2013年11月

三好長慶の死因

三好長~1 三好長慶は永禄七年(1564)五月九日唯一健在だった四男・安宅冬康を飯森山城で謀殺した後、七月四日自らも飯森山城で死亡した。

前年八月二十五日には期待を寄せていた最愛の嫡男・義興も失っており、冬康謀殺は度重なる悲劇が招いた心的疲労のためと推測されている。

それにしても不可解な長慶の死因は何だったのだろう?
『三好長慶』(今谷明、天野忠幸監修)で諏訪雅信氏は「うつ病」だと推測している。

 永禄三年正月、御相伴衆(三管四職に並ぶ位)及び従四位下修理大夫に叙任され、名実ともに天下人になったのだが、長慶は満足感よりもむしろ強い喪失感を感じていたのではと。

うつ病の発症は不幸な出来事だけでなく、昇進や子どもの結婚など、めでたい出来事にも起因する。(「荷おろしうつ病」)
同年十月には義興に居城・芥川城を与えて独立させ、自らは飯森山城に居城を移している。(「引っ越しうつ病」)

 松永貞徳(久秀の一族)は『載恩記』に細川幽斎から聞いたとして、「三吉修理大夫殿の連歌座の行跡を語り給う。屍のごとくおはします。御膝のかたはらに少しよこたへて扇をおかせられる。・・・又、もとの所によこたへて置給ふ。其の置き所畳のめ一ぶんもちがはざりし」とあり、徹底した几帳面あるいは脅迫行為を想起させ、ある行動を繰り返さなければいられず、深層心理に強いコンプレックスが残っていると。

3年間飯森山城に籠もったままで10回もの連歌会を行っていることも「逃避」であり、「不安性障害」、「強迫性障害」と見れ、それは十歳のとき燃えさかる炎の中で父・元長が自刃し、母親に抱かれて堺より脱出し阿波に下国したことが、大きな心的外傷として残っていたのだろうと。

また、曾祖父・之長、祖父・長秀も戦場で討ち死にしており、三代続いて戦死していることも、自らも自然死できないとの不安をずっと持ち続けていたはずで、
冬康謀殺もうつ病の末期症状としての被害妄想で、冬康が頭となって自分を害しようとしているとの妄想にとりつかれたのではないかと。

他に、「集団自殺」といううつ病患者に多い事例から、三好氏の歴史を自らの手で幕引きするため冬康を道連れにし、自らも餓死した・・と。

もう一人のマカートニー

George_Macartney 元ビートルズのポール・マッカートニーの11年ぶりの来日公演が大きな話題となった。

そこで、無理矢理同名のジョージ・マカートニー(MacartneyとCが1つ少ないが)の話題。

 1793年清朝との貿易拡大交渉と皇帝乾隆帝の80歳を祝うためイギリスから使節団として派遣された。

朝貢使節として中国式儀礼である「三跪九叩頭の礼(三回跪き、九回頭を地に擦りつける)を要求されたが拒否、最終的にはイギリス流に膝を屈して乾隆帝の手に接吻することで落ち着いたが、貿易改善交渉は拒絶され帰国・・。

 中国東北部の女真族は12世紀にはをうち立てるが、その後はモンゴル(元)や明王朝の支配下に甘んじていた。
1583年ヌルハチが挙兵、遼東地方を手中にした後没するが、1636年ホンタイジは満、蒙、漢の上に立つ皇帝として即位し国号をとした。(民族名は「満州」・・・「文殊菩薩の国」の意味)

清朝はモンゴル、チベットに加え6代皇帝乾隆帝(在位1735-95)の代には新疆も支配下にして最盛期を迎えていた。
一方、イギリスでは紅茶の需要が高まり決済手段としていた銀が大量に流出していたので、これに代わるものとしてインド産アヘンを輸出。

1827年を境に銀の流入が流出に転じて清朝では経済的・社会的不安が起き、1840年”アヘン戦争”となった。

「栂橋・切越の合戦」

栂橋・切越 天正十三年(1585)七月頃、豊臣軍に降伏して脇城を退いた香宗我部親吉は200名ほどの兵とともに土佐に向かって退却した。

その一行が貞光川の上流、”土釜の滝”から約2キロ上流にある栂橋、切越にたどり着いた。 当時は「猫戻り」と云われるほどの細い道であったと。

このことを知った一宇山の土豪・小野寺八蔵維延は、近郷の山侍数百名を駆り出して山中に待ち伏せていた。

 親吉一行が差しかかったとき、岩の間や木陰から火縄銃や弓で一斉に攻撃をかけると、不意を突かれた土佐勢はばたばたと倒れていった。

維延が狙った矢がひときわ目立った鎧武者の親吉の脇腹を貫き即死状態となったほか、ほとんどの兵があえなく最後をとげた。

阿波の諸城を攻め破り日の出の勢いだった頃の親吉は、数万の将兵を率いた猛将であったが、武運が尽きたときの末路は実に悲しくも淋しい限りであったと・・。
  (鎌谷嘉喜著「阿波古戦場物語」参照)

F4ファントム

F-4 今も日本の空を守っている「F4ファントム」が自衛隊に正式に誕生して40周年になるとの新聞記事。

F4が運用開始されたのは1960年と言うからケネディ政権誕生直前で、初実戦はベトナム戦争

ベトナム戦争はケネディにとって最大の議論を呼ぶことになり、’61年5月「軍事顧問団」600人を派遣する派兵拡大策によって本格的な軍事介入への足がかりとなった。

ただ、F4ファントムはミサイルの信頼性や機関砲を装備していなかったため苦戦を強いられ、戦死者は北ベトナムより多かった。(乗員が2名だったことも要因のひとつだと)

 日本では154機が調達されたが、ライセンス生産が認められていたのは日本だけらしい。
’86年にはF15が主力戦闘機となっているが、’89年「F4EJ改」としてF16仕様のレーダー、F15のコンピューターに換装するなど電子機器の改装などにより90機が近代化改修された。

現在、62機が新田原基地と百里基地の二個飛行隊に配備されている。次期戦闘機F35の導入は2017年なので、この先まだ10年は現役として任務に就くと。

「武士道」(ケネディ その4)

宮本武蔵 「どのような危機でも、ニッコリと微笑みのひとつでも浮かべて立ち向かう」孤高のヒーローがアメリカ人の憧れだとすれば、

日本人のものの考え方にも影響を与え、副題に「日本人の魂」と付けられた『武士道(新渡戸稲造)にも
「生に執着せず、死に親しむ心を持つ」心が核心にあり、自らの名誉を重んじて、それを得るなら生命さえもいとわないと。
それを象徴する言葉が「武士道と云うは死ぬことと見付けたり(『葉隠』)

 また、「どのような危機でも、微笑みのひとつでも浮かべて・・」との態度についても、新渡戸は日本人はもっとも厳しい試練に直面した時にさえ笑みを浮かべる癖があると。(「日本人の謎のほほ笑み」)
このことは、東日本大震災で「微笑み」すら浮かべる被災地の人々が世界から驚嘆の目で見られたことが記憶に新しい。

そして、どんな場面でも”クール”を装うことについても、武士道にも「勇」(第4章Courage)や「礼」(第6章Politeness)の徳により、相手を思いやり、自らの感情をあらわにしない態度を身につけ、ストイックな気質「克己」(第11章Self-control)
がそれと共通する。 このように多くの共通点がある。  (山本博文「100分で名著 武士道」NHK出版 参照)

記事検索
プロフィール

fumi

タグクラウド
QRコード
QRコード
  • ライブドアブログ