2012年06月

再び「呉」

170px-Sun_Quan_Tang 鴨島町呉郷と『三国志』の(220-280年)、”呉服”について書いたが、漢字の読み方として最も古い「呉音」については、時代が少し後になるようだ。

285年応神天皇の頃、百済王によって『論語』『千字文』により漢字・漢文が伝えられたと『古事記』『日本書紀』にあるが、これは伝説で漢字の伝来時期は明らかでなく、遅くとも5世紀頃までにはかなり伝わっていただろうと。

それまで日本には書き文字はなく、漢字が伝わることによって初めて表記方法を手に入れた。

 4世紀の中頃大和王権が成立し、百済と結んで新羅や高句麗としばしば戦い、朝鮮半島の南端の加羅(任那)に勢力を伸ばしていた。
5世紀には中国・南朝に使者を送っている。

こうしたことを通じて、多くの渡来人が来住し、機織り、養蚕、鍛冶、製陶(須恵器)、土木技術のほか、漢字や儒教、医学、暦、易が伝わった。 仏教が伝来したのも538(552)年である。

 中国は四百年にわたる「魏晋南北朝」の分裂時代で、華北の「五胡十六国」を統一したトルコ系の鮮卑族・北魏と、江南の呉地方に退いた漢民族王朝・晋は「南北朝」で対峙していた。

『千字文』は、そんな時代の梁(502-557年)の国王・武帝によって作られている

と言う訳で、「呉音」は梁の時代、呉の地方での読み方と思うのですが・・
 (隋が中国を統一したのは589年)     (山口 謠司「日本語の奇跡」参照)


呉郷

250px-Kureha_shrine_1 呉郷については「徳島県の歴史散歩」にも、「213年千羽足尼 粟国造となる」の後に、「呉の職工を鴨島周辺に分置」とあることは以前にも触れた。

応神天皇の時代(270-310年)に機織り・縫製技術を得るためにの国に派遣された猪名津彦命が呉服姫(くれはひめ)ら4人の織姫を連れ帰った。

 ところで、大阪府池田市は秦氏の影響が強い地域で、市内には「呉服神社(写真)があり秦氏が呉服姫を祀っている。伊居太(いけだ)神社境内には猪名津彦神社まである。

このようなことから、あまり話題に上がらないが鴨島町呉郷にも呉の職工が来たことは間違いないだろう。

 ちなみに、は中国の歴史に何度も登場する。
最初はBC770-403年春秋時代、長江下流で楚・越と抗争した時代。この時代日本はまだ縄文時代。(「呉越同舟」)
次に、222-280年『三国志』で知られる三国時代で邪馬台国・卑弥呼の時代。
そして、902-937年五代十国時代にも。

前述の213年頃、孫権は208年「赤壁の戦い」に勝利し覇権を確立し、212年建業に拠点を移すと、曹操は長江周辺を奪われるのを恐れて北方へ移住させようとしたが、これを嫌った数十万戸の住民は江東(呉)に移ったと。

  (考察) 一体、何故粟・阿波の鴨島なのか?  阿波忌部が粟島(善入寺島)で麻などを栽培していたことから一帯が麻植(殖)郡と名付けられたことからも、忌部との関係があるとみているのだが・・。

むさし庵

むさし庵

 鴨島町の吉野川高校(旧鴨島商業高校)の東隣りにある和食店”むさし庵”です。
近隣では最も気に入っている店で、中でもこの時期は”鰹のたたき定食”がお薦め。

何と言ってもタレが絶妙で、わざわざ高知まで出掛けなくとも十分満足できる。
@750円でフルーツまで付いているのは、ちょっとサービス過剰なのではと・・。

”むさし庵”と名付けた由来までは尋ねていないが、当然宮本武蔵に心酔しているのではと勝手に想像し、無理矢理付け足させていただきます。

 1643年、武蔵59歳のとき、一念発起し『五輪書』を執筆すべく「霊厳洞」にこもった
一年ほど経った頃、病魔に襲われ(一説ではガンであったと)熊本藩家老に城下の自宅に戻るよう勧められ一度は固辞したが、病状が進みやせ衰え、再三の要請もあってようやく自宅に戻った。

1645年『五輪書』は完成するが、5月19日61年の生涯を閉じた

 (「庵」ではなくてスミマセン!)

”なんば”は南蛮!

Nobunaga_flag 今、トウモロコシが旬である。
徳島では”なんば”というのだが、みなさんの地域では何と呼んでいますか?
その呼び方は200種ほどもあるというから驚き。

 と言う訳で、「モロコシ」談義を。
16世紀にポルドガル人によって日本に渡ってきたが、以前から中国より伝わっていた「モロコシ」という植物に似ていたので、舶来という意味の「唐(トウ)」を付け「トウモロコシ」と呼ばれるようになったのだと。

南蛮も唐と同じ意味で用いられていた。
徳島の他にトウモロコシを”なんば”と呼んでいるのは、近畿地方、伊賀地方、岡山で、”なんばん”と呼ぶのは愛知県東部、京都北部、山口県東部とのこと。

 余談になるが、信長は「南蛮好み」だった。(舶来モノのこと)
写真は家紋・永楽銭の旗印。 永楽銭は明朝・永楽帝の時代(1402-24)に作られた銅銭で、中国ではあまり使用されず日本に持ち込まれた。
「楽市楽座」で知られるように、信長は「楽市令」により城下町で自由な取引を保証し、新しい支配体制をつくろうとしていた。

 なお、旗の上に「南無妙法蓮華経」と書いた”招き”をつけている。 
信長は巷間云われるような無神論者ではなかったようです。

「信長の首 斬り落とす」

04259   「本能寺の変」は1582年6月2日、現暦では7月1日の未明こと。

信長は、前夜酒宴のあと、時代を代表する囲碁の名手・本因坊算砂と鹿塩 利賢の対局を見て就寝した。

「向日葵や 信長の首 斬り落とす」(角川 春樹)

明智勢13000人に囲まれては、100人程度の手勢では如何ともならず、ほんの2時間足らずで「天下布武」の夢は潰えたのである。
しかし、その死に様は不明で、「斬り落とす」とあるが遺骸は発見されなかった。

向日葵もまた夏の化身の如く、たくましくも強烈に自己主張する。
その名は、太陽の移るにしたがって花を向けると書くが、どうもそうではないようで、つぼみが花開くときにだけ太陽の方を向くらしい。


「日を追はぬ 大向日葵と なりにけり」(竹下 しづの女)


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