2011年05月

高越山称の由来

春の高越山 「高越」の名称の初見は、元永元年(1118)に編まれた「高野大師御広伝に「高越山寺」であるが、山・寺称ともそれ以前からの呼称と考えられる。 その由来については次の四説がある。

①川田八幡神社の社家・早雲家の祖である早雲松太夫高房著の「高越大権現鎮座次第」などに見られる説で、川田八幡神社は古くから高越寺と特別の関係にあった。 江戸時代高越寺は川田八幡神社の別当寺であり、両者は高越権現(神社)を共同で管理していた。 鎮座次第によれば、蔵王権現をこの山に御鎮座された際に「高き山へ越と云言葉により高越山と名付けたり」とある。

②吉田 東伍氏著「大日本地名辞書」には、忌部氏がこの地に拓殖して穀、麻を植えたという『古語拾遺』の伝承より「穀山の義にして、榖を加知又は加宇曾と訓む」を出自とした。

③『麻植郡誌』によると、「寺が衆山に卓越した高處に建てられたから高越寺と命名され、其の寺名から山名が出た」と。

④『山川町史』は、この山が『倭名類聚抄』の射立郷付近に比定されるところから、射立の郷名は射楯(兵主:ひょうず)神社が所在したことによるのではと推定し、「兵主より高越へ転化した。」と。

 以上の四説はそれぞれに説得力もあるが、おそらく「神山:かみつやま」の転訛したものだろう。「神山」を「こうやま」を訓ずる地は全国的に分布しており、神山=霊山の呼称と考えられる。
なお、鴨島の向麻山は「向山」からの転訛と考えられるが、その山称は「高越山を望んでいるところから名付けられた」との口碑が存する。
  (田中省造「高越寺の歴史」、『高越山』より)

和三盆菓子「木守」

56035_2 「木守」は高松市片原町・三友堂の讃岐和三盆を使った煎餅だ。
讃岐産の餅米で薄赤色の煎餅を作って、表面に渦巻き状の焼印を押し、その煎餅で富山産の干し柿をミンチして和三盆を加えたジャムにしたものを挟んである。

 「木守」の由来は、千利休が楽長次郎に7個の抹茶茶碗を作らせ、6人の弟子に好みのものを選ばせたて与え、残った1個の赤楽を利休は深く愛し、「木守」の銘を付けた赤楽に因んだもの。

この茶碗は千三家のひとつ、官休庵に伝わり、高松藩松平家に献上されたが、東京の松平邸に納められていたため、大将12年の関東大震災でなくなってしまった。

 三友堂の2代目で茶人であった大内松次は、これを惜しんでお茶菓子「木守」を創案した。薄赤色は赤楽を表し、表面の渦巻きは「木守」の特徴であった巴高台を模様化したもので、干し柿ジャムは「木守」の柿を表現している。

 「木守」の意味は、翌年の実りを願って、下記の梢に1個残す柿の実のこと。
三友堂は明治5年(1872)松平藩に仕えた初代が武士仲間と開業した。
  (山本 候充著「日本銘菓辞典」)

台風一過

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 「 嵐去り ひばりも高く 五月晴れ 」
 朝起きて外に出ると日が差して気持ちの良い空気の中に雲雀の鳴く声が高く響き渡っていました。
五月には珍しい台風で、数日は身動きがとれず憂鬱な日々を送っていましたが、やっと手足を伸ばして深呼吸ができます。
早速、妻は太極拳の練習に出かけました。

 さて何をするかと言って特段思い当たることもなく、ブログ記事も出し尽くして目新しい話題もない。
日曜日には「みま夢色の風コンサート」と銘打った穴吹町口山・白人神社での”サニーサイド・ジャズ・オーケストラ”の演奏会が予定されていたが、この度の台風で中止になり、何か感想録を記そうと思っていたのができなくなった。

 このコンサートが何回目なのかは知りませんが、ハッキリ言って山の中の不便なところでの企画に携わった皆さんはスゴイと敬意を表します。
そんな志に少しでも協力しようと少々の雨なら行こうと思ってましたが、何せあの大雨ですから・・。
ちなみに、白人(神社)は昨日掲載した『山彦はん』のなかに出てくる(地)名なので、これも何かの縁かなと思ってました。

