気配

選手の土曜日はAACAで長良川サービスセンターまで行ってきた。
ちょうど、南信から160kmで2時間ほどで行ける。
レースは同じコースだが距離もカテゴリー1は100kmと長く、カテゴリーアップしていけば
トップ選手に挑戦できる。

若い選手にはとてもいいレースだ。
そして運営側も同じメンバーで慣れているし、落車があっても救護の方もしっかりいてくれている。

リザルトも6位までしか出ないが、無駄を省いたいい大会である。

カテゴリー2でフランス帰りの奥田選手が3人で逃げて、最終周回前に捕まってしまったが8位でゴールした。
彼は今まで体格はいいが、
どうも、切れの悪いレースが続いていた。

1か月半滞在したフランスでいい刺激を受けたようで、今まで見られなかった走りを見せてくれたのが嬉しかった。

若い選手は選手は伸びる瞬間がある。
それはいつ来るかわからないが、大切なのは強くなっていくことであり、それは大いに評価したい。

予想以上の走りに人は感動するのであり、強くなる選手はその上塗りを続けながら本物の輝きを出してくるのだ。

AACA8位という結果は何の評価にもつながらないが、そこに至るプロセスに成長がみられた。

毎週のオンラインミーティングの効果あってか、上昇気流が生まれつつあるのはうれしい兆候だ。

悲しい事故

今年のツールド北海道は3ステージともハードなコースでとても面白いレイアウトになっていた。
このコースなら、3日間と昔と比べて少なくても、素晴らしい戦いが繰り広げられると感じていた。
第1ステージの前日にシマノに入った寺田選手と話をした。
彼は初めてのツールド北海道にワクワクしているようだったので、少しアドバイスをしておいた。

翌日、ある集まりの会場で「北海道で自転車の事故があった」とニュースを見た人から知らされた。
その瞬間、これは大変な事故だ。と思った。
そして、無事を祈った。

選手を守るために対向車に向かって右手を広げて接近するバイク審判の姿は今でも目に焼き付いている。
我々選手は、そういう人に守られてレースを続けてきた。

翌日、願いむなしく彼の死が報道された。

21歳の若さでこの世を去った。

私も21歳の時、ツールド北海道を走っていた。
あこがれのレースに超興奮状態で走っていた。彼のように強い選手でも、将来を期待された選手でもなかった。
そんな21歳の時から、自転車は私に素晴らしいものを与え続けてくれている。

片側車線しか交通規制できない理由は理解している。
しかし、それを理解したうえで言わせてもらうと
自転車レースは片側車線規制だけで、対向車が来る状態では開催してはいけないスポーツである。

いつの拍子で選手が前走者と接触して対向車線に飛び出してくるともわからない。

この機会にフランスの大会運営の規則を調べてみた。
フランス車連は大会の開催マニュアルをホームページで公開している。

大前提に
「公道でのサイクリング イベントの主催者は、競技者と観客の両⽅、道路利⽤者と環境の両⽅にとって安全が最優先であることを念頭に置く必要があります。したがって、この安全を確保するために必要なあらゆる措置を講じる必要があります。」

至極当然のことですが、今回の事故があった後には非常に重い言葉です。

私を育ててくれたツールド北海道ですが、全車線規制できない状態で開催をするべきではないと思います。

この事故をきっかけに、自転車ロードレースの開催の基準に合理的な安全性を持たせることによって、今回悲しんだご家族、友人、選手、チーム、観客、大会関係者、それを取り巻く人達がこれ以上苦しまない世の中を作ることが大切で。大会を無くすことが解決法ではないと思うのです。

そのためには、声を上げることも必要で、自転車ロードレースを愛する人が声を上げて日本に合った安全基準を海外の例を学びながら作り上げる必要があるとおもいます。

五十嵐洸太君のご冥福を心よりお祈り申し上げます。

これあり?

最近、台所の砂糖に大量のアリが行列をなすようになったので、毒餌を買っておいてみた。
巣の近くにまくと、瞬く間にあるがその毒餌を巣の中に運び込み始める。
アリの習性を利用して効率よく大量虐殺をしようという、実にクレバーなトラップではあるが
毒餌とは知らずに巣にせっせと運び込むアリに利他の精神を感じる私は、その労働が自分だけでなく同族も滅ぼす行為となっていることに、この毒餌の使用をやめようと思うほど、悲しい光景が思い浮かぶ。

