2015年02月

博学家ホームズ

images 彫刻家であるミケランジェロが”五稜郭”の元となった星形要塞を設計していたとは驚き。

多彩なミケランジェロであったが、人気小説・TVドラマでお馴染みのシャーロック・ホームズも多彩さでは負けていない。

美食家であり「古本の山に埋もれていた」という程の蔵書家で、植物学や化学の知識も豊富で、ヴァイオリンの演奏に長けておりストラディバリウスを持っていたとされる。
それも現在の1,260万円の値打ちがあるヴァイオリンを6万6,000円ほどで手に入れたらしい・・。

そのホームズの祖母はフランスの有名な画家エミー・ジャン・オラス・ヴェルネ(1789-1863)の妹であるから優れた美術評論家でもあった。
ミケランジェロに通じる話としては、建築学にも造詣が深かったようで、事件名「三人ガリデブ」で古物コレクターであるN・ガリデブが我が家は「ジョージ式」だと答えると、ホームズは「そうでしょうかねえ。もう少し古いように思いますが」と博識のあるところを見せた。

 ところで、シャーロック・ホームズのはまり役ジェレミー・ブレッド(1933-95)が亡くなって20年。
その姿はシドニー・パジェットが描いた挿絵から抜き出てきたようだとも云われ、史上最高のホームズ役だと評価されているようです。
10年間ホームズを演じ続けたが、双極性障害を患っており全集を完成する前に61歳で死亡している。 
(「図説 シャーロック・ホームズ」河出書房新社 参照)

五稜郭とミケランジェロ

Goryokaku 天才ミケランジェロと日本との接点が函館・五稜郭にもある。

システィーナ礼拝堂の天井画を完成(1512)させた4ヶ月後、依頼主であったユリウス二世が死亡し、メディチ家出身のレオ10世が法王となった。

フィレンツェでは銀行経営で巨万の富を築いたメディチ家が15世紀前半からおよそ300年間にわたり権力を掌握していた。

 しかし、1525年マルティン・ルターによる宗教改革に触発されて農民戦争が吹き荒れ、ドイツ皇帝軍が侵入してイタリア全土が混乱に陥り、1527年フィレンツェに共和制が復活してメディチ家は追放された。
レオ10世を継いだ法王・クレメンス7世がメディチ家を復帰させたことに対抗して、フィレンツェ共和国はサン・ミニアートの丘に最後の防衛線としての要塞を建設することになり、防衛軍の司令官でもあったミケランジェロが建築家・軍事技術者として設計依頼された。

それが五稜郭に見る星形要塞で、伝統的な円形の高い城壁の城は火砲の普及で脆弱性を露呈、新しい要塞として以後長くヨーロッパに広まった。
1530年フィレンツェ共和国はドイツ皇帝軍とメディチ家連合軍に敗れメディチ家が復活。ミケランジェロはメディチ家礼拝堂建設を続けることを条件に許された。

 五稜郭は、1854年日米和親条約の締結で函館開港が決定し、函館奉行を函館湾からの大砲攻撃の射程外に置くため建設することが決定され、奉行所の武田斐三郎がフランス軍艦副艦長から指導を受け設計、1864年に竣工したと。

現在、サン・ミニアートの丘の下はミケランジェロ広場として、フィレンツェ市街を見渡せる観光スポットとなっている。
 (以前訪れたことがあるのだが、残念ながら当時はそんな歴史があるとは知らなかった。) 

「最後の審判」

最後の審判 20~22日に第6回システィーナ歌舞伎が鳴門市・大塚美術館で行われる。

今年の演目は片岡愛之助によるギリシャ神話ホメロスの英雄叙事詩『オデュセイア』に題材を得た「ユリシーズ」とのこと。
2月18日はシスティーナ礼拝堂の天井画と「最後の審判」を書いたミケランジェロの命日でもある。

 システィーナ礼拝堂は1470年代に建設されたバチカンで最も権威のある礼拝堂。
1505年ミケランジェロ30才の春、ローマ法王ユリウス二世に招かれてローマに向かった。
法王の墓碑の建設を依頼されたのだが、当の法王はサンピエトロ大聖堂の再建に夢中で、大理石の費用も払ってくれないのでミケランジェロは怒ってローマを逃げ出した。

しかし、執拗に帰還を望む法王に屈してローマに戻ると、さらにシスティーナ礼拝堂の天井画の制作を命じられた。
ミケランジェロは「自分は画家ではない」と断りラファエロを推薦したが結局受諾し、1508年5月に制作を始めたと。

フレスコ画は13才の時以来全く経験がなく5人の助手を雇ったが、気に入らず結局一人で取り組むことになった。
天井画は天地創造、人間の堕落、大洪水、ノア一家の人類再生までの「創世記」物語を4年半の歳月をかけて1512年11月完成させた。

 それから凡そ20年後の1533年秋、ミケランジェロ58歳の時クレメンス七世より今度は「最後の審判」の制作を命じられた。
今回も「それだけはご勘弁ください。今仕事が山のようにあって、とても祭壇画にまで手が回りません」と拒否したが、
後を継いだパウロ三世はわざわざミケランジェロのアトリエまでやって来て断り切れなかった。

制作を開始したときはもう60歳、それから6年の歳月をかけて1541年に400人もの群像がひしめく大作を完成させた。
当時の大多数は、その裸体に「神聖な場所にみだらな裸体を描くとは何事か」と取り壊せとの声もあったようだ。
そして、宗教会議では「目立ち過ぎる裸体には腰布をつけること」とされた。

