August 09, 2005

村上春樹さんのおすすめ翻訳本

 村上春樹というと押しも押されぬ人気作家です。でも私はあまのじゃくですので、ちょっとひねって村上さん本人の作品ではなく翻訳本について話したいと思います。実際、私は村上さん本人の作品よりも村上さんが翻訳された本の方が好みなのです。

 読みやすい村上作品に比べて、海外の小説は文章も重いものが多く、敬遠しがちな方も多いのではないでしょうか。
 だとするとあまりにももったいない話です。言うまでもなく村上さんは翻訳家としても一流なのですから。
 今日は個人的にお気に入りの三作のことを紹介させていただきたいと思います。



キャッチャーインザライ 最初は、誰もが知っている名作。内容はもちろん、読みやすさでもトップレベルの作品で、海外文学初心者にぴったりです。
 最高の青春小説、サリンジャーの『キャッチャー・イン・ザ・ライ』(白水社)です。好みもあるでしょうが、私は旧訳版よりも村上さんの訳のほうが遥かに好きです。村上さんの柔らかで透明感のある言葉遣いは、ホールデンの繊細すぎるほど繊細な感受性を表現するのにうってつけです。
 それにやっぱりサリンジャー本人の才能にはかり知れないものがあります。
 誰もが持っているのに、ほとんどの人はそれと意識しないくらいに小さな、心の痛み。サリンジャーは驚くほどの鋭敏さでその小さな痛みを感じ取り、的確な言葉で表現して見せます。汚れることを徹底して拒否し、普通の人が生きていくために麻痺させていくはずの感覚を、大人になっても失うまいとします。あまりにも感じやすく、あまりにも潔癖すぎる。
 多くの人がそんなホールデンを弱いと思うでしょうが、人生の理不尽さに突き当たってきた人なら必ず彼に共感し、応援したくなるでしょう。


カーヴァー 二作目は、レイモンド・カーヴァーの短編『ささやかだけれど、役に立つこと』です。
 カーヴァー作品はいくつか読みましたが、個人的にもっとも衝撃を受けたのはこれです。
 ある日突然、轢き逃げされた息子が意識不明の重体に陥ってしまった夫婦。彼らを待ち受ける過酷な運命と、ほんの微かではあるけれど、希望のある結末が胸を打ちます。たとえるなら、寒さのあまり震えているときにそっとかけられた毛布のぬくもりのような感じでしょうか。毛布一枚でしのげる寒さではないのに、でもなんだかやっていけるような、なんとかなるような気がしてくる。そんな小説です。
 カーヴァー作品はどれもそれなりに優れているのですが、ヘミングウェイの影響を受けただけあって文体はストイック。完璧に抑制され、過剰な表現は一切ありません。
 それだけに中には味気ないと感じられる方もいるかもしれません。そんな場合は『ささやかだけれど……』のような村上さんがマスターピースと読んでいるものだけでも読んでみて欲しいと思います。「完璧な文章なんて存在しない」とデビュー作で述べた村上さんが「完璧」といわざるを得ない作品が存在するのですから。
 ちなみに私はカーヴァー全集に収録されている村上さん自身の解説である「解題」が好きです。自分が翻訳した、もっとも尊敬する作家の作品であるにもかかわらず、その目線はシビアです。文学に携わる者のプロフェッショナル精神みたいなものが窺えて、改めてすごい人なんだなあと思いました。
 中央公論社の同名の作品集や、中公文庫の『カーヴァー傑作選』に収録されています。


心臓 最後の作品は、マイケル・ギルモアのノンフィクション『心臓を貫かれて』です。
 これはもう大好きな作品で、生涯のベスト3を挙げろといわれても入れるであろう大傑作です。今回紹介した作品の中ではもっとも分厚く、もっとも重厚な文章で、かなり読みごたえがあります。
 連続殺人事件を起こし、長い間全米で行われていなかった死刑を自ら求め、処刑された男ゲイリー・ギルモア。彼の弟である著者が、兄がなぜ殺人者となったのかを家族の歴史を紐解くことで明らかにして行きます。
 優しさではなく暴力が、愛情ではなく憎悪があふれる家庭。子供たちの心を、成長の過程で完膚なきまでに殺してしまう家庭の物語です。
 ところで私は大学の人文社会科学部で心理学などを勉強しているのですが、本作は臨床心理学を勉強する人なら必読だと思います。「機能不全家族」なんて言葉がありますが、『心臓を貫かれて』ほど崩壊した家族を克明に活写した作品はありません。家族をテーマにしたもっとも優れた本の一つでしょう。
 
  天使なんか大嫌いだと僕は自分に向かって言った。彼らは僕を死なせてくれなかったのだ。  ――『心臓を貫かれて』より

 かな〜り重い作品ですが、心と時間に余裕のあるときにぜひ読んでいただきたい一作です。


 ところで生意気にこんなブログを書いておいて、実はティム・オブライエンは未読です。
 そろそろ手を出してみようかな、と思っています。

fujisyu666 at 01:19│Comments(5)TrackBack(0)

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この記事へのコメント

1. Posted by のぞむ@偏魂   August 22, 2005 23:13
 どうも、はじめまして。僕はまさに敬遠している人でした。ちょっと翻訳ものもよんでみようかなぁという気になってきました。
2. Posted by しゅうたろう   August 24, 2005 12:12
はじめまして。
コメントありがとうございます。

そう言っていただけるととても嬉しいです。
いきなりグレイス・ペイリーとか行くと、読みにくさに挫折するかもしれません。って私が挫折したんですけど。
3. Posted by ぴのこ   August 29, 2005 13:06
以前、吉本ばななさんのお話で村上春樹さんがフィツジェラルドの「夜はやさし」を絶賛したというのを伺ったのですが、お読みになったことありますか?
私は、まだないのですが・・・。
海外の小説は重たいというのは確かですが、海外文学ほど人間の核心にせまったものはないような気がします。
日本は哲学が敬遠されてしまう所がありますしね。
臨床心理を勉強なさっているならパウロ・コエーリョの「ベロニカは死ぬことにした」という本がお薦めですよ。あと、映画では「めぐり合う時間たち」なんかもお薦めです。もし良かったらご覧になってくださいね。
4. Posted by しゅうたろう   August 30, 2005 15:48
どうもはじめまして、ぴのこさん。
不勉強なことで、フィッツジェラルドはチェックしてないですね。野崎孝訳ならちらりと読んだことはあるのですが、作家自身にあまり魅力を覚えないというか……でも気が向いたら手を出してみたいと思います。
私も、どちらかというと国内のものより外国のものが好きですね。今まで読んだ本のベストを挙げるとしたら(難しい話ですが)、ほぼ海外作品になると思います。
『めぐりあう時間たち』は観ました。
しかしあれは一言二言で語りつくせるような映画ではありませんよね。難解で、多面的な見方のできる内容でした。
(長すぎて反映できず、下に続きます。)
5. Posted by しゅうたろう   August 30, 2005 15:49
傑作なのはわかるんですけど、完全に理解できたかというとまったく自信がありません。自分の中で消化できていない状態で、そのうちもう一回観なきゃいけないかもと考えています。
linkを貼っている「みんなのシネマレビュー」に並ぶ感想群が面白いですよ(私は書こうとして挫折しましたが)。
ぴのこさんの感想もお聞きしたいですね。

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