みんな、おいしい餌を持ってきたよ!と言って運び入れた毒を食べて仲間が死んでいく姿を目にして、呆然とするアリ。
そして、自分の体にも不調が…

ああああぁ


プロの定義

先日、野菜の値段におけるジレンマについて書かせていただきましたが、それにかかわる話として
プロとアマチュアというものの定義はそれで生活が成り立つかどうかである。
正直言って、私は選手育成では生活は成り立たず、今は農業をしながら育成チームの運営をしております。
当然、稼げるほうを優先しなくてはいけません。
自転車を優先しがちなのを最近家族にとがめられており、説得が大変です。
「お世話になった世界だから恩返し」だけでは世知辛い世では通用しないのです。
その説得によって、家族の不満とストレスが発散されて、バランスがとれていると言えばさらなる騒乱が待っています。

プロの選手の数というものは、その世界にどれだけの価値があるかによって決まってくるものだと思います。
そういった意味で日本の競輪は2000に人以上の選手が食べていける点で、プロフェッショナルな世界ですし、選手の立ち振る舞いが違います。
収入が立ち振る舞いを変えるとも言えますし、立ち振る舞いがいい選手がプロになれるとも言えます。そういった面で考えると大成した選手の立ち振る舞いはアマチュアの時から違っていたと思い当たります。もちろん例外もありますが…

今の若い選手にはプロがプロらしい生活をして最高の環境の中で厳しい練習をこなしているんだから、君たちはプロ以上にプロらしい生活をしないと追いつけないんだよと言っています。

たまにレースの解説ににょこにょこ出てくる選手がいますが、ヨーロッパのプロでそんな選手は見たことがありません。それほど、暇なのかと思ってしまいます。
(と言いながら、私も解説をしていましたが…)


価値を上げる努力も必要ですが、やはりそれ相応の価値に落ち着いているのです。
プロと名乗っている選手もしっかり食べていければ、問題ありません。
その収入源が賞金であれ、契約金であれ、タニマチであれ、ユーチューブであれ、親のすねであれ
ただ、最後の二つはプロのなんちゃらに名前を変えたほうがいいですが
それで食べていける世の中にしっかりと順応した生き残れる人種であると思います。

私もいま長野で農業をしながら、フランスに遠征している選手たちを遠隔操作しています。
今日、4人の選手が無事帰ってまいりました。

萩谷選手がOPEN2のカテゴリーで3位に入る成長を見せてくれたのはうれしい事でした。
彼らにプロの自転車選手は何たるかを説きながら、自分も精進したいと思います。

作る側と買う側の意識の差

1Lの100%のパイナップルジュースを飲みながら、妻に私は語りかけた。
「これが200円で作れるわけがない」
少なくともパイナップル一つは必要とするこのジュールをパッケージして、外国から運んでこの値段はない…
もちろん、ジュースにするのだから、いびつな形でも熟したものでもいいわけではあるが、200円ということはない。

もちろん、こちらも農家だから、カラクリもわかる。
新鮮なものは高く売って、余ったものは保存が利くようにして安く出す。

干し柿もそういう半端なものを買いたいというお客さんがたくさん来る。

それにしても、世の中食べ物が安すぎる。

だから、安くするために農業はとにかく、薄利多売で規模を大きくして、機械を使って人件費を晴らす。
そのために使われるのが、農薬や除草剤だ。

その農薬や除草剤が原因で鳥や昆虫が減ってきているのは、規模を大きくしないとやっていけない農業の現実があり、その根本にはグローバル化と合理化による安い野菜の流通がある。

だからと言って、500円するパイナップルジュースは買わない今日のジレンマ。

雨降って

子供たちに会ってきた。
朝、子供の一人が体調が優れないので今回はキャンセルという連絡が入った。
年に3回という面会も少ないうえに、一番長く待ったこの面会をキャンセルするという一報を聞いたときは、センターの職員に今まで積もり積もっていた不満を話した。

相手の要求を聞くだけで、こちらの要求は一向に聞き入れてくれない。
何のための組織なんですか?

こちらは既にバスで大阪に向かっていた。
そして、大替に提示された日にまた、のこのこと大阪まで行けというのか?そして、その時にキャンセルされない保証はあるのか?

言うべきことを言った。

そうしたら、相手の態度が変わった。
そして、大阪の土地勘のあるショッピングモールで会うという提案が来た。
逆に外であえたほうが嬉しい。

予定を変更して千里ニュータウンで下車。
子供たちはタピオカの店の中にいた。
熱があったという次男も来ていた。

子供たちに聞くとお腹が空いているというので
まず、昼飯を一緒に食べた。
長女と長男はうどん。次女と次男はミスド。
そして、楽しく会話をした。

予定通りセンターの面会する場合は、あのつまらないおもちゃに囲まれた部屋で子供を集めて、私が司会をしていろいろ質問をしようと考えていた。
しかし、一緒にご飯を食べて分かったことは、子供たちが求めているのはそれではなく、以前のように一緒にご飯を食べながらたわいもない話をすることだった。
子供たちはその2時間だけでも、自分たちだけの父親に戻って欲しかったのだ。
現実を受け入れたうえで、私を父親として扱ってくれている。

