2008年10月24日

レイテ島・遺骨調査の報告


 フィリピン・レイテ島での遺骨調査のため、10月17日、日本を出国しセブ島へ。空援隊の事務局長であり、またこの度の団長の倉田宇山(くらた・うさん)さんと合流。18日、レイテ島、オルモックに入る。何が何でもご遺骨を祖国に還すといった倉田さんの強い思いによって「空援隊」が誕生。空援隊によるフィリピンでの遺骨調査活動はこの3年間で20回を超え、今年に入ってから7回目。フィリピンはレイテ島、セブ島、ルソン島、ミンダナオ島が最も多くの戦死者を出した地域であり、いまだ40万人のご遺骨が野ざらしになっている。激戦地となったレイテ島では8万人以上の日本人将兵,軍属(民間人)が犠牲となり、その大半が収集されていない。

レイテ
レイテ島で見つかった御遺骨

後ろが空援隊の倉田さん
野口の後ろが空援隊の倉田さん

 レイテ島が激戦地となったのは、その地形が平坦であり航空基地に適していたからだ。米軍が上陸する前、このレイテ島を防衛していたのは第16師団(18,600人)のみ。直前の「台湾沖航空戦」で大本営は大勝利をおさめたと報じ、10月20日には日比谷公会堂では首相はじめ海軍大臣、陸軍大臣ら閣僚が集まり大勝利を祝いバンザイ三唱が叫ばれ歓喜に沸いていたが、皮肉にもその同じ日にアメリカ軍がレイテ島に上陸。

ノモン峠から見る海
リモン峠から見る海 ここにアメリカの軍艦700隻が集結した

レイテ

 アメリカ軍の主力である航空母艦の大半を撃沈し壊滅的な打撃を与えたとされ、レイテ島を襲ったアメリカ部隊は台湾沖で破れた一部の敗残部隊に過ぎないと考えられていたが、これはまったくの誤報(空母11隻、戦艦2隻を撃沈、空母8隻、戦艦2隻を撃破、その他多数の敵艦を撃沈したと発表したが、沈没した艦艇はゼロであった)であり、レイテ沖にはアメリカ軍艦船700隻が集結し、一斉艦砲射撃が行われていた。海軍中枢部には極秘で誤報であったと報告されていたが、すでに天皇陛下にも報告され、また陸軍との対立もあり、誤報と知りつつもその事実は伏せられたまま、その3日後にレイテ島決戦が遂行された。日本軍部隊は大幅に増員されたが、予期せぬアメリカ艦隊からの一斉艦砲射撃に多くの兵士はジャングルの奥地へと逃避するしかなかった。

 そして追い討ちをかけるかのように日本兵に襲い掛かったのがフィリピン人による対日ゲリラだ。開戦直後に日本軍によりフィリピンを追われたマッカーサー大将はフィリピンの対日ゲリラの組織化に全力をあげていた。無線機や、武器、弾薬、医療機器などを潜水艦に積み込み密かにレイテ島に送り続けていた。そして日本軍の動きは隅々までゲリラに監視され詳細にマッカーサーに報告されていた。

 そして12月10日、大本営はついにレイテ島を放棄し、生存している兵士にアメリカ軍が上陸していなかったセブ島へ避難するように命じたが既に時遅し。衰弱しきっている兵士に自力でジャングルを超え、海を渡るのは絶望的であり、また捕虜になることを禁じられていたため、多くの兵士が自決。セブ島に渡ることができたのはたったの900人。そして1万人以上がレイテ島に取り残された。
兵士はカンギポット山に立て篭もり徹底抗戦を試みたが、食料、弾薬の補給もなく極限の飢餓に苦しみ、一万人以上が生存していたとされている日本兵だが終戦時にカンギポット山から下りてきた兵士はたったの一人もいなかった。レイテ島に送り込まれた兵士の大半は20歳前後の若者であり、実に投入された兵士の97パーセントが戦死。作戦の破綻である。

 この度、我々が調査を行ったのはその玉砕地となったカンギポット山とその周辺であった。
10月18日、SAN VICENTE周辺 ご遺骨1体を発見
10月19日、MATAG・OB市のバナナ畑にてご遺骨2体を発見
カンギンポット山、山中の洞窟の中にてご遺骨3体を発見
10月20日、オルモック市内、ご遺骨約10体を発見
10月21日、カモテス諸島に渡りご遺骨約8体を発見
4日間の調査では約24体ぶんのご遺骨を発見。

