昨日から劇場先行公開された『蒼穹のファフナー THE BEYOND』第1話〜第3話(公式HP)を視聴したので、感想を。

私の感想を端的に書くと、こうだ。
本作は、『蒼穹のファフナー』(無印)から『蒼穹のファフナーEXODUS』に至るまでの過去作全てを尊重しながらもそれらに対する渾身のアンチテーゼを叩き付けた、『蒼穹のファフナー』シリーズへの挑戦であり、いわば宣戦布告であると感じた。
私はそのことに対して、僅かな戸惑いと、それを遥かに上回る大きな喜びを覚えている。

私は、本作がこうしたアンチテーゼとしての作品になることをPV等からほとんど確信に近い形で予期していた(2018年の総士生誕祭感想参照)。その上で、本作は私の期待を遥かに上回っていった。
確かに、ここまで徹底的に、後味悪く、過去作において所与の前提とされていたものに対して懐疑と否定を突き付ける必要があるのかとも感じた。しかしそれ以上に、そうして懐疑によって見出される、否定の果てに止揚される進むべき道を見出すスタンスこそが『蒼穹のファフナー』なのだと、改めて思わずにはいられなかったのだ。
それは一部を失いながら全体として少しずつ生まれ変わっていく「代謝」(ROL)であり、繰り返しながら少しずつ変わっていく「カノン」(無印17話)であり、そして何よりも「積極的な自己否定」(無印12話)であることこそが、本作が他の何物でもない『蒼穹のファフナー』なのだと私に感じさせた。

これまで作り上げられてきた物語と鏡写しの物語を敢えて描くことで、本作は、過去作全ての「その先」=「THE BEYOND」を描こうとしている。
そのことが鮮明に感じられたからこそ、私は今、本作の行く末に対して非常に大きな期待を抱いているのだ。

以下、本作及び過去作のネタバレを含むので続きで。
劇場上映のため細かな台詞起こしはできないので、細部に不正確な点や誤解があるかもしれないがご了承頂きたい。
(ネタバレ回避のため意図的に空白)
























(ここから)

1. 本作の全体的な構成について

私が本作を過去作全てに対するアンチテーゼとして位置付ける着眼点は、以下に集約される。

「フェストゥムは、今もなお人類とは違うのか?」

本作は、過去作全てにおいて(すなわち、一騎たちの世代までにおいて)前提とされてきた、「フェストゥムは人類とは違う」という大前提さえも改めて問い直そうとしているのだ。

フェストゥムが人類に近づいていく過程は、古くは無印24話の『紅音』と史彦の会話、HAEの一騎と操の会話においても示唆された。しかし、その後のEXODUSでは人類がフェストゥムに近づく描写は多くとも(EXODUS7話など)フェストゥムが人類の側に近づく描写は抑制的であり、この点が深く掘り下げられることはなかった(フェストゥムが補給の概念を理解したという1話と、「存在を感じるぞ、フェストゥム」(EXODUS25話)が僅かに言及)。
EXODUSでは真矢に代表される「人類軍と竜宮島」「人と人」の物語がかなり多くの比重を占めた分だけフェストゥムはあくまで脇役にとどまり、その脅威に対して人類は何を選択するか、が主として問われた物語だったといえるだろう。

しかし本作は、人類に近づいていくフェストゥムの在り方を鮮明に描写し、改めて、フェストゥムが人類とどう違うのか、を問い直す。その構造は、本作を総士とフェストゥムの視点に置いて再構成すると分かりやすい。

第1話は、フェストゥムにとって大切な存在である総士を守るために、多くのフェストゥムが絶望的な戦況の中で戦った。それは、島の未来のために一時の平和を守ったROLの鏡写しだ。その後総士が人類から身を隠すことに成功して「平和」の中で育ったところも、ROL後の顛末と相似している。
第2話では、「竜宮島」(以下、本作に登場するフェストゥムにより模倣された竜宮島をカッコつきの「竜宮島」として区別する)に暮らすフェストゥムたちはそれが偽りの平和であることを知りながら、島の子供である総士に対してはその事実を伏せていた。「外の世界を知りたい」という総士の純粋な願いが来訪者の存在を招き、来訪者によって平和が偽りのものであったことが暴露されて殺戮と破壊の限りを尽くされ、必死の防戦虚しく数に勝る「敵」に総士を奪われる、という展開は、かつて竜宮島が辿った道程を極めてよく似た形で再現する(無印終盤まで)。

