2013年02月

高知と啄木

啄木歌碑 












 また「啄木」のことかと言われそうですが・・、

昨年は石川啄木が亡くなって100周年だと。(1912.4.13没)
また、平成21年にはお隣りの高知駅前に歌碑が建てられているとは知らなかった。

 啄木の父・一禎(いってい)は(岩手県盛岡市)渋谷村の隣・日戸村の曹洞宗常光寺の住職であったのだが、明治35年(1902)盛岡中学を退学して東京に出た啄木が、下宿料を滞納していた上に病気にも倒れて、父親に助けを求めた。

父・一禎は20円の大金を工面するために無断で裏山の栗の木を切って売り渡したこともあり、問題となって住職を罷免され、次女・とらの夫の赴任地である高知県に移住(1925)し、神戸鉄道高知出張所の所長官舎で亡くなった。(1927.2.20)

「よく怒(いか)る 人にてありし わが父の 日ごろ怒らず 怒れと思う」

 生前の啄木は、今ほど注目されていなかった。
「一握の砂」「悲しき玩具」の歌集が出た後に、徐々に人気が広がったので、既に亡くなっていた啄木も妻・節子も、母・カツもそのことを知らない。
ただ一人、父・一禎は76歳まで生き、高まる啄木の名声をしかと見届けたのであった。
  (三枝昴之「NHKカルチャーラジオ 啄木再発見」参照)

「蝉丸」

semimaru 「さて、今日は何の記事を書こうか?」

と悩むのは、苦痛でもあり楽しみでもある。
記事となるべき材料はあっても、ブログに載せるにはそれなりの理由、必然性がなければ、羅列となり一貫性がなくなる。

 と言う訳で、今朝も2題続いた「啄木」の記事を引きづることに。

「これやこの 行くも帰るも 分かれつつ 知るも知らぬも 逢坂の関」

一度は耳にしたことのある『百人一首』にある歌。
醍醐天皇の第四皇子・蝉丸の宮は生来盲目であったため、宿業消滅のため逢坂山に捨て置かれた。

 蝉丸は、琵琶の名手となったことから、楽道に熱心であった醍醐天皇の孫・源 博雅が路傍の藁屋を訪れ、三年間通い詰めて琵琶の三秘曲のうちの「流泉」、「啄木」を聴き覚えたと。

 ところで、能「蝉丸」のシテ(主役)は姉の逆髪
生まれながらに狂気し、あてどなくさすらう内にたまたま聞こえてきた琵琶の音が弟・蝉丸のものと察し、二人は再会する。

そしてまた、逆髪は旅立ち、蝉丸は見えぬ目で見送るのである・・。
  (村上 湛著「能の見どころ」参照)

石川啄木

isikawatakuboku 石川啄木の名はキツツキ。

病床に臥しているとき、啄木(キツツキ)がコツコツと叩く音から名付けたと。

「ふるさとの 訛なつかし 停車場の 人ごみの中を そを聴きにゆく」
「ふるさとの 山に向かひて 言うことなし ふるさとの山は ありがたきかな」
「はたらけど はたらけど猶 わが生活(くらし) 楽にならざり ぢっと手を見る」

26歳という若さで亡くなったというせいか、はたまた困窮の生活だったゆえか、その歌には切実な叫びを訴えかけてくる。

 にも拘わらず、彼は遊興に耽り一つ上の同窓生・金田一京助に無心し、そのことから金田一春彦氏は「石川五右衛門の子孫かと思った」と。

啄木の家族は、皆若死にしている。
妻の節子も啄木の死亡した翌年に同じ肺結核で、長女の京子は24歳で肺炎、同じ年に次女の房江も19歳で父と同じ肺結核で死亡している。

”啄木鳥の戦法”

戦国甲~1 ”啄木鳥(キツツキ)の戦法”と言えば、1561年夏有名な「川中島の合戦」(第四次)で山本勘助が考えたとされる「別働隊によって敵をおびき出し本隊と挟撃する戦法」。

この戦いでは、妻女山の上杉謙信に察知され武田信玄のいる本隊を攻められて、謙信が三太刀を浴びせ信玄が軍配で凌ぐという名場面(後世の創作とも)を生んだ。

 その”啄木鳥の戦法”が阿波でも見られる。
1579年12月27日、長宗我部元親方に落ちた脇城・武田信顕(信玄の異母弟)と岩倉城・三好式部少輔康俊、上野城に攻撃をかけた勝瑞方は、すぐれた鉄砲隊により森飛騨守(渭山城主)、矢野駿河守(矢野城主)、川村左馬亮常基(別枝・陰城主)ら名のある勇将が討ち取られた。

この合戦の3年後(1582年2月)、織田信長は三男・信孝に命じて元親方の勢力を阻止するため四国討伐に向かわせ、信長に仕えていた元岩倉城主・三好山城守康長(笑岩)を阿波に差し向け、土佐方に組した一宮、夷山両城を攻め落とすとともに、息子・式部少輔、上野介を説得し勝瑞方に引き入れた。

 しかし、6月本能寺の変のため康長らは引き上げたので、8月20日ころ香宋我部親吉率いる三千の軍勢が脇・岩倉城を攻撃した。
虎伏山に丘台に築かれた脇城には二重、三重に深い空濠が設けられ、空茂木の垣がめぐらされていたため、土佐勢は本城内に石火矢(火砲)をさかんに打ち込んだ。 このため籠城の兵は大混乱となったところを防備を打ち破って突入。「啄木鳥の戦法」である。 

 凄惨な戦いが展開され22日三城は落城。上野介は讃岐・白鳥まで逃れたが討たれ、式部少輔は讃岐・十河氏のもとに逃れた。
9月には勝瑞城も元親方に落ち、脇城には香宋我部新右衛門親吉、岩倉城には比江山掃部親興が入城した。
  (鎌谷嘉喜著「阿波古戦場物語」参照)

「美しいウソ」

Emperor_Jimmu ミッツ・マングローブさん(女装家)の「真実なんてどうでもいい。美しいウソに興味がある。」との新聞記事が目にとまった。

突き抜けている人の言葉は凡人の考えを超えている。

 日々の日常は道徳や法律、前例や常識などなど、いろんなモノに縛られ「かくあらねばならない」「こうあるべき」だと強要される。

そんな時、事実だろうと真実だろうとどうでもイイ、「こうあってほしい」「こうだと信じる」と自分の信念や夢を大前提に据えることは、揺るがない目線と自信を与えてくれる指針になるだろう。

 思えば、「古事記」や「日本書紀」においてさえ、紀元前660年(辛酉年1月1日)に神武天皇が即位したと、無理矢理日本と天皇制の起源を設定している。

かく言う忌部の話も、後世に残された文献などを頼って想像するしかない。何せ、文字が生まれる前の世界だから・・。
地元だけに、「こうあって欲しい」と推測し、「美しいウソ」を並べているのかも知れない。

そう言えば中国の古い格言に「虚偽であっても極限に達すれば多少誠実めいて見える」(「老舎」)とある。
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