 ご遺骨と一緒に多くの日本製の手榴弾、銃剣、弾薬が発見。いずれも不発弾であり未使用であった。自決する余力もなく餓死だったのだろうか。ご遺骨を握りしめ何があったのか英霊の声を探したが、私には無念さしか伝わってこなかった。

レイテ


P1000729
手前にあるのが日本製の手榴弾など

 今回の遺骨調査隊に5名の一般参加者が加わった。驚いた事に参加者の方々はNHKの「視点論点」で私の遺骨調査活動を知り申し込んでくださったのだ。

 ご夫婦で参加となった間島ご夫妻。奥様のお父さんがレイテ島で戦死されご遺骨は不明のまま。もしかすれば、今回発見されたご遺骨の中にお父さんがいらっしゃるのかもしれないと、「一度、お父さんに会いにレイテに来たかったんですよ。お父さん!」と涙を流されていた。あれから60年の歳月が経ち、娘さんがお迎えにレイテ島にやってきたのだ。お父様はさぞかし喜ばれているに違いない。
 また森田裕子さんはご遺骨に触れながら「本当にお疲れ様でした。こんな所に連れてこられて、早く日本に帰りたいですよね。本当に申し訳ないです」とバラバラになっているご遺骨の頭、背骨、手足と順番通りにそろえていた。藤岡誉司さんは「記録映像は白黒ばかりで現実味がなかったが、でも自分の目でこの景色を見て、この現場に立ってみて本当に戦争があったのだと感じた」と、危険地帯であり多くの参加者を募ることは出来ないが、少しでも多くの日本人に現場での出来事を知ってほしい。

レイテ 山
日本兵が逃げ込んだカンギポット山

 ジャングルの中は蒸し、スコールにうたれ過酷な気象条件であった。我々はたかだか数日間の滞在であったが、それでも疲労困ぱいであった。このジャングルの中、援軍が来る望みもなく、置き去りにされ、見捨てられた兵士たちは一体なにを感じ最期のその時を迎えたのだろうか。山の稜線に上がってみると太平洋が見渡せた。あの海の向こうに祖国日本がある。帰りたいという思いと同時に、絶望的な作戦を強いた国に対する怒りがなかっただろうか。そもそも誤報から始まったレイテ決戦。作戦自体が最初から破綻していたのだ。兵士を大切にしない組織はろくでもない。


レイテ
カンギポット山中腹の洞窟の前にて

 彼らは祖国に殺された。私にはそう感じてならない。にも関わらず国は最低限の責任を果たそうともしない。
 
 それと比べアメリカは未だに約400人の軍人、また戦史研究家、人類学者がチームを作り第二次世界大戦、朝鮮戦争、ベトナム戦争などで行方不明となった兵士の捜索、遺骨収集を行っている。年間予算は55億円。昨年6月には硫黄島で行方不明となっているたった1人のアメリカ兵士のために捜索が行われた。アメリカはこうした調査を世界各地で継続しているのだ。
 レイテ島で調査活動を行いながら、本来ならばこれは国の役割であると、ただその国がやらないのならば、じゃあ一体誰がやるんだ!と、国が動くまで、私は空援隊の一員として倉田宇山さんと共に英霊の元へ通い続けたい。

 ご遺骨はなにも語らない。ならば我々が代わって声をあげるしかない。レイテ島には未だ8万体ものご遺骨が残されたままである。

2008年10月23日 日本に戻る 野口健
fuji8776 at 00:04│Comments(18)TrackBack(0)遺骨調査 

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この記事へのコメント

1. Posted by とうふ   2008年10月24日 00:47
応援しています。
戦死されたかた、生き残った方々。
その人たちのおかげでいまこうしていられるのだと思いながら。
そしてその人たちを見捨てた人たち、誤報を誤報だと知っていた人たちのような人間に人を束ねる力を与えてはならないという思いを強く抱いています。
それが当然な世の中に少しずつでも向かっていくように、微力ながらもがんばりたいと思います。
2. Posted by 福士健太郎   2008年10月24日 06:19
多くの先輩方のお陰で今の我々が存在しているということがわかります。先輩方の死のおかげで、現在僕達が幸せに生きていけていると思います。

終戦直後の日本軍が酷かったことを挙げると、
〇慘畭Δ聾獣呂帽圓ないが、危険な所へ派兵するなんてことはざらだったようです。
⇔圧綯亙での日本軍人による、自分の退役時の格上げを目的にした、日本人親子の虐殺

などなど
人間の弱さを露呈したことは多々あるようです。

現在でもその内容こそは違え、同じように人間の弱い部分(保身・身勝手などなど)が原因となり酷いことを平然としていますよね!(サラリーマンのパワハラなど)そう思うと人間ってあんまり進歩しないんだな〜と思います。

野口さんの活動は多くの方の人間力を上げていると思います!!