そうであれば必然的に、今後予期されるフェストゥムの襲来は、人類から大切な仲間である総士を奪還せんとする、彼らにとっての「蒼穹作戦」に位置づけられる。
竜宮島の人々が総士(旧)を想う感情と、「竜宮島」のフェストゥムが総士(新)を想う感情に差異が見出せないならば、フェストゥムのそれを否定することはかつての「蒼穹作戦」を否定することになり、「蒼穹作戦」が正しいとするならフェストゥムの側にも理はあることになる。
そうして、冒頭の問いに立ち戻る。

2. 「フェストゥムは、今もなお人類とは違うのか?」

(1) 史彦たちの世代(親世代)以前

「お父さんは、フェストゥムとどう違うの?」(無印18話)、「フェストゥムは、泣かない」(無印20話)と言われた頃は、フェストゥムは感情を持たず、明らかに人類とは違うことが前提だった。
紅音、HAEにおいて帰還した総士、EXODUSの美羽、操や甲洋、そしてEXODUS終盤の一騎の存在は、フェストゥムの側に近い人類、あるいは人類に近いフェストゥムとして両者の境界線が曖昧になっていることを示しはした。しかし彼らが特殊なごく一部の存在である、という位置付けは維持されており、人類とフェストゥムは相変わらず区別される存在であることが物語の前提であったことは否めない。

そして本作に至っても、史彦に代表される親世代は決してその前提を崩すことはない(紅音だけが例外)。
そのことは、史彦の総士に対するフェストゥムについての説明において非常に象徴的だった。

「宇宙から来た」「珪素生物」で「半世紀以上戦ってきた人類の敵」(本作3話)。
その説明は、形式的・客観的に「正しい」。それが親世代にとってのフェストゥムで、それが人類とは異なる存在であることは考えるまでもなく体に染み付いた感覚であるのだろう。

しかしよく考えてみると、人類とフェストゥムが区別される理由は、元々、そうした形式的な側面ではなく、フェストゥムが「感情を持たず」「意思疎通ができず」「人類を同化/攻撃しようとする」からというところが大きかったはずだ。
しかし、これらの人類とフェストゥムを区別する理由は、本作に至って、ほとんど失われているように思える。「竜宮島」のフェストゥムは明らかに感情を習得しつつあるし、まだ少ないものの、美羽などのエスペラントを通じれば人類と意思疎通を行うことができる。そして、「竜宮島」のフェストゥムの発言を真意とするなら、という留保付きではあるが、彼らは平和を好み、人類を攻撃する意思はもはやない。

そうして残るのは史彦が挙げたような形式的な差異と歴史的経緯だけだが、それらが「人類とフェストゥムを区別する理由」として妥当性を有するかと言えば、感情的にはともかく、少なくとも論理的には不十分と考えざるを得ない。
すなわち、「宇宙から来た」かどうかは、要するに出身地がどこであるかというだけで、本質的な相違たり得ない。「珪素生物」かどうかは、身体的な特徴の違いがあるというだけのことだ。「これまで戦ってきた」からといって、今後も区別しなければならない理由にはならない。
結局それは、現実の人間社会に置き換えれば、「外国から来た」「肌の色の違う」「かつて敵として戦った」人種が区別/差別されるのと、スケールが異なるだけで何も変わるところがない。
そうであるにもかかわらず、史彦たちの世代は、フェストゥムがかつての敵から「変化している」ことを知識として理解しつつも、体感として感覚することができない。それが、戦いの日々をフェストゥムの力を使わずに戦い抜いた彼らの世代の在り方なのだ。

史彦は、人類を呼ぶ際に「同胞」という呼び方をする。
その呼称自体が慣用化しているとはいえ、原義をたどれば「胞」は胎盤を意味するから、結局同じ「母」から生まれたか(=広い意味で、血縁を通じているか)、という古典的な、ある意味では視野の狭い区別の方法であることを遠く示唆する。史彦が操を「同胞」とは容易に認めない(EXODUS25話で史彦が操の名を「呼ばなかった」)ことは、そうした世代間の認識の差異を非常に印象的に象徴する。

(2) 一騎たちの世代(子世代)

