2009年04月
2009年04月29日
アタック体制から一転サマ村に下る〜冬虫夏草事件〜

4月25日、再び上部キャンプへ。今回の目標はキャンプ2(6400M)での宿泊、つまり荷揚げと高度順応だ。しかし、出発前夜に我が隊のシェルパから「このまま山頂アタックしないか」と提案。マナスル登山が開始して、未だ2週間たらず。「それはまだ早い。体が高所にまだ慣れていない。このまま突っ込むにはリスクが多い。もう少し高所順応したほうがいい」と意見させて頂いたが、シェルパ頭のダワ・タシが「キャンプ1とキャンプ2の間を登り降りするのは雪崩のリスクがある。キャンプ2で二泊して低酸素に体を順応させてからそのままキャンプ3(7500M)に向かって翌日に頂上にアタックしたほうがいい」と。言うのは簡単だけれど4月中に8000Mの世界はまだまだ寒い。強風が吹き荒れれば手足の指などすぐに凍傷にやられる。下手をすれば指切断となる。しかし、我が隊は無酸素ではなく有酸素隊だ。酸素ボンベの助けがある。いささか乱暴かもしれないが、キャンプ2に二泊し、そこで強引に順化活動を間に合わせ、そのまま山頂アタックすれば、何度も昇り降りを繰り返すよりも体力的な消耗も少ない。また確かに雪崩のリスクも減る。またヒマラヤ遠征は肉体的、精神的な苦痛に対して粘りが必要とされるが、その時の体調によって粘れる時と粘れない時がある。今回は長期戦よりも短期の方がいいのではと一瞬心が揺らぎ、シェルパの申し出に「それも一つのアイディア」とし、「YES」とも「NO」とも断言せず「状況によって判断すべし」とした。

ベースキャンプでの食事風景
朝食でラーメンを食べる
25日、キャンプ1泊。相変わらず眠りにつくとズキズキと頭が痛む。高所順応が今一つスッキリしない。26日、キャンプ2へ。この日は早朝から風が強く天候が不安定。午前10時には雪が降りだし、ただでさえ荷揚げで荷が重いのに一歩一歩が憂うつになる。それでも4時間足らずでキャンプ2に到着。シェルパ達はそのまま山頂アタックに入ると思い込んでいて「明後日はアタックだ」と盛り上がっている。すぐに「今回、アタックするとはいっていない」と告げたら「えっ?」と顔をしているので、もう一度「それも一つのアイディアだ、といっただけで必ずしも行くとは言っていないよ」と、そうしたらキョトンとしながら「はぁ〜そういうこと・・・」とどうやら私の指示は回りくどいようで微妙な真意は伝わっていなかったようだ。

キャンプ2への道

雪の中、キャンプ2へ進む

キャンプ2は雲の上
それでもNOと断言しているわけではないので「明日の朝、体調が良ければアタック体制に入るの?」と聞いてくるので「その可能性はある」とだけ伝えた。要するに迷っていたのである。寝袋の中で「迷ったまま突っ込んでいいのか」と自問自答していた。最終キャンプから酸素ボンベを使用するかといってもこの短期間で突っ込むのはいささか乱暴すぎる。それにどうせキャンプ2の夜も頭痛に苦しめられるだろうと、そうなれば山頂アタックは厳しいだろうと思っていた。ようするにアタックしない理由をどこかで探していた。しかし、これがこれがキャンプ1まで頭痛に苦しんでいたのが嘘のように頭がすっきり。6000Mを超えてからのほうが体調が良いではないか。とっ言う事は・・・。

氷壁を回り込んで登る

キャンプ2にて

キャンプ2 テントからの景色

荷揚げする我が隊シェルパのニマ・カンツァ
しかし、夜中から風が激しくなり一時間もしないうちにテントが雪で埋まってしまう。そしてとにかく寒い。テント内でもマイナス15度まで下がった。外では強風が荒れ狂い、その風をまともにくらえば体感温度はさらに下がるだろう。「山頂アタックは次回かその次のタイミングにしよう」と当たり前と言ったら当たり前だが、分かっていても時に迷ってしまうもの。僕もまだまだ甘いというか、これだからいつまでたっても二流の登山家でしかないと妙に納得。

雪でテントが埋まっていく

キャンプ2 テントからの景色

キャンプ2に到着後バッタンキューの平賀
ちゃんとシェルパを説得しなきゃと、そして朝を迎えシェルパ達に「この風のなか、最終キャンプに向かうのはリスクがある。それに時期がいささか早い。5月に入ってからアタック体制に入ろう。したがって今日はベースキャンプに降りる」と今度は明確に伝えた。てっきり反対意見がでるかと思いきやシェルパが「この風で登るのはクレイジーだ。テントも吹き飛ぶ。早くベースキャンプに降りよう」と下山のための荷造りをしながらケロッとしたものだった。みな早く登ってカトマンズに帰りたいのだ。ただ焦っちゃいけない。一か八かに賭けて突っ込まなくて良かったと胸を撫で下ろしていた。「ベースキャンプで数日間休もう」と、また「気分転換含めサマ村まで降りて休養するのも悪くない。ちょっと、ここんところ煮つまっていたからな」と平賀カメラマンと話しながら降った。

ベースキャンプに向かって降りる

ベースキャンプ裏では一日中、滝のような雪崩が発生した
この時、まさか本当にサマ村に降ることになろうとは思いもしなかった。しかも事件として。
無事にベースキャンプに生還しお茶を飲んでいたら野口隊のコックであるペンバがサマ村の村人二人に連行?されサマ村へと降っていった。「なに、なに?」とダワ・タシに事情を聞いたが突然のことで誰も事情を把握できていない。ただ、よくよく聞けば「ペンバが冬虫夏草を密漁した疑惑」とのこと。「なんじゃそれ!」とさらに聞き取り調査を行えばペンバがベースキャンプ付近でどうやら散歩をしていて、その様子をみた村人が期間限定(年に一月)でしか捕ってはならない冬虫夏草をペンバが捕っていたと理解し拘束しに来たのだ。ダワ・タシに「ペンバのやったことは本当か?」と聞けば「彼はやっていない。歩いていただけだ」とのこと。それで「ペンバはどうなっちゃうの?」と聞いて驚いたのが罰金5万ルピー(約8万円)と鞭打ちの刑とのこと。この「鞭打ちの刑」に心底驚いた。イスラム国家や北鮮じゃあるまいし、まさかこのネパールにそのような野蛮な処罰方法があるとは思いもしなんだ。
ベースキャンプについたままで疲れていたが、そんな事は言っていられない。ダワ・タシとペンバ奪還のため急いでサマ村に降る。夕方、ヘロヘロになりながらサマ村到着。途中、至る所に花が咲いており、2週間ぶりの土に感動していた。やっぱり土はいい。ペンバには悪いがしばしお花とたわむれていた。

久々のお花に感動
夜、20時、お寺にてペンバ事件に関し村人と話し合いが行われた。私がその場に行くと村人の表情からは「あれっ!野口隊のシェルパだったのだ!」と驚きと戸惑いが読み取れたが、こっちも本気である。11年間私を支えてきたペンバを助けなきゃいけない。他の登山隊のサーダ(シェルパ頭)も加わり我が方に約20人の援軍をつけた。しかし、なんでまあ〜サマ村で学校建設が始まった矢先に彼らと争わなきゃならないのか、真っ青な顔をしているペンバに「お前はやっていないな」と厳しく問い詰めたが彼は最後までやっていないとキッパリ。それならばサマ村の村人であろうが、自分のスタッフを信じ戦わなければならにと腹を括るしかなかった。
まず村人に対し「ペンバが冬虫夏草なるものを捕ったという明確な証拠を示して頂きたい」と注文をつけた。それに対し「証拠はない」とのこと。「証拠なしに何故に拘束したのか」「それではペンバが冬虫夏草を捕った瞬間を目撃したもの、またその事実を証明できるものは前へ出てきてもらいたい」「疑惑の根拠は?」と。結局、誰もペンバの疑惑を証明できない。我が方も一歩も下がれない。どうやらペンバが下を向きながら歩いていたのを目撃した村人が密漁していると勘違いしたようだった。

