2013年06月

意外な”アンジー”

images 昨夜のBS3「ローリング・ストーンズ・ベスト50」の結果はチョット意外。

1位の「ジャンピング・ジャック・フラッシュ」はともかく、当然ベスト3になると思っていた「サティスファクション」を差し置いて、2位が「悪魔を哀れむ歌」、3位が「悲しみのアンジー」だった。

NHK-FMでのリクエスト数によるものらしいが、彼の”ローリングストーンズ誌”による「グレイテスト・ソング500」の2位にランク・インしている「サテスファクション」が漏れるなんて・・・。(「悪魔を・・」は32位。1位は「ライク・ア・ローリング・ストーン」(ボブ・ディラン))

 元々、男っぽい反体制的カラーを前面に押し出していた彼等も、今年でデビュー50周年。
今ではミック・ジャガーの色気とキース・リチャードの渋いオジサン然とした人気もあり女性ファンも結構多いはず。
リクエスト結果はそんな女性ファンの声が反映されているのではないかと。

「アンジー」('73)などは、グラム・ロック全盛期の優しいラブソングで、凡そストーンズらしくないと思うのだが・・。
ちなみに、”アンジー”とはグラム・ロックの旗手デビッド・ボーイの前妻だとも、キース・リチャードの娘の名前だとか・・。

吉原と歌舞伎

吉原 一茶と女の話には「一茶と女性たち」(小林雅文)があるが、赤裸々な交合の様子を日記に残している。

54歳のときには「菊女帰る。夜5交合」なんて記録もあり、連夜の交合、妊娠中も言語障害を起こしても交合、と盛んだったようだ。 しかし、何の娯楽もなかった農村での生活では、別に珍しいことでもなかった


「夕立や けろりと立し 女郎花(おみなえし)(一茶)

 そんなこんな話から「吉原」のことを。
1617年幕府公認の遊郭となったが、新しい町・江戸には圧倒的に男ばかりが目立つところであったので、色町・花街が商売となることは容易に想像される。

吉原の”花魁”は浮世絵にも数多く描かれた歌舞伎役者に匹敵する存在で、女性にも影響を与えファッションリーダーだったと。

 一方、1623年男色であった家光が3代将軍に就き、流行していた「遊女歌舞伎」、「女歌舞伎」が禁止され、代わって登場した美少年による「若衆歌舞伎」も家光の死(1651)をもって終焉。

そんな歌舞伎の中に、吉原一の花魁「揚巻」が登場するのが「助六由縁江戸桜(すけろくゆえんのえどざくら)」。
「助六」は、実は曾我五郎時致。江戸っ子たちの好きな「曾我兄弟」との組み合わせ、劇場から場内まで桜の木で埋め尽くして、劇場全体を吉原のように見せたというからその人気ぶりが想像できる。


一茶の恋

Kobayashi_Issa 「男と女」の話の続き。

良寛さん(1757-1831)は、「化政文化」と呼ばれる文化文政時代(1804-30)に生きているが、小林一茶(1763-1827)もほぼ同時期の人。

一茶は信濃国柏原村の農村の長男として生まれ、生涯を通じて不遇で家庭環境には恵まれなかった。

58歳のとき脳卒中、63歳では言語障害となったが、64歳にして三度目の妻を迎えている。
しかし、翌年6月1日に大火事で母屋が焼け、残った土蔵の中で11月19日一茶は息をひきとった。

 そんな一茶にもひとつ浮いた話がある。
30歳の頃の門人で、上総・富津の名主・織本家の花嬌(かきょう)という美貌で知られる人物。

一茶は柏原から富津に5年間も足を運んだとのこと。
3歳とか20歳年上で、残念ながら一茶48歳のときに亡くなっているが、3回忌のときに残した次の追悼句からも、一茶の思慕が伝わってくる・・。

「何をいふ はりあひもなし 芥子(けし)の花」

男と女

貞心尼 一休さん(1394-1481)は晩年、「応仁の乱」(1467-77)の混乱から逃れ酬恩庵一休寺(京都府京田辺市)の虎丘庵で盲目の遊芸人・森女(しんにょ)と暮らし88歳で没した。

森女と出会ったのは78歳のとき。二人には40歳もの年の差があったと。

虎丘庵には村田珠光作の庭園があるが、一休さんの廟所が在り、後小松天皇の皇子だった故に宮内庁が管理しており残念ながら非公開。

 また、庶民に親しまれた良寛さん(1758-1831)にも同じように貞心尼という40歳年下の色白の美人の恋人(?)がいた。(写真)

貞心尼は長岡の閻魔堂の庵主で、1827年貞心尼30歳のときに良寛(当時69歳)を訪ね、二人の交友を綴った『蓮の露』を残している。

  「年老いた猫は、若い鼠を好む」
なんて諺(フランス)を持ち出すのは不謹慎だが、何時までたっても「男と女」は続くのだなあと・・。

「清若神社と七人半の墓」

春の高越山 楠根地に清若屋敷という所があり、その上の古木の茂る高台に清若神社という小祠がある。

源平のむかし平清盛に清若という幼少の孫があった。
壇ノ浦の戦いに敗れた清若は、わずかの家来に守られ逃げてきて隠れ住んでいた。

清若は間もなく世を去り、家来達は小祠を建て清若神社として祀ったと伝えられている。

 清若神社から下へ三・四百㍍の所に「七人半の墓」という高さ約一㍍、幅0.五㍍の板碑がある。
この碑は七人の源氏の武者と一匹の犬を供養した碑と伝えられる。

源氏は、壇ノ浦の戦いに敗れ四散した平氏の残党を厳しく追及した。
何時の日か一匹の犬を連れた源氏の七人の武者が清若を追って来た。 しかし、追っ手の源氏の七人の武者は捕らわれの身となって斬首された。
主人を失った犬は、七人の遺骸を埋めた傍を離れず、餓死して主人に殉じたといわれる。
里人は犬を哀れに思いその死骸を七人の傍に埋め、後に碑を建て七人の武者と共にこの忠犬を供養した。 その後、誰言うことなくこの碑を「七人半の墓」と呼ぶようになった。

「七人半の墓」を隔てること三十㍍のところに桜の古木がある。
その根元に「おならさん」という祠があり、古びた五輪石の一部が祀ってある。
おならさんは平家の身分の高い女房であったといわれ、ここに来て七人の武者と忠犬の話などを聞き、平家滅亡の悲しさと人間のむなしさに幾日も泣き明かしたという・・。

  (「改訂山川町史」 喜多弘・湯浅安夫共編『麻植の伝説』より)

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