2013年07月

「陣ヶ丸の合戦」

美郷 天正13年(1585)、蜂須賀家政が入国したとき、祖谷山をはじめ仁宇谷、大栗山、木屋平、種野山、東山などの山地の豪族たちが反抗したため、家政は家系図や武器、文献などを没収・処分するとした。

これに端を発して9月、仁宇谷、大栗山、木屋平の豪族が反乱を起こした。

大栗山の金泉兵衛左衛門、木屋平越前守、川井山の梅津左馬之丞らが首謀者となって地侍千人余を率いて陣ヶ丸に集結。

陣ヶ丸は、名西、麻植郡の山地を分けた山岳地帯で、かっては阿波の山岳武士が拠点へと辿る要衝の地でもあった。

 木屋平越前守は、弟伊賀守に森遠城を守備させて陣ヶ丸に出陣し指揮をとったが、伊賀守は藩臣の黒部兵蔵、久代市兵衛らの慰撫により改心、陣ヶ丸の背後から襲い越前守を誘殺した。 これで反徒の兵は散々に崩れ去った。

反徒討伐に派遣された兼松総右衛門は、藩臣を率いて名西の山地に向かったが、下分上山の寺久保で激しい反抗に遭い多くの家臣が死傷した。

総右衛門はその後、三好軍の大西城に本陣を置いて祖谷山地方の討伐に向かった。
松尾、中津山を経て西祖谷山の田ノ内から美馬郡一宇村に向かった際、祖谷の土豪たちが中津山に待ち伏せして討伐隊の頭上より投石を浴びせた。 ここでも多くの死者を出し、指揮を執っていた総右衛門も戦死。
また、仁宇谷では討伐に向かった梶浦与四郎も、同地の土豪たちによって殺害された。

 このように、藩の討伐隊が苦戦したのは、山岳にたてこもったゲリラ戦術の巧みさと、山村民あげての根強い抵抗にあった。

その後蜂須賀家は、最後まで抵抗を続けた祖谷地方に対して、同地の豪族・北六郎三郎(小野寺氏)を抱き込んで鎮静にあたらせた。
しかし、奥深い祖谷地方の山士たちは、各地に潜んで抵抗を続け、全山を平定するまでに約5年間を要した。
 (鎌谷嘉喜著「阿波古戦場物語」より)

「根来衆」

Negoroji 









 永禄5年(1562)3月5日三好豊前守”実休”義賢は、泉州久米田(現・岸和田市北額町満願寺辺り)根来衆の鉄砲に討たれ命を落とした。(37歳)

従臣の進言も聞かず、小高い岩の上に立って采配をふるっていたところを忍び寄った鉄砲隊の一斉射撃で胸に被弾。すかさず畠山軍の家臣により首をはねられた。

 「根来衆」は根来寺の僧兵。
根来寺は、その頃が最盛期で広さ36万坪、寺領72万石、堂塔450余を誇り、一万人の僧兵「根来衆」を擁していたが、1185年豊臣秀吉の紀州征伐(「根来攻め」)でほとんどの堂塔が焼失し、江戸時代になって復興された。

1140年高野山中興の祖・覚鑁かくばん 興教大師 1095-1143)が、鳥羽上皇の厚い信任を受け、大伝法院と金剛峯寺の座主を兼ねたが、在地の僧や従来から金剛峯寺の座主となっていた東寺の反発に遭い、根来の地に移って開いた。

 そして、もうひとつ阿波との繋がりは、1114年初めて高野山に登った覚鑁が最初に出会ったのが阿波出身で、いわゆる「高野聖」の青連上人だった。 (神山町・吉祥院は青連上人が再建したと)
  (「覚鑁と真言密教」朝日新聞出版参照)

イプシロン・ロケット

photo 8月22日新型ロケットである「イプシロン・ロケット」が打ち上げられる。

このロケットは、自らが点検する機能を持つ画期的が技術が採用され、打ち上げに要する設備や人員、作業期間などが大幅に削減されるという。

 何とノートパソコン1台と数人のスタッフだけで打ち上げが可能な「モバイル管制」ロケットで、費用も従来のM-Vロケットの約75億円に対して約38億円で済むらしい。

打ち上げ能力は1.2トンとM-Vロケットの1.8トンに比べて低いが、最近の主流となっている小型衛星の打ち上げには十分だと。 
(8/9 JAXAは打ち上げを27日延長すると発表した。)

「お安御前と大くす」

お安御前 










 美馬郡半田の山あいに、天をつくようなくすの大木がありました。

長い間、山の主として村の人たちから厚い信仰を得ていたが、
ある日のこと、豊臣秀吉が朝鮮征伐のため、巨大な軍船を建造するため、村にくすの木を切り倒して差し出すようお触れが来た。