とにもかくにも
3. Posted by COS   2008年10月24日 17:04
お疲れ様です!!
遺骨調査、日本と言う国になんとかならないのか調べてみたいと思いました。

4. Posted by 高校生   2008年10月24日 21:03
太平洋戦争で亡くなった自分と同じくらいの歳の少年たちがいたことと、今、平和な時代に生まれ、のんきに暮らしている自分を当て嵌めると不公平というか、ずるい気がします
自分がこの時代に生まれたことを亡くなった方たちに申し訳ないと思わないといけませんね
5. Posted by いちご   2008年10月24日 21:14
5 健さん…本当にお疲れさまでした。今回のブログへのコメントは…ただただ迫るものがあり・また健さんの英霊の御遺骨調査を祖国がしないなら誰がやるんだ!の言葉は健さんの心の叫びに聞こえて泣けてきます。誰の為でもなく、我が国を思いお国の為に死ぬ事しか残されていなかった…さぞかし苦しく悲しく、その最後の声が聞こえるようです。…☆
6. Posted by さとべりぃ   2008年10月25日 01:05
日本の歴史で語られる白虎隊の悲劇。
君主に従い戦い、破れ自刃。若い命が絶たれたことが語り継がれ、歴史に疎くてもなんとなく知っている話。
それよりももっと現代に近い先の戦争のことの方が、遠い知らない時代のような感覚でいる今の日本。もっと知らなくてはいけないですね。
英霊を慰め敬い「帰りたい」気持ちをわかってあげなくては、、、帰してあげなくては、あまりにも可哀想すぎますね。
7. Posted by ダーツの投げ方練習中   2008年10月25日 17:59
日本のために亡くなられた
彼らは祖国に殺された。
私もそう思います。
今の日本という国は・・・
8. Posted by 凡子   2008年10月25日 19:22
悲しい。いつも被害は弱い人へ。

ひどい目にあった人は声も上げられない。

旨く立ち回った人立ちが声高く、武器を持たせて日本を戦争に駆り立てようとする。親を見た子も、自分が戦死することなど考えず、特等席で騒いでいる。

戦争を放棄した憲法、戦後歴代の首相は日本が戦争に巻き込まれないように、努力し、世界どこへ行っても日本人は安全であった。

それが小泉さんから、日本も参戦していると見られ、日本人が狙われ、命を失っている。

日本の平和が今一番問われている時で、選挙で自分の思いを伝え、国を作らなければならない。

二度とこのような、死者を出しては、ならない。


9. Posted by ハスユ   2008年10月25日 20:59
5  健さん、おつかれさまでした。健さんはすごいと思います。ぼくも、もっと勉強して戦争が起こらないようにしたいです。
10. Posted by 受験生   2008年10月26日 20:24
今日(10/26)野口さんの講演会におじゃまさせていただきました。
頭で考えるだけでなく、実際に見て経験することの大切さを改めて強く感じました。
知るということは確かに責任が伴うことかもしれません。
しかし、表面的な知識だけで自分の意見や批判を述べるのはもっと恐ろしく、恥ずかしいことだと思います。
知ることの責任を心に留めながら、色々なことに挑戦し、もどかしさと奮闘していきたいです。
11. Posted by きのこ   2008年10月27日 20:44
昨日野口さんの講演を聴かせていただきました。先月に続き二回目になりますが、何回聴いてもまた行きたくなるようなすばらしい講演ありがとうございました(^^)
図々しくも帰り際にそばに行ったら、嫌な顔一つせず握手してくださって本当にうれしかったです。野口さんの講演と野口さんの手から伝わってきた温かくそして力強いエネルギーを受けて、最近心身共に疲れていた私もまた前を向いて頑張ろうという気持ちになりました。野口さんも日々お忙しいでしょうが、体に気を付けて活動を続けていってください。ありがとうございました!
12. Posted by shibu   2008年10月29日 16:40
野口健 様

先日新潟県の講演会で拝聴致しました。
主人がとても健さんが大好きで、坂口安吾賞の際も赴き、2度目でした。
今回もまた、時間があっという間に感じられるほど楽しいお話を聞くことができ、感謝しております。

