2009年11月

2009年11月29日

疲れは品質を落とします

 じつは9月下旬頃から,ほとんど休みなく仕事をしていました。スクールソーシャルワーカーの仕事に,ある専門学校から社会福祉士通信教育課程のスクーリングで,「低所得者に対する支援と生活保護制度」の講義やその後の試験対策の講義等を引き受けたり,任意後見のおばあちゃんの入院があったりしたため,2ヶ月で数日しか休めませんでした。そのため,途中で激しい疲労感が襲ってきたりし,仕事がはかどらず寝付けないことも少なからずありました。

 その結果,28日に担当した試験対策講座の講義は,話している自分自身がよくわからない中身になってしまいました。聴いていた受講者の方にはますますわからなかったでしょう。
 またスクールソーシャルワーカーの仕事でも,いくつか不適切な判断をしてしまいました。

 情けない限りですし悔しいです。疲労があろうとも,プロとして,専門職として質の低い仕事は許されません。独立型社会福祉士として一番大切なのは,質の高いソーシャルワーク実践です。そのためには,日々の研鑽は当然ですが,深い洞察に基づく冷静な判断やケースへの丁寧な関わりが一番大切です。それが出来ていなかったのですから,大いに反省しなければなりません。

 質の高いソーシャルワーク実践を提供していくためには,適切な休みは必要だなぁと改めて自覚しました。いかんせんまだ完全に健康を取り戻していませんから,尚更無理をせずに丁寧に仕事をしていかなければならないと,反省しています。

 ちなみに,ようやく休みが取れたので,昨日(29日)から今日は久しぶりに女房と出かけています。仕事のことが頭にない状態が,こんなに楽なのだと痛感しています。

2009年11月28日

個人情報保護ということ

 「個人情報の保護」が言われて久しいですね。確かに,「突然ダイレクトメールが届く」「見知らぬ人から電話が入る」「迷惑メールが多数送信される」ということは,私自身今も不愉快に思っておりますし,「知っていてほしくない」人ほど知っているのが個人情報なのだと,改めて痛感しています。

 逆に「知っていてほしい」人に個人情報が届かなくなり,これまでとは別の「手間」がかかっていることもたくさん見られるようになってきていると思います。

 実はスクールソーシャルワーカーが第三者から個人情報をいただくということについては,法的な根拠がないのではないか,という指摘をいただきました。要するに,個人情報保護法(以下「法」)第23条に規定する「第三者提供の制限」に,抵触するのではないか,ということです。

 今の仕事(関わるようになるきっかけ)は,
1 担任や養護教諭経由で相談
2保護者の方から担任や養護教諭経由で相談
3 学校内の会議でソーシャルワーカーの関与が必要であると判断され関係機関と連絡を取り合いながら生徒さんや保護者と関わっていく
 というのが主な流れになっています。

 1・2については,相談(インテーク)がありますので,個人情報の収集について最初に了解をいただき,他機関への提供については,必要があると判断した際にその都度了解を得るようにしています。
 問題は3です。生徒さん自らはもちろん,保護者が必ずしも関与を求めていないが,スクールソーシャルワーカーとしては関わっていくことがこども(生徒さん)にとって利益であると判断される場合,私は関与していくことにしてきましたが,この過程での個人情報収集が問題なのでは,という指摘です。


 この指摘を受け,あわてて個人情報保護法を所管している消費者庁の個人情報保護のホームページ(内閣府所管時代のものです)を確認したところ,「個人情報の保護に関するガイドラインについて」というページに厚生労働省の見解として,「福祉関係事業者における個人情報の適正な取扱いのためのガイドライン」や,「医療・介護関係事業者における個人情報の適切な取扱いのためのガイドライン」が示されています。
 そして「医療・・・」の22ページには,「学校の教職員等から、児童・生徒の健康状態に関する問い合わせがあったり、休学中の児童・生徒の復学の見込みに関する問い合わせがあった場合、患者の同意を得ずに患者の健康状態や回復の見込み等を回答してはならない。」とあります。「学校の教職員」ですから,当然スクールソーシャルワーカーもそこに入るでしょう。
 そうなると,病院に生徒さんの病状を「登校見込みを把握する」目的で,保護者さんの同意なしで訊ね,病院もそれを提供することは,個人情報保護法上違反となるのです。