「冬虫夏草」盗掘疑惑についてのミーティング
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左が村人・右が野口隊側
途中から村人同士が口論となり、村の長老が「冬虫夏草を捕ったのも確認しないまま村の若い者がペンバを呼び出して申し訳なかった。野口隊のシェルパとは知らなかった。この事で学校建設を中止しないでほしい」と、やはり村人は私のシェルパと知ってバツが悪そうであった。もちろん、それに対しては「これと学校はあくまでも別件。学校建設は心配しないでほしい。ただ、私のスタッフを拘束するのならばそれなりにちゃんとした根拠を示して頂きたい」と最後にそう注文をつけてペンバは無事に釈放された。上部キャンプでは高山病で頭が痛く降りてきたら楽になるかと思いきやペンバの冬虫夏草事件の方が遥かに頭が痛んだ。最後は村人と握手して仲直りできたのが救いであったが、いやはや、なんとも疲れました。
せっかく降りて来たのでここサマ村で数日休みベースキャンプに戻る予定。今日、残念な情報が入る。我々がキャンプ2で強風によって下ることを決断していた頃、山頂を目指してキャンプ3に向かっていたイタリア隊が悪天候で身動きとれなくなり隊員一名が死亡。キャンプ2にデポしてある我が隊の酸素ボンベを救急用にイタリア隊に提供したが間に合わなかった。残念ですがこれもまた山です。
2009年4月28日 サマ村にて 野口健
2009年04月26日
キャンプ2より電話連絡あり
マナスル 野口隊より日本時間19時9分 電話連絡ありました。
本日、無事キャンプ2に到着。今晩、キャンプ2に泊まり、様子を見て、明日、キャンプ3に向けて出発するとの事です。
音声ファイルはこちらから
「えーっと、えーっとですね、今日キャンプ2に到着しました。えー、26日ですね。キャンプ2に着いてから、雪が降って、今、やっと雪がやみました。ここから、風が出てきて、厳しそうかなというような状況ですが。とりあえず、今日泊まってみて、体調がどうなるかと、高山病というのは、寝てる時にかかるので。とりあえず、今日泊まってみて、明日、体調が良ければ、キャンプ3まで行くということですね。まだ4月中なので、4月中に7000m超えると、まだ寒いかなという気がしますけどね。状況見ながら、行けるなら行きたいと思うしね、ぎりぎりかなと思うけどね。そのような状況です。
体調は僕も平賀カメラマンも問題なく、あとは、今晩どうなるかというとこでしょうか。
今日、●●隊が最終キャンプに向かってあがって行きましたけど、ちょっと天気が悪くて、最終キャンプまでは届かなかったと、明日、そこから、最終キャンプ手前から最終アタックできるかできないかということらしいですけどね。
まあ、僕らは、キャンプ2でこの先を判断したいと思ってます。とっても寒いですが、頑張ります。」
野口健事務所
本日、無事キャンプ2に到着。今晩、キャンプ2に泊まり、様子を見て、明日、キャンプ3に向けて出発するとの事です。
音声ファイルはこちらから
「えーっと、えーっとですね、今日キャンプ2に到着しました。えー、26日ですね。キャンプ2に着いてから、雪が降って、今、やっと雪がやみました。ここから、風が出てきて、厳しそうかなというような状況ですが。とりあえず、今日泊まってみて、体調がどうなるかと、高山病というのは、寝てる時にかかるので。とりあえず、今日泊まってみて、明日、体調が良ければ、キャンプ3まで行くということですね。まだ4月中なので、4月中に7000m超えると、まだ寒いかなという気がしますけどね。状況見ながら、行けるなら行きたいと思うしね、ぎりぎりかなと思うけどね。そのような状況です。
体調は僕も平賀カメラマンも問題なく、あとは、今晩どうなるかというとこでしょうか。
今日、●●隊が最終キャンプに向かってあがって行きましたけど、ちょっと天気が悪くて、最終キャンプまでは届かなかったと、明日、そこから、最終キャンプ手前から最終アタックできるかできないかということらしいですけどね。
まあ、僕らは、キャンプ2でこの先を判断したいと思ってます。とっても寒いですが、頑張ります。」
野口健事務所
野口隊より電話通信あり
マナスルの野口隊より日本時間17時49分電話連絡ありました。
電話報告は以下の通りです。
<野口>
えーっと、今日キャンプ1まで上がってきました。今日、突然、キーンと冷えてきて、空気もだいぶ乾燥してきました。
えー、キャンプ1まで上がってきましたが、雪が相当固くしまってきました。おととい、絢香さんとのコンサートの中継の時はドカ雪だったので・・・
ベースキャンプでも10分か15分おきにひしめいて、どんどんどんと(雪崩の)爆音が響いて、ここは何なんだと思って過ごしてました。
明日、キャンプ2に向かって行きます。
キャンプ1からキャンプ2が一番雪崩の危険が多いので、早めにキャンプ2に向かいます。
こちらはそんな感じです。
体調はいいです。昨日の夜、ウイスキー飲んだのはいけなかったかな。
そんな感じです。ではでは。
途中、聞き取りにくい部分があり、内容の詳細が分からない部分がありますが、ご了承ください。
明日早朝より、キャンプ2に向けて出発する予定です。
野口健事務所
電話報告は以下の通りです。
<野口>
えーっと、今日キャンプ1まで上がってきました。今日、突然、キーンと冷えてきて、空気もだいぶ乾燥してきました。
えー、キャンプ1まで上がってきましたが、雪が相当固くしまってきました。おととい、絢香さんとのコンサートの中継の時はドカ雪だったので・・・
ベースキャンプでも10分か15分おきにひしめいて、どんどんどんと(雪崩の)爆音が響いて、ここは何なんだと思って過ごしてました。
明日、キャンプ2に向かって行きます。
キャンプ1からキャンプ2が一番雪崩の危険が多いので、早めにキャンプ2に向かいます。
こちらはそんな感じです。
体調はいいです。昨日の夜、ウイスキー飲んだのはいけなかったかな。
そんな感じです。ではでは。
途中、聞き取りにくい部分があり、内容の詳細が分からない部分がありますが、ご了承ください。
明日早朝より、キャンプ2に向けて出発する予定です。
野口健事務所
2009年04月25日
アースデー・コンサート
2009年4月22日、武道館にてコスモ石油とTOKYO FM主催による「コスモ アースコンシャス アクト アースデー・コンサート」が行われ歌手の絢香さんが出演。そのコンサート会場とここマナスルのベースキャンプとで衛星中継を行った。キャンプ2から降りてきた次の日で朝からヘロヘロ。平賀カメラマンが朝から中継のテストを行い頑張ってくれた。ヒマラヤからの中継もだいぶ慣れたがそれでも無事に繋がり本番が終了するまではハラハラドキドキ。なんせ強度に寒い所なので電池の消耗が激しく落ちたり、低酸素なので発電機が動かなかったりと直前まで必死。前回のマナスルでの中継も直前に真横で雪崩が発生しアンテナに雪がかぶり中継が一時ストップしたこともあった。まあ〜場所が場所ですから色々あります。

アースデーコンサートで中継の様子
アースデー・コンサートとヒマラヤからの中継はこれで8回目(エベレスト6回・マナスル2回)。そして今回は絢香さんとでした。今まではヒマラヤからの中継のみで日本サイドの出演者とお会いしたことがなかったが、それが今回はなんとも嬉しく、また驚いたい事に2月に東京で行われた私の講演会に絢香さんがいらっしゃった。
それをきっかけに次は3月14日に絢香さんと浦安市・明海小学校で6年生の児童約90名と一緒に苗木を植えようという主旨のもと、当日は、朝から強い雨と風が吹くという悪天候にも関わらず決行された。雨の中、嫌な顔ひとつせず子どもたちと一緒に手を泥だらけにしている彼女の姿がなんとも素敵でした。特に感動的だったのが最後、子どもたちが私たちに歌を歌ってくれたくれたのだが、それに感動した絢香が近くにあったピアノを演奏しながら子どもたちに歌い、それを聞いている女の子が涙を流していた。

その絢香さんとこのマナスルで中継を結ぶ。当日は朝から雪が降り全身が芯から冷え切っていたが、絢香さんの声を聞きながらあの学校での出来事を思い出したら心が温まっていた。出会いとは実に素敵なものです。このような機会を与えてくださったコスモ石油の小宮山さんにも感謝です。
さて、こちらは明日から再び上部キャンプを目指します。まずはキャンプ3(7300M)を目指し、そこから先はまたその時の状況によって判断しますが、ただ、雪崩のリスクを想定すれば、そうあまり昇り降りを繰り返したくもなく、さて、どうなりますでしょうか。ちゃんと無事に帰国して絢香さんのコンサートに行きたい。それでは淡々と行ってきます。

出発前夜に愛用のピッケルを磨く
2009年4月24日 マナスル・ベースキャンプにて 野口健

アースデーコンサートで中継の様子
アースデー・コンサートとヒマラヤからの中継はこれで8回目(エベレスト6回・マナスル2回)。そして今回は絢香さんとでした。今まではヒマラヤからの中継のみで日本サイドの出演者とお会いしたことがなかったが、それが今回はなんとも嬉しく、また驚いたい事に2月に東京で行われた私の講演会に絢香さんがいらっしゃった。
それをきっかけに次は3月14日に絢香さんと浦安市・明海小学校で6年生の児童約90名と一緒に苗木を植えようという主旨のもと、当日は、朝から強い雨と風が吹くという悪天候にも関わらず決行された。雨の中、嫌な顔ひとつせず子どもたちと一緒に手を泥だらけにしている彼女の姿がなんとも素敵でした。特に感動的だったのが最後、子どもたちが私たちに歌を歌ってくれたくれたのだが、それに感動した絢香が近くにあったピアノを演奏しながら子どもたちに歌い、それを聞いている女の子が涙を流していた。

その絢香さんとこのマナスルで中継を結ぶ。当日は朝から雪が降り全身が芯から冷え切っていたが、絢香さんの声を聞きながらあの学校での出来事を思い出したら心が温まっていた。出会いとは実に素敵なものです。このような機会を与えてくださったコスモ石油の小宮山さんにも感謝です。
さて、こちらは明日から再び上部キャンプを目指します。まずはキャンプ3(7300M)を目指し、そこから先はまたその時の状況によって判断しますが、ただ、雪崩のリスクを想定すれば、そうあまり昇り降りを繰り返したくもなく、さて、どうなりますでしょうか。ちゃんと無事に帰国して絢香さんのコンサートに行きたい。それでは淡々と行ってきます。

出発前夜に愛用のピッケルを磨く
2009年4月24日 マナスル・ベースキャンプにて 野口健
2009年04月23日
マナスルは203高地か BC〜C1〜C2〜BC


キャンプ1の朝
サマ村の僧侶による安全祈願の翌日から晴天。キャンプ1手前まで登り鈍っていた体を少し動かせ幾分か気分的にも楽になった。そして4月19日、いよいよキャンプ1(5700M)へ向けてベースキャンプを出発。進行方向右側の斜面にデブリ(雪崩の跡)がいくつもあり、そのデブリの上を通過しなければならず、いまにも落っこちてきそうなべったりした雪の斜面をチラ見しながら進むしかない。キャンプ1手前の斜面では前日にロシア隊4名が雪崩に流されたデブリがきれいに残っていた。デブリの横に複数の人が走ってレスキューに向かってであろう足跡がいくつも残されてあり、その時の緊迫した空気が再現されているかのようであった。


ベースキャンプからキャンプ1へ向け出発


雪崩の瞬間 雪崩の跡(デブリ)
その現場付近から富士山クラブ森の学校に衛星電話を入れる。なにしろこの日はNPO法人富士山クラブ創立10周年記念で関係者や会員など約200人が富士山に集合し清掃活動を行っていた。清掃後、森の学校に集まっている所に私が衛星電話で会場とトークするというわけだ。私なりに一生懸命喋ったつもりだが、息が「ハァーハァー」と、また酸欠の影響なのか、脳の回転が遅いようで自分でも何を喋っているのかよく分からず。ただ、富士山クラブを支えてくださった多くの皆さんに心から心底、感謝していました。そして日々現場でゴミと格闘している舟津氏はじめ富士山クラブのメンバーと一緒に活動を続けてこられたことを誇りに感じている。10周年記念イベントであるにも関わらず自分が富士山にいられないことがとても残念ですが、こうしてヒマラヤという遠い地にいても、日本の皆さんと気持ちは同じ。どうか、これからも富士山クラブをよろしくお願いします。


キャンプ1はまだかなぁ〜 もうすぐでキャンプ1
ベースキャンプを出発して約5時間、無事にキャンプ1入り。しかし、天候が再び崩れ雪。テントの中でじっと過ごすのだが、なんせ寒い。歯を磨くのだが、口に入ってくる凍てついた大気で歯がキーンと沁みる。寝袋の中でマン丸になりながら眠りについたら今度は頭痛で目が覚める。高山病さんがいらっしゃったのだ。ベースキャンプですら4日間連続して頭痛。

キャンプ1到着
キャンプ1からのマナスル峰通常、私は4000mの標高では高山病にはかからないのだが。まあ〜高山病はその時の体調によってかなり左右されるもので、今回はかなり苦しめられています。高山病の頭痛は激しく苦しい。風邪による頭痛の痛みとは異なり、分かりやすく説明すれば脳の中心が爆発し両耳の穴、または鼻の穴から脳みそ、脳水が噴水の如く噴き出すようなもの。つまり、めっちゃめっちゃ痛いわけです。バファリンをかじり痛みを殺すのだが、あまり飲みすぎると今度は胃を痛める。特に寝ている時に酸欠に陥りやすい。なぜなら寝ている時は呼吸のペースが落ちてしまうので、寝ている時に高山病になり頭痛で目が覚めるのは日常茶飯事。したがって数時間おきに目を覚まし、頭をプルプルと振って様子をうかがう。そして呼吸を整え全身を確認し不具合がなければ眠るのだが、今度は呼吸が止まっている自分に気がついて「うわぁ!」と飛び起きる。そしてしばし「ゼーゼー、ハァー、ハァー」と目ん玉が飛び出しそうなほど息が荒れる。

極寒のキャンプ1

極寒ゆえに歯まで凍りつきそう
「ガンガンガン」と頭痛が来る度に相手をしていたら、奴らがつけあがるだけだろうと、しばらく「ガンガンガン」を無視する。しかし今度は「コンコンコン」と奴らが脳をノックしてくる。それでも無視していたら「野口さん、いるのは分かっているんですよ!はい、野口さん、はやく開けてくださいよ、ほら、ほら」とまくし立ててくる。まったくもって達が悪い連中で「お前らは借金取りかぁ」とその執念深さにこちらが先に白旗を上げてしまう。
そしてやっとこさ眠りについたと思ったら今度は「ドドドー」と爆音に飛び起きる。寝ぼけながらB29による夜襲かと唯一武器になりえるピッケルを探しながら身構えるが雪崩の音だ。テントから顔を出しどこで発生したか探すのだが真っ暗闇で分かるはずもない。やれやれと再び寝袋に潜り込みウトウトしだすとまた「ドドドー」とまるで迫撃砲が着弾したかのような爆音。振動がテントにまで伝わってくるので、そう遠くない場所だろう。私はこのマナスルほど雪崩多発地帯を知らない。高所の夜は実に忙しいのだ。