自分の子供の順応能力を私は見くびっていた。
私は子供たちと戯れながら、買い物をするだけだった。
ユニクロで次男はセーターを、次女はシャツを、長男はカバン、長女には大きめのシャツを買ってあげた。
次男は自分で選び、長男はカバンとシャツを選んだ後、一つを誕生日プレゼントにすると言ったら、もう少し高いものが欲しいとシャツを返しに行った。

そして、長女は自分で選ばずにパパは何がいいと思う?と聞いてきた。

長女と長男は常に私のそばから離れなかった。
次女は次男と一緒にいた。
次女はいつもそういうポジションをとる。
競争が激しいときは、争わずに競争が少ないところを見つけようとするのは、私の子供の時に似ている。

そして、ゲーセンに行ってUFOキャッチャーをして、それからアイスを食べた。
楽しい2時間はあっという間に終わってしまった。

今後できる限りのサポートをしようと心に誓った。
結果的に素晴らしい一日になった8月23日であった。

サプライズ結婚式

先日、康司の家族が突然訪れて1週間ほど滞在してくれた。
川に泳ぎに行ったり、サッカーに行ったり、農作業を手伝ってくれたり、蔵でカラオケを歌ったり、庭でバーべQをしたり。
楽しい日々であったが帰る直前に私たち夫婦の結婚をサプライズで祝ってくれた。
偶然居合わせた大学の先輩桜澤さん、そして、妻の親友のイエンさん、叔母の立ち合いの元
こども達が土間をデコレーションして祝ってくれた。
(ろうそくの灯を消すのはあまり縁起良くない気はしたが)

正直、お互い再婚なので、結婚式はいいと思っていた。
しかし、妻ルオンの喜びように私は驚いた。
言葉には出していないが、結婚式をしてほしかったのか

俺は自分の鈍感さを恥じるとともに
弟への感謝の念が湧いてきた。

縁が切れた人もいる中で、一番近い人たちがサプライズで祝ってくれたことが嬉しかった。
私は泣きはしなかったが、親父が目に涙を溜めていた。
自分の周りの人間を幸せにするために、残りの人生をささげようと思う。
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ツバメも参列してくれました。

農家の小さな住人を襲った不幸

昨年、巣立ちの前に蛇に襲われて失踪した我が家のツバメであったが
今年は無事巣立っっていった。

ほっといたもつかの間、隣にあった古い巣を使って、また卵を産んで子供を育て始めた。
今度の場所は蛍光灯が近く、蛇が伝わるコードもある。
したにコンテナも積んであるので、猫などにも狙われやすいなあと思っていた。
それでも、子供はすくすく育って、巣のふちに掴まって羽ばたく練習をしていた。

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杞憂に終わりそうだなと思っていたが、一日家を留守にした日に
フランスから戻って遊びに来ている康司がツバメの巣はどこにあったっけという。
「そこにあるよ」と言ってみると巣が落ちていた。

ツバメはどこにもいない。
1羽だけが倉庫の隅にとまっていた。

何があったのか?聞いてみたがもちろん答えられない。

おそらく、猫がコンテナの上からジャンプしたのだと推察した。

そのツバメも闇夜の中へ不器用に羽ばたきながら消えていった。

翌朝、親ツバメが何かを訴えるように鳴きながら庭を旋回していた。

せっせと毎日朝から晩まで餌を運んで育てた雛が大きくなってもう少しのところで離散してしまったのだ。
4羽の子供を一度に失ったその喪失感はいかばかりのものであろうか?
その気持ちはよくわかる。

翌日、1羽の生き残った雛をトイの上に見つけた。
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親は食べ物を運んでいるようには見えなかった。

そのうち、その雛もどこかに消えてしまった。

この世の中では日常茶飯事に起きているこのような出来事のおかげで、
私もなんだか数日間は気が付けばため息をしついていた。

ツバメの1年の生存率はかなり低いと聞く。
餌目当てではなく、玄関を開けると家の中にも上がり込んでくるこの鳥は、なんとも愛らしい
我が家の風来坊である。
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台湾まで旅をするというツバメには壮絶なドラマがあるに違いない。
ツバメと会話ができたら、どんなにいいだろうと思うが
そんなツバメを妻は、土間に入ってきたら私の制止を振り払い箒で追い払っている。
女性にとって、土間にふんを落とすこの生き物はただの厄介者で、許す心の広さも、暇もないのであろう。

