とりとめのない話

強かった選手の引退が良く聞かれるたびに、選手を終えた後の私の心境が思い返される。
自転車がすべてだった時、目の前のレースをこなし、成績以外はさほど悩みなく1年1年を過ごしていた。

そして、今は古民家で自然に囲まれながらビジネスを安定させる事が重要課題となる。緊張感をもって日々過ごしている。
竹藪を整理する暇もなければ、田起こしをするひまも、古民家を修復する暇もないほど充実している。

今は柿作りという、皆様が口にするものを大量に作っているのであるが、昨年までの経験をもとに改善する点を探しながらやっているが、なにしろ、天候を相手にする仕事なのでこの温暖化の影響も多少なりに受けている。

先日、飯田市の市民大学でシマノの山田拓海選手と二人で自転車の魅力を紹介したが、私にとって自転車の仕事は楽しみであり、息抜きにもなっている。
お金をもらって申し訳ないほど楽しかったが、参加者の評判も良かったようでロードレースに興味を持ってもらえたと思う。

選手時代は目標レースで勝てばすべて良しという。ある意味、悩みのない時代であった。
もちろん、悩み不安はあったが、今とは性質が違う。
やはり、選手は特別扱いされるから、それはある意味エクスキューズでもあったりする。
引退後はそれがない一般社会でどうやって自分らしく生きて行けるかが大事だと思う。

今の方が数段高い能力、忍耐を求められているが、これに関していえば自転車で培った精神力と体幹が役に立っていると思う。

先日レースの夢を見た。
有力メンバだけの逃げに、集団から飛び出してすごい勢いでブリッジをかけて、追いついたときに勢い余って力を集団を抜いてしまうほどの力を持て余している。
そういった夢だったが、残念ながらゴール前に目覚めてしまった。
あれは相当強かったが、ちゃんとゴール前まで温存して優勝したのだろうか?

引退ということは、いずれ訪れる事であり
本人が考えるほど、大したことではない。
もちろん、この世の終わりではない。

1ページめくるだけ。

有望な選手の引退

津田悠義選手が引退を発表した。
昨年引退した門田選手といい、有望な若手からどんどんやめていく。
彼の引退した原因に、ワールドツアーにアンダー23の間に届かなかったという
理由がある。

自分が決めた期間精いっぱい挑戦して、やめることに関しては私は賛成だ。
ただ、彼のフランスや欧州での走りを見ていると順調に経験を重ねていただけに残念な気持ちはある。

私がNIPPOヴィーニファンティーニで監督をしていた時の選手も、今の日本のレベル以上の選手達であったが、今はほとんどの選手がすでに引退している。
だから、彼の引退も世界基準で言えば平均的と言えるかもしれない。
それだけ、ヨーロッパのロードレース界は厳しく、そして輝いている。

彼のこれからの人生に乾杯!

本物の宝物

ヨーロッパに挑戦して、力が落ちたという悩みを聞く

私は、94年にオランダに行ってぼこぼこにやられた。
自転車をやめようと思って帰ってきたら、ただ、帰ってきた年はインカレで10位に入れた。

ただ、目の前にそびえる山の大きさと、そこで味わった屈辱を晴らすことだけを考えていた。

翌年、日本のローカルレースでほぼ全部勝てた。
BR1(今のJプロツアー)の彦根クリテで4位に入った走りをBSの部長に買われて、
最下位の選手としてBSに入った。運が良かったと思う。
BSからチャンスをもらって4年後にまた挑戦した。

そして、フランスで最下層から勝ちあがってプロになれた。

そのためには悩み、知恵と工夫で仲間たちと乗り切った。
フランスのプロのレースで後輩が勝った時は自分の事のようにうれしかった。

調子の良し悪しではない、実力を身に着ける。
実力とはパワーだけではなく、メンタル、テクニック、判断力、交渉力、生活力、財力、運

外国でやっていくためには、かわいげも最初は必要だったりする。

ヨーロッパで壁にぶち当たったら、超えるか、やめるかどっちかだ。

低くて薄い壁には、ちんけな宝物しか埋まっていない。

とほほ

今日、フランスのレンタカー会社からスピード違反のメールが届いた。
7月のものだ。
90km制限のところを96kmで光ったようだが、気付かなかった。45ユーロ
円換算はやめておく。

今の世の中は便利になって、スマホのアプリで送られてきたPDFファイルのQRコードで読み取り
クレジットカードで払うだけ。
昔は郵便で着て、気が付かなかったらどんどん値上がりしたが
世界は狭くなりなんとも便利な世の中になったものだ。