 ただ法第23条第1項には,以下のような例外規定があります。

一 法令に基づく場合
二 人の生命、身体又は財産の保護のために必要がある場合であって、本人の同意を得ることが困難であるとき。
三 公衆衛生の向上又は児童の健全な育成の推進のために特に必要がある場合であって、本人の同意を得ることが困難であるとき。
四 国の機関若しくは地方公共団体又はその委託を受けた者が法令の定める事務を遂行することに対して協力する必要がある場合であって、本人の同意を得ることにより当該事務の遂行に支障を及ぼすおそれがあるとき。

 このうち,第3号の「児童の健全な育成の推進のために特に必要」な場合には,「虐待事例について関係機関との情報交換を行う場合」はこれに該当するとされています。(「福祉関係事業者・・・」の18ページや「医療機関・・・」の23ページ)


 さらに,スクールソーシャルワーカーが教育行政機関に所属し,情報提供先も行政機関である場合には,行政機関が保有する個人情報保護法も考慮しなければなりません。
 この法律第8条第2項に,利用目的以外の個人情報の使用について,以下のように規定しています。

一 本人の同意があるとき、又は本人に提供するとき。
二 行政機関が法令の定める所掌事務の遂行に必要な限度で保有個人情報を内部で利用する場合であって、当該保有個人情報を利用することについて相当な理由のあるとき。
三 他の行政機関、独立行政法人等、地方公共団体又は地方独立行政法人に保有個人情報を提供する場合において、保有個人情報の提供を受ける者が、法令の定める事務又は業務の遂行に必要な限度で提供に係る個人情報を利用し、かつ、当該個人情報を利用することについて相当な理由のあるとき。
四 前三号に掲げる場合のほか、専ら統計の作成又は学術研究の目的のために保有個人情報を提供するとき、本人以外の者に提供することが明らかに本人の利益になるとき、その他保有個人情報を提供することについて特別の理由のあるとき。


 ここで重要なのは第3号・第4号だと考えています。すなわち,児童相談所や福祉事務所等がスクールソーシャルワーカー(教育委員会)に保有する個人情報保護を提供することが,教育委員会の事務,すなわち「こどもが教育を受ける権利を保障する」という事務に資するということ(第3号),そして虐待の疑いがあるようなこどもについては,教育委員会に情報を提供すること(すなわち学校現場での虐待の早期発見等)が「本人以外の者に提供することが明らかに本人の利益になる」(第4号)ことを,スクールソーシャルワーカーとして証明していかなければならないのです。

 個人情報保護を厳格に捉えてしまうと,スクールソーシャルワーカーとしての仕事は成り立ちません。ですから,厳格に捉えようとする風潮については,一定の歯止めをかけ,「活用できない個人情報保護」ではなく「有効に活用することで『こどもの健全育成』(こどもの利益)につながる」ような個人情報の利用について,考えていなかければならないと思っています。
 また今の現場の一部には,あまりにも厳格なとらえ方をするあまり,ソーシャルワークの基本的な機能である「連携」をも許さない雰囲気になっていることには,何らかの改善を働きかけていかなければならないと考えています。




 ただいかんせん,日々前例のない仕事ゆえ,こうしたことにきちんとした注意を払ってこなかったことを,今更反省しているところです。
 そして自分自身,指摘を受けて勉強させていただく中で,本人(保護者)の同意がなくとも「スクールソーシャルワーカーに情報を提供することは,こどもの健全育成,すなわちこどもの利益になる」という仕事をしていかなければならない,と改めて痛感しています。

2009年11月26日

さはらさはら様からの丁重なコメント

 鹿児島国際大学のbonn1979先生のブログからお邪魔した,さはらさはら様より丁重な,かつ重い宿題をいただくコメントがありました。

 自分自身は研究者ではなく,単なる実践者の一人なのですが,実践者だから見えることがあるのでは,という思いでこれから少しずつやらせていただこうと思うテーマです。


(以下コメントからの引用)


Maa-chan様

コメント、拝受致し、小生の勉強不足と、これからの課題の示唆をいただけたこと、厚く御礼申し上げます。


お役所のお方に、「高い実践力」のお話を問うても難しいでしょうね。何だかよくわからないけど、それを専門職間で議論して欲しいと言っているようなメッセージと受け取りました。


