2008年10月31日

レイテにマッカーサーが上陸した日


 私たちがレイテ島での遺骨調査を終了したのが10月20日。なんと10月20日はダグラス・マッカーサーが、かつてレイテ島に上陸したその日である。1944年10月20日、マッカーサー率いるアメリカ軍部隊はレイテ湾に上陸、ここからフィリピン奪回を目指したのだ。マッカーサーのフィリピン奪還、上陸を記念したモニュメントが上陸地点となったパロ海岸にあり、遺骨調査の合間に不愉快ではあったが訪れてみた。マッカーサー像は金色に塗られており、なんとも気持ち悪く、実に悪趣味としか形容できない代物であった。
レイテ
マッカーサー上陸記念碑の前にて

 マッカーサーがバシャバシャと膝まで海水に塗らせながらレイテに上陸するあの白黒写真は実に有名だが、実はあの歴史的な写真は上陸当日に撮影されたものではなかったそうな。上陸シーンはフィリピン奪還のシンボル、アピールとしての映像効果が大きいと判断し上陸翌日にあえて再現し撮影させたものであった。一大決戦の最中においても、先を見据えた広報戦略に力を入れていたのかが分かる。

 日米開戦直後、マッカーサーは迫りくる日本軍によってフィリピンを追われ魚雷艇でコレヒドール島を脱出した。その際に発せられたのがあの有名な「I shall return」(私は必ず帰ってくる)だ。一般的に使われる「I will return」(私は帰ってくるだろう)ではなく、あえて強い表現となる「I shall」という表現を使った事にマッカーサーの屈辱感、また取り返すといった明確な決意が伝わってきたが、その言葉は日本に向けられたというよりもフィリピン人に対するパフォーマンスであったという。ある資料によれば、アメリカの政府はマッカーサーに対してアメリカとしての意思を表すために「We shall return」(我々は必ず帰ってくる)という表現を使うように指示したが、マッカーサーは自身のカリスマがフィリピン人に与える影響が大きいと「I shall」に拘り続けたのである。

レイテ

 実際に日本軍によるフィリピン占領下時代においても、マッカーサーは潜水艦でマッカーサーの顔写真を大きく写っている「フリーフィリピン」という雑誌や、「Ishall return」と印刷されたマッチ箱、煙草、鉛筆などを大量にフィリピン人に届けている。マッカーサーこそがフィリピンを日本から救う救世主であると印象付けるための演出だった。実際にこの演出効果もあり、日本軍はフィリピン人抗日ゲリラによるスパイ活動、掃討作戦に苦しみ、最終的には玉砕へと追い詰められていった。レイテ島に派兵されていた日本兵はアメリカ軍上陸前からゲリラの奇襲攻撃などに苦しめられ慢性的に消耗していた。マッカーサーはフィリピン人を利用することに成功したのだ。

 皮肉なことに「大東亜共栄圏」などといったアジア諸国を欧米諸国から独立させるとの大義名分で開戦に踏み切った日本だが、マッカーサーの「フリーフィリピン」(フィリピン解放)といったスローガンのもと多くのフィリピン人が武器を手に日本軍を敵とみなし戦うこととなったのだ。マッカーサーは情報収集とともに重要視していたのが、この広報戦略だった。

 さて、その一方日本軍はどうだったのか。アジア解放とスローガンを掲げながらも、レイテ島では村人の虐殺が相次いだ。日本の帰還兵による証言では、「ゲリラと民間人の区別がつかないので森の中で出会った現地人は全て殺せ」との命令が下り、兵士たちは心の中で密かに「誰にも会いませんように」と祈る思いであったが、そんな時に限って女、子どもと遭遇してしまい、母親は拳銃で殺害し子どもは弾がもったいないので足を持ちヤシの木に叩きつけ丘から放り投げたとのこと。またゲリラと思われる人を拘束しては船に乗せ沖まで運び重りを体にくくり付けて、生きたまま海に投げ込み殺害したとか。フィリピンをアメリカから解放するはずの日本軍による野蛮な行為の数々、次第に日本人に対して憎しみの感情を抱くのも当然である。