マナスルとモーニングティー
「マナスルは雪崩の山」と韓国隊のキムさんが話していたが本当に雪崩の山。平賀カメラマンとも「もし俺らがここでやられるとすれば雪崩だろう」と話し合っていた。山頂を目指すのならば、一時足りとも雪崩の恐怖から逃れやしない。なにしろベースキャンプにもやってくるのだから。
ただ、これも考えようであるが、ヒマラヤのチベット、ネパール国境付近にあるナンパラ峠では中国の国境警備隊が越境しようとしているチベット人を女子供であろうが、いとも簡単に狙って撃ってくるが、雪崩はあえて我々を狙うわけではなく、雪崩が流れる場所にたまたま居るか、居ないかである。そう考えれば自然よりも人間のほうがよっぽどおぞましく怖い。

一歩一歩登るしかない
4月20日、頭痛と雪崩の爆音のため、ほとんど寝られないまま朝を迎える。頭は痛かったがテントからの景色にハッとさせられカメラを取り出しパシャリと収めていた。しばしその美しい世界に酔いしれていた。私ももとは写真部出身。あの朝日とピッケルの写真もいいでしょ。これでもなかなかの腕前なんですよ。この日は一日キャンプ1周辺をノンビリと歩いたり、また平賀カメラマンと下らない話をしたりと比較的優雅に過ごした。それにしても男二人、暇つぶしに話す内容とやら、いやはや、なんとも卑猥なものです。

龍さんのピッケル

標高6000Mにおいても平賀カメラマンのGPSうんちくは続く
4月21日、やはり頭痛と雪崩の音で寝不足。しかし、いつまでもキャンプ1で過ごしても仕方がないので重たい腰に鞭をうちキャンプ2を目指す。アイスフォール地帯はいつ巨大な氷の塊が崩れて落ちてくるか分からないので、ハラハラドキドキさせられるが、そのうち緊張するのにも疲れ果て、そして「来るなら来やがれ!俺は逃げも隠れもせんぞ!」と逆切れ。逃げるくせにね。まあ〜人間なんてそんなものです。


キャンプ1からキャンプ2へのルート 前へ前へ
キャンプ1から雪崩多発地帯を横に横切らなければならない個所があり、ここばかりは気をつけようもなく、来るときにはちゃんと来る雪崩コースであり、我々が通貨している最中にやってくれば二人ともあっという間に飲み込まれ終りとなる。「おい、平賀、ここは上を見ないで何も考えずに急いで通過しよう」と声をかけたら彼もそれなりに緊張している様子だったので、もう一度振り返り「おい、平賀!もしもの事があったら次は靖国で会おう」と伝えたが、しかし奴はキョトンとした表情のまま「???」と無反応。私と彼とでは世代が違ったのかもしれない。いずれにせよキャンプ1〜キャンプ2間はいつでもどこでも雪崩が起きうる。そしていずれも気をつけようがない。確実に雪崩に遭遇しない手段があるとするのならばマナスルに近づかないこと、それしかない。マナスルと203高地がだぶってしまうのは気のせいか。
表現の違いはあるものの、お互いにしっかりとその事に関し覚悟していた。

クレパス地帯を超える

キャンプ2到着
いくつもの氷壁、ブロックを越え、またクレパスを飛び越え、着実に一歩また一歩とキャンプ2へと登り続けた。そしてキャンプ1から3時間15分でキャンプ2(キャンプ2)に到着。思っていたよりもよいスピードにシェルパのカジも「ボラサーブ(隊長)、これならいけるよ」と、まあ〜それほどでもないが、ただここに来るまでの道中を共にしたカジからすれば、あの状況からよくここまで回復したなぁ〜と心底感じたに違いない。なんせ、本人がそれを一番感じ、また驚いているのだから。ベースキャンプ入りしてから一週間でキャンプ2まで到達できたのは我ながら満足。


ベースキャンプに下る(左に平賀 右に野口) 吹雪の中の下山

もうすぐでベースキャンプだ・・・
天候が再び怪しくなり急いで下山開始。17時頃、雪に降られながらもベースキャンプまで戻ってきました。「満身創痍」まさにこのマナスル挑戦にはこの言葉が似合う。久々に必死な自分の姿にあの学生の頃にエベレストと格闘していた頃を思い起こした。初心に戻れると思えば、またあの不調にも意味があったわけです。全ての事に意味があると解釈し明日からまた精一杯生きていきたい。

朝日に照らされるマナスル峰(キャンプ1から)
2009年4月22日 マナスルベースキャンプにて 野口健
2009年04月19日
「マナスルの女神がほほ笑んだ?」
あれっ、雪が止んだ!そう、サマ村の僧侶が安全祈願を行ってくれた直後に雪がピタリと止んだ。4月18日、朝から晴天。久しぶりの爽やかな朝。そして久しぶりにゆっくりと雪を意識しないで朝まで眠ることができた。


「淳、今日はここまで。ベースキャンプに降りるぞ!」


後ろにマナスル峰
朝、テントから顔を出し真っ青な空を確認し、すぐに「お〜い!淳!起きろ!今日は歩くぞ!」と平賀カメラマンのテントに向かって大声を出していた。なにしろずっとジッとしていたので体がなまって仕方がない。うっぷんも溜まっていたのかもしれない。また体を動かさずに同じ姿勢でじっとしていると腰痛になる。キャンプ1手前まで気持ちよく氷河の世界を楽しんだ。昨日までの悪天候が嘘のようだった。ただ、急激に温度が上昇していたのと、昨日までのドカ雪と、雪崩が発生しやすい状況だったので斜面には近づかなかった。したがってキャンプ1手前2時間ほどの場所で引き返した。その直後、ロシア隊の4名がキャンプ1直下の場所で雪崩に流されたとのこと。幸いな事に自力で脱出でき助かったが、しばらく雪崩には要注意。

一歩一歩、この繰り返し


先はまだまだ遠い 雪の砂丘
明日は雪の状況を見ながらキャンプ1を目指す。キャンプ1に宿泊し、次の日に余力が残っていればキャンプ2手前まで高度を稼ぎたい。
明日は山梨県の森の学校で「富士山クラブの10周年記念イベント」が開催されますが、舟津氏から「マナスルから電話ちょうだい」とお願いされているので、なんとなんとキャンプ1に登っている最中に衛星電話をかける予定。「ハーハー」言いながら電話しますが、怪しまないでね。
2009年4月19日マナスルベースキャンプにて 野口健

平賀カメラマンのサングラスを鏡に日焼け止めを塗る

後ろにマナスル峰


「淳、今日はここまで。ベースキャンプに降りるぞ!」


後ろにマナスル峰
朝、テントから顔を出し真っ青な空を確認し、すぐに「お〜い!淳!起きろ!今日は歩くぞ!」と平賀カメラマンのテントに向かって大声を出していた。なにしろずっとジッとしていたので体がなまって仕方がない。うっぷんも溜まっていたのかもしれない。また体を動かさずに同じ姿勢でじっとしていると腰痛になる。キャンプ1手前まで気持ちよく氷河の世界を楽しんだ。昨日までの悪天候が嘘のようだった。ただ、急激に温度が上昇していたのと、昨日までのドカ雪と、雪崩が発生しやすい状況だったので斜面には近づかなかった。したがってキャンプ1手前2時間ほどの場所で引き返した。その直後、ロシア隊の4名がキャンプ1直下の場所で雪崩に流されたとのこと。幸いな事に自力で脱出でき助かったが、しばらく雪崩には要注意。

一歩一歩、この繰り返し


先はまだまだ遠い 雪の砂丘
明日は雪の状況を見ながらキャンプ1を目指す。キャンプ1に宿泊し、次の日に余力が残っていればキャンプ2手前まで高度を稼ぎたい。
明日は山梨県の森の学校で「富士山クラブの10周年記念イベント」が開催されますが、舟津氏から「マナスルから電話ちょうだい」とお願いされているので、なんとなんとキャンプ1に登っている最中に衛星電話をかける予定。「ハーハー」言いながら電話しますが、怪しまないでね。
2009年4月19日マナスルベースキャンプにて 野口健

平賀カメラマンのサングラスを鏡に日焼け止めを塗る

後ろにマナスル峰
2009年04月18日
「ベースキャンプにて神頼み」
相変わらず夜は雪下ろし、雪かきで熟睡できず。昨夜もあまりの雪にテントが潰れてしまうのではないかと不安な一夜でした。朝は雪がやみ少しだけ青空が見え歓声が上がる。太陽が出ているうちにシェルパのダワタシと一緒に洗濯。とっ、その時、突然、レスキューヘリがベースキャンプに飛んできた。聞けばサマ村で一緒に過ごしていたイタリア隊員が足を負傷し救助されたのだ。ヘリに乗せられ、あっという間にカトマンズに向けて去っていく様子に「いいなぁ、あいつは命拾いしたなぁ〜一時間もしないうちにカトマンズかぁ〜」といったような声が聞こえてきたような気がしたが、なんのことはない、情けないことに声の主は自分であった。


ベースキャンプ全景
洗濯屋のけんちゃん?
そして昼はお隣の韓国隊を招いて昼食会。キムチ鍋の元を日本から持ってきていたのでキムチ鍋をご馳走したら「日本人に韓国料理をご馳走になるなんて!」と大そう喜んでくれた。ヒマラヤに来る度に韓国隊と仲が良くなる。李さんともエベレスト清掃で一緒に活動したり、気がつけば96年のチョーオユー登山からずっと韓国隊とのお付き合いが続いている。それにしても韓国隊の勢いは凄まじい。この春もネパールにある8000メートル級の山、全てに韓国隊が入っているとか。8000メートル14座全てに登頂した韓国人登山家は3名(ちなみに日本人はゼロ)。そして韓国隊は若手が目立つ。日本では山岳部離れが進み、ここヒマラヤにおいても日本隊といえば60歳以上がメインとなっている。それはそれで凄いことですが、やっぱり若手が極めて少ないのが寂しい限りです。日本人と韓国人とではガッツが違う。「気合い」という表現は日本ではもう古いのかもしれないが、今の日本にこそ必要な言葉ではないだろうか。

韓国隊とのお食事会

龍さんのピッケルと共に
午後に突然、サマ村からお坊さん二名がこの雪道の中、ベースキャンプに上がってきた。わざわざ、我が隊の安全祈願のために。雪が降る中、ブルーシートで屋根をつくり安全祈願が行われた。千数百メートルを登ってくるのはさぞかし大変であっただろうに、本当に頭が下がる思いだった。サマの村人は本当に親切だ。これでカトマンズを含めると3回目の安全祈願。日本を発つ直前に靖国神社でも安宣祈願を行ったし、やるべきことはやった。


ベースキャンプでの安全祈願
ベースキャンプの周辺では雪崩のドドドーとまるで爆音のような音が一日中響き渡っています。今もテントに打ち付ける雪の音を聞きながらこのブログの原稿を書いています。これがマナスルなのでしょう。焦ったところで、どうにかなるわけでもなし、まあ〜気長に構えるしかないです。こうゆう山で焦りは禁物。下手に突っ込むと雪崩で持っていかれてしまう。流れが変わるまでジッと待つ。忍耐力が必要となりますが、こんなこともあろうかと日本から小説など本を何冊も持ち込んでいるので天候が回復するまでは気長に本でも読むことにします。日本にいてはあり得ない時間の過ごしかた。考えてみたら好きなヒマラヤでのんびりと読書、これ最高の贅沢じゃないですか。さてと、トルーマン・カポーティの「冷血」でも一気に読むとしますか。
2009年4月17日 マナスル・ベースキャンプにて野口健


