2010年10月
2010年10月31日
小豆を待ちながら
『ウジェーヌ・ヴァルモンの勝利』 ロバート・バー 国書刊行会 読了。
面白かった。まだこんな本が残っていたのか! ロバート・バーとはこんな作家だったのか! それにシリーズものであったとは。
「チゼルリッグ卿の失われた遺産」も読んだことはあり、連作との紹介はされているはずなのに、すっかり忘れていた。
「うっかり屋協同組合(健忘症連盟)」は、中学生のころ『世界傑作短編集』で読んでいて、どこがそんなに面白いのか、何が「奇妙な味」なのか、分かるようで分からなかった。
そんなことあるはずないし、読解力がなく重要な点を読み落としたのかと思っていた。
ところが、今回あらためて読んでみてびっくりした。
これは、現在のリボ払いや電子マネーではないか!
リボ払いは毎月定額の支払いである。毎月の固定出費みたいになってしまって、しかも「無理のない」額だから、何の代金なのかじっくり見る人は少ないのではないか。手数料がちょこっとくらい上がっても気がつかないに違いない。
電車だってそうだ。以前は、目的地までの料金を確認して切符を買ったが、今はピコッと通り抜けられる。270円と表示されても「確かそんなものだったろう」と見過ごす。
100以上年前に予言された今日。年を取って物忘れが多くなった今、この作品の面白みが理解できた。
それにしても乱歩はさすがである。「奇妙な味」という表現も素晴らしい。
たとえ日本だけであったとしても、ミステリの好きな人の中では、この曖昧な定義が十分に通用するのだから。
もちろん「うっかり屋協同組合」だけではない。巻末の「レディ・アリシアのエメラルド」なんてほろりとしてしまいました。
SRマンスリーの10月号が届いていたのであった。今号はおなじみの、乱歩賞合評である。
面白かった。まだこんな本が残っていたのか! ロバート・バーとはこんな作家だったのか! それにシリーズものであったとは。
「チゼルリッグ卿の失われた遺産」も読んだことはあり、連作との紹介はされているはずなのに、すっかり忘れていた。
「うっかり屋協同組合(健忘症連盟)」は、中学生のころ『世界傑作短編集』で読んでいて、どこがそんなに面白いのか、何が「奇妙な味」なのか、分かるようで分からなかった。
そんなことあるはずないし、読解力がなく重要な点を読み落としたのかと思っていた。
ところが、今回あらためて読んでみてびっくりした。
これは、現在のリボ払いや電子マネーではないか!
リボ払いは毎月定額の支払いである。毎月の固定出費みたいになってしまって、しかも「無理のない」額だから、何の代金なのかじっくり見る人は少ないのではないか。手数料がちょこっとくらい上がっても気がつかないに違いない。
電車だってそうだ。以前は、目的地までの料金を確認して切符を買ったが、今はピコッと通り抜けられる。270円と表示されても「確かそんなものだったろう」と見過ごす。
100以上年前に予言された今日。年を取って物忘れが多くなった今、この作品の面白みが理解できた。
それにしても乱歩はさすがである。「奇妙な味」という表現も素晴らしい。
たとえ日本だけであったとしても、ミステリの好きな人の中では、この曖昧な定義が十分に通用するのだから。
もちろん「うっかり屋協同組合」だけではない。巻末の「レディ・アリシアのエメラルド」なんてほろりとしてしまいました。
SRマンスリーの10月号が届いていたのであった。今号はおなじみの、乱歩賞合評である。
2010年10月28日
2010年10月26日
2010年10月25日
2010年10月19日
2010年10月17日
2010年10月16日
2010年10月14日
かわいい白クマ
『災厄の町』 エラリイ・クイーン HPB 読了。
私の持っているのは、昭和50年10月15日改訂1版発行のもので、どうやらその翌々年昭和52年1月16日に大阪の旭屋で買ったようだ。680円である。
冬休みは終わっているが成人の日からみで連休であったのであろう。
本を買うのはお年玉であったかもしれないが、汽車賃は親にねだっていたに違いない。片道だけでもこの本より高かった。
急行に乗ったろうか? 乗ったこともあった。よく許してくれたものである(ただし小遣い制ではなく、普段は財布を持ち歩かなかった)。