小生は、もし高い実践能力のお話を議論するのであれば、次の準拠枠を提示致します。


1.Evidence-Based Social Workの思考をソーシャルワーク実践に注入し、あわせて社会福祉士の実践にも適用する(Evidence-Based Social Workの内容については、関東学院大学文学部の秋山薊二先生のHpをご参照下さい)
URL=http://home.kanto-gakuin.ac.jp/~akiyak2/


2.(1)岡本民夫、平塚良子編著(2004)『ソーシャルワークの技能-その概念と実践』(http://www.minervashobo.co.jp/book/b48707.html)、ミネルヴァ書房、においては、ソーシャルワークのスキルについてソーシャルワーカのコンピテンス(能力)やスキルの詳細(データ共有、対話、チームの形成、契約、連結等)が述べられています。


(2)平山尚ほか(1998)『社会福祉実践の新潮流-エコロジカル・システム・アプローチ』ミネルヴァ書房(http://www.minervashobo.co.jp/book/b48498.html)においては、ソーシャルワークのインターベンション(介入)のうち、個人、グループ、オーガニゼーション(組織)等への介入方法についての手法が述べられています。



(3)平山尚、武田丈(2000)『人間行動と社会環境-社会福祉実践の基礎科学』(http://www.minervashobo.co.jp /book/b47967.html)においては、ソーシャルワーク実践に必要な基礎科学(心理学、社会学、精神医学等)が論じられています。


3.コロンビア大学、ソーシャルワーク大学院(School of Social Work)
(http://www.columbia.edu/cu/ssw/curriculum/map/)のサイトを見ると、Foundation Curriculumが必修となり、Social Work Research 、Human Behavior and the Social Environment 、Social Welfare Policy 、Foundations of Social Work Practice 、Direct Practice with Individuals, Families & Groups、Advocacy in Social Work Practice: Changing organizations and communities, influencing social policies and political processes 等の科目が並びます。つまり、こうした基本的科目をベースとして、領域科目(高齢者、障碍者、児童・家族、)、必要なメソッドとプログラムを学ぶ専攻コースが要求する科目、そして専攻コース科目とリンクした実習(FIELDS OF PRACTICE)、特定の課題を学ぶ科目に分化しているようです。ここでは、アカデミック(研究)プログラムではなく、実践に必要なプログラムを学ぶ構造になっているようです。


そこで考えられるのは、教養教育(4年間の学資教育)と専門職教育(2年間)あるいは研究者養成科目(5年間)を明確に分離し、社会福祉士養成は、全面的に学部から切り離すしか、「高い実践力」を持つ社会福祉士を養成することはできないと考えております。


現在の社会福祉士養成を巡る混乱は、教養教育である学部4年間の科目に、社会福祉士のような専門職養成教育を並立させようという所に、無理が生じているのではないかと考えるのです。教養教育では、文系、理科系というくくりはありますが、どの領域に行っても必要なさまざまな判断力、思考力を養う場です。しかしながら専門職教育は、そうした教養教育が備わっていることを前提にして行うべきものですから、現在の教育システムはかなり高級で無茶なことを行っている訳です。ここでは、よほどの天才でもない限り、こなせないプログラムであるように思います。


さもなければ、かつてR.ピンカーが主張した、ように、養成内容を養成校協会等で縛るのではなく、大学の自主性に任せることによって達成する方法をとるべきでしょう。その際は、社会福祉士の指定科目というくくりではなく、司法試験のように、この科目から出題しますから、受けたい方は受けて下さい。その後、司法研修生のような方式をとって、実践方法を十分に教授するやり方の方が、よろしいような気がします。


まとまりのないお話ですが、小生も日本社会福祉学会、日本ソーシャルワーク学会等の会員として、十分反省すべき内容のレスポンスでした。

(引用終わり)



 本当にこれだけのコメントにお返しするような,知識もありませんし,実践も伴っていません。ただそんな未熟な実践であっても,何かお役にたて,それが「エビデンス」となるようなものであれば,恥ずかしながら言語化をどこかでしなければ,と思っています。

 重たい宿題です。数年かかりそうですね。(専門職大学院でしたので,いわゆる「修士論文」は書いていないので,それを書くつもりでやりましょう)

