「鳥語」ということば
  ----天才俳人「福永耕二」管見----
             渕 脇 逸 郎
 念のためと思って「ちょうご」で広辞苑を
ひもといてみたが、予想通り「鳥語」はなか
った。あったのは本文に関係のない次の三つ
であった。「重五」 陰暦五月五日の節句、
端午。「釣語」 さくわ、索話。「超悟」 人
にすぐれて賢いこと。
 ちなみに「じんご」 のところには 「人語」
人間の言語、人の話声。とあった。
 福永耕二の処女句集(昭和四七年十月発行)
の名が 「鳥語」である。耕二は全てのもの
(特に昆虫・動物・鳥類・植物など)  に人の
陪興味を示し、これらと接するときの態度・
表情は、おだやかで、にこやかで、誰が見て
も至福の状態という言葉がぴったりであった。
 犬がピアノに合わせて歌ったり、植物の蘭
でさえ、心地よいピアノを聞いて、きれいな花
を咲かすのだという。耕二はまさに鳥語(鳥の
言語)を解した一人であった。
 錦木や鳥語いよいよ滑らかに  耕二
 耕二は自分の句集「鳥語」の後記に「句集
名を『鳥語』としたのは、その言葉が文字・
響きともにただなんとなく好きだったからと
いうにすぎない。」と書いている。
 中村草田男は、王安石の詩の一節「萬緑叢
中紅一点」からヒントを得て「萬緑」という
言葉を自分の俳句にとりいれた。
 萬緑の中や吾子の歯生え初むる  草田男
そして「長子」「火の島」につづく第三句集
名を「萬緑」とした。自分が主宰する俳誌名
をも「萬緑」として、俳句に最初にとりいれ
たことを誇りにしているように思われる。
 その後「萬緑」と言う言葉は、たいていの
歳時記に季語として、前記の句と共に掲載さ
れるようになった。
 水原秋桜子は、句集「鳥語」の序文に「今
の俳壇に、亡き石田波郷のような作者が早く
現れゝばよいと思っていた私は、最近になっ
て、案外福永耕二君がそれに近いのではない
かと思うようになった。」と書いておられる。
その石田波郷は句集「惜命」の中の一句に
「溲壜」(しびん:動けない病人などが、部
屋や床の中で使う小便を入れる瓶)という言
葉を使った。その句は
 秋の暮溲壜泉のこゑをなす  波郷
である。溲壜の音を泉のこゑと聞いた人は、
おそらく波郷が最初であったろう。
 耕二は句集「鳥語」の後記に「僕の理想と
する句集は、句数はたとえ百句でもよい、制
作年代などは無視して一句一句がぬきさしな
らぬ位置を占め、全体として一つの作品を構
成しているような、そういう句集であった。」
とも書いている。僕はこの文章に、耕二のな
みなみならぬ気負いと、俳句の典型を求めて
やまない一種の若きバイタリティを感じる。
それだけに殊更句集名にこだわったのではな
いかと思う。「鳥語」という言葉の出典は知
らない(耕二の造語と思うのだが)。ともか
くも耕二が初めて俳句におりこんだ言葉であ
ると僕は思う。自分の第一句集名を「鳥語」
とするにあたって、草田男の「萬緑」や波郷
の「溲壜」が、耕二の頭のどこにもなかった
とは思われないのである。
 昭和四七年牧羊社の処女句集シリーズ十七
巻の中の一巻としての「鳥語」は、その句集
名からして、著者のなみなみならぬ思い入れ
と水原秋桜子がその序文で、石田波郷を引き
あいに出していることもあって、ことのほか
おもきを成しているというべきであろう。
俳句の典型を求めてやまない福永耕二の側
面を少し記しておこう。
 耕二は昭和十三年一月四日、鹿児島県川辺
郡川辺町に生まれ、鹿児島ラ・サール高校を
経て鹿児島大学に入学した。学生の若さで、
水原秋桜子主宰の俳句誌「馬酔木」の巻頭
を飾り、馬酔木の新樹賞に輝き、後に馬酔
木の編集長を勤めた。馬酔木賞、沖賞、俳
人協会新人賞などを受賞。句集に「鳥語」
「踏歌」、「散木」があり、『現代俳句歳
時記』(大泉書店)などの共著がある。
 昭和五五年十二月四日、敗血症に心内膜
炎を併発して急逝、四二歳。黒坂昭二
(紫陽子)は平成元年十二月四日、耕二の
九度目の命日に耕二の遺作集「福永耕二
(俳句・評論・随筆・紀行)」を発刊して
いる。
 僕の知る耕二の大部分は、耕二の学生時代
である。耕二が在籍していた文理学部国文科
は鹿児島市荒田町にあり、その頃の荒田町に
は耕二より若輩の俳友が多く、同輩や年輩俳
友のいた教育学部は、同市伊敷町にあった。
 伊敷町の教育学部で俳句会があり、その帰