ベースキャンプ全景

洗濯屋のけんちゃん?
そして昼はお隣の韓国隊を招いて昼食会。キムチ鍋の元を日本から持ってきていたのでキムチ鍋をご馳走したら「日本人に韓国料理をご馳走になるなんて!」と大そう喜んでくれた。ヒマラヤに来る度に韓国隊と仲が良くなる。李さんともエベレスト清掃で一緒に活動したり、気がつけば96年のチョーオユー登山からずっと韓国隊とのお付き合いが続いている。それにしても韓国隊の勢いは凄まじい。この春もネパールにある8000メートル級の山、全てに韓国隊が入っているとか。8000メートル14座全てに登頂した韓国人登山家は3名(ちなみに日本人はゼロ)。そして韓国隊は若手が目立つ。日本では山岳部離れが進み、ここヒマラヤにおいても日本隊といえば60歳以上がメインとなっている。それはそれで凄いことですが、やっぱり若手が極めて少ないのが寂しい限りです。日本人と韓国人とではガッツが違う。「気合い」という表現は日本ではもう古いのかもしれないが、今の日本にこそ必要な言葉ではないだろうか。

韓国隊とのお食事会

龍さんのピッケルと共に
午後に突然、サマ村からお坊さん二名がこの雪道の中、ベースキャンプに上がってきた。わざわざ、我が隊の安全祈願のために。雪が降る中、ブルーシートで屋根をつくり安全祈願が行われた。千数百メートルを登ってくるのはさぞかし大変であっただろうに、本当に頭が下がる思いだった。サマの村人は本当に親切だ。これでカトマンズを含めると3回目の安全祈願。日本を発つ直前に靖国神社でも安宣祈願を行ったし、やるべきことはやった。


ベースキャンプでの安全祈願
ベースキャンプの周辺では雪崩のドドドーとまるで爆音のような音が一日中響き渡っています。今もテントに打ち付ける雪の音を聞きながらこのブログの原稿を書いています。これがマナスルなのでしょう。焦ったところで、どうにかなるわけでもなし、まあ〜気長に構えるしかないです。こうゆう山で焦りは禁物。下手に突っ込むと雪崩で持っていかれてしまう。流れが変わるまでジッと待つ。忍耐力が必要となりますが、こんなこともあろうかと日本から小説など本を何冊も持ち込んでいるので天候が回復するまでは気長に本でも読むことにします。日本にいてはあり得ない時間の過ごしかた。考えてみたら好きなヒマラヤでのんびりと読書、これ最高の贅沢じゃないですか。さてと、トルーマン・カポーティの「冷血」でも一気に読むとしますか。
2009年4月17日 マナスル・ベースキャンプにて野口健
2009年04月17日
「マナスルの女神はお怒りか」
4月14日、やっとこさベースキャンプ入りを果たし、喜んでいたのもつかの間、その夜から永遠と雪・雪・雪。時より雲の合間からマナスル峰が顔を表すのだが、それも一瞬のこと。マナスル峰は積雪量が多いのは最初から分かっていたことだが、それにしても、いやはや・・・。テントの中でゆっくりとくつろいでいたらいきなり「シャー」とまるでシャワーか滝に当たっているかのような音に慌ててテントを飛び出すと雪というよりも霰(あられ)に近いのかなぁ〜。そして30分もしないうちにテントが雪の重さで潰れかかるので雪下ろしにテントの両サイドの雪掘り。一段落してテントに戻り「ふぅ〜」とテルモスからお茶を出して飲みほし、寝袋に潜り込み体を温めているうちに再びテントが雪で押しつぶされていく。「クソー」と再び雪かき再開。トホホ、一晩中、この繰り返しです(涙)


過酷極まるマナスルの洗礼
翌朝、我が隊のテントを確認したらみな無事であった。「コールマンよ、よくぞ耐えてくれた」と我がテントを撫で撫でしていた。気の毒な事に他の隊はテントを潰していたりした。

いやはや、あ〜あ・・・

雪下ろしに追われる
先に山に入っていた韓国隊と昼食を共にしながらここ最近のマナスルの天候を聞いたら凄まじかった。彼らは3週間ほど前からマナスル登山を開始していたが、キャンプ1、キャンプ2に設置したテントが雪に埋まってしまい、辺り一面を掘り続け数時間してようやく埋まっていた自分たちのテントを発見したがテントポールがグニャグニャに曲がり、そして部分的に折れていたとのこと。ベースキャンプから先は腰まで雪に浸かり、キャンプ1まで10時間以上を費やしたとか。そして4月8日にベースキャンプの真横で雪崩が発生し国際隊のテントが数張り押しつぶされ、30メートル離れている韓国隊のテントも雪崩による爆風で飛ばされかけたと。幸いな事に被害はテントだけで済んだと、ただ心底、雪にうんざりしている韓国隊隊員の表情を眺めながら「これは雪との厳しい戦いとなるなぁ〜。おい、淳、それなりにしっかりと覚悟しよう」と平賀カメラマンと腹をくくるしかなかった。韓国隊のキムさんの「マナスルでは1972年に韓国隊が雪崩で15人も犠牲者をだした。マナスルは雪崩の山だ。お互い気をつけよう」の一言に空気がズシリ。

眠れない永い夜
なにが辛いかと言えば、夜中であろうが、30分おきに雪下ろしをしなければならず、眠ってしまわないように本を読みながらテントの中で待機する。本は小林マネージャーに勧められた「冷血」。展開は最初からゾクっとする暗さ。この天候にピッタリ?

雪かきの合間に本を本を読む
2009年4月16日 マナスル・ベースキャンプにて野口健


過酷極まるマナスルの洗礼
翌朝、我が隊のテントを確認したらみな無事であった。「コールマンよ、よくぞ耐えてくれた」と我がテントを撫で撫でしていた。気の毒な事に他の隊はテントを潰していたりした。

いやはや、あ〜あ・・・

雪下ろしに追われる
先に山に入っていた韓国隊と昼食を共にしながらここ最近のマナスルの天候を聞いたら凄まじかった。彼らは3週間ほど前からマナスル登山を開始していたが、キャンプ1、キャンプ2に設置したテントが雪に埋まってしまい、辺り一面を掘り続け数時間してようやく埋まっていた自分たちのテントを発見したがテントポールがグニャグニャに曲がり、そして部分的に折れていたとのこと。ベースキャンプから先は腰まで雪に浸かり、キャンプ1まで10時間以上を費やしたとか。そして4月8日にベースキャンプの真横で雪崩が発生し国際隊のテントが数張り押しつぶされ、30メートル離れている韓国隊のテントも雪崩による爆風で飛ばされかけたと。幸いな事に被害はテントだけで済んだと、ただ心底、雪にうんざりしている韓国隊隊員の表情を眺めながら「これは雪との厳しい戦いとなるなぁ〜。おい、淳、それなりにしっかりと覚悟しよう」と平賀カメラマンと腹をくくるしかなかった。韓国隊のキムさんの「マナスルでは1972年に韓国隊が雪崩で15人も犠牲者をだした。マナスルは雪崩の山だ。お互い気をつけよう」の一言に空気がズシリ。

眠れない永い夜
なにが辛いかと言えば、夜中であろうが、30分おきに雪下ろしをしなければならず、眠ってしまわないように本を読みながらテントの中で待機する。本は小林マネージャーに勧められた「冷血」。展開は最初からゾクっとする暗さ。この天候にピッタリ?

雪かきの合間に本を本を読む
2009年4月16日 マナスル・ベースキャンプにて野口健
2009年04月15日
「念願のマナスル・ベースキャンプ入り」
午前8時、サマ村出発。サマ村に一週間滞在しゆっくりと休養できたおかげで体調も一時の比べると幾分か良い。村中から村人(ポーター)が集まり総勢53人、一人30キロをベースキャンプまで運び上げてくれた。途中から完全に雪道となり、サクサクと快適に進む。あの灼熱地獄のキャラバンが嘘のようだ。やっぱり私の体は寒冷地仕様になっているようです。4000メートル超えた辺りから冗談も飛び出した。昼食は平賀カメラマンお決まりのベビースターラーメンを二人で分け合って食べる。14時過ぎ、ベースキャンプ(4670M)に到着。


4000メートル超えたら元気が出て来たぞ


マナスル全景

もうちょっとでベースキャンプ

ポーターが集まる 僕も担ぎたいよぉ〜

ひょうきんなポーターさん

我々の荷を運んでくれたサマ村の村人

平賀くんとベビースターラーメンを頂く
ただし、一気に1300メートルの標高を上げるのもなかなか乱暴でベースキャンプについてから平賀カメラマンとしばらく頭がボケーと集中力もなく、この原稿を書くのも精一杯。明日になればもう少し高所順応ができているかな。これから数日間、ここベースキャンプで低酸素に慣らしてキャンプ1を目指したい。いよいよヒマラヤ登山開始です。

ベースキャンプ到着!
雪景色のベースキャンプ

寒い寒いベースキャンプ
2009年4月14日 マナスル・ベースキャンプにて野口健


4000メートル超えたら元気が出て来たぞ


マナスル全景

もうちょっとでベースキャンプ

ポーターが集まる 僕も担ぎたいよぉ〜

ひょうきんなポーターさん

我々の荷を運んでくれたサマ村の村人

平賀くんとベビースターラーメンを頂く
ただし、一気に1300メートルの標高を上げるのもなかなか乱暴でベースキャンプについてから平賀カメラマンとしばらく頭がボケーと集中力もなく、この原稿を書くのも精一杯。明日になればもう少し高所順応ができているかな。これから数日間、ここベースキャンプで低酸素に慣らしてキャンプ1を目指したい。いよいよヒマラヤ登山開始です。

ベースキャンプ到着!
雪景色のベースキャンプ

寒い寒いベースキャンプ
2009年4月14日 マナスル・ベースキャンプにて野口健
2009年04月13日
マナスル基金・村人に学校建設の説明を行う
マナスル・富士山同時清掃活動を無事に終了し次はマナスルベースキャンプ入りに向けた準備に取り掛かる。サマ村滞在は一週間と長期になりましたが、なんだかんだでバタバタ。日中はサマ村にあるチベット仏教のお寺で再び安全祈願を行った。御寺の中で座禅していると心が安らぐものです。また祈るという行為は同時に自然に対して謙虚にもなる。心が乱れては命取りとなるのがヒマラヤ登山。


お経を唱える僧侶(ラマ)


安全祈願を行う

そしてマナスル基金による学校建設ですが、資材の調達に苦労している。なにしろ全て人力であり、カトマンズから資材を運ぶといっても私がキャラバンしてきたあの街道を人力で運び上げなければならない。特に手に入らないのが柱となる木材。サマ村の対岸には村人によって植林され育てられてきた森がある。村の規則によってそれらの木の伐採は禁じられているが、ビルバートル校長が「建設される学校は村の共有財産だ。村人の理解が得られれば特別に許可されるかもしれない」と、夜に村人を集め理解を求めた。私も同席しマナスル基金に至った経緯や、教育の必要など、また村人もこの学校建設に対し一緒に活動してほしいなどお話した。約2時間による意見交換会が行われたが、村人の森に対する強い愛情に驚かされた。「大切な森だが、学校の為なら村人は喜んで提供する。しかし、他の人がどさくさ紛れて木を切らないようにみんなで監視しよう!」と相成ったわけです。
話し合いは真っ暗な部屋で行われ、最初目が暗さに慣れていなく近くしか見えなかったが、目が慣れてくると暗闇の中からたくさんの村人の姿が現れた。なんとも言えない世界が展開され、果たしてここが21世紀?とタイムスリップしたような不思議な空間でした。


