2015年07月

「乾坤一擲」

img491 終戦も間近の7月16日。伊号第五十八潜水艦は6基の人間魚雷”回天”を搭載して南方に向かった。

そして29日23時05分大型戦闘艦を発見し、23時26分、距離1500m、右60度に6発の魚雷を発射すると、うち3発が命中。
橋本艦長はアイダホ型戦艦と判断したが、これはサンフランシスコからテニアン島に原爆を移送してきた重巡洋艦インディアナポリスだった。


Indianapolis インディアナポリスは、広島、長崎に投下予定の原爆を積んで7月26日にテニアン島に届け、グアムからレイテ島に向けて航行中だった。
30日0時15分北緯12度02分、東経134度48分地点で伊号第五十八潜水艦(回天特別攻撃隊・多聞隊)の九五式酸素魚雷を右舷に受けた。 

特に2回目に発射した魚雷が船体に開いた穴に入り込み艦内第二砲塔下部の弾薬庫に命中して誘導爆発、12分後に沈没。
乗員1,199名のうち約300名が攻撃で即死し、残り約900名が海に投げ出されたが、哨戒鋌による発見が遅れ救命ボートが来たのは5日後だったため、食糧もなく海上で体温は低下し、救助されたのは僅か316名だった。

 このためチャールズ・マクベイ艦長は、ジグザグ航行を怠り船を危険に晒したとして軍法会議にかけられ有罪とされた。
撃沈された艦長が軍法会議にかけられたのはこれが初めてで、マクベイ艦長は死んだ遺族にも責め立てられて1968年自殺している。(その後50年以上経った2000年誤審であったとして無罪となった)

インディアナポリスの撃沈は日本軍の攻撃により沈没した最後のアメリカ海軍水上艦艇で、日本の潜水艦にとっても最後の大型戦闘艦撃沈である。
伊号第五十八潜水艦は故障した一基の回天とともに8月18日呉に帰還し、1946年4月1日アメリカ軍によって五島列島沖に沈められた。

「山女郎」

images 「剣山周辺や祖谷の山中で山女郎に出会ったという伝説がある。
山女郎は絶世の美女で、山中で山女郎に魅惑され、うかつに手出しすると、生き血を吸われてしまうと恐れられている。

 昔、剣山で杣人(そまびと:きこりのこと)たちが山小屋に泊まって大木を切り出していた。 親方から山の神様の祭りだといって酒を送ってくれたので、一同が飲んでいると、美しい女が来て一人の若者を外に連れ出した。
酒がまわっていた一同は、知り合いの炭焼きの娘だろうと気にとめなかった。

朝になっても若者が帰らないので騒ぎ出し、付近を探すと、小高い丘の草むらの中に、若者は生き血を吸われ舌を噛み切られて死んでいた。 さては昨夜訪れた女は山女郎であったかと気付いたが遅かった。

 国見山でも、60才になる麓の炭焼きが山小屋で泊まっていると、真夜中頃に山女郎が来た。 嫌がる炭焼きを無理矢理外に連れ出して、三日三晩山中を転々と引きずり回した。
息子の知らせで、里人たちが総出で探し廻ったところ、山頂付近の岩屋の中で丸裸のまま失神していた。
まむしの粉を飲ますと、意識を取り戻した炭焼きは、岩屋の中で三日三晩もて遊ばれたことを告げて死んでしまった。

 明治になってからのことであるが、参謀本部の測量班の技師たちが国見山頂の三角点附近でテントを張って露営していた。
焚き火をして雑談しているうちに天候が悪くなり大粒の雨が降り出した。 ちょうど十一時であった。
俗界で見掛けない風体の女がびしょびしょになてぶるぶる震えながらテントの中に駆け込んできた。
小脇にはスイカ大の丸いボロ布に包んで抱えていた。 衣服はボロボロだが、目鼻立ちの整った美女である。
一同はびっくりして不審に思ったが、あまりの美しさにただ茫然と見つめていた。