次の一騎たちの世代はもう少し柔軟で、人類とフェストゥムの共存を体感として、すなわち、自らの身体の一部にフェストゥムの要素が含まれるという形で理解する。だから、彼らにとって一騎や総士、甲洋や操の存在は、人類とフェストゥムの要素が混ざり合った存在として違和感なく受け入れられる。
しかし、それは人類とフェストゥムは「違う」ことを前提とした共存であり、その前提の壁を超えるものではない(フェストゥムの墓を作り、フェストゥムを「食べる」芹だけが例外)。一騎のフェストゥムに対する「還りな、おまえたちがいるべき場所へ」(本作1話)が最も端的であるが、一騎は「人類=存在=ザイン」と「フェストゥム=無=ニヒト」を厳然と区別して存在の側に立ち続ける。
それは一騎がフェストゥムとの戦いの日々において、フェストゥムと交わり合いながらも存在することを選び続けるために必要であった最も純粋で強固な意志であったが故に、一騎自身の在り方としてその壁を超えることができない。

だからこそ、その認識を次のステージに進めるためには、次の世代を待つ必要があった。

(3) 美羽、総士の世代(孫世代)と、その先へ

フェストゥムと話すことのできる美羽、そしてフェストゥムの中で育った総士は、明らかに一騎たちよりも一歩先の認識にいる。
彼らにとって、フェストゥムと人類は明示的に区別されない。美羽は人類に対してするのと同じようにフェストゥムに話しかけて通してもらおうとするし、総士はフェストゥムをフェストゥムと知らずに家族としての愛情(少なくとも、極めてそれに似たもの)を受けて育った。彼らにしてみれば、フェストゥムはもはや「絶対的に人類とは区別される存在」ではない。その感覚は、史彦たちには論外で、きっと一騎たちにも容易に理解しえない(芹ならば理解し得たかもしれない)。

本作は、いわば旧世代となった一騎の「竜宮島」に対する来訪と総士の奪還、総士にしてみれば「襲撃」と「虐殺」(敢えてこう書く)を徹底的に残酷な出来事として描くことで、根本的な疑問を提示する。

「一騎の、人類とフェストゥムを区別する認識は、本当に正しいのか?」

前作EXODUSまでの過去作品は一騎たちの世代の物語であったから、彼らの認識に基づいて物語が進んでいた。彼らのフェストゥムを「自己の一部として受け容れる」認識は親世代との対比において進歩的なものとして描かれた。
しかし今や、一騎たちの認識こそが「古い」のだ。家族であったフェストゥムを「殺した」という総士の一騎に対する弾劾が、そのことを痛烈に指摘する。
本作において、平和を生み出したのがフェストゥムで、戦いをもたらしたのが一騎たち。感情豊かなのがフェストゥムで、無感情に見えるのが人類。その全てが裏返ったような後味の悪さこそ、本作が明らかに意図的に生み出した認識のずれであり、過去作に対して改めて問い直そうとするものに他ならない。

そしてその意図的な認識のずれは、視聴者たる私の認識さえも問い直す。
私は15年以上一騎たちの世代を追いかけてきて、フェストゥムに対する認識もまた、一騎たちの認識に無意識的に寄っているところがある。一騎は主人公側、フェストゥムは向こう側で、敵から総士を奪還する一騎が『蒼穹のファフナー』という作品において正しい、そう思い込みそうになる。
しかし、本作を新しい総士の新しい物語とするなら、フェストゥムを家族と感じる総士の認識こそが本作の選択で、それに対置される一騎の認識は最終的に総士に否定されるのかもしれない。

だから実は、本作においては視聴者さえも試されているのだ。
仮に本作の選択がそこに辿り着くなら、それはきっと、視聴者たる私にも認識の修正を迫るものとなるだろう。これまで敵として多くの戦闘を繰り広げ、多くの人類の命を奪ってきたフェストゥムを、総士の家族と呼べますか、と。
その試練が来るのが恐ろしいのは確かである。私はその時、15年以上も付き合い続けた、本当に好きな作品シリーズである『蒼穹のファフナー』に付いていけなくなるかもしれないから。
しかし、それでも私は、そうして過去の認識をアップデートしてさらにその先(THE BEYOND)に進んでいく『蒼穹のファフナー』を観てみたいと、心の底から思う。そうして一つの在り方に安住することなく変わり続け、進み続ける作品にこそ、私は憧れたのだから。


3. 各話感想(その他)

本作に関して現時点で大筋で語りたいことは上で概ね語り尽したが、いくらか備忘メモを兼ねて。

(1) 1話「蒼穹作戦」

第1話冒頭、人類軍のDアイランド(竜宮島のかつての呼称)に対する侵攻。総士が奪われた経緯に関する説明はなく、その点の回想は4話以降どこかで、ということになるだろうか。