 この中のキリストのすぐ右下に描かれた「聖バルトロメオと生皮(写真)はミケランジェロの自画像と云われ、天国にも行けず若返ることもできない罪深い心の苦しみを表現しているというのだが・・。

当時のミケランジェロの関心事は、「神は何を基準にして善人と悪人を区別しているのだろうか」だったと。
「教えてください。一体誰が天国に行き、誰が地獄に落ちるのですか? 聖人と言えども完全無欠ではないでしょう。殺人者といえども完全に悪人と決めつけることができるでしょうか。 そして私はどうなのでしょうか。あなたを裏切ることが多く、それでも必死にあなたにすがっているのです。神の御意志を知りたい一心でこの『最後の審判』を描いたのです」
  (「図説 ミケランジェロ」河出書房 参照)

義足のエ-スパイロット

隼 そろそろ杉花粉が飛び始める季節。今年の飛来量はどうなのだろうか。

 そして今年は先の戦争終結70周年。新たに発表するという首相「談話」について注目されている。
話題は、杉と戦争から「加藤隼戦闘隊」で活躍した徳島県人・檜 與平氏(1920-91)。

飛行第64戦隊は「加藤隼戦闘隊」として知られ、隊長・加藤建夫中佐は映画『加藤隼戦闘隊』(1944)にもなった国民的英雄。
加藤氏本人は昭和17年5月に戦死しているが、死後も「加藤隼戦闘隊」として引き継がれた。

 檜 與平氏は徳島・三加茂町の出身。 陸軍士官学校卒業後に第64戦隊に配属され、”エースパイロット”として敵機12機を撃墜した。
先の映画は檜氏が昭和18年(1944)11月27日インド洋上でP-51ムスタングと交戦・被弾して、右足膝下を吹き飛ばされ、どうにか基地に戻った。 その後帰国してリハビリの後に明野教導飛行師団(後の明野陸軍飛行学校)附教官となった時、同僚との共同して書いたものが原作となっている。

ムスタングに被弾する2日前、檜中隊は3機のムスタングを撃墜しており、これが新鋭機P-51を初めて撃ち落とした記録とされている。

また、明野教導飛行師団附勤務者から編成された第111戦隊第2大隊長として、新鋭の五式戦闘機(不調だった三式戦闘機「飛燕」(液冷)を空冷化)に乗り、昭和20年(1945)7月再びP-51と交戦して撃墜した。
航空自衛隊入間基地内の記念館には檜氏の使用した義足が今も展示されていると。

「ミステリオーソ」

images 今日2月17日は前記事のビル・エバンスとは正反対、孤高のジャズ・ピアニスト、セロニアス・モンク(1917-82)の命日。

他の誰のスタイルとも明らかに違う個性派の代表格。
マイルス・デイビスが「自分のソロの時には演奏しないでくれ」と言ったことはよく知られた話だが、実際はケンカ話ではなくマイルスが頼みモンクはそれを了承しただけのようだが・・。

とにかく、村上春樹の『セロニアス・モンクのいた風景』で「どこからともなく予告なしに現れて、理解しがたいパッケージをテーブルの上にひょいと置いて、一言もなくまたふらりと姿を消してしまう”謎の男”みたい」と表現しているのが分かりやすい。 まさにミステリアスなジャズマンなのだ。(「ミステリオーソ」はモンクの代表作)

しかし今ではジャズの巨人のひとりに例えられている。
マイルスのグループで名を挙げたジョン・コルトレ-ンであるが、マイルスはメンバーに酒と麻薬を止めることを要求していたようで、1956年11月コルトレーンはマイルスの袂を離れて酒、麻薬を絶った。(煙草は止められなかったようだ)

そして翌年同郷(ノース・カロライナ州)のセロニアス・モンクのグループに参加した。
「モンクと一緒に仕事したことによって、最高の音楽芸術を知ることができた。彼から感覚面、理論面そしてテクニックで多くのものを学んだ」と述懐し、
後にコルトレーンと組むマッコイ・タイナー(P)は「コルトレーンはハーモニーについて多くのことをモンクから学び取っていたようだ。モンクのスペースに関する概念は、彼がコルトレーンに教えたことの中でもっとも重要なことだった。」と述べている。

コルトレーンがモンクのグループに加わった経緯については、
モンクがカフェ・ボフェミアの楽屋に立ち寄ったところ、マイルスがトレーン顔を平手打ちし、さらに原に一発パンチを食らわしたのを目撃し、モンクは「私のところで仕事してみないか」と誘ったと。

 以上の話はJ・C・トーマス著、武市好古訳詞『コルトレーンの生涯』から引用させていただいたが、武市氏は徳島市出身で劇団四季を経た後映画監督に。(1935年生まれ)

コルトレーンは1957年アルバム『ブルー・トレーン』を録音しているが、これもモンクの「ブルー・モンク」を倣っているのだろう。
余談ながら、クリント・イーストウッド制作の映画『ストレート・ノー・チェイサー』('89)はモンクの生涯を扱っている。(「ストレート・ノー・チェイサー」もモンクの代表作)
そう言えば、北陸新幹線の開業で隠れた人気の”ブルー・トレーン(トワイライト・エキスプレス)が隠退するとのことで、最後の運行にマニアが殺到しているようだ。
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