でなんて産まなくていいよ。俺もがんばる。きっと何とかしてみせる」
だったらそうしましょうと良子はそういうと男の腕を取り腕を組む。そして桜の花々を見上げた。そこにはかわいいピンクの花弁を風に震わせて今を盛りと咲く桜がただあった。
「お母さん、お母さんってば!またこんなところで居眠りして。風邪ひいちゃうわよ?」
良子はなつかしい夢をみていた。小さな少女とのほんの一瞬の邂逅。それがその後の良子の人生を一変させた。そして良子はゆっくりと目を開ける。あきれたような娘の顔が真っ先に目に入ってきた。
「いくら春で気持ちがいいからってこんな外で転寝なんてしないでよ。本当に…心配するこっちの身にもなってよね!」
強い語尾の割にはやさしい響きで小言を言う娘に思わず良子は微笑んだ。
「ごめんね。なんだかとっても気持ちがよくってつい…ね」
「もう、仕方ないな。さあ、そろそろ帰るわよ。桜きれいだった?」
「ええ、とてもきれいだった」
良子はよっこらしょ!と小さく掛け声をかけて木の下から身を起こす。そしてその木を再び見上げた。
「この木のしただったわね…」
何気に呟いた独り言を耳ざとい娘は聞きつけていた。そして母に問う。
「なにが?この木なんか思い出があるっぽいけど、どんな思い出なの?気になるな〜」
良子は悪戯そうな瞳を娘に向けるとひとつ呟く。
「ないしょ…」
「またそれ?これだけはいつも内緒なのね。ま、いいけど」
娘は少々むくれながらもいつもそうなのであろう。それ以上を問うことはしない。
良子は桜の木を見上げながら穏やかに微笑む。そして心の中でささやいた。
―あの時の女の子はきっとあなただったのね、美優。私たちの娘。道に迷っていたお父さんとお母さんを探しに来てくれたんだね。おかげでちゃんとあなたに会えた。そしてこんなに幸せな日々を過ごすことができた。ありがとう…本当にありがとう。美優…生まれてきてくれてありがとう―
「お母さん、急がないとおいてくわよ?」
「はいはい、もうせっかちなんだから。今行きますよ」
親子が去ったその後には花も盛りの桜の木が誇らしげにその身を人々の前で輝かせていた。
◎沙羅如月さんのHPアドレスをリンクに追加しました 【編集部】
霞か 雲か においぞいずる いざや いざや みにゆかん ―
冷たい風があたたかな春の陽射しにあたためられ、小鳥が楽しげにさえずり、おだやかな季節の到来を告げる。
人々は手に手に弁当を持ち大きな木の根元に陣取りいまや盛りの桜を愛でる。
そんな喧騒から少し離れた場所で、小さな桜の木の陰に腰掛け人々の楽しげな声に耳を傾ける者がいた。人とは一線を画し、自分が楽しむというよりは他人が楽しむのを見て楽しむ、そんな風情である。
女は目を閉じ耳を澄ます。その耳に届くのは宴会を楽しむにぎやかな人々の甲高い笑い声。酒が入り少々羽目をはずしかけている若者の嬌声。幼子が母におにぎりをねだる声。わが子に桜がきれいねと話しかける母親の声。いたづらをしようとしたわが子をとがめる父親の声。それらすべてが女の耳にひとつひとつ届く。そして彼女は淡く微笑んだ。
「おねえさん、何してるの?」
女は不意にかけられた言葉に驚いて目を開け目の前で不思議そうな顔をしている少女を見る。
「どこかしんどいの?お風邪?」
小さいながらもその瞳は本気で心配を伝えてくる。女はふっとやさしく微笑むと少女をやさしく見つめた。
「大丈夫だよ?おねえさん…しんどそうに見えたの?」
「うん、だって…目をつむっていたから。しんどくないならいいの」
少女は女の言葉に安心したのか、こぼれるような笑みをその面に浮かべた。
つられるように女も微笑む。穏やかでやさしい微笑み。それはまるでこの花見の雰囲気をそのままそっくり移したような穏やかさである。
「あなた、お名前は?」
「うん、あたしはね、みゆちゃん」
「みゆちゃん?」
「そう、みゆちゃん」
女は屈託なく名前を答える少女が、自分の名前が大好きなことを感じた。
「そう…みゆちゃんていうの。みゆちゃん、お父さんやお母さんは?」
「うん…あのね。お父さんもお母さんもどこ行ったかわからないの。きっと迷子になってるんだよ。みゆには迷子にならないでねなんていうのに…」
女は思わず吹き出しそうになった。きっと迷子になったのはこの少女のほうなのだ。だがこの年の割にはおませな少女は自分が迷ったことなど微塵も思っていないらしい。
思わず少女にあわせて女は答える。
「そう。じゃあ、さがしてあげなくていいの?きっとさがして欲しいっておもってるかもよ?」
「あ!そうだね。探してあげなくちゃ。でもおねえちゃんはもう大丈夫?しんどくない?
みゆが行っても大丈夫?」
あくまで目の前の自分を心配してくれる少女に、思わず女は心があたたかくなった。本人が自覚していないとはいえ、この年齢の子供が親からはなれて不安がないわけはない。それでも少女は女を心配しているのだ。
「うん、大丈夫だよ。でもちょっとだけ抱っこしてもいい?」
「抱っこ?みゆを抱っこするの?」
「うん、みゆちゃんがいいなら抱っこさせて?本当はね、ちょっとしんどかったんだ。
でもみゆちゃんを抱っこできるときっと少しだけ元気になれるから…いいかな?」
女の唐突ともいえる望みに幼い少女は疑問すら抱かないのか、満面に笑みを浮かべて元気よく答える。
「うん、いいよ。おねえさんが元気になるならいいよ!」
そういうが早いか、みゆは自分から女の膝の上へと座る。そして女を見上げて笑った。
「ね?元気になれる?」
その幼い瞳はよい返事だけを期待している輝きを湛えている。
「うん…ね?ぎゅっとしていい?」
戸惑いながら願いを伝える女に少女は明るい笑顔を向ける。
「みゆね、おかあさんにぎゅっとしてもらうの大好き!」
「そう…じゃあ…ぎゅっ!」
そういうと女は少女のぬくもりを感じるように強く抱きしめる。少女はただじっと膝の上でおとなしくしていた。
どれくらいの時間がたったのだろうか?ほんの一瞬のような長いような時間が過ぎる。
「ありがとう、みゆちゃん。おねえさん元気になったよ?」
女は少女を抱きしめていた腕を緩めると、みゆに穏やかな微笑を向ける。
「おねえさん、元気になった?だったらみゆもうれしい」
「うん、みゆちゃんのおかげですっごく元気になった」
「よかった。じゃあ、みゆ、お母さんとお父さんを探しに行くね?きっと迷子になってるから」
相変わらずの勘違いに、笑いそうになりながらも女はみゆを膝の上からおろした。そして感謝を込めて言葉をつむぐ。
「ありがとう、みゆちゃん。またね、ばいばい」
女は手を振りながら少女を見つめた。すると少女はおおきく頷き、満面に花が綻ぶような笑顔を浮かべると手をふって別れを告げた。
「ばいばい、おねえさん。絶対元気になってね!」
そういうと女の目の前にあった少女の姿が空気に溶けてしまうように消えていく。
一瞬何が起こったのか女にはわからなかった。目の前にいたはずの少女がいた場所には、ただ何もない地面だけが存在していた。
女はただ唖然として少女がいた場所を見つめる。それは桜が見せた幻かはたまた夢か…それを知るのはきっと”みゆ”と名乗った少女と桜だけであろう。
一人佇み、女はただひたすらに桜を見上げていた。その時、一陣の穏やかな風が吹きぬけ、女の髪を攫っていった。
「良子!良子ごめん。俺が悪かった。このとおりごめん!」
先ほどの出来事に今だ心を囚われている女の傍に息をあげ、肩でいきをしている男が駆け寄ってきた。女を捜してあちこち走り回ったのはその様子を見ているだけでもわかる。
良子は我に返り男を見つめると静かに呟いた。
「あのね…不思議なことがあったの…」
「悪い!俺が絶対悪い!ごめん。許してくれ。俺、不安だったんだ…いきなり親父になるって言われても…だって、まだ結婚もしてないし、金だってないし…えっ?」
良子の言葉を聞く余裕もなかったのか、男は自分の気持ちを最優先で良子に伝えていた。そしてハッとしたように良子の言葉を思い出す。
「不思議なこと…?」
「え?ああ…まあいいよ。」
男の必死に訴える声音に良子は男を見つめる。
「ところで、あやまるってことは…どういうこと?」
良子はここぞとばかりに男をにらみつけ男に次の言葉を促す。
「あ、うん。きっとなんとかなるさ!子供…産んでくれ。俺、驚いて馬鹿なこと言ったって思ってる。反省してる。だから、頼む。子供産んでくれ。なんとかなるさ…なんとか…な」
最後は若干弱気になってはいたが男はきちんと自分の決意を良子へと伝える。すると良子はにらみつけていた視線をふっと和らげ男に笑顔を見せた。
「わかった。本当に産んでもいいのね?私一人でも産むわよ?」
「一人でなんて産まなくていいよ。俺もがんばる。きっと何とかしてみせる」
だったらそうしましょうと良子はそういうと男の腕を取り腕を組む。そして桜の花々を見上げた。そこにはかわいいピンクの花弁を風に震わせて今を盛りと咲く桜がただあった。
「お母さん、お母さんってば!またこんなところで居眠りして。風邪ひいちゃうわよ?」
良子はなつかしい夢をみていた。小さな少女とのほんの一瞬の邂逅。それがその後の良子の人生を一変させた。そして良子はゆっくりと目を開ける。あきれたような娘の顔が真っ先に目に入ってきた。
「いくら春で気持ちがいいからってこんな外で転寝なんてしないでよ。本当に…心配するこっちの身にもなってよね!」
強い語尾の割にはやさしい響きで小言を言う娘に思わず良子は微笑んだ。
「ごめんね。なんだかとっても気持ちがよくってつい…ね」
「もう、仕方ないな。さあ、そろそろ帰るわよ。桜きれいだった?」
「ええ、とてもきれいだった」
良子はよっこらしょ!と小さく掛け声をかけて木の下から身を起こす。そしてその木を再び見上げた。
「この木のしただったわね…」
何気に呟いた独り言を耳ざとい娘は聞きつけていた。そして母に問う。
「なにが?この木なんか思い出があるっぽいけど、どんな思い出なの?気になるな〜」
良子は悪戯そうな瞳を娘に向けるとひとつ呟く。
「ないしょ…」
「またそれ?これだけはいつも内緒なのね。ま、いいけど」
娘は少々むくれながらもいつもそうなのであろう。それ以上を問うことはしない。
良子は桜の木を見上げながら穏やかに微笑む。そして心の中でささやいた。
―あの時の女の子はきっとあなただったのね、美優。私たちの娘。道に迷っていたお父さんとお母さんを探しに来てくれたんだね。おかげでちゃんとあなたに会えた。そしてこんなに幸せな日々を過ごすことができた。ありがとう…本当にありがとう。美優…生まれてきてくれてありがとう―
「お母さん、急がないとおいてくわよ?」
「はいはい、もうせっかちなんだから。今行きますよ」
親子が去ったその後には花も盛りの桜の木が誇らしげにその身を人々の前で輝かせていた。
◎沙羅如月さんのHPアドレスをリンクに追加しました 【編集部】
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2011年03月08日
2011年02月17日
2011年01月20日
ほっとこ 蓮板末吉
吾輩が女房に捨て台詞を投げつけられて、止む無く離縁状を書かされ家を追い出されたのは正月も明けたばかりの真冬の最中でありました。例年になく大雪。吾輩は綻びた防寒着を着て両手に旅行鞄を下げ長靴を履き小雪のちらつく中、当てもなくただ最寄りのちょっと先の駅へと歩き出したのでした。
離縁の原因は至って正確。吾輩は貧乏小説家であって皆目収入がなく、働きもしないのでとうとう女房に愛想をつかされたのでありました。家は女房の両親の持家でその両親と同居。養子のような立場の吾輩は、家の畳のほんの隅にさえ居心地は悪かったのでした。それでも吾輩は男子たる者であります故、女房、義父、義母にばかり遠慮して暮らすのは癪に障るものです。その日の女房とささいなことからの売り言葉に買い言葉。吾輩はきっばりと離縁を決心したのでありました。
しかし家を出たものの、真冬の外の気温は氷点下。腰痛の持病のある吾輩は、次第に歩くことが苦痛になってきたのでありました。中身の軽い旅行鞄も米俵ほどの重さに感じます。雪も強く降り出してきました。
「これだと駅までとうてい辿り着かない」
吾輩はそんな恐怖心で頭の中が一杯になりました。「雪倒れ」間違いなく吾輩は間もなく疲労に尽きて雪道に倒れ、夜が明ければ温かな心臓も雪の冷たさに凍ってしまうのでしょう。吾輩が事切れた場所に雪が積もって、その上を馬車が通ったならば、轍の跡が吾輩の背中を縦に横断して、まったく変てこな姿になってしまうのです。吾輩は獣に頭を踏まれて死んでしまうのだけはご免でありました。
ところが思うのと現状は反比例。吾輩は予想通り寒さと疲労に負けて、雪道の路肩辺りで卒倒してしまったのでした。どんな格好かはよく分かりませんが、両手に旅行鞄を持ったそのままで、前のめりに倒れたようでした。意識も随分と薄れてまいります。頬に感じる雪の冷たい温度が、吾輩の体全体を包み込んでいくのは時間の問題でありました。
どれくらい時間が過ぎたでしょう、吾輩の耳元でボソボソと声がします。
『誰かが見つけてくれたのか?』
と吾輩は思いました。それから助かった気持ちがしてホッとしました。
しかし、そのボソボソの声に耳を澄ませると、どこかで聞いた声。そうです、女房と義父、義母達の声ではありませんか。なるほど、女房も義父、義母も、この寒空に吾輩が家を飛び出したので、律儀に心配になって駆けつけてくれたのだと思いました。いくら稼ぎの悪い亭主、養子とはいえ、彼らにとっては吾輩は肉親には違いないのであります。吾輩は嬉しさのあまり、感激のあまり目頭が熱くなって涙を流してしまいました。
…それがです。吾輩は聞き違いをしたのだと思うのですが、女房と義父、義母が
「…ほっとこ」
と口々に確かめるように喋っているのに気づいたのでした。
「ほっとこ?」
とは、どういう意味なのでしょう。吾輩は雪の重さに尋ねてみたのでした。
離縁の原因は至って正確。吾輩は貧乏小説家であって皆目収入がなく、働きもしないのでとうとう女房に愛想をつかされたのでありました。家は女房の両親の持家でその両親と同居。養子のような立場の吾輩は、家の畳のほんの隅にさえ居心地は悪かったのでした。それでも吾輩は男子たる者であります故、女房、義父、義母にばかり遠慮して暮らすのは癪に障るものです。その日の女房とささいなことからの売り言葉に買い言葉。吾輩はきっばりと離縁を決心したのでありました。
しかし家を出たものの、真冬の外の気温は氷点下。腰痛の持病のある吾輩は、次第に歩くことが苦痛になってきたのでありました。中身の軽い旅行鞄も米俵ほどの重さに感じます。雪も強く降り出してきました。
「これだと駅までとうてい辿り着かない」
吾輩はそんな恐怖心で頭の中が一杯になりました。「雪倒れ」間違いなく吾輩は間もなく疲労に尽きて雪道に倒れ、夜が明ければ温かな心臓も雪の冷たさに凍ってしまうのでしょう。吾輩が事切れた場所に雪が積もって、その上を馬車が通ったならば、轍の跡が吾輩の背中を縦に横断して、まったく変てこな姿になってしまうのです。吾輩は獣に頭を踏まれて死んでしまうのだけはご免でありました。
ところが思うのと現状は反比例。吾輩は予想通り寒さと疲労に負けて、雪道の路肩辺りで卒倒してしまったのでした。どんな格好かはよく分かりませんが、両手に旅行鞄を持ったそのままで、前のめりに倒れたようでした。意識も随分と薄れてまいります。頬に感じる雪の冷たい温度が、吾輩の体全体を包み込んでいくのは時間の問題でありました。
どれくらい時間が過ぎたでしょう、吾輩の耳元でボソボソと声がします。
『誰かが見つけてくれたのか?』
と吾輩は思いました。それから助かった気持ちがしてホッとしました。
しかし、そのボソボソの声に耳を澄ませると、どこかで聞いた声。そうです、女房と義父、義母達の声ではありませんか。なるほど、女房も義父、義母も、この寒空に吾輩が家を飛び出したので、律儀に心配になって駆けつけてくれたのだと思いました。いくら稼ぎの悪い亭主、養子とはいえ、彼らにとっては吾輩は肉親には違いないのであります。吾輩は嬉しさのあまり、感激のあまり目頭が熱くなって涙を流してしまいました。
…それがです。吾輩は聞き違いをしたのだと思うのですが、女房と義父、義母が
「…ほっとこ」
と口々に確かめるように喋っているのに気づいたのでした。
「ほっとこ?」
とは、どういう意味なのでしょう。吾輩は雪の重さに尋ねてみたのでした。
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13:43
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2011年01月07日
薗八ばなし 宮古路薗八
死にもの語り
わたしは死んでいます。
わたしの死体が発見されたのは、わたしが死んで半年以上たってからです。私の死体は若山住宅の今は使われていない、封鎖された集合住宅の5階の空き部屋で発見されました。7ヵ月前にわたしの妻から、日曜の朝ウォーキングに出かけたまま夫が帰らないと捜索願が出されていまして、DNA鑑定でわたしと確認されました。
そこには別の白骨死体がありました。10代から30代くらいの女の骨であることが鑑定からわかったそうです。ただ女の死体は数十年以上、もっと以前に死亡したと鑑定され、わたしが死んだ時期とは随分とずれていました。わたしがその部屋で死んだとき、すでに女の死体は白骨で横たわっていたのです。
わたしの死体は下着を着けた状態で明らかにそこで腐敗し、半ばミイラ状態となっていました。ところが女の死体はそこで白骨化した形跡は見られず、完全に白骨した状態でどこからか運ばれてきたのではないかと推測されました。
わたしが家を出るとき着ていたジャージの上下は発見されませんでした。女の衣類はまったく残されていませんでした。ただ、残された女の骨は完全な状態でまったく欠損はなく、解剖に当たった医大の法医学の鑑定医も首をひねるばかりでした。女の骨盤のあたりの板間から体液らしき痕跡が発見されましたが、明らかに女の死後に残されたものであると判定されました。
実はわたしの死体は干からびていたのですが、なぜか男根が勃起した状態で死亡したことが確認されています。心筋梗塞などでそうしたことがまれにあるそうなのですが、解剖の結果わたしの死因は失血に伴う心臓停止ではないかと推測されました。
そのことが担当する捜査官の疑問を抱かせましたが、部屋から血液反応は一切出ませんでした。発見された際、部屋には比較的新しいタオルがひとつあるのみで、数年間積もったホコリが廊下の辺りを除いてそのままの状態で残されていたのが確認されました。タオルはわたしが持ち込んだものとされましたが、わたしは拾って届けただけです。死亡診断書は、ふたりとも死亡原因が不詳とされました。
その後ふたりは火葬されましたが、女の骨は灰も残らず燃え尽きて火葬場の職員が気味悪がったそうです。
集合住宅は以前から使われていないため、一階部分に板が張られまったく入ることも登ることもできないようにされています。警察ではいつ頃どのようにして人が入ったのか、検証を行いましたが出入りした形跡はどこからも発見されていません。死体発見からひと月ほど捜査が行われましたが、事件性が薄いということでそれ以上継続されることはありませんでした。このことは不気味な事象として記録にとどめられました。
---------- ---------- ---------- ---------- ----------
7ヵ月ほど前、わたしはいつものように日曜日の早朝にウォーキングをするために尺代から若山神社を経て団地の入り口に差しかかっていた。ふと上を見ると確かに使われていないはずの18番のアパートの5階のベランダに人影が見える。誰だろうと目を凝らすと、若い女がこちらに向かって手を振っていた。
その女が手をかざした先の地面に白いタオルが落ちている。わたしはそのタオルを拾うと、集合住宅の階段を登っていた。厚いベニヤ板で確か封鎖されていたはずだったと思いながら、いつから人が入ったのだろうとそんなことを考えて5階のチャイムを鳴らした。
若い女が扉を開けて、人目をはばかるようにわたしの左手をいきなり掴んで部屋に引き入れた。それは女とは思えぬほどとても強い力だった。
その女はなんと全裸だった。いきなり抱きつかれて、わたしたちは廊下に倒れてしまった。何がなんだかわからない。しなやかな肉体がわたしの体に絡んで離れない。もみ合ううちにわたしの股間に女のひざが当たって、意識を失いかけた。しばらくは自分でも何をしたのかまったく覚えていない。
気がつくと若い裸の女がわたしの体の下にあった。わたしはいつの間にか裸になって、明らかに男女の行為を行っていた。目くるめく繰り返し起こる欲望に、この世のものとは思われない快楽が続いていた。
なぜ、こうなった、という言葉は浮かばなかった。この美しい肉体が、そこにあるだけでよかった。何度何度も湧き出ずる泉のごとく、快楽が続いた。女はそれに繰り返し応えた。
男の欲望にも限りがある。ましてや50歳の半ばを超えた男にどれほどの力はないはずだ。しかしわたしの男根からは何度も何度も体液が、快楽の証として溢れ出た。体液はもうないはずなのに、熱い男根を貫いて出て行く。もしかして前立腺あたりから出血しているのだろうか。それが尽きることのない欲望を満たしてくれているのか。
