2012年09月

ビートルズ レコード・デビュー50周年

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 1962年10月5日ビートルズは「ラブ・ミー・ドゥ/PS.I LOVE YOU」でレコード・デビューした。

ジョージ「あの年の8月、グラナダTVがキャバーン(・クラブ)に取材に来た。 すごく暑い日だったけど、きちんとした格好をするように言われた。 あれが初のTV出演だ、すごいことだったよ。ジョンだって興奮していた。」

ポール「9月にリンゴも一緒にロンドンに行き、もう一度EMIで演奏した。僕らにとっては、あの世界への序奏だった。」

リンゴ「EMIはOKの返事をくれた。僕らはオーデションを何度かやってたし、ジョージ・マーチンは賭けてみる気になってたからね。
一週間後にレコーディングに行った時、”プロのドラマーがいるから”って言われたんだ。僕はがっくりきたね。
そんな訳で、”ラブ・ミー・ドゥ”のシングルではアンディ(・ホワイト)がドラムをやっている。アルバムでは僕がやったけど・・。その後はすべて僕がやってるよ。」

 ・・・9月4日と11日のセッションでミッチ・マレーの「ハウ・ドゥ・ユー・ドゥ・イット」をやるように言われた。
ポール「ジョージ(マーティン)は、君たちの曲(ラブ・ミー・ドゥ)ではあまりヒットしないと思うと言った。 でもこれが僕らのやろうとしているものなんだ。」

ジョージ「ラジオで”ラブ・ミー・ドゥ”を聞いた時には、体中ゾクゾクした。生涯最高の快感だね。」
ジョン「2日でチャート入りしたもんだから、これはイカサマだろうってみんな思ったさ。最高だね。」

ジョン「ブライアン(エプスタイン)は、落ち目になっているロック・スターを連れてきた。ジーン・ビンセントとかリトル・リチャードとかね。僕らを彼等の次ぐランクとして人を集めたわけさ。彼等は憧れの存在だったから、もう全身が痺れそうだったよ。 リトル・リチャードのバックでオルガンを弾いていたのがビリー・プレストンだった。 リトル・リチャードとは11月に4度目のハンブルグへ行った時も一緒だった。」、「僕は今でも彼が大好きだよ。彼は偉大な人物のひとりさ。」

リンゴ「11月、12月と続けて行った。とにかくあそこの生活はクールだったよ。 今回はビートルズと一緒だ、すごくいい気分だったね。もうあそこが故郷みたいになってたよ。」、「リトル・リチャードはビリー・プレストンとスター・クラブに出ていた。あの時、ビリーは16歳だったけど、すばらしかったね。 僕はリトル・リチャードをひと晩に2回ずつ、6日間ずっと見ていた。ほんと最高だった。」


  (ビートルズ「アンソロジー」より)

  (補足) ちなみに、日本では'64年2月10日にセカンド・シングル「プリーズ・プリーズ・ミー」を日本での第一弾として、11月に発売された「抱きしめたい」を三月に発売することにした。 しかし、「抱きしめたい」をアメリカが'63年12月26日に繰り上げ発売したので、急遽、一ヶ月早めて2月5日に発売された。  (「ビートルズ日本盤よ、永遠に」恩蔵 茂より)

「九月尽」

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 九月も今日が最後。

台風到来で、まだ稲の刈り取りを終えていない農家は気をヤキモキしているはずです。



「まが雨の 降りも続きて 九月尽」
佐藤鬼房)
「雨降れば 暮るる速さよ 九月尽」杉田久女)

 やはりこの時期に雨は付きものようだ。

 ところで、”中秋の名月”(旧暦8月15日)は満月でないことが多いうようですよ。実際の満月は旧暦15日より遅れるよう。
今年の”中秋の名月”の月齢は14.0、明日(旧暦8月16日)が月齢15.0。 台風一過きれいな満月が見えるかな。

ちなみに仲秋は、秋の三ヶ月を初、仲、晩に分けた真ん中(8月下旬から9月下旬の頃)。中秋は陰暦の八月十五日のこと。

「仲秋や 花園のもの みな高し」(山口青邨)

虎雑感

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 タイガースの金本に続いて城島も引退を表明した。
名物選手が去って行くのは淋しい限りだ。