世界選手権ー23

ー23の世界選手権を土蔵の大型TVで観戦した。
現地にいるよりもよくわかる。

現地で監督をしていた時などは、ラジオツールもレースが終わったら優勝者の名前すら言わないことがあったから、落車があったときなどは結果を知るのがその日ホテルについてからであったりしたものだ。
現場とは、そういった一面もある。

ベルギーが威信をかけてレースをコントロールして、ベルギーが追わなかったらスイスのクリステン選手が優勝していたと思う。

ベルギーの失敗はクリステン選手がアタックした時についていく選手がいなかったことだ。
この選手のアタックは切れが良く、実際ついていけた選手はいなかったかもしれないが、逆に彼の失敗はベルギーの選手を連れて行かなかったこと。そして、やはり残り50kmは独走するには遠すぎた。
しかし、ー23のカテゴリーはあくまでも登竜門であり、最終ゴールではない。

そういった意味で、ベルギーの散った走りもクリステン選手もいいアピールの場になったと思う。

日本の2選手は中盤まで健闘したが、ー23のカテゴリーのトップ選手はエリートのUCIの上のカテゴリーでも優勝している選手達であり、日本のレースをどんなに勝ってもヨーロッパのスピードには対応できるはずもない。

私も引退前の2012年に世界選手権を走らせてもらった時はアジアで稼いだUCIポイントで選んでもらえたが全く歯が立たなかった。

スピードの次元が違う。


サンクチュアリ 聖域という相撲のドラマをネットフリックスで見た。
その中のセリフに
「常識を逸脱した異常なところに見えてくる世界がある」
このドラマはプロスポーツの常識を逸脱した厳しさをうまく表現している。

今回、若い命が失われた。
このような事故があるたびに心が痛む。

ミュリエル=フラー選手の冥福をお祈りいたします。

健康を崩した話

おととい、無性に炭焼きのホルモンを食べたくなり夕刻に火を起こして
裏庭で焼き肉をした。

それは家族で楽しく終わったのだけど、翌日朝食後からめまいがして
武士の間、と言われている私のくつろぎスペースのハンモックで休もうとしたら
ハンモックに乗った1分後に吐き気を催し、それから畳の上で3時間ほど
吐きながら横になって辛い時を過ごしました。

家族に心配をかけましたが、今は元気になりました。

教訓 生焼けのホルモンに注意
   気分が悪いときはハンモックに乗ると余計気分が悪くなる時がある。

妻がしょうがを含ませたアルコールで体を拭いてくれたり、看病してくれました。
普段はかなり人使いが荒い妻ですが、助かりました。
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健康は崩さなければありがたみは分かりませんね。

県内の参勤交代

塩尻の免許センターに今年来るのはもう6回目ぐらいであろうか?
今回は妻の車の免許発行の為に訪れた。
いつもは自分事で来るので緊張しているが、今日は気楽なもので逆に人間観察なんかしてみると
なかなか面白い。(普段面白いなどと思ったことは全く一度もないが)


20代前後の若者たちがちょっと緊張した面持だったり
チャラい若者が罰ゲームの最中だったり
うっかりしたおっさんが仕事の合間に来てみたり
免許を返納したら困るまじめな老人が、まだまだいけるんやけどなぁ 俺ってほんまにあかんのやろか?
と思いながら、社会人の終盤の責任を果たしに来ていたり

まあ、とにかく多種多様な人達が強制的に参勤交代の様に参上させられてきている姿も面白い。

もう忘れてしまったが、20歳の時に私もここで免許を取った。
最初の免許をもらった時は、それなりに嬉しかったと思う。
もうすでに33年の時が経過している。

などと、塩尻の免許センターで若者の姿にかつての自分を投影させてノスタルジーにはまっている53歳のおっさんでした。

今日はついでに長野市の入国管理センターにも行ってきたのであるが、とにかく遠い。
遠くから赴いているので優しく対応してくれるのであるが、今更ながら県庁所在地は県の真ん中あたりにあってくれた方がありがたい。
往復350kmはやはり遠すぎる。
根羽のあたりの人なら400kmを超える。
東京都に行くのとそんなに変わらない。
松本にあたりが妥当かと8851380b-5e77-4998-b9c1-f580bb043f71