どのくらい時間が過ぎただろうか、女がわたしから離れた。かなり若い女だ。年は二十歳過ぎだろうか、長い髪を後ろに束ねてその肌は透きとおるように白かった。顔ははっきり見えないがその肢体は実に美しく、高貴な女官のように思えた。なぜこの人がこのようなことをするのだろう。
そんなことを思いながら、わたしはもう動くことすらできなくなっていた。激しい疲れと貧血状態なのか、意識が次第に薄れていく。しかしながら、おぼろげに見える肢体に下半身だけは反応しているようだった。残された血液がそこに集中している。
わたしは死んだのだろうか。
ふっと意識が戻って気がつくと、わたしは家までの道を歩いていた。家につながる道で、老いた夫婦とすれちがった。
「おはようございます」
夫婦の長い影に、わたしは自分の影がないことに気づいた。
「そんな、馬鹿な…」
そう思った瞬間、わたしは完全に意識を失った。
そうなのです。わたしはあの世に落ちていったのです。
さて、今いるわたしはいったい誰なんでしょうか。
ねェ、笑っちゃいますね。
わたしは死んでいます。
わたしの死体が発見されたのは、わたしが死んで半年以上たってからです。私の死体は若山住宅の今は使われていない、封鎖された集合住宅の5階の空き部屋で発見されました。7ヵ月前にわたしの妻から、日曜の朝ウォーキングに出かけたまま夫が帰らないと捜索願が出されていまして、DNA鑑定でわたしと確認されました。
そこには別の白骨死体がありました。10代から30代くらいの女の骨であることが鑑定からわかったそうです。ただ女の死体は数十年以上、もっと以前に死亡したと鑑定され、わたしが死んだ時期とは随分とずれていました。わたしがその部屋で死んだとき、すでに女の死体は白骨で横たわっていたのです。
わたしの死体は下着を着けた状態で明らかにそこで腐敗し、半ばミイラ状態となっていました。ところが女の死体はそこで白骨化した形跡は見られず、完全に白骨した状態でどこからか運ばれてきたのではないかと推測されました。
わたしが家を出るとき着ていたジャージの上下は発見されませんでした。女の衣類はまったく残されていませんでした。ただ、残された女の骨は完全な状態でまったく欠損はなく、解剖に当たった医大の法医学の鑑定医も首をひねるばかりでした。女の骨盤のあたりの板間から体液らしき痕跡が発見されましたが、明らかに女の死後に残されたものであると判定されました。
実はわたしの死体は干からびていたのですが、なぜか男根が勃起した状態で死亡したことが確認されています。心筋梗塞などでそうしたことがまれにあるそうなのですが、解剖の結果わたしの死因は失血に伴う心臓停止ではないかと推測されました。
そのことが担当する捜査官の疑問を抱かせましたが、部屋から血液反応は一切出ませんでした。発見された際、部屋には比較的新しいタオルがひとつあるのみで、数年間積もったホコリが廊下の辺りを除いてそのままの状態で残されていたのが確認されました。タオルはわたしが持ち込んだものとされましたが、わたしは拾って届けただけです。死亡診断書は、ふたりとも死亡原因が不詳とされました。
その後ふたりは火葬されましたが、女の骨は灰も残らず燃え尽きて火葬場の職員が気味悪がったそうです。
集合住宅は以前から使われていないため、一階部分に板が張られまったく入ることも登ることもできないようにされています。警察ではいつ頃どのようにして人が入ったのか、検証を行いましたが出入りした形跡はどこからも発見されていません。死体発見からひと月ほど捜査が行われましたが、事件性が薄いということでそれ以上継続されることはありませんでした。このことは不気味な事象として記録にとどめられました。
---------- ---------- ---------- ---------- ----------
7ヵ月ほど前、わたしはいつものように日曜日の早朝にウォーキングをするために尺代から若山神社を経て団地の入り口に差しかかっていた。ふと上を見ると確かに使われていないはずの18番のアパートの5階のベランダに人影が見える。誰だろうと目を凝らすと、若い女がこちらに向かって手を振っていた。
その女が手をかざした先の地面に白いタオルが落ちている。わたしはそのタオルを拾うと、集合住宅の階段を登っていた。厚いベニヤ板で確か封鎖されていたはずだったと思いながら、いつから人が入ったのだろうとそんなことを考えて5階のチャイムを鳴らした。
若い女が扉を開けて、人目をはばかるようにわたしの左手をいきなり掴んで部屋に引き入れた。それは女とは思えぬほどとても強い力だった。
その女はなんと全裸だった。いきなり抱きつかれて、わたしたちは廊下に倒れてしまった。何がなんだかわからない。しなやかな肉体がわたしの体に絡んで離れない。もみ合ううちにわたしの股間に女のひざが当たって、意識を失いかけた。しばらくは自分でも何をしたのかまったく覚えていない。
気がつくと若い裸の女がわたしの体の下にあった。わたしはいつの間にか裸になって、明らかに男女の行為を行っていた。目くるめく繰り返し起こる欲望に、この世のものとは思われない快楽が続いていた。
なぜ、こうなった、という言葉は浮かばなかった。この美しい肉体が、そこにあるだけでよかった。何度何度も湧き出ずる泉のごとく、快楽が続いた。女はそれに繰り返し応えた。
男の欲望にも限りがある。ましてや50歳の半ばを超えた男にどれほどの力はないはずだ。しかしわたしの男根からは何度も何度も体液が、快楽の証として溢れ出た。体液はもうないはずなのに、熱い男根を貫いて出て行く。もしかして前立腺あたりから出血しているのだろうか。それが尽きることのない欲望を満たしてくれているのか。
どのくらい時間が過ぎただろうか、女がわたしから離れた。かなり若い女だ。年は二十歳過ぎだろうか、長い髪を後ろに束ねてその肌は透きとおるように白かった。顔ははっきり見えないがその肢体は実に美しく、高貴な女官のように思えた。なぜこの人がこのようなことをするのだろう。
そんなことを思いながら、わたしはもう動くことすらできなくなっていた。激しい疲れと貧血状態なのか、意識が次第に薄れていく。しかしながら、おぼろげに見える肢体に下半身だけは反応しているようだった。残された血液がそこに集中している。
わたしは死んだのだろうか。
ふっと意識が戻って気がつくと、わたしは家までの道を歩いていた。家につながる道で、老いた夫婦とすれちがった。
「おはようございます」
夫婦の長い影に、わたしは自分の影がないことに気づいた。
「そんな、馬鹿な…」
そう思った瞬間、わたしは完全に意識を失った。
そうなのです。わたしはあの世に落ちていったのです。
さて、今いるわたしはいったい誰なんでしょうか。
ねェ、笑っちゃいますね。
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2011年01月04日
2011年01月02日
新年のご挨拶 編集部
新年あけましておめでとうございます。旧年中は未確認マンガ集団(文芸部)ブログをご贔屓頂きまして厚くお礼申し上げます。いつもお世話になりありがとうございます。また、メンバーの皆様お疲れ様です。
集団の主要メンバーが大阪芸術大学を卒業して、はや33年となりました。それぞれが別々の人生を歩んで行かれた訳ですが、近況などを各人に確かめますと、まだまだ日々の生活に追われたり、健康に問題にあったりと、創作どころではないのが実際のようです。それでも、作品をお待ちしておりますので、出来上がった時で結構ですので、これまで通りご送付のほどお願いします。本年もどうぞよろしくお願いいたします。 【編集部】
集団の主要メンバーが大阪芸術大学を卒業して、はや33年となりました。それぞれが別々の人生を歩んで行かれた訳ですが、近況などを各人に確かめますと、まだまだ日々の生活に追われたり、健康に問題にあったりと、創作どころではないのが実際のようです。それでも、作品をお待ちしておりますので、出来上がった時で結構ですので、これまで通りご送付のほどお願いします。本年もどうぞよろしくお願いいたします。 【編集部】
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09:50
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2010年12月26日
ぴーちゃんと虹 沙羅如月
「ぴー、ぴーちゃん。朝ごはんだよ」
小鳥のぴーちゃんは、おかあさんのやさしい声で目をさましました。そういえばおなかがすいています。ぴーちゃんはピー、ピーとないて、おかあさんにごはんをねだります。おかあさんは、やさしく微笑みながらぴーちゃんにごはんをくれました。ぴーちゃんは、大きなお口をあけてごはんを食べます。
食べ終わっておなかがいっぱいになると、ぴーちゃんはすこしねむりました。そして目がさめると、おかあさんにだっこをねだります。おかあさんは、ぴーちゃんがだっこをねだると、いつもそのあたたかい手でぴーちゃんのからだをつつみこんで、やさしくだっこしてくれます。ぴーちゃんはおかあさんの手の中がとても好きでした。いつまでもいつまでもそこから出たくありませんでした。それからも、毎日毎日、ぴーちゃんはえさをたべて、おかあさんの手の中でねむって、どんどん大きくなりました。
でも、ある日いつもはおいしいごはんが、ぜんぜんおいしくありません。なんだかからだが重くて、でもおなかはすいているので、お水をいっぱいのみました。えさを食べないぴーちゃんを、心配そうにおかあさんがみつめています。おかあさんはぴーちゃんを手の中でゆっくりとねむらせながら、ぴーちゃんにこういいました。
「ぴーちゃん、ちゃんと食べないと病気になっちゃうよ。だからちゃんと食べようね」
おかあさんは、とても心配そうにぴーちゃんに話しかけます。おかあさんの手の中は、とてもあたたかくてぴーちゃんはすこし元気になりました。そしてすこしごはんが食べられるように、なりました。それでも前ほどはたくさん食べられません。おかあさんが心配するので、ぴーちゃんはほしくなくても食べました。そんな日が何日かすぎたころ、おかあさんがぴーちゃんにこう話しました。
「ぴーちゃん、おかあさんごようじでしばらくおでかけするから、いい子でおるすばんしててね」
ぴーちゃんはすごくさびしくなりました。でもおかあさんはすこしといったので、がんばっておるすばんすることにしました。
おかあさんは、すこしといったのになかなか帰ってきません。そのうちぴーちゃんは、またからだが重たくなってきました。おかあさんがおいていってくれたごはんも、おみずもまるっきり食べられません。ぴーちゃんはおかあさんの手の中をおもいだしていました。あたたかい手の中にいるととてもしあわせで、なぜだか元気が出てきます。はやくおかあさんにだっこしてもらいたいとおもいました。でもまだおかあさんは帰ってきません。ぴーちゃんはだんだんねむくなってきました。そして、ぴーちゃんはすてきな夢をみました。おかあさんのて手の変わりに、きらきらかがやくいろいろな色の光につつまれていました。そして、そのひかりは、ぴーちゃんをしんぱいしていそいで帰ってきてる、おかあさんのもとへとはこんでくれました。ぴーちゃんはおかあさんの手の中に飛び込みました。
おかあさんはうれしそうにぴーちゃんをだっこしてくれます。そしておかあさんが、ぴーちゃんに話しかけます。
「ほら、ぴーちゃんみてごらん。とてもおおきな虹だね。ぴーちゃんをこの虹が運んできてくれたんだよ」
ぴーちゃんは空をみあげました。そこにはきれいないろんな色でできたおおきなおおきな橋がかかっていました。ぴーちゃんはおかあさんの手の中の次にそのきれいな橋が好きになりました。そしてぴーちゃんは、また安心して大好きなおかあさんのあたたかい手の中で眠るのでした。 了
小鳥のぴーちゃんは、おかあさんのやさしい声で目をさましました。そういえばおなかがすいています。ぴーちゃんはピー、ピーとないて、おかあさんにごはんをねだります。おかあさんは、やさしく微笑みながらぴーちゃんにごはんをくれました。ぴーちゃんは、大きなお口をあけてごはんを食べます。
食べ終わっておなかがいっぱいになると、ぴーちゃんはすこしねむりました。そして目がさめると、おかあさんにだっこをねだります。おかあさんは、ぴーちゃんがだっこをねだると、いつもそのあたたかい手でぴーちゃんのからだをつつみこんで、やさしくだっこしてくれます。ぴーちゃんはおかあさんの手の中がとても好きでした。いつまでもいつまでもそこから出たくありませんでした。それからも、毎日毎日、ぴーちゃんはえさをたべて、おかあさんの手の中でねむって、どんどん大きくなりました。
でも、ある日いつもはおいしいごはんが、ぜんぜんおいしくありません。なんだかからだが重くて、でもおなかはすいているので、お水をいっぱいのみました。えさを食べないぴーちゃんを、心配そうにおかあさんがみつめています。おかあさんはぴーちゃんを手の中でゆっくりとねむらせながら、ぴーちゃんにこういいました。
「ぴーちゃん、ちゃんと食べないと病気になっちゃうよ。だからちゃんと食べようね」
おかあさんは、とても心配そうにぴーちゃんに話しかけます。おかあさんの手の中は、とてもあたたかくてぴーちゃんはすこし元気になりました。そしてすこしごはんが食べられるように、なりました。それでも前ほどはたくさん食べられません。おかあさんが心配するので、ぴーちゃんはほしくなくても食べました。そんな日が何日かすぎたころ、おかあさんがぴーちゃんにこう話しました。
「ぴーちゃん、おかあさんごようじでしばらくおでかけするから、いい子でおるすばんしててね」
ぴーちゃんはすごくさびしくなりました。でもおかあさんはすこしといったので、がんばっておるすばんすることにしました。
おかあさんは、すこしといったのになかなか帰ってきません。そのうちぴーちゃんは、またからだが重たくなってきました。おかあさんがおいていってくれたごはんも、おみずもまるっきり食べられません。ぴーちゃんはおかあさんの手の中をおもいだしていました。あたたかい手の中にいるととてもしあわせで、なぜだか元気が出てきます。はやくおかあさんにだっこしてもらいたいとおもいました。でもまだおかあさんは帰ってきません。ぴーちゃんはだんだんねむくなってきました。そして、ぴーちゃんはすてきな夢をみました。おかあさんのて手の変わりに、きらきらかがやくいろいろな色の光につつまれていました。そして、そのひかりは、ぴーちゃんをしんぱいしていそいで帰ってきてる、おかあさんのもとへとはこんでくれました。ぴーちゃんはおかあさんの手の中に飛び込みました。
おかあさんはうれしそうにぴーちゃんをだっこしてくれます。そしておかあさんが、ぴーちゃんに話しかけます。
「ほら、ぴーちゃんみてごらん。とてもおおきな虹だね。ぴーちゃんをこの虹が運んできてくれたんだよ」
ぴーちゃんは空をみあげました。そこにはきれいないろんな色でできたおおきなおおきな橋がかかっていました。ぴーちゃんはおかあさんの手の中の次にそのきれいな橋が好きになりました。そしてぴーちゃんは、また安心して大好きなおかあさんのあたたかい手の中で眠るのでした。 了
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11:34
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2010年12月21日
クリスマス・ママ 雨乃古留子
もうクリスマスだというのに、秋菜ちゃんのお家は貧乏で、クリスマスツリーを飾ることも、クリスマスケーキを食べることもできませんでした。だけど秋菜ちゃんは、そんなことちっとも気にならなかったの。
「パパは一生懸命働いているし、ママはずっと病気で寝てるから…」
秋菜ちゃんは、毎日、ママのかわりに、パパやまだ小さい弟ためにご飯を作ったり、お家の中のお掃除をしたり、お洗濯をしたりして、お手伝いをしていたのでした。秋菜ちゃんは小学校の3年生だったけど、がんばり屋さんだったのです。
「秋菜、ごめんね…」
ママはいつも苦しそうに咳をしながら、秋菜ちゃんにあやまっていました。でも秋菜ちゃんは明るく笑って、「いいのよ」ってお返事していたのです。秋菜ちゃんの着ている服はすりきれてボロボロ、スカートのあちらこちらは、ほころびて破れていました。クツだってずっ~と同じのをはいてるから、とっても汚れていたの。
そんなかっこうだから、小学校に行くと、秋菜ちゃんはクラスのみんなから、いつも笑われていました。でも、お家が貧乏だからしかたがありません。本当はみんなのように新しい服が欲しいのですけど、「借金」という「大人のお約束」を返すのに大変なパパには気が引けて、おねだりはできないのでした。
「秋菜、ごめんね…」
パパはいつも申しわけなさそうに、秋菜ちゃんにあやまりました。でも秋菜ちゃんは、また明るく笑って、「いいのよ」ってお返事していたのでした。あっ、弟が泣き出しましたよ、ご飯がまだだったわね。「こんばんは、どんなおかずにしたらいいのかしら?」ずっとカレーだとあきてしまいますよね。もう1週間、カレーばかりだわ。
「もうすぐクリスマス」秋菜ちゃんは小学校からの帰り道、商店街にジングルベルが鳴りひびいて、クリスマスツリーが飾ってあったり、ショーウィンドウの中の、かわいいお人形やオモチャを見ると、とっても欲しくなりました。「クリスマスプレゼントが欲しいなぁ」と思ったの。だけど、今年のクリスマスもまた無理みたいでした。
そして、雪がふるクリスマスイブの日、ママが死んでしまいました。そんなに苦しそうな顔ではなかったのよ。おだやかな顔をしてママは天国にいったのです。秋菜ちゃんは「もうママに会えない」と思うと悲しくて悲しくて大声で泣きました。パパも泣いていました。幼い弟は、よく分からないようすでスヤスヤと眠っていました。
秋菜ちゃんはたまらなくなって、家の外へ飛び出しました。すると、夜の空いっぱいに、たくさんの星がキラキラときらめいているのに気づいたのでした。その光景はまるで、神様が秋菜ちゃんのために飾ってくれた、大きな大きなクリスマスツリーみたいに美しく見えたのでした。
「ママ、来てごらん、きれいだよう…」
秋菜ちゃんは、ポツリとつぶやきました。そして秋菜ちゃんは、涙でいっぱいの目の向こう、天高く輝くお星さまたちの中に、大好きだったママのやさしい笑顔を見つけるのでした。
大好きな人はお星さまになったのね。 …どっヒャー、おどろいたぁ、おどろいたぁ!
「パパは一生懸命働いているし、ママはずっと病気で寝てるから…」
秋菜ちゃんは、毎日、ママのかわりに、パパやまだ小さい弟ためにご飯を作ったり、お家の中のお掃除をしたり、お洗濯をしたりして、お手伝いをしていたのでした。秋菜ちゃんは小学校の3年生だったけど、がんばり屋さんだったのです。
「秋菜、ごめんね…」
ママはいつも苦しそうに咳をしながら、秋菜ちゃんにあやまっていました。でも秋菜ちゃんは明るく笑って、「いいのよ」ってお返事していたのです。秋菜ちゃんの着ている服はすりきれてボロボロ、スカートのあちらこちらは、ほころびて破れていました。クツだってずっ~と同じのをはいてるから、とっても汚れていたの。
そんなかっこうだから、小学校に行くと、秋菜ちゃんはクラスのみんなから、いつも笑われていました。でも、お家が貧乏だからしかたがありません。本当はみんなのように新しい服が欲しいのですけど、「借金」という「大人のお約束」を返すのに大変なパパには気が引けて、おねだりはできないのでした。
「秋菜、ごめんね…」
パパはいつも申しわけなさそうに、秋菜ちゃんにあやまりました。でも秋菜ちゃんは、また明るく笑って、「いいのよ」ってお返事していたのでした。あっ、弟が泣き出しましたよ、ご飯がまだだったわね。「こんばんは、どんなおかずにしたらいいのかしら?」ずっとカレーだとあきてしまいますよね。もう1週間、カレーばかりだわ。
「もうすぐクリスマス」秋菜ちゃんは小学校からの帰り道、商店街にジングルベルが鳴りひびいて、クリスマスツリーが飾ってあったり、ショーウィンドウの中の、かわいいお人形やオモチャを見ると、とっても欲しくなりました。「クリスマスプレゼントが欲しいなぁ」と思ったの。だけど、今年のクリスマスもまた無理みたいでした。
そして、雪がふるクリスマスイブの日、ママが死んでしまいました。そんなに苦しそうな顔ではなかったのよ。おだやかな顔をしてママは天国にいったのです。秋菜ちゃんは「もうママに会えない」と思うと悲しくて悲しくて大声で泣きました。パパも泣いていました。幼い弟は、よく分からないようすでスヤスヤと眠っていました。
秋菜ちゃんはたまらなくなって、家の外へ飛び出しました。すると、夜の空いっぱいに、たくさんの星がキラキラときらめいているのに気づいたのでした。その光景はまるで、神様が秋菜ちゃんのために飾ってくれた、大きな大きなクリスマスツリーみたいに美しく見えたのでした。
「ママ、来てごらん、きれいだよう…」
秋菜ちゃんは、ポツリとつぶやきました。そして秋菜ちゃんは、涙でいっぱいの目の向こう、天高く輝くお星さまたちの中に、大好きだったママのやさしい笑顔を見つけるのでした。
大好きな人はお星さまになったのね。 …どっヒャー、おどろいたぁ、おどろいたぁ!
