2013年09月

42と51

Mariano_Rivera ヤンキースのマリアーノ・リベラが今季限りで引退する。

先日のヤンキース・スタジアムでの最終試合に登場。 同じく引退するペティットと黄金時代を共に戦ったジーターが試合途中マウンドに向かい労をねぎらうと男涙を流していた。

’97年全球団の永久欠番となったジャッキー・ロビンソンの42番だが、それ以前から付けていたため唯一の例外だったが、それも652セーブという前人未踏の記録を残して去って行く。

8割以上をカットボールでバットの芯を外して討ち取る投法をもう見れないのは残念。

ところで、マウンドに上がる時にはメタリカの「エンター・サンドマン」がかかるのがお決まりだが、どうやらこれは球場スタッフが選曲したらしく、彼の好みではないようだ・・。

 一方、51は今はヤンキースで31番を付けているイチローの背番号だったし、古巣のマリナーズでのライトの守備位置は”エリア51”と呼ばれた。

その”エリア51”の存在をやっとCIAが認めたとの記事があった。
「インデペンデエンス・デイ」や「Xファイル」にも登場するエリア51は「ロズウエル事件」(1947年ニューメキシコ州ロズウエルで、墜落したUFOを回収したと報じられたもあり、謎めいた話として話題を提供しているが、偵察機やステルス機のテスト飛行を行っていた(る)とのこと。

しかし、今でも取材は拒否されるし撮影は一切禁止とのこと・・。

桃太郎伝説と吉備王国

桃太郎 童謡にも歌われる「桃太郎」は、大和政権と対立していた吉備王国制圧にまつわる話を元にしていると。

5世紀、強大な勢力を有した吉備地域(現・岡山県と広島県東部一帯)では、巨大古墳が造営されている。(造山、作山古墳)

ヤマト朝廷はこの吉備を征伐するため、第10代崇神天皇の時、吉備津彦が遣わされたと『日本書紀』にある(「吉備の反乱」)。 
崇神天皇は三~四世紀に実在し、ヤマト建国の立役者である。

『古事記』にも孝霊天皇の皇子・大吉備津日子命(おおきびつひこのみこと)と弟・若日子建吉備津日子命(わかひこたけきびつひこのみこと)が吉備を平定したと同様の記述がある。

 江戸時代、この吉備の鬼ヶ城を根城にして乱暴狼藉を繰り広げていた温羅(うら)を吉備津彦が退治したという伝承を元に「桃太郎」が生まれた。 桃太郎のモデルが吉備津彦で鬼は温羅、鬼ヶ島は総社市の鬼城山だと・・。

”春秋の滝”

k-9678 昨日は栗を採りに行った。
手入れもしないので虫喰いも多いが、この時期に栗ご飯を食べると「秋だなア~」と実感。

と言う訳で、我が家の掛け軸も秋用の「春秋の滝」(菱田春草)に掛け直した。
季節を感じるものが少なくなっているので、せめて掛け軸でもと四季ごとに取り替えている。

 菱田春草(1874-1911)は、横山大観、下村観山とともに岡倉天心の門下で「朦朧体」という輪郭線を廃した無線描法で知られる。


彼はわずか36才でこの世を去った。
この作品は明治42年(1909)の作と言うから、亡くなる2年前のもの。 実物は東京富士美術館で見られる。

その頃の三好長慶

三好長~1 秀吉が三河国矢作川に架かる橋の上で蜂須賀正勝に拾われたのは天文15年(1546)

その時三好長慶(当時は範長)はと言えば、細川晴元に離反した細川氏綱を制するため和泉に派遣された。

氏綱にとって晴元は父・尹賢と養父・高国の仇。 ’43年12代将軍・足利義晴や畠山政国、遊佐長教、筒井氏らの復権をめざして兵を挙げたが、強大な晴元には太刀打ちできなかった。(~’47.7「舎利寺の戦い」)

 しかし、長慶は父・元長の仇である同族・三好政長の討伐を要請を拒否されたため’48年長慶は遊佐長政の娘を娶るとともに氏綱の陣営に組したため形勢は一変。

’49年6月長慶は政長を討ち、晴元と将軍職を譲られた義輝を近江に追放(「江口の戦い」)、こうして細川政権は終焉。
三好氏は摂津、山城、大和、和泉、丹波など九ヶ国を勢力下において幕政を掌握することになった。


 ちなみに、長慶(1523-64)は秀吉(1537-99)より14才、信長(1534-82)より11才年上。

黒田長政の妻

yahagibashi  あまり取り上げることのない蜂須賀氏だが、来年の大河ドラマ『黒田官兵衛』の子・長政の正室イトが蜂須賀正勝の娘だとあれば書かねばならないだろうと。

 正勝は秀吉の天下統一に付き従い中国、四国の平定に武功があり長宗我部元親の押さえとして阿波一国を与えられたが、秀吉の側近として仕えることを望み嫡男・家政に譲った。

天文15年(1546)奉公先の陶器屋から逃げ出した日吉丸(秀吉)は、三河国矢作川に架かる橋で正勝に拾われたと『絵本太閤記』にあるが、この橋が架けられたのは後のことで創作だとのこと。

蜂須賀氏は川並衆として木曽川に本拠を置き、尾張と美濃・伊勢の間で活動していた。
いつどのようにして秀吉の配下となったかははっきりしないが、秀吉が大きく貢献した信長の美濃攻略(永禄4年ないし9年(1561-66))には正勝をはじめとする川並衆が実行部隊をつとめ、天元元年(1573)秀吉が長浜城を築城したおりには所領を与えられ、三木城攻防戦では戦功により播州・龍野城を与えられている。

娘イトの縁談を仲介したのも秀吉で、四国征伐では黒田官兵衛とともに播磨から上陸、元親との講話を取り持っている。
ただし、秀吉の死後長政は糸姫を離縁して家康の養女・栄姫を継室に迎えた。 
 (「軍師」日本文芸社 参照)
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