大器早成の時代

7月上旬は中国からフランスにわたり、10名の選手の滞在先とチームとの段取りを済ませて帰ってきた。レースの合間に7月7日ツールドフランスのトロワステージを選手を観戦に連れて行った。
(3名の選手は翌日レースなので行かずに残った)
トロワに行くのは久々だった。ブリヂストンに所属していた時代にトロワのスポーツ施設に滞在する話があり行ったのと、パリトロワという今ではUCIのレースであるが、昔はトップアマチュアのレースのゴール地点になっていていたが、実際往復してみると遠かった。

私はレース観戦にはあまり気が進まなかった。

選手はレースに来ているのであり、観戦に来ているわけではない。
しかし、選手が見たがってることと、やはり世界の最高峰のレースを見る機会は今後そうないことを考えて連れて行った。

レース観戦を終え、翌日のエリートレースは結果が出なかった。
選手には「お前たちがポテトを食って観戦している間、選手たちは200km走り最高のケアを受けて、最高の休息をとり、給料をもらっている。お前たちは練習せずに、疲れて、ちゃんとしたものも食べなかった。自分の目標とする選手達との差は今日も広がったことを自覚してほしい」と伝えた。

そのツールドフランス、ポガチャルの走りはフランクが「馬鹿」と日本語で言っていたが、常識を覆す走りだった。
今までのセオリーから外れた走りで、後半に崩れるのではないかという予想を完全に裏切って、完全勝利を遂げた。

そういった意味では今までのツールが霞むほど、今年のツールは面白かった。
最終ステージのタイムトライアルでも安全策を取らずに、攻めてステージを取りに行く後ろ姿をハラハラしながら観戦した。

猫の子一匹がすべてをぶち壊す。
狂った観客一人の乱入ですべてが台無しになる危険性を感じながら、自転車ロードレースとは人々の良心の上に成り立っている競技であることを痛感した。

たとえば、サッカーのワールドカップを柵なし、入場料無料で行うようなものだ。
選手が大けがをする危険性をはらんである。

私も傍らに立ったツールも終了して、次はオリンピック。
暑い夏は終わらない。

柿も育っているし、選手もフランスで頑張っている。
登りの得意な渡辺選手が平地のレースで先日カテゴリー2で2位に入賞したのは嬉しいニュースだ。
翌日はエリートのレース(カテゴリー1)でまた洗礼を受けていた。
彼はツールを身に行くのは控えて、レースに備えていた選手だ。

今忙しいのは柿の摘果作業。
大きい実を作りためには、育ちの悪い実を切り落とすこと。
日が当たりすぎる実も焼けてしまうので切り落とす。
大概、上を向いていて日が当たりすぎる実は大きいのだが、他の実を大きくするために切り落とす。

大きな実を作るために


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妻の母探し

黄河湖畔レースに招待されたのは5月のゴールデンウィークが明けて1週間であった。
ちょうど草が伸び始めて、農業は忙しくなる時であったが、予定がぽっかりと1週間抜け落ちた5月の最終週から6月かけての間、中国のレースに行くことを決めた。
選手はすぐには集まらなかった。
即答した井村選手とフィリピンのマー君以外の応募はすぐに来なかった。
最終的に、マレーシアの元チームメイトのヨンリと彼の友人のジアチェン君の4人に中国の選手を加えた5名でチームが出来上がったのはレースの1週間前であった。

同時に、このレースに参加するにあたってひそかに叶えたい夢があった。

妻、ルオンを5歳の時に生き別れた母に会わせられるかもしれない。
断片的な情報をつなぎ合わせると、極度の方向音痴であったお母さんは、ルオンが5歳の時にある日家を出て行方不明になったきり帰ってこなかった。
それまでも、何度か家に帰ってこないことがあったお母さんは失踪して、ルオンとお姉さんは親戚の家に預けられて、育てられた。
そこでは相当苦労したようで感覚的に身に着けた知識でおいしい野菜を作る妻は子供のころから、田んぼから畑、牛や豚の世話まで何でもこなして、学校にもろくに通えず育った。
私とは比べ物にならない苦労人である。

Iさんというおばあさんからのお母さんにまつわる1通の手紙が中国からベトナムの親戚の家に届いたのは3年ほど前だったという。
そして、Iさんとルオンのお姉さんが連絡をとっていたが、Iさんはベトナム語を話すが訛りがきつくてなかなか理解できない。
「怪しい情報で半信半疑」というのがベトナムの親族の印象であったようで、コロナも手伝って誰も中国まで事の真偽を確かめに行けなかった。

中国からの招待を得た時にふと思いついたのが、ルオンをお母さんに会わせられないか?という希望だった。もし、会えなかったとしても何か手掛かりになればいった甲斐があったと言えるのではないか?

