昨年、妻を生き別れた中国に住む母に合わせることに成功してから、次のミッションとして妻の4歳年上の姉も連れて行ってあげたいという思いを持っていた。
妻の姉の家族は2022年の夏、私がフランスからの帰りにハノイのお家で滞在した後にコロナ陽性が発覚して、日本に帰国できなくなった時にも10日ほど毎日ホテルまでおいしいご飯を届けてくれたり家族として暖かく受け入れてくれていた。
お姉さんにもパスポートを申請してもらい。ビザの取得の情報も
「ベトナム人、中国、ビザ、代行」を翻訳ソフトとでベトナム語に訳してから検索して、エージェントを見つけた。
3月9日、ホーチミン市でのジャパンヴェトナムフェスティバルの自転車部門の仕事を終えて、翌日の朝一でハノイに飛んだ。
先にハノイ入りしていた妻は姉とハノイでビザの申請をして3月13日の午後にできるというので13日の夜の飛行機で中国の深圳に入りを計画した。
13日は到着が遅くなるので、深圳の空港内のホテルの部屋を確保した。
戻る16日も同じホテルを予約した。
帰りも同じホテルを使えば荷物をホテルで預かってもらえるので、妻の多い荷物を空港に預けなくておすむ。中国ではタクシーと安宿を外国人だけで使うのはトラブルの噂が多いのでできれば避けたい。
深圳空港のハイアットは空港内でも看板表示があり、部屋まで空港のカートを押したまま入れるホテルであった。
翌日、ハイヤータクシーは8時半に迎えに来た。今回は義母の娘さんがタクシ−代を払ってくれたらしい。
今回DNA鑑定の結果でも実の母という結果を受けて、正式な家族として受けれてくれてた。前回は先方でも半信半疑だったのだ。
11時半、3時間のドライブの後いよいよ、家に到着した。
お義母さんは髪を短く散髪して、娘達の到着を待っていた。
金曜の昼に盛大な昼食が始まり、我々も初対面の親族の方々とご馳走に舌鼓を打った。定番の酒が出てこなかったのは、やはり平日の昼間だったからであろうか?
広州名物の魚の皮の料理がコリコリして美味しかった。
魚の名を訪ねたが、川魚というだけでなかなか、魚の種類までは分からなかった。おそらくソウギョぐらいだと思う。
今夜は前回泊まった10KMほど離れた安宿に泊まろうと思っていたが、おじいさんがうちに泊まって行けと言ってくれた。
お母さんが娘たちと寝たいと言っているのだ。
少し考えてから覚悟を決めた。
ガスの代わりに薪で料理をしている点は変わらないが、今年は洗濯機も温水器導入されてシャワーもお湯がふんだんなく使えた。
私はお爺さんと同じ布団で寝ることになる。
そして、昼食後、とてつもない眠気に襲われて、部屋でまるで弾力性のない板のベットの上で昼寝をしたがとてつもないかゆみに襲われた。体をかきむしりながら眠ったが目覚めると3時間ほど時間が経過していて、不思議とかゆみは治まっていた。
遠くから聞こえてくる会話は、まるで聞き取れない。
ベトナム語、かなり訛った広東語が飛び交うが、何処まで聞き取れているのかも不明だ。
分からない時は妻も中国人になぜか日本語で説明している。
そんな中、よく眠れたのは私にこの土地もあっていることの暗示かもしれない。
晩御飯もご馳走を家族10人ほどで頂き、食後はおじいさんの娘さんの誘いで近所の田んぼに散歩に出かけた。
この近くは水がきれいなんだろう。お母さんは脚が痛くて帰ってしまったが、妻の姉さんと義父の娘さん、娘さんの旦那さんとWECHATを通して話をした。
WECHATの翻訳機能はかなり優秀で、翻訳ソフトの代用としても十分機能する。
方言がキツイこの地方でも、普通に日本語に訳してくれるから便利な世の中になったものだ。
ただ、お互い立ったままスマホに向かって、打ち込んで会話をする。ちょっと間のずれた笑いなど、国際交流のニュースタイルを中国の片田舎で体験した。
今後は都会に住む必要はどんどんなくなっていくのではないだろうか?
その日は、結局、おじいさんはソファーで寝て、私はおじいさんのベットを占領して一人で寝ることになった。蚊帳の中で寝る経験もほぼ初めてであった。
妻は枕で蚊帳の中の蚊を追い払い、手際よくベットの下にスケスケカーテンを押し込んだ。
今度はかゆみは全く感じなかった。
月が明るくて明かりなしに散歩できる夜であった。
翌日、7時に目が覚めた。
母と3人川の字になって眠った妻と義姉は興奮とベットの狭さであまりあまり寝れなかったよう。
朝食のおかゆを食べた後に、11時に隣の娘さんの家で昼食をいただいた。
娘さんの旦那さんは鶏の販売をやっている人で1日に3トンの鶏肉を扱っている人だった。珠海に家を買ったからいつでも釣りにおいで、マカオにも遊びに行こうと、とても魅惑的なお誘いをいただいた。珠海にはNIPPOの監督として参加したツアーオブチャイナでいって、キティーランドに泊まった事。その後に香港からの出国が大変であったこと。
昔、サウスチャイナシーというレースの合間にマカオでの休息日があり、カジノで大負けをした後取り返した話などしたかったが、WECHATで話すには話が複雑すぎて断念した。
予定よりも30分前に乗り合いタクシーがやってきて、新しくできた中国の家族と別れを告げた。
帰りのタクシー代はおじさんの別の娘が払ってくれた。
帰り際に降り始めた雨は、激しいスコールに代わり、小枝が屋根の上に落ちてくるほどになったが無事空港まで到着した。
スコールの中、車窓から外を眺めながら、この人生の中で珠海の近辺に家族を持つ事になるとは思いもよらなかったこと。
幼少時から両親がいない状況で親戚に育てられた姉妹が40近くになって出会った母親と同じ布団で眠り笑いあった事。
子供の時に親にどれだけ会いたかったことだろうか?
行方不明の母の事をどれだけ考えたのだろうか?
などと思いを巡らせたが、想像の域をでないのでスコールに流すことにした。
体が不自由なお母さんを面倒見てくれている中国の家族。
お母さんは温かい家族に囲まれて暮らしていた。
そして、何よりも妻と妻のお姉さんが喜んでくれたのが何よりも嬉しかった中国の滞在であった。
雨のあがりの深圳の夜は地下鉄に乗って、老街という下町にいって買い物を楽しんだ。
地下鉄の長さに閉口していた(片道約1時間)姉妹であったが、洋服など買い物を楽しんで、屋台街でイカや貝を食べ、翌日軽くお腹を壊して帰路についた。
ストーリーズhttps://www.facebook.com/stories/1714178858644721/UzpfSVNDOjYzNzU0MTc4NTY0Nzc2Mw==/?bucket_count=9&source=story_tray