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2010年12月14日
片恋の残照 沙羅如月
「ひさしぶり? 元気だった?」
そう私に話しかけたあなたの瞳には、相変わらずの光が宿っているように私には思えた。
「本当に、ひさしぶり。一応元気かな?」
笑顔でかえした私の瞳にあなたは何を見る? わかるならば教えて欲しいものだと私は思う。
あなたを見ていて甦る記憶に思わず眉を顰めたくなったが、私はいつも浮かべる笑みを浮かべる。愛想笑いに見えるか見えないかの笑み。仕事でいつの間にか身についた技である。
「時間あるならお茶でもしない?」
私には真実をかくして画策しているとしか思えない誘い言葉。あなたはいつも何かを企んでいる。そう思う私の心はやはり変わらなかった。
(結構、時間経っているのにね…)
彼女にわからないように心で苦笑する。そして、できるだけ穏やかな笑顔を浮かべ答える。
「うん、いいよ」
昔のように普通に話す。ちょっと気取ろうかとも思ったけど、きっと途中で襤褸がでる。ならばそんなことをしないほうが得策だ。彼女と連れ立って喫茶店へと入る。
目の前の彼女は、見ると普通のおばさんでちょっと意外だったが、そういえばそんなに見え方を気にする人じゃなかったと思い出す。でも、その瞳の輝く光は以前と同じように自信に満ち溢れている。同じ時間を過ごしてもどうやら人生はまったく違ったらしいとその瞳からふと思う。彼女とは10年以上会っていなかった。もともと私のほうから連絡を取らないと彼女から連絡が来ることはなかったのだから、私がやめればいいだけの関係。それに気づいたとき、彼女に連絡するのをやめた。やはりその後、彼女から連絡が来ることはなかった。
彼女と当たり障りのない会話をしながら、甦る心が痛くなる記憶。
たしかに彼女との出会いは中学校。同じ委員会の委員だった。それから、大学、社会人そして結婚、出産…それこそ子供が1歳くらいになるまで連絡していた。年月にすれば14年になるかと思う。長い付き合いだった。自信に溢れ、強い人だったように思う。女性から見ても魅力的な雰囲気を持つ人だった。自分にないものを持っていた人だった。だからだろうか…彼女と仲良くなったのは…きっと…そう。
話しかけてきたのは彼女のほうだったと思う。
「ねえ、あなた佐々木君と一緒のクラスの委員さんだよね?」
彼女はかわいらしい笑顔と魅力的な瞳で話しかけてきた。佐々木君は同じクラスの同じ委員。そして当時私が片思いをしていた男の子。自信過剰気味ではあったが、それでも彼もまた自信に満ちた男の子であった。県大会まで出場するほどの長距離ランナー。中学では自信過剰もしかたない。私はすべてが普通の女の子。特別何かに長けているわけでもなく、すべてが平均的。だから自信を持てといわれても無理だった。
「そうだけど…あなたは6組の委員の人よね?」
なぜか目立つ彼女は名前こそ覚えていなかったけれど、顔は忘れようがなかった。
「そう。私は広田加奈子、よろしくね」
いきなりのよろしくねには驚いたが、だからといって断る理由も特にない。友達が増えるのは中学生としてはうれしいことだ。
「私は前田澪。よろしくね」
つられて自己紹介した後、彼女と一応友人になった。それなりに中学時代は楽しかった。当の佐々木君には、お前とは男と女を超えた友人になりたいなどといわれ、バレンタインのチョコもつき返され、それでもなぜか一緒にいた。もちろん友人としてだ。彼にとって私はそれ以上でもそれ以下でもないらしい。それでも傍にいられればそれでうれしかった。それだけで心があたたかくなり、幸せな気分になる。もしかしたら片思いに酔っていたのかも知れない。甘酸っぱい片思いというのは、小説の中でもどこか美しく切なく物語を輝かせているから…。
高校生になり三人とも同じ学校へと通った。ひとつ年上の加奈子の彼氏と私たち三人はいつも一緒だった。四人は同じ委員会を結局は中学から5年間続けた。その間でも私と佐々木君の関係が変わることはなかった。もう、それでいいかと思ったこともある。その時は楽しかったから。でもその関係は加奈子と付き合っている先輩が大学生になってから崩れ始める。
ある日を境に変わった二人の雰囲気。友達の加奈子と佐々木君の雰囲気は別のものになっていた。気づきたくなかった。私はこの5年間ずっと佐々木君に片思いをしたままだった。馬鹿だと思う。彼と彼女の関係は周りには周知の事実で…知らない振りをした。でもそれすらも加奈子はさせてくれなかった。
ある日、家に一本の電話が鳴り響く。電話に出れば聞こえてきたのは加奈子の切羽詰まった声。
「お願い。私と一緒に○×陸上競技場に行って!」
突然のことに私は言葉を失う。そこは今日佐々木君が試合に出ている競技場。そして突然告白される。
「私、佐々木と付き合っている。けんかをして話がしたいけど、私が行っても会ってくれない。だからお願い!」
何がお願いなんだか…そもそもなぜ私にそれを頼める? 私が佐々木君を好きなことずっと前から知ってるよね? あなたが先輩と別れたことは知っている。だからといって…高3のこの時期になぜ佐々木君と付き合う? 付き合いたいならば大学に行ってからにして欲しかった。いろんな思いが駆け巡る。でも、加奈子の声はとても辛そうで、結局私は加奈子の願いを叶えることになってしまった。
不機嫌な私は仏頂面のままクラブの皆に囲まれていた佐々木君の傍までゆき話しかける。
「佐々木君、加奈子が呼んでる。行ってやって」
佐々木君は突然現れた私に驚いていたが、そういうと不機嫌を隠さず、あきれたように言葉を返す。
「なんでお前がそれをいいにくる?…わかった…」
私に免じてということだと勝手に理解した。でも、これほど惨めな想いはしたことがない。なぜ、私が二人のために橋渡しをしなくちゃいけないのか…ぜんぜんわからない。なにより陸上部の皆の前で…長かった片思いはそれなりに有名だった。きっと私は佐々木君の前でずっと恋する少女だった。皆が知っていた。私に遠慮して佐々木君に想いを打ち明けなかった子もいたくらいだ。なのに…なぜ? こうも簡単に私は道化になる。
競技場の観覧席を出たとき、二人の姿を見た。加奈子が何かをいい募り、佐々木君が何かを怒っている…もうどうでもよかった。私はそのまま電車に乗って帰り、歯を食いしばって涙をこらえた。これでないては私はとんでもなく惨めではないか…そして1人5年の片思いに終止符を打つ。
それを期にしばらく佐々木君とも加奈子とも付き合いをやめた。進学する大学は決まっていたから、それだけを楽しみに登下校時、図書館で、学校の廊下で…みかける二人を見ないようにし無視し続けた。
大学に入って落ち着いた頃、私にもやさしい彼ができた。自分より年上のその人はいつも私を包み込んでくれ、自信のなかった私に自信をくれる。手痛い失恋はいつの間にか、ほろ苦い青春の思い出となった。初恋は実らない…そういうことだと思う。その頃から徐々に加奈子とはまた付き合うようになっていた。佐々木君とも少しは話せるようになった。大学も違うしほとんど会うことはなかったが。
家から大学が遠かった私は、下宿をすることにして女子寮に入寮した。そこへ一度だけこの二人が遊びに来たことがある。佐々木君がとった小型免許で乗れるスクーターに二人乗りでやってきた二人。彼女たちはきっと私にはもう何の屈託もないと思ったのだろう。だが、心はまだ癒え切れていなかった。考えれば5年分の想い…そうかんたんに癒せるものでもなかったのだ。だが、まあ、それを懐かしくと思えるくらいには復活していたらしい。このまま二人が上手くいくならその想いも無駄にはならないだろうなどと考えていた。でも、結局二人は別れる。そしてそれは必ず私に知らされ、時にはお互いに彼氏彼女がいながらの焼けぼっ杭に火などという、ふざけた関係を結んだりする。
佐々木君などは平気な顔をして彼女を連れて私たちカップルと遊んだ。その時彼が連れていた彼女は、佐々木君に小学校の頃から片思いをしている女の子だった。私より上手の片思い。その彼女と加奈子と平気で二股を掛ける彼にあきれ果て、私はその彼女が気の毒で仕方なかった。その彼女とも中学の頃、私は仲がよかったのだ。そしてその彼女とは加奈子との浮気の現場を押さえられ別れたと聞いた。もう佐々木君に対して何の感情もない。私が知っている、恋をした彼はいない…それがさびしい…。ただ片思いの想いだけが私の心に淡い思い出としてあった。
目の前の友人だった人は、今の生活に少し飽きているように話し出す。そして一枚の名刺を私に差し出した。
「今ね、こういう会社してるの。結構リーズナブルな価格で仕事しててね、評判いいから、今度ちゃんとした会社にしようと思ってる。澪もどう?」
差し出された名刺にはHP製作の会社名が印刷されている。そういえば、確かに何度かネットで見たことがある会社名だと思った。
「私は別にHPを創るほどのことはないからいいよ」
私は薄く微笑むと彼女を見つめる。そしてやはり…と思う。
(やっぱり、そういうことか…悪いけどあなたに頼むくらいなら高くても他に頼むよ。ま、私には必要ないけどね…)
それから先ほどまでとは打って変わって、興味がなさそうに話をしだす彼女。あまりにもあからさまだからあきれたけど、この人はきっと変わらないんだろうなと思う。
人の心の機微に疎く自分が大切な人。そしてかつての友人すら結局は利用することしか考えないんだと…もちろん会社を興すほどの人だから、そうでなければいけないのかもしれない。でも、私はやはりあなたとそういうこと抜きで昔話がしたかった…一度は同じ人を好きになったんでしょ? そんな彼との昔話に時というエッセンスを加えて語りたかった。
片恋はそれなりに真剣で今でも甘酸っぱい想い出として私の心の中で輝く。その残照をあなたと少しでも分かち合えたらまた違う関係が築けたかも知れない…ね。
魅惑的で残酷なあなた…もうあなたと道が交わることがないように祈ってるよ。
---バイ、バイ---
そう私に話しかけたあなたの瞳には、相変わらずの光が宿っているように私には思えた。
「本当に、ひさしぶり。一応元気かな?」
笑顔でかえした私の瞳にあなたは何を見る? わかるならば教えて欲しいものだと私は思う。
あなたを見ていて甦る記憶に思わず眉を顰めたくなったが、私はいつも浮かべる笑みを浮かべる。愛想笑いに見えるか見えないかの笑み。仕事でいつの間にか身についた技である。
「時間あるならお茶でもしない?」
私には真実をかくして画策しているとしか思えない誘い言葉。あなたはいつも何かを企んでいる。そう思う私の心はやはり変わらなかった。
(結構、時間経っているのにね…)
彼女にわからないように心で苦笑する。そして、できるだけ穏やかな笑顔を浮かべ答える。
「うん、いいよ」
昔のように普通に話す。ちょっと気取ろうかとも思ったけど、きっと途中で襤褸がでる。ならばそんなことをしないほうが得策だ。彼女と連れ立って喫茶店へと入る。
目の前の彼女は、見ると普通のおばさんでちょっと意外だったが、そういえばそんなに見え方を気にする人じゃなかったと思い出す。でも、その瞳の輝く光は以前と同じように自信に満ち溢れている。同じ時間を過ごしてもどうやら人生はまったく違ったらしいとその瞳からふと思う。彼女とは10年以上会っていなかった。もともと私のほうから連絡を取らないと彼女から連絡が来ることはなかったのだから、私がやめればいいだけの関係。それに気づいたとき、彼女に連絡するのをやめた。やはりその後、彼女から連絡が来ることはなかった。
彼女と当たり障りのない会話をしながら、甦る心が痛くなる記憶。
たしかに彼女との出会いは中学校。同じ委員会の委員だった。それから、大学、社会人そして結婚、出産…それこそ子供が1歳くらいになるまで連絡していた。年月にすれば14年になるかと思う。長い付き合いだった。自信に溢れ、強い人だったように思う。女性から見ても魅力的な雰囲気を持つ人だった。自分にないものを持っていた人だった。だからだろうか…彼女と仲良くなったのは…きっと…そう。
話しかけてきたのは彼女のほうだったと思う。
「ねえ、あなた佐々木君と一緒のクラスの委員さんだよね?」
彼女はかわいらしい笑顔と魅力的な瞳で話しかけてきた。佐々木君は同じクラスの同じ委員。そして当時私が片思いをしていた男の子。自信過剰気味ではあったが、それでも彼もまた自信に満ちた男の子であった。県大会まで出場するほどの長距離ランナー。中学では自信過剰もしかたない。私はすべてが普通の女の子。特別何かに長けているわけでもなく、すべてが平均的。だから自信を持てといわれても無理だった。
「そうだけど…あなたは6組の委員の人よね?」
なぜか目立つ彼女は名前こそ覚えていなかったけれど、顔は忘れようがなかった。
「そう。私は広田加奈子、よろしくね」
いきなりのよろしくねには驚いたが、だからといって断る理由も特にない。友達が増えるのは中学生としてはうれしいことだ。
「私は前田澪。よろしくね」
つられて自己紹介した後、彼女と一応友人になった。それなりに中学時代は楽しかった。当の佐々木君には、お前とは男と女を超えた友人になりたいなどといわれ、バレンタインのチョコもつき返され、それでもなぜか一緒にいた。もちろん友人としてだ。彼にとって私はそれ以上でもそれ以下でもないらしい。それでも傍にいられればそれでうれしかった。それだけで心があたたかくなり、幸せな気分になる。もしかしたら片思いに酔っていたのかも知れない。甘酸っぱい片思いというのは、小説の中でもどこか美しく切なく物語を輝かせているから…。
高校生になり三人とも同じ学校へと通った。ひとつ年上の加奈子の彼氏と私たち三人はいつも一緒だった。四人は同じ委員会を結局は中学から5年間続けた。その間でも私と佐々木君の関係が変わることはなかった。もう、それでいいかと思ったこともある。その時は楽しかったから。でもその関係は加奈子と付き合っている先輩が大学生になってから崩れ始める。
ある日を境に変わった二人の雰囲気。友達の加奈子と佐々木君の雰囲気は別のものになっていた。気づきたくなかった。私はこの5年間ずっと佐々木君に片思いをしたままだった。馬鹿だと思う。彼と彼女の関係は周りには周知の事実で…知らない振りをした。でもそれすらも加奈子はさせてくれなかった。
ある日、家に一本の電話が鳴り響く。電話に出れば聞こえてきたのは加奈子の切羽詰まった声。
「お願い。私と一緒に○×陸上競技場に行って!」
突然のことに私は言葉を失う。そこは今日佐々木君が試合に出ている競技場。そして突然告白される。
「私、佐々木と付き合っている。けんかをして話がしたいけど、私が行っても会ってくれない。だからお願い!」
何がお願いなんだか…そもそもなぜ私にそれを頼める? 私が佐々木君を好きなことずっと前から知ってるよね? あなたが先輩と別れたことは知っている。だからといって…高3のこの時期になぜ佐々木君と付き合う? 付き合いたいならば大学に行ってからにして欲しかった。いろんな思いが駆け巡る。でも、加奈子の声はとても辛そうで、結局私は加奈子の願いを叶えることになってしまった。
不機嫌な私は仏頂面のままクラブの皆に囲まれていた佐々木君の傍までゆき話しかける。
「佐々木君、加奈子が呼んでる。行ってやって」
佐々木君は突然現れた私に驚いていたが、そういうと不機嫌を隠さず、あきれたように言葉を返す。
「なんでお前がそれをいいにくる?…わかった…」
私に免じてということだと勝手に理解した。でも、これほど惨めな想いはしたことがない。なぜ、私が二人のために橋渡しをしなくちゃいけないのか…ぜんぜんわからない。なにより陸上部の皆の前で…長かった片思いはそれなりに有名だった。きっと私は佐々木君の前でずっと恋する少女だった。皆が知っていた。私に遠慮して佐々木君に想いを打ち明けなかった子もいたくらいだ。なのに…なぜ? こうも簡単に私は道化になる。
競技場の観覧席を出たとき、二人の姿を見た。加奈子が何かをいい募り、佐々木君が何かを怒っている…もうどうでもよかった。私はそのまま電車に乗って帰り、歯を食いしばって涙をこらえた。これでないては私はとんでもなく惨めではないか…そして1人5年の片思いに終止符を打つ。
それを期にしばらく佐々木君とも加奈子とも付き合いをやめた。進学する大学は決まっていたから、それだけを楽しみに登下校時、図書館で、学校の廊下で…みかける二人を見ないようにし無視し続けた。
大学に入って落ち着いた頃、私にもやさしい彼ができた。自分より年上のその人はいつも私を包み込んでくれ、自信のなかった私に自信をくれる。手痛い失恋はいつの間にか、ほろ苦い青春の思い出となった。初恋は実らない…そういうことだと思う。その頃から徐々に加奈子とはまた付き合うようになっていた。佐々木君とも少しは話せるようになった。大学も違うしほとんど会うことはなかったが。
家から大学が遠かった私は、下宿をすることにして女子寮に入寮した。そこへ一度だけこの二人が遊びに来たことがある。佐々木君がとった小型免許で乗れるスクーターに二人乗りでやってきた二人。彼女たちはきっと私にはもう何の屈託もないと思ったのだろう。だが、心はまだ癒え切れていなかった。考えれば5年分の想い…そうかんたんに癒せるものでもなかったのだ。だが、まあ、それを懐かしくと思えるくらいには復活していたらしい。このまま二人が上手くいくならその想いも無駄にはならないだろうなどと考えていた。でも、結局二人は別れる。そしてそれは必ず私に知らされ、時にはお互いに彼氏彼女がいながらの焼けぼっ杭に火などという、ふざけた関係を結んだりする。
佐々木君などは平気な顔をして彼女を連れて私たちカップルと遊んだ。その時彼が連れていた彼女は、佐々木君に小学校の頃から片思いをしている女の子だった。私より上手の片思い。その彼女と加奈子と平気で二股を掛ける彼にあきれ果て、私はその彼女が気の毒で仕方なかった。その彼女とも中学の頃、私は仲がよかったのだ。そしてその彼女とは加奈子との浮気の現場を押さえられ別れたと聞いた。もう佐々木君に対して何の感情もない。私が知っている、恋をした彼はいない…それがさびしい…。ただ片思いの想いだけが私の心に淡い思い出としてあった。
目の前の友人だった人は、今の生活に少し飽きているように話し出す。そして一枚の名刺を私に差し出した。
「今ね、こういう会社してるの。結構リーズナブルな価格で仕事しててね、評判いいから、今度ちゃんとした会社にしようと思ってる。澪もどう?」
差し出された名刺にはHP製作の会社名が印刷されている。そういえば、確かに何度かネットで見たことがある会社名だと思った。
「私は別にHPを創るほどのことはないからいいよ」
私は薄く微笑むと彼女を見つめる。そしてやはり…と思う。
(やっぱり、そういうことか…悪いけどあなたに頼むくらいなら高くても他に頼むよ。ま、私には必要ないけどね…)
それから先ほどまでとは打って変わって、興味がなさそうに話をしだす彼女。あまりにもあからさまだからあきれたけど、この人はきっと変わらないんだろうなと思う。
人の心の機微に疎く自分が大切な人。そしてかつての友人すら結局は利用することしか考えないんだと…もちろん会社を興すほどの人だから、そうでなければいけないのかもしれない。でも、私はやはりあなたとそういうこと抜きで昔話がしたかった…一度は同じ人を好きになったんでしょ? そんな彼との昔話に時というエッセンスを加えて語りたかった。
片恋はそれなりに真剣で今でも甘酸っぱい想い出として私の心の中で輝く。その残照をあなたと少しでも分かち合えたらまた違う関係が築けたかも知れない…ね。
魅惑的で残酷なあなた…もうあなたと道が交わることがないように祈ってるよ。
---バイ、バイ---
Posted by fuefukipiero at
11:30
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2010年12月12日
2010年12月10日
Proud of amnesia パカポン
俺は老人ではないが、兎に角忘れ癖がひどい。「どんな風にひどいのか?」と云うと、信じられないかもしれないが、自分の名前さえ思い出せないで困ってしまうことがある。「佐藤義武」さほど難解な名前ではないのだが、その「佐藤…」がなかなか出てこない。
そんな時は頭の中で「あ、い、う、え、お…」と、ひらがなを並べていき「さ行」まで来たら、何となく「さとう…」と思い出すわけだ。本棚にびっしり並んでいる本を一冊ずつ手に取って開いて、ヘソクリの一万円札を探すようなものだろう。当然、空振りはあるからにして「さ行」を過ぎて「た行」に素通りしてしまうこともある。そうすると「ん」まで行ってもう一回「あ」からやり直しとなる。
