2014年01月

長慶とともに眠る利休

南宗寺の利休墓  三好長慶千利休のかかわりについては何度か記事にしたが、利休の墓が何れも三好氏、三好長慶に関係の深い寺に在ることは、二人が浅からぬ関係であったことを示すものとして興味深い。

 まず、1557年長慶が亡父・元長の菩提を弔うために建立した堺市・南宗寺、三好氏の菩提寺となっている。
開山は大徳寺第90世の大林宗套(1480-1568)で、この宗套に武野紹鴎や千利休、津田宗及ら堺衆が参禅した。
利休の「宗易」の名は大林宗套から受けた法名。このことから利休と千三家歴代の墓所がある。

1574年松永久秀の兵火と、1615年大坂夏の陣により焼失したが、その後沢庵宗彭によって再建された。方丈庭園は古田織部の作庭とされ国の名勝となっている。
また、茶室実相庵には利休遺愛の手水鉢がある。

  もう一つは、1566年長慶の菩提を弔うために子・義継が建立した京都洛北、船岡山の北にある大徳寺・聚光院
聚光院とは長慶の法号であり、開祖は大林宗套に師事した大徳寺第107世笑嶺宗訴(1490-1568)。笑嶺宗訴は長慶の葬礼を取り仕切り、聚光院所蔵の長慶画像に賛を書いた。

知られるように利休は、1589年資金不足で60年間仮葺きのままであった大徳寺三門金毛閣に檀越(施主)となって二階を継ぎ足し、そこに自分の像を安置したことから秀吉の怒りを買い自刃させられた。
利休は笑嶺宗訴にも参禅したことから墓所がある。
聚光院の利休墓

三好長慶の教養

三好長~1   三好長慶は文芸・文化に秀でた武将で、次の次代、信長や秀吉の手本になった。

以前『三好粉引』という高麗茶碗を紹介したが、実は茶書や名物記には名が見えず、江戸時代に茶人・金森宗和が所持したさいに箱書付けしたことから長慶所持とされていると。

 「茶の湯」では実休(三好義賢)や宗三(三好政長)らにかなわなかったようだが、「連歌」では長慶はその第一人者であった。

連歌は和歌の上句5・7・5と下句7・7を並べて交互に詠み続けるもので、日本武尊が遠征の帰途にかがり火番の翁と二人して、「新治(にいばり)筑波を過ぎて幾夜か寝つる」「日々(かか)なべて夜には九夜 日には十日を」と詠み合ったのが始まりと。

永禄五年(1562)三月、弟・実休が「久米田の戦い」において戦死した時、長慶は飯盛城で連歌会の最中であった。
戦死の報を伝えられたにもかかわらず連歌を続け、百句続けて詠む「百韻」が終了した後、都から招いた谷 宗養や里村紹巴たちを帰したという。

 また、百韻を十巻も詠む「句連歌」に長慶は「天文三好千句」(1551)、「滝山千句」(1556)、「飯盛千句」(1561))と3回も出座している。

この内「滝山千句」は、”大物崩れ”「天王寺合戦」(1532)で十万の一向宗徒に本陣の顕本寺を襲われ自害した父・元長の25回忌を人の僧で読誦する大法要の後、松永久秀の預かる滝山城で行われた。
連衆の中には、宋養・元理・等恵らの連歌師、堺の茶人・玄哉、芦屋神社の神官や久遠寺、細川昭元の奉行人・飯尾為清らがいた。

大徳寺派僧侶で南宗寺(写真画を所蔵)を開山した大林宗套は、長慶を「万葉古今歌道を究め、諸人は北斗や泰山のように仰ぎ見た」と評したと。 (今谷明・天野忠幸監修「三好長慶」参照)

ナチスとオリンピック

Sohn ヒトラーは政権を奪取してから3年後の1936年にベルリン・オリンピックを開催した。

宣伝大臣ゲッペルスの「ドイツの国力やアーリア人の優秀さを世界に知らしめる絶好の機会だ」と進言により開催され、開会宣言をするヒトラーの頭上には競技場全体を覆うような全長245m世界最大の飛行船ヒンデンベルグ号が現れ、選手や観客はその威容に度肝を抜かれ驚嘆、絶好のプロパガンダとなった。