濡れているので焚き火を燃やして暖めてやり、食べ物を与えたが食べようとしない。
元気を取り戻した娘は、ふところから生きた蝮(まむし)を取り出してむしゃむしゃと頭から喰いだした。
これにはさすがの技師たちもぶるぶる震え上がった。 蝮を一匹喰ってすむと、今度はボロ布の包みを開き始めた。 一同は大蛇の卵か、大鷲の雛かと好奇の目で見つめていると、包みから転げ出たのは人間の生首であった。
一同は「ギャッ~」と悲鳴を上げ恐怖に震えたが、娘は平気な顔で若い男の生首を膝に乗せてにっこりと笑いながら額のあたりを撫で回している。
これには屈強な技師たちも後ずさりしてモノを言う勇気も失せ一睡もしないまま夜を明かした。

 夜が明けると、娘は生首の包みを下げていずこともなく立ち去った。
十時ころ麓の里人たちが大勢登ってきてテントを訪れ、山女郎を見なかったかと尋ねた。
昨夜の出来事を里人に話すと、山へ蔦を取りに行った若い衆が、山女郎に魅惑されて山中に連れ込まれたそうで、里人が若者を探して山狩り始めたため、山女郎は奪い返されると心配して若者を殺し、首を切り落としてボロ布に包んで山中を逃げ回っているのだという。

 国見山には、若巫子谷というところがあるが、山頂に霧がたちこめると断崖の岩の上に数名の巫子が現れて、琵琶を奏ではじめるという話がある。
   (湯浅安夫著「三好の伝説・前編 東祖谷」より)

”艦爆隊の親分”

Kakuichi_Takahashi  ”雷電為右衛門”を書いたので、ならば局地戦闘機”雷電”としたいところだが、徳島県出身で”艦爆隊の親分”と呼ばれた高橋赫一氏のことについて。

高橋赫一氏( たかはし かくいち 1906-42)は現・三好市池田町の出身。
旧制徳島中学校(現・城南高校)から海軍兵学校に入り、霞ヶ浦航空隊を卒業して海軍大尉として空母「加賀」に乗り組んだのを皮切りに、大村航空隊分隊長、昭和12年(1937)には第一三航空隊分隊長として南京爆撃を行い、昭和16年(1941)には空母「翔鶴」の九九式艦上爆撃機26機の飛行隊長及び第一六攻撃隊を含む第二集団急降下爆撃隊の隊長を兼任して真珠湾攻撃に加わった。

その後、ラバウル、セイロン沖海戦と転戦し、昭和17年(1942)「珊瑚海海戦」において戦死した、享年35。 最終階級は海軍大佐。

99式艦上爆撃機 「九九式艦上爆撃機」は、昭和14年(1939)日本海軍で初めて全金属製低翼単葉式の艦爆。 真珠湾攻撃には129機が投入された。
250キロ爆弾を搭載して急降下爆撃を行うことができたが、武装は機首に7.7㍉銃✕2,後部座席に旋回銃✕1しかなく戦闘機に襲われると脆弱であった。 また、大戦後半には米軍艦船の防空能力も向上してマリアナ海戦(昭和19年(1944)6月)以降は『彗星』にその座を譲っている。

珊瑚海海戦(昭和17年(1942)5月7,8日)は、オーストラリアを孤立させるべくニューギニア島南部のポートモレスビーを攻略しようとした史上初めて空母機動部隊同士が激突した海戦で、日米両軍とも空母1隻沈没、1隻が中破、駆逐艦1隻沈没と同じであったが、日本は真珠湾以来活躍した熟練搭乗員を多数喪失してしまった。

 高橋は艦爆隊を率いて米軍空母「レキシントン」攻撃、250キロ爆弾を艦橋付近に命中させ、加えて魚雷2発を受けたレキシントンは爆発を起こして総員退避、その後米軍により雷撃処分された。 
また、空母「ヨークタウン」にも250キロ爆弾が命中、損耗が激しく戦線を離脱している。
一方、日本軍も7日に「祥鳳」が1000ポンド(450キロ)爆弾13発、魚雷7発を受け沈没。 8日には「翔鶴」も爆弾が飛行甲板に2発命中し、艦載機の発着が不可能となり戦線を離れて呉に向かった。
高橋は攻撃後集合待ちのため旋回中にF4F戦闘機に襲われて撃墜された・・。



