2014年07月

『昔阿波物語』

saika 三好長治自刃の日時についても諸説あるようで、『昔阿波物語(江戸時代に細川家の旧臣・二鬼島道智によって書かれた)は天正4年(1576)12月27日と伝える。

長治は浅はかにも上桜城主・篠原長房に謀反の動きありとの噂を信じて、雑賀衆三千、鉄砲一千丁を雇って攻め滅ぼしている。(天正元年(1573)7月16日)
この雑賀衆のことを『昔阿波物語』は「紀州の者は土佐前を船に乗り、さつまあきない計仕る」と記している。

雑賀は古来鉄の産地で、土佐沖を経て薩摩・坊ノ津を拠点として交易を行っていた。元は熊野水軍の流れを汲んでいる。
「雑賀」には鉄器工人の住む地との意味もあり、鉄砲の産地となって次々と名手を生み出した。中でもよく知られるのが雑賀孫市で細工の名人であったようだ。

 天正4年7月「第1次木津川合戦」で毛利軍と雑賀水軍に敗れた信長は、翌5年(1577)正月雑賀衆攻めに本腰を入れはじめた。
いわゆる「第1次雑賀攻め」(2/22~3/15)である。
総勢10万もの大軍の一派が雑賀川(和歌川)を渡ろうとしたが、雑賀衆は川底に桶や壺を埋め、随所に逆茂木を立てて人馬の動きを封じて一斉射撃。

信長軍の攻撃は思うに任せず、結果的に朱印状を出すことを条件に和睦を持ちかけた。
孫市は名代として使わされた秀吉に「この度は愉しませてもろうた。次ぎもまたよろしくなと信長さまに伝えおかれよ」と告げたと云う。

Mの因縁

森甚五兵衛の墓 三好氏の頭文字は「M」。 三好市の有力者にはMが付く者が多いと聞いたことあるが、阿波水軍にかかわるものの中にも同様にMではじまる者が。

天正五年(1577)三月二十七日阿波三好家当主・三好長治と対立していた異父兄弟である守護・細川真之が荒田野口(現・新野町)で小競り合いの後、今切城(現・徳島市春日町)で刃を交え森志摩守に助け船を求めたが出会うことができず、長治は別宮浦(現・松茂町長原)で自刃。阿波は無政府状態に陥った。

 その頃、淡路の安宅信康(1549-78 神(甚)太郎。長慶の三弟・冬康の子)は信長方に組していたが安宅「淡路水軍」もかってのように統制がとれず、志知を治める管達道は毛利方に寝返り、大坂への重要拠点である岩屋城は本願寺側の毛利輝元・村上水軍・雑賀水軍に奪われていた。

管達道は反秀吉勢力に呼応して岸和田城攻めに加わり紀淡海峡を渡ったが、淡輪(現・大阪市泉南郡岬町)を治める(M)真鍋真入斎貞成に急襲されあえなく淡路に引き返し、四国攻めで秀吉の軍門に降った。
秀吉は真鍋真入斎貞成の活躍を大いに称賛し感状を与え、蜂須賀家政に3000石で召し抱えられた。(その後貞成は戸田勝隆や福島正則と渡り奉公を繰り返している)

 一方、「阿波水軍」を率いた(M)森氏は因幡国・佐田九郎左衛門が家祖。
森飛騨守の取り次ぎで細川氏に仕え鎌田筑後守を名乗って西黒田村に在していた。九郎左衛門の子・元村が飛騨守の由縁で森姓を賜り初代森志摩守を名乗り。天文年間(1532-55)大毛島土佐泊に城を築いて撫養城主・小笠原氏の娘を娶った。

天正13年(1585)秀吉の四国攻めの際には秀吉方に味方し、蜂須賀家に3026石で召し抱えられた。 ただし、南方を防御するという名目で椿泊(阿南市椿町)に配置された。

二代目・村春が朝鮮の役で戦死し、その息子も若くして亡くなっていたため甥・甚五兵衛村重が森一族を継ぎ、大坂冬の陣では活躍して家康から感状を与えられている。
その後、森家は椿泊の本家・甚五兵衛家と由良(淡路島)の甚太夫家が存続。現・椿泊小学校は甚五兵衛屋敷跡であり石碑が建っている。

安宅水軍

武吉丸 「江口の戦い」(1549)の後、三好長慶は父・元長の仇敵・三好政長を討ち管領・細川晴元を追って都を掌握、政権を握った。

その絶頂期は永禄四年(1561)頃で播磨、摂津、山城、丹波、和泉、河内、大和にまで及び比類のない勢力を誇っていた。

しかし、永禄七年(1564)五月九日には相次ぐ兄弟や嫡男の死でうつ病に陥り、あろうことか三弟・安宅冬康を飯盛山城に呼び出し誅殺してしまい、その二ヶ月後の七月四日に後を追うように自らも病死。 
この後三好家は没落の一途をたどり長宗我部元親、信長の台頭を許すことになった。