りの道中(大学のキャンバス内を歩きながら)
声を荒げて議論を始めていた。相手は佐土原
盛、丸山眞、林洋介などであったと思う。先
刻の句会に出た句の批評のつづきである。俳
句の座五の終わりに「に」を使ってはいけな
い。「に」はいかにも語感が悪く、しかも説
明調になりやすい。というような内容だった
と記憶する。そしておれは一生使わないであ
ろうと言ったのは耕二であった。
 浜木綿やひとり沖さす丸木舟  耕二
 啓蟄や怒りて折りしペンの先  耕二
 かくれ湯の真昼よどめり夏薊  耕二
 パン屋の窓いつも曇れり春嵐  耕二
当時の耕二の句は、ここに記した四句のよう
に、上五の終わりが「や」の切れ字で座五は
名詞止め、中七の終わりが切れ字で座五は名
詞止めといった、伝統的でやや古くさいそれ
でも俳句の基本型中の基本的句型が圧倒的に
多かった。俳句の骨法を会得せんがためであ
ろう。そしてこの四句共十三文字から成って
いる。当時の耕二は、句稿の度に文字数を確
認していた。そして十三文字にするために、
漢字にしたり、平仮名にしたりして推敲して
いるのを再々見たことがある。一つのこだわ
りであり、推敲の徹底である。
 「角(格)に入りて角(格)を出でざれば
即ちせまし、角(格)に入りて角(格)を出
づれば即ち自由自在なり」の格言の通り、俳
句の伝統的句型に没頭していた当時の耕二に
は、座五の終わりに「に」などは考えられな
いことであったのだろう。
 福永耕二を語るとき、必ず出てこなければ
ならない多くの俳人がいる。米谷静二、中絛
明、水原秋桜子、能村登四郎、林翔など上げ
ればきりがない。耕二と同じ鹿児島県人を上
げるならば、石田波郷の俳誌「鶴」の風切賞
が与えられた中絛明はその筆頭であろう。
 明の第一句集「解纜」(昭和四四年九月、
竹頭社発行)の後記に、明自身が「謹んでこ
の一巻を世に問いたい」と書いている。この
一文で、俳句の典型を求めることにおいては、
耕二に優るとも劣らぬ情熱の持ち主であるこ
とがわかる。
 石田波郷は、句集『解纜』(かいらん:と
もづなを解く意。船の出帆すること。ふなで。
)に序句として記している。
  中 絛  明
 鰯 雲 船 乗 君 は 船 へ 帰 る  波郷
明と耕二は、よき俳友であり、よきライバル
同士でもある。夜を徹して俳論を戦わすにふ
さわしい仲間とでも記しておこう。
 福永耕二の第一句集「鳥語」は、中絛明に
僕はもらった。そして句集名のもとになった
であろう次の句を凝視していた。
 錦木や鳥語いよいよ滑らかに  耕二
上五の終わりの「や」は良いとしても、その
句の座五の終わりが「に」であるからである。
耕二が、一生使わないであろうと学生時代に
言っていた「に」のことを思い出していたの
である。この句が「角(格)に入りて角(格)
を出でざれば即ちせまし、角(格)に入りて
角(格)を出づれば即ち自由自在なり」の境
地の俳句であるかどうかは、僕にはわからな
い。又、一句として出来上がる過程で、先に
「鳥語」の言葉を思い浮かべて成った句であ
るか、鳥語を聞いていた耕二が、それこそ滑
らかに自然発生的に鳥語の言葉が句の中に入
ってきたのか知る由もない。いやそんなこと
はどうでもよいことである。耕二が自分の第
一句集名にしたほどまでに「鳥語」にこだわ
った理由が、ぼくにはわかるような気がする。
鳥語はまさしく福永耕二の言葉であり、耕二
は鳥語を解したからである。そしてその言葉
を使った句が、若い時代には、忌み嫌った、
座五の終わりが「に」止めになっている句型
を成していることなど問題ではなかったので
ある。
 最後に敬称の省略と我田引水をお詫びし
ます。文中の「溲壜」の文字が不適当な場
合はお許し願います。
         平成五年五月五日 記
(後日記)
 本文は随筆かごしま社発行の八十号記念
爽秋号「随筆かごしま」に掲載されたもの
です。
 「鳥語」という言葉の使用例の一つを記
しておきます。
 日本画の大家川合玉堂の昭和二七年頃の
作品に『水声鳥語』と名付けられた作品が
あります。玉堂は短歌も愛し歌集「多磨の
草屋」がある。耕二は初期の頃短歌を作り、
絵や音楽にも関心が強かった。耕二がこの
玉堂の作品と名称を知っていたことも考え
られます。作品は紙本彩色・軸装、玉堂が
愛した梅、お気に入りの水車と筧が描かれ、
その筧には、ヒヨドリらしい二羽の鳥がい
ます。 以上