2014年12月

天正遣欧使節

天正遣欧使節団 平成26年も残すところあと一日となった。

現在の「グレゴリオ暦」が採用されたのは明治6年(1873)1月1日からのこと。
その日は世人にとってはまだ12月3日だった。
参議大隈重信は、これにより官員への俸給を12月分と閏年となる来年6月分を合わせ2ヶ月分の節約し、政府支出の中で高い率を占める人件費を節減する思惑もあったのだと。

 1582年ローマ教皇グレゴリオ13世は、それまでの「ユリウス暦」を改め10月5日を15日とした。 東洋の独立国では日本が最も早くこのグレゴリオ暦を採用している。

その年天正10年の6月1日、日本では梅雨のさなか京都・本能寺で織田信長は「本年には閏年があるべきではないか」と公家に詰め寄っていた。
「宣明暦」では来年の正月の次ぎを閏月をしていたが、東国で用いられていた「三島暦」ではこの年も12月の次ぎに入れていたのだった。 しかし、翌未明明智光秀の軍勢が本能寺を襲う・・。

 もう一つ、その年の1月28日大友宗麟、有馬晴信、大村純忠ら九州のキリシタン大名の使者4名の少年「天正遣欧使節」がヨーロッパに向けて長崎を出航した。
そして彼等は1585年3月23日(天正13年2月22日)彼の教皇グレゴリオ13世に謁見している。

「日本の公子たち」として歓迎された彼等であったが、世話役のバリニャーノ神父により大友宗麟の甥とされた伊東マンショの出自は定かでなく、16通もの宗麟の書状も実は偽造されたものだったと。
この頃宗麟は島津義久との「耳川の戦い」(1578)に大敗し、使節団どころではなかった。

天正13年には島津軍が豊後に進撃を開始し、翌14年(1586)4月5日宗麟は秀吉に救いを求め大坂に出向いている。
そこで秀吉軍の先遣隊として派遣されたのが長宗我部軍と十河一存軍で、信親と存保は12月12日「戸次川の合戦」で討死した。
秀吉の本隊25万人が九州に上陸したとのことで、島津軍は薩摩に逃げ帰り、義久は頭を丸めて降伏した。

 ところで、遣欧使節団が帰国したのは天正18年(1590)のこと。
しかし、既に天正15年('87)秀吉はキリシタン禁教令「バテレン追放令」を出しており、バリニャーノ神父のキリスト教文化を広めるという目論みは頓挫してしまった。
救いは使節団がグーテンベルク活版印刷機を持ち帰り、今も数十点の貴重な資料が現存していることか・・。

空海と「薬子の変」

高野山 来年は空海が開いた高野山が開創されて1200年になると。

弘仁七年(816)6月、嵯峨天皇は高野山に修禅道場を建てることを許し、金剛峯寺が開創された。

 空海が最澄らと遣唐使として渡海したのは延暦二十三年(804)のことで、それには桓武天皇在位781-806)の意向があった。(806年帰朝)
桓武天皇は長岡京造営(784)の中心人物・藤原種継暗殺(785)の首謀者として、弟・早良親王を死に至らしめたことで、怨霊に対する恐れを抱くようになったのだと。

延暦二十五年(806)3月に桓武天皇が没するが、新帝・平城天皇は空海の留学効果に興味を示さず、大同四年(809)4月病気を理由に譲位された嵯峨天皇の代になって、和泉国にいた空海は約3年を経て初めて平安京に入り厚遇されるようになった。

 ところが翌年(810)9月に「薬子の変」が起こった。
藤原薬子は種継の子で安殿親王(平城天皇)の妃の母でもあったが、療養していた平城上皇に近づき平城古京に遷ることを勧め「平城遷都令」を出させた(9/6)ことにより、「二所朝廷」という事態を引き起こしたため、天皇は薬子の官位を剥奪して宮中から追い出した。

これに反発した平城上皇が兵を起こしたので、天皇は坂上田村麻呂らを派遣して撃退(9/12)。 上皇は剃髪入道して平城宮に戻り、薬子は毒をあおって自殺した。

 これにより、名実ともに権力を掌握した嵯峨天皇は空海の真言布教を許し支援することになった。
弘仁二年(811)には早良親王が幽閉され憤死した乙訓寺に空海を住まわせて霊を慰めさせている。 そして空海は次の淳和・仁明天皇からも厚遇された。 
(「週刊 日本の歴史13」朝日新聞出版 参照)

「捨聖」

一遍上人 最初の元寇「文永の役」(1274)があった年、阿波が最後の地となった一遍上人は遊行の旅に出た。

それは36歳のこと。世の無常を感じて超一、超二という妻子と念仏房の三人を伴って高野山・熊野から九州、そして京に上り信濃・佐久~奥州、常陸へと・・。(後の盆踊りにつながる「念仏踊り」は佐久の地で始まったと)

一遍、幼名松寿丸は、1239年に四国松山、道後温泉の近く宝厳寺で、瀬戸内を制していた河野水軍・河野通広の子として生まれた。
しかし「承久の乱」(1221)で上皇軍に加わって奥州に流罪になり生涯を終えた祖父・通信の眠る地を訪ねたのだろう・・。

「心をば こゝろの怨(あた)と こゝろえて こゝろのなきを こゝろとはせよ」

空也と西行を崇める一遍は、西行も『捨ててこそ』と言われていると「一切を捨離すべし」と、熊野権現で神託を受けたのちは妻子まで捨て、ひたすた念仏を称えて全国を巡り歩いたことから「捨聖」と称された。