2009年11月23日

中島みゆきさんの歌詞はソーシャルワークの倫理です。

 中島みゆきさんの歌詞を改めて読み直してみると,ソーシャルワークの「倫理」と「価値」そのものではないか,と思うことがあります。

 1992年3月に発表された,「誕生」という曲の歌詞を全文掲載します。この曲は,1999年から高校の国語の教科書に掲載されている曲です。



ひとりでも私は生きられるけど
でもだれかとならば 人生ははるかに違う
強気で強気で生きてる人ほど
些細な寂しさでつまずくものよ
呼んでも呼んでもとどかぬ恋でも
むなしい恋なんて ある筈がないと言ってよ
待っても待っても戻らぬ恋でも
無駄な月日なんて ないと言ってよ

 めぐり来る季節をかぞえながら
 めぐり逢う命をかぞえながら
 畏れながら憎みながら いつか愛を知ってゆく
 泣きながら生まれる子供のように
 もいちど生きるため泣いて来たのね

Remember 生まれた時
だれでも言われた筈
耳をすまして思い出して
最初に聞いた Welcome
Remember 生まれたこと
Remember 出逢ったこと
Remember 一緒に生きてたこと
そして覚えていること


ふりかえるひまもなく時は流れて
帰りたい場所が またひとつずつ消えてゆく
すがりたいだれかを失うたびに
だれかを守りたい私になるの

 わかれゆく季節をかぞえながら
 わかれゆく命をかぞえながら
 祈りながら嘆きながら
 とうに愛を知っている
 忘れない言葉はだれでもひとつ
 たとえサヨナラでも 愛してる意味

Remember 生まれた時
だれでも言われた筈
耳をすまして思い出して
最初に聞いた Welcome
Remember けれどもしも
思い出せないなら
わたし いつでもあなたに言う
生まれてくれて Welcome
Remember 生まれたこと
Remember 出逢ったこと
Remember 一緒に生きてたこと
そして覚えていること



 アメリカでは,赤ちゃんが誕生した時に,親は赤ちゃんに向かって「Welcome」という習慣からあるそうです。その習慣からこの歌詞を書いたと,中島みゆきさんは説明していたと思います。人は生まれてきたことがすべて「Welcome」なのです。それには,人種や肌の色,経済的なことは関係ありません。
 そして何より,「Remember けれどもしも 思い出せないなら わたし いつでもあなたに言う 生まれてくれて Welcome」は,ソーシャルワーカーによるエンパワメントなのかなぁと思えてなりません。虐待等を受けてきた人は,時に「おまえなんか産まなきゃよかった」という類のことを言われていることが多いと思うのですが,そうした自己否定感情を少しでも和らげてもらえるよう,支援者として「産まれてきてくれてありがとう」と言うということなのでしょう。


 中島みゆきさんが,1970年代後半からずっと第一人者でいられるのは,「失恋」を歌う歌い手ではなく,癒しの歌い手だからではないか,と思えてなりません。

 一度じっくり,中島みゆきさんの歌詞を,読んでみてはいかがでしょうか?
fukushi_ashi at 01:27|この記事のURLComments(0)TrackBack(0)

2009年11月20日

sanaeさんへの返信コメント

 9月28日の「生活保護費の返還」という記事を書いたところ,sanaeさんという方からコメントをいただきました。
 どうしてもコメントの長さが制限の800文字を超えるので,記事にてコメントをさせていただきます。



 コメントありがとうございます。また返信が遅くなり申し訳ありません。


 記事にも書きましたが,生活保護法第80条に「返還免除」という規定があります。「臨時収入」(今回のような場合や,裁定請求を忘れていた年金,満期を迎えた簡易保険等)があった場合で,かつ生活必需品が古い等の理由でやむを得ず買い換えたことで金銭を消費した場合等に,返還を免除できるという規定です。(「やむを得ない事情」ということになります)

 確かに,厳密に生活保護法を運用すれば,「年金を受け取る資力があったにもかかわらず資力を活用していない」として法第63条による返還となるのでしょう。しかし第63条の運用を厳格に見る(生活保護手帳2009 中央法規 P.517を参照)と,「そもそも資力があることを知っているが,何らかの事情で活用できない,あるいは活用せず後に活用することで生活保護を利用しなくてもよい場合」は生活保護を実施した上,資力が発生した時には返還になることを必ず説明しなければならないとされています。(生活保護手帳本文はもう少し難解な書き方でしたので,要約しました)