 先日の西国33ヶ寺巡礼では奈良県を回り終えたが、順路は信貴山(奈良県生駒郡)に近かった。
信貴山といえば阿波三好氏の中でも異彩を放っている松永久秀(写真)が名器”平蜘蛛の茶釜”に火薬を詰めて爆死した信貴山城が思い起こされるが、

山頂近くに建つ歓喜院朝護孫子寺は寅=虎がシンボルで、参道には大虎像が参拝客を出迎えてくれる。

 この由来は、聖徳太子が仏教受容を巡って物部氏と争ったとき、信貴山に登り戦勝を祈願すると、寅の年、寅の日、寅の刻(午前4時)に毘沙門天が顕現して必勝の秘法を授け、大願成就後太子はこの地に毘沙門天を祀ったと。

 聖徳太子といえば『十七ヶ条の憲法』がよく知られている。
「和をもって貴しとし」は余りにも有名だが、その九に「信はこれ義の本なり、事ごとに信あるべし。 それ善悪成敗はかならず信にあり。群臣ともに信あるときは、何事か成らざらん。群臣信なきときは、万事ことごとくに敗れん」とある。

険悪化する領土問題には、彼の国のわが国にたいする不信感が払拭されていないことも事を荒げている原因だろう。

 また、十には「心の忿(いかり)を絶ち、おもての瞋(いかり)を棄てて、人の違うことを怒らざれ、人みな心あり。心おのおの執るところあり。かれ是とすれは、われ非とす。われ是とすれば、かれは非とす。われならずしも聖にあらず。かれなならずしも愚にあらず。ともにこれ凡夫のみ。是非の理、詎(たれ)かよく定むべけんや。」

お互いの理解を深めていくことが肝要だと太子は諭している。

 (「古寺を巡る 法隆寺」小学館参照)

三好長慶と足利義輝

野面積み 1968年、足利義昭は信長とともに上洛を果たした。

細川政元による「明応の政変」(1493.4)により擁立された足利義澄の子・義晴は、京都奪回を目指したが果たせず、'50年近江穴太で没した。(別項「穴太積み」あり)

義輝も義晴の子。
'46年「舎利寺の戦い」で近江に亡命中に六角定頼の庇護のもと第13代将軍を継いだ。

 '49年「江口の戦い」で三好長慶は義輝と管領・細川晴元を近江に追い、将軍と管領が不在の京都を長慶が支配した。
'52年六角定頼の斡旋で一旦入京するも晴元とともに兵を上げたため、長慶の2万5千もの大軍に攻められ、再び近江朽木に以後5年間蟄居することになった。

'58年再び帰還を企て銀閣寺裏の大文字山(如意が岳)、将軍山城で戦うも敗れ、六角義賢の仲介で和議、義輝は相国寺の徳芳院に入った。
長慶は、相伴衆に列せられ、将軍家の桐の二引両の家紋を許された。
返礼に義輝を長慶邸に招き盛大な宴が催されたと。

 しかし、'64年長慶の死後、松永久秀は義輝の力を警戒し、三好三人衆と二条御所を襲い殺害したのだった。 15代将軍・義昭は義輝の弟である。 

信長上洛

Odanobunaga 1968年9月26日織田信長が足利義昭を奉じて上洛した。

義昭は'65年兄・足利義輝が松永久秀らに暗殺され(「永禄の変」)、12代将軍義晴の子ながら嫡男でないため興福寺の門跡寺院・一乗院に覚慶として入室していた。

久秀が将軍の血を引く覚慶を軟禁していたところを細川幽斎(藤孝)に連れ出されて近江、次いで備前に逃れ(この頃に義昭と改名)、後に朝倉義景を頼ったが動こうとはしないので信長に寄っていたのである。

しかし、その後は信長包囲網を画策するなどして'77年には信長にも京都から追放され、足利幕府15代240年の歴史を閉じた。
そのためか「本能寺の変」の黒幕だったのではないかとの説もある。

 ところで、信長には22人の子どもがいたようだ。
戦国大名にとっては子どもをつくることは仕事ともいえ、人質や政略結婚など駆け引きの駒として子どもをつかったのだが、それにしても22人は他の大名と比べても多い。

父・信秀も24人もの子どもがいたようで、親子揃ってかなりの性豪であったようだ。
子どもをつくるのが「仕事」であったため、本当の愉しみは「男色」であったと。

信長の小姓として仕えた森蘭丸は有名で、側に仕える者たちはそうした関係も役割であったようだ
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