 町おこし、地域おこしイベントはもう珍しくもなく、あちこちで企画されています。
私は三十数戸の小さな地区に住んでいますが、平成になる前から夏の盆踊りに代えて”納涼祭”を毎年盆にやっています。
全員にウチワ、タオルを配布し、田楽や焼きそば、かき氷、割り竹を使っての流しそうめんなど、全て無料。後継者世代のボランティアと出資+自治会の賛助金のみでやります。
親戚の子どもたちも楽しみに来てくれ、ビンゴゲームやカラオケに興じる一夜です。

最後は、宣伝になってしまいましたが・・。

「山彦はん」

山彦はん 今から270年ほど前、蜂須賀の家老である脇町・稲田家に伊勢伝左衛門という人がいました。
その先祖は尾張の国の人で、伝左衛門はその五代目に当たります。
軍学を学び、剣は竹内流、槍は大島流、また書は大師流・道風流・尊円流など、文武の道に秀でておりました。
何でも出来るというので、しまいには魔術を使うと言われました。

 正徳5年3月のこと、蜂須賀の殿様が国内を巡視して脇町に来ました。
日ごろから伝左衛門が不思議な術を使うと聞いており、早速その術を見せるように命じました。伝左衛門は秘術というものは見世物ではないと断ろうとしましたが、止むなく披露することになりました。

伝左衛門は麻の衣を着て大屋敷の吉野川の岸に行き、川沿いに西の弁天から川に飛び込みました。
それと同時に天がにわかにかき曇り、風が吹き大粒の雨が降り出しました。 ふと上流をみると、大きな丸太が流れて来ます。その丸太が殿様のあたりまで来たとき、急にそれが大蛇に早変わりして殿様に襲いかかろうとしました。
殿様はびっくりすると同時にたいへん恐怖を感じて顔色が真っ青になりました、。まわりの家来たちも殿様を守ろうとしましたが、足がすくんで動けません。殿様は声をふりしぼって「伝左衛門、もう分かった」と叫びました。
すると、雨風は止み、元の穏やかな景色に戻りました。

 殿様はもちろん、家来たちもその無礼な仕様にたいへん立腹し、口々にその罪をいい立てました。殿様はその場で死罪を言い渡しました。
主君の稲田の殿様も仕方なく家臣の佐藤善左衛門に命じて、川田山で処刑するよう指図しました。
善左衛門は竹籠に伝左衛門を入れて川田山に出立しました。
その時、火の中から白い鷲が二羽飛び出し、一羽は曾江山の方へ、もう一羽は穴吹の白人はんの方へ飛んでいったといいます。

 そういうことがあってから、稲田家にはいろいろな不幸が相次いで起こりました。また、命じられて伝左衛門を殺した佐藤家も、子孫が絶えたといいます。
稲田家は修験者を使って拝ませたところ、「箸蔵から七尾七谷の端の景色のよい所へ祀れ」とお告げがあり、殿様は早速家来に探させました。それが今、山彦はんを祀ってある脇町曾江名の曾江山です。

川田山にあった墓を移してそこに社を建てました。(1741)    それが山彦大権現です。
はじめは山彦大明神といいましたが、いつ頃からか大権現となりました。
川田山でも佐藤氏縁りの人や村人によって小さな社を建て、医光寺が別当になってその霊を弔いました。川田山も大明神でしたが、昭和16年社殿を新築したとき山彦大権現となり、社名も山彦寺に変わりました。

 伊勢伝左衛門は文武両道にすぐれていたので、戦勝祈願や弾除けの神とされ、出征や入隊する人がたくさんお参りにきて一躍有名になりました。今でも厄除けの神として多くの信者がいます。
   (吉野川市アメニティーセンター)

健全なる肉体

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一には言を少なくして内気を養う
二には色慾を戒めて精気を養う
三には滋味を薄くして血気を養う
四には津液(しんえき:唾液)をのんで臓気を養う
五には怒りをおさえて肝気を養う
六には飲食を節にして胃気を養う
七には思慮(思い煩うこと)をすくなくして心気(やる気)を養う 

 以上は、貝原益軒が明代の医者・劉純が著した医書「寿親養老書」が出所として掲げた「健全なる肉体のための七訓」
。(「養生訓」)

あれもダメ、これもダメと、何かと住みにくい昨今、もう余計なお節介は結構と言いたくなるが、血気、臓気、肝気、胃気、心気などの発想はおもしろいと・・。

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