こう云う感覚だと、何人かの友人と会って話をする時は非常に混乱してしまう。実際のところ俺は彼らの名前がさっぱり分からない。友人関係であるからにして「お前は誰だ?」と聞くのも病人扱いされる気がして、そんな時はただ黙って会話の様子を確かめている。誰かが「おい、山本」と呼んでいれば「ああ、こいつは山本なんだ…島田なんだ」と気づくのだ。ところが一度聞いても俺はすぐに忘れてしまう。俺は瞬間接着剤ならぬ、瞬間健忘症ってことだろう。
そんな時はまた、頭の中で「あ行」から始めている。だが、時間に余裕があればいいのだが、急ぎの時は、俺の旧式のコンピューターは処理能力が追いつかない。例えば朝、出勤前にトイレに入って大便をし、トイレットペーパーが切れていることに気づくと「家族に知らせねば」と思い「おい、トイレットペーパーを持ってきてくれ」と叫びたいのだが、その「トイレットペーパー」という単語がすぐに出てこない。締め切ったトイレの扉の中から「おい、おい」と声だけがするのも変な具合だろう。
また「あ行」から検索開始。こういう時に限って焦っているせいか上手く出てこない。早くトイレから出ないと会社に間に合わない。俺は次第に汗だくになっている。腹に力が入るせいか大便の追加が出る。そんな時のウンコは余計に臭い。やっとのことで「トイレットペーパー」と云う単語を思い出して、「おい、トイレットペーパーを持ってきてくれ」と絶叫。
そして不機嫌な顔してを持ってきてくれた中年女に、
「…あんた誰?」
そんな時は頭の中で「あ、い、う、え、お…」と、ひらがなを並べていき「さ行」まで来たら、何となく「さとう…」と思い出すわけだ。本棚にびっしり並んでいる本を一冊ずつ手に取って開いて、ヘソクリの一万円札を探すようなものだろう。当然、空振りはあるからにして「さ行」を過ぎて「た行」に素通りしてしまうこともある。そうすると「ん」まで行ってもう一回「あ」からやり直しとなる。
こう云う感覚だと、何人かの友人と会って話をする時は非常に混乱してしまう。実際のところ俺は彼らの名前がさっぱり分からない。友人関係であるからにして「お前は誰だ?」と聞くのも病人扱いされる気がして、そんな時はただ黙って会話の様子を確かめている。誰かが「おい、山本」と呼んでいれば「ああ、こいつは山本なんだ…島田なんだ」と気づくのだ。ところが一度聞いても俺はすぐに忘れてしまう。俺は瞬間接着剤ならぬ、瞬間健忘症ってことだろう。
そんな時はまた、頭の中で「あ行」から始めている。だが、時間に余裕があればいいのだが、急ぎの時は、俺の旧式のコンピューターは処理能力が追いつかない。例えば朝、出勤前にトイレに入って大便をし、トイレットペーパーが切れていることに気づくと「家族に知らせねば」と思い「おい、トイレットペーパーを持ってきてくれ」と叫びたいのだが、その「トイレットペーパー」という単語がすぐに出てこない。締め切ったトイレの扉の中から「おい、おい」と声だけがするのも変な具合だろう。
また「あ行」から検索開始。こういう時に限って焦っているせいか上手く出てこない。早くトイレから出ないと会社に間に合わない。俺は次第に汗だくになっている。腹に力が入るせいか大便の追加が出る。そんな時のウンコは余計に臭い。やっとのことで「トイレットペーパー」と云う単語を思い出して、「おい、トイレットペーパーを持ってきてくれ」と絶叫。
そして不機嫌な顔してを持ってきてくれた中年女に、
「…あんた誰?」
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2010年11月27日
純愛プラネット ものみポプラ
腹いせ女のボヤキ節
はらまわり こまわりきかず べるときれ
すもうとり まわしがとれて けがみえた
つきをみて ちがさわぐひと わたしだけ
むねはなし おしりもなしで こがうめる
ちちばなれ ははとはなれて りこんせず
くちべにを おってたべたら うまかった
そらたかく あがりすぎたら おちるだけ
きぼうとは しんぼうという ぼうちがい
あさおきて かおがかわれば げんきでる
びじんねと いわれたうらで ごすんくぎ
よるになり はらがへったら ゆびをかむ
ひとはみな ばかだとおもい ただなみだ
Posted by fuefukipiero at
14:16
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2010年11月12日
道化師と季節病 笛吹ピエロ
僕の家には車が2台あるのですが、妻と次女がずっと通勤に使っているので、普段は使えません。住んでる場所が田舎ですし「ちょっと、そこまで」といっても市営バスはほとんど通っていないので、外出するには本当に困ってしまいます。自転車、バイクでも近くのショッピングセンターに行くには、そこそこの距離があって時間がかかります。
なので、妻と次女が仕事が休みの日は車が空いているので、僕は朝からソワソワしてしまいます。「行きたい」と思っていた場所にいけるのです。そんな日の予定も組んでいて「今日はあそこと、ここ」という具合に出かけるコースを決めているわけです。「野に放たれた…」ではありませんけれど、僕には外出できることがこんなに楽しいことはないのです。
その日の僕の予定。まずは月初めなので、かかりの整形外科(内科もあり)に「重度心身障害者医療費助成申請書」に記入して持っていくことにしました。僕は重度の聴覚障害者なので、月々かかった医療費が全部ではありませんが戻ってくるのです。申請して4カ月くらいあとに銀行に振り込まれます。月初めにその青色の申請書を病院に出すのです。
お昼少し前に整形外科に行くと、受付の窓口に若い男性の技師さんが座っていて、専門書らしき本を読んでいました。「先月ぶんです。お願いします」と言って渡してきました。それから病院の前の道を歩いて横切って薬局に行きました。この時間には薬局にはお若い娘さんの薬剤師さんが2人いて、僕が入っていくと笑顔で迎えてくれました。この薬局の薬剤師さんたちはとても親切で、耳の不自由な僕に手話を使ってくれたりします。
次は市民病院です。こちらは前の月に「尿管結石」を患ってかかっていたので持っていきました。受付けは広くて、カウンターの向こうの女子事務員さんたちは仕事に熱中している様子でした。僕は申請用紙を持ったまま、しばらく立ちつくしていました。すると1人の女子事務員さんが気づいて、走ってやってきて「なんですか?」と笑顔で聞きました。そんなに若い女性ではありませんが、きれいな女性でした。「先月ぶんです。お願いします」と、また言って渡すと、女性はなにか聞きます。「すみません耳が悪いんです」とあやまって、もう1回言ってもらうと「なに科にかかったのですか?」と言われたそうで、「はい、泌尿科です」と教えて受け取ってもらえました。
市民病院を出ようと思ったら、入口の横の案内室に身に覚えのある主婦がいるのに気がつきました。その主婦は市の手話サークルの会長さんでした。僕は前に手話サークルに入会していたので、会長さんとは面識があったのです。それにしても久しぶりです。遠くから会長さんに向かって手話で「久しぶりです」と伝えると、会長さんは気づいてこちらにやってきました。しばらく、近くの長椅子に腰かけて雑談をしました。それから名刺を取り出して「じつは、イラストレーターをやってます」と初めて知らせました。会長さんは驚いていました。今年の春先に県の「聴覚障害者情報提供センター」で個展を開かせていただいたこととか話しました。会長さんは「サークルにまた遊びにきて下さい」と微笑んで言われました。僕は「今、いそがしいので」と売れっ子イラストレーターであるかのような嘘をつきました。
それからショッピングセンターに行きました。ショッピングセンターにはATMがあることを思い出して、所属する『日本イラストレーター協会』の2011年の年鑑に載せてもらう費用、10,000円を振り込みました。振込カードを持っていなかったので、最初からの手続きになります。僕は耳が不自由なこともあって、振り込みの仕方がよく分からないのです。ATMの音声が聞き取れないのです。それでものすごく緊張してしまいました。だけどATMに並ぶお客さんが少なかったので、あわてずにゆっくりと振り込むことができました。
1階で振り込みをすませると、2階の本屋に行きました。ここずっと本は買っていません。理由はたんに「お金がもったいない」だけです。でも見るのはタダですから、行ってみることにしました。パソコンのソフト『Photoshop CS5』のテキスト本が気になりましたけど、パラパラとめくっても「自分の知りたいことはあんまり載ってない」と感じて買うのはやめました。ただ、『男の隠れ家』という雑誌が「本のある空間、本とある時間」という特集を組んでいて、書店や書斎や本の写真がたくさん載っていたのでつい買ってしまいました。680円でした。
レジで若い女子店員さんにお金を払いました。女子店員さんはお釣りをくれる時に、前髪をうしろにかき上げた仕草が色っぽかったです。レジをすませると、ふとコーナーの一角に目がいき行ってみました。そのコーナーは『来年の日記、予定表コーナー』でした。黒い表紙の大きなサイズの日記が一杯並んでいます。その時、「ああ、もう来年なんだ」と気づきました。あわてて、毎年使っている形態の日記を見つけましたけど、ありませんでした。『能率ダイアリー』のぺターッと両開きするリング形式のものですけど、なかったです。左をくくってあるノート形式だと、机の上では不安定になって書きにくいのです。それでリング形式がいいのです。
それから、2階をずっと南に歩いて100円均一に行くことにしました。パソコンの「マウスパット」が欲しかったのです。途中、百貨店の出張所あたりで、お菓子の店頭販売をしているおじさんがいるのに気づきました。最初は素通りするつもりだったのですが、ふと「母は甘いものが好きだった」と思い出したら、足が止まってしまいました。そのお菓子は砂糖菓子で「ギンナン」や「ショウガ」「マンゴー」とかあります。「ココナツ」や「ピーナッツ」もあります。でも袋入りで、小さなのが480円、大きいのが1,050円とお菓子にしては割高です。
しかし、おじさんが試食用のお菓子の切れ端を「これどうですか、あれどうですか?」といろいろ勧めるので食べるしかありません。僕の口の中はすっかり砂糖の味でベタベタになってしまいました。だいたい僕は甘い食べ物は苦手なのですけど、ごちそうになって断るのも申し訳ない気になり、1,050円の「ギンナン」と480円の「ショウガ」を1袋ずつ買いました。支払いは1,400円でよかったです。
100円均一には「マウスパッド」はありました。マウスの下に敷く薄い四角のゴムみたいなのです。だけど100円均一の製品はフアフアで軽くてスポンジのような感触で安物みたいだったので止めました。1階のホームセンターに行ってみることにしました。500円で、見た目は高級そうな製品があったので、それを買いました。ホームセンターの出口から外へ出ようとしたら、出口にクリスマスのキャンドルが飾られていました。雪ダルマの人形とかLSDのネオンセットとか売ってありました。
その時、「ああ、もうクリスマスなんだ」と気づいたのでした。「マウスパッド」を家に帰って袋から取り出そうとしたのですが、力が入りすぎて表面を破ってしまいました。使いものにならなくなりました。安物にしておけばよかったです。
なので、妻と次女が仕事が休みの日は車が空いているので、僕は朝からソワソワしてしまいます。「行きたい」と思っていた場所にいけるのです。そんな日の予定も組んでいて「今日はあそこと、ここ」という具合に出かけるコースを決めているわけです。「野に放たれた…」ではありませんけれど、僕には外出できることがこんなに楽しいことはないのです。
その日の僕の予定。まずは月初めなので、かかりの整形外科(内科もあり)に「重度心身障害者医療費助成申請書」に記入して持っていくことにしました。僕は重度の聴覚障害者なので、月々かかった医療費が全部ではありませんが戻ってくるのです。申請して4カ月くらいあとに銀行に振り込まれます。月初めにその青色の申請書を病院に出すのです。
お昼少し前に整形外科に行くと、受付の窓口に若い男性の技師さんが座っていて、専門書らしき本を読んでいました。「先月ぶんです。お願いします」と言って渡してきました。それから病院の前の道を歩いて横切って薬局に行きました。この時間には薬局にはお若い娘さんの薬剤師さんが2人いて、僕が入っていくと笑顔で迎えてくれました。この薬局の薬剤師さんたちはとても親切で、耳の不自由な僕に手話を使ってくれたりします。
次は市民病院です。こちらは前の月に「尿管結石」を患ってかかっていたので持っていきました。受付けは広くて、カウンターの向こうの女子事務員さんたちは仕事に熱中している様子でした。僕は申請用紙を持ったまま、しばらく立ちつくしていました。すると1人の女子事務員さんが気づいて、走ってやってきて「なんですか?」と笑顔で聞きました。そんなに若い女性ではありませんが、きれいな女性でした。「先月ぶんです。お願いします」と、また言って渡すと、女性はなにか聞きます。「すみません耳が悪いんです」とあやまって、もう1回言ってもらうと「なに科にかかったのですか?」と言われたそうで、「はい、泌尿科です」と教えて受け取ってもらえました。
市民病院を出ようと思ったら、入口の横の案内室に身に覚えのある主婦がいるのに気がつきました。その主婦は市の手話サークルの会長さんでした。僕は前に手話サークルに入会していたので、会長さんとは面識があったのです。それにしても久しぶりです。遠くから会長さんに向かって手話で「久しぶりです」と伝えると、会長さんは気づいてこちらにやってきました。しばらく、近くの長椅子に腰かけて雑談をしました。それから名刺を取り出して「じつは、イラストレーターをやってます」と初めて知らせました。会長さんは驚いていました。今年の春先に県の「聴覚障害者情報提供センター」で個展を開かせていただいたこととか話しました。会長さんは「サークルにまた遊びにきて下さい」と微笑んで言われました。僕は「今、いそがしいので」と売れっ子イラストレーターであるかのような嘘をつきました。
それからショッピングセンターに行きました。ショッピングセンターにはATMがあることを思い出して、所属する『日本イラストレーター協会』の2011年の年鑑に載せてもらう費用、10,000円を振り込みました。振込カードを持っていなかったので、最初からの手続きになります。僕は耳が不自由なこともあって、振り込みの仕方がよく分からないのです。ATMの音声が聞き取れないのです。それでものすごく緊張してしまいました。だけどATMに並ぶお客さんが少なかったので、あわてずにゆっくりと振り込むことができました。
1階で振り込みをすませると、2階の本屋に行きました。ここずっと本は買っていません。理由はたんに「お金がもったいない」だけです。でも見るのはタダですから、行ってみることにしました。パソコンのソフト『Photoshop CS5』のテキスト本が気になりましたけど、パラパラとめくっても「自分の知りたいことはあんまり載ってない」と感じて買うのはやめました。ただ、『男の隠れ家』という雑誌が「本のある空間、本とある時間」という特集を組んでいて、書店や書斎や本の写真がたくさん載っていたのでつい買ってしまいました。680円でした。
レジで若い女子店員さんにお金を払いました。女子店員さんはお釣りをくれる時に、前髪をうしろにかき上げた仕草が色っぽかったです。レジをすませると、ふとコーナーの一角に目がいき行ってみました。そのコーナーは『来年の日記、予定表コーナー』でした。黒い表紙の大きなサイズの日記が一杯並んでいます。その時、「ああ、もう来年なんだ」と気づきました。あわてて、毎年使っている形態の日記を見つけましたけど、ありませんでした。『能率ダイアリー』のぺターッと両開きするリング形式のものですけど、なかったです。左をくくってあるノート形式だと、机の上では不安定になって書きにくいのです。それでリング形式がいいのです。
それから、2階をずっと南に歩いて100円均一に行くことにしました。パソコンの「マウスパット」が欲しかったのです。途中、百貨店の出張所あたりで、お菓子の店頭販売をしているおじさんがいるのに気づきました。最初は素通りするつもりだったのですが、ふと「母は甘いものが好きだった」と思い出したら、足が止まってしまいました。そのお菓子は砂糖菓子で「ギンナン」や「ショウガ」「マンゴー」とかあります。「ココナツ」や「ピーナッツ」もあります。でも袋入りで、小さなのが480円、大きいのが1,050円とお菓子にしては割高です。
しかし、おじさんが試食用のお菓子の切れ端を「これどうですか、あれどうですか?」といろいろ勧めるので食べるしかありません。僕の口の中はすっかり砂糖の味でベタベタになってしまいました。だいたい僕は甘い食べ物は苦手なのですけど、ごちそうになって断るのも申し訳ない気になり、1,050円の「ギンナン」と480円の「ショウガ」を1袋ずつ買いました。支払いは1,400円でよかったです。
100円均一には「マウスパッド」はありました。マウスの下に敷く薄い四角のゴムみたいなのです。だけど100円均一の製品はフアフアで軽くてスポンジのような感触で安物みたいだったので止めました。1階のホームセンターに行ってみることにしました。500円で、見た目は高級そうな製品があったので、それを買いました。ホームセンターの出口から外へ出ようとしたら、出口にクリスマスのキャンドルが飾られていました。雪ダルマの人形とかLSDのネオンセットとか売ってありました。
その時、「ああ、もうクリスマスなんだ」と気づいたのでした。「マウスパッド」を家に帰って袋から取り出そうとしたのですが、力が入りすぎて表面を破ってしまいました。使いものにならなくなりました。安物にしておけばよかったです。
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2010年11月11日
2010年11月09日
草の簪 佐多田聖也
僕の少し痙攣して震える様な眼光の中に、後頭部を強く殴打された時、一瞬目の前が虚構の暗礁に乗り上げるあの幻影が、獲物を狙う獰猛な熊にも似た姿で伸し掛かって来た。13階建のビルの屋上から落下した僕は、間もなく死者となり三途の川を渡り閻魔の審判を仰ぐ事になるのだろうが、恐らく僕は天国ではなく罪人として地獄の責め苦を受けるのだと薄れいく記憶の中でそう思った。
お釈迦様の手の平の蓮の上で安楽に暮らすのではなく残忍な鬼どもに皮を剥がれたり、針の山を血達磨となって転げ回ったり、燃え盛る火焔の中で骨髄まで粉々に焼かれるのである。冷たい血の池で背鰭を捥がれた鯉の様にパクパクと口を執拗に開閉して、その両手足に絡み付く粘液から逃れ様とするが成す術はない。多分僕は暗闇の血の池の中で唯一人、いつまでも躰をそうやって浮き沈みさせて居なければならないのだろう。
「1人?」いや、ひょっとすると、僕より先に信一や和江。それに正雄や秀信、智子に治郎もここに落ちて来て、同じ様に踠き苦しんでいるのかも知れない。何故なら僕はあの忌まわしい巣窟の中で彼等と共に犯した罪の為に地の底に突き落とされるのだろうから、きっと彼等もそこに居るに違いないのだ。
「草の簪(かんざし)」僕等はあの日、牧師の娘、白人の美しい少女を遊び場所としていた防空壕に閉じ込めて、そして彼女の鮮やかな金色の髪にその簪を刺していた。息も絶え絶えな彼女の髪に、まるでお姫様が飾る髪飾りの如く刺して皆嘲笑っていた。それは戦争に負けた民族の戦勝国への「敵討ち」「仕返し」として、何ら躊躇いもなく正当化できることだと皆思っていた。残酷であるとは少しも考えなかった。
お釈迦様の手の平の蓮の上で安楽に暮らすのではなく残忍な鬼どもに皮を剥がれたり、針の山を血達磨となって転げ回ったり、燃え盛る火焔の中で骨髄まで粉々に焼かれるのである。冷たい血の池で背鰭を捥がれた鯉の様にパクパクと口を執拗に開閉して、その両手足に絡み付く粘液から逃れ様とするが成す術はない。多分僕は暗闇の血の池の中で唯一人、いつまでも躰をそうやって浮き沈みさせて居なければならないのだろう。
「1人?」いや、ひょっとすると、僕より先に信一や和江。それに正雄や秀信、智子に治郎もここに落ちて来て、同じ様に踠き苦しんでいるのかも知れない。何故なら僕はあの忌まわしい巣窟の中で彼等と共に犯した罪の為に地の底に突き落とされるのだろうから、きっと彼等もそこに居るに違いないのだ。
「草の簪(かんざし)」僕等はあの日、牧師の娘、白人の美しい少女を遊び場所としていた防空壕に閉じ込めて、そして彼女の鮮やかな金色の髪にその簪を刺していた。息も絶え絶えな彼女の髪に、まるでお姫様が飾る髪飾りの如く刺して皆嘲笑っていた。それは戦争に負けた民族の戦勝国への「敵討ち」「仕返し」として、何ら躊躇いもなく正当化できることだと皆思っていた。残酷であるとは少しも考えなかった。
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16:06