村人に学校建設の説明を行う


村人との座談会 説明を聞く村人
ただ、本当の僻地であるがゆえに村人はとっても純真無垢。教育機関を充実させ発展させたいと同時にこのピュアーな世界を残したいと感じていた。さて、明日からベースキャンプです。それでは、またです。
PS 明日(4月14日)の東京FM(全国ネット)「クロノス」という番組に出演しますのでよかったら聞いてみてください。
2009年4月13日 サマ村にて 野口健


お経を唱える僧侶(ラマ)


安全祈願を行う

そしてマナスル基金による学校建設ですが、資材の調達に苦労している。なにしろ全て人力であり、カトマンズから資材を運ぶといっても私がキャラバンしてきたあの街道を人力で運び上げなければならない。特に手に入らないのが柱となる木材。サマ村の対岸には村人によって植林され育てられてきた森がある。村の規則によってそれらの木の伐採は禁じられているが、ビルバートル校長が「建設される学校は村の共有財産だ。村人の理解が得られれば特別に許可されるかもしれない」と、夜に村人を集め理解を求めた。私も同席しマナスル基金に至った経緯や、教育の必要など、また村人もこの学校建設に対し一緒に活動してほしいなどお話した。約2時間による意見交換会が行われたが、村人の森に対する強い愛情に驚かされた。「大切な森だが、学校の為なら村人は喜んで提供する。しかし、他の人がどさくさ紛れて木を切らないようにみんなで監視しよう!」と相成ったわけです。
話し合いは真っ暗な部屋で行われ、最初目が暗さに慣れていなく近くしか見えなかったが、目が慣れてくると暗闇の中からたくさんの村人の姿が現れた。なんとも言えない世界が展開され、果たしてここが21世紀?とタイムスリップしたような不思議な空間でした。


村人に学校建設の説明を行う


村人との座談会 説明を聞く村人
ただ、本当の僻地であるがゆえに村人はとっても純真無垢。教育機関を充実させ発展させたいと同時にこのピュアーな世界を残したいと感じていた。さて、明日からベースキャンプです。それでは、またです。
PS 明日(4月14日)の東京FM(全国ネット)「クロノス」という番組に出演しますのでよかったら聞いてみてください。
2009年4月13日 サマ村にて 野口健
マナスル・富士山同時清掃 富士山スタッフレポート
4月12日、マナスル・富士山同時清掃が行われた。同時清掃が行われたマナスルふもとのサマガオンと富士山、どちらも快晴のなか行うことができた。昨年同様、富士山清掃隊長は女優の若村麻由美さん。第1回目から、毎年、富士山清掃隊長を務めてくれている若村さんもすっかり、隊長が板に着いているようだ。


はればれとした天気の中、清掃活動開始
富士山側は、147名の一般募集の方々が参加してくれた。今年も全国から集まり、インドで清掃活動を行ってきたジャマイカ人の方も参加した。どんどん、インターナショナルになってくる。今年の清掃場所は、精進湖近くの樹海。富士山クラブが創立して10年。私たちも、富士山クラブとともに、富士山の清掃を行ってきましたが、数年前に比べ、参加者が激増。ご存じのとおり、5合目から上の富士山は本当にきれいになった。登山客が自発的にごみを拾いながら登っていく様も珍しくなくなった。そこで、清掃ポイントを富士山裾野に広がる樹海に移して行ってきたが、樹海もどんどんきれいになり、この様子だと清掃も必要なくなるのでは!!などと思ってウキウキしていた。しかし・・・・・
今日の清掃場所を見て、私たちは本当にうんざりしてしまった。とても取りきれないゴミが一面に埋まっているではないか。約30年前のごみで、一斗缶、空き缶、トタン、便器などなど・・・富士山清掃活動が本格的に行われる夏では、このあたりは、草が生い茂り、とてもなかには入れない状態になるそうで、この時期しか、清掃を行うことができないのだ。掘っても掘ってもごみが出てくる・・・


元環境政務官の北川知克先生も一般参加してくれました
約2時間弱の清掃で大量のゴミを集めることができた。清掃現場は、横長に約300メートル広がっている。集めてごみをトラックが止めてある市道まで運ばなくてはいけないのだが、これに相当の時間がかかった。全員が横一列になり、ごみをバケツリレーで運ぶ。運んでも運んでも、全然ごみが減らない。ゴミ袋にはいらず、粗大ゴミにあたるトタンや一斗缶などが多いこともあり、少しづつしか運べないのである。すでに清掃終了時間もオーバーしていることから、泣く泣く、回収したごみすべてを運ぶことを断念。次回の富士山クラブでの清掃活動時に、このごみの回収もしてもらうこととなった。それでも、トラックで運んだごみは、1.5トントラックで3回分。約4.5トン(総重量1870kg)のごみの回収を行うことができた。


バケツリレーでごみを運ぶ
10年間、年に数十回、富士山清掃活動を行っている富士山クラブでも、回収したごみを運べずに樹海に置いてきたことは過去に1回だけ。とても残念な結果となったしまった。しかし、これだけのごみがまだまだ樹海に埋まっているということは、やはり、われわれの活動も終わりでないという事。次回の清掃に向けて、ますますの意欲が湧いてきた。
その後のヒマラヤ・サマガオン村の野口隊とのテレビ電話での通信が行われるため、一同富士山クラブ「もりの学校」の講堂に集合。何度か、電話のベルがなるが、なかなか繋がらない・・・若村隊長の顔にも不安が広がる。何回目かのベルの後、
みんなの「繋がれ!!」という願いが届いたのか、テレビモニターに野口隊長の顔が大きく映し出され、講堂に歓声が上がった。野口隊長からサマガオンでのごみに対する村人の対応や今日の清掃活動の成果の報告などを聞いた。


ヒマラヤとのテレビ中継も無事行われました
富士山清掃活動においては、ここ数年でかなりの変化を見てきた。数年前は、本当になかなか人が集まらず、苦労したこともあったが、ここ1・2年では、応募が集まりすぎて、お断りしている状態。ぱっと目に見えての汚れた富士山の姿は、どんどんなくなっていった。ネパールでも、シェルパ達が自主的にヒマラヤの清掃活動を始めたり、サマガオンというネパールのなかでも特に小さく貧しい村でも、ごみのルールを作り、自分たちの生活を変えている。私たちがやってきたことが、成果となって表れていることに、改めて、感慨深い思いを感じた。
野口健事務所
はればれとした天気の中、清掃活動開始
富士山側は、147名の一般募集の方々が参加してくれた。今年も全国から集まり、インドで清掃活動を行ってきたジャマイカ人の方も参加した。どんどん、インターナショナルになってくる。今年の清掃場所は、精進湖近くの樹海。富士山クラブが創立して10年。私たちも、富士山クラブとともに、富士山の清掃を行ってきましたが、数年前に比べ、参加者が激増。ご存じのとおり、5合目から上の富士山は本当にきれいになった。登山客が自発的にごみを拾いながら登っていく様も珍しくなくなった。そこで、清掃ポイントを富士山裾野に広がる樹海に移して行ってきたが、樹海もどんどんきれいになり、この様子だと清掃も必要なくなるのでは!!などと思ってウキウキしていた。しかし・・・・・
今日の清掃場所を見て、私たちは本当にうんざりしてしまった。とても取りきれないゴミが一面に埋まっているではないか。約30年前のごみで、一斗缶、空き缶、トタン、便器などなど・・・富士山清掃活動が本格的に行われる夏では、このあたりは、草が生い茂り、とてもなかには入れない状態になるそうで、この時期しか、清掃を行うことができないのだ。掘っても掘ってもごみが出てくる・・・
元環境政務官の北川知克先生も一般参加してくれました
約2時間弱の清掃で大量のゴミを集めることができた。清掃現場は、横長に約300メートル広がっている。集めてごみをトラックが止めてある市道まで運ばなくてはいけないのだが、これに相当の時間がかかった。全員が横一列になり、ごみをバケツリレーで運ぶ。運んでも運んでも、全然ごみが減らない。ゴミ袋にはいらず、粗大ゴミにあたるトタンや一斗缶などが多いこともあり、少しづつしか運べないのである。すでに清掃終了時間もオーバーしていることから、泣く泣く、回収したごみすべてを運ぶことを断念。次回の富士山クラブでの清掃活動時に、このごみの回収もしてもらうこととなった。それでも、トラックで運んだごみは、1.5トントラックで3回分。約4.5トン(総重量1870kg)のごみの回収を行うことができた。
バケツリレーでごみを運ぶ
10年間、年に数十回、富士山清掃活動を行っている富士山クラブでも、回収したごみを運べずに樹海に置いてきたことは過去に1回だけ。とても残念な結果となったしまった。しかし、これだけのごみがまだまだ樹海に埋まっているということは、やはり、われわれの活動も終わりでないという事。次回の清掃に向けて、ますますの意欲が湧いてきた。
その後のヒマラヤ・サマガオン村の野口隊とのテレビ電話での通信が行われるため、一同富士山クラブ「もりの学校」の講堂に集合。何度か、電話のベルがなるが、なかなか繋がらない・・・若村隊長の顔にも不安が広がる。何回目かのベルの後、
みんなの「繋がれ!!」という願いが届いたのか、テレビモニターに野口隊長の顔が大きく映し出され、講堂に歓声が上がった。野口隊長からサマガオンでのごみに対する村人の対応や今日の清掃活動の成果の報告などを聞いた。
ヒマラヤとのテレビ中継も無事行われました
富士山清掃活動においては、ここ数年でかなりの変化を見てきた。数年前は、本当になかなか人が集まらず、苦労したこともあったが、ここ1・2年では、応募が集まりすぎて、お断りしている状態。ぱっと目に見えての汚れた富士山の姿は、どんどんなくなっていった。ネパールでも、シェルパ達が自主的にヒマラヤの清掃活動を始めたり、サマガオンというネパールのなかでも特に小さく貧しい村でも、ごみのルールを作り、自分たちの生活を変えている。私たちがやってきたことが、成果となって表れていることに、改めて、感慨深い思いを感じた。
野口健事務所
マナスル・富士山同時清掃
4月12日、マナスル・富士山同時清掃活動が行われた。この同時清掃活動も今年で4回目。エベレスト2回、そしてマナスル2回。この同時多発清掃活動も恒例になりました。昨年だったか、確か一昨年もそうでしたが、富士山側にネパール人や中国人が参加していたことがあった。我ら日本人がネパールやチベットで清掃活動を行い、そしてネパール人たちが富士山で清掃を行う。これ、いいじゃないですか!こうして少しずつ活動の輪を広げることが大切です。清掃活動を続けながらいつも感じている事は地味な事を地味にやっていたら輪は広がらない。ヒマラヤと富士山の同時清掃活動が1つの話題を呼べばそれだけ清掃活動が注目されるわけで、そこに大きな意味があると思うんですね。


サマ村にて清掃開始!