レイテ決戦の最大の激戦地となったノモン峠
レイテ決戦の最大の激戦地となったリモン峠

 そして情報収集だが、先日「転進・瀬島龍三の遺言」を読んでいて驚いた事があった。1942年6月のミッドウェー海戦の敗北によって、連合艦隊の機動部隊(空母4隻などが沈没)が壊滅的にやられ、これによって日本は南方の制空・制海権の大半を失ったのだ。これだけ致命的な大損失を被りながら、なんと東条英機首相がその事実を知ったのが2年後の1944年6月のサイパン陥落の時であったという。サイパン陥落の知らせに真っ青になった東条英機首相は「あの真珠湾攻撃で成功させた海軍の誇る機動部隊はどうした」と尋ねている。そして東条内閣書記官長(現在の官房長官)である星野直樹氏が「ミッドウェーで壊滅してとうの昔にありません」と伝えると東条氏は驚いて「そうとわかっていたなら、フィリピンにこだわったり、あるいはインパール作戦などやらなかったのだが」と発言したとのこと。にわかに信じがたい情報だが瀬島隆三氏もこの事実を認めている。


 海軍、陸軍の対立構造の中、互いの情報は隠されることが多かった。特に都合の悪い情報ならば、なおさらだ。前回の記事にも触れたあの「台湾沖航空戦」の誤報しかりである。日本は戦争状態であるにも関わらず陸軍と海軍が対立し互いを騙し合い、そのおかげでどれだけ多くの兵士が無駄死にしなければならなかったか。そんな国がアメリカに勝てるはずもない。
日本兵の慰霊碑にて
日本兵の慰霊碑にて

 この日(10月20日)、マッカーサー上陸を祝しレイテ島ではレセプションが大々的に開催され日本大使もマニラからわざわざと駆けつけ出席されたそうだが、レイテ島で亡くなった日本兵の御遺骨の大半がいまだ収集されていないままなのだ。ジャングルに漂う英霊たちはそのレセプションを眺めながら何を思うのだろうか。式典に主席されるのならば、日本国の代表として御遺骨の一体でも、いやそれが叶わないのならば、せめて激戦地となったリモン峠やカンギポット山に足を踏み入れ献花の一つでも添えて頂きたかった。

 悔しいかな、あの金ぴかのマッカーサー像は、日本は負けるべくして負けたんだと、計画性の幼稚さ、行きあたりばったりの作戦はあったものの戦争全体を見据えた戦略のなさ、日本国の国益ではなく陸軍、また海軍といった省益が優先された等など、当時の日本のリーダーらの愚かさを私に訴えているかのようだった。また、勝ったのは俺なんだと、勝ちほこり、せせり笑っているかのようだった。
レイテの朝日
レイテの朝日
fuji8776 at 00:12│Comments(13)TrackBack(0)

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この記事へのコメント

1. Posted by とうふ   2008年10月31日 03:27
今の日本を動かしている人たちもその当時と同じようなことを繰り広げているんでしょうね。。
そして当時そうであったように、その狂気を狂気とも思えなくなった輩たちの無能さ、害を一般の人々が中和し、働いて、支えているように思われます。
2. Posted by スコピオライジング   2008年10月31日 12:26
ご苦労様です。野口さんの行動には頭が下がる思いです。
野口さんが読まれた「転進・瀬島龍三の遺言」はいろいろな評価があり、信憑性があるのか?疑問に思っている読者が沢山居るようです。この本を鵜呑みにするのは危険だと評価されている方も少なくありません。
勿論現地に足を運び、見て肌で感じた事を書かれていると思いますので野口さんの言葉を私は信じます。
3. Posted by 鼓動館   2008年10月31日 17:57
先日は本当にご苦労様でした。
Harley-Davidson屋の藤岡です。

レイテ島の本当のジャングルに入り五感で感じるものは言葉では表現できない程のリアリティーがあり、ご遺骨を目の前にした瞬間は言葉が出ませんでした。今回のレイテ島遺骨調査は今までの人生で未経験なことの連続でした。一度知ってしまったら止めれませんね。