「江口の戦い」では冬康率いる淡路安宅水軍は兵員や兵糧などの輸送に活躍するだけでなく、江口城を囲む神崎川、淀川を封鎖して補給路を遮断、細川晴元は戦わずして丹波に逃亡したと。

 冬康の後は神太郎(甚太郎、信康)が継ぎ、信長上洛後は石山本願寺と組んで敵対していたが元亀三年(1572)には君下に下り、「木津川の合戦」(1577)では毛利水軍と戦ったが30才の若さで死亡。後を弟・神五郎(甚五郎、清康)が継承した。

清康は毛利に内応して信長に敵対する動きを見せたために天正九年(1581)十一月命を受けた秀吉らの軍に攻められ降伏した。 安土に出向き許しを請うが、所領を没収されて紀伊に追放、淡路安宅氏も実質上滅亡した。

 安宅氏は、紀伊国牟呂郡安宅(あたぎ)(現:和歌山県西牟呂郡白浜町)より興った熊野水軍の一派で、安宅氏の一派が淡路に進出して安宅八衆を形成していた。冬康は安宅治興の養子となり家督を継承した。

三好長慶没後450年

三好長~1 三好長慶が永禄七年(1564)七月四日飯盛山城で43才で没してから450年となる。

信長・秀吉・家康による天下統一の足掛かり、先駆者としてその「先進性」が見直されていると言うが、出生の地である阿波・徳島から特にメッセージが聞かれないのは淋しい限りだ。

 天文八年(1539)越水城、同二十一年(1553)芥川山城、永禄三年(1560)には飯盛山城で、絶頂期の頃には勢力範囲は阿波・讃岐・淡路・和泉・河内・丹波・大和・山城・播磨の一部に及んだ。

長慶は永禄三年一月には桐紋を拝領し、相伴衆、修理大夫に任ぜられ、三好之長・元長に続く三代で”実休”義賢(阿波支配)、十河一存(讃岐支配)、安宅冬康(淡路支配)ら弟たちとの”トロイカ体制”により三十余年にわたって政権を掌握していった。

残念ながら永禄四年(1561)四月に四弟・十河一存が病死、同五年(1562)三月次弟・義賢が戦死、同六年(1563)八月には嫡男・義興の病死、同七年(1564)五月には三弟・安宅冬康を誘殺。

 長慶の死により三好政権の崩壊が始まり、永禄十一年(1568)九月信長の上洛後は三好三人衆や松永久秀が抵抗するも、もはや時の流れは止めようがなかった。
最後まで地元の阿波を守った十河存保も、天正十年(1582)九月二十一日長宗我部元親との「中富川の合戦」に敗れて讃岐逃れ、阿波三好一族は終焉した。

夏の過ごし方

蝉の羽化 梅雨が明けると同時にセミがやかましく鳴き始めた。

昨日、珍しく地中から這い出てきて羽化する場所を探しているのか、軒下を這うセミの姿に出会った。

5年以上も土の中で木の根汁を吸って過ごし、成虫になって僅か1ヶ月程度で死んでゆくセミは、「空蝉」「虚蝉」などと表記され、古来人の命のむなしさやはかなさ、無常感に例えられる。

「蝉涼し 足らぬねむりを ねむりつぐ」(水原秋桜子)

 こう暑いと寝不足になり、昼寝でもしないと老体は維持ができない。

「蝉時雨 棒のごとくに 人眠り」(清崎敏郎)

夕食後、陽も落ちてから散歩に出掛けるのが日課だが、どういう訳か蜩(ひぐらし)が鳴いている。
秋蝉とされ夏から秋にかけて明け方や夕刻にカナカナと涼しげに鳴いて、行く夏を惜しみ秋が近いことを感じさせてくれるはずなのだが、どうも異常気象や夜間照明のせいで時間感覚が狂ってしまったらしい・・。

 永井荷風の『夏の町』の一節に「東京という町の生活を美しくさせるのは夏。日本の生活が最も活々として心地よいのは夏の夕だ。 虫籠、絵団扇、蚊帳、青簾、風鈴、葦簀(よしず)・・」とある。
しかし、田舎でも冷暖房の断熱効果を考えた「穴蔵」のような窓の少ない住宅が増えている。

「家のつくりは夏をむねとすべし」と兼好法師は説いたが、窓の開閉で風の道を調節して夏をしのいだ日本の住宅の姿は過去のものとなるようだ・・。
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