子ども達に敬礼!
それだけにうっかりらしいですが、今回の同時清掃活動について私の事務所サイドがニュースリリーしていなかったのはとても残念。大きな反省材料を残しましたが、ただ、モニターから富士山参加者のお顔が見れた時はこちらサイドも「うわぁ〜」と歓声が上がりました。昨年も同じ感想ですが、この厳しいヒマラヤで活動しているとふと追い詰められたりしますが、こうして同じ時に富士山で仲間たちが一緒に汗を流していると思えば救われる。若村隊長も忙しいスケジュールの中で4年間も本当に頭が下がる思いです。富士山を若村隊長にお任せしているので私は安心してヒマラヤに専念することができる。


今日のサマ村清掃の成果は約200キロ。以前に比べたらもの凄く綺麗になっていた。初めてサマ村で清掃してから3年目。あれから村人が継続して清掃してきたのだ。次はマナスル峰から下山したら再び村人と一清掃を行います。

以前に比べたら綺麗になったサマ村
さて、明後日はマナスル・ベースキャンプ。いよいよ氷河の世界です。さて、どうなることやら。とにかく、毎日、毎日、その日を精一杯生きて、この流れの中をなんとか乗り切りたい。


月光に照らされるマナスル サマの夜景

雪が舞うマナスル峰
2009年4月12日 サマ村にて 野口健


サマ村にて清掃開始!


子ども達に敬礼!
それだけにうっかりらしいですが、今回の同時清掃活動について私の事務所サイドがニュースリリーしていなかったのはとても残念。大きな反省材料を残しましたが、ただ、モニターから富士山参加者のお顔が見れた時はこちらサイドも「うわぁ〜」と歓声が上がりました。昨年も同じ感想ですが、この厳しいヒマラヤで活動しているとふと追い詰められたりしますが、こうして同じ時に富士山で仲間たちが一緒に汗を流していると思えば救われる。若村隊長も忙しいスケジュールの中で4年間も本当に頭が下がる思いです。富士山を若村隊長にお任せしているので私は安心してヒマラヤに専念することができる。


今日のサマ村清掃の成果は約200キロ。以前に比べたらもの凄く綺麗になっていた。初めてサマ村で清掃してから3年目。あれから村人が継続して清掃してきたのだ。次はマナスル峰から下山したら再び村人と一清掃を行います。

以前に比べたら綺麗になったサマ村
さて、明後日はマナスル・ベースキャンプ。いよいよ氷河の世界です。さて、どうなることやら。とにかく、毎日、毎日、その日を精一杯生きて、この流れの中をなんとか乗り切りたい。


月光に照らされるマナスル サマの夜景

雪が舞うマナスル峰
2009年4月12日 サマ村にて 野口健
2009年04月11日
サマ村入り・学校建設現場視察
サマ村入りした日の夜からドカ雪が降り続け翌日は一日中テントの中で休息。今日ばかりは恵みの雪となりました。何しろ大雪のお陰で何もしなくていいのだ。一日中ボーと過ごせるなんていつ以来か。サマ村にはマナスル峰に挑戦する登山隊がわんさかたまっていた。我らの宿にもイラン人、ロシア人、グルジア人、イタリア人、チェコ人、そして僕ら日本人とインターナショナルだ。グルジア人は99年に僕がエベレストに登った時に一緒だった男で、20人のロシア隊に一人参加しているとのことで、久々の再会に抱き合ったりもしたが、そんなことよりも「ロシア人と一緒で大丈夫なの?こんな所で戦わないでよ」と聞いてみたらニヤッと笑いながら「殺しはしないよ」と。なにしろグルジア人はアツい。特にロシア問題となると全身で愛国心を表す。エベレスト清掃活動では4年間にわたり、グルジア人登山家ギーアと一緒に清掃活動を行ってきたが、ロシアの話題になると決まって「我々は決してロシアに屈しはしない」と最低一時間は演説をぶっていたものだ。そのギーアは一昨年から国会議員となり、それこそ昨年のロシア軍との一戦の時には張り切っていたそうな。


チベット文化を漂わせるサマ村


サマ村でのテーマはおもに3つ。1つは休養し体調を整えること。なにしろここからはマナスル登山が控えているわけで、ここが休むラストポイント。次に12日に行われる富士山との同時清掃。ここサマ村と富士山とで同時清掃活動を行い衛星中継で互いの活動報告を行う。そして最後にマナスル基金による学校建設の現場視察と村人との細かな打ち合わせである。
9〜10日は雪の影響でテントの中でゆっくりとした。おかげで久々にブログも更新できたし、ただ、ちょっと愚痴が過ぎたかなと原稿を日本に送信してから反省。テントを持たずにキャラバンしたのは明らかにこちらの落ち度で、確かに山小屋はなかなかの代物であったが、エベレスト街道が極端に開発されているだけで、本来はこんなものです。そもそも雨漏り、ダニ、食中毒なんかを気にしていたら僻地での冒険活動は成り立たないわけですから。


サマ村からのマナスル峰,本当にこの山に登れるのだろうか
11日はマナスル基金で建設される学校の校長先生であるビルバートル氏と学校建設現場に向かった。途中、気がついたのが村にゴミが落ちていないことだ。3年前は至る所がゴミだらけでサマ村で村人を集めて一斉清掃を行ったらたかだか2時間たらずで5トンほど回収したが、今ではそのゴミが見当たらない。ビルバートルに聞いてみたら「ケン、あれから私たちは定期的にごみ拾いを始めた。2週間前も村人と一緒に清掃したばかり」と。それだけではない。驚いたのがマナスルのベースキャンプの清掃活動も行っており、登山隊が残したゴミのみならず、サマ村が独自ルールを作り各登山隊からお金を徴収し各登山隊のトイレを下ろすことを始めたとのことだ。ビルバートルが「ケンが3年前に来てマナスルでごみ拾いをしたことは村人にとって大きな出来事だった。そのケンが学校まで建ててくれる。私たち村人はこの3年間で大きくかわったよ」となんとも嬉しい言葉だった。こうゆう事なんだよ。これを求めてずっとヒマラヤで活動を続けてきたんだ。エベレスト清掃でシェルパ達が変わってきたように確かな変化があちこちで起きている。

学校建設現場で説明を受ける
ビルバートル氏と
学校建設現場はサマ村の入口付近の広い高原にある。マナスル峰も見渡せ、とても静かで美しい場所に、いよいよここで学校作りが始まるんだと胸がワクワクとときめいた。ビルバートル校長とカトマンズから派遣している建設会社のスタッフに図面を元にどのように建設していくのか事細かく説明を受けた。予定通りに進めば11月までに寮と教室に食堂とトイレは完成する。年内にこれが済めば来年はもう一棟、寮を建てる予定だ。そして校庭にサッカーやバレーボールができるグランド。図書室に保健室と、ヒラリー卿のようにこれから何年もかけて少しずつ充実させていきたい。優秀な教員の確保も大きなテーマとなる。そうすんなりと順調にプロジェクトが進むとも思っていない。まあ〜色々とあるでしょう。ただ、このプロジェクトには夢がある。

建設現場でプロジェクトの成功を誓う

図面を見ながら確認する
このマナスル登山を無事に終えたら、ヒマラヤでの活動は学校建設またシェルパ基金に縛り専念したい。

平賀カメラマン登場!
2009年4月11日 サマ村にて 野口健


チベット文化を漂わせるサマ村


サマ村でのテーマはおもに3つ。1つは休養し体調を整えること。なにしろここからはマナスル登山が控えているわけで、ここが休むラストポイント。次に12日に行われる富士山との同時清掃。ここサマ村と富士山とで同時清掃活動を行い衛星中継で互いの活動報告を行う。そして最後にマナスル基金による学校建設の現場視察と村人との細かな打ち合わせである。
9〜10日は雪の影響でテントの中でゆっくりとした。おかげで久々にブログも更新できたし、ただ、ちょっと愚痴が過ぎたかなと原稿を日本に送信してから反省。テントを持たずにキャラバンしたのは明らかにこちらの落ち度で、確かに山小屋はなかなかの代物であったが、エベレスト街道が極端に開発されているだけで、本来はこんなものです。そもそも雨漏り、ダニ、食中毒なんかを気にしていたら僻地での冒険活動は成り立たないわけですから。


サマ村からのマナスル峰,本当にこの山に登れるのだろうか
11日はマナスル基金で建設される学校の校長先生であるビルバートル氏と学校建設現場に向かった。途中、気がついたのが村にゴミが落ちていないことだ。3年前は至る所がゴミだらけでサマ村で村人を集めて一斉清掃を行ったらたかだか2時間たらずで5トンほど回収したが、今ではそのゴミが見当たらない。ビルバートルに聞いてみたら「ケン、あれから私たちは定期的にごみ拾いを始めた。2週間前も村人と一緒に清掃したばかり」と。それだけではない。驚いたのがマナスルのベースキャンプの清掃活動も行っており、登山隊が残したゴミのみならず、サマ村が独自ルールを作り各登山隊からお金を徴収し各登山隊のトイレを下ろすことを始めたとのことだ。ビルバートルが「ケンが3年前に来てマナスルでごみ拾いをしたことは村人にとって大きな出来事だった。そのケンが学校まで建ててくれる。私たち村人はこの3年間で大きくかわったよ」となんとも嬉しい言葉だった。こうゆう事なんだよ。これを求めてずっとヒマラヤで活動を続けてきたんだ。エベレスト清掃でシェルパ達が変わってきたように確かな変化があちこちで起きている。

学校建設現場で説明を受ける
ビルバートル氏と
学校建設現場はサマ村の入口付近の広い高原にある。マナスル峰も見渡せ、とても静かで美しい場所に、いよいよここで学校作りが始まるんだと胸がワクワクとときめいた。ビルバートル校長とカトマンズから派遣している建設会社のスタッフに図面を元にどのように建設していくのか事細かく説明を受けた。予定通りに進めば11月までに寮と教室に食堂とトイレは完成する。年内にこれが済めば来年はもう一棟、寮を建てる予定だ。そして校庭にサッカーやバレーボールができるグランド。図書室に保健室と、ヒラリー卿のようにこれから何年もかけて少しずつ充実させていきたい。優秀な教員の確保も大きなテーマとなる。そうすんなりと順調にプロジェクトが進むとも思っていない。まあ〜色々とあるでしょう。ただ、このプロジェクトには夢がある。

建設現場でプロジェクトの成功を誓う

図面を見ながら確認する
このマナスル登山を無事に終えたら、ヒマラヤでの活動は学校建設またシェルパ基金に縛り専念したい。

平賀カメラマン登場!
2009年4月11日 サマ村にて 野口健
2009年04月10日
サマガオンに到着
4月2日、カトマンズを発つ。キャラバンの玄関口であるアルガータ・バザール(570m)にポンコツバスで約8時間、口から臓器が飛び出すほどにガタンガタンとバスの側壁に体を叩きつけられながらの悪路が続いた。アルガータにたどり着いた時には平賀も僕もグタグタ。しばらくバスになんか乗りたくないと心底思った。

湿度とうだるような暑さに参る
ネパール時間7時からMBS(毎日放送)の生ラジオに衛星電話で出演。今回のテーマは「マナスル基金」だ。この3月からマナスル峰山麓のサマ村で学校建設がスタートしたが、その経緯などを中心に構成された。MBSの榛葉健ディレクターとはもう15年以上の付き合いだ。エベレストにも2回一緒に出かけている。野口健の裏表など、最もよく理解しているジャーナリストだ。その榛葉ディレクターが先月のフィリピンでの遺骨収集活動の際にも現地からの中継を含めた一時間番組を作ってくれた。フィリピンから帰国し録音されたそのラジオ番組を聞いたが、榛葉さんの「伝える」ことに対する熱意に、またその完成度のあまりの高さにただただ感心させられた。やはり本物は違う。
榛葉さんとはマナスル基金にしろ、シェルパ基金しろ、遺骨収集にしろ、なかなか表に出ない出来事を一緒になって伝えてきた。時に一緒に悩み、喜び、また喧嘩をしたりと、私の仲間です。ここまで取り上げてくださったMBS、そして榛葉ディレクターにとても感謝しています。

いつ落ちてもおかしくない橋
4月3日、キャラバン開始となったが、なにしろ標高が570メートル。暑いなんてものじゃない。そして湿気。あの灼熱地獄であったレイテとなんら変わらない。いや、レイテ顔負けかもしれない。途中、水田の横を通るが、この棚田を眺めながら我々が再生した佐渡島の棚田はどうなっているかなぁ~と佐渡島が恋しくなった。今年も夏に佐渡島でトキの餌場となる棚田造りを行いたい。

キャラバン開始・棚田に佐渡島を思い出す
エベレスト街道と異なりまったくといっていいほど観光開発されていないこの街道はある意味、リアルカルチャーだ。エベレスト街道に慣れたトレッカーは一度このリアルカルチャーに触れてみるもの悪くないだろう。ただ、ろくなロッジもなく、食堂といってもいやはや・・・食欲がなくなるだけだが。


髪を洗っている女性の後ろ姿にドキ!

