2014年02月

「東雲の~」

58230 「♪ しののめ(東雲)の 上野が丘に~」

池田高校出身者ならずとも口ずさむことができるほどに、池田高校の活躍は徳島県民にとっては誇らしいものだった。

その池田高校が22年ぶりに甲子園に出場する。
センバツは’01年蔦監督が亡くなって初めての出場。
徳島県民にとっては、繰り返し校歌が流れてきた’82年夏、’83年春連覇の記憶は忘れがたいが、ずいぶん長いブランクだった。

  この池田高校の在る一帯は諏訪公園となっている。
「諏訪」の名前は、三好氏の前身・小笠原氏が信濃から「承久の乱」(1221)で佐々木氏に代わって阿波に入り、長経がこの地に大西城を築き(三好郡の最も西に位置しているので大西と。四国の中央部にあり伊予・讃岐・土佐への勢力拡大を目論んだ)、ふるさと信濃の諏訪神社から勧請を受けて建立したことによるものだろう。

諏訪公園の桜の下にシートを敷いて花見をしたことが懐かしい。

「東雲の ほがらほがらと 初桜」(内藤鳴雪)

内藤鳴雪は伊予の俳人。 松山市にある東雲神社にこの句碑がある。

「東風吹かば・・」

Konpiraooshibai 『飛梅伝説』が生まれたほどに、酒もあまり飲めなかった菅原道真は梅を愛し、邸宅には「紅梅殿」があった。

「東風吹かば 匂ひおこせよ 梅の花 主なしとて 春な忘るな」

 そう言えば、今年の「こんぴら歌舞伎」の演目には『菅原伝授手習鑑』が。

帝の弟宮斎世親王と菅丞相の養女・刈屋姫の恋が道真の左遷に発展するというくだり。
評判となった人形浄瑠璃の人気にあやかって、低迷期だった歌舞伎のテコ入れとなった作品だと。(作者のひとり三好松落が三好氏に関係するかは?)

  道真には14人(23人とも)もの子があり、赴任先では子どもらに腐心するマジメな役人であったとも。
また、道真を祀る天満宮・天神社は全国に1万2000もあるらしいが、太宰府天満宮とともに有名なのが北野天満宮。

この北野天満宮は、道真の政敵で左遷の首謀者・藤原時平の弟・忠平の子・師輔が藤原氏の繁栄を祈願して造営したもの。
忠平は道真と親しく左遷にも反対したという。 時平の一族が次々と不幸に見舞われたのに対し、忠平とその一族は怨霊の被害に遭っていない。
1587年豊臣秀吉が北野大茶会を行い、現在でも道真の命日2月25日には「梅花祭野点大茶湯」が催されている。

「飛梅伝説」

結城素明 今日は、昨夜来の雨のあとは「春は名のみ」どころか汗ばむ陽気となった。

慌てて、掛け軸を「梅雀図」(結城素明)に換えた。
正直、作者・結城素明(1875-1957)のことは知らずに、絵を気に入り購入したのだが、本名・(森田)貞松は勝海舟の命名だと。

英独仏にも留学し、東京美術学校の名誉教授になって、従三位勲二等瑞宝章を受けているとか。

  梅の花は古来から好まれ、『万葉集』では萩に次いで多く詠まれ、春の花の代表であったが、平安時代になると読み方も細やかになって匂いを多く詠むようになり桜にその座を奪われたようだ。


「靴ぬぐふ 雪ありゆきて 梅ありぬ」(皆吉 爽雨)

例年にない大雪に見舞われている雪国の方々には、実感がこもっていることだろう。

「飛び梅の 一枝悲願の 結び文」(田中 きみ女)

  ”飛梅”とは、不本意ながら九州太宰府に左遷された菅原道真を慕う庭木たちが道真を追って空を飛び、松は途中で力尽きて摂津国に降り立ったが、梅は見事に主人の暮らす太宰府に飛来したという『飛梅伝説』のこと。

この伝説は若狭国(福井県大飯郡・宝楽寺)、備中国(岡山県倉敷市)、周防国(山口県防府市・防府天満宮)などにも伝わっていると。

「阿波」は鉱山地名?

大粟山 以下、荻沢明雄氏著「徳島県地名考」から。

阿波国の郡名は潮野(板野)、(阿波)、水間(美馬)、水次(三好)、大江(麻植)、魚潟(名方)、潟浦(勝浦)、中港(那賀)と阿波郡を除いて水に関する地形に由来していると考えられる。

「あわ・粟・阿波」の名は、『古事記』に記された阿波国の神・大宣都比売(オオゲツヒメ)の鎮座地であるべきで、
『阿波誌』には、「埴生女屋祠(はにふめやし)、神領村大粟山に在り、一に田口神と称す。或は大宣都比売神と言ふ。今一宮と称す。」とあり、大粟山の山名こそ「あわ」の名の起こりではないか。

 また、アハ(粟)は金工地との説があり、神山町神領には神領鉱山(次郎鉱山)、持部鉱山(五郎鉱山)などの鉱山があった。
ほかにも、太郎鉱山(東山鉱山)、三郎鉱山(鷲敷町・百合鉱山)、四郎鉱山(美郷村中村)と、麻植郡、名西郡、那賀郡にわたって銅の採掘が盛んに行われていた。

これらの地域には焼山寺、高越寺、大竜寺と修験道の道場があり、彼等は銅鉱を見つけ薬用に使用し、忌部氏は由加物として工作したものと思われる。
ところで、足尾鉱山には「粟野町」があり、『日本書紀』の神代の巻には阿波は「粟田」と記されている。
これらのことから「阿波」は鉱山地名と推定される・・

「徳島」

徳島城 天正13年(1585)阿波国17万5千石の領主となって蜂須賀家政が入国した。(その後25万7千石に)

はじめは一宮城に入り、翌年になって現在の地に城を構えた。
『阿波誌』では永禄年間(1558-1569)にすでに城が築かれていたと次のように記している。

「永禄中、森飛騨守居る。天正10年(1582)秦元親(長宗我部)来りて之を抜き、吉田康俊(孫左衛門)をして留め守らしむ。
13年(15845)豊臣臣、其族、秀長及び秀次に命じて之を攻む。蜂須賀家政公先鋒たり。 康俊奔り遂に以って我に賜る。
明年、公其規模小なるを以って子城を山麓に作り、寺島を以って外城と為し、武市常三、林道感とに譲る。
初名、渭山、13年改めて徳島と名付け、ついで渭津と改む。 延宝6年(1678)10月また徳島と改む。」

 城山は、当時名東郡富田荘に属し、山の形が猪の座った形に似ていたので猪山と呼ばれ、海岸近くのかや原にも等しいさびしいところであった。

尾張出身の熊沢与三兵衛には茶菓をひさがせ、菜肆四郎左衛門(八百屋と称す)には菜蔬、塩屋吉右衛門には塩の貢進を管理させ、これが八百屋町、塩谷浜小路の地名となった。

常三島は、城の設計にたずさわった武市常三の住む島で、常三は美濃の人。「助任」は「砂架頭・すかとう」の転訛かと。
伊賀士丁には伊賀忍者が住んで探偵方をつとめ、御弓丁には弓組、幟丁には旗幟組、大道には持筒組(御鉄胞)八組、鷹匠町には鷹匠が住んでいた。
  (荻沢明雄著「徳島県地名考」より)

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