 1288年、50歳のとき、祖先の祀られている伊予の大三島神社に詣でて、翌年には讃岐・善通寺から阿波に入った。

15年間日本全国を歩き続けた一遍であったが、すでに51歳となっており体調を崩しており、淡路から兵庫の観音堂にはいると病は重くなりそこで生涯を終えた。
持ち物のすべてを焼き捨て、葬式もせず、亡骸は野に捨てて獣に施せと遺言したと・・。 彼を追って7人の弟子が海に入水したと
。  (「仏教を歩く 一遍」朝日新聞出版 参照)

サライ

images 満州族の祖先・女真族が興した「金」を滅ぼしたモンゴル帝国の西端がキプチャク・ハン国で、その都はサライ

24時間テレビ『愛は地球を救う』のテーマ曲ともなっている「サライ」はこの地をイメージしているようだ。
今は無くなった「山川少年自然の家」では、この曲を流して子どもたちを見送っていたのが懐かしい・・。

 「サライ」とはペルシャ語で舘、宮殿、オアシス、故郷の意味。
キプチャク・ハン国は、13世紀から15(18)世紀に黒海の北の広大なステップ地帯・キプチャク草原を支配した遊牧政権の君長(ハン:KとHの中間音)の国のことで、チンギス・カンの長男ジョチの後裔が興したことからジョチ・ウルス(遊牧政権・国)とも呼ばれる。
最盛期には人口は60万人に達し、当時としては世界最大級の都市であったと。

 チンギス・カン(1162-1227)は、95の千人隊を組織し、3人の実弟を左翼(東方三王家)に、3人の弟を右翼とし、それぞれに12の千人隊を与えて1227年には「西夏」を滅ぼし、後を継いだオゴデイが1234年に「金」を滅ぼしモンゴル高原中央のカラコルムに都城を建設した。 

1236年から始まった東西遠征で、ジョチの次男・バトゥ率いる西征軍はポーランド、ハンガリーまで進撃。
オゴデイの死去(1242)による後継者・大カアン位をめぐる内紛をみて南ロシア・ヴォルガ川下流のサライを都として留まり、周辺を諸兄弟に分封して自立政権を築いたのがキプチャクハン国。
その実態は移動式の天幕(オルダ)で、季節ごとに一定範囲を移動したようだが、天幕の内装は豪華な金でできており、漢文では「金帳汗国」、ロシア語では「金のテント」と。

この後クビライ(1215-1294)は、1266年大都(北京)を造営して国号を「大元」とし(1271)、1279年には「南宋」を滅ぼした。

 ついでながら、「文永の役」(1274)、「弘安の役」(1281)と続いて二度日本遠征に失敗したあと、実は1287年には三回目の遠征に乗り出していた。
ところが、中国北部でオッチギン家(東方三王家)で反乱が起き、クビライ自ら親征して鎮圧。 以降は通称重視策に転換することになり中止されることになったのだと。


金と清

あじあ号 市場町の金清温泉、通称”白鳥荘”には、子どもが小さい頃よく遊びに連れて行ったものだ。

昭和7年(1937)成立した傀儡国家・満州国は、現在の中国の東北三省(遼寧省・吉林省・黒竜江省)と内モンゴル自治区東部にあって、もともとは中国北東部に居住していたツングース系狩猟民族・満州族、12世紀に「」を建国した女真族の末裔で、17世紀には後金「」を興している。

「満州」という用語には諸説あるが、民族名「マンジュ」(サンスクリット語で文殊菩薩を意味する「マンジュシュリ」に由来。マンジュは聡明な者を意味する)から来ており、欧米列強は「マンチュリア」と呼び、日本では「満州」と呼ばれるようになったと。

 12世紀初め、満州東部の森林地帯から生女真の完顔(ワンヤン)氏が勢力を拡大し女真族を統一。 1115年完顔阿骨打(太祖 アクダ)が帝位に就いて黒竜江省阿城を首都(後に燕京に遷都)として「」を建国し、やがて遼東に進出した。

「契丹(遼)」(947-1125)の二面体制(遊牧民は部族制をもとに「北面官」が、農耕民は州県制をもとに「何面官」が統治する)を継承して漢人を統治し、女真文字を作り紙幣を発行した。(ヨーロッパではじめて紙がつくられたのは1268年) 1127年「宋」の上皇・徽宋と皇帝・欽宋を捕らえると(「靖康の変」)、欽宋の弟・高宋が江南を拠点に「南宋」を復興している。

やがて、モンゴル高原ではテムジンが遊牧諸族を統合し、1206年チンギス・カン(ハン)として推戴され「大モンゴル帝国」が誕生。1215年には2代目大ハーン・オデゴイにより金の王室は開封に退去させられ、遂には1234年滅亡した。

 その後女真族はモンゴルや明王朝の支配に甘んじていいたが、1583年ヌルハチが挙兵して建州女直(真)五部、海西女直を統一・併合して居城をアトラ(興京老城)に築き、1616年後金を建国した。
1636年ヌルハチを継いだホンタイジは満・蒙・漢の上に立つ皇帝として即位し、国号を「」とした。(この時、民族名を満州とした)

清は北京に都を移し中国全土の平定を進め、漢人にも「辮髪」を強制、明王族は各地で「南明」を擁立したが、1662年には滅亡、1683年には初めて台湾も領有、外モンゴルも支配下に置いた。
乾隆帝(在位1735-95年)の代に最盛期を迎え、ビルマ・台湾・ベトナム・ネパールなどへも外征している。 
(小田切 英執筆、宇都木 章監修「中国の歴史」東京美術 参照)


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