街道での人々の営み
野口隊は36人のポーターにロバを11頭。先発隊は先に出発し、私と平賀カメラマンにシェルパ2名で後を追ったがテントも食料も全て先に行ってしまい、我々はバラックのような掘っ建て小屋に泊まらなければならず、屋根裏部屋が吾輩にあてられた部屋であったが、天井には巨大なクモがウジャウジャ。ギョっと驚き思わず殺虫剤を天井に吹きかけたら訳のわからない多種類の昆虫がボトボトと枕もとに落ちてきて心底参ってしまった。そして朝起きたら全身がダニに食われブツブツ。痒くて痒くて、ついでに頭まで痒くひょっとするとシラミ?

宿の入り口にて

私の寝室、ここで全身をダニに噛まれた
4月5日はタトパニ村泊。ここは温泉が湧く村で、タトパニとはネパール語で「お湯」を意味する。ネパールの地図を眺めていて気がつくのは所々にタトパニという同じ村の名前がある。シェルパに聞けばなんのことはない。温泉が出る村は全てタトパニ村とのこと。それならば日本中に「お湯」という同名の町で溢れるではないか。
そのいわゆる温泉もちゃんと清掃していないため不潔極まりなく、足だけつけたが、どぶの如く臭く、全身を温める勇気などなくそそくさと撤退。世界に出てみると改めて日本人は清潔好きなんだなぁ〜と気がつかされる。


タトパニ村の子ども達と 温泉があるのだが・・・
汗だくになりながらトボトボと歩いていると背後から平賀カメラマンが嫁さんに買ってもらったというGPSがさほど嬉しいのか、聞いていないのに自慢げに「え〜野口さん、私のGPSによりますと、マナスル山頂までは、残りの標高差は7500メートルとなりますねぇ〜」「残り7400メートル」「あっ、残り7500メートルに戻りましたねぇ、おかしいな〜あっ、そうか、そうか、さっき谷を降りたんだっけ」といちいち疲れる情報を嬉しそうに伝えてくれる。
途中、チベットから亡命してきたペマさん(37歳)と出会った。彼は日本語を学んでおり流暢な日本語で我々を見つけるや「あなた方は日本人?サマ村から少し先に進めばすぐにチベットます。中国兵はよくネパール側にやってきます。私たちの村にも入ってきて、ダライラマの写真を持っていたら捕まります。中国はネパールに圧力をかけて亡命者を捕まえようとしていますよ。ネパールは中国にいいなりです。中国は野蛮な国です。これからインド、アメリカに行って訴えたいです」と。もし彼の言葉に一つ付け加える言葉があるとするのならば「したたかで野蛮な国」ということになるのかもしれない。


ここまでくれば上がってくればチベット文化圏


4月7日、ダング村(1860M)までたどり着いたが、今年のネパールは乾季であるにも関わらず毎日が雨降り。カトマンズでも雨、雨、雨に雷。異常気象の現れか?ただでさえ雪が多いマナスル。ついつい雪崩のリスクについて考えてしまう。こればっかりはもうどうしようもなく運命といってしまえばそれまで。参ったのはポンコツ宿は雨漏りが酷く天井からボトボトと寝袋に雨水が落ちてくる。グチョグチョに濡れる寝袋ほど気持ち悪ものはない。劣悪な環境に寝不足も続き寝付けないのでヘッドホン付けたら八代亜紀の“雨の慕情”が流れてきて「あめ、あめ、もっとふれ〜」と「おい!おい!冗談じゃないぞ!」と大好きな曲であったがこの夜ばかりは耐えがたく、さだまさしの「防人の誌」を聞きながら頑張って寝た。203高地を舞台にした映画の主題歌であるが、この曲、高校生時代から聞き続けている私の最も好きな曲です。私はさだまさしさんの大ファーンであるが、つい最近、渋谷のNHKホールで行われた、さだまだしさんのコンサートに初めて行った。20年以上聞き続けているさだまさしさんの声を生で、しかも最後に好きな「風に立つライオン」と「防人の誌」を続けて聴け、これでもう思い残すこともあるまいと一人コンサート会場でウルウルしていたのを、この地の果てで、雨に濡れながら思い出していたが、やっぱりもう一度、もう一度、日本に還りたいと理屈抜きにひしひしと祖国を感じていた。俺はやっぱり日本が好きです。最期は日本で迎えたい。

ベースキャンプまでの道のりは長い


半分壊れかけている橋
8日、ついにサマ村に到着するわけだが、数日前から食事が喉を通らなくなり、下痢と吐き気に悩まされ、上から下から容赦なく噴射に手足の痺れ。とくに腸がねじれ切れるような激痛に悲鳴をあげた。水がいけなかったのか、それとも食べ物か。タトパニ村で魚の薫製がだされ恐る恐る匂いを嗅いだら卒倒するほどの代物で手を出せなかったが、シェルパ達が「臭いが問題ない」と何度も進めてくるので日本のクサヤのようなものかと少し口に入れたのがいけなかったのか、それともただただ疲れがピークに達していたのか、医者じゃあるまいし、原因など分からないが、ただひたすら腸を中心にシンドイ。情けないことに途中、土砂雨の中、シェルパに背負われ、この様子じゃ無理じゃないかと、ヘリでいったんカトマンズまで下ろすことまで検討されたが、ベースキャンプ入りすらできないまま終わるわけにはいかないと、とりあえずサマ村まで頑張ろうと一歩一歩進んでまいりました。
サマ村まで残り4時間ほどの所で上からパカパカと白馬が駆けてくるいではないか。よく見たらサマ村の村人たちで、なんと私の不調を聞きつけ迎えに来てくれたのであった。子どもの頃、6年間ほど乗馬を習っていたので久々の乗馬となったが、それにしても村人の優しい気持ちに心は満たされていた。サマ村は3390メートル。ここまで来ると雪の世界。さっそく大雪が降り雪景色。あれだけ暑かったのが嘘のようだ。このサマ村で休養をとり、4月12日は富士山との同時清掃。5日ほど休み体調を整えてベースキャンプを目指したい。


サマ村か白馬が迎えに来てくれた もうすぐサマ村だ

子どものころ乗馬を習っていたので、久々の馬の背中にわくわく
4月9日 サマ村にて 野口健

湿度とうだるような暑さに参る
ネパール時間7時からMBS(毎日放送)の生ラジオに衛星電話で出演。今回のテーマは「マナスル基金」だ。この3月からマナスル峰山麓のサマ村で学校建設がスタートしたが、その経緯などを中心に構成された。MBSの榛葉健ディレクターとはもう15年以上の付き合いだ。エベレストにも2回一緒に出かけている。野口健の裏表など、最もよく理解しているジャーナリストだ。その榛葉ディレクターが先月のフィリピンでの遺骨収集活動の際にも現地からの中継を含めた一時間番組を作ってくれた。フィリピンから帰国し録音されたそのラジオ番組を聞いたが、榛葉さんの「伝える」ことに対する熱意に、またその完成度のあまりの高さにただただ感心させられた。やはり本物は違う。
榛葉さんとはマナスル基金にしろ、シェルパ基金しろ、遺骨収集にしろ、なかなか表に出ない出来事を一緒になって伝えてきた。時に一緒に悩み、喜び、また喧嘩をしたりと、私の仲間です。ここまで取り上げてくださったMBS、そして榛葉ディレクターにとても感謝しています。

いつ落ちてもおかしくない橋
4月3日、キャラバン開始となったが、なにしろ標高が570メートル。暑いなんてものじゃない。そして湿気。あの灼熱地獄であったレイテとなんら変わらない。いや、レイテ顔負けかもしれない。途中、水田の横を通るが、この棚田を眺めながら我々が再生した佐渡島の棚田はどうなっているかなぁ~と佐渡島が恋しくなった。今年も夏に佐渡島でトキの餌場となる棚田造りを行いたい。

キャラバン開始・棚田に佐渡島を思い出す
エベレスト街道と異なりまったくといっていいほど観光開発されていないこの街道はある意味、リアルカルチャーだ。エベレスト街道に慣れたトレッカーは一度このリアルカルチャーに触れてみるもの悪くないだろう。ただ、ろくなロッジもなく、食堂といってもいやはや・・・食欲がなくなるだけだが。


髪を洗っている女性の後ろ姿にドキ!

街道での人々の営み野口隊は36人のポーターにロバを11頭。先発隊は先に出発し、私と平賀カメラマンにシェルパ2名で後を追ったがテントも食料も全て先に行ってしまい、我々はバラックのような掘っ建て小屋に泊まらなければならず、屋根裏部屋が吾輩にあてられた部屋であったが、天井には巨大なクモがウジャウジャ。ギョっと驚き思わず殺虫剤を天井に吹きかけたら訳のわからない多種類の昆虫がボトボトと枕もとに落ちてきて心底参ってしまった。そして朝起きたら全身がダニに食われブツブツ。痒くて痒くて、ついでに頭まで痒くひょっとするとシラミ?