やめ時

引退のタイミングは選手にとって大問題である。
なにしろ、それまでの人生の大半を費やしてきたスポーツから去るわけだから

そう簡単なものではない。

まだ、成功する前に一度やめて、外の世界を見てから、戻ってきて成功を収める選手もいる。

いちど、自分は燃え尽きたと思っていても若いときは、すぐに回復して戻ってくるし
実はまだ、消耗しきれていなかったといえる。

逆に、子供のころから親に追い立てられて無理やりやってきた選手には
一度競技から離れることで、自分の決断で始められるから別人のように目を輝かせて活躍する場合もある。

逆に今回のカベンディッシュのように、やめると言っていた選手が他の要因で続けた場合。
(まだ、続けると決めた訳ではないが…)

うまくいかない場合が多い。

要因は
満足できる結果が高いところにあり、周囲の期待も高い。
また、1年走り続けてツールに合わせると言っても、ツールだけ走ればいいわけではなくて
1年かけて準備して、参加するレースで転ばずにコンディションを上げる必要がある。
スプリンターにとって転ばずというのはある程度、運もよくなくてはならない。
針の穴を通すような難しさがある。
歳をとれば恐怖心といかに付き合うかという問題もある。
一度、切れた気持ちをつなぎ合わせる必要もあるし、引退後に準備していたことも始まっているので、忙しくなる可能性がある。

死体に無理やり血液を巡らせても、人は生き返らない。

結局、本人がやめ時と思った時がやめ時なので、他人は口を出さないほうがいいのである。

JCL佐木島ロードレース

ブライトンレーシングチームの監督として、JCLの佐木島のロードレースに行ってきました。
久々の中国地方。
名古屋で大学の同期の林と合流して、広島へ
広島出身の彼がいるからとても頼もしい。

前日のマネージャーミーティングは久々にライブの監督ミーティング。
ビクトワール広島の関係者の方の苦労がかなり見えた。

最初にすることはとてつもないエネルギーがいる。
そのエネルギーに脱帽して、大会に参加するメンバーとして成功を祈る気持ちを共有した。

明日の船を確認するために港に行き、港のうどんを試食して、レース後の選手食はこれにしようと決めた。できればレース前もうどんと行きたかったが、売店が出港15分前にあくので断念。

島に渡るとうっそうとしていて湿度が高い。

まるで沖縄の屋我地(わかる人にしかわからないたとえですいません)のような雰囲気だった。

今回ブライトンのメンバーは4名。
キャプテン ディーン(盧)。クライマー ウー(呉)。若手のユーミン(蘇)。そして、新人のチョー(邸)

スプリンターの熊さんは家族旅行で来れなかったという話でなんとも残念な話。

レースは中盤に9チーム全部が乗る19名の逃げが決まり、ブライトンはユーミンしか乗れなかった。
19名の逃げなので2人は乗せてほしかったが、ユーミンがうまく立ち回り7位でゴールした。

彼としては良い成績であるが、チームとしては失敗のレース展開となった。
参加チームが少ないと、こういったことでレースが決まってしまう。

中盤に補給地点でひどい落車があり、VC福岡の選手が地面にたたきつけられてノックアウト。
心配したが、回復に向かっているということを帰ってから聞いた。
良かった。

日本のレースは補給地点での落車が多い。
これは、ヨーロッパでは見られない光景だ。
練習しておいたほうがいいし、危ないと思うなら、確実に取りたいと思うならスピードを落として少々遅れてとってもいいと思う。
転ぶほうも、巻き込まれるほうも情けないと思ってほしい。
そこで逆転不可能な差は生まれないから。



島を後にして、広島空港ホテルへ(今回の滞在場所)

朝、2時ごろ警報で携帯が鳴っていたが気にせずに、朝 起きてぼんやりレースのホームページを見ていたら
中止のお知らせがある。

なにを中止にしたんだろうと思ってみてみると、なんとレース自体が中止になり
今日レースに行く必要がなくなった。

さて、と思案して

土砂降りの中、原爆資料館に向かった。

レースがなくなった際にオーガナイザー受けする正しい訪問先であったのではないかと推測する。

理由は単に私が行ったことがなかったから。
林君は小学校の時から何回もいているようだが、付き合ってくれた。

投下前の広島の街は馬車と路面電車が混在した魅力的な街並みだった。
その街並みから、投下の時間の門をくぐると、惨状が広がっていた。

すべての人が、無言で食い入るように、遺品と持ち主の名前とストーリーを見ていた。
実際、現物を目の前にしないとあの感覚は味わえない。
悲惨な歴史をこれまでかと見せつけられた。

その後、お好み焼きを食べて、選手と別れて長い帰路についた。

久々に訪れた瀬戸内は実は私の生まれも岡山ということもあって、懐かしく温かかった
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次は、JBCF石川ロードに向かいます。


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