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2010年11月04日
薗八ばなし 宮古路薗八
うっちゃりぞなもし
季節は初春、大阪市内の小さな旅行者のツアーだった。ふたりで行くはずであったが、当日同僚がドタキャンとなり、はてどうしようかと迷った。代金は支払い済みだし、独り身でこれから食事の心配するのも面倒くさかったので、とりあえず行くことにした。何とかなるだろうと思って、着替えだけを入れた小さなバッグを肩に下げて、指定された京都駅八条口のバス停に5分前に到着した。
待っていたバスは何とマイクロであった。それも旧式の20人は乗れないようなおんぼろバスであった。老齢の運転手に、
「○○旅行の城崎温泉ツアーですか。」
と訊ねたら、大きくうなずいて手招きされた。すでにバスには、70前後の白髪の老人と中学生くらいの男の子、三人連れのいかにもうるさそうな関西のおばちゃん達、ミニスカ姿の女子大生らしき若い女が二人、そして30前後の女が見えた。席は指定ではなく、わたしは老人と中学生の並びの1人席に座った。
運転手から、
「今日は○○旅行の城崎温泉バスツアーにご参加いただきありがとうございます。本来ですと通常の観光バスをご利用いただくことになるのですが、予約しておりましたバスが車輛不良となり、さらに当日に15名もの団体予約のキャンセルがありまして急遽このマイクロバスをご利用いただくことになりました。それでは皆様お揃いですので出発いたします。」
そうアナウンスがあって、バスは動きはじめた。
途中、前々日が当直でほとんど寝れなかったこともあり、その疲れが尾を引いているのかバスが動き出すと深い眠りに落ちた。トイレ休憩で目が覚めて、中学生連れの老人と共にトイレに入った。横で用便をする老人から声をかけられた。
「おひとりですか。」
「はあ、連れが急に来れなくなって。」
そういうと老人は人の良さそうな笑みを浮かべた。
バスに戻ると、おばちゃん達の大きな話し声が辺りに響いていた。おばちゃん達は、よく笑いよくしゃべった。通路側に座った老人から、
「飲みませんか。」
と紙コップを手渡された。すると、ポケットウイスキーを取り出して、コップに半分ほどついでくれた。
「いや、こんなに…」
と言うと、老人はちょっと後ろを振り向いて、
「酔って背中を忘れましょう。」
そう笑った。
バスは4時間余りかけて城崎に着いた。そのほとんどを酔いと疲れのせいで眠りの中で過ごしてしまった。宿は古い温泉旅館で、部屋割りは3つでわたしは老人と中学生と同宿することになった。後はおばちゃん達3人と、若い女連れとわたしと同年代に見える女の組み合わせになった。ずいぶんと前の話なので、どのように過ごしたのかははっきりと覚えていない。食事前の、老人からの話の中で定年退職後すぐに連れ合いを病気で亡くし、今は娘夫婦と同居していること、孫はよくできた子で、今回の旅行にも一緒についてきてくれたことなど、そんなことを断片的に思い出す。
9人の夕食の席で、なぜか同年代の女がわたし達を含めた全員にお酌して回った。わたしは昼のウイスキーがまだ残っていて、ぽおっーとしたまま注がれたビールを飲み干した。その時、テレビか何かで見たような人だと思った。相変わらず、おばちゃん達はよくしゃべり、飲み、食べていた。若手女子3人組は意外に打ち解けて手振り身振りを加えながら盛り上がっていた。気になったのは、若い二人連れのひとりが浴衣の裾から白い足を投げ出していて、それだけが目についた。
旅館には卓球台が1台あって、食事の後に中学生とピンポンをした。わたしはそこそこ自分ではうまいと思っていたが、粘り強く返してくる様に酒の酔いもあってか最後はついていけなかった。よく聞くと、小学6年生から卓球をやっていて今日はおじさんに合わせていたとのことで、何やら気恥ずかしい思いをして部屋に戻った。老人は風呂にも行かずに孫を待っていた。その夜は3人で温泉に入り、老人が持ってきた何本かのポケットウイスキーを飲みながら、まだ冷える春の夜をゆったりとした時間の中で過ごした。
翌朝は9時半出発ということで、8時過ぎまで寝ていた。朝食はばらばらだったので食堂に同行の姿は見えなかった。予定通りバスは出発し、帰りは三方五湖などを回って午後6時過ぎに京都駅に戻った。老人と中学生、その他の同行の人達とわたしは挨拶をして別れた。
わたしは晩飯を食べて帰ろうと高架下の食堂街を東に歩き出した。すると、後ろから声をかけられた。振り向くと、さっきまで同行していた同年齢の女がすぐ背中にいた。
「覚えていません。」
といきなり聞かれた。
「いや、どこかでお見かけしたことがあるような…。」
そう言って言葉を濁した。
「よろしければ、ご飯食べません。」
女はそう切り替えしてきた。
「はあ。」
わたしは、いったい誰なのか記憶の回路を手繰り寄せてみたが皆目思い出すことができなかった。
『蓬莱』と書かれた中華料理店の二人席に私と女は向かい合わせに座った。
「私、○○旅行の社員でこのツアーの担当者のひとりなんです。本当はキャンセル中止にするところをあなたの名前を偶然見つけて予定通りに進めました。」
女はそう言うと私をじっと見つめた。
「大変失礼ながら、まったく思い出せないんですが。」
女はわたしの目を見つめながら、
「覚えていないかもしれませんが、十年ほど前、私とあなたは一夜を同じ部屋で過ごしたことがあるんです。」
「えっ、そんなことぜんぜん覚えていません。」
確かにそんなことをした覚えはなかった。これは大いなる人違いではないかと思った。女は語りだした。
「大阪芸大の音楽学科の○○さんに三味線を教えていたでしょう。彼女と彼女のカレとの4人で彼女の下宿でコンパしたことを覚えていません。その時、酔いつぶれたあなたを隣の私の部屋にカレが運んでくれて、その晩は私のふとんであなたは寝てすごしたんです、ただ寝てただけですけどね。私はお風呂に入ってあなたのそばで待ってました。でも、ゆすってもつねってもあなたは朝まで起きませんでした。翌朝、私が隣のエッチャンのところに行っている間に勝手に部屋を出ていったでしょう。覚えてます。」
そう切り出された。
ビールと餃子が出されて、テーブルに置かれた私のグラスに女はビールを注ぎだした。そういえば、確かに1級下の音楽学科の女子学生にしばらく三味線を教えていたことがある。その子にはカレがいて一緒に何人かで酒を飲んだ記憶があり、飲みすぎてカレの下宿に泊めてもらったことは覚えていた。しかし、その下宿が目の前にいる女の部屋であったなどということは、今の今まで知らなかった。ましてや、一緒に寝た記憶もなければ何かをしたなどということはまったくもって身に覚えがない。
女はビールを注ぎ終わると、
「私は舞台芸術でした。あなたが講堂で自作の三味線音楽を弾き語りをしたのを聴きました。その時にすごく興味を抱きました。そうしたら、隣のエッチャンが三味線をあなたに習っていると聞いて、是非一度話がしたくなってコンパを企画したんです。コンパではあなたとはすごく話が盛り上がってしまい、お酒も入っていましたしとっても興奮した状態になりました。そうこうしている中であなたが酔いつぶれてしまったので、カレに隣の私の部屋まで運んでもらったんです。」
わたしは何と答えてよいものかと困惑した。
「いや、その時は大変ご迷惑をおかけしました。」
そう返すのがやっとであった。餃子が2人前、そのまま冷えて皿の上に乗っていた。
「その時は、すごくむなしくて腹が立ちました。でも、今はいい思い出なのかもしれません。」
女はそういうと自分のグラスにビールをついで、口をつけた。
「のど、乾きませんんか。」
そう言って小さく笑った。わたしはぬるくなったビールを一気に飲み干して女を見た。よく見れば顔立ちのいい美人である。ミニスカートの若い二人連れよりよほど女としての価値がある。
「罪滅ぼしをしましょうか。」
わたしがそう声をかけると。女は微笑みながら、
「今度は、私があなたと入れ替わります。」
そう言って、残りのビールを飲み干すと一礼して店から出て行った。
「ううん、そうか。」
わたしはそうつぶやいて、小皿を手元に餃子のたれを作り始めた。
季節は初春、大阪市内の小さな旅行者のツアーだった。ふたりで行くはずであったが、当日同僚がドタキャンとなり、はてどうしようかと迷った。代金は支払い済みだし、独り身でこれから食事の心配するのも面倒くさかったので、とりあえず行くことにした。何とかなるだろうと思って、着替えだけを入れた小さなバッグを肩に下げて、指定された京都駅八条口のバス停に5分前に到着した。
待っていたバスは何とマイクロであった。それも旧式の20人は乗れないようなおんぼろバスであった。老齢の運転手に、
「○○旅行の城崎温泉ツアーですか。」
と訊ねたら、大きくうなずいて手招きされた。すでにバスには、70前後の白髪の老人と中学生くらいの男の子、三人連れのいかにもうるさそうな関西のおばちゃん達、ミニスカ姿の女子大生らしき若い女が二人、そして30前後の女が見えた。席は指定ではなく、わたしは老人と中学生の並びの1人席に座った。
運転手から、
「今日は○○旅行の城崎温泉バスツアーにご参加いただきありがとうございます。本来ですと通常の観光バスをご利用いただくことになるのですが、予約しておりましたバスが車輛不良となり、さらに当日に15名もの団体予約のキャンセルがありまして急遽このマイクロバスをご利用いただくことになりました。それでは皆様お揃いですので出発いたします。」
そうアナウンスがあって、バスは動きはじめた。
途中、前々日が当直でほとんど寝れなかったこともあり、その疲れが尾を引いているのかバスが動き出すと深い眠りに落ちた。トイレ休憩で目が覚めて、中学生連れの老人と共にトイレに入った。横で用便をする老人から声をかけられた。
「おひとりですか。」
「はあ、連れが急に来れなくなって。」
そういうと老人は人の良さそうな笑みを浮かべた。
バスに戻ると、おばちゃん達の大きな話し声が辺りに響いていた。おばちゃん達は、よく笑いよくしゃべった。通路側に座った老人から、
「飲みませんか。」
と紙コップを手渡された。すると、ポケットウイスキーを取り出して、コップに半分ほどついでくれた。
「いや、こんなに…」
と言うと、老人はちょっと後ろを振り向いて、
「酔って背中を忘れましょう。」
そう笑った。
バスは4時間余りかけて城崎に着いた。そのほとんどを酔いと疲れのせいで眠りの中で過ごしてしまった。宿は古い温泉旅館で、部屋割りは3つでわたしは老人と中学生と同宿することになった。後はおばちゃん達3人と、若い女連れとわたしと同年代に見える女の組み合わせになった。ずいぶんと前の話なので、どのように過ごしたのかははっきりと覚えていない。食事前の、老人からの話の中で定年退職後すぐに連れ合いを病気で亡くし、今は娘夫婦と同居していること、孫はよくできた子で、今回の旅行にも一緒についてきてくれたことなど、そんなことを断片的に思い出す。
9人の夕食の席で、なぜか同年代の女がわたし達を含めた全員にお酌して回った。わたしは昼のウイスキーがまだ残っていて、ぽおっーとしたまま注がれたビールを飲み干した。その時、テレビか何かで見たような人だと思った。相変わらず、おばちゃん達はよくしゃべり、飲み、食べていた。若手女子3人組は意外に打ち解けて手振り身振りを加えながら盛り上がっていた。気になったのは、若い二人連れのひとりが浴衣の裾から白い足を投げ出していて、それだけが目についた。
旅館には卓球台が1台あって、食事の後に中学生とピンポンをした。わたしはそこそこ自分ではうまいと思っていたが、粘り強く返してくる様に酒の酔いもあってか最後はついていけなかった。よく聞くと、小学6年生から卓球をやっていて今日はおじさんに合わせていたとのことで、何やら気恥ずかしい思いをして部屋に戻った。老人は風呂にも行かずに孫を待っていた。その夜は3人で温泉に入り、老人が持ってきた何本かのポケットウイスキーを飲みながら、まだ冷える春の夜をゆったりとした時間の中で過ごした。
翌朝は9時半出発ということで、8時過ぎまで寝ていた。朝食はばらばらだったので食堂に同行の姿は見えなかった。予定通りバスは出発し、帰りは三方五湖などを回って午後6時過ぎに京都駅に戻った。老人と中学生、その他の同行の人達とわたしは挨拶をして別れた。
わたしは晩飯を食べて帰ろうと高架下の食堂街を東に歩き出した。すると、後ろから声をかけられた。振り向くと、さっきまで同行していた同年齢の女がすぐ背中にいた。
「覚えていません。」
といきなり聞かれた。
「いや、どこかでお見かけしたことがあるような…。」
そう言って言葉を濁した。
「よろしければ、ご飯食べません。」
女はそう切り替えしてきた。
「はあ。」
わたしは、いったい誰なのか記憶の回路を手繰り寄せてみたが皆目思い出すことができなかった。
『蓬莱』と書かれた中華料理店の二人席に私と女は向かい合わせに座った。
「私、○○旅行の社員でこのツアーの担当者のひとりなんです。本当はキャンセル中止にするところをあなたの名前を偶然見つけて予定通りに進めました。」
女はそう言うと私をじっと見つめた。
「大変失礼ながら、まったく思い出せないんですが。」
女はわたしの目を見つめながら、
「覚えていないかもしれませんが、十年ほど前、私とあなたは一夜を同じ部屋で過ごしたことがあるんです。」
「えっ、そんなことぜんぜん覚えていません。」
確かにそんなことをした覚えはなかった。これは大いなる人違いではないかと思った。女は語りだした。
「大阪芸大の音楽学科の○○さんに三味線を教えていたでしょう。彼女と彼女のカレとの4人で彼女の下宿でコンパしたことを覚えていません。その時、酔いつぶれたあなたを隣の私の部屋にカレが運んでくれて、その晩は私のふとんであなたは寝てすごしたんです、ただ寝てただけですけどね。私はお風呂に入ってあなたのそばで待ってました。でも、ゆすってもつねってもあなたは朝まで起きませんでした。翌朝、私が隣のエッチャンのところに行っている間に勝手に部屋を出ていったでしょう。覚えてます。」
そう切り出された。
ビールと餃子が出されて、テーブルに置かれた私のグラスに女はビールを注ぎだした。そういえば、確かに1級下の音楽学科の女子学生にしばらく三味線を教えていたことがある。その子にはカレがいて一緒に何人かで酒を飲んだ記憶があり、飲みすぎてカレの下宿に泊めてもらったことは覚えていた。しかし、その下宿が目の前にいる女の部屋であったなどということは、今の今まで知らなかった。ましてや、一緒に寝た記憶もなければ何かをしたなどということはまったくもって身に覚えがない。
女はビールを注ぎ終わると、
「私は舞台芸術でした。あなたが講堂で自作の三味線音楽を弾き語りをしたのを聴きました。その時にすごく興味を抱きました。そうしたら、隣のエッチャンが三味線をあなたに習っていると聞いて、是非一度話がしたくなってコンパを企画したんです。コンパではあなたとはすごく話が盛り上がってしまい、お酒も入っていましたしとっても興奮した状態になりました。そうこうしている中であなたが酔いつぶれてしまったので、カレに隣の私の部屋まで運んでもらったんです。」
わたしは何と答えてよいものかと困惑した。
「いや、その時は大変ご迷惑をおかけしました。」
そう返すのがやっとであった。餃子が2人前、そのまま冷えて皿の上に乗っていた。
「その時は、すごくむなしくて腹が立ちました。でも、今はいい思い出なのかもしれません。」
女はそういうと自分のグラスにビールをついで、口をつけた。
「のど、乾きませんんか。」
そう言って小さく笑った。わたしはぬるくなったビールを一気に飲み干して女を見た。よく見れば顔立ちのいい美人である。ミニスカートの若い二人連れよりよほど女としての価値がある。
「罪滅ぼしをしましょうか。」
わたしがそう声をかけると。女は微笑みながら、
「今度は、私があなたと入れ替わります。」
そう言って、残りのビールを飲み干すと一礼して店から出て行った。
「ううん、そうか。」
わたしはそうつぶやいて、小皿を手元に餃子のたれを作り始めた。
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20:05
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2010年10月14日
文芸部連絡 編集部
メンバーの皆様お疲れ様です。毎日いかがお過ごしの事でしょうか。今年は猛暑で夏が長く感じられたせいか、残り2カ月ほどで年の瀬とはとても信じられないようです。秋の気配が例年よりも懐かしく感じられるこの頃です。
早いもので『文芸部』を立ち上げまして、間もなく5年になろうとしています。これまでの掲載作は428作。本当にたくさんの作品を公開することができました。立ち上げた当初は、勢いもあって『文芸部』はlivedoorの「書籍・雑誌・小説」ランキングのベスト100に常時アップしておりました。アクセス数も多かったです。しかし、もう5年ですから、当初の位置は無理のようです。それでも更新を気にして頂ける読者がおられるようで、少しずつですが更新毎回アクセスがあります。
今後の『文芸部』と致しましては、より多くの参加者を募りたいと思っております。幅の広いジャンルに渡って、文芸作を掲載してまいりたいです。『文芸部』の特徴は「作家が創作した作品を、すぐに掲載」という方式です。スピードを重視しています。また、メンバー通しの交流がないことも「作家自身が気楽に書ける、参加できる」という面に於いて良好の環境だと感じ、あえて沈黙を守っている次第です。
メンバーの皆様、これまで大変お世話になり有難うございました。お忙しい日々の中、時間を見つけて原稿を書くのは大変でしょう。しかし、書けばご自身の宝物になる訳ですから、どうか精進されて下さい。ご自身のペースで励まれて下さい。今後とも未確認マンガ集団(文芸部)をよろしくお願い申し上げます。原稿を楽しみにお待ちしております。【編集部】
早いもので『文芸部』を立ち上げまして、間もなく5年になろうとしています。これまでの掲載作は428作。本当にたくさんの作品を公開することができました。立ち上げた当初は、勢いもあって『文芸部』はlivedoorの「書籍・雑誌・小説」ランキングのベスト100に常時アップしておりました。アクセス数も多かったです。しかし、もう5年ですから、当初の位置は無理のようです。それでも更新を気にして頂ける読者がおられるようで、少しずつですが更新毎回アクセスがあります。
今後の『文芸部』と致しましては、より多くの参加者を募りたいと思っております。幅の広いジャンルに渡って、文芸作を掲載してまいりたいです。『文芸部』の特徴は「作家が創作した作品を、すぐに掲載」という方式です。スピードを重視しています。また、メンバー通しの交流がないことも「作家自身が気楽に書ける、参加できる」という面に於いて良好の環境だと感じ、あえて沈黙を守っている次第です。
メンバーの皆様、これまで大変お世話になり有難うございました。お忙しい日々の中、時間を見つけて原稿を書くのは大変でしょう。しかし、書けばご自身の宝物になる訳ですから、どうか精進されて下さい。ご自身のペースで励まれて下さい。今後とも未確認マンガ集団(文芸部)をよろしくお願い申し上げます。原稿を楽しみにお待ちしております。【編集部】
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11:30
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2010年10月09日
薗八ばなし 宮古路薗八
「転校生」余談
『平成2年夏、週末に箱根で日本私立医科大学協会の研修会があり、終了後に新内岡本派の流祖祭の出席のために高速バスで新宿に出た折に、地下道ですれ違った美人を見て28年ぶりに直感した。すぐに私はその人を追いかけ大きな声で、「失礼ですが、四国の道後小学校にいた佐伯のりこさんではないですか。」と聞いてみた。』
その時出会ったのは、残念ながら佐伯本人でありませんでした。その人は、突然に姉の名前を言われて随分と驚いたそうです。
しばらくその方と立ち話をすることができました。その際に、佐伯本人は中学3年の夏に心臓病で亡くなったと聞かされました。佐伯の両親は東京都内で暮らしていたそうです。転校する前年に父親を心臓病で亡くして、母親と佐伯だけがしばらくの間、母方の実家である四国松山に帰省しており、まだ幼かった妹は父親の実家に預けられていたそうです。今思えば、佐伯は生まれつきの心臓病のため、休憩時間はほとんど保健室で過ごしていたのです。体操の時間も休んでいました。
「不思議なご縁ですね。」そう言って、
「母も苦労して、私が高校生のときに亡くなりました。姉のことを覚えていてくれて本当にありがとうございました。」