数と火力で飽和攻撃を仕掛ける人類軍と、少数精鋭で島を防衛するフェストゥムという構造自体、フェストゥムから竜宮島を守るために少数で戦う、という無印からの基本的な戦闘の構図を逆転させるもの。
人類軍だけではフェストゥムの防御を破れないが、「竜宮島部隊」は圧倒的で、フェストゥムの側からすれば絶望的だ。フェストゥムを全て無に還していく一騎と、フェストゥムとできるだけ戦わない美羽の違いは、上に書いた世代間の認識の違いをそのまま反映している。顔見せ的な他のパイロットたちの戦い方は、少なくとも一見した限りはEXODUS終盤からあまり大きく変わっているようには見えない。戦闘シーンは美麗で秀逸だが、個人的にはEXODUS9話の方が好みだった、とだけ。

しかしいずれにせよ戦況はフェストゥム側から見て苦しく、フェストゥム側の孤軍奮闘が際立つ。
この辺りの戦闘中の描写も、一騎たちの側と同様にフェストゥム側の台詞や認識にも長めの尺が割かれているのが非常に印象的で、本作は単純に一騎たち人類の側の物語の続きではなく、むしろ総士とフェストゥムの側の物語ではないかと思わせる。

弓子の姿を真似るセレノア。
弓子の姿であることを認識しながら躊躇わずに撃った真矢は、EXODUSラストから更に冷徹さを増したように思われる。彼女の在り方は、もはや竜宮島とは乖離して、人類軍のかつての在り方に限りなく近づいているように思えるが、本作がEXODUSのように「人と人の物語」ではなく総士を中心とした「人とフェストゥムの物語」に主眼を置くなら、ここの掘り下げはあまりないかもしれない。

セレノアは強力な同化能力でファフナーの能力を奪い、「自らの力で滅ぼし合え」と言うが、そのファフナーの力はもともとフェストゥムの力であることを思うと不思議なものでもある。かつては人類が懸命にファフナーを開発してフェストゥムの力に追い付き、対抗しようとしていたのに、今やファフナーとSDPが先に進んで、その能力をフェストゥムが欲しがり、あるいは利用するのだ。
この辺りも、人類とフェストゥムの関係性が逆転して、フェストゥムの側がむしろ劣勢にあることを示唆する。

(2) 2話「楽園の子」

OP映像は細かくメモを取れていないが、史彦と溝口の2人のカットの後に一騎たちが映るシーンがあり、上記でも触れたような作品全体における世代の移り変わっていくイメージを示唆しているようで興味深い。

「竜宮島」の日常。
平和だった頃の時間割や、生徒会でのお祭りの企画、リンゴ飴などかつての竜宮島と変わらないものがある一方で、灯篭流しが海ではなく空に飛んでいくのは、人類の生命の起源は海だが、フェストゥムの起源(故郷)は宇宙であることを反映したものであるように思われ、完全な模倣ではなくフェストゥムによる独自の文化としてアレンジされているように見える。
フェストゥムが食事をしていたのは割と衝撃的で、人類が食事をすることを理解したところまではEXODUSで描かれたが、料理し、食事する、というところまで進んでいるのだとすれば、少なくとも生命としての在り方に関しても、人類との大きな差異はなくなっているとみるべきだろう。
マリスの願い「島が平和でありますように」が、一騎のかつての願いと全く同じ言葉であることもまた、そうした相似形の構造を印象付ける。

「偽りの平和」。
それが無印1話の鏡写しであることは多言を要しない(本作は徹底的に、BGMさえも無印1話を引用する)。総士は平和を享受しながら、島の外に思いを馳せる。島の外を知る大人たちに追い付きたくて、自分も島の外を知りたいと思う。そして、ラジオでまだ見ぬ誰かに当てもなく語りかけるのだ。「私はここにいる」と。
それは、いつか竜宮島で観た光景に酷似していて、だからこそ、その後に訪れるものが「一騎であるとしても」、無条件で正しいとは思えなくなる。

「真実を知りたいか?」
その一騎の問いかけは、真実を知る者からすれば選択の機会を与えているようで、総士にしてみればほとんど選択になっていない。選択することで何が喪われるかを知らずに行わせる選択はフェアではない。
一騎からすれば「竜宮島」は偽りと認識しているから(選択によって失われるのは総士の「平和」だけであるから)その質問だけで十分なのだが、フェストゥムを家族と認識する総士にとってみれば、家族を喪う選択をそれと知らずに行わされたことになり、一騎への憎しみの根源となる。
その認識の相違こそが上述した世代間の認識の差異に起因するものであり、「古い」(比喩的な意味で「親」である)一騎には「新しい」(比喩的には「子」である)総士を理解できない、という展開に繋がっていくことになるのだろう。