今回、私もこのマッカーサーの記念碑を目の当たりにして、本当にいたたまれない感情になりました。それを今回の野口さんのブログを読んで改めて当時の両国の情勢違いとその為に犠牲になられて兵士の数の多さに憤りを感じてしまいます。レイテ島での野口さんや団長はじめメンバーとの出会いは非常に貴重な出会いでした。野口さんのお話も本当に楽しくまた、心より関心されられっぱなしでした。
これからもよろしくお願いします。
4. Posted by ま   2008年10月31日 21:31
今日の講演とてもたのしかったです(●´ω`●)
自由 決断 責任が線でつながっていること
51%でも成功であって
49%ゎ失敗してもいいんだという言葉が特に印象に残っています☆
これからも野口 健さんの
ご活躍を応援しています
(`・ω・´)!!!!!
5. Posted by いちご   2008年11月01日 18:02
5 健さんお元気に日々ご活躍のことと存じます…金の象 なんだか情けないですねこれこそが人間の愚かさを表しているのではないでしょうか…とても不気味ですレセプションに参加する前にまず英霊に手を合わせるのが人の道。どんな理由があろうとも、戦地で亡くなられた方々の命を粗末に考えてはいけない…どんな理由があろうが、戦争により奪われた命が事実としてあることを決して私達はわすれてはならないと…いつも☆☆
6. Posted by 猫ふんじゃった   2008年11月01日 18:40
とても考えさせられた記事でした。
このブログを知人に知らせます。
これからも頑張ってください。
7. Posted by 春   2008年11月01日 22:30
昨日は講演会をしていただきありがとうございました。自分の知っている、住んでいる世界はとても狭いものなのだなと改めて思いました。思ったからには広げていきたいと思います(`・ω・´)野口さんのお話が今このタイミングで聞けた事が本当に嬉しいです。
これからも野口さんの活動を応援してます(^^)そしていつか必ず清掃活動に参加します!
本当にありがとうございました。
8. Posted by さとべりぃ   2008年11月03日 23:45
戦争当時のことを想像すると、全く言葉にならないです。
ご遺骨を持ち帰れなくても、英霊に気持ちを向けることで少しでも慰めになってくれるはずですよね。
英霊達の気持ちを思うに、モニュメントは無くなって欲しい。。
9. Posted by kanun   2008年11月04日 13:54
野口さんの遺骨収集活動応援しています。以前フィリピンに住んでいましたが、当時は活動も知らず、のほほんとしていました。頭が下がります。
日本軍のフィリピン占領は「死の行軍」などネガティブな面が強調されて報道されています。フィリピンに住んでいたものとして、日本が行ったのは蛮行だけではない事を紹介させてください。
占領当時フィリピンには国語が無く国歌もスペイン語で歌われていました。そこで日本軍占領当局は国語の制定をフィリピン当局に勧め、マニラ方言を元にフィリピノ語が作られ、その後現在の国歌が誕生します。日本が独立運動のきっかけを作ったのは本当です。
戦前から民間交流も盛んでした。ビジネスでフィリピンお世話になった日本人も多くいます。日本の民間人は一度日本に引き揚げたものの、恩返しのために、戦後フィリピンに戻り船員学校を設立した人がいます。フィリピン人は出稼ぎの他、船員を生業とする人も多いのですが、多くはその学校の卒業生です。
フィリピンの方々は日本人は悪いこともしたが、良いこともしたと皆さん仰います。
悪いことをしてるのはむしろ、人身売買をしている現代の日本人なのです。
フィリピンで眠る日本兵のためにも良き日本人でありたいと思っています。  草々
10. Posted by K   2008年11月07日 21:54
東京都住在の中学1年です。

この前学校の総合の時間に、
明日行う地域清掃のことを学ぶための
1つの教材として、野口さんの公式サイトに書いてあった文がコピーされているものを使いました。
書いてある文を先生が読んで、
地域清掃は何のためにするのか、
清掃の大切さなどを学びました。

野口さんが登山家なのは知っていましたが、
他のことは全く知らなかった私は、
野口さんの学生時代のことを聞いてすごく驚きました。
世界で活躍する方は、
学生のころから真面目に勉強に取り組む人ばかりだと思っていたからです。
他にもご家族や周りの影響があったからこそ、
今の気になったことには熱くなる野口さんがいるんだなと思いました。

私は頭は良くないし、
コンプレッコスも沢山あるけれど、
将来の大きな夢を持っています。
野口さんのサイトを見て、
将来のために、
今出来ることを今やろう!!
と強く思いました。

野口健さん、
ありがとうございます。
これからも頑張ってください。

『成せば成る
成さねば成らぬ
成るように成る』
これが私の原動力です。
11. Posted by nike sneakers   2011年04月23日 11:15
V成るように成る』
これが私の原動力です
12. Posted by louboutins on sale   2011年08月18日 11:37
5 『成せば成る
成さねば成らぬ
成るように成る』
これが私の原動力です。
13. Posted by Roberto Cavalli Sunglasses   2011年08月30日 10:58
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