講演の最後の最後に、この記事のレイテ島に触れていらっしゃったので早速こちらにアクセスしました。
講演でもおっしゃっていましたが、
アメリカは硫黄島であと一人なのに…日本人はこの状態。今だに問題を抱えていても仕方のない方法しか取れないんだな、と実感しました。
日本人として誇りを持てない気持ちにさせられます。
健さんはなぜ、この調査を始められたのですが?
それにしても講演の最後でこの話題に触れ置き土産…的です。そしてこうしてますます興味を持たざるを得ません!
本当に惹きつけられます!
13. Posted by 山本真三   2008年11月04日 20:14
私は78才の戦中派と云えましょうか.それでも
太平と洋戦争の無謀さはありありと覚えて居ります 終戦当時は中学2年生でしたが毎日が軍事訓練で 殆どは竹棒で突槍の稽古でした 学校の倉庫には38銃と云われた日露戦争の時活躍した銃が数十台飾られて有り 時々触らせてもらいました多分博物館にまわす代物であった
と今思えば考えられます そんなもので原爆も持つた国と戦ったのですから無謀極まりない指導者達が当時の日本を治めていたのです 国民は不幸だつたのです しかし未だその様な指導者が生き延びて居るのです 出来れば国民による裁判を起こしそれ等の史実を究明せねばならないと思います 
14. Posted by 弘子   2008年11月11日 22:25
健さん、ありがとうございました。
この活動を”視点論点”で聞いて、ウッと喉が詰まりました。
父の弟、叔父は、23歳、昭和20年7月1日、カンキポット山で戦死しています。
もう一人の叔父は、シベリア抑留、イズベストコーワヤで昭和22年3月10日に野戦病院で亡くなっています。
父は、どちらも行きましたが、遺骨はわからないままでした。私には、それが、どうしても納得できぬまま今に至っています。
健さんの活動をありがたく思います。
私も、必ずや、かの地に赴き、その地を踏んで、会ったことのない叔父に挨拶をしたいと思っています。
15. Posted by まつ   2009年05月02日 16:52
興味深く読ませていただいてます。歴史への振り返りの大切な機会ありがとうございます。
日本人として非常に特異的に平和な時代をすごしているわけですが、わずか60年前に日本人が一言では表せない犠牲を払った道筋があったと感じます。
先人のみなさんが無念に終わられた事をよく考えるチャンスなので、今後も応援いたします。

本や文献では当時は戦争以外に逃げ場も無かったようですが、戦争という政治手段がいかに高度のモラルと組織連携を必要とするか、われわれ日本人にはまだまだ難しかったと考えさせられ、また、どこまでが自衛でどこからが侵略となると主観となるので、そもそも、戦争の放棄という憲法基盤も正しいのではと思います。

それましたが、現在の平和の基礎となられた先人の皆様に感謝するばかりです。
16. Posted by ゆき   2009年06月07日 21:01
5 私の曽祖母の息子さんもレイテ島で若くして戦死されたそうです。

結局どんななくなり方をされたか、誰も口を開かなかったとのこと。

私や家族がいま幸せに暮らさせていただいているのは、戦争を戦った日本人(私たちの血縁者)のおかげです。

彼らへの敬意、深い感謝の気持ちとともに、果たせなかった生への活力を自分の人生に投影させていきたいと思います。

野口さん、私の家族は誰一人レイテ島の地を踏んだことがありません。
きっと眠っている方々も喜ばれたことでしょう。
心より感謝いたします。
17. Posted by supjibi   2009年08月15日 15:32
5 非常に感銘を受けました。
私の祖父もレイテにて戦死いたしました。

祖父がいたら私の父も私も非常に心強かったに違いないと思います。

私はいつか行きたいと思って父とも話しております。しかし、跡目を継いだ義祖父のこともあり、なかなか足がそちらへ向かないのが現状です。野口さんの活動に心より感謝申し上げます。
18. Posted by 原田   2010年08月09日 06:03
初めまして私は30代の主婦です。私の母親の父はこのレイテ島にて戦死しました。当時、母親は3歳の赤ちゃんでした。父親の顔も温もりも分からずに今は写真だけを見ては,今でも悲しみに暮れて心の傷をずっと背負っています。2010年になった今年、今になって思うのは、本当に意味の無い戦争だったと思います。日本人だけじゃなく、この先の未来にも戦争の無い平和な地球になって欲しいものですね…

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