総士を連れていこうとする一騎と、止める「乙姫」。
この場面の「乙姫」は、ある意味で一騎よりもずっと人間らしく、どちらが人間か分からなくなるような錯覚を覚えさせた。その後、「竜宮島」の住人がフェストゥムの姿を現して一騎を攻撃するシーンは、まさにファフナー出撃の裏返しに他ならない。何となれば、「大切な宝物を守るために怪物に姿を変えた」者こそが「ファフナー」であるのだから。

そうして本作は、竜宮島と「竜宮島」がほとんど鏡写しであることを随所に、やり過ぎではないかと思えるほどに強烈に示唆する。
そして、一騎はあまりにも残酷に、そうして必死に戦う「乙姫」を打倒し、そして粉砕する。いつか、フェストゥムが数多の人類を結晶に還したのと見た目さえも同じように。無論、一騎の視点からすればそれは奪われた総士を助けるために必要な戦いとして行ったことだ。しかしそうした事情は総士には知る由もなく、ただ家族を惨殺した「殺人者」にしか見えることはない。
一騎に「乙姫」を奪われた総士は、「乙姫を返せ!」と叫ぶ。かつて一騎が「総士を返せ!」と叫んだのと鏡写しに。その総士の怒りを否定するなら、それはかつての一騎の怒りを否定することと変わらない。その総士の怒りを肯定するなら、本作の一騎の行いへの否定に結び付く。

そのあまりにも裏返った構造は、私に、一体誰の在り方に寄り添えばいいのか、という困惑を、次いで、この懐疑こそが本作の意図であるという確信をもたらした。この時点までは、私はまだ、前作までの延長で一騎の視点で本作を観ていたところがあった。「竜宮島」は「偽りの平和」で、総士を早く救い出すことが「正しい」と。しかしそれは一面的な視点で、本作にはそうではない反対の視点が必要なのだと、ここでようやく気づかされた。
過去作では、「あなたはそこにいますか?」と問うものがフェストゥムで、在り方を問われる者が一騎たちだった。本作では、きっと、在り方を問う者が一騎たちで、問われる者が総士なのだ。そうして本作を総士とフェストゥムの新たな物語として再構成する、という視点の転換こそが必要なのだという思いは、このシーンで確信に至った。

(3) 3話「運命の器」

「竜宮島」から救出/拉致された総士。
総士を警戒し、すぐにでも拘束しようとする真矢の冷たい態度は、戦いの中で人型のフェストゥムに「騙された」経験によるものだろうか。

史彦たちの世代はもとより、一騎たちの世代さえも、総士を外見的には甘やかしながらも、総士の本心、総士の怒りを理解することは叶わない。フェストゥムを倒して何が悪いのか、という彼らの認識は総士の認識とは噛み合うことがなく、総士は怒りを憎しみへ変えていく。
そうした中で、ただ一人美羽だけは総士と通じ合う。「お話」を軸とする美羽の在り方は、総士にとって、初めて「話が通じる」人類であるように思えただろう。総士が人類の中において孤立しないためには、きっと、美羽の助けが必要なのだ。

海神島の「運命の器」。
それが何であるかは文脈からすぐに分かったからこそ、その後に訪れるものを予期して息を呑まずにはいられなかった。総士の人類に対する怒りと憎しみは、元々マークニヒトに植え付けられた狩谷の憎しみと容易に呼応する。ならば、その邂逅が何をもたらすかは明白であるのに、なぜそれをさせたのか。ルヴィ・カーマと呼ばれる少女の立ち位置は、現時点では明らかではない。
一つ言えるのは、戦いの備えなしに総士とマークニヒトを接触させたのは、何か意図があってのことでなければ、目的のためには海神島に対して害になることを意に介さない意思の表れだということだ。

かつての総士のメッセージ。その「遺言」は、総士に何かを為すための力を与えた。何もできなかった無力な子供を、望めば何でも成すことのできる英雄にする程の力を。
そうして、何者でもなかった少年は、マークニヒトに乗った。自らの立ち位置を確立する前に得たあまりにも大きな力は、海神島と、そして何より総士自身に、一体どんな影響を与えていくことになるのだろうか。


以上、本作に対する暫定的な感想としておく(今後、複数回の視聴により感想を更新する可能性がある)。
人とフェストゥムの関係性において前作までを超えたその先「THE BEYOND」を目指す本作の挑戦的な試みの行く末を、仮にそれが賛否両論を生むとしても、私は最後まで見届けていきたいと考えている。

(5/20:感想続きを更新。)