1年以上あるのに増刷されなかったのだろうか。全集からの落下とはいえ、入手は比較的難しかったはずである。いや、昭和40年代はそのくらいに翻訳ミステリが読まれなかったのであろう。
何を書いているのだ。内容に関係ないではないか。
今回読んだのは、EQFCの読書会のためなのであるが、一つ確認したいことがあった。
それは、この作家が、この物語をどういう書き方をしているかという点だった。
この物語、発端から解決までが長く−田舎の事件は長く、都市の事件は短い。なぜなら田舎の事件は、その萌芽から書かなければならないから−そのために、文章的にどのようなテクニックを使ったかというのが気になったからである。
その答えは、端的に言えば、探偵を消し去った。
この中で、解決編以外は、エラリイは、実際にも匿名なのだが、狂言回しですらない。時々のぞき見をするわき役の一人である。
読者は彼が「エラリイ・クイーン」と知っているから、いつあの「名探偵」になるのかと思って期待しているが、なかなかその正体を現さない。
最高に欲求不満がたまったところで、快刀乱麻を断つが如く。なるほどね。今までの実績が伏線か。
この作品の枠構造は、今でもその劣化コピーが大量に吐き出されている気がするよ。
例えば叙述トリックとかね。
よけいなことではあるが、その点について追加。
『災厄の町』は、登場人物が登場人物たちを欺く構図を作り上げて遂行し、登場人物が登場人物に対してそれを説明する。ただし、作品の外側にいる読者も、よく考えれば解くことができる。
現在の日本でよく見られるような叙述トリックは、作家が作品の外側にいる読者を欺く構図を作り上げ、登場人物を使って遂行し、作家もしくは登場人物が、読者に対してそれを説明する。
いずれであっても、すぐれた作品もあり、くだらない作品もある。
しかし、どちらが困難な作業かといえば、私は前者と考える。
私の持っているのは、昭和50年10月15日改訂1版発行のもので、どうやらその翌々年昭和52年1月16日に大阪の旭屋で買ったようだ。680円である。
冬休みは終わっているが成人の日からみで連休であったのであろう。
本を買うのはお年玉であったかもしれないが、汽車賃は親にねだっていたに違いない。片道だけでもこの本より高かった。
急行に乗ったろうか? 乗ったこともあった。よく許してくれたものである(ただし小遣い制ではなく、普段は財布を持ち歩かなかった)。
1年以上あるのに増刷されなかったのだろうか。全集からの落下とはいえ、入手は比較的難しかったはずである。いや、昭和40年代はそのくらいに翻訳ミステリが読まれなかったのであろう。
何を書いているのだ。内容に関係ないではないか。
今回読んだのは、EQFCの読書会のためなのであるが、一つ確認したいことがあった。
それは、この作家が、この物語をどういう書き方をしているかという点だった。
この物語、発端から解決までが長く−田舎の事件は長く、都市の事件は短い。なぜなら田舎の事件は、その萌芽から書かなければならないから−そのために、文章的にどのようなテクニックを使ったかというのが気になったからである。
その答えは、端的に言えば、探偵を消し去った。
この中で、解決編以外は、エラリイは、実際にも匿名なのだが、狂言回しですらない。時々のぞき見をするわき役の一人である。
読者は彼が「エラリイ・クイーン」と知っているから、いつあの「名探偵」になるのかと思って期待しているが、なかなかその正体を現さない。
最高に欲求不満がたまったところで、快刀乱麻を断つが如く。なるほどね。今までの実績が伏線か。
この作品の枠構造は、今でもその劣化コピーが大量に吐き出されている気がするよ。
例えば叙述トリックとかね。
よけいなことではあるが、その点について追加。
『災厄の町』は、登場人物が登場人物たちを欺く構図を作り上げて遂行し、登場人物が登場人物に対してそれを説明する。ただし、作品の外側にいる読者も、よく考えれば解くことができる。
現在の日本でよく見られるような叙述トリックは、作家が作品の外側にいる読者を欺く構図を作り上げ、登場人物を使って遂行し、作家もしくは登場人物が、読者に対してそれを説明する。
いずれであっても、すぐれた作品もあり、くだらない作品もある。
しかし、どちらが困難な作業かといえば、私は前者と考える。