そう言って頭を下げると、いく粒もの涙が雨のように路面に落ちていきました。その方はそのまま静かに、私の前から立ち去りました。その後ろ姿が佐伯本人に見えて、わたしはあふれ出る涙をぬぐいもせずに歩きはじめていました。
それからしばらくして、別れ際に渡した名刺宛に一通のハガキが届きました。差出人の住所はなく「佐伯倫子代」とありました。
「その後に思い出したのですが、姉の遺品の中に男の子の名前のテスト用紙が算数のノートに挟み込んでありました。名前は覚えていませんが、多分あなた様のものではなかったかと思います。」
と書かれてありました。
わたしには、佐伯とテスト用紙を交換した確かな記憶がありません。
わたしは、事務室を離れ外に出ていました。
青空に小さく浮かんだ雲を見て、小さく「佐伯」と呼んでみました。
世の中には不思議なことがあります。
余談は昔から不要のもの、まずは廃棄いただきお忘れ願います。
『平成2年夏、週末に箱根で日本私立医科大学協会の研修会があり、終了後に新内岡本派の流祖祭の出席のために高速バスで新宿に出た折に、地下道ですれ違った美人を見て28年ぶりに直感した。すぐに私はその人を追いかけ大きな声で、「失礼ですが、四国の道後小学校にいた佐伯のりこさんではないですか。」と聞いてみた。』
その時出会ったのは、残念ながら佐伯本人でありませんでした。その人は、突然に姉の名前を言われて随分と驚いたそうです。
しばらくその方と立ち話をすることができました。その際に、佐伯本人は中学3年の夏に心臓病で亡くなったと聞かされました。佐伯の両親は東京都内で暮らしていたそうです。転校する前年に父親を心臓病で亡くして、母親と佐伯だけがしばらくの間、母方の実家である四国松山に帰省しており、まだ幼かった妹は父親の実家に預けられていたそうです。今思えば、佐伯は生まれつきの心臓病のため、休憩時間はほとんど保健室で過ごしていたのです。体操の時間も休んでいました。
「不思議なご縁ですね。」そう言って、
「母も苦労して、私が高校生のときに亡くなりました。姉のことを覚えていてくれて本当にありがとうございました。」
そう言って頭を下げると、いく粒もの涙が雨のように路面に落ちていきました。その方はそのまま静かに、私の前から立ち去りました。その後ろ姿が佐伯本人に見えて、わたしはあふれ出る涙をぬぐいもせずに歩きはじめていました。
それからしばらくして、別れ際に渡した名刺宛に一通のハガキが届きました。差出人の住所はなく「佐伯倫子代」とありました。
「その後に思い出したのですが、姉の遺品の中に男の子の名前のテスト用紙が算数のノートに挟み込んでありました。名前は覚えていませんが、多分あなた様のものではなかったかと思います。」
と書かれてありました。
わたしには、佐伯とテスト用紙を交換した確かな記憶がありません。
わたしは、事務室を離れ外に出ていました。
青空に小さく浮かんだ雲を見て、小さく「佐伯」と呼んでみました。
世の中には不思議なことがあります。
余談は昔から不要のもの、まずは廃棄いただきお忘れ願います。
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09:44
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2010年09月28日
薗八ばなし 宮古路薗八
転校生
いつ来たのか知らない。最初左の端の2列目に座っていたのが、次の月曜から僕の隣になった。その子の名前は「佐伯のりこ」とノートにあった。でも、担任から紹介された記憶はない。横に来てから、ひと月以上会話がなかった。横にいること自体、意識させない不思議な子だった。教室では一度も手をあげることがなく、そのくせ朝のドリルは横目に全部正解している。
目の大きな子で、子供心にも将来美人になるだろうと思った。でも、その容姿にかかわらず、教室での存在はまるで希薄な少女だった。休み時間はいつの間にか消えていなくなり、ベルが鳴ると隣にいた。クラスのどの女の子達もこの子と話したことがないように思えた。
初めて口を聞いたのはいつだったろう。きちんとしている子なのに珍しく消しゴムを僕のイスの下に落とした。僕がそれを拾って机に戻したとき、小さな声で
「ありがとう。」
と言った。それは伊予訛りとは違うNHKのアナウンサーのような東京ことばだった。
珍しく隣の席が朝から空だった。給食の後、担任から声をかけられた。
「お前、佐伯の家にパンを届けてくれんか。どうも転校してきて友達がおらんようじゃけん、帰り道じゃしちょっと寄って届けてくれんか。」
そう言われて、パンの紙袋と住所のメモを渡された。確かに帰り道であった。しかしこれまで、学校への行きも帰りも見たことがない。
「こんなとこに住んどったんか。」
思わず僕はつぶやいた。
秋の夕暮れは早い。もうすぐ日が暮れるぞ、そう思いながら書かれた住所を頼りに表札を探していた。しかし「佐伯」の表札はどこにもない。買い物籠を下げて家に入ろうとするおばさんに聞いてみたが、
「そんな名前の人はここらにはおらんぞな。ここらで最近替わってきた人なんかおらんぞね。」
と冷たく言われた。僕はランドセルを背に、パンの入った紙袋を提げて何度も小路を往復した。やはり、どこにもそれらしき家は見当たらなかった。
翌朝、佐伯のりこは登校して僕のとなりに座っていた。僕は「おはよう」とも言わず、昨日のことを確認しようとした。その時、今まで一度も「おはよう」の言葉を交わしたことがなかったことに気づいた。
「昨日、パンを届けに行ったけど家が分からんかった。」
そう言うと、佐伯は悲しそうな顔をして
「ごめんね。」
と小さな声で応えた。その日、僕は佐伯の家を確かめてみようと思った。お互い掃除当番は同じ班だから、帰る時間は一緒だ。放課後、友達に声をかけられて「今日は帰るけん」と言って振り返ってみたら、もう佐伯の姿はどこにもなかった。あわてて正門まで駆け足で追ってみたが、それらしい人影は見えなかった。
次の日、今日こそは必ず突き止めてくれるとばかり、授業の終わるのをいつもより待ちわびていた。佐伯は誰にも意識されずに、本当に消えるかのように教室を出た。僕は悟られないよう距離を置いて2階の教室から靴箱に下りていった。女子の靴箱は男子の裏側にあり、僕が靴を履き替えている数秒の間に佐伯の姿は霧のように消えていた。校庭のどこを見回してもその姿は見あたらなかった。
次の週、僕は先回りをして正門で待っていた、家に帰るなら必ず正門を通る、はずだった。随分と待って、家の近所の6年生に
「おい、何しとるんぞ。」
と声をかけられて、もう1時間近く待っていることに気がついた。
今度は絶対に見失わないように佐伯が帰るすぐ後ろについていくことにした。生徒たちに雑じれば正門まで怪しまれることはない。そう思って後ろについていく。佐伯は目立たない。あれほどの容姿でありながら何人かの子供たちに重なると1メートル先なのに、ふっと見失ってしまいそうになる。佐伯は正門とは逆の温泉街に抜ける裏門の方角に向かっていた。どうりで正門では見かけないはずだ。
佐伯は裏門へ抜けると道後温泉本館に向かう旅館街の方向に歩いていた。この道へ帰る子供は少ない。まてよ、聞かされた住所とはまったく逆の方向だ。先生が他の誰かと住所を間違えたのかと思った。佐伯は急な上り坂を早足に歩いていく。振り返ると気づかれる距離にいる。少し距離を離した時、佐伯は急に右折した。その道は歓楽街への上り坂だった。あわてて角にたどり着いて、佐伯の赤いランドセル姿は坂道のどこにもなかった。小さな袋小路をいくつか回って、結局僕は探すのをあきらめた。
次の日、同じように靴箱を過ぎて、佐伯はなぜか正門の方に向かっていた。僕は「なんでや。」とつぶやいた。佐伯は正門を出ると、先生が教えてくれた住所の方角へ歩いて行く。昨日はどこへ行ったんだろう、そう思いながら後ろをつける。10メートルと離れていない。タバコ屋の角を曲がる。先生が教えてくれた住所のとおりだ。すぐ角に来て視界に10メートルほど前にいた佐伯の姿がない。走って追ってみたがその先の十字路のどの方角にも人の姿はなかった。
翌週の、雨の日だった。当時の傘は誰もが黒だったのに、佐伯の傘は珍しく桃色だった。雨の日にこれなら見失わないと、正門を出てから5メートルぐらいの間隔で後ろを歩いた。佐伯はまったく後ろを振り返らない。タバコ屋の角を曲がって、その姿はすぐ前にあった。先週の十字路を左に曲がって、戦前に建てられた4件ほどの古い二戸一の木造の家並のところで姿が消えた。戸が閉まる音がして、追いかけて確かめてみると長曽我部と山口という家の辺りのような気がした。だが、佐伯の名前はどこにもなかった。辺りはしんと静まり返って、人の気配は感じられなかった。
もう一度確かめようと思った。その日は、正門には向かわず例の裏門から歓楽街の方向に佐伯は向かっていた。僕は昨日と同じように僅かの距離をおいて後ろを歩いた。佐伯は後ろを振り返らない。歓楽街への上り坂を右に曲がってすぐ左の袋小路に折れた。数秒の差である。そうして佐伯の姿は忽然と消えていた。そこには桃色のバーの看板と、ストリップ小屋の入り口が向かい合わせであった。この辺りは、怪しげな場所であると子供心にも感じている。僕は嫌な気がした。
「どこに住んどるん。」
翌朝、いきなり僕は佐伯に聞いてみた。
「昨日も付けてたでしょう。」
佐伯はそう言って僕を見た。その表情には、いつになく僅かに微笑が感じられた。
二学期の算数のテストで僕と佐伯が94点の同点でクラスのトップになった。僕はそれがとても嬉しかった。隣の席の佐伯も喜んでくれているような気がした。その頃からか、朝「おはよう」とどちらともなく挨拶するようになった。しかし会話は今までどおりほとんどなく、放課後は消えるようにいなくなった。
年が明け間もなくして、僕がインフルエンザで一週間ほど寝込んでいる時に、急に佐伯はどこかへ転校してしまった。僕が担任に転校のことを尋ねると、
「子どもが知らんでもええことやけん。あいつは母ちゃんと二人暮らしで、苦労しとった。」
それだけ言って言葉をにごした。
「そうそう、佐伯が珍しく自分から『門田によろしく』とぞな。」
先生は真顔でそう言った。
平成2年夏、週末に箱根で日本私立医科大学協会の研修会があり、終了後に新内岡本派の流祖祭の出席のため高速バスで新宿に出た折に、地下道ですれ違った美人を見て28年ぶりに直感した。すぐに私はその人を追いかけ大きな声で、
「失礼ですが、四国の道後小学校にいた佐伯のりこさんではないですか。」
と聞いてみた。しばらくその女性は私をじっと見つめて、
「いえ、残念ながら人違いです。」
と言って、軽く微笑んだまま私の前から静かに去っていった。私は言葉も返せずに、その人を見送っていた。その微笑と人ごみにスーッと消え入るように立ち去る姿は、やっぱり佐伯そのものであった。
いつ来たのか知らない。最初左の端の2列目に座っていたのが、次の月曜から僕の隣になった。その子の名前は「佐伯のりこ」とノートにあった。でも、担任から紹介された記憶はない。横に来てから、ひと月以上会話がなかった。横にいること自体、意識させない不思議な子だった。教室では一度も手をあげることがなく、そのくせ朝のドリルは横目に全部正解している。
目の大きな子で、子供心にも将来美人になるだろうと思った。でも、その容姿にかかわらず、教室での存在はまるで希薄な少女だった。休み時間はいつの間にか消えていなくなり、ベルが鳴ると隣にいた。クラスのどの女の子達もこの子と話したことがないように思えた。
初めて口を聞いたのはいつだったろう。きちんとしている子なのに珍しく消しゴムを僕のイスの下に落とした。僕がそれを拾って机に戻したとき、小さな声で
「ありがとう。」
と言った。それは伊予訛りとは違うNHKのアナウンサーのような東京ことばだった。
珍しく隣の席が朝から空だった。給食の後、担任から声をかけられた。
「お前、佐伯の家にパンを届けてくれんか。どうも転校してきて友達がおらんようじゃけん、帰り道じゃしちょっと寄って届けてくれんか。」
そう言われて、パンの紙袋と住所のメモを渡された。確かに帰り道であった。しかしこれまで、学校への行きも帰りも見たことがない。
「こんなとこに住んどったんか。」
思わず僕はつぶやいた。
秋の夕暮れは早い。もうすぐ日が暮れるぞ、そう思いながら書かれた住所を頼りに表札を探していた。しかし「佐伯」の表札はどこにもない。買い物籠を下げて家に入ろうとするおばさんに聞いてみたが、
「そんな名前の人はここらにはおらんぞな。ここらで最近替わってきた人なんかおらんぞね。」
と冷たく言われた。僕はランドセルを背に、パンの入った紙袋を提げて何度も小路を往復した。やはり、どこにもそれらしき家は見当たらなかった。
翌朝、佐伯のりこは登校して僕のとなりに座っていた。僕は「おはよう」とも言わず、昨日のことを確認しようとした。その時、今まで一度も「おはよう」の言葉を交わしたことがなかったことに気づいた。
「昨日、パンを届けに行ったけど家が分からんかった。」
そう言うと、佐伯は悲しそうな顔をして
「ごめんね。」
と小さな声で応えた。その日、僕は佐伯の家を確かめてみようと思った。お互い掃除当番は同じ班だから、帰る時間は一緒だ。放課後、友達に声をかけられて「今日は帰るけん」と言って振り返ってみたら、もう佐伯の姿はどこにもなかった。あわてて正門まで駆け足で追ってみたが、それらしい人影は見えなかった。
次の日、今日こそは必ず突き止めてくれるとばかり、授業の終わるのをいつもより待ちわびていた。佐伯は誰にも意識されずに、本当に消えるかのように教室を出た。僕は悟られないよう距離を置いて2階の教室から靴箱に下りていった。女子の靴箱は男子の裏側にあり、僕が靴を履き替えている数秒の間に佐伯の姿は霧のように消えていた。校庭のどこを見回してもその姿は見あたらなかった。
次の週、僕は先回りをして正門で待っていた、家に帰るなら必ず正門を通る、はずだった。随分と待って、家の近所の6年生に
「おい、何しとるんぞ。」
と声をかけられて、もう1時間近く待っていることに気がついた。
今度は絶対に見失わないように佐伯が帰るすぐ後ろについていくことにした。生徒たちに雑じれば正門まで怪しまれることはない。そう思って後ろについていく。佐伯は目立たない。あれほどの容姿でありながら何人かの子供たちに重なると1メートル先なのに、ふっと見失ってしまいそうになる。佐伯は正門とは逆の温泉街に抜ける裏門の方角に向かっていた。どうりで正門では見かけないはずだ。
佐伯は裏門へ抜けると道後温泉本館に向かう旅館街の方向に歩いていた。この道へ帰る子供は少ない。まてよ、聞かされた住所とはまったく逆の方向だ。先生が他の誰かと住所を間違えたのかと思った。佐伯は急な上り坂を早足に歩いていく。振り返ると気づかれる距離にいる。少し距離を離した時、佐伯は急に右折した。その道は歓楽街への上り坂だった。あわてて角にたどり着いて、佐伯の赤いランドセル姿は坂道のどこにもなかった。小さな袋小路をいくつか回って、結局僕は探すのをあきらめた。
次の日、同じように靴箱を過ぎて、佐伯はなぜか正門の方に向かっていた。僕は「なんでや。」とつぶやいた。佐伯は正門を出ると、先生が教えてくれた住所の方角へ歩いて行く。昨日はどこへ行ったんだろう、そう思いながら後ろをつける。10メートルと離れていない。タバコ屋の角を曲がる。先生が教えてくれた住所のとおりだ。すぐ角に来て視界に10メートルほど前にいた佐伯の姿がない。走って追ってみたがその先の十字路のどの方角にも人の姿はなかった。
翌週の、雨の日だった。当時の傘は誰もが黒だったのに、佐伯の傘は珍しく桃色だった。雨の日にこれなら見失わないと、正門を出てから5メートルぐらいの間隔で後ろを歩いた。佐伯はまったく後ろを振り返らない。タバコ屋の角を曲がって、その姿はすぐ前にあった。先週の十字路を左に曲がって、戦前に建てられた4件ほどの古い二戸一の木造の家並のところで姿が消えた。戸が閉まる音がして、追いかけて確かめてみると長曽我部と山口という家の辺りのような気がした。だが、佐伯の名前はどこにもなかった。辺りはしんと静まり返って、人の気配は感じられなかった。
もう一度確かめようと思った。その日は、正門には向かわず例の裏門から歓楽街の方向に佐伯は向かっていた。僕は昨日と同じように僅かの距離をおいて後ろを歩いた。佐伯は後ろを振り返らない。歓楽街への上り坂を右に曲がってすぐ左の袋小路に折れた。数秒の差である。そうして佐伯の姿は忽然と消えていた。そこには桃色のバーの看板と、ストリップ小屋の入り口が向かい合わせであった。この辺りは、怪しげな場所であると子供心にも感じている。僕は嫌な気がした。
「どこに住んどるん。」
翌朝、いきなり僕は佐伯に聞いてみた。
「昨日も付けてたでしょう。」
佐伯はそう言って僕を見た。その表情には、いつになく僅かに微笑が感じられた。
二学期の算数のテストで僕と佐伯が94点の同点でクラスのトップになった。僕はそれがとても嬉しかった。隣の席の佐伯も喜んでくれているような気がした。その頃からか、朝「おはよう」とどちらともなく挨拶するようになった。しかし会話は今までどおりほとんどなく、放課後は消えるようにいなくなった。
年が明け間もなくして、僕がインフルエンザで一週間ほど寝込んでいる時に、急に佐伯はどこかへ転校してしまった。僕が担任に転校のことを尋ねると、
「子どもが知らんでもええことやけん。あいつは母ちゃんと二人暮らしで、苦労しとった。」
それだけ言って言葉をにごした。
「そうそう、佐伯が珍しく自分から『門田によろしく』とぞな。」
先生は真顔でそう言った。
平成2年夏、週末に箱根で日本私立医科大学協会の研修会があり、終了後に新内岡本派の流祖祭の出席のため高速バスで新宿に出た折に、地下道ですれ違った美人を見て28年ぶりに直感した。すぐに私はその人を追いかけ大きな声で、
「失礼ですが、四国の道後小学校にいた佐伯のりこさんではないですか。」
と聞いてみた。しばらくその女性は私をじっと見つめて、
「いえ、残念ながら人違いです。」
と言って、軽く微笑んだまま私の前から静かに去っていった。私は言葉も返せずに、その人を見送っていた。その微笑と人ごみにスーッと消え入るように立ち去る姿は、やっぱり佐伯そのものであった。
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16:06
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2010年09月24日
にっぽん時評 風 小象
【厚生労働省文書偽造事件問題】
厚生労働省の実体のない障害者団体への郵便料金の割引を巡る文書偽造問題で、無罪が確定した村木厚子被告が、約1年3カ月ぶりに復職した。この事件に絡む大阪地検特捜検事の逮捕劇は別として、ニュースで村木被告が厚生労働省に再び出勤した画像を見ると、何となく違和感を覚えてしまった。
厚生労働省の玄関には多くの職員が村木被告を笑顔で待ち構え拍手を送っている。花束が贈られたかどうかは知らないが、感極まって大泣きした部下の女子職員もいたらしい。「無実の罪がやっと晴れて万々歳の復職」なるほど、単純に考えればこんなに目出度い話はない。
…だがだ。事の起こりは、村木被告の部下で実行犯とされる上村勉被告。つまり厚生労働省の職員の中から現れている訳で、その監督責任は「一体誰にあるのか?」と考えてみると、幾ら無罪になったとはいえ、「上司である村木被告や厚生労働省幹部や全職員に責任もある」と憶測すると、この度の村木被告の拍手喝采万雷の凱旋復職が、どうも国民を馬鹿にしているように見えてならない。役人とはこんな幼稚な神経なのだろうか?
「あんたらの身内から悪い事をした奴が出たんでっせ。分かってまんのんか?」
厚生労働省の実体のない障害者団体への郵便料金の割引を巡る文書偽造問題で、無罪が確定した村木厚子被告が、約1年3カ月ぶりに復職した。この事件に絡む大阪地検特捜検事の逮捕劇は別として、ニュースで村木被告が厚生労働省に再び出勤した画像を見ると、何となく違和感を覚えてしまった。
厚生労働省の玄関には多くの職員が村木被告を笑顔で待ち構え拍手を送っている。花束が贈られたかどうかは知らないが、感極まって大泣きした部下の女子職員もいたらしい。「無実の罪がやっと晴れて万々歳の復職」なるほど、単純に考えればこんなに目出度い話はない。
…だがだ。事の起こりは、村木被告の部下で実行犯とされる上村勉被告。つまり厚生労働省の職員の中から現れている訳で、その監督責任は「一体誰にあるのか?」と考えてみると、幾ら無罪になったとはいえ、「上司である村木被告や厚生労働省幹部や全職員に責任もある」と憶測すると、この度の村木被告の拍手喝采万雷の凱旋復職が、どうも国民を馬鹿にしているように見えてならない。役人とはこんな幼稚な神経なのだろうか?