”雷電”

Raiden 遅まきながら四国もやっと梅雨が明けた。

「梅雨の雷(らい) 山刻々と 晴るゝかな」(風骨)

雷が鳴ると梅雨が明けると云われるが、今年は鳴らなかったようだ。
大相撲も白鵬の前人未踏35回目の優勝で幕を閉じたこともあり、江戸末期の相撲取り”雷電”のことを。

雷電為右衛門(1767-1825)は現役21年間・36場所でわずか10回しか負けていない史上未曾有の最強力士とされる。
優勝相当成績は28回(年2場所制)であるが、9場所連続優勝は今も破られていないと。

身長197㎝、体重172㎏の巨漢で、引退した把瑠都('06.5場所時)が全く同じ数字だが当時としては相当の巨体で、突き押し主体の攻撃型相撲だったようだが、あまりの強さに「突っ張り」、「張り手」、「閂(かんぬき)」、「鯖折り」が禁じ手とされたと云うのは真実ではないとのこと。

 横綱にならなかった(なれなかった)ことが大きな疑問とされているが、まだ横綱制度が確立される以前のことだったためで、当時の横綱は上覧相撲の際に演出の一つとして1回限り免許されたようだ。

文化8年(1811)2月場所を全休して44歳で現役を引退し松江藩の相撲頭取に任命されたが、同11年(1814)の大火で焼失した報土寺の鐘楼・釣鐘の再建の際、釣鐘の形状(※)が幕府の不興を買い江戸払いとなって妻の生地・下総国臼井(現・千葉県佐倉市)で悠々自適に暮らし文政8年(1825)2月21日59歳で没した。
 (※鐘を吊す龍頭が、2人の力士が四つに組み合い、雷電の臍(へそ)に撞木を付くという異例の形だった。 幕府により取り壊され、明治末期に二代目が作られ戦争で軍部に供出され行方不明となっていたが、平成になって戻り千代の富士が一番鐘をついたと。)



 

「錦の御旗」

錦の御旗 斎藤実盛が「故郷に錦を飾りたい」として着ていた”錦の直垂”とはどのようなものだったのだろう。

”錦”とは、様々な色糸を用いた絹織物、鮮やかで美しいものだと云うから、さぞかし華やかで煌(きら)びやかなものだったろう。

四国八十八箇所巡礼で納めるお札にも「錦」がある。
100回以上の巡礼者が用いるもので、御利益にあやかりたいと巡礼のとき納札箱にあった美しい錦札を何枚かいただいた。


 「錦の御旗」は戊辰戦争のとき、薩摩藩の本営であった東寺に掲げられ、新政府の証であるこの錦の御旗は官軍の士気を大いに高めるとともに、賊軍となった幕府軍を意気消沈させてしまったと。
その「錦の御旗」は「承久の乱」(1221)の際に後鳥羽上皇が配下の将に与えたのが最初だという。

「承久の乱」は、三好氏が佐々木氏に代わり阿波に来た事件でもある。
京方は「朝敵となった鎌倉方・北条義時に参じる者は千人もいないだろう」とタカをくくっていたが、北条政子の「頼朝の恩は山嶽よりも高く、溟渤よりも深い」と涙ながらの大演説により鎌倉武士は結集。最終的にその兵は19万に膨れ上がった。
結果、後鳥羽・順徳上皇は佐渡へ、土御門上皇は自ら望んで土佐に配流され、京方に属した阿波守護・佐々木経高と嫡男・高重親子は討死、次男高兼は自害した。

 ところで、この兵乱を「乱」とするか「変」とするかは、時代によって変わってきたというのも面白い。
大正時代、皇国史観から上皇が起こしたのだから「反乱」ではなく「承久の変」だとし、太平洋戦争期になると「変」に統一された。
しかし、戦後は「変」は不意の政治的・社会的事件で、「乱」は武力を伴う事件であることとして「承久の乱」が主流となっているが、一部の教科書では今も「変」を用いていると。

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