ルオンをチームのスタッフに登録して中国のビザを取りに行った。
名古屋のビザセンターでは間に合わず名古屋に行った翌日、東京まで出向いた。

ビザを取りながら、お姉さんを通してIさんのWECHATのIDを教えてもらいコンタクトを取り始めた。
Iさんとの話も断片的で、ここに来てくださいと言われた地点は広州空港から200km離れた花園であった。そこまで電車を乗り継いで行くしかない。そこに行っても中に入れるかどうかわからないという。会えなかったら、どうしたら良いだろうか?
とりあえず、レースの後、広州へ2泊3日で行く計画を立てた。

Iさんの言葉をメカニックの楊さんに確認しても訛りが強く理解できなかった。
広東語がわかる梅丹時代のチームメイトでマレーシア人のヨンリが、広東語が流ちょうなダミアンを紹介してくれた。ヨンリは今回レースでは戦力にはならなかったが大活躍してくれた。

ダミアンさんに間に入ってもらい電話をかけてもらった。ダミアンも「金の話ばかりで怪しい」という。ダミアンの提案でおばあさんの知っている若い女の人Hさんを紹介してもらい、そこから話が徐々にクリアになってきた。
広州空港は遠いのでシンセン空港に来てくれと言われたが、すでに広州にチケットをとってある。
無理行って、その女性Hさんに片道4時間の道を迎えに来てもらう事になった。
広州に飛ぶ前日に私はルオンに「このIさんは怪しいのではないか?」と話すと、ルオンは逆上した。
お姉さんも怪しいといっているし、ダミアンも怪しいと言っている。
車に乗ったが最後、拉致されることもあるかもしれない。
車の写真を撮って、グループチャットに流していつでもSOSが出せるようにしておこう。
しかし、ルオンはこのおばあさんは悪い人ではない。といって聞かない。

人を信用することに対して慎重なルオンであるが、母親に会いたい気持ちが強すぎて、
人が沢山いる食堂で怒って席を立つほど、怒りをあらわにした。

広州について無事荷物を受け取り、待合せの場所に行くと、Hさんが満面の笑みで迎えてくれた。会った時にこの人は悪い人ではないと直感で感じた。しかし、念のため私は車の写真を撮りグループチャットに流した。

雨でぬれた路面の4時間を超える車での移動中。ルオンとHさんはずっと仲良さそうに話していた。

とにかく山奥で近くには店も何もないという話であったが、近くの町はホテルもこぎれいでホテルの前にはおいしい海鮮料理の店があり、屋台では臭豆腐やレモンの生絞りジュースの店がたくさん並んで若者が夜遅くまで楽しんでた。


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Hさんのおすすめの店で夕食を食べていると、Hさんが男の子二人を連れてやってきた。6歳と2歳の男の兄弟はやんちゃ盛りで、Hさんは翌日、お母さんに会いに行くのも帯同してくれるが、子供を見てくれる人がいないので、一緒に連れて行ってもよいかと聞く。もちろん了承した。

生絞りレモンを屋台で飲みながら、嫁と話をしていると近所が騒々しい。
ガタイがいいおばさんが大声でけんかをしている。
けんかかと思って見ていたが、どうやら酔っぱらって声が大きくなっただけのようだった。
ダイナミックで平和な町である。

私はタイにあるような山岳民族の集落に泊まる覚悟で来たので少し拍子抜けである。

翌日、7時に起きて車でHさんとお母さんに会いに行く。
これはドラマのような瞬間なので、再開の瞬間を動画に収めたいと思っていた。

妻は助手席、私はHさんの子供に挟まれて後部座席。
車は田園風景の中の細い道を穴や石や枝を避けながら進んでいく。
昨日も感じたがHさんはあまり運転が得意ではなく、広州空港まで行くのは大冒険だった。

どんどんと道が細くなり、Hさんはそこら辺の人に道を尋ねながら進むが、どの人もベトナム語を理解する人が多い。
ベトナム人が率が高い集落だ。
ちなみにベトナム国境からは400kmほど離れている。

そして、おかあさんの家についた。
お母さんは雨の中家の前に立って待っていた。

お母さんとルオンの30年来の再会のシーン。
私は両隣の子供が寝ていて車から降りられず、決定的な瞬間を逃した。
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お母さんは目に涙を溜めてルオンの手を握って離さなかった。