「あんたらの身内から悪い事をした奴が出たんでっせ。分かってまんのんか?」
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16:13
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2010年09月16日
夕暮の刑事 灰山敗次
〔最終回〕
「まァ先生、ここはとぼけるのはやめましょうよ。協会ですよ。学校安全協会というやつですよ。わたしはいい年をして独身で子供もいないので、こんな協会があるなんて知らなかったんですがね。うちの少年課の婦警に教えてもらったんですよ。先生はあの学校のPTAの会長をなさっておられたこともあるそうだから、知らないとは言わせませんよ」
「ああ、知ってるさ」
「学校安全協会、つまり全国の小学校中学校の生徒が自動的に会員になっている組織で、月々10円ずつの会費が月謝の中に組み込まれている。そしてもし生徒が学校内での事故で怪我をした場合などは診療代がそこから出るそうですな。そして万一に学校内で生徒が死亡した時は理由のいかんを問わずに3千万円の見舞金が出る仕組みになっているそうですな。3千万円、皮肉な合致じゃないですか。医大への裏口入学金と人の生命の値代が同じなんだからな。そうだろ! え! おい!!」
石井は声を荒げ横の診察机をバンと音をひびかせ叩いた。
「あんたは部屋で死んでいる耕二君を学校へ運び、学校で死んだように見せかけ3千万円を騙し取ろうとしたんだ。最初にわたしはあんたが耕二君を殺したと言ったがその通りだよ。法律的にあんたのやったことは死体遺棄と詐欺罪だが、あんたの本当の罪は殺人罪だよ。あんたのその冷酷な心が耕二君を自殺に追い込んだんだ。1人で死にたいという耕二君の最後の希望まであんたはつぶしてしまったんだから」
「ちょっと待ってくれ」
下を向いて石井の話を聞いていた行常が顔を上げて言った。
「君…、いや刑事さんはさっき、ここでの話は刑事としてではなく1人の人間としてだと言われましたね」
「そうです」
石井はうなずいた。
「それではいいでしょう。総てを話しましょう。総てあなたの言う通りですよ。もっとも本番の取調べでは一切認めませんよ。わしには優秀な弁護士である友人もいますからね。ただ、ここでは認めよう。あなたの言う通りのことをわしはやったよ。ひどい親だと思われるだろうし、また医者のくせに何てことをするんだと言われるだろう。わたしは耕二を愛していなかったんじゃない。むしろ家族の中で彼を1番愛していたつもりだ。しかし耕二が死んでいるのを見て、不思議に自然と協会のことを思い出したんだ。死んでいる場所を変えるだけで3千万の金が入るのだ。特にわしが冷酷非情な人間でなくともやってしまうかもしれないよ。また、わしが医者だからこんなことをやったかもしれない。何しろ生命の切り売りを商売にしているんだからな。こんなことをあなたに話すのは、あなたの頭痛を治してやろうと思ったのと、何しろこれでも医者だからね。それとあなたがわしが言いたかったことを代わりに言ってくれたからだよ。まったくこんなわしが言うのはおかしいかもしれんが、世の中狂ってるよ。ところでどうです。頭痛は治りましたかな?」
「ありがとうございます。すっかりよくなりました」
と石井は頭を下げると
「今日は頭痛も治ったことだしこれで失礼します。しかし今度伺う時は刑事として逮捕状を持って伺いますから覚悟しておいて下さい」
「お待ちしていますよ」
「では失礼します」
石井は切畑病院をあとにした。そして光子にはこの事件のことを、どう伝えればいいだろうかと考えていた。 <了>
「まァ先生、ここはとぼけるのはやめましょうよ。協会ですよ。学校安全協会というやつですよ。わたしはいい年をして独身で子供もいないので、こんな協会があるなんて知らなかったんですがね。うちの少年課の婦警に教えてもらったんですよ。先生はあの学校のPTAの会長をなさっておられたこともあるそうだから、知らないとは言わせませんよ」
「ああ、知ってるさ」
「学校安全協会、つまり全国の小学校中学校の生徒が自動的に会員になっている組織で、月々10円ずつの会費が月謝の中に組み込まれている。そしてもし生徒が学校内での事故で怪我をした場合などは診療代がそこから出るそうですな。そして万一に学校内で生徒が死亡した時は理由のいかんを問わずに3千万円の見舞金が出る仕組みになっているそうですな。3千万円、皮肉な合致じゃないですか。医大への裏口入学金と人の生命の値代が同じなんだからな。そうだろ! え! おい!!」
石井は声を荒げ横の診察机をバンと音をひびかせ叩いた。
「あんたは部屋で死んでいる耕二君を学校へ運び、学校で死んだように見せかけ3千万円を騙し取ろうとしたんだ。最初にわたしはあんたが耕二君を殺したと言ったがその通りだよ。法律的にあんたのやったことは死体遺棄と詐欺罪だが、あんたの本当の罪は殺人罪だよ。あんたのその冷酷な心が耕二君を自殺に追い込んだんだ。1人で死にたいという耕二君の最後の希望まであんたはつぶしてしまったんだから」
「ちょっと待ってくれ」
下を向いて石井の話を聞いていた行常が顔を上げて言った。
「君…、いや刑事さんはさっき、ここでの話は刑事としてではなく1人の人間としてだと言われましたね」
「そうです」
石井はうなずいた。
「それではいいでしょう。総てを話しましょう。総てあなたの言う通りですよ。もっとも本番の取調べでは一切認めませんよ。わしには優秀な弁護士である友人もいますからね。ただ、ここでは認めよう。あなたの言う通りのことをわしはやったよ。ひどい親だと思われるだろうし、また医者のくせに何てことをするんだと言われるだろう。わたしは耕二を愛していなかったんじゃない。むしろ家族の中で彼を1番愛していたつもりだ。しかし耕二が死んでいるのを見て、不思議に自然と協会のことを思い出したんだ。死んでいる場所を変えるだけで3千万の金が入るのだ。特にわしが冷酷非情な人間でなくともやってしまうかもしれないよ。また、わしが医者だからこんなことをやったかもしれない。何しろ生命の切り売りを商売にしているんだからな。こんなことをあなたに話すのは、あなたの頭痛を治してやろうと思ったのと、何しろこれでも医者だからね。それとあなたがわしが言いたかったことを代わりに言ってくれたからだよ。まったくこんなわしが言うのはおかしいかもしれんが、世の中狂ってるよ。ところでどうです。頭痛は治りましたかな?」
「ありがとうございます。すっかりよくなりました」
と石井は頭を下げると
「今日は頭痛も治ったことだしこれで失礼します。しかし今度伺う時は刑事として逮捕状を持って伺いますから覚悟しておいて下さい」
「お待ちしていますよ」
「では失礼します」
石井は切畑病院をあとにした。そして光子にはこの事件のことを、どう伝えればいいだろうかと考えていた。 <了>
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2010年09月02日
夕暮の刑事 灰山敗次
〔第6回〕
「ではそうしましょう。まず最初の疑問点から出てくる答えは1つです。耕二君は別の場所で死んでいたんですよ。おそらく自分の部屋じゃないかな。耕二君は睡眠薬を飲んで自殺していたんでしょう。その耕二君の死体を誰かが自動車で学校へ運び屋上へと運んだ。学校は授業中だったのでその男は誰にも見られずに屋上へ行けたんですな。そしてその男は耕二君の死体を屋上から投げ落とし、部屋にあった遺書と睡眠薬のカラビンをそこに置いて、あたかも耕二君が学校で自殺したかのように見せかけたんですよ。おや? どうかしましたか? 顔色が悪いですよ」
「ところが、屋上にいた耕二君がすでに死んでいたということについては証拠があるんですよ。先生は黄砂ってご存知ですか? 中国の黄河の流域の黄色い土が季節風に運ばれて、この季節になると西日本にばらまかれるんですよ。そしてあの屋上にも黄砂はかなり積もっていました。ところが遺書の上に置いてあったスニーカーには、その黄砂はまったく付着していなかった。靴下にも付いていない。屋上の出入口から飛び降りた地点まで約15mはあるんですよ。彼はその間を空中を歩いたことになる。そんなことは考えられないとすると答えは1つ。耕二君は誰かに運ばれて来たとなる。つまりその時は耕二君に意識がなかった。つまり死んでいたということになる」
「な、なるほど筋は通っているな。で、その誰かというのは誰のことだ?」
と言いながら行常はポケットからタバコを取り出した。
「おや? 先生、ここは禁煙じゃなかったんですかな。まァ、いいでしょ。患者のわたしが許します。どうぞお吸い下さい。さて、その誰か? というご質問でしたね。それはもちろん先生、あなたですよ」
「またまた、君の飛躍的な推理。いや推理というよりでっちあげだな」
「いや先生、これはごく簡単な推理ですよ。耕二君は自分の部屋で睡眠薬を飲んで死んでいた。場所は自分の部屋に間違いないでしょう。そこらへんの道端で睡眠薬を飲んで自殺するヤツはいませんからね。その耕二君を部屋で見つけ家から運び出すのは家族以外の者には不可能ですよ。ところが家族の中で車を運転できて耕二君を担いで屋上まで登れるのは先生、あなたしかいませんからね」
行常は吸っていたタバコを机の上に直接押し付けて叫んだ。
「しかしだ、何故わしがそんなことをしなければならんのだ! 理由を言ってみろ!!」
「そこですよ。そこに随分悩みました。いくら考えても分からない。またタバコの吸い過ぎになってしまいましたよ。ところがこの前、新聞を読んでましてね、大学で学生がコンパで酒を飲みすぎて急性アルコール中毒になって死んだという記事です。これを読んでいてジグソーパズルの最後のコマを見つけた気がしましたよ。その記事によると学生の親が大学の責任だと言って訴えを起こしているそうなんですよ。まったく先生の口癖じゃないが馬鹿馬鹿しい話ですよ。二十歳を越えた大人が自分の意思で酒を飲んで死んだんですよ。誰に責任を取れもないですよ。まったく世の中は責任時代ですな。責任を取る時代じゃなく、誰かに責任を取ってもらおうとする時代ですよ。先生が患者の家族に訴えられたのもその口なんでしょ」
「そうだ。その通りだ」
行常は怒りに声を震わせながら言葉を続けた。
「死んだ患者はもともと心臓が極度に弱っていていつ心臓発作を起こすか分からない状態だった。患者の家族たちもそのことはよく知っていたはずだ。ところがその患者がたまたまこの病院で発作を起こして死ぬと、わしの診療ミスだと騒ぎ1千万近い和解金を盗んで行ったよ。連中は人の死にたかるウジ虫だよ」
「そして先生もそのウジ虫と同じ。いやそれ以下の存在になってしまったんですよ。部屋で死んでいる耕二君を見て金儲けの方法を思いついたんですからね」
「金儲け? それは一体何のことかな? 分からないね」
と行常は力なく反論した。
「ではそうしましょう。まず最初の疑問点から出てくる答えは1つです。耕二君は別の場所で死んでいたんですよ。おそらく自分の部屋じゃないかな。耕二君は睡眠薬を飲んで自殺していたんでしょう。その耕二君の死体を誰かが自動車で学校へ運び屋上へと運んだ。学校は授業中だったのでその男は誰にも見られずに屋上へ行けたんですな。そしてその男は耕二君の死体を屋上から投げ落とし、部屋にあった遺書と睡眠薬のカラビンをそこに置いて、あたかも耕二君が学校で自殺したかのように見せかけたんですよ。おや? どうかしましたか? 顔色が悪いですよ」
「ところが、屋上にいた耕二君がすでに死んでいたということについては証拠があるんですよ。先生は黄砂ってご存知ですか? 中国の黄河の流域の黄色い土が季節風に運ばれて、この季節になると西日本にばらまかれるんですよ。そしてあの屋上にも黄砂はかなり積もっていました。ところが遺書の上に置いてあったスニーカーには、その黄砂はまったく付着していなかった。靴下にも付いていない。屋上の出入口から飛び降りた地点まで約15mはあるんですよ。彼はその間を空中を歩いたことになる。そんなことは考えられないとすると答えは1つ。耕二君は誰かに運ばれて来たとなる。つまりその時は耕二君に意識がなかった。つまり死んでいたということになる」
「な、なるほど筋は通っているな。で、その誰かというのは誰のことだ?」
と言いながら行常はポケットからタバコを取り出した。
「おや? 先生、ここは禁煙じゃなかったんですかな。まァ、いいでしょ。患者のわたしが許します。どうぞお吸い下さい。さて、その誰か? というご質問でしたね。それはもちろん先生、あなたですよ」
「またまた、君の飛躍的な推理。いや推理というよりでっちあげだな」
「いや先生、これはごく簡単な推理ですよ。耕二君は自分の部屋で睡眠薬を飲んで死んでいた。場所は自分の部屋に間違いないでしょう。そこらへんの道端で睡眠薬を飲んで自殺するヤツはいませんからね。その耕二君を部屋で見つけ家から運び出すのは家族以外の者には不可能ですよ。ところが家族の中で車を運転できて耕二君を担いで屋上まで登れるのは先生、あなたしかいませんからね」
行常は吸っていたタバコを机の上に直接押し付けて叫んだ。
「しかしだ、何故わしがそんなことをしなければならんのだ! 理由を言ってみろ!!」
「そこですよ。そこに随分悩みました。いくら考えても分からない。またタバコの吸い過ぎになってしまいましたよ。ところがこの前、新聞を読んでましてね、大学で学生がコンパで酒を飲みすぎて急性アルコール中毒になって死んだという記事です。これを読んでいてジグソーパズルの最後のコマを見つけた気がしましたよ。その記事によると学生の親が大学の責任だと言って訴えを起こしているそうなんですよ。まったく先生の口癖じゃないが馬鹿馬鹿しい話ですよ。二十歳を越えた大人が自分の意思で酒を飲んで死んだんですよ。誰に責任を取れもないですよ。まったく世の中は責任時代ですな。責任を取る時代じゃなく、誰かに責任を取ってもらおうとする時代ですよ。先生が患者の家族に訴えられたのもその口なんでしょ」
「そうだ。その通りだ」
行常は怒りに声を震わせながら言葉を続けた。
「死んだ患者はもともと心臓が極度に弱っていていつ心臓発作を起こすか分からない状態だった。患者の家族たちもそのことはよく知っていたはずだ。ところがその患者がたまたまこの病院で発作を起こして死ぬと、わしの診療ミスだと騒ぎ1千万近い和解金を盗んで行ったよ。連中は人の死にたかるウジ虫だよ」
「そして先生もそのウジ虫と同じ。いやそれ以下の存在になってしまったんですよ。部屋で死んでいる耕二君を見て金儲けの方法を思いついたんですからね」
「金儲け? それは一体何のことかな? 分からないね」
と行常は力なく反論した。
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2010年08月26日
夕暮の刑事 灰山敗次
〔第5回〕
「わしが息子の耕二を殺した? 君は正気か? 何を証拠にそんな馬鹿げたことを言うんだ?」
「まァ、そんなに怒らないで。何故わたしがこの結論に達したのか最初からご説明しましょう。耕二君の死に方に最初に疑問を抱いたのは彼のクラスメートの日野光子という子です。かわいい子でね、耕二君が好きになるのも無理はない。耕二君は彼女に死ぬ時は誰もいない所で1人で死にたいと言っていたそうです。学校の屋上から飛び降りるのは彼の希望する死に方じゃありませんからね」
「馬鹿げている。日本の警察はそんな少女趣味なセンチメンタルな話から捜査を進めるのかね。日本の警察はもっと科学的だと思っていたよ」
が、石井はかまわず話を続ける。
「次にわたしがおかしいと思ったのは睡眠薬を飲んでから飛び降りている点です。どちらか一方で充分に死ねるのだから二重の手間ですよ」
「あれは、耕二はわしに似て完全主義者でな。自殺するのも失敗したくなかったんだろう」
「それだけでは説明がつきませんな。先生も医者でしょ。心理学の本ぐらい読んでるでしょ。自殺は心理学の大きな研究テーマだそうですな。それによると、自殺はまず2つに分けられる。計画的自殺と衝動的な自殺に。ところで睡眠薬を飲むのはどう考えても計画的な自殺でしょ。一方、学校の屋上のような身近で高い所から飛び降りるのは衝動的な自殺じゃないですか。つまり耕二君の死に方はまったちく矛盾しているんですよ」
「ふん。すると何か自殺の方法に不審な点があり、殺人事件となって、あげくに犯人はこのわしということになるのか?」
「まァ、そんなに急がないで下さいよ。ちょうど待合室に患者はいない。患者はわたし1人ですからね。ゆっくりと診察して下さいよ。とにかく今言った2つの疑問点がジグソーパズルの最初の2枚のコマというわけです」
「ジグソーパズル? いったい何の話だね?」
「つまりね、事実や疑問点をジグソーパズルのコマのように1枚1枚組み合わせていって事件全体の構造を明らかにする。これがわたしのいつものやり方でしてね。さて次のジグソーのコマですが、失礼ですが先生はだいぶお金に困っておられたんではありませんか?」
「金? フフッ、わしは医者だよ。失礼だが君とは比べられない程度の金は得ているよ」
「勿論そうでしょう。月給15万のわたしとは比べものにならんでしょう。ところが金は使っていけば減っていくもんでね。思うに先生と先生のご家族は、医者は金があるという世間の通説におぼれ過ぎたみたいですな。奥さんとお嬢さんは日本舞踊に夢中になっている。今度、師範になられたのですね。ところで、わたしはああいった世界のことはあまり知らないんですが、日舞でもお花でも、流派の上に上がって行くには技術よりも金だそうですな。師範になるには百万単位の金が必要という話は聞きましたが」
「そんなことはわしは知らん。第一、何百万円か出して師範になったとしても、それは犯罪じゃなかろう」
「また、あなたはこの病院の大幅な改築工事をなさった。施工した建築会社に問い合わせたんですがね。1億円くらいかかっておられるそうですな」
「その金は銀行から借りたんだ」
「さらに死んだ患者の家族から訴えられて多額の和解金を取られていますね」
「その話はしないでくれ。不愉快だ」
「まァ、いいでしょ。そして最後にご長男孝一君の進学問題だ。医大へ進まれるそうですな。実は孝一君の高校の教師へ問い合わせたんですが、残念ながら孝一君はとても医大へ合格できる学力はないという話ですね。いやいや、勿論それが悪いというんじゃありませんよ。でもその寄付金の相場は3千万円という話ですな。その3千万というお金に困っておられたんじゃありませんか? 銀行にはもう借りられないでしょうからな」
「そんなことはプライベートなことだ。刑事の君が口出しすることじゃない」
「ところが犯罪というのは総てプライベートなことから起こるものでしてね。公的な立場に立って犯罪をするやつはいませんよ」
「じゃ、君はわしが金に困って耕二に生命保険をかけて殺したというのか? バカバカしいにもほどがある」
その線も一応は考えましたよ。しかし耕二君には生命保険はかかっていませんでした」
「あたりまえだ!!」
「それでわたしも困りましてね。考えるのにタバコばかり吸っているありさまで…これじゃそのうち肺ガンになってポックリですよ。間接的殺人事件ですよ。これは」
「君、無駄口を開いてないで早く本題に入ってくれんかね」
行常はイライラし出した。
「わしが息子の耕二を殺した? 君は正気か? 何を証拠にそんな馬鹿げたことを言うんだ?」
「まァ、そんなに怒らないで。何故わたしがこの結論に達したのか最初からご説明しましょう。耕二君の死に方に最初に疑問を抱いたのは彼のクラスメートの日野光子という子です。かわいい子でね、耕二君が好きになるのも無理はない。耕二君は彼女に死ぬ時は誰もいない所で1人で死にたいと言っていたそうです。学校の屋上から飛び降りるのは彼の希望する死に方じゃありませんからね」
「馬鹿げている。日本の警察はそんな少女趣味なセンチメンタルな話から捜査を進めるのかね。日本の警察はもっと科学的だと思っていたよ」
が、石井はかまわず話を続ける。
「次にわたしがおかしいと思ったのは睡眠薬を飲んでから飛び降りている点です。どちらか一方で充分に死ねるのだから二重の手間ですよ」
「あれは、耕二はわしに似て完全主義者でな。自殺するのも失敗したくなかったんだろう」
「それだけでは説明がつきませんな。先生も医者でしょ。心理学の本ぐらい読んでるでしょ。自殺は心理学の大きな研究テーマだそうですな。それによると、自殺はまず2つに分けられる。計画的自殺と衝動的な自殺に。ところで睡眠薬を飲むのはどう考えても計画的な自殺でしょ。一方、学校の屋上のような身近で高い所から飛び降りるのは衝動的な自殺じゃないですか。つまり耕二君の死に方はまったちく矛盾しているんですよ」
「ふん。すると何か自殺の方法に不審な点があり、殺人事件となって、あげくに犯人はこのわしということになるのか?」
「まァ、そんなに急がないで下さいよ。ちょうど待合室に患者はいない。患者はわたし1人ですからね。ゆっくりと診察して下さいよ。とにかく今言った2つの疑問点がジグソーパズルの最初の2枚のコマというわけです」
「ジグソーパズル? いったい何の話だね?」
「つまりね、事実や疑問点をジグソーパズルのコマのように1枚1枚組み合わせていって事件全体の構造を明らかにする。これがわたしのいつものやり方でしてね。さて次のジグソーのコマですが、失礼ですが先生はだいぶお金に困っておられたんではありませんか?」
「金? フフッ、わしは医者だよ。失礼だが君とは比べられない程度の金は得ているよ」
「勿論そうでしょう。月給15万のわたしとは比べものにならんでしょう。ところが金は使っていけば減っていくもんでね。思うに先生と先生のご家族は、医者は金があるという世間の通説におぼれ過ぎたみたいですな。奥さんとお嬢さんは日本舞踊に夢中になっている。今度、師範になられたのですね。ところで、わたしはああいった世界のことはあまり知らないんですが、日舞でもお花でも、流派の上に上がって行くには技術よりも金だそうですな。師範になるには百万単位の金が必要という話は聞きましたが」
「そんなことはわしは知らん。第一、何百万円か出して師範になったとしても、それは犯罪じゃなかろう」
「また、あなたはこの病院の大幅な改築工事をなさった。施工した建築会社に問い合わせたんですがね。1億円くらいかかっておられるそうですな」
「その金は銀行から借りたんだ」
「さらに死んだ患者の家族から訴えられて多額の和解金を取られていますね」
「その話はしないでくれ。不愉快だ」
「まァ、いいでしょ。そして最後にご長男孝一君の進学問題だ。医大へ進まれるそうですな。実は孝一君の高校の教師へ問い合わせたんですが、残念ながら孝一君はとても医大へ合格できる学力はないという話ですね。いやいや、勿論それが悪いというんじゃありませんよ。でもその寄付金の相場は3千万円という話ですな。その3千万というお金に困っておられたんじゃありませんか? 銀行にはもう借りられないでしょうからな」
「そんなことはプライベートなことだ。刑事の君が口出しすることじゃない」
「ところが犯罪というのは総てプライベートなことから起こるものでしてね。公的な立場に立って犯罪をするやつはいませんよ」
「じゃ、君はわしが金に困って耕二に生命保険をかけて殺したというのか? バカバカしいにもほどがある」
その線も一応は考えましたよ。しかし耕二君には生命保険はかかっていませんでした」
「あたりまえだ!!」
「それでわたしも困りましてね。考えるのにタバコばかり吸っているありさまで…これじゃそのうち肺ガンになってポックリですよ。間接的殺人事件ですよ。これは」
「君、無駄口を開いてないで早く本題に入ってくれんかね」
行常はイライラし出した。