 今回の「消えた年金」については,確かに「資力があった」のでしょうが,それを活用することができない状態でしたし,受給者側は知る由もなかったのですから,一律返還という運用にはいささか(というかかなり)画一的過ぎるという印象を持っています。

>  消えていた記録箇所は、母が働き始めた、
>  昭和20年代のものです

 お母様は戦後,一生懸命働いてこられたのですね。長い間ありがとうございます。

> 生活保護によって生かされている身で大きな事は云えませんが。

 生活保護を受けている,いないは関係ありません。おかしいことには,どんどんと異議を唱えてください。

> たった2日間しか議員である日がない初当選議員に月給を満額支給の方が余程おかしいですし、議員の給料が一番の無駄遣いです。

 この国には,たくさんの無駄遣いがあります。「事業仕分け」が必ずしもよい方法なのかはわかりませんが,50年間のツケはあまりにも大きいので,少しずつ改まっていくよう,政治も監視していきましょう。

 これからもいらしてください。


 このように,当事者の方に読んでいただけたことに,発信していてよかったと思いますし,もっと当事者の目線に立った記事をこれからも書かなければ,と改めて身が引き締まる思いです。
fukushi_ashi at 00:34|この記事のURLComments(0)TrackBack(0)

2009年11月17日

「その人」は「その人」であり続けます

 ブックマークをさせていただいている,どりーむさんの「第238回 一つの入所支援におもう」,岩清水さんの「住宅型有料老人ホームに入所された方からの電話。」を読みながら,自分自身過去に施設入所措置を仕事にしていたので,何か記事にしたいなぁと思っていたところ,11月13日の朝日新聞で「「小1プロブレム」、東京の公立小24%で」という記事がありました。記事を全文引用します。



 小学1年の児童が教室で立ち歩いたり、勝手に出て行ったりして授業が進まない状態が昨年度、東京都の公立小の4分の1で起きていた――。都教育委員会は12日、こんな調査結果を明らかにした。こうした状況は「小1プロブレム」と呼ばれて各地で問題になっており、都教委の担当者は「1年生の授業が混乱する事態は珍しくないことが裏付けられた」としている。

 都教委によると、調査は都内の全公立小学校長約1300人が対象で、昨年度勤務した学校での状況を尋ねた。「1年生が落ち着かない状態が続いた」と答えた校長は24%。発生時期は4月が57%で最も多く、「年度末まで続いた」という回答も55%に上った。

 児童の様子で多かった回答は、「授業中に立ち歩いたり、教室を出て行ったりする」(69%)、「担任の指示通り行動しない」(62%)など。実施した対策で最も多いのは「他の教諭が学級に入って協力した」(63%)で、「非常勤講師などの派遣を受けた」(37%)もあった。

 効果的と思える対策を尋ねると、「担任を補助する教員の配置」(81%)、「1学級の児童数の削減」(64%)などの回答が多かった。都教委の担当者は「教員同士や保護者との協力で取り組んだ事例集を作るなど、解決へ向けた対応を考える」と話した。(岡雄一郎)

(引用終わり)


 ちょっと考えてみると,はじめに制度があるんですね。高齢者でいえば「在宅」であり「施設(病院も含め)」がありますし,教育でいえば「幼稚園・保育園」「小学校」「中学校」があります。
 でも制度を利用するのは「その人」です。「その人」はどこにいようとも「その人」でしかない,と考えると,どうも制度を先に考えることに違和感をちょっと感じたので,そんなことを記していきたいと思います。

 高齢者の仕事をしていた頃は,まだ介護保険制度発足前でしたので,措置という形で老人ホームをご利用いただいていました。
 措置機関のソーシャルワーカーとして,老人ホームに伺うこともしばしばありましたが,その時には自分が担当している方だけでなく,同じ措置機関(区)から入所されている方のお顔を見てかえるようにしていました。
 私が「○○区からきました,Maa-chanです」とお声をおかけすると,「あの辺(ご自身が入所される前に住んでいた地域)はどうなっていますかねぇ」というご質問をよくいただいたものでした。
 こうした質問をされる時に,「入所って何なのだろう」と思っていました。私たちは,お年寄りが安全で安心の介護を受けるために,老人ホームへ措置をしているのですが,少々危なっかしくとも,汚らしい生活になろうとも,住み慣れた街で生活した方がよかったのかなぁ,と考えさせられましたし,何より入所することで,住んでいた区(自治体)とも関係が切れてしまうということは,お年寄りにとってどういう意味を持つのかなぁ,とも考えさせられました。