しかし、村人はたたりを恐れて誰一人協力しなかったので、藩庁から奉行が多くの木こりを連れてやって来た。

そして最初の斧がくすの木に打ち込まれたとき、空はみるみるうちにかき曇って暴風雨になりました。
それでも木こりはふるえおののきながら、木のまわりを五・六寸切り込むことができました。

ところが翌朝になって行ってみると、不思議なことに一夜にしてすっかり元のように癒えているので、木こりたちは肝をつぶしてしまいました。 そして三日目の朝も同じことでした。
木こりたちはすっかりおじけてしまい、恐ろしくなって逃げ出す者もでる始末。

 そこで、奉行は修験者にお願いして山の主の怒りを鎮めてもらうことにしました。
修験者は奉行や村人達が見守る中で、護摩をたいて祈祷を続けていましたが、やがて
「なみなみのことでは山の主の怒りは鎮まりません。主のいうことには、はらみ女の生き血をいけにえにせよということですぞ」

これを聞いた村人たちはびっくり。 奉行も殿様に相談に行ったが、殿様はどうがこうでもくすの木を切り倒せと命じました。
奉行は、「自ら願い出た者には、厚くその菩提を弔い、残った家族には手当てをつかわす」との御触れを出した。

ところがこともあろうに、これを聞いた奥方のお安がはるばる徳島からやって来て、「わたしがいけにえになりましょう」と名乗り出ました。
奉行はびっくりして思いとどまらせようとしたが、お安は、「私が名乗り出なければ、外の誰かが無理矢理いけにえにされるでしょう。」といって夫の説得を受け付けません。

お安はまだ十九歳になったばかり、花のように美しい若女房でした。
腹にはやがて生まれてくる小さな生命が宿っておりました。

奉行の苦悩をよそに、やがていけにえを捧げる日がやってきました。
村人たちは、「ああ、ありがたいこっちゃ」、「ほんまにもったいないこっちゃ」と、あちこちからうめき声とすすり泣声が聞こえてきます。

 やがて誰からともなく読響の声が起こり、村人たちの合唱が山々に響き、修験者は乱心したかのように祈り続け、木こりたちは斧を打ち続けました。
お安は立ち上がったかと思うと、くすの木の切り口の側に寄っていき、奉行の眼を悲しそうにじっとみつめ、村人たちににっこりと会釈をしたかと思うと、切り口に身をおどらせました。

するとくすの木からは真っ赤な血潮が吹き出しました。
木こりたちは放心したかのように斧を打ち込み、のこを挽(ひ)き続けました。

やがて、さしもの大くすの木も、どどどどっと山が崩れるように地響きをたてて倒れました。

 奉行は、放心したかのように病の床に伏してしまいました。
やがて大くすの木を材料にして大船が建造され、お安の名前にちなんで「大安丸」と名付けられました。

しかし、どうしたことか、鳴門の海峡にさしかかると、あっという間に沈没してしまいました。 春三月の大潮の日には、大安丸の不気味な姿が海底深くに見えたという。
それから後、村人たちはくすの大木跡に小さなお堂を建て、お安母子の悲しい霊を慰めたということです。
  (湯浅良幸・緒方啓郎共編「阿波に民話 第一集」より)

記憶に残る男

Empire_State_Building 現地7/28ヤンキー・スタジアムに45,000人の別れを惜しむ観客を前に松井秀喜引退セレモニーが行われた。

’03.4本拠地開幕戦で満塁ホームランを放ち、’06.5守備で左手首を骨折して連続出場試合が1768で途切れたものの、’09.11のワールド・シリーズ第6戦では6打点をあげワールド・チャンピョンを決める大活躍でMVPを獲得した。

 しかし、何故か翌年ヤンキースを退団することになったが、このようなセレモニーを催してもらえるのは稀なこと。
少しはモヤモヤとした胸のつかえも晴れたような気がする。

夕暮れに悠然とそびえ立つエンパイヤー・ステート・ビルのように、ニューヨークにファンの心にいつまでも残ることだろう・・。

 奇しくもこの日は長年の同僚デレック・ジーターの復帰戦。
何と初打席に初球をホームランという絵に描いたような離れ業。
そして、イチローも4打数4安打で4,000本安打に残り16本。 大リーグでもピート・ローズの4,256本とタイカップの4,191本の二人しかいない大記録が目前。
試合は10年ぶりに復帰したソリアーノのサヨナラ打で勝利するというニューヨーカーたちはたまらない一日だったろう。 
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