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10:28
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2010年08月19日
夕暮の刑事 灰山敗次
〔第4回〕
<まるでジグソーパズルをやってるようだ。それも1枚、コマの抜けているパズルをな。何かが欠けている。何かを見落としている。それさえ見つけることが出来ればコマとコマが組み合わさり1つの構図を見せるはずなんだ>
2箱めのタバコをカラにしたところで石井は考えるのに疲れはてた。石井は気分を変えるため新聞でも読むことにした。たいした記事は載っていなかった。第1面には鈴木内閣の顔ぶれ。スポーツ欄ではまたも巨人1点差負け。ソ連が金メダルを独占。3面には大学で大学生がコンパで酒を飲みすぎて死亡か。
「馬鹿げた話だな」と口に出してからその3面記事の内容を読んでいて石井は思わず「アッ!!」と小さく叫んだ。そこに見つけたのだ。欠けていたジグソーパズルのコマを見つけたのだ。
「次の方どうぞ」という声が奥からした。石井の番である。もっとも待合室には石井しかいないのだから当然である。ドアを押して診察室に入っていくと、回転椅子にやせているが背の高い白衣の男が座っている。彼が切畑行常であるらしい。石井はその前の小さな椅子に腰を掛けた。
「初めての方ですな。で、どちらがお悪いのですか?」
「はァ、実は頭が痛いんです」
「ほぅ、ではちょっと診ましょうか」
と行常は聴診器を取り上げた。
「いやいや、残念ですが、そんなもので診てもらってもこの頭痛は治らないんですよ」
「…と言われると?」
行常は不審な顔つきで石井を見直した。
「ほら、テレビの刑事もので、刑事コロンボってのがやっているでしょ。何か分からないことがあると頭が痛くなってしようがないって、実はわたし、こういう者でして」と石井はポケットから警察手帳を出した。
「刑事さんですか。その刑事さんがわしに何のご用です?」
「いや、今日は刑事としてではなく、1人の人間としてあなたに伺いたいことがあってお邪魔したわけです」
「ほぅ、1人の人間としてね」
行常は皮肉な言い回しで言葉をくり返した。
「そうですよ。だからここでの話は裁判の証拠にもならない。だから本当のところを話してほしいのですよ」
「裁判? 一体君はわしに何を聞きたいんだ?」
石井はその声高な行常の言葉を聞く様子もなくポケットからタバコを出し火をつけた。
「おい、ここは禁煙だ」
「それは失礼、どこか灰皿はないですか?」
「あっちの隅だ」
「どうも」
と石井はゆっくり灰皿のある所へ歩いていき惜しそうにタバコを吹かしてからもみ消し、戻ってきた。
「早く言いたまえ! わしは君と違って忙しいんだ!」
「では、質問させていただくことにします。切畑耕二君を殺したのはあなたですね?」
行常は呆然と石井の顔を見返した。
<まるでジグソーパズルをやってるようだ。それも1枚、コマの抜けているパズルをな。何かが欠けている。何かを見落としている。それさえ見つけることが出来ればコマとコマが組み合わさり1つの構図を見せるはずなんだ>
2箱めのタバコをカラにしたところで石井は考えるのに疲れはてた。石井は気分を変えるため新聞でも読むことにした。たいした記事は載っていなかった。第1面には鈴木内閣の顔ぶれ。スポーツ欄ではまたも巨人1点差負け。ソ連が金メダルを独占。3面には大学で大学生がコンパで酒を飲みすぎて死亡か。
「馬鹿げた話だな」と口に出してからその3面記事の内容を読んでいて石井は思わず「アッ!!」と小さく叫んだ。そこに見つけたのだ。欠けていたジグソーパズルのコマを見つけたのだ。
「次の方どうぞ」という声が奥からした。石井の番である。もっとも待合室には石井しかいないのだから当然である。ドアを押して診察室に入っていくと、回転椅子にやせているが背の高い白衣の男が座っている。彼が切畑行常であるらしい。石井はその前の小さな椅子に腰を掛けた。
「初めての方ですな。で、どちらがお悪いのですか?」
「はァ、実は頭が痛いんです」
「ほぅ、ではちょっと診ましょうか」
と行常は聴診器を取り上げた。
「いやいや、残念ですが、そんなもので診てもらってもこの頭痛は治らないんですよ」
「…と言われると?」
行常は不審な顔つきで石井を見直した。
「ほら、テレビの刑事もので、刑事コロンボってのがやっているでしょ。何か分からないことがあると頭が痛くなってしようがないって、実はわたし、こういう者でして」と石井はポケットから警察手帳を出した。
「刑事さんですか。その刑事さんがわしに何のご用です?」
「いや、今日は刑事としてではなく、1人の人間としてあなたに伺いたいことがあってお邪魔したわけです」
「ほぅ、1人の人間としてね」
行常は皮肉な言い回しで言葉をくり返した。
「そうですよ。だからここでの話は裁判の証拠にもならない。だから本当のところを話してほしいのですよ」
「裁判? 一体君はわしに何を聞きたいんだ?」
石井はその声高な行常の言葉を聞く様子もなくポケットからタバコを出し火をつけた。
「おい、ここは禁煙だ」
「それは失礼、どこか灰皿はないですか?」
「あっちの隅だ」
「どうも」
と石井はゆっくり灰皿のある所へ歩いていき惜しそうにタバコを吹かしてからもみ消し、戻ってきた。
「早く言いたまえ! わしは君と違って忙しいんだ!」
「では、質問させていただくことにします。切畑耕二君を殺したのはあなたですね?」
行常は呆然と石井の顔を見返した。
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2010年08月12日
夕暮の刑事 灰山敗次
〔第3回〕
1週間という時間が過ぎた。多忙な仕事の合間をぬうようにして、石井は主に切畑耕二の家庭内の問題について調べてみた。少年の非行、犯罪、そして自殺などの原因のほとんどは家庭にあるからである。そして調べて行くうちに表れてきたことは、切畑耕二の家庭内における孤独な姿である。
切畑家は5人家族で父の行常、母、多恵子、長女の由美、長男の孝一、次男の耕二という構成であるが、父の行常は来年医大を受験する長男の孝一のことで頭が一杯であり、母、多恵子は日本舞踊をやってる長女の由美に師範を取らせることに夢中であるらしい。その中で耕二は誰からもかまってもらえず1人だったと近所の人々が証言している。
その他にもう1つ切畑家について気にかかる事実があった。行常は最近、病院を銀行からの借金で大幅に改築したばかりだが、その行常があるトラブルに巻き込まれているのだ。
そのトラブルとは行常の患者の1人が診察中に死亡し、患者の家族にその死は行常の落ち度によるものだと訴えられたのだ。患者の家族とは和解が成立したが行常は多額の和解金を支払い、さらに医者としての信用が落ち、切畑医院の患者数もかなり減少してきたという。
「どうも生臭い話ばかりだな」
と石井は溜め息をついた。日野光子の涙につられて捜査を始めたが、そこに出てくるものは金!金!金!に関係する話ばかりである。これが現実というものかもしれないが、しかし耕二の死とは関係がありそうもなかった。
<やはり耕二の死は単なる自殺か? いや違う、光子の話以外にも耕二の死には不可解な点が多い。何かがあるはずだ。しかしその“何か?”とは何なんだ? ちくしょう! わからない!>
石井はたばこを吸っては消し、また新しいのに火を付けるかと思うと、すぐに灰皿に押し付け、またたく間にひと箱をカラにして考えていた。現場は光子と会った同じ喫茶店である。
1週間という時間が過ぎた。多忙な仕事の合間をぬうようにして、石井は主に切畑耕二の家庭内の問題について調べてみた。少年の非行、犯罪、そして自殺などの原因のほとんどは家庭にあるからである。そして調べて行くうちに表れてきたことは、切畑耕二の家庭内における孤独な姿である。
切畑家は5人家族で父の行常、母、多恵子、長女の由美、長男の孝一、次男の耕二という構成であるが、父の行常は来年医大を受験する長男の孝一のことで頭が一杯であり、母、多恵子は日本舞踊をやってる長女の由美に師範を取らせることに夢中であるらしい。その中で耕二は誰からもかまってもらえず1人だったと近所の人々が証言している。
その他にもう1つ切畑家について気にかかる事実があった。行常は最近、病院を銀行からの借金で大幅に改築したばかりだが、その行常があるトラブルに巻き込まれているのだ。
そのトラブルとは行常の患者の1人が診察中に死亡し、患者の家族にその死は行常の落ち度によるものだと訴えられたのだ。患者の家族とは和解が成立したが行常は多額の和解金を支払い、さらに医者としての信用が落ち、切畑医院の患者数もかなり減少してきたという。
「どうも生臭い話ばかりだな」
と石井は溜め息をついた。日野光子の涙につられて捜査を始めたが、そこに出てくるものは金!金!金!に関係する話ばかりである。これが現実というものかもしれないが、しかし耕二の死とは関係がありそうもなかった。
<やはり耕二の死は単なる自殺か? いや違う、光子の話以外にも耕二の死には不可解な点が多い。何かがあるはずだ。しかしその“何か?”とは何なんだ? ちくしょう! わからない!>
石井はたばこを吸っては消し、また新しいのに火を付けるかと思うと、すぐに灰皿に押し付け、またたく間にひと箱をカラにして考えていた。現場は光子と会った同じ喫茶店である。
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09:46
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2010年08月05日
夕暮の刑事 灰山敗次
〔第2回〕
「ところで君の名前を聞いていなかったなァ」
石井は向かいの席に座らせた少女に質問を始めた。
「日野光子。耕二君のクラスメートです」
「それでね、いったいなんで君は切畑君が自殺じゃないと思うの?」
石井の質問に光子は考えをまとめる為に少し考え込んでから、話し始めた。
「耕二君は子供の頃から犬を飼っていたそうなんです。その犬は最近年を取って、かなり弱っていたそうなんです。その犬が、ある日姿を見せなくなったの。耕二君が心配して捜してみたら、ポロ。あ、その犬はポロというんです。ポロは家から遠く離れた空き地で死んでいたそうです」
石井は死んだ犬の話が何の関係があるのかとイライラしたが、人の話を聞くことが刑事の仕事の重要な要素であるので辛抱強く聞いていた。
「耕二君はこんなことを言ってました。動物は死ぬときは誰もいない所へ行ってひとりで死んでいくだなって。そしてもしも僕が死ぬときは、誰もいない所で死にたいって」
「なるほど、君の言いたいことが今だいたい分かったよ。つまり切畑君は人が大勢いる、しかも自分を知っている人間が大勢いる学校を自殺の場所に選ぶはずがないと言いたいのだね」
「ええ、耕二君は確かにちょっと変わった子だったし、いつも1人だったし自殺でもしそうな子でした。でも耕二君は学校で授業中に飛び降り自殺をしたりは絶対にしないわ。ねェ、刑事さん、もう1度、耕二君の死を調べてもらえないでしょうか? お願いします」
そう言うと光子は石井の顔をジッと見つめた。独身の三十男である石井はちょっとドギマギしてテレ隠しに別の質問をしてみた。
「しかし何故、君はそんなに切畑君のことが気にかかるの?」
「……」
光子は答えない。
「何か悪いことを聞いたかな?」
「いいえ、刑事さんにこんなことお願いしたのは、耕二君の為よりもわたし自身の為かもしれないって今考えましたの。耕二君が自殺した2週間前にわたしは彼から“好きだ、付き合ってくれ”って言われました。…でもわたしは耕二君の申し込みを断ったんです。…最初にわたしが刑事さんに自殺じゃないって言ったのは、もし耕二君の死が自殺だとしたら原因はわたしにもあります。そのことがとても辛くてそれであんなことを口ばしってしまったんです。すみません」
そう言うと光子は顔を伏せた。背中が小刻みに震えている。光子は人目もかまわず喫茶店の中で泣き出したのである。泣いている少女を前にして石井は廻りの客の視線の中で、たばこをふかしながら何故か童謡を1つ思い出した。
それは「犬のおまわりさん」というやつだ。“泣いてばかりいる仔猫ちゃん、犬のおまわりさん困ってしまってワンワンワワ〜ン”か。石井はとにかくこの事件をもう1度調べるつもりになっていた。
「ところで君の名前を聞いていなかったなァ」
石井は向かいの席に座らせた少女に質問を始めた。
「日野光子。耕二君のクラスメートです」
「それでね、いったいなんで君は切畑君が自殺じゃないと思うの?」
石井の質問に光子は考えをまとめる為に少し考え込んでから、話し始めた。
「耕二君は子供の頃から犬を飼っていたそうなんです。その犬は最近年を取って、かなり弱っていたそうなんです。その犬が、ある日姿を見せなくなったの。耕二君が心配して捜してみたら、ポロ。あ、その犬はポロというんです。ポロは家から遠く離れた空き地で死んでいたそうです」
石井は死んだ犬の話が何の関係があるのかとイライラしたが、人の話を聞くことが刑事の仕事の重要な要素であるので辛抱強く聞いていた。
「耕二君はこんなことを言ってました。動物は死ぬときは誰もいない所へ行ってひとりで死んでいくだなって。そしてもしも僕が死ぬときは、誰もいない所で死にたいって」
「なるほど、君の言いたいことが今だいたい分かったよ。つまり切畑君は人が大勢いる、しかも自分を知っている人間が大勢いる学校を自殺の場所に選ぶはずがないと言いたいのだね」
「ええ、耕二君は確かにちょっと変わった子だったし、いつも1人だったし自殺でもしそうな子でした。でも耕二君は学校で授業中に飛び降り自殺をしたりは絶対にしないわ。ねェ、刑事さん、もう1度、耕二君の死を調べてもらえないでしょうか? お願いします」
そう言うと光子は石井の顔をジッと見つめた。独身の三十男である石井はちょっとドギマギしてテレ隠しに別の質問をしてみた。
「しかし何故、君はそんなに切畑君のことが気にかかるの?」
「……」
光子は答えない。
「何か悪いことを聞いたかな?」
「いいえ、刑事さんにこんなことお願いしたのは、耕二君の為よりもわたし自身の為かもしれないって今考えましたの。耕二君が自殺した2週間前にわたしは彼から“好きだ、付き合ってくれ”って言われました。…でもわたしは耕二君の申し込みを断ったんです。…最初にわたしが刑事さんに自殺じゃないって言ったのは、もし耕二君の死が自殺だとしたら原因はわたしにもあります。そのことがとても辛くてそれであんなことを口ばしってしまったんです。すみません」
そう言うと光子は顔を伏せた。背中が小刻みに震えている。光子は人目もかまわず喫茶店の中で泣き出したのである。泣いている少女を前にして石井は廻りの客の視線の中で、たばこをふかしながら何故か童謡を1つ思い出した。
それは「犬のおまわりさん」というやつだ。“泣いてばかりいる仔猫ちゃん、犬のおまわりさん困ってしまってワンワンワワ〜ン”か。石井はとにかくこの事件をもう1度調べるつもりになっていた。
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11:31
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2010年07月29日
夕暮の刑事 灰山敗次
“刑事 石井康則シリーズ”〔第1回〕
「あの失礼ですが、先程の刑事さんですね」
夕暮れどきの喫茶店。ふいの声に石井が顔を上げるとテーブルの前に1人の少女が立っていた。
「そうですが、何か?」
「耕二君、切畑耕二君のことでお話したいことがあります。耕二君は殺されたんです。彼の死は絶対に自殺なんかじゃありません」
石井はおどろいてそのセーラー服姿の少女を見つめなおした。思いつめた表情だが美しい顔だちをしている。石井はその少女の顔を見ながら、さっき彼がかたづけてきた事件のことを思い出そうとした。
それはイヤな事件だった。勿論、事件というものはどれもイヤなもので、心暖まる殺人事件もなければ、ほほえましい強姦事件もない。しかし自殺。それも年若い少年や少女たちの自殺ほどイヤな事件はない。今日、午後3時頃、所轄内の中学校から、その中学の生徒が飛び降り自殺したという通報を受けたときから、石井の心は暗くなり、検死の操作中もずっと憂うつだった。
それはあきらかに自殺だった。少年、切畑耕二14歳は致死量の睡眠薬を飲み、学校の屋上から飛び降りている。屋上にはカラになった睡眠薬のビンと遺書が残っていた。その遺書には難解な言葉を多く使った文章で、自分はこの世の中には存在理由のない人間であるとかいったことが書かれていた。
30男の石井にはそれを読んでも自殺する少年の気持ちなど理解できなかったが(また、別に理解したいとも理解することが出来るとも考えていない) 自殺の動機を調べるのが石井の仕事ではない。石井の仕事は、その少年の死が本当に自殺であるかどうか確認し、報告書を作ることである。
そして遺書の筆跡は切畑耕二本人のものに間違いなかった。ただ、石井は少年の自殺について2つだけ疑問を持った。1つは「中学生の少年がどうやって睡眠薬を手に入れたか?」ということだが、この疑問はすぐに解明した。少年の父、切畑行常が医者なのである。
もう1つの疑問は、耕二の担任の教師がくり返し言っていたことで、「今日、耕二は朝から登校していなかった」つまり彼はわざわざ学校へ自殺をやりに来たのである。担任の教師はそれを強調することで自分には責任がないことを匂わしていた。しかし石井にも何故? 耕二が学校へ来て自殺したのか分からなかったが、自殺であることは間違いなかった。
そして石井の仕事は終わった。ところが!! この少女が石井の前にあらわれて、「切畑耕二は自殺ではない」と言い出したのである。
「あの失礼ですが、先程の刑事さんですね」
夕暮れどきの喫茶店。ふいの声に石井が顔を上げるとテーブルの前に1人の少女が立っていた。
「そうですが、何か?」
「耕二君、切畑耕二君のことでお話したいことがあります。耕二君は殺されたんです。彼の死は絶対に自殺なんかじゃありません」
石井はおどろいてそのセーラー服姿の少女を見つめなおした。思いつめた表情だが美しい顔だちをしている。石井はその少女の顔を見ながら、さっき彼がかたづけてきた事件のことを思い出そうとした。
それはイヤな事件だった。勿論、事件というものはどれもイヤなもので、心暖まる殺人事件もなければ、ほほえましい強姦事件もない。しかし自殺。それも年若い少年や少女たちの自殺ほどイヤな事件はない。今日、午後3時頃、所轄内の中学校から、その中学の生徒が飛び降り自殺したという通報を受けたときから、石井の心は暗くなり、検死の操作中もずっと憂うつだった。
それはあきらかに自殺だった。少年、切畑耕二14歳は致死量の睡眠薬を飲み、学校の屋上から飛び降りている。屋上にはカラになった睡眠薬のビンと遺書が残っていた。その遺書には難解な言葉を多く使った文章で、自分はこの世の中には存在理由のない人間であるとかいったことが書かれていた。
30男の石井にはそれを読んでも自殺する少年の気持ちなど理解できなかったが(また、別に理解したいとも理解することが出来るとも考えていない) 自殺の動機を調べるのが石井の仕事ではない。石井の仕事は、その少年の死が本当に自殺であるかどうか確認し、報告書を作ることである。
そして遺書の筆跡は切畑耕二本人のものに間違いなかった。ただ、石井は少年の自殺について2つだけ疑問を持った。1つは「中学生の少年がどうやって睡眠薬を手に入れたか?」ということだが、この疑問はすぐに解明した。少年の父、切畑行常が医者なのである。
もう1つの疑問は、耕二の担任の教師がくり返し言っていたことで、「今日、耕二は朝から登校していなかった」つまり彼はわざわざ学校へ自殺をやりに来たのである。担任の教師はそれを強調することで自分には責任がないことを匂わしていた。しかし石井にも何故? 耕二が学校へ来て自殺したのか分からなかったが、自殺であることは間違いなかった。
そして石井の仕事は終わった。ところが!! この少女が石井の前にあらわれて、「切畑耕二は自殺ではない」と言い出したのである。
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2010年07月22日
凧の糸 浜崎清隆
〔第7回〕
吹田克明は、事態を警察に知らせるべきかどうか考えあぐねていた。うかつな事は出来ない。下手に騒いだりして、失敗したケースが幾つかある。誘拐事件の検挙率は非常に高い。犯人と被害者との取り引きに於ける接点で、犯人側にとっての危険性が大きいからである。それだけ、金の受理方法がむずかしいと言える。
だから検挙率が高いのである。しかし、そこに重大な問題がある。犯人を捕らえる事はできても、人質を無事取り戻す事はきわめて困難なのだ。今までの実例にもあるように、犯人を逮捕しながら一体、何人の子供が世を去った事か。人質の処理は低年齢になるほど厄介なものであり、犯人が連れて歩くには、かなりの足手まといとなる。だから、誘拐した直後に子供を殺し、そこから脅迫を始めるという事になるのである。
今回の場合は、妻と子供がさらわれた。そして電話口では妻と話を交わした。まだ人質は無事だという証である。『とにかく400万円ほど用意しろ』と短目に喋って犯人は電話を切った。『警察には知らせるな』と犯人が付け加えたのは申し述べるまでもない。
吹田克明は、もはやじっとしていられなかった。妻子の命の安否を気づかうのは勿論の事、彼には別の不安もあった。それは妻の倭文代の事である。倭文代は美しい女だ。女としての魅力を充分に兼ね備えており、素人女の質素な、それだけに新鮮な色気がある。犯人がそんな妻を前に、何もしないでいられるだろうか?
「指1本でも触れてみやがれ…」
彼はどんな事をしても捜し出して、犯人を叩き殺してやるつもりだった。 <つづく>
吹田克明は、事態を警察に知らせるべきかどうか考えあぐねていた。うかつな事は出来ない。下手に騒いだりして、失敗したケースが幾つかある。誘拐事件の検挙率は非常に高い。犯人と被害者との取り引きに於ける接点で、犯人側にとっての危険性が大きいからである。それだけ、金の受理方法がむずかしいと言える。
だから検挙率が高いのである。しかし、そこに重大な問題がある。犯人を捕らえる事はできても、人質を無事取り戻す事はきわめて困難なのだ。今までの実例にもあるように、犯人を逮捕しながら一体、何人の子供が世を去った事か。人質の処理は低年齢になるほど厄介なものであり、犯人が連れて歩くには、かなりの足手まといとなる。だから、誘拐した直後に子供を殺し、そこから脅迫を始めるという事になるのである。
今回の場合は、妻と子供がさらわれた。そして電話口では妻と話を交わした。まだ人質は無事だという証である。『とにかく400万円ほど用意しろ』と短目に喋って犯人は電話を切った。『警察には知らせるな』と犯人が付け加えたのは申し述べるまでもない。
吹田克明は、もはやじっとしていられなかった。妻子の命の安否を気づかうのは勿論の事、彼には別の不安もあった。それは妻の倭文代の事である。倭文代は美しい女だ。女としての魅力を充分に兼ね備えており、素人女の質素な、それだけに新鮮な色気がある。犯人がそんな妻を前に、何もしないでいられるだろうか?
「指1本でも触れてみやがれ…」
彼はどんな事をしても捜し出して、犯人を叩き殺してやるつもりだった。 <つづく>
Posted by fuefukipiero at
09:06
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