 学校に関しても同じですね。
 幼稚園(保育園),小学校,中学校はこどもの成長を見守る大人にとっては大きな節目になることは間違いないのですが,こどもにとってはどうなのだろうか,と時々思います。
 特に成長に関して「配慮」の必要なこども(障害がある等の特別支援教育を必要とするこどもが特に,かと思います)については,関係が「切れる」ことはこどもの気持ちにどんな影響を与えるのだろうか,と思います。


 こうして考えてみると,日本という国は「制度優先」で人が生きることそのものに寄り添う仕組みがないんですね。
 私たちソーシャルワーク専門職においても,「高齢在宅担当(介護支援専門員を含め)」「高齢施設相談担当」等縦割りの専門職が大半で,テキストにいう「総合的・包括的相談援助」ができるソーシャルワーカーは「成年後見制度」を扱う人,スクールソーシャルワーカー等ごくわずかです。
 「人生に寄り添うソーシャルワーカー」あるいは「1つの家族に1人のソーシャルワーカー(かかりつけ医ならぬ「かかりつけソーシャルワーカー」)」のような存在が,これから要請されてくるのだろうと思いますし,それに向けての人材育成や必要性を訴えていくソーシャルアクションが必要なのだろうと感じています。


※「かかりつけソーシャルワーカー」は,我が大学の大橋学長が常に申していることです。

2009年11月13日

3年前の事故

 また,この日が巡ってきました。

 2006年11月13日は,私の「命日」のような日です。

 この事故のことは,昨年の11月13日の記事にふれましたが,改めて「よく生きてこれたなぁ」と思います。

 でもあの事故がなければ,今こうして生きていなかったかもしれないと思うと,事故に遭うというのもよい経験だったのかもしれません。
 もし事故に遭っていなければ,ますます病気が悪化して,本当に自殺していたかもしれません。


 先日,昨年の北京オリンピックに出場した,シンクロナイズドスイミングの石黒由美子選手について,ある民放テレビ局が紹介していました。石黒選手は,小学校2年生の時に,交通事故で540針縫う大手術をして,体に障害が残ったそうです。しかしシンクロナイズドスイミングでオリンピックに出場するという夢を叶えています。
 放送された彼女の言葉が,今でも忘れられません。

「人生って、いろいろあるから面白い」
「(運命の)振り子の触れる量が大きければ大きいほど、苦しいことも大きいけど、いいことだって大きい」

 そう言えるほど,彼女は辛い思いをたくさんしてきたのだろうと思いますし,だからこそ笑顔がすてきな選手なのでしょう。

 オリンピックに出場なんてこの年では無理ではありますが,過去にこうして命拾いをした分,何か社会にお返ししなきゃなぁと思っています。

 生きていることに感謝です。


(追記)
 石黒選手の言葉は,「今日であった「いい言葉」」というブログから引用しました。このブログは,社員教育をされている会社の社長さんのブログですが,「あぁ素敵な言葉だなぁ」と感じられる言葉を集めています。面白いですね。

2009年11月10日

教育現場からの「福祉との連携」の訴え

 日曜日(11月8日)に,こんな新聞記事がありました。



底辺高校:「貧困」を再生産 中退率高く、「福祉と連携を」 埼玉で元教諭調査

 貧困でさまざまな保護を受けられない子ほど、高校中退率の高いいわゆる底辺校に多く在籍し、高校が貧困層の再生産の場になっている−−。「ドキュメント高校中退」(ちくま新書)の著者、青砥恭さん(61)がこんな実情を独自の調査で裏付けた。「家庭への経済支援の充実とともに、学校に福祉の専門職を」と訴える。【大和田香織】

 埼玉県の元高校教諭で大学非常勤講師の青砥さんは08年夏、147ある埼玉の県立高を入試合格者の平均点で分類し、成績上位の進学校「G1」から下位校の「G5」まで5グループに分けた。04年度の新入生のうち卒業までに退学した生徒の割合は、G1=2%▽G2=3%▽G3=8%▽G4=20%▽G5=33%と、成績が下位になるほど高くなった。授業料減免を受ける生徒の割合も同じ傾向で、G5(19%)はG1(3%)の6倍以上に上った。