ルオンもどこまで理解できているかわからないがお母さんの言葉を真剣に聞いて頷いている。
会話は中国語でそれにまだ覚えているベトナム語がちょっと混じった会話であったが、娘には何となく理解できるようであった。Hさんも一生懸命通訳してくれていた。

家の前に漢字で福と書かれた紙が貼られた家は、小さく殺風景でガスもなかった。
お母さんは今のパートナーのおじさんと2人で住んでいた。

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パートナーのおじさんのはからいでお昼の準備が始まった。
途中の市場で買ってきた、レンギョのぶつ切りを囲炉裏で焼いての料理。

Iさんも土間でニンニクの茎を折り準備を手伝う。

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レンギョのY字の骨を避けながら食べた。
ニンニクの茎の料理は美味しかった。
私はHさんお子供たちを連れだして散歩したり、椅子で眠ったりしながら過ごした。
お母さんの家は小さいが周囲には大きな家もあり、池には食用のアヒルがガーガーと騒いでいた。
雨期なのか、そこら中に苔が生えていて、コンクリートが滑って何度か転びそうになった。
暗い家の中から、鶏が時たま通る扉の外をボーと見て過ごした。

うつらうつらしていると、Hさんが珍しく口論している場面があった。
後で聞いてみると
意地の悪いおじさんの親戚が入ってきて、「いままで、お母さんを探さなかったことはおかしい。本当に娘なのか?」とか聞いたらしく。それにたいして、Hさんが「探したって探しようがないじゃない」怒ってしまったようだ。

6時間ほどたったころ、子供たちも眠くなり、駄々をこね始めたので帰ることにした。

ルオンがおじさんにお金を渡そうとするとお母さんが「そんなに渡さなくてもいい」といって制止したらしい。

そのおじさんに逆にもらった福と書いた赤い小袋には、しわくちゃなお札が12元分はいっていた。
お客には12元を渡す風習があるらしい。
その袋が気に入って、お金もとっておこうと思ったがルオンがHさんの子供たちにお金を渡すときに使ってしまった。
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ルオンはもっといたかったに違いないが、Hさんも帰らなくてはならないし、私たちもHさんなしでは来ることも帰ることもできない。

最後にDNA鑑定用にお母さんの頭髪を10本以上抜いて袋に入れて持ち帰った。
毛根がついていたほうがいいと言って、結構激しく抜くので驚いたがお母さんは顔色一つ変えなかった。
DNA鑑定で証明して、お母さんをベトナムに連れてくるための資料作りに必要だという事だった。

パートナーのおじさんは、お母さんがベトナムに帰ることを理解してくれたが、お母さんは親戚に会いにベトナムには帰りたいがすぐにおじさんのいる中国に戻りたいと言う。

ホテルに戻ってから、2人を外食に招待することも考えたが、おじいさんもタクシーを呼べないし、お母さん夫婦の普段の足であるおじさんが運転するバイクも連日の雨で道が滑りやすくて使わないほうが良いということで断念した。

後でルオンに失踪の原因を聞いてみるとどうやら、美人で騙されやすかったお母さんはルオンが6歳のころ町でいい仕事があるからと声をかけられて、ついていってしまったようだ。
そしたら、国境を越えて中国まで連れていかれて、ひどい仕事を強要され、断ると殴るけるの暴行を受けた。そして、お母さんは体を壊し生死の境をさまよった。
そんな時に、運よく現在パートナーのおじさんと出会って、体も治療してもらい、現在に至っている。Iさんというおばあさんは、そのように連れてこられたベトナム人を支える人で、お母さんのたどたどしい記憶からなんとか住所を割り出して手紙を送ってくれたようだ。

アジア中で拉致は起こっている。そして、家族が泣き寝入りするしかない状況も普通に存在している。ルオンの母探しはその氷山の一角であった。

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子供はHさんの息子。最後は眠くなってダウン。

レースではルオンは補給食作りから、ボトルの補給まで精力的にこなしてくれた。
自転車に対する理解が前よりも少し得られるようになったかな?

皆様もこのような経験ありませんか?

パスワードを設定して、その場でメモをとらずにその日の夕方、どうしてもパスワードが思い出せなくなった。
最後につ(TSU)が入ったのだけ覚えていても、何の役にも立たない。

自分の記憶力のなさを嘆きながら、致し方なくパスワードを再設定する。

メールアドレスを設定して、8桁以上の英数字を両方含む文字列。何にしようかと天井を見ながら考えた時にどうしても思い出せなかったパスワードが脳裏にうかぶ。


思考の同じ回路を使えば、意外と記憶力がよみがえる。ことは前から気が付いていたんだけど


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