 この大会で初めて太陽光でともした炎をアテネから競技場まで運ぶ聖火リレー、テレビ中継が行われた。
また、恋人とも噂された女性レニ・リーフェンシュタール監督による記録映画『オリンピア』が制作され、’38年ベネチア国際映画祭において金賞を受賞した。 これ以後、IOCは記録映画を制作することを義務付けるようになった。

ちなみに、この大会での日本人の活躍としては、「前畑がんばれ!」の中継が印象的な200m女子平泳ぎの前畑秀子や田島直人の三段跳び、孫基禎(朝鮮人)のマラソン優勝・金メダルがよく知られている。
孫基禎は当時の世界記録保持者(2時間26分42秒)で、アジア人として初めてのマラソン金メダルだった。

 間近にせまった冬期ソチ・オリンピックでは、浅田真央さんには是非金メダルを取ってほしいもの。 休養明けのキム・ヨナに「トンビに油揚げをさらわれる」のは悔しいから・・。

嫌われもの

第一次東条内閣 今年は鳥の飛来が極端に少ない。エサ台にミカンを置いてもいっこうに食べに来ないのだ。
あの「招かざる客」で嫌われものの(ひよどり)さえも姿を現さない。

 嫌われものと言えば、日本も中国・韓国にはよほど嫌われているらしい。
今朝の新聞では中国の有力者に「第2次大戦では、日本はアジアのナチスだった」とまで言われている。

そう言えば、A級戦犯(「平和に対する罪」)として絞首刑にされた東条英機は陸軍大学校卒業後、3年間ドイツに留学している。 ドイツ語が堪能で自宅はドイツ風の家に住んでいたと。

戦争の責任も、国民の恨み辛みもすべて一身に引き受け、家族にも「一切語るなかれ」と言い残して刑死したというが・・。
辞世の句は「今ははや 心にかかる 雲もなし 心ゆたかに 西へぞ急ぐ」

 昭和15年(1940)4月29日、彼は「勲一等旭日大綬章」とともに「功二級金勲章」を受けている。
金色に輝く(とび)は神武天皇を導き長髄彦(ながすねひこ)を破ったが、東条は日本人300万人とアジア諸国で2000万人とも言われる犠牲者を出した無謀な戦争へと拡大させてしまった。

重箱の隅

楠根地 重箱の隅に残った赤飯をほじって食べるのってウマイ。
餅つきの時も、セイロに残った飯粒をあさるのも美味いと感じるのはどうしてか・・。

今回取り上げる話題は、そんな重箱の隅のようなものだが、意外と我が町に繋がる。

鎌倉時代の初代阿波守護・佐々木経高は「承久の乱」で朝廷側となり、小笠原氏(後の三好氏)に取って代わられるが、有力な後家人・大江親広三浦胤義も後鳥羽上皇に従った。


 平家没官領であった、ふるさとの高越寺を含む所領は源頼朝の直領となって京都の一条能保に嫁いだ頼朝の妹に譲られ、その後西園寺家、更に九条家とめまぐるしく交替するのだが、1190年高越山に地頭が設置され中原親能が補されている。

この中原親能(1143-1209)とは頼朝の側近で公事奉行、頼朝没後の十三人合議制の一人、頼朝の次女・三幡の乳父であった。
大江親広の父・広元(1148-1225)は中原家の養子で義兄弟の間柄(諸説ある)で、京都の下級官僚であった広元が鎌倉に下ったのは親能の推挙によるものだと。(前記事「トリック・スター」の匡房(1041-1111)は広元の曾祖父。 なお、広元の四男から安芸・毛利氏が生まれている)

 もう一人、三浦胤義は義村(?-1239)の弟。
義村は和田義盛を討った”和田合戦”(1213)で地位を上げ侍所所司となり、3代将軍源実朝を暗殺した公卿(2代将軍・頼家の子)を討伐して駿河守となっている。 
子・泰村の代になり”宝治合戦”(1247)で北条氏に滅ぼされた。
また、義村の娘が正室となっていた千葉秀胤(?-1247)も追討され一族が阿波(1259年 美馬郡里・安楽寺に、1515年の火災で一時山川:瀬詰に)に逃れて来た
。(千葉氏は桓武平氏で三浦氏と同族。また、千葉広常の娘は小笠原氏の初代阿波守護・長清の正室だった縁)
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