 同年12月には、各グループから地域・学力が偏らないように選んだ47校の3年生計1200人にアンケートを実施した。

 「親は自分に期待しているか」という質問に「そう思わない」と答えた割合は「まったく」と「あまり」を合わせると、G1が32%だったのに対し、G4、G5では53%だった。

 さらに、父親の職業に関する答えでも、高校の序列との関係がうかがえた。父親が会社員や公務員という生徒は上位校ほど多い一方、父親の職業を「知らない」と答えた生徒の割合は下位になるほど増え、親が失業や転職を繰り返し、子どもにわかりにくくなっているためとみられる。「持ち家」ではなく賃貸の住居に住む割合は、G1で1割未満だったが、G5では4割を超えた。

 青砥さんは全国的にみて中退率の高い大阪府でも元生徒への聞き取りを実施。その結果、多くの子が中退後に希望する仕事や条件の良い職に就けず、高卒資格の必要性を感じていることが分かった。簡単な計算に加え歯磨きなどの基本的な生活習慣も知らずに育った子や、シングルマザーになった子もいたが、その多くは親が生活苦に陥り、子どもを支える能力や意欲のない家庭で育っていた。

 「教師も生活指導や事件対応などで忙しすぎ、中退を防ぐ気力がなえている」と青砥さん。「この10年間、毎年平均10万人が高校を中退している。鳩山政権が掲げる授業料の無償化だけでなく、専門職を学校に置くなど教育と福祉が連携した体制づくりや、教科書代・給食費の国庫負担化、返済不要の奨学金制度などを検討する時期だ」と提言している。

(2009年11月8日 毎日新聞朝刊)


 学力が低いと言われる高校に通う生徒さんの中退について,家族という視点から注目した調査ということですね。

 学力が低い=家族に課題,という図式で捉えてしまうことへの違和感については,過去の記事(「公平って何だろう こどもの教育現場から その2」「違和感」でもふれています。

 しかし一方で,イコールという図式ではないとしても,少なからず「低学力」と「家族に課題」が結びついていることは,この結果からもそうですし,私自身のこれまでの経験でも感じていますので,何らかの手だてを打っていく必要があるのだろうと思います。

 この調査において,「福祉との連携」についての必要性を訴えておられます。この訴えに,社会福祉士としてどう応えていくか,が教育現場に社会福祉士(広くソーシャルワーカー)が入り込めるか,の一つの試金石のように思えてなりません。

 残念ながら,社会福祉士の職能団体である「日本社会福祉士会」は,昨今の貧困問題についてや,教育現場のこうした現状について,何らのコメントも出していません。

 「人権と社会正義」はソーシャルワーク実践の拠り所です。貧しいことで学校に行くことができないという状態は,社会福祉士の倫理綱領に反するばかりか,憲法第26条の「教育を受ける権利」が行使できていない状態ですから,社会福祉士の専門職団体は何らかの声を上げるべきではないかと思えてなりません。


 もちろん,私を含めこどもの現場の社会福祉士も,こうした現状を常に言語化し社会化していくことで,少しでも多くの方にこうした現状を気づいてもらえる努力は欠かしてはならないでしょう。


 毎日が「前例作り」のような仕事ですので,かなり疲れていますが,出来る範囲,無理しない範囲でこうした努力をこれからも続けていきます。

2009年11月06日

「ぜひ一緒にやりましょう」は嬉しいです

 先日,スクールソーシャルワークの仕事で,ある専門相談機関を訪ねました。自分の力量を越える仕事なので,専門機関に関与していただく必要を感じたからです。

 私から相談したいお子さんの現状や懸念されると予想していることをお伝えすると,「こちらの機関では○○や○○ができます。このお子さんでしたら,ぜひとも○○の機能をご活用ください。私たちはこのお子さんについて,ぜひ一緒に関わりたいと思います」というようなお話しをいただきました。