宿の入り口にて

私の寝室、ここで全身をダニに噛まれた
4月5日はタトパニ村泊。ここは温泉が湧く村で、タトパニとはネパール語で「お湯」を意味する。ネパールの地図を眺めていて気がつくのは所々にタトパニという同じ村の名前がある。シェルパに聞けばなんのことはない。温泉が出る村は全てタトパニ村とのこと。それならば日本中に「お湯」という同名の町で溢れるではないか。
そのいわゆる温泉もちゃんと清掃していないため不潔極まりなく、足だけつけたが、どぶの如く臭く、全身を温める勇気などなくそそくさと撤退。世界に出てみると改めて日本人は清潔好きなんだなぁ〜と気がつかされる。


タトパニ村の子ども達と 温泉があるのだが・・・
汗だくになりながらトボトボと歩いていると背後から平賀カメラマンが嫁さんに買ってもらったというGPSがさほど嬉しいのか、聞いていないのに自慢げに「え〜野口さん、私のGPSによりますと、マナスル山頂までは、残りの標高差は7500メートルとなりますねぇ〜」「残り7400メートル」「あっ、残り7500メートルに戻りましたねぇ、おかしいな〜あっ、そうか、そうか、さっき谷を降りたんだっけ」といちいち疲れる情報を嬉しそうに伝えてくれる。
途中、チベットから亡命してきたペマさん(37歳)と出会った。彼は日本語を学んでおり流暢な日本語で我々を見つけるや「あなた方は日本人?サマ村から少し先に進めばすぐにチベットます。中国兵はよくネパール側にやってきます。私たちの村にも入ってきて、ダライラマの写真を持っていたら捕まります。中国はネパールに圧力をかけて亡命者を捕まえようとしていますよ。ネパールは中国にいいなりです。中国は野蛮な国です。これからインド、アメリカに行って訴えたいです」と。もし彼の言葉に一つ付け加える言葉があるとするのならば「したたかで野蛮な国」ということになるのかもしれない。


ここまでくれば上がってくればチベット文化圏


4月7日、ダング村(1860M)までたどり着いたが、今年のネパールは乾季であるにも関わらず毎日が雨降り。カトマンズでも雨、雨、雨に雷。異常気象の現れか?ただでさえ雪が多いマナスル。ついつい雪崩のリスクについて考えてしまう。こればっかりはもうどうしようもなく運命といってしまえばそれまで。参ったのはポンコツ宿は雨漏りが酷く天井からボトボトと寝袋に雨水が落ちてくる。グチョグチョに濡れる寝袋ほど気持ち悪ものはない。劣悪な環境に寝不足も続き寝付けないのでヘッドホン付けたら八代亜紀の“雨の慕情”が流れてきて「あめ、あめ、もっとふれ〜」と「おい!おい!冗談じゃないぞ!」と大好きな曲であったがこの夜ばかりは耐えがたく、さだまさしの「防人の誌」を聞きながら頑張って寝た。203高地を舞台にした映画の主題歌であるが、この曲、高校生時代から聞き続けている私の最も好きな曲です。私はさだまさしさんの大ファーンであるが、つい最近、渋谷のNHKホールで行われた、さだまだしさんのコンサートに初めて行った。20年以上聞き続けているさだまさしさんの声を生で、しかも最後に好きな「風に立つライオン」と「防人の誌」を続けて聴け、これでもう思い残すこともあるまいと一人コンサート会場でウルウルしていたのを、この地の果てで、雨に濡れながら思い出していたが、やっぱりもう一度、もう一度、日本に還りたいと理屈抜きにひしひしと祖国を感じていた。俺はやっぱり日本が好きです。最期は日本で迎えたい。

ベースキャンプまでの道のりは長い


半分壊れかけている橋
8日、ついにサマ村に到着するわけだが、数日前から食事が喉を通らなくなり、下痢と吐き気に悩まされ、上から下から容赦なく噴射に手足の痺れ。とくに腸がねじれ切れるような激痛に悲鳴をあげた。水がいけなかったのか、それとも食べ物か。タトパニ村で魚の薫製がだされ恐る恐る匂いを嗅いだら卒倒するほどの代物で手を出せなかったが、シェルパ達が「臭いが問題ない」と何度も進めてくるので日本のクサヤのようなものかと少し口に入れたのがいけなかったのか、それともただただ疲れがピークに達していたのか、医者じゃあるまいし、原因など分からないが、ただひたすら腸を中心にシンドイ。情けないことに途中、土砂雨の中、シェルパに背負われ、この様子じゃ無理じゃないかと、ヘリでいったんカトマンズまで下ろすことまで検討されたが、ベースキャンプ入りすらできないまま終わるわけにはいかないと、とりあえずサマ村まで頑張ろうと一歩一歩進んでまいりました。
サマ村まで残り4時間ほどの所で上からパカパカと白馬が駆けてくるいではないか。よく見たらサマ村の村人たちで、なんと私の不調を聞きつけ迎えに来てくれたのであった。子どもの頃、6年間ほど乗馬を習っていたので久々の乗馬となったが、それにしても村人の優しい気持ちに心は満たされていた。サマ村は3390メートル。ここまで来ると雪の世界。さっそく大雪が降り雪景色。あれだけ暑かったのが嘘のようだ。このサマ村で休養をとり、4月12日は富士山との同時清掃。5日ほど休み体調を整えてベースキャンプを目指したい。


サマ村か白馬が迎えに来てくれた もうすぐサマ村だ

子どものころ乗馬を習っていたので、久々の馬の背中にわくわく
4月9日 サマ村にて 野口健
2009年04月02日
カトマンズで安全祈願を行う
4月1日はボナダート(ネパール最大のチベット仏教の寺院)にてマナスル登山の安全祈願を行った。ここボナダートはラマ教のシンボルでもあり、度々チベット問題に対するデモが行われる。ネパール国内には中国による弾圧から逃れてきた多くのチベット人難民がいる。彼らが中心となり「フリーチベット」が訴えられるのだが、昨年のオリンピック前にはあれだけ国際社会に注目されたチベット問題も今ではすっかり忘れられてしまっているような気がする。チベット問題は何一つ改善していないどころか事態はさらに悪化しているとのこと。


カトマンズ市内で行われたチベット人によるデモの様子


チベット人の人権を求めデモを行う人々
この春も昨年同様にチベットでのヒマラヤ登山がいまだ許可されておらず、チベットでの登山活動を予定している登山隊はここカトマンズで待機を余儀なくされている。あの暴動から一年以上が経つにも関わらず、未だに外国人のチベット入国に対し極度に神経をとがらせ警戒している中国当局の様子が今現在チベットのおかれた悲惨な状況を物語っているのではないか。
やはり北京オリンピックの時に国際社会はもっと中国にしっかりとメッセージをおくり追い詰めるべきではなかったか。あれだけの騒ぎになりながら、参加のボイコットもなく、結局なにごともなかったかのようにオリンピックが開催されたが、中国からすれば「ちょっと騒がれただけですんだ」となり、チベットに対し拍車がかからないだろうかと心配していたがその通りの展開になってきたような気がします。日本にいてはなかなかチベット問題を感じることも少ないのかもしれませんが、ヒマラヤに来る度にこの最前線でチベット問題の切実さをひしひしと感じるものです。



ラマ教による野口隊の安全祈願を行ってもらう
明日からマナスルに向けてカトマンズを出発!日本を発つ前はかなりヘロヘロ気味でしたが、カトマンズでゆっくり?と休めました。少なくとも睡眠はとれた。なんとなく2002年のシシャパンマ峰前の状況と似ていますが、ただ、ヒマラヤ遠征は長期戦ですから、今現在の体調管理も大切ですが、一ヶ月半後の山頂アタックまでにちゃんと整えればそれでなんとか勝負できるもの。理想は完璧に体を作ってからヒマラヤ入りすればいいのでしょうが、学生の頃ならまだしも社会人になってからは、そのような時間的な余裕もあるわけもなく、つまりこういった現状の中でどこまでベストを尽くせるのか。問題は気持ちが切れたら終わっちゃうので、我慢の日々が続くかもしれませんが、焦らずにのんびりとビスタリ精神(のんびり精神)で少しずつ山頂を目指して一歩一歩進めればそれでいいんじゃないかと思います。
紆余曲折ありながらも最終的にマナスル登山を決断したのも自身であるわけで、いまさらジタバタしたところでもう勝負は始まっているわけですから。まっ、最後は神風が吹いてくれるでしょう?ではでは。
2009年4月1日 野口健


カトマンズ市内で行われたチベット人によるデモの様子


チベット人の人権を求めデモを行う人々
この春も昨年同様にチベットでのヒマラヤ登山がいまだ許可されておらず、チベットでの登山活動を予定している登山隊はここカトマンズで待機を余儀なくされている。あの暴動から一年以上が経つにも関わらず、未だに外国人のチベット入国に対し極度に神経をとがらせ警戒している中国当局の様子が今現在チベットのおかれた悲惨な状況を物語っているのではないか。
やはり北京オリンピックの時に国際社会はもっと中国にしっかりとメッセージをおくり追い詰めるべきではなかったか。あれだけの騒ぎになりながら、参加のボイコットもなく、結局なにごともなかったかのようにオリンピックが開催されたが、中国からすれば「ちょっと騒がれただけですんだ」となり、チベットに対し拍車がかからないだろうかと心配していたがその通りの展開になってきたような気がします。日本にいてはなかなかチベット問題を感じることも少ないのかもしれませんが、ヒマラヤに来る度にこの最前線でチベット問題の切実さをひしひしと感じるものです。



ラマ教による野口隊の安全祈願を行ってもらう
明日からマナスルに向けてカトマンズを出発!日本を発つ前はかなりヘロヘロ気味でしたが、カトマンズでゆっくり?と休めました。少なくとも睡眠はとれた。なんとなく2002年のシシャパンマ峰前の状況と似ていますが、ただ、ヒマラヤ遠征は長期戦ですから、今現在の体調管理も大切ですが、一ヶ月半後の山頂アタックまでにちゃんと整えればそれでなんとか勝負できるもの。理想は完璧に体を作ってからヒマラヤ入りすればいいのでしょうが、学生の頃ならまだしも社会人になってからは、そのような時間的な余裕もあるわけもなく、つまりこういった現状の中でどこまでベストを尽くせるのか。問題は気持ちが切れたら終わっちゃうので、我慢の日々が続くかもしれませんが、焦らずにのんびりとビスタリ精神(のんびり精神)で少しずつ山頂を目指して一歩一歩進めればそれでいいんじゃないかと思います。
紆余曲折ありながらも最終的にマナスル登山を決断したのも自身であるわけで、いまさらジタバタしたところでもう勝負は始まっているわけですから。まっ、最後は神風が吹いてくれるでしょう?ではでは。
2009年4月1日 野口健
平賀カメラマンとカトマンズで合流
3月30日、カトマンズ入りし、先に準備のために訪ネしていた平賀淳カメラマンと合流。平賀カメラマンは一体全体なにを思ったのか、カトマンズ入りしてから頭を丸めて丸坊主になっていた。
「お前、その頭どうしたの?」と。そうしたら「キャラバン中は頭を洗えないので坊主にしました」と。「でもこれからヒマラヤ登山で上部はかなり寒いぞ」と、もはや今さら何を言ってもすぐに髪の毛が生えてくるわけでもないのでどうしようもないが、とりあえずそのように忠告したら「あっ、やっぱり寒いですねぁ〜」と、「そりゃそうだろうよ。それに日ごろは髪の毛に守られている頭皮だ。直射日光が頭皮まで届かないところに、いきなりヒマラヤの猛烈な紫外線だ。お前の頭皮は日焼けと凍傷で真っ赤に腫れあがり、そして水ぶくれにやられ、無残な姿になり果て、そして挙句の果てに夜中は激痛で寝付けないだろうね。それだけじゃない、その後遺症からもう二度と髪の毛が生えなくなるだろうね」といささかオーバーに煽ってみたらシュンとなってしまった。言い過ぎちゃったかなぁ〜。まあ〜そんなこんなの二人のヒマラヤ生活が始まろうとしています。

平賀カメラマン
3月30日 カトマンズにて 野口健
「お前、その頭どうしたの?」と。そうしたら「キャラバン中は頭を洗えないので坊主にしました」と。「でもこれからヒマラヤ登山で上部はかなり寒いぞ」と、もはや今さら何を言ってもすぐに髪の毛が生えてくるわけでもないのでどうしようもないが、とりあえずそのように忠告したら「あっ、やっぱり寒いですねぁ〜」と、「そりゃそうだろうよ。それに日ごろは髪の毛に守られている頭皮だ。直射日光が頭皮まで届かないところに、いきなりヒマラヤの猛烈な紫外線だ。お前の頭皮は日焼けと凍傷で真っ赤に腫れあがり、そして水ぶくれにやられ、無残な姿になり果て、そして挙句の果てに夜中は激痛で寝付けないだろうね。それだけじゃない、その後遺症からもう二度と髪の毛が生えなくなるだろうね」といささかオーバーに煽ってみたらシュンとなってしまった。言い過ぎちゃったかなぁ〜。まあ〜そんなこんなの二人のヒマラヤ生活が始まろうとしています。

平賀カメラマン
3月30日 カトマンズにて 野口健