 「相談に来てよかった」とほっとしました。この相談機関,多忙を極めていることはこれまでの経験からわかっていたので,正直なところ門前払いされると思っていたのです。

 相談機関や相談者のは,「相談をしてよかった」と思える雰囲気を作れる面接ができることが大切であると,改めて痛感しました。


 ある専門学校で,「(旧)社会福祉援助技術論」のスクーリング講師を今月担当させていただくことになりました。そこで,その資料として社会福祉士養成のテキストである,中央法規の「新・社会福祉士養成講座」シリーズ全21巻買い求め,(旧)社会福祉援助技術論に相当する3冊を読み込んでいるのですが,はっきり申し上げて「とてもつまらない」ですし,「一番大切である面接技術についてがあまりにもないがしろにされ過ぎている」と感じました。もちろん,援助技術を知るためには,たくさんの理論的なことをに理解しておかなければならないことは,わかっています。仕方ないとは思いますが,ソーシャルワーカーとして一番の基本的スキルと考えている面接がないがしろにされているという現実には,どうも違和感を感じます。

 私たちの仕事は,相談・連携・チームケア等と言えると思います。こうした仕事も,すべては面接(対人コミュニケーション)です。そう考えれば,きちんとした面接技術を持つことは大切なことですし,技術がしっかりしていれば「一緒にやりたい」「一緒にやってよかった」と思える仕事ができると思います。

 翻って,自分自身は「相談をしてよかった」「一緒にやりたい」と思える面接ができているのか,あるいは「相談をしてよかった」と感じていただく雰囲気を持っているのか,をきちんと問い直す必要があるなぁと思っています。

 まだまだ未熟ですね。もっと学ばなければ,です。

2009年11月03日

日本航空の再建に思う

 日本航空の再建について,数々の報道がなされていますが,一人の旅好き人間として,一人のソーシャルワーカーとして気になることがあるので,ちょっとだけ記してみます。(個人的に日本航空のマイレージを貯めているので,サービスがなくなったら困るなぁという思いもあるのです)



1 旅好きとして
 ご承知のとおり,日本航空は過去に大きな墜落事故を起こしています。そうしたことから,再建の基本的スタンスとして最優先にすべきは,「安全運航」においてほしいものだと考えています。
 今回の再建案では,従業員を9,000人減らすのだそうですが,この人数は全従業員((株)日本航空、(株)日本航空インターナショナル、特例子会社(株)JALサンライト 3社のグループ連結で薬49,000人)の2割にあたります。
 確かにこれだけ大きい会社ですと,当然「余剰」の人員は抱えているのでしょうから,ある程度のリストラはヤムを得ないのかもしれません。ただ減らす時には,「安全運航」に差し障りのない部署で減らすということを大前提とした上で,直接安全運航に関係しない部署での整理を行ってほしいと考えています。

 リストラをした結果が安全運航も失っては,信頼そのものを失墜させます。

 交通機関の一番のサービスは安全です。それをないがしろにした会社であるJR西日本は,厳しい社会的批判にさらされていることは,周知の事実であることを,再建に関係するすべての方の頭に置いておいてほしいものです。



2 ソーシャルワーカーとして
 再建のもう一つの柱に,企業年金の減額があります。これは,年金のいわゆる「三階」部分にあたる金額を減額しようというものだと捉えています。(一階:国民年金,二階:厚生年金)
 これまでの「既得権」を捨てろ,ということになるので,相当の抵抗があるのだろうと思いますし,現に退職者の約半数が反対であるという報道も目にしました。

 しかし,今回の「実験」は日本の年金制度そのものの将来を見据えた時の,大事な「実験」になるような気がしています。

 今の年金財政は,社会保険庁の一連の不祥事等のこともあり,破綻寸前だろうと思われます。それでも保険料を今のまま集め続けていても,将来(特に私たち40歳前後の人以降)は年金がもらえないだろうという試算もあります。

 年金制度について,「厚生年金」と「(公務員)共済年金」を合体させる,等の改革案はあるようですが,もっと根本的な制度改正に踏み込み,すでに給付を受けている世代にも一定の「痛み」があるような制度改正が行われるのも,仕方がないのではないか,という気がしてなりませんし,新しい政権のいう「最低生活年金」も厳しい言い方ですが小手先だけを変えるだけ,という感じがします。

 衆議院を解散しない限り,4年間は政権与党であり続けられますから,その間にじっくり検討してほしいものです。


 日本航空についてはもっと深くいろいろと,と思いましたが,この成り行きを見守りながら,改めての機会に記したいと思います。
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